逆さの砂時計
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Side Story
少女怪盗と仮面の神父 18
遠くから波の音が聞こえてくる。
ザザー……と、寄せては引いて行く水の音。
産まれた時からずっと聴いてきた、心を落ち着かせてくれる子守唄。
けれど、今は。
「……ハウィス……どうして……?」
目の端から零れ落ちる涙が酷く冷たい。
それ以上に、冷え切った心臓がズキズキと鋭い痛みを訴えている。
痛くて堪らず胸を押さえようと持ち上げた両の手首には、黒く凍て付いた鉄の輪と、銀の鎖が絡み付いていた。
オレンジゼリーに混じった甘い匂いに気が付いて、同時に意識を失って。
覚醒してみれば、ここは見知らぬ広い部屋。
木材で造られた壁や天井には窓がなく。
外の世界と繋がるのは、暖炉から伸びる煙突の先と、四角い扉一枚のみ。
正方形の室内にあるのは、日常生活に困らない程度の水回り設備と、床に置かれた現在唯一の光源である手提げ用のランプが一つ。
それから、鎖の先が縛り付けられている四つ足のパイプベッド。
クローゼットや絨毯はない。
一部屋にこれだけの機能をまとめているということは、平屋一戸建ての、山荘か何かだろうか。
村の建造物はすべて二階建てか、もっと高い。
つまりここは、ネアウィック村の中ではない。
しかし、波の音が聴こえているのだから、海の近くには居る筈だ。
村はそう遠くないだろう。
あれからどれだけの時間が経ったのか。
今は夜なのか、朝なのか。
何も判らない。
ハウィスが何故、侵入者と同じ物を使ったのか。
侵入者とハウィスにどんな関わりがあったのか。
どうしてミートリッテを眠らせ、どことも知れない場所に監禁したのか。
何も……何も、解らない。
(侵入者に眠らされた時は、少し遅めだったけど、次の朝には起きられた。でも、あれは匂いだけでの結果。ハウィスはオレンジゼリーを作った段階で中に混ぜ込んでたみたいだし、多分効果は変わってるよね)
毒草の類いだとしたら。
その扱いは専門知識をしっかり備えていても、かなり難しい。
ちょっとでも加減を誤れば、体調に悪影響が出るだろう。
だが、頭痛や目眩やダルさなどはやっぱり感じてない。
動悸や息切れもなさそうだ。
目に充血があるかどうかは確認しなくても分かるが。
泣いてるせいなのか、匂いのせいなのかは、判断できそうもない。
要するに、今のミートリッテの体調にはまったく問題がなく。
また、そうであるようにと、相当気遣われていたのだと推測できる。
(ああ……一つだけ分かった。ハウィスとあの侵入者は、私に危害を加えるつもりがないんだ。だから家の中は荒らさなかったし、監禁先でも最低限の生活環境は守ってる。でも、だったらどうして手枷なんかで拘束するの? 理由があるなら……必要があるのなら、直接話してくれれば良かったのに。こんな形で私を閉じ込めて、ハウィスはいったい何がしたいの?)
ほど好い柔らかさと弾力を感じる布団に両手を突いて上半身を起こせば、体の両横で鎖がとぐろを巻いている。
この鎖を伸ばし切っても、扉に手が届かないことは簡単に想像できたが。
それでも、思ったよりはずっと長い。
(外には絶対出ないで。この建物の中でなら自由にしてて良いから……か)
訳も分からず眠らされて、監禁されて、拘束されて。
こんな状況なのに、不思議な思いやりを感じて苦笑してしまう。
「うん。良いよ。ハウィスは私を自由にして良い。何をしても赦されるし、ハウィスが決めたことなら、たとえ即刻家を出て行けと言われても、従う。二度と顔を見せるなって言うなら、そうする。人買いに売り払われたって、全然構わない。貴女にはその権利があるから」
いつもより重い腕を持ち上げて、甲で涙を拭い去る。
すると、冷たかった心臓がとくんとくんと熱を持って脈動を始めた。
ハウィスに嫌われてしまったのかも知れない、と思って凍り付いた心が、長い鎖と自分の現状に込められた希望を見つけて、息を吹き返したのだ。
我ながら調子が好い奴だと、心底呆れる。
「……でも、ダメなの。違う時なら大人しく従ってたよ。けど今は、いくらハウィスのお願いでも命令でも聞けない。私に貴女を護らせて。ねえ……、ハウィスお母さん」
依頼の期限が切れているとは思いたくないが。
シャムロックが村を離れたせいで、海賊がどんな行動に出るか。
一刻も早く、村の様子を確認しなければならない。
その為に、まずはこの建物から脱出する。
どうせ鍵は持ち出しているだろうから、手枷は外せないものとして放置。
どうにかするなら鎖のほうだ。
両の手首に連なる多くの輪の内、二つを壊せば拘束は解ける。
何か道具はないかと、ベッドから降りて室内を細かく探索してみたが。
使えそうな金物といえば、包丁が一本だけ。
「手首をぶった切るのは……アリっちゃアリだけど、これから先を考えたら仕事に就けなくなるのは困るな。傷口を焼けば血も止まるとは聞いたけど、片方失った時点で、もう片方はどうするのか? って話になるし……うん。現実的じゃない。却下」
試しに、パイプベッドを持ち上げようとしてみたが。
材質のわりに、滅茶苦茶重い。
重いというより、床にくっ付いてる感じだ。
微動だにしないこれを一人で動かすのは不可能だと、早々に諦める。
「水回りの設備は万全。鎖と手枷。ランプに包丁。ついでに干し肉が少しと葉物野菜が小箱一つ分。解放までは二、三日を想定ってトコかな?」
ベッドに腰掛け、改めて自分の格好を見る。
前回同様、意識を失う前と変わらない服装。
靴は履いてないし、靴の代わりになる物も室内にはなかったから、これも脱走防止策の一つなのだろう。
「念入りすぎるよ、ハウィス。これじゃ、絶対に居るって教えてくれてるも同然じゃない」
もう一度立ち上がり、今度は鎖が届く限界まで扉に近寄る。
あと一歩の所で伸び切った鎖と、後ろに引っ張られている腕は無視。
目蓋を閉じ、扉の外に全神経を集中させた。
聴こえてくるのは波の音。
それから、木の葉が風に揺られて擦れる音。
鳥の声もする。
虫も……気配はするけど、大きくはない。
微かな隙間から覗く光も、夜にしては明るく見える。
多分、昼前後だ。
「よし。……っと、食べ物はきっちり避難準備しとかないとね」
食材が入ってる箱を扉の脇に移動させ、包丁は元の場所に戻しておく。
床に置きっ放しのランプを手に取り。
鉄細工で覆われた円柱型ガラスの内側を確かめる。
火を保つ油の量には、まだまだ余裕があった。
これなら、景気よく燃えてくれるに違いない。
「貴方の目にどう見えていようが、私はハウィス達を信じてるよ、神父様。だからもう……何も怖くなんか、ない!」
扉とベッドから離れた位置で、頭上へ掲げたランプを床に叩き付ける。
盛大な破壊音を伴って中身と欠片を撒き散らしたそれは。
直後、ボワッと風を起こして燃え上がった。
床に拡がった油を伝い、赤い炎が少しずつ大きさを増していく。
「……誰の所有物か知らないけど、ごめんなさい」
実行した後で、この場に居ない誰かに謝っても、意味はないのだが。
目の前で木造の壁が赤白い光に呑まれていく様を見ていれば、少しばかり申し訳ない気持ちにもなる。
損害賠償を請求されたらどうしよう? 借金はしたくないなあ。分割での支払いは有効かなあ……とか、頓珍漢なことを考えてしまう程度には。
「早め早めに来てくれると嬉しいんだけどな。また気を失ったら、家一軒の犠牲が無駄になっちゃう」
ベッド横の床に膝を抱えて座り、引き寄せたシーツの端で口元を庇う。
(……あ、しまった。先にこれを濡らしておけば良かったか)
炎が天井まで昇り、白い煙が室内に充満してきた頃。
ちょっとだけ自分の迂闊さを後悔したが……ドカンと派手に開いた扉で、それは解消された。
「うわ!? なんだこれ……っ」
まとわりつく煙を腕で払いながら露骨に慌てた表情で近寄ってきたのは、パッと見、三十代前半くらいの見知らぬ男性。
着古した白いシャツに、濃茶色のくたびれたズボンと、傷んだ黒い革靴を穿き、どこにでも居そうな普通の村人を装っている。
だが、ここに現れた時点で只人じゃないことは明白。
今更そんな変装など無意味だ。
「なんて無茶をするんだ、君は!」
彼は煙る部屋を一瞥しただけで、この状況を正確に理解したらしい。
一瞬ためらった後、ミートリッテを強引に立たせ。
抵抗する間も与えずにシーツを丸ごと押しつけると、ベッドの側面真ん中辺りを、下から抉るように蹴り上げた。
「……は?」
床にくっ付いていると思ったベッドは、あっさりと横向きに倒れ。
頭部側の足二本から鎖が引き抜かれる。
(な……何事? へ? どゆこと?)
「ボケーッとしてないで! 早く外へ!」
青年は、炎のせいで熱くなっている鎖を自身の腕に巻き付け。
驚愕の光景に目を白黒させるミートリッテの肩を押し。
扉の外へと、無理矢理に追い立てた。
「……あ、野菜! 食べ物! 勿体ない!」
「そう思うんなら、火付けなんかしないでくれよ、頼むから! 現場の責任とか言って怒られるのは俺達なんだぞ! ああもう、本当、あの方が絡むとロクな目に遭わないな!」
「……あの方?」
「気にしなくて結構! 君はここで待機だ。絶対動かないでくれ。絶対だ。いいね? じゃないと、冗談抜きで俺の首が飛ぶ! 俺を助けると思って、ジッとしててくれ!」
「はあ?」
両肩をガシッと掴まれたかと思えば。
やけに必死な形相で懇願されてしまった。
捕らえた相手に、何故そんな態度を取るのか。
勢いを増して燃える家に再び踏み込む背中を見ながら、首を傾けた。
「ゲホッ、ゴフ……っ クソ、ここはもうダメだな。急いで移動しないと。大丈夫だとは思うが、万が一山火事にでもなったら君が証言してくれよ? 責任はきっちり負ってもらうからな!」
「そう言われても、困ります」
「困ってるのはこっちだよ! どんだけ破天荒なんだ、君は! これだから自覚がない短絡思考な人間は……! 大体、同じことを何度何回くり返せば気が済むんだよ! まったく!」
扉の脇に避難させておいた食材入りの箱をミートリッテの足下へ置き。
自らの短い金髪を、苛立たしげにガシガシと掻き乱す青年。
「何回って……火付けなんて、今まで一度もしてません! 今回のだって、こんな手枷を付けられてたら普通は逃げなきゃって思うでしょうが!」
「拘束したのは事実だけど、普通はまず最初に出せー! とか叫ぶだろ!? でなきゃ、壁を激しく叩くとかっ! どうして呼びかけもせずに、いきなり火付けって発想になるのか、そっちのほうが不思議でならないよ俺は!」
「じゃあ、そうしたら答えてくれてたんですか!?」
「扉は開かなくても、呼ばれれぱ返事くらいはしたさ!」
「えっ!? う、うそ! だって、気配を消してたクセに……!?」
「気配を消さなきゃ奴らに見つかるでしょうが! ここに来るまでだって、俺達がどれだけ神経を使ったと思って……あーもう、なんなの、この不毛なやり取り」
物凄く渋い顔をして、魂でも出そうな深いため息を吐く青年の言葉に。
ミートリッテはますます首をひねる。
「いったい、なんなんですか? 私を眠らせて、この家に閉じ込めたのは、ハウィスと貴方でしょう? その前に同じ薬で眠らせたのも、貴方よね?」
「は? ああ、違う違う。確かに今回は彼女だけど、その前はアイツらだ。仮に正式な手順を踏んだ上で本人から許可を貰ったって、留守中の婦人宅に潜むような失礼な真似はしないよ。俺達は」
「アイツら? 俺……達?」
眉を寄せて尋ねるミートリッテに、青年は苦々しい顔で頭を振った。
「悪いけど。これ以上のお喋りには付き合っていられない。奴らがこっちに気付いたら非常にマズいんだよ。大人しく俺に付いて来てくれ。できれば、その警戒心バリバリの気配も消して欲しい。存在感垂れ流しで危険な山中をうろうろさせるわけにはいかないんでね。その箱が気になるっていうなら、自分の手で運んで。俺は両手を空けてないと、君を護れない」
「護る? 私を?」
「ああ。それが彼女の願いであり、俺達に与えられた役目の一つだ」
周囲を探るようにザッと見渡した青年は、腕に巻き付けたままの鎖を軽く二回引っ張って、ミートリッテに移動を促す。
外へ出たら問答無用で相手をぶん殴るなり蹴飛ばすなりして奪った鎖ごと逃走するつもりだったが、どうやらそれをするのはまだ早そうだ。
背を向けて歩き出した青年には、まったくもって隙がない。
奇襲を掛けても、この男性には絶対勝てない。
やめておけと、生存本能が訴えかけている。
なにより、ハウィスの願いの意味を考える時間が必要に思えた。
青年の言葉に登場する多くの集団、人物と、その関係性についても。
ネアウィック村への早急な帰還は諦めてない。
しかし、ここで何かを見過ごしたら、ハウィスや村の人達を余計な窮地に立たせてしまうのではないか?
この胸騒ぎの正体を、帰る前に確かめなければ。
「貴方達は……『誰』、なんですか?」
食材入りの箱を持って追いかけるミートリッテに、青年は振り返りもせず
「守秘義務につき、黙秘の権利を行使する」
とだけ、答えた。
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