逆さの砂時計
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Side Story
少女怪盗と仮面の神父 26
遠く、遠く。
昼日中でも目に入らないであろう距離感で。
虫の聲にも掻き消されそうな、小さな小さな音がする。
自然に発生した物とは違う、何かが草むらを走り抜けているような音。
言われてみれば確かに、複数の人間がどこかを目指して走ってるようにも聴こえるが……
(この音の元が『あいつら』だって言いたいの? そりゃこんな時にこんな場所へ何かが現れれば無関係だとは思えないけど。音を聴いただけでそれを出したのが人間かどうか断言できるって、どんな耳してるのよ! まさか『あいつら』の姿まで見えてるとか言わないでしょうね!?)
信じられない思いで改めてアーレストを見上げ、ギョッと目を剥いた。
表情は相変わらず見えないが。
細められた琥珀に近い金色の虹彩が、暗闇にぼんやり浮かんでいる。
さっきまで全然気にならなかったのに、何故か今は妙に光って見える。
まるで、月だ。
満月ほど明るくはない、されど静かに輝く二つの月。
(んなバカな。錯覚? 錯覚よね?)
うっかり顔を寄せて覗き込みかけたところを
「…………やっぱり来た」
「え?」
アーレストの呟きが遮った。
「少しは自重しなさいというのに、まったく……」
極めて不愉快なモノを見た直後に舌打ちする男性の如き声色と。
若干の苛立ちも含めて長く吐き出される深い、深いため息。
こんなにはっきり負の感情を表す彼は珍しい。
村の中央広場でマーシャルに抱きつかれていた時よりも露骨だ。
「あの……?」
「すみません、ミートリッテさん。可能な限り避けるつもりではいますが、厄介に厄介を重ねた厄介な人間が釣れてしまいまして。おそらく考えごとに費やせる時間はそう長くありません。真実に辿り着きたいなら声を出さずにジッとしていてください。お願いします」
(お願い、って)
ミートリッテの返事を待たず、アーレストの足が速度を上げて前へ進む。
迷いなく、まっすぐに。
(核心に居る筈の女性二人と離れて、厄介なお迎えから逃げた。その上で、『あいつら』の出現を間に合ったと表現したかと思えば、今度は更に厄介な人間を避ける? この人いったい、どこに向かってるの……? どんだけの人間と勢力が! どんな風に関わり合ってんのよ!?)
あっちもこっちもどいつもこいつも、ミートリッテをからかってるのかと疑ってしまうくらい、確かな名前を教えてくれない。
ちゃんと名乗らない人達がそれぞれの主観でそれぞれを呼ぶものだから、あれがこれでと照合するのも、いい加減難しい。
海賊、自警団、バーデルの軍人達、バーデルの国境警備隊、危険な集団、ネアウィック村の人達、ハウィス、アーレスト、アルフィン、マーシャル、ヴェルディッヒ、イオーネ、名前も教えてくれなかった青年と、彼が属する俺達にあいつら、奴ら、彼ら、あの方、彼女、私達、あいつ、ヴェラーナ、ウィリアー、アムネリダ達、厄介なお迎え、厄介に厄介を重ねた人間。
もう、何がなんだかさっぱりだ。
ただ、アーレストの言葉が真実なら、あの腐れ男共こそがシャムロックを止めたがっていた『彼ら』ということになる。
薄汚く下品に笑い、暴力と色欲が生き甲斐です、と全身で主張していた、船上で一度顔を合わせただけの、あの男共が。
(ありえない。何かを護ろうとする人種には見えなかったし、扉越しだって言っても、他人の前で女性を暴行するくそったれ共なのに。そもそも、私にシャムロックを辞めさせたいなら盗みを依頼するなんておかしいでしょう。目的と手段の方向性が真逆だわ。それこそ筋が通ってない! 第一、こんな繋がり方じゃ、あの女性が……っ)
胸の奥にじわりと広がる、言い知れぬ不安。
脳裏に浮かびかけた糸口を隠したくて、目蓋を固く閉ざし、唇を噛んだ。
(……軍歌の意味を解けば、全部判る)
すっごく偉そうな女の人っぽい声に驚いて中断してしまったが。
一連の出来事の答えが歌に込められてるなら、これを拾うほうが先だ。
なにせシャムロックだけが、己を取り巻くものの正体を知らない。
まさに今この瞬間、何が起きているのかも理解できていないのだから。
(あの偉そうな口調の声も、私に何かを伝えてたのかな?)
守りたいものは何か? 決まってる。
ミートリッテを快く迎え入れてくれた優しい恩人達だ。
彼らの生活が困窮してたから、助けになりたくて怪盗を始めた。
その点にブレは無い。
人の世の理を認めろ? 人間は人間以上にも以下にもなれない?
そんなの当たり前だ。人間は人間。鳥でもなければ魚でもない。
誰だか知らないが、おかしな物言いをする……と、首を傾げた瞬間。
不意に軍歌の一節を思い出した。
『絶えざる秩序に命を捧げよ、神の騎士』
秩序。
この場合、言い換えれば人間が作った法。
生活の基盤。規準。決まり。道理。理。
……人の世の理。
(秩序を認めろ。人間は人間以上にも、以下にもなれない。シャムロックは道理を解してない。要は『法律に従って働け』って意味? シャムロックの本当の罪は、法に背いて人から物を奪ったこと?)
違う。そんなのは、シャムロックになると決める前に自覚してる。
他人の物を奪うのは絶対悪だ。
でも、未成年の自分には、他に実現可能な手段が見つからなかった。
金を得たいなら働けと言われても、正式な労働に従事させてくれないのは法律そのものだ。
(矛盾してる。一部の人間が土地の利用権を独占しておいて、生きたいなら働け。でも子供には働く場所を与えない。ただし、生きてる限り税金だけはしっかり頂戴していく、なんて。こんな法律に従っててまともな生活水準が約束されるわけがない。弱い人間はさっさと死ね、と言わんばかりだわ! 特権階級の横暴じゃないの!)
法に庇護された子供達?
どこがだ。
アルスエルナの法律は、未成年を飼い殺しにしてる。
数多の民は、数多の実りと共にあり?
耕す土壌も無く、満足な道具も得られない者の手で、結び捧げられる実があるとでも言うのか。
本気で一般民を虚仮にしてるとしか思えない法律のあり方を認めても、シャムロックの悪行を正当化したくなる現実にしか行き着かないが……
(…………道具?)
『数多の技は、世代を繋ぐ絆の証』
技。技術。世代を越えて受け継がれる、人間が生きる為の手段。
言葉や文字といった知識や知恵も、物作りの腕や材料もすべて。
形の有無を超越した、一種の……道具。
手段を活かせば、なんでもできる。
生きるも死ぬも、生かすも殺すも、与えるも奪うも。
計画と行動に、実力と精神が見合えば、なんでも可能になってしまう。
だから、法が定めた。
他種族の牙を打ち払い、人間同士の共食いを避け、人間種族を護る為に。
やってはいけないこと、やらなければならないこと。
人間の、人間らしいありさま。
人間が人間として生きる為の社会と、社会を形成・持続する為の役割を。
法律は『栄光』、即ち『知性を有する人間の形』を守る鎧であり、盾。
(法とは、人間の理性。『人間種族の』鎧で、盾……)
『人間は所詮、人間以上にも人間以下にもなれん』
アルスエルナの民は、秩序に守られた法下の住人。
対してシャムロックは、法に背いた犯罪者。
『鎧を抜け出た山猫の爪は、『誰』を引っ掻いた?』
「アーレスト様!」
「!!」
突然。
ミートリッテの足先、アーレストの真横に三つの人影が現れた。
思索に没頭していたミートリッテは、大きく鋭く響いた男性の声に驚き。
喉まで出かかった疑問を、再び飲み込んでしまう。
「アーレスト様。今すぐ、その方を我々にお返しください。このままでは、貴方にまであらぬ嫌疑が掛けられてしまいます」
一人目が前方へ飛び出してアーレストの進路を塞ぐと、二人目・三人目が素早く後方の左右に展開し、ジリジリと距離を詰めてきた。
顔も服装も見えないせいで、不気味な圧を感じる。
ただならぬ緊張感に頬を強ばらせたミートリッテの頭上で。
アーレストが、やれやれと苦笑う。
「困りましたね。私は、この娘と彼女を会わせたいだけなのですが」
「今は必要ありません。彼女も主も望んでいない。貴方ならお分かりになるでしょう? その方のまっすぐな気性に、我々の世界は残酷すぎる。幸い、まだ引き返せます。どうかその方を、主達を苦しめないでいただきたい!」
「他ならぬこの娘自身の人生です。ミートリッテさんにも選ぶ権利を与えて然るべきではありませんか?」
「選ぶ時が今ではないと、そう申し上げているのです! 貴方のやり方では誰も救われない!」
「今でなければいつです? イオーネさん達を捕まえた後、貴方方は確実に証拠を抹消するでしょう。無用な争いを避ける意味では正しい判断です。
しかし、そうなった後では二度とシャムロックに罪を自覚させられない。
貴方方は卑怯だ。後回しを匂わせておいて、その実、ミートリッテさんの選択肢を気付かれないうちに消し去ろうとした。自身で考え反省する機会も与えず、本人とは一切目を合わせないまま護り育てた気になって。この娘の自立心と成長を妨げているのは彼ら自身だと、何故気付かないのですか」
(……選択肢? 選ぶ権利? 何の話?)
自分に関する話なのは解るが、内容がほとんど掴めない。
一つ確かなのは、ここに集まった人間も結局(話題の張本人にとっては)不親切な会話しかしてくれない点だ。
徹底した嫌がらせの域。
いっそ清々しい置き去り感に、不平不満も引き籠る。
「貴方も、一度は納得されていたではありませんか! だからこそ、我々に協力してくださったのでしょう!?」
「確かに。ですが、イオーネさん達と話せたおかげで迷いが晴れましたよ。事実を伏せても、誰一人成長できないのだと」
「おやめください、アーレスト様! たとえ貴方でも、これ以上は本当に、制裁を免れなくなります!」
三人の影が一斉に、頭二つ分くらい沈む。
微かな金属音は、腰に帯いた剣の柄を握ったからか。
神父に向けて臨戦体勢を取っているようだ。
「お聞き分けください、アーレスト様。貴方なら既にお気付きでしょうが、あの方がこちらに向かっておいでです。奴らを追う主達はまだ知りません。一堂に会してしまったら絶対に引き返せない。それもまた選択肢を奪うのと同義ではありませんか! むしろもっと質が悪い! アリア信仰とは違い、試しに入ったけど合わないから辞める、では済まされないのですよ!?」
「ええ……身に染みて理解しています。だからこそ、私が動いたのですよ。この娘が組み込まれても、私の立場なら救い出せる」
「アーレスト様……っ」
神父の言葉が決裂の合図になったのか。
三方向で、鞘から剣身を抜き放つ音が聴こえてきた。
殺気は感じない。
三人は、どうあっても神父と怪盗を捕獲したいらしい。
「職務の邪魔をするのは心苦しいのですが。ミートリッテさん。少しの間、耳を塞いでいてください」
「へ? あ、はい」
咄嗟に両耳を手で覆い。
ふと、大人しく言うことを聞いている自分に眉を寄せた。
アーレストは裏切り者なのに、言いなりになってどうする。
反抗心で手を下ろそうとして……動かない。
(え? あれ!?)
指先が痺れ、関節が硬くなり。
体全体が石になったかと思うほど冷たく、重い。
何時間も同じ姿勢を取り続けた後の硬直に似てる。
(な、なに!? 急になん……)
カン、カラン! と乾いた音が響いた。
焦るミートリッテの周りで人影が輪郭を失い、草木の闇と一体化する。
全員、地面に膝を突いたのだろうか。
「アー……レスト、様……!」
苦しげな男声を置き去りに、神父は……走った。
抱えられているミートリッテの顔に体に、凄まじい風圧が押し寄せる。
(ぅっわ……速っ! 神父って、走れる生物なの!?)
器用に枝や葉をすり抜け、木々の隙間を縫い、しなやかな体躯を持つ大型肉食獣を連想させる疾さで、傾斜を苦もなく駆け上がっていく。
(……ん? 傾斜?)
三人を遠く離れ、腕が自由を取り戻した頃。
鼻と耳が、流れる水の気配を感知した。
そして
「…………────っ!」
黒闇に慣れた視界一面を、降り注ぐ白光が塗り替える。
光と闇が物質を形作り。
開けた眺望に、満天の星と大森林を囲む山々の黒い峰を顕現させた。
「……が……」
「が?」
ぽかんと辺りを見回したミートリッテは、呼吸の乱れもなく立ち止まった怪物の腕の中で、次第にぷるぷると震え出し……
吼えた。
「崖ぇえぇええええええええええ──────っっ!?」
「え? あ。」
空を穿つ大絶叫に驚いた神父の胸を突き飛ばし。
植物が絶えた剥き出しの地面へ落下。
「痛っ!」と呻きながらも、数十歩先の崩れた先端に這い寄り。
ガバッと身を乗り出した。
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