逆さの砂時計
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Side Story
少女怪盗と仮面の神父 56
「まあ、それでも一応、数日間の付き合いしかない貴女にも親しい人向けの仮面を見せてくれたみたいだし。わずかなりとも進歩はあったってことで、アーレストの件は以後、経過観察ね」
ふわふわと泳ぐ裾を蹴ってソファーに戻ったプリシラが、優雅な仕草で、紅茶を一口。手で持った受け皿の上に、カップを置く。
「貴女には、これから私の実家で、最低でも五年を掛けて、令嬢の振舞いと貴族の職務を徹底的に覚えてもらいます。補佐の仕事に関しては、その後、様子を見ながら徐々に習得させていくつもりよ」
「ごっ、五年⁉︎ 令嬢の振舞いはともかく、どうして貴族の仕事まで……」
「あら。アーレストに説明されなかった? アリア信仰の大司教は、国主の家庭教師を務めたり相談に乗ったり、アリアシエル開催の定例会議で各国の代表者達と顔を合わせる為、その後継者には、文字の読み書きや外国人との淀みなき会話など、高度な教養と完璧な礼儀作法が求められるの」
それらは一年や二年で身に付く軽々しい物ではないわ。
だからこそ次の次期大司教と呼ばれる中央区司教第一補佐の修業期間は、一般修行徒のそれよりもずっと長く、厳しい。
特に貴女の場合は入信したばかりで、貴族社会や聖職に関わる実効知識は皆無に等しく、教会内における信用度も零からの始まりでしょう?
これといった特色も無い状態で前触れもなく突然「二代後の大司教です。よろしくお願いします」と顔を出したところで、役員達の間に無用な軋轢を生じさせるだけよ。
「顔見せの当日から、私と同等量の仕事を失敗なくこなしてみせるとかで、周囲の人間を納得させる自信が貴女にあるのなら、全過程を省いてあげても構わないけれど……」
思わせぶりに逸れた視線を辿り。
バルコニーを背負う机の上下周辺に山積みされた、無数の紙束を捉える。
その体積、ざっと見アーレストの教会で処理してきた書類の二十倍以上。
「一日分の、まだ半分」
「ぜひ、べんきょうさせてください。しゅぎょう、だいすきです。なんねんでもがんばりますよ、ほんとうに。」
「頼もしいわ。頑張ってね」
「はい、よろこんで。」
この女性、いつ寝てるんだろう。
机の周辺に留まらず、部屋の四分の一以上が書類で埋められてるんだが。
あんなの、一人の人間が一日やそこらで対処できる量じゃない。
おそらく一週間の猶予があっても無理だ。
しかも、これでもまだ一日分の半分でしかないって。
素人がうっかり手を出そうものなら、腱鞘炎どころか脳や精神にも異常を来すんじゃなかろうか。現在発狂してないプリシラが不思議で仕方ない。
自分もいつか同量の仕事を任されるのかと思うと、気が遠くなる。
しかし。
(次期大司教の第一補佐って、厳密には、出世を確約された修行徒なのね。だから、条件を満たしていればどこの誰が選ばれても問題はなかったんだ。文字の読み書きや外国人との淀みなき会話となると、一般民の生活じゃまず習得できないし、今までは貴族や商家出の信徒から選ばれたんだろうけど)
現時点でのミートリッテは、一般信徒より実務に遠く、一般修行徒よりも経験不足で、教会関係では何の権限も無いし、人的な繋がりも期待は薄い。
与えられた準備期間でも、足場の構築に間に合うかどうか。
加えて、信仰心の有無を問われたら、ごめんなさいとしか言えない現実。
これぞまさしく、役立たずの極致。
(焦っても仕方ないって、分かってはいるんだけど……)
あまりにも無力だ。
そう、ため息を吐きかけ……
「聖職に直接関われなくても、貴女がやれることはたくさんあるわよ」
「ぐふっ」
喉の奥で引っ掛かった。
「あの……国政や宗教に携わる方々って、心を読む力でもあるんですか?」
「まあ! それはそれで楽しそうね。誰も彼もが正直な嘘吐きにならなきゃいけない世界。どれだけの腹芸師が心労で倒れるか……ふふ。見物だわ」
発想がえげつない。
「顔色や目線・目蓋や眉や指の動き・声の出し方・間の置き方・言葉選び・言葉や態度への反応。私達が見ているのは、そういうところよ。新規事業を成功させたいなら、貴女はそのまっすぐな感情を操れるようになりなさい。無邪気なだけの純粋な子供に未来を委ねる人間など、存在しないのだから。とりあえず、書簡を確認させてちょうだい」
カップと受け皿をローテーブルに置いたプリシラが、手を伸ばしてくる。
「……私のほうが使者だと、確信してるんですね」
「アルスエルナ国内で自生するコーヒーノキが見つかるなんて、バーデルにとってもアルスエルナにとっても、私にとっても想定外だった。この情報は一刻も早く正確に中央教会へ運ばなければ、リアメルティ領周辺で血生臭い混乱が起きてしまう」
速さ優先で、中央区に召喚されているアリア信徒が直接手渡すか。
正確さ重視で、大森林の管理権を預かってる近二代のリアメルティ領主のどちらかが届けるか。
「他の人間なら迷う局面でも、エルーラン殿下なら、危険を承知で当事者を素早く動かすわ。一番大切なことは決して見失わない方だもの。……よく、両陛下や王太子殿下の前で口を滑らせなかったわね? なんとかして書簡を取り上げようと、相当な揺さぶりを掛けられたでしょうに」
「ハ……リアメルティ伯爵も命懸けで動いているので、私も気取られまいと必死だったんです。王城の周辺は怖すぎます。壁一面に、目や耳がびっしりくっついてるみたい」
ミートリッテは、袋状になってる右の袖に左手を突っ込み。
内側に縫い付けたポケットから、白いハンカチで包んでおいた四つ折りの書簡を取り出し、プリシラへ渡す。
「それは言い得て妙ね。城でわずかでも心を休められたのは、後にも先にも王妃陛下に保護されていたアーレスト一人だけだと思うわ。あの場所には、所属違いの『影』達が昼夜問わず跋扈してるから」
「やっぱり。一晩中、四方八方から見られてる気がしたんですよねえ……。いつ襲われるかと、ヒヤヒヤしてました」
白地に黒いインクで記された内容と赤い紋様を確認したプリシラは、一つ頷いた後、書簡を再度四つ折りにして自らの左袖にしまい込んだ。
これでミートリッテも、やっと一息吐ける。
「それ、半分くらいは『影』じゃないし、襲うの意味が違うと思うわ」
「へ?」
「セーウル殿下に感謝なさい。貴女よりずっと深刻な寝不足状態で、今頃はふらふらになってるわよ。彼」
「⁇」
「ふふ。こういう話って、他人事だからこそ面白いのよね」
ころころと笑いながら「頑張りなさい」と言われても、意味が解らない。
怪訝な顔を傾げるミートリッテに、プリシラは真剣な目を向ける。
「リアメルティ領内にある大森林の開拓権を寄進する旨、中央教会で正式に受領しました。以後大森林に手を加える際は、誰のどのような目的であれ、必ずアリア信仰を通していただきます。土地そのものに手を出せないなら、権利を遠ざけてしまえ、なんてね。やるじゃない、ミートリッテ嬢」
「バーデルの命綱をぶった切る発見ですから……国境付近に置いておくのは危ないと思っただけです。実際、発見者の私に密輸罪を吹っ掛けて大森林の所有権まで主張するくらい必死でしたし」
コーヒーノキは、西大陸南部が原産の植物だ。
その果実から採れる種子を焙煎した品は、先の大戦以前から中央大陸にも少数ながら輸入され、富裕層の間でのみ高値で売買されていた。
が。
戦後、バーデル王国の最南部でも、自生するコーヒーノキが発見され。
国を挙げての栽培計画が成功を収め、それが近隣国へと広まった途端。
中央大陸全土で需要が一気に高まった。
生きたコーヒーノキの本体と果実、その種子は、必然的にバーデル王国の国有財産となり、現在は他国での栽培阻止……
要はバーデル王国の利益保持の為、国外への持ち出しを、どんな理由でも極刑付きで全面禁止にしている。
大森林で額を打った団栗が、未熟なコーヒーの生果だった。
そうと知った瞬間には、本気で死を覚悟したものだ。
自分のあやふやな記憶と証言を頼って、一緒に未開拓の森奥を探し回り、複数の場所で自生・成熟していたコーヒーノキと果実を見つけ出してくれた騎士達は、正真正銘、命の恩人である。
「コーヒーノキから作られる各品は、バーデル王国の特産品であり代名詞。憎いアルスエルナ王国に奪われるなど、到底受け入れがたい話よね」
「はい。なのでバーデル国王の代理人と軍の代表者、私と前二世代領主達と大司教様方が協議した結果、領土の管理はリアメルティ領主。開拓に関わる全権利はアリア信仰。労働従事者の監理はリアメルティ領主と国境を挟んで隣合わせのベルゼンディ領主で、労働力の紹介と派遣は、私とバーデル側の担当者で半数ずつ。コーヒーノキは、両国の技術連携で栽培・管理。販路はアリア信仰を通した全大陸。売り上げの配分は試作品が完成した後の調整、という形に落ち着きました。表向きは」
「表向きは、ね」
「偶発的な事故に見せかけた追突とか、転落とか、賊もどきの襲撃とか……もう二度と体験したくないです」
「残念! 要人の日常茶飯事よ。人気者は辛いわね」
「ええ、ええ。しまいには刃物が飛び交う大草原を笑いながら追いかけっこしましたよ! こうなりゃヤケクソだこんちくしょーっ! って叫んだら、言葉遣いを正せ愚か者ーって怒鳴られましたけどね! 何故か、両国からの追手全員に!」
「楽しそうでなによりだわ」
「解せませぬ!」
「可愛い子には、可愛い言動を見せて欲しいものなのよ。殿方としてはね」
「……追手の性別も、お友達からの情報ですか?」
「さあ、どうかしら。貴女はどう思う?」
「プリシラ様が直接見ていたと言われるよりは、怖くないですね」
くすくす笑っていたプリシラが、音もなく客席の横に立ち。
ミートリッテの手を取って、ゆっくり立たせる。
「ねえ、リアメルティ伯爵令嬢ミートリッテ」
「はい」
「本来であれば味方だった筈のアルスエルナ国王にまで襲われかけたのに、誰も助けてくれない理不尽な世界で、これからもずっと、生きていける? この先何が起きても、ここに来たことを後悔せずにいられる?」
自分を試すように覗き込む、一対の藍色。
一切揺るがない、痛みを感じるほどまっすぐな視線。
その目の奥をじぃっと窺い……
ふ、と笑う。
「無理です」
「……そう」
「はい。どんな風に生きているにせよ、生ある限り人間は必ず後悔します。その時々で最善の選択をしたつもりでいても、別の可能性を見つけた瞬間に『もしかしたら』と思っちゃうんです。想像力が、決意を邪魔するんです。でも、想像力が無ければ人間は生きていけません。だから、後悔はします。今は良くても、いつかきっと、必ず」
「……後悔したら、ここから逃げ出す?」
「いいえ。既に起きたことから逃げても、過去は変えられない。膝を抱えて周りに八つ当たりして泣き喚いて駄々を捏ねてたって、何も得られないし、みっともないだけ。なので、後悔した時は、それから先をどう生きるのかを考え直します。そして、死ぬまで後悔をくり返します」
「終わりがない後悔を続けるの? 一生?」
「はい」
「そう……」
「! プリシラ様?」
固く閉じた蕾も綻ぶような、温かい笑みを浮かべ。
紅を乗せた柔らかい唇が、戸惑う自分の額に触れた。
「ようこそ、アルスエルナ中央教会へ。貴女を歓迎するわ、ミートリッテ=ブラン=リアメルティ第一補佐。さっきも言った通り私は貴女を助けない。でも、話し相手にはなってあげる。貴族教育や事業で追い詰められた時は、私を相手に愚痴を溢せば良いわ」
名前の呼び方と、笑顔の質が変わった。
本当の意味で迎え入れられたのだと悟り、嬉しいような恥ずかしいような照れくさいような、そわそわした気分に襲われる。
でも。
「謹んで遠慮させていただきます」
「あら、どうして?」
「その……弱みにされてしまいそうで、すっごく怖いから」
「まあ! 聡い子は好きよ」
(否定しないし!)
「逃げ惑う獲物を上から眺めるのって、とても楽しいわよね」
(獲物認定されてるし‼︎)
誰だ。
こんな危ない女性に実権を握らせた奴は。
怒りたいから、ぜひとも出て来てもらいたい。
「ふふ。冗談はさておき……」
(本気しかなかったよね、今)
「貴女には本当に期待しているの。私も司教になって日が浅いし、急がせるつもりはないけれど。貴女が私の隣に立って支えてくれる日を、この場所で心待ちにしているわ」
「っ……」
白く細長い指先が、自分の前髪をふわふわ撫でる。
優しくて温かくて……まるでハウィスに撫でられているみたいだ。
心地好さで頬に熱が集まる。
「……プリシラ様、私」
「二代続けて同じ顔の大司教って絶対波乱を呼ぶと思うの。主に上層部で。こんな面白い話、見逃す手はないわよね!」
「帰って良いですか?」
「ダメ」
「ですよね」
(ごめん、ハウィス。愉快犯と貴女を重ねたことで、罪悪感が半端ないよ)
目の前で微笑む人物に振り回されている未来の自分が容易に想像できて、地味に辛い。頭がくらくらしてきた。
中央教会に足を踏み入れたばかりで何も為さないまま早々と後悔しそうになってるが……ふるふると頭を横に振り、気持ちを入れ替える。
(ハウィス達が私の支援を待ってる。私はここで、私ができることを……、私がやらなきゃいけないことを、しっかりやらなくちゃ)
「プリシラ様」
両手で拳を握り、どうやら自分の存在で遊ぼうと企んでいる直属の上司をミートリッテが見据えると、プリシラは「ん?」と頭を傾げた。
「愚痴は……たまには言っちゃうと思います。けど、私が貴女に望むのは、話し相手ではなく、次期大司教の補佐に相応しい人間の育成です。手助けは必要ありませんが、私が貴女の隣に立つその日が来るまでは、何があってもずっと見ていてください。お願いします」
「……ただ見ているだけで良いの?」
「はい」
誰かの成長を傍らで見つめ続けるのは、不安で見ていられなくなったり、もどかしさのあまり手を出したくなったり、飽きたりと、実は結構難しい。
だからこそ、誰かが見てくれているという事実は、自分の足で歩く為の、確固たる力になる。
いつか尊敬する人達の元へ辿り着き、更に先へ進む。
その為の力に。
「……真に強く気高き者、ミートリッテ=ブラン=リアメルティ。貴女に、女神アリアの御加護があらんことを」
威圧的な貴族の令嬢でも、他人をからかって遊ぶ恐ろしい女性でもない、次期大司教としての厳粛な空気を全身に纏ったプリシラが、自身の胸元よりやや上辺りで、左の手のひらをミートリッテに向けて翳す。
上位の聖職者が下位の聖職者へと贈る祝詞だ。
ミートリッテは上半身を軽く折り、黙してそれを受け止める。
「本心から、貴女の成長を楽しみにしているわ」
「……はい。精一杯、努めさせていただきます」
上体を起こし、再度同じ顔を見合わせる。
しかし、どちらの顔にも、笑みはなかった。
過去、南の地を駆け回ったすばしっこい山猫はもう、どこにもいない。
風に乗った三つ葉は大地の中心へと降り立ち、やがて、見渡す限り一面を鮮やかな緑色に染め変えるだろう。
遠く離れた愛しい者達へ届きますようにと、願う心そのままに。
……ところで。
コーヒーの実がぶつかってきた時に聴こえた、あの偉そうな女性の声は、結局なんだったのか。
村に居る間、アーレストに何度か確かめてみたが。
そんな声は知らない、としか返ってこなかった。
過ぎていく時間の流れと共に、自分でも本当に聴こえていたのかどうか、自信が失くなっていく。
(やっぱり、幻聴だったのかなあ)
ミートリッテは、無言で自分の頬を掻きながら。
白いバルコニーが映える、くっきりした群青色の空を見上げた。
▽少女怪盗と仮面の神父・こぼれ話【とある見届け役の嘆き】
せっかく作ったエサ場が、またしても人間に奪われた。
バーデルはともかく、こっちは自分から知らせたも同然だし、仕方ない。
仕方ない……、の、だが……っ!
あの娘!
エルナとそっくりな容姿、第五号のミートリッテ!
あれは赦せん!
誰が偉そうだ、誰が!
夜の教会で会話のきっかけを作ってやったり、殺気を遮断してやったり、助言してやったり、アーレストに常時掛けてある防音障壁を一時的に解いて協力してやったりと、こんなにも親切な女神は他におらんのだぞ⁉︎
深い敬意と謝罪を要求するっ‼︎
まったく……あの兄と妹ときたら。
子々孫々まで私を困らせ続けるのだから、始末に負えない。
唯一褒められることがあるとしたら、アリアシエルに次ぐアルスエルナの立国で、グリディナとカールの血脈をこの地に固定してくれたことだけだ。
勇者一行のように世界中を跳び回ったりしない分、追跡が楽になった。
国内では、至る所でやりたい放題だがなっ‼︎
大森林なら近場の人間でも滅多に立ち入らないからと、安心してゆっくり育てて、ようやく美味い実をつけ始めたばかりなのに。
ああ……自分自身の迂闊さが憎い……。
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