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逆さの砂時計

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Side Story
  少女怪盗と仮面の神父 49

 波の音が聞こえる。
 風に流され、浜に乗り上げ、砂を攫って沖へ帰って行く、涼やかな水の音。
 遠くから聴くだけでも広大な波打ち際の景色が思い浮かぶ、不思議な子守歌だ。
 「あぁー……飛び込みたいぃー。泳ぎたぁーいぃー」
 「駄・目・よ。足裏の傷も完治してないのに、海水に入ってどうするの! 痛いだけよ? 溺れて皆さんに心配を掛けたくはないでしょう? これからが本番なんだから、だらけてないでシャキッとしなさい、シャキッと!」
 「解ってますけどぉー。でも、もう……いろいろ、限界……」
 ペンを右手に持ったまま、記入済みの書類が山積する机の上に上半身をパタッと倒す。斜め後ろに立つ神父姿のアーレストが、やれやれと呆れた様子で両肩を持ち上げた。
 「仕方ないわねぇ。ちょっとだけ寝かせてあげましょうか? 此処で。今直ぐ。」
 「いいえぇ結構です! 疲れてなんかいませんよ私! ほらほら見て見て、もーすっごく意欲満々で落ち着かないったらありゃしない! さーて、次のお役目頑張っちゃうぞ!? 善は急げだ、行って来まーすっ!!」
 三回も四回も寝顔を覗かれて堪るか! ただでさえ執務室に二人きり、なんて恐ろしい状況だというのに、アーレストの前でスヨスヨ寝てましたなどと女衆に知れたら、いったいどんな目に遭わされるか。考えたくもない。
 ぐぁばっ! と勢いよく立ち上がってペンを放り出し、礼拝堂へと走……りはせずに、早足で移動する。
 「難儀な娘ねぇ」
 背後で零れた溜め息交じりの台詞に、「お前の所為だぁッ!!」とは突っ込まない自分。短期間で随分大人になったよねぇ。日々是成長だ。うんうん。
 顔を見た瞬間に振り上げた拳があっさり避けられた件はもう、ワスレマシタ。
 くそうっ!
 「ふっ……はーぁっ! 気持ち良いぃー」
 無人の礼拝堂と正面の扉を潜り抜け、白銀のアーチへ向かってアプローチを真っ直ぐに進む。時折背後から襲って来る木の葉はやっぱり痛いが、強めに吹く風は疲れで(ほて)った体に心地好い。
 「んむ。平穏無事が一番だぁわぁあー……あぁふ」
 菜園と繋がる坂道の途中で一旦立ち止まり、両の拳を天に突き上げて ぐぐぐーっ と背筋を伸ばす。
 見渡す空は青く高く、雲は白く厚く。山は深い緑に彩られ、海は陽光を反射してキラキラ輝き。暗殺者達が潜伏していた時の緊迫した空気は何処へやら、此処数日のネアウィック村には子供達の笑い声と大人達の囁きが絶えず、常よりも活気に満ち溢れている。
 特に今日は、朝陽が顔を出す前からとっても賑やかだ。それが嬉しくもあり、恥ずかしくもあり、寂しくもあり……
 「……ぅだあっ! ヤメヤメ! 落ち込むの禁止! お役目の事だけ考えてりゃ良いのよ、私は!」
 ぶんぶん頭を振って余計な思考を排除しつつ、下り方面へ歩き出す。
 睫毛に付いた水滴は、欠伸をしたからだと思いたい。


 ハウィスの家で目を覚ましてから三日目の今日。
 滞在期限が切れたバーデルの軍人達は、取り調べが終わるまで越境犯達は渡さないと主張するアルスエルナ側に対抗し、ベルヘンス卿と他数名の騎士を「山荘炎上と警備隊員殺害に関する重要参考人」として、アリア信仰の大司教二人を「ベルヘンス卿達の付き添い兼バーデルでの言動見届け役」として伴い、昼少し前に全員帰国した。
 初めは最重要当事者(ミートリッテ)も連れて行くと言っていたが、「ずっと寝てたので殆ど何も知らないし、説明を求められてもこれ以上は答えようがない。第一、怪我だらけで憔悴している被害者(しょうじょ)を国外へ連行するとは何事か!!」と、アルスエルナ勢が総出で拒否。バーデルとアリア信仰ではどちらが社会的信用を多く得られるか考えるまでもない上に、ミートリッテが熟睡する姿は両国間で確認していたので、あまり強気には出られなかったもよう。
 これがなんと。エルーラン王子とそっくりな格好で彼の後ろに控えていた二人が、アルスエルナ教会のコルダ大司教と、バーデル教会のタグラハン大司教だった。
 二人はミートリッテと軽い挨拶を交わした後、これぞまさしく好好爺といった表情で
 『ウチの子が何やらコソコソしてたからねぇ。ちょっと様子を見てみようかって、友人のタグラハン君と手紙で話してたんだ。そしたら殿下が、一緒に観光でもいかが? 丁度今頃は南方領のオレンジが美味しくなる季節なんですよ。と、お誘いしてくれてね。大体一ヵ月くらい前になるかなぁ? 王都を出たの』
 『うん、そうだね。私がバーデルの中央教会を出立したのは、それよりもずっと前なんだけどね。陸路は移動に時間が掛かるから困るよ』
 『それも観光の楽しみじゃない。いろいろ見て回ったんでしょ?』
 『勉強にはなるね。道中の激しい振動に体力をごっそり持ってかれちゃうのが難点だけど』
 『ふふ。快適な馬車道の整備は今後の課題かな』
 とまぁ、なんとものんびりゆったりな口調で話していたが。
 要するに、移動距離の関係上、バーデルの軍人達が入国許可を求めて来る前には王都を出てなきゃいけなかったエルーラン王子が、異変を察知していた大司教二人に声を掛け、第一騎士団を動かす表向きの理由(ごえいたいしょう)として、リアメルティ領付近までの「視察を兼ねた観光」に同行してもらったのだそうだ。
 たまたま近くで「複数の手紙」を受け取ったから急いでやって来ましたよー。という演出の為に、わざわざバーデルの第一都市からも要人を呼び込んでいたとか。本当に、いつからの計画だったのやら……空恐ろしい人である。
 とにかくそんな訳で、現在ネアウィック村に残っている武装勢力は、エルーラン王子が率いて来た第一・第二騎士団の小隊と、自警団や村民に扮していた第三王子と第二騎士団の小隊。それに、村外で待機している第三騎士団の小隊と、彼らに拘束されている暗殺者達。
 加えて、本日正午から新任領主・ハウィス=アジュール=リアメルティの正式な護衛役となった、十二人編成のリアメルティ騎士団だ。
 正体は言わずもがな、彼らしかいない。長年の諜報活動と今回の捕り物騒動に於ける功績を称え、エルーラン王子が直々に手を回して出世させたとのこと。
 本人達に言わせれば「窮屈な制服を毎日着ろとか、スゲー迷惑。」らしいが……村の人達が今日の明るさを早々と取り戻せたのは、顔見知りの彼らが揃って元気に帰村・領守に着任したからでもある。
 元々エルーラン王子に認められていた実力者達。寄せられる信頼も大きいようだ。
 なお、マーシャルは今だに眠っていて尋けないので彼らに確かめてみたところ、「アムネリダ」の意味は「恋人」だと答えられた。
 直後、船上でのあれ……演技? だよね……? と、疑問が顔に出てしまったのか、お嬢には五年早ぇよと爆笑された。
 この件に関する真相は、五年後でも十年後でも知りたくないと思う。
 「おお。お疲れさん」
 「……あ! お疲れ様です、ピッシュさん!」
 菜園を通り、果樹園への坂道に足を掛けた所で、後ろから来た雇い主の手に軽くポンと左肩を叩かれた。どうやら彼も、これから仕事場へ向かうようだ。
 いや、既に何往復かした後か。今朝早くにも、坂道を上る作業着姿の彼を見ていた覚えがある。
 「今日はずっと歩き通してただろ。足裏、辛くないか?」
 横一列に並んで足を運んでいる途中、彼の目が此方の足下をちらりと窺った。珍しく開き気味な目蓋の隙間に見えた虹彩は、それでもはっきりした色を現さない。
 「一時間くらいは座ってましたし、全っ然問題ありません! 例え痛くても気合で頑張りますよ。ピッシュさんの果樹園に行くのも今日で最後ですから。寧ろ、残業できなくて残念です」
 「ははっ。普通は嫌われるモノなんだけどな、残業なんて」
 「わぁ、勿体無い! 果樹園での仕事を嫌がるとか、人生の大損失ですよ! 手塩にかけた果実が傷一つ無く丸々と大きく、香り良く育った時の感動と言ったら、もう……! ああー……続けたかったなぁ」
 「そうは言っても、果実の手入れより大切な仕事が見付かったんだろ?」
 「はい。だから、甘えん坊な三つ葉の根を大好きな土から引っこ抜かなきゃいけないんです。遠慮無く放り投げてくださいね? 「嗅覚に優れた」「果樹園の監視者」様」
 「んー。なかなか心が痛むなぁ」
 晴れ晴れした笑顔を見せつけて「大丈夫ですよ」と言っても、彼は苦笑いで唇の端を持ち上げるだけ。
 関係者は誰も示唆してない。が、語られた事実と現状と持ち歩いていた証拠の数々が、優しくも罪深い真実を自分に向けて指し示していた。
 なら、彼にも伝えるべき言葉が残っている。
 「甘やかしちゃいけません! 甘やかされた三つ葉は根深く数を増やし、将来的には農作物にも悪影響です。実際問題、風に飛ばされた種子の悪戯とか、目に余るものがあったでしょう?」
 「いや。ウチから飛んでった種子かどうかを疑われたのは確かだが、果樹園自体の潔白は直ぐに証明されてたし。なにより、手土産に持って行ったオレンジの実や副産品を気に入ってくれる方が多くてな。広がった分の風評被害と同じだけ注文数が増加していくもんだから、正直かなり助かってた。被害者が出てる話で無神経だとは思うけど、従業員の給料を増やせてるのは大きいぞ」
 「なんとっ!?」
 彼にも大迷惑だったシャムロックの行為は、一方で利益向上ともしっかり結び付いていたらしい。無論それは、彼のオレンジに対する真摯な愛情と逞しい商売根性があってこその結果だが。
 「え、じゃあ、ピッシュさんがくれたあのマーマレードには特に他意とか無くて、本当に……」
 「単なるお礼だ。先日も新規で大口の契約が結べたから」
 「ふえぇぇ。私はてっきり、偉い人の密命で目印代わりに持たされてたのかと。事象の逆算だけじゃ判らないものですねぇ」
 「計画と目標はある程度望み通りの結果を引き寄せるが、結果から偶然と必然を選り分けるのは至難の業だからな。決定的な間違いを犯さないよう、思い込みには注意しておけ。これ、経験者からの助言。」
 「勉強になります! ……でもやっぱり、土に含まれてる栄養には限りがあるんですから、三つ葉の分は実りある作物へ回してください。私は遠くでみんなの様子を満足気に眺めてますから。ね?」
 「……了解。ま、頑張れ」
 「はい! 今迄本当に、ありがとうございました!」
 髪をくしゃくしゃに撫でられ、嬉しさと気恥ずかしさと、ほんのちょっぴり雑じる寂しさを誤魔化すように、歩く速度を上げて前へ進む。
 「あ。そうだ、ピッシュさん」
 「ん?」
 彼の数歩分先でくるんと転身。首を傾ける。

 「マーシャルさんの誘いに乗らなかったのって、ハウィスが恐かったからですか?」

 ハウィスは、マーシャルを含めたブルーローズの総人数を「十四人」、表舞台に出ていたのは「十三人」だと言い切った。イオーネも、ブルーローズは「十三人」だと思っていた節がある。
 だとすれば、イオーネに認識されてなかった残りの一人は何処へ行ったのか? 何をしていたのか? マーシャルに手を出さなかった構成員との関係は?
 様々な情報を吟味した上での推測でしかなかったのだが、彼は間髪を容れず「まさか」と笑った。

 「ハウィスを愛してるからだ」

 これこそ まさかの ド直球。
 「……こういう時の男性って、態度で察しろとか、女性を幻想世界の住民扱いするものだと思ってました。けど、肝心なハウィスには何も言ってないんですよね?」
 「守りが堅いからな。今や立派な子持ちだし、正面から切り込んでも勝てる気がしない」
 「おおぅ、なんとも反応しづらい現実! じゃあ、村に残ったのは」
 「いや、それは趣味が実益を兼ねてたってトコ。姐さんと知り合う前に、植物学者から農業の基礎を学ぶ機会があったんだよ。以来、勉強自体が楽しくてな。姐さん達の所でも頭脳派を気取ってた。で、ネアウィック村に移民した後は、この知識と人並以上に鋭い嗅覚を当時の村長に買われて、あの農園を任されたってワケ。村の人間に獲られるくらいなら、あわよくば……と思わなくもなかったが、未婚の母はさすがに予想外だったな」
 「あははー……申し訳ありませんっ」
 「いや。こんなに可愛い娘なら大歓迎だ。いつでも帰っておいで」
 坂道の上方から頭を下げる仮従業員に、雇い主はふんわり微笑みながら右手を差し出した。
 さりげなく付け加えられた言葉で、うっかり眼球を潤ませてしまいそうになる。
 「……お母さんを、よろしくお願いします!」
 上半身を跳ね起こした勢いのまま彼の手を両手で握り、ぐぐっと力を籠めた。
 「任された」
 彼も、痛くない程度の力で応じてくれる。
 「さて。お役目を果たしに行くか。着替えは持ってきてるのか? 長衣のままじゃ動きづらいだろ」
 いつか何処かで再会した時は、四人家族になっていたら良いな、と
 「大丈夫です! 下に作業着を着込んでおいたので!」
 「……この暑い時期に重ね着してて、よく倒れなかったな」
 「あははー。自分でも早まったなぁとは思ってました。」
 風に揺れる木々の狭間で、そんな綺麗な、夢を見る。


 今日は、ミートリッテがネアウィック村で眠る最後の日。
 「麦酒! こっちに三本頂戴!」
 「はーいっ!」
 「生魚が切れたー! ちゃちゃっと獲って来いよ、クナートぉ」
 「アホか! てめぇで獲って来いや!!」
 「はいはい。冗談は其処までだよ、莫迦男共! 使わない食器は自分で下げな!」
 「俺ら、酔っ払ってるからムリでーっす!」
 「そーそー。千鳥足で一枚残らずバリンバリンに割っちまうぞ! なんてな!?」
 「「がはははは!!」」
 「ほっほーう? 明日から砂の上で生魚掻っ捌いてそのまま口の中に捻じ込んでも良いって言うんだね? いーい度胸してんじゃないのさ、ああん?」
 「「ワルノリシマシタスミマセン」」
 欠けた月が輝く夜の中央広場で、村民達は地面や階段に座り、闇の訪れを拒むが如く大量の松明に炎を灯しながら、歓喜の声を響かせる。
 「あら? 神父様は?」
 「さっきはあっちに居たわよ」
 「ねー! ミートリッテ、こっちに居ないー? 料理を追加して欲しいんだけどー」
 「ああ、ごめんなさい。ミートリッテは今、席を外してるの。殿下と話があるんですって。私が代わりに作るわね」
 「私も、お手伝いして良いですか?」
 「! ……ええ、お願いするわ。一緒に作りましょうね……アルフィン」
 それは、仲間の無事と回復を喜ぶ宴。
 再会した同朋の旅立ちを祝う宴。
 家族との別れを惜しむ宴。
 けれど、主賓の一人でありながら料理人、という不思議な大仕事に区切りをつけたミートリッテは、盛り上がる人の波をこっそり抜け出し、村外に在る騎士達の隠し拠点へと案内されていた。
 ひんやりした空気に包まれている石造りの狭い地下通路で、腕一本も通せない黒い鉄格子の正面に立つ。右隣には燭台を持つ神父姿のアーレスト。左隣には同じく燭台を持つ村人姿のエルーラン王子が並ぶ。
 「イオーネ」
 「……」
 境の向こうで簡素なパイプベッドに腰掛けている村人姿の女性は、何も言わず何もせず、ただただ此方を睨み付けている。
 正確には、何も言わないのではなく「何も言えない」。桃の果汁を使った暗示によって、声が出せない状態にされていた。
 返事ができないと知っていて呼び掛けたのは、これから並べる言葉に彼女の意識を引き付ける為だ。
 「話は全部聴いたよ。あなたが元はシアルーン男爵家当主に引き取られ、ウェミアさんとは姉妹のように育てられていた事。バーデルの暗殺組織に拾われた後、どんな暗殺術を学んで、どんな経路でシャムロックの情報を掴んだのか。正直、あなたがエルーラン王子に斬られたあの時、暗殺者のクセにどうして人前に出てきたんだろう、莫迦だなぁって思ったよ。でも、ああするしか術が無かったんだね。あなたはどうしようもなく……『女性』だったから」
 簡単な話だ。
 イオーネが殺したバーデルの貴族は、バーデルの王族にも疎ましく思われていた。
 王族の暗部に相当する暗殺組織は、()の貴族を暗殺するつもりで屋敷に忍び込み、意図せぬ殺害現場を目撃した。
 手柄を横取りされたと雇い主に知られるのは面白くないし、標的(きぞく)の立場を考えると諸々の後処理も非常に面倒臭い。それに、貴族を殺した女はどう見てもアルスエルナ人だ。バーデル人が嫌い、憎み、見下す、アルスエルナの「女」。拾って仕込めば使い物になる。
 果たして彼女は前首領の囲われ者となり、幾人もの「男」の心臓に短い刃を突き立てる女暗殺者となった。
 標的に選ばれる「男」は基本、バーデルの王族が邪魔と見做した有力者ばかり。当然、屋敷(じゅうきょ)には商人も出入りする。
 さていつ手を下そうかと逢瀬を重ねていれば、高価な品物を手放す哀れな他国の少女の話を聴く機会も、まるで必然であったかのように前触れ無く訪れた。
 その時点で新たな義賊の存在に気付き、その活動がアルスエルナにどんな影響を与えるかを正しく理解できたのは、恐らくバーデル国内ではイオーネただ一人。
 王族や貴族が少女に関心を持って余計な手出しさえしなければ、何も知らない商人達は少女から買い取った品物の売買を続けるだろう。結果、イオーネの元へ義賊に関するより多くの情報を搬送してくれる。
 だからこそ、前の首領を殺して組織を乗っ取り、国境付近で商人達の口を封じていた。
 両国の敵愾心を最も効果的に煽る為、確実に手が届くと確信を得るまでは、バーデル軍にも隠す必要があったのだ。
 イオーネ自身の情報も、ミートリッテの情報も。
 「……どうして、こんな世界、なんだろうね」
 隙間に両手を入れて、成人男性の手首並みに太い鉄格子を掴む。
 額を寄せても音を立てない鉄の境界線は、見た目以上に頑強だ。丸腰のイオーネには決して破れない。
 その事実で得られたのは安心ではなく、悲しみだった。
 「人間は、殊更需要が高いものに(たか)るんだよ。需要があるから供給が続く。需要が無ければ供給されないの。昔から何度も何度も莫迦げていると……汚らわしいと言われているのに結局繰り返されるってことは、何処かの誰かが自分の欲求を正当化して満たす為に、需要とかいうふざけた価値観を散撒いてるんだよ。弱者にはそうするしか生き延びる術が無いんだって先入観を付与してね」
 足元に水滴が落ちる。一つ、二つと落ちては弾けるそれが自分の涙だと解っても、他人事みたいに遠く感じた。アルフィンと離れたハウィスの世界も、こんな感覚だったのだろうか。
 「……けど、実際はどう? 自分の体が在るのなら、物を見て聴いて考えて作り出す頭も手足も残ってるでしょう。自分の体が生きているのなら、地面も存在してるでしょう。地面が在って自分も在るなら、川も海も山も植物も動物も存在しているでしょう。それらが在るなら、空も大気も存在しているでしょう。空があるなら陽光が照らし、風が吹き、雲を運び、雨を降らせもするでしょう。本当は、性を利用しなくても生きる為の術なんか幾らでもある筈なの。ただ、それらが自分だけの物ではないというだけ。資源の保護を名目に、身勝手な所有欲と独占欲で区分けして、勝手な価値を押し付けて、対価を要求しながら、一部の人間にのみ都合が良いように配分し、都合が悪い相手には罰と称した暴力を与えて無理矢理黙らせる。奪われそうになったら、手に入らないと思ったら、自分達の手で汚し、壊す。他を顧みない、そんな奴らの所為で、多くの生物が目の前に在るその日一日を生きる為の糧すら得られないだけなの」
 イオーネは動かない。ただ じっとミートリッテを見ている。
 「山を平らにしても尚、土の一欠片まで根こそぎ食わなきゃ気が済まない! って大食漢が何万人と居る訳でもないんだし、乱獲に因る枯渇が心配だって言うなら、単純に漁場範囲や狩猟区域を設定して、一人当たりの獲量を個人や一家族が一度に食べ切れる量まで、一日最大三回、生活に必要不可欠な量までと制限すれば良いだけの話なのに。少数の人間に限り大量に獲って販売可能とか、そっちのほうが余程無駄が出るじゃない! 同じ地域内でも必要とする人と必要としない人が大勢居て、要らない人のほうが割合を占めたら余りが出るのは当然でしょう? ……でも、そんな事は誰も考えないの。糧を得るには金銭が必要だって信じてるの。お金なんて、人間以外にしてみれば何の栄養にもならない、ただの塵なのにね。持ってなければ生を許されないの。……本当、嫌な世界……っ」
 「ミートリッテさん」
 アーレストが静かに首を振って諫める。
 自分も、王族の近くでこんな発言をして赦されるとは思ってない。後で叱責を受けるだろう。
 だけど、吐き出した思いは紛れもなく本心だった。
 「私の本当のお母さんもね。娼婦だったんだよ」
 「……?」
 イオーネの目に変化が出た。アーレストが息を呑む気配。
 「お父さんに身請けされるまで、数え切れない人と関係を持ってたって。周りの人達はみんな言うの。汚らわしい。惨めだ。被害者ぶりやがって。……あとは何だっけ? たくさん聞き過ぎて忘れちゃった。なんにせよ、どれもこれもお母さんと私を見下す台詞ばっかり。こんな世界でも必死に生きようとした泥塗れな人達に向けて、綺麗な人達は口を揃えて言うのよ」

 目障りだ って。

 石牢に沈黙が降りる。燭台の上で踊る小さな火だけが、切ない声でジジッと鳴いた。
 「……哀しいよ。どうして、ただ必死に生きてるだけでそんな事言われなきゃいけないの? 寂しいよ。物語で登場人物が苦しい思いをしていれば、みんな涙を流すじゃない。哀しいって言うでしょう? なのにどうして、重苦しい現実を死に物狂いで生きている人達に向ける言葉はソレなの……!? なんで誰も、そういう環境こそがおかしいと思えないの!? 弱い人には、がむしゃらに足掻く自由すら無いの!?」
 喰って掛かる勢いで声を荒げた途端、視界に映ったイオーネの両肩がびくんと跳ねた。火色を反射する銀の目が、丸い。
 「……本気で、そう思ってた時期もあるの。でも、もう良いや」
 鉄格子に張り付いた両手を離し。二歩分後ろへ下がって、にやりと笑う。

 「泥塗れでもがき続ける私達を、嘲笑いたいなら嘲笑え。否定したいならするが良い。私達は、穢れていようが意地汚かろうが惨めだろうが、外面しか見てないそんな薄っぺらい評価には二度と挫けたりしない。覚悟しなさい、イオーネ。私はあなたを、この泥塗れな両手で抱き締めてあげる! 私達を否定する総てに、私達が得た全てを分け与えてあげるの! 自分じゃどうにもできない、苦しくて仕方ないって時に、脳内でお花畑が見頃だと莫迦にしていた相手が助けに来るのよ!? とんだ大迷惑よねぇ!? 心底不愉快でしょうよ! いい気味だわ!! でも、止めてあげない!! だって、それこそが人間社会に対する私達の「報復」だから!」

 精々美味しくない虫を咀嚼しながら「アリガトウゴザイマス」と涙目で呻けばよろしい!!
 あーっはっはっはっはっ!!! っげほ、げほ!

 アーレスト「………………」
 エルーラン王子「………………」
 イオーネ「………………」
 慣れない高笑いと咽る音が風に流された後、またしても火だけがジジッと鳴いた。

 「あ、ぁーっ、んんんっ! ……ん。良し。……とまぁ、それだけ言えれば個人的に満足なので。ご清聴ありがとうございました。王都で刑期を終えたら、アルフィンの守護をよろしくです。幾らあの子が天下一可愛いからって、誘拐なんぞ二度としないよーに! ちゃあんと見てるからね? では、お元気で! 行きましょ、お父様」
 「って、お前な」
 エルーラン王子の、燭台を持ってないほうの腕を引っ張り、上階へ続く階段に足先を向ける。と
 「ぁいた!?」
 硬い何かが側頭部を直撃して跳ね返り、足元に転がった。
 「んもう、なに……、これ?」
 手に取って掬い上げたのは、薄い暗闇の中でも一目で高級品と判る銀色のロケットペンダント。表面に細やかな線で何らかの花の絵が彫られている。
 「マーガレット、か。マルペール子爵の母親がその花と同じ名前だったな」
 パチッと音を立てて蓋を開くと、十代半ばと思われる金髪の少女が赤いカーテンを背負って椅子に座っていた。目の色が左右不揃いでアルフィンとよく似た風貌だが、雰囲気が全く違う。
 アルフィンの笑顔は、こんなに優しく穏やかではない。
 「……アルフィンに渡せって意味?」
 投げて寄越したイオーネを振り返るが、彼女は既にベッドの上で布団に包まっていた。
 (しばら)く無言で視線を送ってみても、顔は石壁に向けたまま此方を見ようとしない。
 「ふむ。どうしましょう。勝手に渡しちゃって大丈夫ですかね、お父様」
 「あー……バーデルでの持ち主はこの世の住民じゃなくなってるし、マルペールの奴は親が遺した財産の管理権を全部国に移してるし。問題無いんじゃないか?」
 今のアルフィンに必要があるとは思えないが。とは、父子の心の中だけで呟いておく。
 「分かった。明日までに渡しておくね。さ……」
 さよなら、イオーネ。
 そう言いかけて、唇を閉ざす。
 さよならじゃない。どんな形であれ、彼女との再会の日も必ずやって来る。
 なら、この場面に相応しい言葉は。

 「……ありがとう。またね、イオーネ」

 ロケットペンダントを胸に抱え、元怪盗と神父と第二王子は階段を上って行く。
 きっと死んでも分かり合えない女性の背中は、燭台の灯りが完全に消え去るまで、ピクリとも動かなかった。



 「適当に切り上げて、さっさと寝ろよ。王都は遠いからな」
 「はーい。おやすみなさい、神父様、お父様」
 ネアウィック村の中央階段上部で頭頂部に拳骨を一つ貰い、挨拶を交わした後、アーレストは教会へ、エルーラン王子はハウィスの家へ、自分は中央広場へ向かう。
 急いで戻らないと、女性達の怒声を浴びてしまいそうだ。
 何せ、約四百人分の料理と果汁飲料と酒。準備するのが大変なら、片付けるのは大苦行。人手が足りてないのは明白だった。
 主賓の扱いにしては雑な気もするが、ネアウィック村で過ごす最後の夜だ。全身の筋肉痛や倦怠感には目を瞑ろう。
 「あー! ミートリッテ、やっと戻って来た! おそーいっ!」
 「ごっめーん! 何を手伝えば良い!?」
 「こっちよ、こっち! ……はい、此処に立って。」
 「へ? あれ? ちょっと、手伝いは?」
 「良いから良いから。はい、海岸にちゅーもーくっ!」
 「か、海岸??」
 大勢の声が何重にも重なってガヤガヤと騒がしい中を縫うように走り抜け、にこやかな女性三人に背後を固められながら、中央広場の真ん中辺りに立たされる。
 と
 「「「みんな、いくよ!」」」
 ひゅるるるる……
 「「「せーのっ」」」
 
 「「「おかえり、ミートリッテー!!」」」

 ドオオォーーーーン!!

 「…………………………っ!!」
 女性三人の声を合図に、それまで思い思いの会話に興じていた村のみんなが声を揃えて叫んだ。同時に、色鮮やかな火の花が夜空を埋め尽くす勢いで咲き誇る。光の花弁がパラパラと舞い落ちる最中にも、次から次へと別の花が開いていく。
 「な、なな、な……っ」
 「ふっふっふー。驚きで言葉も出ないようね、ミートリッテ!」
 「あなたがアルフィンの為に頑張ってたって聴いたから、私達もあなたが眠ってる間に頑張ってみたのよ。職人代と火薬代と輸送費用、高かったんだから! 心行くまで堪能してよね!」
 「お疲れ様、ミートリッテ!」
 「「「おつかれーっ!!!」」」
 花火なんて高価な代物、通常は王都か街くらいでしか見掛けない。まして海に囲まれているこのネアウィック。湿気が天敵の火薬とは相性が悪すぎて、扱いもとんでもなく難しくなるというのに。
 「こ、こんなっ、めっちゃくちゃ贅沢なコトしてっ……」
 「贅沢よぅ? だから、こぉんな贅沢品を贈られたあなたには、それ相応の義務が生じます。」
 「義務!? やだ、なんか怖い!」
 「「「失礼ね!」」」
 「ふぎゃ!?」
 女性達がふるふる震える体を取り囲み、一斉に抱き着いてきた。
 「何処に居ても、元気でいること」
 「何処へ行っても、あなたはあなたでいること」
 「何処で何をしていても、故郷(ネアウィック)を忘れないでいること」
 「「「簡単でしょ?」」」
 ドッ……オオオーーォォン……
 一際大きく、派手な花が月を飾る。
 村全体を揺るがす大迫力に、拍手喝采が沸き起こった。
 三人分の熱に纏わりつかれた体の震えがどんどん大きくなり……

 「……ぁぁああああ、もーーーーーーぅっ!
 忘れるわけないでしょぉおおおおお!!
 みんな大好きだよ、ばあああかあああああ!!」

 胸に収まり切らなかった想いが天を貫く。
 「だあれが莫迦よ、誰が!」
 「俺も大好きだぜ、ミートリッテー! お酌してー」
 「アンタは飲みすぎだよ! 真っ赤な顔して、子供に何言ってんだい!」
 「ほらもう、泣かない泣かない。これ飲んで落ち着きな?」
 「あ! ダメよ、ミートリッテ! それはお酒ーっ!」

 花火と笑い声と、そして涙声が、波の音と一緒になって温かい旋律を奏でている。
 (こんな素敵な音、忘れられるワケがない)
 ネアウィック村で過ごした七年間、良い事も悪い事もたくさんしてきた。楽しい事も嬉しい事も、辛くて悲しい事も、数え切れないほど経験させてもらった。よもや一生分の幸運を使い果たしたのではと心配になるくらいの幸せを与えられた。
 (嫌だなぁ、これ。生きてる間に返し切れる自信が無いんだけど)
 明日の朝、此処を旅立つ。今後戻って来る機会があるかどうかも判らない、遠く長い旅に出る。今度は自分が、みんなを幸せにする為。誰かにこの手を差し出す為に。
 (……やれるだけ、やってみるしかない、か)
 規則性が無い音楽の中で、子供よりも子供っぽく泣き喚きながら、ぼやけて歪んだ月を見上げる。
 ふと。
 白い羽根が一枚ふわりと舞い降りて、風に攫われていった。

 
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