逆さの砂時計
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Side Story
少女怪盗と仮面の神父 49
アルフィンと距離を置いたハウィスに、再び暗闇が襲いかかった。
と言っても、表面上はいつもと大して変わりない。
意識を失ってベッドに逆戻りしたとかではないし。
ティルティアのように重い病気を患ったのでもない。
音が聴こえなくなったり、物が見えなくなったりしたわけでもない。
家事も仕事も、散策も会話も、常人と変わらない程度にはできていたし。
日常生活に大きな支障を来すほどのことは、何も無かった。
ただ、感じなかった。
視界は常に白黒で。
耳に入る音は右から左へ素通りしていくだけ。
海から漂う潮の香りも、海産物の生臭さも。
口に含んだ飲食物の味や匂いや食感も。
重い物を持ち運ぶ時に掛かる体への負担も。
火傷した時の熱さや痛みも。
対人関係から生じる筈の怒りも悲しみも喜びも、悔しさも嬉しさも。
暗闇に沈んでしまったハウィスには、何一つ芽生えず、残らない。
まるで、自分じゃない誰かの体験を半透明な薄い膜の反対側からぼんやり眺めているかのような、身にならない空しい月日の経過。
それ自体にも、何も感じなかった。
「……七年前、視察の為にリアメルティ領へ再訪したエルーラン殿下がね。私の顔を見るなり開口一番に「お前、不気味」なんて言ったのよ。上っ面の笑顔を指摘するにしたって、女性に対して物凄く失礼な言い草でしょう? でも、当時の私はなんとも思わなかった。本当に何一つ感じてなかったの。殿下が村に着いた次の日、あの砂浜で、貴女と出会うまでは」
第二王子の別宅を預かる身であっても、ハウィスの扱いは一般民だった。
二人の王子と騎士団員の職務が絡んだ会話を耳に入れるわけにもいかず。
報告会議が終わるまではと、家を出て村の内外をふらついていた時。
「おとうさん…… おかあさん……」
声が聞こえた。
アルフィンのものとは違う、小さな女の子の声。
高く可愛らしいけれど、喉が渇いているのか、少し掠れた声。
小虫の羽音よりずっと頼りなく、風の音にも吹き飛ばされそうな……
なのに、何故かはっきりと聞き取れた、か細い声。
村の人達は、午後から降る雨に備えて先ほどまで各々の職場付近を慌しく動き回っていたが、今はほとんどが帰宅して、窓や扉を閉め切っている。
子供達も、荒天時の海辺は危険だからと、真っ先に連れ戻されていた。
こっそり遊びに出ていて帰りが遅れたのか?
しかし、少しの間耳を欹ててみても、両親を呼んでいたらしい声に応える大人の気配はしない。
どうして幼い女の子が一人で屋外に居るのか、久しぶりに疑問が湧いた。
声が聞こえてきたほうへ、何の気なしに足先を向け。
波打ち際で水平線をじっと見つめるボロボロな背中を見つけて……
氷が、ひび割れた。
まとまりなく伸びて千切れた髪。
植物や泥などで汚され、袖や裾が無惨に引き裂かれているワンピース。
隙間に覗く細い両手足は、折れていないのが不思議なほど傷だらけで。
菜園方面から女の子へ続く足跡には、靴底と指の形が両方刻まれていた。
どう見ても一般家庭の健康的な子供ではないその後ろ姿に、心を壊された幼いマーシャルの、首を切って倒れたウェミアの、義父の帰りを待ち続けるアルフィンの幻影が重なる。
体の奥でパリン、パリンと、ガラスが砕けていくような音が響く。
ああ…………
この世界はなんて醜く、残酷で、理不尽なのか。
確かに、ブルーローズは方法を間違えていた。
その日暮らしもままならない弱者達を助けたい、護りたいと言いながら。
人間社会の仕組みなど深く考えもせず、ろくな将来像も描いてなかった。
足りない物なら、溢れて見える所から持ってくれば良い、などと。
盗まれる側の事情は気にもせず、目を向けようともしなかった。
結果、行き場を失くしてさまよう人が増えるだなんて。
アルフィンのような子供が増えるだなんて。
想像すらしていなかった。
本当に、短絡的で愚かだとしか言いようがない。
そんな自分にエルーラン王子は、社会のあり方に不満や意見があるなら、己と異なる立場の者達と話し合い、問題点を洗い出し、相応の後ろ楯を得て保身を図り、周囲の状況を見極めつつ、権力者達を相手取り、一定の譲歩を見せながらも、己側の利になる物事を引き出せ、と言った。
それはきっと、犠牲を最小限に抑えられる正しい方法なのだろう。
ある程度の力を身に付けていた大人達なら。ブルーローズなら。
彼の言葉通り、正しくあるべきだったのかも知れない。
けれど。
だったら、誰かに何かを託して結果を待つ余裕もない飢餓と毎分毎秒戦い続けている浮浪者達や、救助の求め方を覚えるよりも先に最も身近な庇護を失ってしまった幼い子供達は? 彼ら弱者は、いったいどうしたらいい?
国内の執政者達を束ねる王族の支援も届かない、ごくごく稀に与えられる一般民の気まぐれな同情や義賊の支援がなければコップ一杯分の飲み水すら満足に得られない彼らにも、周到な用意とそれに掛ける膨大な時間が必要な正しい方法を踏襲しろと言うのか。
そもそも、弱者や被害者を足手まとい、汚点、生産性に欠ける塵屑などと蔑み疎むこの社会において、幼い子供や障害を負った者達が、その身一つで犯罪行為もせず交渉に不可欠な後ろ楯を得るなんて、よほどの幸運と強運に恵まれていなければ、ありえない話だというのに。
目の前で両親を殺されたマーシャルが町民にどんな目で見られていたか、エルーラン王子は知らない。
マーシャルの心が壊された瞬間を、年齢に不相応で異様な言動の数々を、エルーラン王子は見ていなかった。
帰る家と職を失った元貴族の少女が、最終的に売春と呼ばれる犯罪行為に走るしかなかった現実を、エルーラン王子はどう捉えているのか。
今この瞬間、全身ズタボロなあの子を前にしても。
果たして、彼は「正しくあれ」と言え…………
(……あの子は……どうして、こんな所に居るの?)
物も人も流れが少ない国端では、盗める物など極端に限られている。
一日でも長く生きたいと願うのなら、捕まる可能性がどんなに高くても、多くの人が物を求めて行き交う大きな街や都へ向かう筈だ。
現にブルーローズもそうしていたし。
居住地の規模と犯罪発生率は大体比例する。
なのにバーデル王国から国境を乗り越えてきた浮浪児であろうあの子は、立地的にも経済的にも行き止まり状態のネアウィック村に侵入し、菜園主や自警団を装う騎士達に追われている様子もなく、水際に一人で立っていて。
(何を見てるの? 盗みが目的じゃないなら、何をしに、ここへ来たの?)
あなたは
「どうしたい?」
尋く声は少し、震えた。
「これから、どうしたい?」
女の子の肩が微かに揺らぐ。
やや間を置き、海に向かっていた視線がゆっくり振り返って……
「ちょっと待った」
「?」
軽く持ち上げた左手で話を遮るミートリッテに。
ハウィスの両目が瞬いて傾く。
「いや、その……。もしかして、なんだけど……あの時の私、ハウィスには自殺志願者とかに、見えて……た?」
恐る恐る尋ねてみれば。返ってきたのは、肯定を表す頷きと苦笑い。
「うわああ……っ! それで、私に生きたいかどうかって尋いたんだね⁉︎ 私が自殺するつもりなら止めようと思って……っ」
「いいえ」
顔を見合わせる前から、そんな心配をさせてたのか!
と、頭を抱えた瞬間、ハウィスがきっぱり否定する。
「……いいえ。貴女が、もう嫌だと、死にたいと答えていたら、私は即座に貴女を殺していたわ。そして、私も一緒に死んでいた」
なんでもないことのように紡がれた言葉が氷の槍となり。
ミートリッテの脳と心臓を貫く。
衝撃で跳ね上がった視界の先で、群青色が目蓋の奥に隠された。
「他にどうしていいのか、分からなかったから。せめて最後くらい、誰かの願いを叶えてあげたかった。浮浪者が諦めているのなら、もう良いよって。もう苦しまなくて良いよって。そう言ってあげたいと……思ったの」
『死にかけてたハウィスを生かす為、私が手札を失くさない為に』
(エルーラン王子は……ハウィスを一目見て、全部解ったんだ)
彼女は失望し、絶望していた。
他者を虐げる傲慢で強欲な人間にも、それを黙って受け入れる人間にも、争いをくり返す世界にも、誰かに生かされるばかりの無力な自分自身にも。
哀しみや苦しみすら、とっくに通り越して。
可視も不可視も関係なく、傷や喪失にはもう、耐え切れなくて。
彼女の精神は無自覚なまま壊れ、砕け散る寸前にまで追い込まれていた。
「ハウィス……」
「……でもあの時、貴女は生きたいと願った。どんなに辛くて悲しくても、この世界で、誰かと一緒に笑いながら生きていたいんだと訴えた」
驚いたわよ?
私よりもずっと幼い女の子が、満身創痍になっているのに。
自分を切り捨てた社会を、それでもまだ諦めてなかったんですもの。
自死を選んでもおかしくないほど酷い目に遭ってなお人の子でありたいと泣き叫ぶ貴女を手に掛けるなんて、私にはできなかった。
失っていた色彩が貴女から広がっていく……目が覚める感覚だったわ。
この小さな命が、この世界に在り続けたいと望むなら。
私が全力で護ろう。全力で生かしてあげよう。
それが私の存在理由なんだ、とさえ思った。
「アルフィンの手はさっさと離したくせに、ずいぶんな身勝手ぶりよね」
泣きそうな顔で微笑むハウィスに、ミートリッテは何も答えられない。
アルフィンから離れた件で彼女に物を言えるのは、ブルーローズの行いが原因で生まれてきた被害者本人か。
もしくは、アルフィンの世話をハウィスに託したグレンデル夫妻だけだ。
ブルーローズと同じ立場のシャムロックには、同情も非難も許されない。
押し黙る娘の横顔をじっと窺っていたハウィスも。
一息吐いた後、再び目蓋を伏せて語り出した。
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