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逆さの砂時計

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Side Story
  少女怪盗と仮面の神父 47

 大戦終結後、十数年。 
 世界中で漂う憎悪の念や血脂が放つ悪臭を前に、各国の法政やら個々の理性やらが未だ混迷していた時世。
 片親の不義や人格を無視した性暴力が原因で、父母とされる二人の外見的特徴を受け継がない子供はそれほど珍しくなかった。
 しかし、血の繋がりは確かでありながら親類縁者の誰とも異なる左右非対称の目色を持つ子供は、時代を問わず、世界的に見ても極めて稀だ。
 あまりの稀少さ故に一部の好事家達の間では、一度でも彼らと顔を合わせる機会があれば、その後は生涯を閉じる瞬間まで夢としか思えない幸福に満たされるか、はたまた筆舌に尽くし難い災厄に見舞われ続けるだろうと囁かれていた。
 そうした「事象に関して明確な根拠が一つも提示されていない」「実像が曖昧な」所伝からも分かる通り、彼らには血統による特徴の継承や、それに基づく独自の共同体……一族と呼べる性質が無く、また、「虹彩異色『症』」と呼称されつつも、目の色が左右で違う他に共通する特異性等は殆ど見当たらず、時には両目共血縁とかけ離れた色になる原因も判っていない事から、医学・生物学の見解上『病』というより『突然変異』に分類されている。
 当然、彼らと親交を結んだ人間も数は少なく、世界各地であらゆる情報を掻き集めて共有する各国の外交官や商人や語り部達でさえ、時折偶然耳に入る各地元民の密やかな噂程度でしか存在を把握できないのが実状だ。
 だからこそ。
 ただでさえ珍しい少女の双眸は、自らの行いが引き起こした惨劇の証として、ハウィスの脳にこれ以上無いほどくっきりと焼き付いていた。
 歳を重ね、やがて自分や周囲に関する記憶が掠れ消えてしまっても、()の少女の容姿だけは絶対に忘れたりしないと断言できる……そんなハウィスにとって、目に限らず髪や肌までもが少女と全く同じ色合いを有するアルフィンは、まさしく『罪悪と恐怖の象徴』だった。
 幼子らしい真っ直ぐな眼差しが、いつ何時(なんどき)嘲笑の形へと豹変し、「どうして私があんな目に遭わなきゃいけなかったの? 人殺しのお前は、今でも誰かに護られてぬくぬくと生きているくせに」と詰ってくるか。考えるだけでゾッとした。
 勿論、アルフィン自身にハウィスを責める意図は欠片も無い。
 彼女はただ単に、弱り切った姿で寝込む女性を心配してるだけ。
 それはハウィスにも伝わっていた。解ってはいる、けど。
 彼女の裏が無い思い遣りは理解していても、少女に酷似した虹彩と顔立ちが「何処へ逃げても無駄だ。お前だけは絶対に赦さない。際限が無い痛みと苦しみを思い知れ」と告げているようで、どうしても直視できないのだ。
 彼女(アルフィン)と同じ家で同じ時間を過ごしてほしいというティルティアの願いは、とてもじゃないが受け入れられるものではなかった。
 涙に濡れた両目を見開き、ぎこちなく頭を振って拒絶を示すハウィス。
 だが、ティルティアは眉尻を下げ、「今は答えなくて良い」と苦笑いを返した。
 「とりあえず、今日は私の考えを伝えておきたかっただけ。貴女が自力で歩けるくらいになったら、改めて話を聴いて頂戴。貴女一人の問題ではないし、よく考えてから結論を出してほしいの」
 父親は、予期せぬ海難で命を落とす危険と常に隣り合わせな遠海漁師。母親は病に侵され、これから先は家事も育児も儘ならなくなる。
 確かに、幼い子供の恙無(つつがな)い成長を願うなら、ずっと傍に居てあげられる存在の確保は急務だろう。
 が、アルフィンに対して恐怖を抱いている以上、どれだけ考えても此方が出せる答えは一つしかない。
 それでなくても自分は、殺してしまった少女に似ているだけの無関係な女の子を避けたがる酷い人間だ。よりによって避けようとしていた女の子本人の将来を預けられても困る。何を思って自分を選んだのかは知らないが、頼むから他を当たってくれ……と、はっきり断りたかった。
 でも。
 「できれば、貴女を含むみんなに、幸せでいてもらいたんだけどね」
 嫌だ の一言も満足に操れないハウィスを残し、母娘は部屋を、家を出て行ってしまった。
 そして。
 娘を抱えて優しく微笑む母親の姿を見たのは、その日が最後だった。
 話なんか聴きたくない。回復した後にアルフィンを預からなきゃいけないのなら、いっそこのまま殺してくれ。
 目蓋の奥で少女の笑い声に謝りながら、閉じた窓を叩き付ける雨粒の気配に安堵を覚え。暖かな陽射しと穏やかな潮騒、海鳥の軽快な鳴き声に怯えた数ヵ月を経て、喉を傷めない声と屋内を自由に動き回れる体力を取り戻し。ぱたりと途絶えた母娘の訪れに、疑問と僅かな不安を感じ始めた頃。彼は突然現れた。
 「……ふーん? 一応の学習能力はあるのか。なら、手間暇掛けて連れて来た甲斐があったな」
 首筋で括られた、肩に掛かる長さの硬質な金髪。瑞々しい若葉を連想させる緑色のつり目。一般民が着用するには堅苦しく仰々しい装い。十人並みな十代後半の少年らしい顔立ちと、親しみやすい口調に反した重厚な威圧感。
 ハウィスは一目で彼を「敵だ」と認識し、ベッドの上で上体を起こして身構えた。
 同時に「手を出してはいけない相手だ」とも判断し、膨れ上がった敵意を必死で抑え込む。
 武力行使で敵うかどうか。その点に限れば、恐らく回復直後の自分でも勝てる。彼の背後に立つ騎士二人を手数に含めるなら、余裕で……とは言えないが。少なくとも負けたりはしない。彼らは未熟の域を出ていない。
 けれど、「勝ってはいけない」のだ。
 一般民ですらない自分が彼らを害すれば、彼らと一般民との間に位置する者達全員に波が立つ。一度立った波は人々の間で反復して岩壁を削る荒波となり、階級の枠を越え、やがてはアルスエルナ王国の根底をも覆してしまうだろう。濁流の犠牲者は常に、弱い者から順に生まれる。元は貴族の末端だったであろう、あの少女のように。
 犠牲者を増やしたくないなら、どんなに憎く思っていても、支配層(かれら)に刃を向けてはいけない。
 苦しむ者達を救う力なんて自分には無いと思い知らされたハウィスは、布団を強く握り、唇を噛み締め、眼光鋭く彼らを睨み付けるしかできなかった。
 そんな態度が気に入ったのか、アルスエルナ王国第二王子・ソレスタ=エルーラン=ド=アルスヴァリエと名乗った彼は、満面の笑みを浮かべてベッドの横へ歩み寄り、警戒心顕わなハウィスの頭頂部に ぽん と、手のひらを乗せた。
 一瞬、何が起きたのか解らなかった。
 髪を擦る音と、頭皮を刺激する他人の熱を感じて(ようや)く、頭を撫でられていると気付く。
 何のつもりかと訊けば、彼は「褒めてる」と答えて、笑みを一層深めた。
 「お前達は方法こそ極端に間違えていたが、諦めだけは受け入れなかった。自身の危険を顧みず、一般民の窮状をどうにかしたいと声を上げ続け、自身の過ちに気付くまでは決して行動を止めなかった。その意志は尊ばれるべきものだ」
 ふざけるな! 誰の所為で皆が苦しんでると思ってるんだ!
 などと叫ぼうとしても、開いた唇が……体の芯が震えて、声にならなかった。
 彼に向けた怒りは総て自分自身に跳ね返ってくることを、ハウィスは既に知っている。
 「見聞きしてきた限りじゃ、何処の世界でも勘違いしてる奴のほうが圧倒的に多いんだが……高権ってのは本来、「治者が自らに与えられた役割を果たす為の」道具に過ぎないんだ。断じて「他人の意思を捩じ伏せる為の」圧力じゃあない。王族や貴族の方針にどうしても納得できない部分や聞き入れてほしい意見があるなら、地面に向かってぶつくさ文句を連ねてないで、まずは批判や意見の根拠となる政策や事情を複数人で細部に亘って検証し、己とは違う立場の者達とも話し合いを重ね、問題点を明確にした上で代替案や修正案を構築し、それらが実施された場合の具体的な将来像と、提出案の形成に用いた材料まで全部纏め切った文書なり言葉なりを、交渉相手が無視できない舞台を作り上げてから公表し、近隣領民又は全国民に対して是非を問うべきなんだ。結果「好ましい」と判断されれば、例え相手が国王陛下であっても無下には扱えないのだから。だというのに、一般民の多くは段階を踏もうともせず、すげなく断られる度に何をしても無駄だと諦めて立ち止まり、権力の暴走に怯え、思い通りに生きられない苛立ちをより弱い者にぶつけ、総ては横暴な支配層が悪いと自己完結した。……妄想や愚痴や陰口でしかないモノをせっせと政策に取り入れてやれるヒマな執政者なんぞ、アルスエルナの何処にも居ないんだけどな。どうもそういうトコが今以て理解されてないらしい」
 「……っ其処までしても……! 強権で握り潰されるか、頑として耳に入れてくれなかった前例が、山ほどあるから、でしょう……っ!」
 「だから、相手が無視できない舞台を作り上げてから公表しろと言っている。一般民の大多数が失敗する原因は、毎回この辺にあるんだよ。交渉相手に匹敵する有力な人物・組織を後ろ楯に得る事、時期が来るまでは囮情報を作成・活用して最重要項目の秘匿に勉める事、最も効果的な公開時期を見極める事、立会人の半数以上に受け入れたほうが良いと思わせる状況を作り、受け入れる側にもそれなりの旨みを与え、力量に偏りが無い対話を周りに印象付けて、好いとこ取りしたがる第三者の介入を阻む事。これらは取引の成立に欠かせない、双方に必要な、最低限の自己防衛手段だ。考えてもみろ。王侯貴族や保安職業従事者の言動は、国内外の四方八方から四六時中、公も私も無く気持ち悪いくらい(つぶさ)に観察されてるんだぞ? 「その筋の大物に懇懇と説得されました……」なら高度な話し合いでの決定と見做されても、「一般民がああしてくれ・こうしてくれと言うので運営方法を変えてみましたぁー」じゃ、専門職の面目が丸潰れだろうが。「アルスエルナの王侯貴族は下の人間をちょいと突けば簡単に操れるぞ」と揚げ足を取りたがる連中を牽制する意味でも、不完全な交渉材料をテーブルに乗せない姿勢を貫くのは至極当然だ。お前達、自身の意見を声高に主張した時とか反映された後に出るであろう周囲の影響(へんか)を、それらへの対処方法を、真剣に考えていたか? 誰もがそれぞれ違う生き方で各々の役目と負担を背負っている中、お前達自身の不満が解消されれば世界中の人間が幸せになるとでも? そういうのを「思い上がりも(はなは)だしい」と言うんじゃないのか」
 「…………っ」
 声を上げれば良いというものではない。訴えれば要求が通ると思うのは大間違いだ。力技でごり押しなんぞ言語道断。相手が何者であれ、刃を向ければ倍の数の刃が返ってくるだけ。どんな大義名分を掲げようと、振り上げた拳が辿り着く先には双方の不毛な疲弊、蜜に群がる虫達の略奪合戦しかないと、無数の歴史書が雄弁に物語っている。
 ならば、どうするべきか。
 自分と相手の立場や持ち札を頭に叩き込み、周囲の思惑に気を配りながら自分と相手の最善手と悪手を擦り合わせて妥協点を探り、相手にとって魅力ある花を持たせつつ、自分側に肝要な「応」をさりげなく引き出せ。内政を預かると同時に他国の賢しい治者とも渡り合わなければいけない執政者達に声を届かせたいなら、彼らと同等の腹芸程度は熟してみせろ。
 「私達は万能じゃない。幾万幾億の民が暮らすアルスエルナ王国を護る義務と制約の中で、都度都度最善と思われる将来像を選択していくしかないんだ。そして、可能性をより良く実現するには民の協力が要る。アルスエルナの鎧を纏っている自覚を持った「お前達の」協力がな」
 「!?」
 ふと真顔になった彼がベッドの端に座り、驚きで僅かに引いたハウィスの頭を胸に抱え、後頭部を撫でた。
 「一面的な物の見方に囚われ、衝動に駆られて安易な手法を選んだ点は擁護しない。義賊の犠牲になった者達に関しては、お前達自身が一生抱えていけ。だが、どうにかしようと足掻き続けたお前達の、諦めなかった強さを。諦められなかった弱さを。自分ではない誰かを思い遣る声を。私は受け止め、評価する」

 今まで よく 頑張ったな。
 
 ……何を、莫迦な。
 貴族の特権に、家長も僅かな蓄えも全部毟り取られ、離散してしまった一般家庭がどれほどあったか。
 食料を得られず、小動物よりも小さな体のまま死んでいった子供がどれだけいたか。
 浮浪者の自分でさえ気付けたのに、国を統括する王族が見抜けなかったなんて、ありえない。
 武器を作る名目で調理器具まで徴収していく横暴な軍人達を。見目が良い女子供を連れ去り貪る金持ち達を。助けを求めて流れる血や涙を。その総てを止められる力が有りながら、今日に至るまで見ない振りで放置し続けてきたくせに。
 何が評価するだ。何がよく頑張っただ。
 そんな台詞を吐く資格、貴方には無い!!
 そう、言い返したかった。
 『王族がもっとちゃんと貴族を監督していれば、両親とあの子供は殺されたりしなかった! 他の子供達も、余計な苦しみを知らずにいられた! 私達だって、誰一人殺さずに済んでた筈だ!』と。
 なのに
 「……助けられ……なかった……」
 食い縛った歯の隙間から溢れたのは、権力者への憎しみでも、八つ当たり染みた恨み言でもなかった。
 「どうしてっ……! どうして、助けられなかったの!? どうしてっ!!」
 愚かで無力な自分への憤り。理不尽な世界に放つ慟哭。
 堪え切れなかった涙が次から次へと球になり、彼の衣服を滑り落ちていく。
 「助けたかった! 護りたかったのよ!! マーシャルも誰も、もう苦しまないようにって!! 生きたいと願う皆が、皆で生きていけるようにって!!」
 「ああ」
 「なのに、どうして! どうして私が、あんな……っ」
 あんな、細く頼りない体の少女を、死なせてしまった。
 自分の手で、最悪の状況に追い込んで。
 殺してしまった。
 「……助けたかったの、にっ……!」
 「……ああ」
 頭を抱える腕に力が籠った。頭上で眉を寄せる気配がした。それだけで、彼にも彼なりの怒りや葛藤があったのだと気付く。助けたくても助けられなかったんだと。人の上に立つ王族だからこそ、どうしようもない事があるのだと。
 ……いや、違う。
 本当は、彼に諭されるまでもなく最初から解ってはいたのだ。
 ただ、認めたくなかっただけ。
 持っている者は、持たざる者に等しく無償で手を差し伸べるべきだと。それが義務だろうと。そんな風に心の何処かで根付いていた甘えと怠慢を。生まれた瞬間に何もかもを与えられ、無条件で護られているように見える者達への、羨望と僻みを。自分自身の弱さと醜さを、認めたくなかっただけ。
 けれど、権勢を振るう王侯貴族だって所詮は人間で。
 人間には必ず限界がある。
 それこそ、助けられる命の数にも。
 「くやしい……」
 自身は失敗を恐れて努力や助力を惜しみ、重い腰を上げても旗色が悪くなればあっさり逃げ出すクセに、他者には良い結果ばかり要求する事を、人は「無責任」と名付けていた筈だ。
 責任逃れ前提で好き勝手に暴れ回っていただけの自分が、いったい誰を救えると思っていたのか。
 「くやしい……っ くやしい!!」
 閉じた扉の内側に佇む騎士二人もきっと、彼と似たような想いでいたのだろう。年若い背中に腕を回して綺麗な布地にぐしゃりと深い皺を刻み付けるハウィスを、物言いたげな顔で一瞥しても、咎めたりはしなかった。

 数日後。
 意識を取り戻してからは一度も会わなかったブルーローズの仲間十二人が、軍属騎士としてエルーラン王子の指揮下に入ったと事後報告にやって来た。
 権力者を嫌う彼らの決断にも驚いたが、何より耳を疑ったのは、マーシャルの「クナート達と一緒にバーデルへ移住する」という言葉だ。
 「もう止めて、マーシャル! これ以上、貴女が傷付く必要なんて無いのよ! エルーラン王子が言う通り、貴女は一般民に戻って……」
 「甘いこと言わないで! あの王子が、意味も無く無償で義賊(てき)を助けると思う!? 姉さんも本当は気付いてるんでしょう? 生きてこの国に居る限り、私達は互いにとっての人質にされるんだって! 私は、姉さんを権力者の操り人形なんかにさせたくないし、姉さんを利用する為の道具になんて絶対なりたくないの!」
 エルーラン王子はまだ、政界に顔を出したばかりの新人領主だった。
 多少の実務は学徒時代から経験していたものの、各国要人の目に留まるような大きな功績は「わざと」残してこなかった為、各方面で青二才と侮られているらしい。リアメルティ領を正式に継いだ後も前領主を代理として立てていたのは、居を構えている王都と領地が離れているから……だけではなく、貴族間の勢力図を上書きするには時期が早いと判断したからだという。
 右も左も分からない無力な王子を装って権力者共を欺き、学び舎の外で世界情勢を見極める傍ら、自らの足場を固める目的で騎士団以外の固有戦力を探し求める余裕を得ていた。
 自然消滅寸前の孤児集団(ブルーローズ)を丸ごと拾い、ハウィスを助けてやる。その代わり、他の者は当面の間素性を隠してネアウィック村で仮労働してろと提案したのも、南方領各地の貴族を長年翻弄し続けた実力を傘下に置きたいと考えたからだ。
 そう、彼本人が臆面もなくハウィスに告白した真相の数々を思うと、マーシャルの警戒は「ご尤も」と言わざるを得ない。
 「だからってっ!」
 「お願いよ、姉さん。少しだけ待ってて。私がもっともっと強くなって、貴女を王子の鳥籠から解き放ってあげる。貴女を哀しませるもの全部、貴女の周りから消し去ってあげるから!」
 「マーシャル……!」
 違う。そんなこと、私は望んでない。行かないでと何度も何度も訴えたが、結局マーシャル達は村を出て行ってしまった。
 クナート達男性陣は心も体も強い。エルーラン王子も認めた彼らの力は、国外でもしっかり通用するだろう。
 でも、マーシャルは違う。バーデルへ送る偵察部隊にマーシャルは含まれてなかった。クナート達に付いて行くと決めたのは彼女の一存だ。国外で身を護ってくれる物は、王子が用意した身分証明と渡国許可証だけ。クナート達が必ず護ってやると言い切ったが、バーデルはアルスエルナを敵視する国の筆頭だ。敗戦の影響でアルスエルナ以上に治安が悪いとも聞く。ほんの少しの油断で、また酷い目に遭って壊れたりはしないか。今度こそ喪うのではないかと、気が気でない。
 一緒に行けたらどんなに良かったか。鞘に収まっている短剣を手に取ろうとするだけで猛烈な吐き気に襲われ気絶しそうになる自分が、どうしようもなく情けなくて、腹立たしくて、煩わしかった。
 「私は……何処まで……っ」
 苦悩を抱えても時間は無情に進み、それまで村民に扮して世話をしてくれていた第二騎士団所属の女性騎士達も各々の「日常(ぎそう)生活(にんむ)」へ戻り、エルーラン王子が私生活用に買い取っていた一軒家には、ハウィスとエルーラン王子と騎士二人が残った。
 彼らも予定通りの視察を終えて、そろそろ王都へ引き返すかと準備を始め……不意に首を傾げる。
 「そういやお前、あの子供と何かあったのか?」
 「子供?」
 「……気付いてなかったのか。私達が村に着く少し前から、毎日この家の様子を窺ってる子供がいるんだよ。雨の日にも一人でヨタヨタ歩いて来るもんだから、お前を世話してた奴らが気にしててな。家に上げようとしても、敷地の手前でお前が無事かどうかだけ尋いて直ぐに帰る……を、繰り返してたんだと。養父が捜しに来るか、こっちが家まで送り届けるかは、その時の状況次第らしいけど」
 「なっ!?」
 アルフィンだ。アルフィンが来ていた。雨の日にも……「一人で」? 五歳にも満たない小さな子供が、たった一人で雨の中を出歩いていたと?
 ありえない。ティルティアがそんな危ない真似を許す筈がない。あの母娘に何があった? それに、と唇を動かしかけて
 「アルフィン、だっけ。金髪で色違いの目。あれは珍しいよな。アルスエルナ国内だと、自殺したウェミアを合わせても、歴史上四人目か五人目くらいじゃないか? ウェミアの場合、政略結婚を機に貴族籍から外されるまでは、幸福の兆しとかなんとか言って実家にも勤め先にも重宝されてたって話だが……南西部(こっち)じゃ虹彩異色症(アルフィン)が生まれても何処吹く風なんかねぇ。東北部に比べると随分静かなモンだ」
 呼吸が、止まった。
 自殺した少女の大まかな生い立ちは聞かされていたが、結婚の話は初耳だ。
 あの少女が、既婚者? なら、夫は何処へ消えた? 職と同時に貴族籍を失くした……ブルーローズの所為で辞めさせられた後に配偶者を得たのなら、少なくとも経済面での救いはあった筈。あんな薄着姿で自殺するほど追い詰められていた「本当の」理由は何だ?
 まさか……
 「ウェミアも右目が青で左目が紫……って、おわ!? なんだぁ!?」
 二人分のお茶が置かれたテーブルをバンッと叩いて立ち上がり、驚くエルーラン王子を放置して家の外へ飛び出す。
 動けるようになって初めて直に見るネアウィック村はとても広く青く、眩しかった。一瞬立ちくらみを起こしかけたが、構わず敷地の外へ走った。
 通り掛かりの村民を適当に捕まえ、確かめたい事を全部訊き、目的地へ直行する。
 「……ああ……元気になったのね。良かったわ」
 其処に居たのは、まるでハウィスと入れ替わったかのように痩せ細った姿でベッドに横たわるティルティア。
 突然の来客に頭だけを動かして応じる彼女は、誰がどう見ても……末期だった。
 「知ってたの?」
 何を、とは言わないハウィスに微笑んだティルティアは、ハウィスを家に招き入れたアルフィンに、二人で話したいから室外で待っていてと言い含めた。
 文句も言わず、素直に部屋を出て扉を閉めるアルフィン。
 「……あの子を連れて来た人が、産みの母親はとても珍しい目をしていたって教えてくれたから。街の真ん中で自殺した女の子の噂を聴いた時、多分そうじゃないかなって思ってたの。後々になって、明らかに訳アリな移住民達(あなたたち)も来たし。あ、これは関係ありそうかな、って。ただの直感よ。でも、間違ってなかったのね」
 「だったら尚更、私に預けるのはおかしいでしょう。私は」
 アルフィンの、本当の母親を、殺した。
 そもそも、貴族の少女に望まぬ命を押し付ける切っ掛けを作ったのも自分だ。ブルーローズの罪は、目に見えなかった所にも及んでいる。
 「だからこそよ。貴女は償うべきだわ」
 「誰一人助けられなかった盗人が、何を償えると言うの!?」
 「失われた未来を」
 ハウィスの軽挙が原因で、貴族生まれのウェミアは立場も仕事も家族も未来も失った。
 ウェミアの娘・アルフィンは、肉親に憎まれ疎まれ金で売り払われ、遠くの地で赤の他人に育てられた。せめてもの救いは、養父母が惜しみない愛情を注いでくれたこと。
 しかしその愛情も、今再び欠けようとしている。
 義母の病死がアルフィンの心に残す影響は……計り知れない。
 「あの子を生かして。決して、悲しい思いだけはさせないで」
 「……無理よ。私はあの子の顔さえまともに見られないの。一緒に居ても、あの子が傷付くだけだわ」
 「いきなりじゃなくて良い。ゆっくりで良いの。ちょっとずつ距離を縮めて、踏み込めないとしても離れていかないで。常に近くで見守っていて。そしていつか、あの子に……アルフィンに、本来の笑顔を返してあげて。それが貴方達への罰で、死に行く母親(わたし)の願いよ。叶えてくれるでしょう? ブルーローズのハウィス。だって」
 義賊は、弱きを助けてくれる人達、だものね?
 悪戯っぽく笑うティルティアに、ハウィスは目を丸め
 「……酷い人。そんな風に言われたら……逃げようがないじゃない……」
 苦笑いと涙を一粒、静まり返った室内にポトリと落とした。

 結果を言えば、ティルティアの願いは叶えられなかった。
 王都へ帰る直前のエルーラン王子に「働かざる者食うべからず」と酒場での給仕職を勧められ、村に潜む第三王子と騎士団員の協力で料理を覚え、一人暮らしにも少しずつ馴染み。
 ティルティア亡き後は、彼女が望んだ通りアルフィンの生活をできる範囲で支えようと、交わす言葉は少ないながらも怯える心を押し隠して家事全般を預かり、やがてグレンデル宅の合鍵を託されるまでにはなった。
 しかし、エルーラン王子から管理を任された家と職場、グレンデル宅を行き来する毎日は、他ならぬアルフィンの強い要望で終わりを迎える。
 「私は大丈夫です。村の人たちやハウィスさんにいろいろ教わりましたし、自分のことは自分でできるようになりたいんです。だから、ハウィスさんはハウィスさんのために時間を使ってください」
 自身が養子だった事、ハウィスが自身を恐れている事を、アルフィンは既に知っていたのだ。もしかしたら、ティルティアとの会話を扉越しに聴いていたのかも知れない。其処らの大人よりも余程規則正しく丁寧な生活を実践して見せつける女の子には、痛々しいほどの気遣いが垣間見えた。
 アルフィン自身が手助けを断った。なら、もう良いだろう。幼さ故に多少の不安はあるが、時折家を空けるとはいえ父親も村の人達も居るんだし、自分が家政婦代わりを続ける理由は無い。
 何かあったら呼んでと言ってグレンデル宅の鍵は預かったまま、買い出しや料理の下拵えなど酒場での仕事を増やしてもらい、意味も無くネアウィック村の周辺を彷徨き、強めのお酒を飲んで深く眠る時間も増やし、グレンデル宅へ足を向ける回数も次第に減っていき……

 心が、凍っていく。
 誰もいない。何も無い。
 母親を亡くしたばかりの子供に気を遣わせて、優しかった人の願い一つも叶えられず、与えられた罰も、アルフィンの気持ちを利用して体よく手放した。
 自分はいったい、何をしてるのか。
 どうして生きているのか。
 どうして生かされているのか。
 (……静かだ……)
 海の彼方をじっと見つめ続ける小さな背中が、何故か黒く染まっていく。波音や鳥の声がどんどん遠ざかり、暖かさも冷たさも、肌を撫でる風の感触さえも消え去って。
 (ああ、そうか……。これは……)
 最後に残った思考は
 (……凪……、だ……)
 少女の歌も謝罪の言葉も響かない、底無しの暗闇に堕ちて……溶けた。
 
 
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