逆さの砂時計
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Side Story
少女怪盗と仮面の神父 46
「貴女が直接関わった人は全員無事よ。大なり小なり負傷してはいるけど、アルスエルナ国内に関しては、ほぼすべて、殿下の想定通りに収まったわ」
母子で一頻り泣き喚いて、落ち着きを取り戻した後。
ベッドの上で枕に腰を預けて座り直し、改めて騒動の顛末を尋ねる娘に、同じく椅子に姿勢良く座り直した義母はそう答えた。
見知った顔に、怪我人はいても死亡者はいない。
なら、村の人達や自警団、マーシャルやアルフィンや、元ブルーローズの構成員達、エルーラン王子やベルヘンス卿や第三騎士団も。
みんな、生きてはいるのか。
…………イオーネも。
一瞬、安堵の息を漏らしかけ。
首を振って押し留める。
「想定外も、あったんだね」
「……ええ」
相手は本物の人殺し集団だ。
対する騎士達がいくら常人より鍛えているとは言っても、暗闇での制圧は容易じゃなかっただろう。死者が複数人出ていてもおかしくはない。
現在、母子が生きて、この部屋で言葉を交わしている事実でさえ、本当は奇跡に近いんじゃないかと思える。
そんな状況を作り出すきっかけとなった張本人が、知ってる人達だけでも生きてて良かった、なんて、軽々しく思って良いわけがない。
自分の我がままに巻き込まれて亡くなった人達にだって、きっと、大切な家族や恋人や友人がいた。
ミートリッテは無自覚なまま、今日も明日も交わされてた筈のたくさんの笑顔を奪い、壊してしまったのだ。
失われたものは、もう二度と、取り戻せない。
怒り、悲しみ、罪悪感。
この期に及んでもまだ湧き上がる醜い言い訳、くり返す自己嫌悪。
様々な感情が胸中を占めて渦を巻く。
背後から怨嗟の声が迫り、足下がガラガラと崩れ堕ちていく錯覚。
咄嗟にうつむいて下唇を噛み、膝に掛けた薄い布団を握りしめると
「アリア信仰への入信……ミートリッテにとっては、不本意なのよね?」
掠れた声が耳を打ち、ミートリッテの意識を急浮上させた。
「もちろん、私だって嫌よ。大切な愛娘を権力の近く、危険な場所になんて置きたくない。今だって、本当は行かせたくないわ。止められるものなら、なんとしても止めたいと思う。でも、ほんの少しだけ、期待してもいるの。アルフィンを友達だと思ってくれる貴女なら……イオーネを生かそうとした貴女なら、理不尽で穢れているこの世界を導いてくれるかもしれないって。貴女なら救えるかもしれない、って」
「……ハウィ、ス ?」
何を言っているのかと顔を上げ。
自分をまっすぐ見据える群青色の目に宿った気迫を捉えて、言葉を失う。
「だから私が知る限りのすべてを話すわ。聞くに堪えない内容でも、どうか目を逸らさず、耳を塞がずに受け止めて欲しい。そしてこれから先のことを考える判断材料として噛み締めて欲しい。すごく、勝手な願いだけど」
大きく息を吸い込み、吐いて、また吸い込んで。
呼吸と気持ちを整えてから、ハウィスは教えてくれた。
約二十五年前の開戦以降、彼女が見聞きしてきたこと、感じたこと。
そのすべてを。
一介の町民だったハウィスとマーシャルの両親は。
戦時中、アルスエルナ王国の貴族に殺されていた。
行軍の妨害が理由だと言われたが。
姉妹の両親は、歩兵が突き飛ばした怪我人を助け起こそうとしただけだ。
行軍の将たる貴族は、国防上の重大任務を帯びて先を急いでいたらしい。
戦争とは時間と判断の競争でもある。作戦中に一分でも遅れが生じれば、一手でもタイミングを誤れば、一瞬後に数百・数千の命が奪われる時代。
遮るものがあれば、突き破るより他になかったのかも知れない。
けれど。
杖を使ってやっと歩けた片足の子供に剣を振り下ろして去った背中を。
物言わぬ肉塊と化した両親にすがりついて泣き叫ぶマーシャルの姿を。
貴族に逆らったと思われたくなくて我関せずと散った町民の冷めた目を。
そこに抱いた負の感情を。
十年以上が経った現代でも、ハウィスは鮮明に覚えている。
保護者を喪ったことで、住処まで失くし。
一日を凌ぐにも、壮絶な苦労を強いられるようになった浮浪児の姉妹は、戦乱の世を生き抜く為に、それぞれの手で武器を握った。
石礫が、木の棒に。木の棒から、錆びた包丁へ。
殺傷能力を徐々に向上させながら、同時に狩りや盗みの腕も磨いていく。
両親を斬った凶器と同じ類いの長剣を手に入れた頃には、姉妹の行く手を阻める者などいないと豪語できる程度には成長していた。
二人が揃えばどこへだって行けるねと、無邪気に笑い合えた。
それも、終戦が宣告される数か月前……
マーシャルが複数の男に暴行されるまでの話だが。
男達の暴虐に理由なんてなかった。
あるとすれば、マーシャルが視界の内側に居たからだ。
女の形をした生き物が、そこに一人で立っていたから。
男の形をした生き物達が、蓄積した自身の鬱憤を晴らす為に。
女の形の生き物を、塵箱のように利用した。
それだけのこと。
必死だった。前後の記憶が曖昧になるほど、無我夢中だった。
振り下ろし、薙ぎ払い、突き刺し、斬り刻み、断ち切り、跳ね飛ばす。
男の形の生き物が、原形を失って呼吸を止めてもなお、ハウィスは声とも言えない叫びを放ち、剣を掲げ、そこに居た自分とマーシャル以外の人間を全滅させた。
そうやって助け出したマーシャルは、心が壊れていた。
少女の時分よりもずっと幼い子供の如く振る舞い。
死んだと知っている筈の両親を大声で捜し回り。
虫も寝静まる深夜に突然泣き、突然怒り、突然気を失ったりもする。
言葉すらまともに紡げないマーシャルは、それだけでハウィスに無力感を植えつけ、深く傷付けた。
雨宿りも満足にできない廃屋で「あぅあー」「まーう」「とーあ」と。
最早何が言いたいのかさえ解らない妹を持て余す日々。
一時でも手を離さなければ、二人分の食料は決して獲れない。
だが、食べ物を探す為に別れたわずかな時間で壊されてしまった妹の心を思うと、再び一人にするのは心底恐ろしい。
そんな葛藤を続けていれば当然、姉妹は日に日に痩せ衰えていく。
──もういっそ、二人で抱き合ったまま死んでしまおうか──
腕の中でむずかる妹の髪をさも愛しいものに触れる手つきで撫でながら、そんな考えが無感情に過ぎり始めた頃だ。
子供が三人、兵士らしき大人二人に追いかけられて、廃屋にやってきた。
どうやら、度重なる盗みがバレて殺されそうになっているらしかった。
その子供三人と姉妹は、間違いなく初対面だったが。
双方のみすぼらしい格好のせいで仲間に見えたのだろう。
大人達は、大人しく座っていただけの姉妹にも、断罪の矛先を向けた。
次の瞬間、大人達は死んだ。
ハウィスが大人達から剣を奪い取り。
それぞれの刃で、大人二人の心臓を的確に貫いたのだ。
子供三人は何が起きたのかが理解できず、茫然と立ち尽くす。
しかし、一番茫然としていたのは、ハウィス自身だった。
死んでも良いと思い始めていたのに何故、と。
人を突き殺した両手と、首を傾げて自分を見上げる妹の目を見比べて。
そうして初めて、自分が動いた理由に気付く。
理不尽だからだ。
何故、妹ばかりがこんな目に遭う。
何故、幼い子供ばかりが、殺されなければならない。
何故、生きたいとただそれだけを願い必死で足掻く者の邪魔をするんだ。
何故。
何故。
何故。
何故、何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故‼︎
…………ああ、そうか。戦争が悪いんだ。
戦う奴が悪い。戦う理由を作る奴らが悪い!
戦いを容認する、すべての人間が悪い‼︎
大人二人がピクリとも動かないと気付いて、ようやく状況を飲み込み。
直視してしまった死への恐怖で慄き出した子供三人に。
ハウィスは硬い表情のままで告げる。
こんな世界は間違ってる。
こんな人間達の為に私達が犠牲になるなんて、絶対に間違ってる。
だから、一緒に行こう。一緒に生きようと。
その時の三人は走って逃げたけれど。
嫌悪と憎悪と憤怒を糧に立ち上がったハウィスに、迷いは残らなかった。
妹が深く眠っている時を見計らって、適当な密室に閉じ込めた後。
憎く思う貴族の屋敷ばかりを襲撃し、護衛達と対等に渡り合い。
狙った獲物は確実に奪い去る。
腕利きの盗賊となったハウィスの噂は、瞬く間に南方領の各界……
特に、庶民よりも下の層では、好意的に幅広く拡がった。
ある孤児は、ハウィスの強さに魅せられて。
ある孤児は、金持ち達の悔しがる顔見たさに。
ある孤児は、単純に生きたいと願って。
様々な思惑を持つ、様々な境遇の子供達が。
武器を片手にハウィスの下へと集う。
かつては逃げ出した三人も、ハウィスの尋常ではない強さを恐れながら、それでも生きられる可能性に賭けて戻ってきた。
そうして姉妹と直接顔を合わせて、ハウィスの剣技を見届けた者達は。
誰一人の例外もなく、同じ感想を呟く。
『青薔薇の姉妹』だと。
二人が三人に。三人が四人に。
最終的に十四人が揃った孤児の一団は、姉妹の虹彩の色を冠した劇場型の怪盗集団『ブルーローズ』を本格的に始動させる。
が。
最初の問題は、集団の内部で発生した。
マーシャルが、ハウィスの次に強いクナートと密通していたのだ。
しかも、よくよく聴けばクナートだけではない。
ハウィスと他一人を除く、仲間全員と肉体関係を持っていた。
いずれもマーシャルから持ちかけられた話だと聴かされ。
ハウィスはかつてないほど激怒した。
そんな筈はない、あの子にそんな意識は残っていないのだから、と。
悪びれる様子もないクナート達に問答無用で斬りかかるハウィス。
彼女の刃を食い止めたのは、いつの間にか年相応に近く少女らしい言動を取り戻していた、マーシャル本人だった。
これ以上、姉さんに頼って生きたくない。
だから、私をブルーローズの仲間に入れて。
私を荷物扱いしないで。
私はもう、姉さんとだって肩を並べて戦える!
実際、マーシャルはその場でハウィスと剣を交え、勝利した。
ハウィスの虚を衝いたからでもあるが。
クナート達が剣の扱いを密かに仕込み直していたことも大きい。
結局ハウィスがどれだけ怒り、どれだけ泣き、どれだけ説得を試みても、マーシャルは頑として退かなかった。
二番目に強いクナートよりも近くで姉を護るんだと。
自分の力で、自分の足で、懸命に走り続けた。
姉には、妹が生きようとする姿を否定できない。
決して良い顔はしなかったが、うち捨てられた人形みたいに虚ろう瞳や、年不相応に幼い異常な言動を、誰よりも長く、近くで見てきたからこそ。
妹が見せつける強い意志を、拒み切れなかった。
表舞台で華やかに活躍する十三人の覆面義賊は。
こうして、知らぬ間に罪を重ねていった。
ハウィスに石を投げ、高らかに笑いながら、自らの手で首を掻き切った、虹彩異色症の少女が現れるまで。
「英雄気取りで、他人の人生を狂わせて、持て囃されて。あんた達は、さぞ気分が良いのでしょうね」
街の中に一輪咲いた、深紅の大花。
勢いに強弱をつけながら絶え間なく溢れる鮮血の泉の中心に転がり落ちた少女の顔は……笑っていた。
愕然と立ち尽くすブルーローズを見上げ、頬を伝う涙を赤で汚しながら。
嗤っていた。
自警団や兵士の慌ただしい足音や声を聴いて正気に戻ったクナート達が、ブルーローズの塒へと無理矢理引きずって帰った後も。
ハウィスはしばらくの間、硬直していたらしい。
仲間の声も聴かず、肩を揺さぶってもまったく応じない。
瞬きすらしないハウィスに変化をもたらしたのは。
亡き少女に対する、マーシャルの怒声だった。
「他人に寄生するしか能が無いクセに、姉さんの邪魔をして……っ‼︎」
少女の身形は、明らかに一般民の普段着とは趣が異なっていた。
金持ちの異性にすり寄り、一夜の夢を売って対価を得ようとする。
そんな意図が含まれた薄衣装。
マーシャルの叫びは、少女と自分に重なるものを見つけてしまった故の、悲痛な怒りだ。
どうして、抗おうとしなかった?
どうして、他の道を探さなかった⁉︎
笑いながら自死できるほどの絶望を抱えるくらいなら、どうしてっ‼︎
マーシャルのそんな言外の悲しみを理解したからこそ。
ハウィスは気付く。
狂わせた。
つまり、少女のあの出で立ちは、本来あるべき姿ではない。
自らの力ではどうにもならなかった道を進んだ結果。
そうさせたのがブルーローズの行為、貴族の所有品強奪だとするなら。
自殺した少女の正体は……
罪悪の歯車が嚙み合った瞬間、今度はハウィスの心が壊れた。
生きようとしている。
立場は違えど、誰もがそれぞれの方法で必死に生きようとしていた。
誰かの邪魔をしたのは、ハウィスも同じ。
ハウィスの行動が、少女を死に追いやった。
ハウィスが。
少女を。
殺した。
こんなの、両親と片足の子供を殺した、あの貴族と同じじゃないか。
マーシャルの心を壊した、あの男達と同じだ。
連中がしたことと、自分がしたことで、いったい何が違う?
連中と自分の、どこが違う?
私は 自分勝手な 人殺しだ……っ‼︎
そこからの記憶は、大半が笑い顔で埋め尽くされている。
首から血を噴き出している少女が、笑いながら
『お前のせいで私は死んだ。私はお前に殺された』
と、何度も何度も歌う狂気の中で、ハウィスはひたすら謝り続けていた。
謝る以外には何も考えられず、何もできなかった。
しかし。
「……いたい?」
突然、少女の歌が言葉に変わり、熱を持つ指先が柔らかく額に触れた時。
ハウィスは驚きのあまり、飛び起きかけた。
そして、自分の頭の横にちょこんと座っている、小さな女の子の特徴的な虹彩を見て混乱し、困惑し、怯えた。
目の前で絶命した筈の少女が、何故か幼児の姿で、そこに居るのだ。
何も感じないほうがおかしい。
音にもならない悲鳴を上げて逃げ出そうと身動ぐハウィスを止めたのは、幼児を抱え上げて、にっこりと微笑む女性だった。
「不思議ね。貴女は、アルフィンに好かれているわ」
アルフィンが初対面の人に自分から手を伸ばしたのは、貴女が初めてよ。
私とグレンデルなんて、抱えるたびに大泣きされてたんだから。
うらやましいったらないわ。
ころころと軽い声で笑う女性にも驚き。
ますます恐慌の色を深めたハウィスだが。
「私はティルティア。この子は私の娘でアルフィンというの。ねえ。貴女、名前は何ていうの? 生まれは南方領? それとも中央領? 肌が白いし、北方領かしら。あ……でも確か、北方に住んでいたからって、肌が白いとは限らないのよね。雪焼けって言うんだっけ? 寒い地方で陽焼けするなんて意外よねぇ。そんな印象は全然ないのに」
ティルティアは、ハウィスの様子などお構いなしで話しかけてきた。
目を覚ました日も、次の日も、そのまた次の日も。
ハウィスの身の周りを世話してくれる人なら他にも居たのに。
何が楽しいというのか、ほとんど毎日ハウィスの世話と日常報告の為に、満面の笑顔を携えて現れる。
時々来ないと思えば雨の日で。
晴れた日には必ず、アルフィンと一緒に訪れた。
これは、罰……なのだろうか。
少女と同じ色合いの目を持つアルフィンを見るたびに、ハウィスの心臓はギリギリと嫌な音を立てて軋む。涙が溢れる。
酷い時は、目眩や意識混濁一歩手前の吐き気にも襲われる。なのに。
アルフィンは何も知らぬ顔で心配そうに「いたい?」と、ハウィスの額をそっと撫でるのだ。
堪らなかった。
逃げたくて逃げたくて仕方ない。
でも、瘦せ細った体は時間が経ってもなかなか意志を通してくれない。
喉が痛くて、声も出せない。
ならば少女が歌う悪夢に囚われていたほうがマシだと目蓋を閉ざしても、アルフィンの熱い指先が意識を揺り動かして、逃避させてもくれない。
ただ、涙だけがぼろぼろ、ぼろぼろと零れ落ちていく。
そんな、ゆるい真綿で首を絞められているような月日の中の、ある朝。
自身が病を患っていると前置いた上で、ティルティアは言った。
「グレンデルは……あの人は根っからの海の男だから、陸に揚げたりしたら呼吸困難を起こしちゃうわ。だからね」
アルフィンを、貴女に託したいの。
息の根を止められた。と、思った。
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