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白く咲けるは何の花ぞも

作者:兎崎
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一.岡豊の姫若子
一章 岡豊の姫若子
  二.西国より来た男

二.西国から来た男

 永禄三年。
 この年は日の本の歴史上でも大きな事変、桶狭間の戦いがあった年である。
 家督を継いだばかりの織田信長が、海道一の弓取りと呼ばれ、天下に最も近い男、今川義元の大軍二万をその十分の一の兵で桶狭間にて奇襲を仕掛け、大将義元の首も討ち取った。
 これにより駿河、遠江(とおとうみ)から三河や尾張の一部まで勢力を誇っていた今川家は力を失い、信州武田、関東北条と結んでいた三国同盟も瓦解。
 織田と同盟を結ぶことになる松平、後の徳川家康が三河と駿河の地に根をおろすことになるのである。
 ただ、それはまだ今少し先の話。
 今はまだその桶狭間が起こった永禄三年春の頃。
 この年は二十二の歳を迎えた岡豊の姫若子にとっても特別な年になった。
 長曾我部の長年の宿敵である於能(およし)の夫、本山茂辰がとうとう死んだのである。


 本山茂辰病死の報せを受け、岡豊では急遽、主だった家臣団が国親の屋敷の大広間に招集された。
 軍議の内容は勿論、本山が支配する長浜への侵攻についてである。
 娘の嫁ぎ先なら、茂辰は国親の義理の息子になるのだが、今は戦国。
 乱世の時代にそんな建前上の関係など何の意味もなさない。
 長浜は内陸の岡豊にとっては咽から手が出るほど欲しい海に面した土地である。
 いつかはこの地をと思い続け、ようやくその機が到来した。
 茂辰の跡を継ぐのは於能の息子、将堅である。
 年若く、親を亡くしたばかりでいまだ人心も掴めていない。
 気の毒などと甘いことを言ってこれを逃せば後はない。
 於能の息子ならば国親の孫ではあるが、ここで長曾我部が手を拱いて見ていても他の豪族に奪われるだけである。
 満場一致で本山を討つべし、と意見が固まった。

「それはそうと、畿内では尾張の織田信長なる者が今川義元を討ち破ったと聞き及びますが」

 軍議も煮詰まり、暖かい陽気に誘われ、皆は世間話に興じていた。

「おう、聞いた聞いた。何やらまだ年若い男だと申すではないか」
「うつけ者と評判だったようじゃの」

 話題は勿論、今川義元を討ち破った織田信長なる若武者の話だった。

「まだ家督を譲り受けたばかり、二十七だと聞き及びます」
「二十七ではさほど若くもあるまい」
「元親様と五つしか変わらん。若にも困ったものじゃ」
「これ、滅多なことを申すでないぞ」

 余計な一言を言った誰かを周囲が窘める。
 皆が一様に中央の国親を見たが、彼らの主は体調が思わしくないのか、こめかみを押さえたままずっと黙していた。

「つきましては、国親殿」

 場の空気を変えるかのように香曾我部親秀が、目を閉じ、黙り込む国親の前に進み出る。

「如何致しましたかな、香曾我部殿」

 答えたのは国親の右腕、吉田周孝。
 国親が長曾我部家を復興し、版面をここまで拡大させたのはこの男の助言に因るものが大きい。
 一方、前に進み出た香曾我部だが、長曾我部と香曾我部、同じ曾我部姓を持つものの、両家の間に姻戚関係はこれまでなかった。
 香曾我部の嫡子が早逝し、世継ぎを失った為、親秀は家名存続の為に国親の勧めで彼の三男、親泰を養子に貰い受けていた。
 親秀はこの時、国親の野心を疑り、家を売る気かと猛反対した兄を自分の手で殺めている。
 此によって香曾我部家は国親に降伏したものの、香美群(かみごおり)に香曾我部が持っていた領地をそのまま安堵された。
 その国親の三男、そして元親の四つ下にあたる弟、親泰も齢十八になった。
 長曾我部の男らしく、兄二人に負けず劣らずの長身、勇猛振りで、元親の思慮深さと端正な容姿、そして親貞の何者も畏れぬ男気の二つを兼ね備えた将来有望な青年だった。
 皆が香曾我部の家もこれで安泰だろうと思っていたが、ただ一つだけ問題が残っていたのである。
 その問題とは親泰自身ではなく、彼の兄、国親の長子である姫若子、元親のことだった。

「国親殿より貰い受けた我が息子、親泰も今年で十八になります。此度の本山攻めにて初陣の務めを果たさせたく思いますが、国親殿は如何お考えにございましょうか」
「……うむ、そうであったな」

 まだ頭が痛むのか、国親は額を擦りながら、そう呟き、唸っただけだった。
 当時の男子の初陣は早くて十二、三、遅くとも親泰の年齢には誰しもが経験することだった。
 ましてや親泰は槍の名手である。
 何の憂いもなく戦に出すことが出来る武士に成長したのだが、実は国親の長男、元親の初陣がまだなのだ。
 それ故に、次男親貞ですらまだ戦を経験せず、兄二人を差し置いて、いくら香曾我部に養子に行ったとは言え、三男である親泰が先に一人前になる訳にいかなかったのである。
 親泰だけではない。
 国親にはもう一人、家臣の妻に生ませた島親益と言う名の息子もいた。
 この息子も十四。
 いつまでものんびり構えていては、元親は歳を取る一方だし、下も支えているのだった。

「姫若子にも困ったものよ。笛や舞が得意でも、男では嫁の貰い手がなかろう」

 またどこかで誰かが失笑混じりの溜息を吐く。
 国親はそちらの方を睨んだが、それについては特に何も言わなかった。
 いや、言えなかったと言った方が正解だろう。
 この時の長曾我部家では元親を廃嫡し、次男親貞を家長にするべきとの意見が主流で、国親もそれは充分承知していた。
 ただ、彼にとっては出来が悪かろうと自身の子である。
 兄弟の順序を逆にすれば必ず遺恨は残るものだし、自分の子らに骨肉の争いなどして欲しくなかった。
 それに、「あれはうつけよ」と表向き呆れてはいても、親の欲目なのか、国親は元親の思慮深さ、姫若子などと呼ばれてはいるが、それでも自身の考えを曲げない芯の強さに自分以上の才を見出していた。
 以前、奇妙な夢を見た時、戯れに占術師に占わせてみたら、長曾我部家にとって吉兆だと言われたのだ。

(くちなわ)に喰われる虎の夢、それ自体は野の虎と称される国親様にとっては必ずしも吉兆ではありませんが、御家にとってはまさしく吉兆にございます。蛇とはご子息元親様と私めは捉えました。元親様の代で、国親様が叶えられなかった大望は必ず成し遂げるに相違御座いません」

 目の前で自分の母が神仏への祈祷を止め、焼け落ちる城の中、自ら喉を突いて自害して果てるまでをその目で見てきた国親は、占いの類も神仏への信仰も何も持たなかった。
 その彼が長曾我部家の吉兆だと言う夢占いを信じる気になったのは、あれは駄目だ、救いようのないうつけ者だと呆れ返っていても、本心ではいつか息子には自分の屍を乗り越えてもっと大きく成長してもらいたい──、国親のそんな親心かも知れない。
 だからこれまで家臣から散々元親を仏門に入れろと進言されても悉くはね除けて来た。
 しかし、今度ばかりはそうもいかない。
 香曾我部親秀には親泰を養子に出している。
 その手前、元親の初陣をいい加減はっきりさせねば、国親までもが臣下達に反目されかねない。

「初陣の件は、国親様もお考えだ。いずれ……」

 ひとまずその場を取り繕おうと適当に流す吉田周孝を遮り、国親はようやく重い口を開いた。

「皆の意見をちっくと聞いておきたいのだが。元親と親貞、おまんらはどちらがよりこの長曾我部家の主に相応しいと思っちゅうのか。遠慮はいらん、遺憾なく答えて欲しい」

 そうは言われても一同が揃う前で、面と向かって姫若子にはついていけんと国親に訴える者はさすがにいなかった。
 皆が互いの顔色を窺い、誰か──、特に国親の従兄弟に当たる戸波辺りが皆を代表して国親に進言してくれないかと、そわそわするだけの時間がただ流れて行った。
 本来なら長子を擁護する声が一番に上がっても良い筈である。
 それが一言も出ない辺りに元親では駄目だと言う皆の意見が表れていた。

「国親様に儂なんぞが申し上げるには大変心苦しゅうございますが」

 一番末席、と言うより、座も与えられず、庭の地の上に座していた一領具足の頭領が口を挟む。

「おまんの様な下の者がお家のことに口を挟むな」

 勿論、叱責は飛んだが、その男は

「しかし、国親様は今、遠慮のう申せと仰有った。確かに儂らは農民じゃ。しかし、儂らだとて戦となれば鍬を棄て、槍を掴んで戦場に駆け付ける。その大将を誰にするか決めるのじゃ。己の命を預ける相手を決めるっちゅうに、儂らに口を挟むなとはなんたる言い草じゃ」

と言って聞かなかった。
 土佐の気風は昔からこうなのだ。
 議論好きで喧嘩好き。
 何でも口を挟まねば気が済まないのが土佐っ子気質だった。

「申してみい、彦十郎」
「はっ」

 彦十郎と呼ばれた男は、一同の視線を受けながら、緊張した面持ちで「島の、親益様が宜しいかと思います」と国親の四男の名を口にした。

「親益様は穏やかなお人柄で、儂ら一領具足らにも親しく話し掛けて下さる心身共に優れた立派なお方にございます。日がな一日、笛ばかり吹いて余興に耽っている若様が世継ぎでは、国親様亡き後、儂らは安穏とこの岡豊の地で暮らしてゆけません」

 よりによって外腹の親益か、と皆が白じんだ顔を浮かべたが、国親は不機嫌に下がれと手で示しただけだった。

「親益は、あれは外腹だ。あいつは島の家を継ぐ身であるし、我が祖である長曾我部の名を与えるつもりはない。それは香曾我部に養子に出した親泰も同じこと。儂の跡継ぎは元親、親貞どちらかより相応しい方を選ぶ」

 どちらが相応しいか。
 それは聞くまでもなく、一同一致で次男親貞の方だった。

「本山攻め、この戦にて元親、親貞、親泰の初陣の儀を執り行う。その働きを見て誰がこの長曾我部を継ぐのに相応しいか判断しようぞ」


 大広間でそんな会話がされているなどとは露にも思わず、長曾我部家の長男、元親は四男の親益を連れて国分川のほとりに遊びに来ていた。
 心地良い風が木々の葉っぱを揺らす中、元親が奏でる笛の音が青い空へと溶けて行く。
 長曾我部元親、幼名を弥三郎と言い、人形遊びの好きな大人しい若殿だったことから「姫若子」とあだ名された国親の長男である。
 幼少時代のか細く、儚い面影は大分薄れてしまったが、代わりに着衣の裾からはみ出る手足は長く、すらりと伸びて、若駒のような力強さのある引き締まった体躯の若者へと成長していた。
 姫若子と呼ばれる一因ともなった母親似の端正な顔立ちはそのままだが、日頃の不摂生が祟ってか、幾分擦れた感じになっていた。
 野性味を帯びたと言えば表現は良いが、好きな時刻に寝て、目が覚めた時刻に起床し、酒と女遊びが好きなふしだらな生活が、持って生まれた気品ある顔立ちを粗野な風貌へと変えていた。
 それでも本人は心を改めるつもりもなく、弥三郎は姫若子のまま、長曾我部元親と名を変え、年齢だけを重ね、いつしか二十二歳になっていた。

「兄上」

 元親の笛の音に聞き入っていた親益が、馬の嘶きを耳にして遠くの方へと目を凝らす。

「早馬が駆けて行きます。あの方角は香美郡の方角でしょうか」

 弟の声に笛を吹くのを止めた元親も立ち上がってそちらの方を眺めて見た。
 六尺を猶に超える元親の長身がゆらりと立ち上がると、親益の小柄な体型が余計に小さく見えた。
 長曾我部家の血筋の者は男も女も長身が多いのだが、親益だけは母親の遺伝が色濃く出たのか、外見も性格も他の兄弟とは全く違っていた。

「あれは久武の馬だな。一体どこに向かうつもりだ」
「物々しい雰囲気でしたね。また戦でしょうか」
「さあな」

 どちらにしても姫若子の彼には関係のないことだ。
 立派な体躯に成長し、腕相撲でも弟たちに負けることのない元親だが、相変わらず戦嫌いでいまだに槍を握ったことすらなかった。
 そんな彼を歯痒く思う父親とは何度も衝突を繰り返したが、殴ろうが、怒鳴ろうが、反抗的な態度で睨み返して来るだけの長男に業を煮やしたのか、ここ一、二年は国親は元親の顔を見ることすら避けるようになっていた。
 しかし、そうは言っても元親も於能の夫、本山茂辰が病死したことは聞いていた。
 それに今朝から屋敷が何やら騒がしい。
 元親の口元に浮かんだ笑みを見て、親益が

「何がおかしいのですか?」

と首を捻った。

「さあな」

 この茶番がおかしくなくてなんだと言うんだ、と元親は口元の笑みを苦笑に変える。
 父親への反発心をこんな形でしか表現出来ない自分も馬鹿馬鹿しいし、尽きない争いに生涯を賭け、始終他人の土地を脅かすことしか頭にない血塗れの人生を送る父親もどうかしていると思った。

「親益。お前は俺ぐらいデカくなったら何をやってみたい。出来る、出来ないは考えずに思うままを言って見ろ」
「さあ、僕ならきっと嫁を取り、長曾我部の家の為に働くのではないかと思いますが」
「やれやれ。まあ、いいや。ひとまず城へと戻るぞ。おそらく親父が俺たちを探しに人をやるだろうからな」
「父上がですか?」
「おうよ」

 親益は今年で十四になった筈だが、まだあどけなさの残る顔に疑問を浮かべて首を捻る。
 自分がこの年頃の頃は親を恨んで鬱屈した時を過ごしていたな、と過去を振り返りながら、元親は腹違いの末っ子の頭を手のひらでごしごしと撫でた。
 長曾我部の兄弟は皆仲が良く、この腹違いの末弟のことも上三人は他の兄弟らと何ら変わらない態度で接していた。
 怒れば殴るし、それ以外のことでは一番下だから何かにつけ目を配り、庇ってもやった。
 親益の側としてはやはり正妻の子である兄達に引け目や遠慮は感じていたものの、同時に遠慮なしに接してくれる兄達に懐き、感謝の念も抱いていた。
 兄弟がこんな風に上下の隔てなく、仲良くやっていられるのも、長男の穏やかで飾りのない性格の影響が大きいだろう。
 まだ幼い親益は勿論、歳の近い実の弟、親貞、親泰の二人も口では何のかんのと言いながら、常に長男を立て、慕っていた。
 周囲に姫若子と嗤われようが自分たち兄弟だけは元親のことを信じ、庇ってやらねばならんと、どちらが兄か分からないが、弟たちはそんな風に互いを慰め、言い聞かせていた。


「誰じゃ!」

 親益の頭を撫でる元親の背後を見ていた弟が突然声を発した為、元親は飛び上がる程、驚いてしまった。

「なんだ、なんだ、どうした」

と、弟が見つめる一点を振り返って見れば、鮮やかな浅黄色の絹の着物に、同じく絹の紗で顔を隠した女人が静かに佇んでいた。
 それだけなら驚くに値しないかも知れないが、ここは辺境の地、土佐である。
 城主の息子の元親たちでさえ、質素な麻の着物を着ていると言うのに、その女性の着ている着物は傍目にも高値と分かる繊細な織りの反物から作られており、都の香りを漂わせていた。
 この遠い土佐の地にお忍びで来たのならもっと軽装で来るだろうし、見たところ衣類の乱れや汚れと言った旅の窶れも見えない。
 人外の生き物──。
 その女の醸し出す雰囲気が親益を警戒させ、彼に声を出させたのであった。
 露出した目許を見るだけでも、高貴な血筋と分かる顔立ちをしていた。
 その顔を見て、元親の脳裏に浮かんだのは、かつて「萩丸」と呼び、共に良く遊んた童の記憶だった。

「萩丸? お前、萩丸じゃねえか」

 駆け寄る元親に女は身構え、手にした刃物を突き出した。

「危ない、兄上!」

 弟が叫んで知らせるまでもなく、元親も煌めく鋭利な光に気付いて咄嗟にその切っ先を避けた。
 自ら懐に飛び込んで来た相手が秘かに舌打ちをする。
 彼女と目を合わせた元親は女ではなく、これは男だと直感した。

「ちょっと待て、萩丸」

 自分が分からないのか、と。
 幾たびも呼びかけてみたが、萩丸と思われる青年の表情は強張ったままで、元親への警戒も解かない。

「兄上、萩丸とは誰のことにございますか」
「いや、誰って言うか、そうかお前は萩丸を見てなかったな」

 実はここ数年、萩丸は元親の前に全く姿を表さなくなっていた。
 いつからだろう。
 弥三郎と呼ばれていた幼い頃に萩丸と岡豊の山で遊んだ記憶はたくさんあるものの、元親が女遊びと酒の味を覚えた頃からだろうか。あの懐かしい草むらの匂いを身近に感じることはなくなっていた。
 気付けば元親から弥三郎の面影は消え、二十歳を越えた男子となり、萩丸のことはその記憶すら遠い彼方のものになっていた。
 目の前の相手の切れ上がった双眸を見た瞬間、一瞬萩丸ではないかと思ったものの、彼の中の萩丸の記憶はぼんやりして霞が掛かっている。
 相手のこの態度からしても萩丸である筈がなかった。

「お前、どこの者だ。土佐者じゃねえだろう」

 この出で立ちにこの容姿である。
 口許は紗で覆っている為、目許しか見えないが、これ程の美形がいれば周りが放って置かないし、美人の噂なら例えそれが隣国だろうと必ず人の噂に上るものである。
 そしてこれは相手が自分の懐に飛び込んで来て気付いた事だが仄かに香の香りがした。
 綿でさえ高級品な時代。
 そして由緒ある公家の娘だろうと、困窮した家を救うために、武家に嫁がねばならない時代である。
 これだけの出で立ちを用意出来る財力がある相手となれば土佐では伊予までの西部一帯を治める土佐一条家ぐらいなものだった。

「人に名を尋ねるならば、まず貴様から名乗りを入れるのが筋であろう」

 凛とした張りのある声が元親の問いに答える。
 萩丸と最初に出会った時の言葉、そのままを返された元親は思わず笑ってしまった。
 やはりこの相手は男。
 元親と大差ない年齢の若い男のようだった。

「俺は長曾我部元親だ。この辺りじゃどうやら元親と名乗るより、姫若子と言った方が皆の物分かりもいいようだがな」
「……岡豊の、姫若子だと? 長曾我部国親とやらの息子か」
「おうよ」

 この公達も元親のことは耳にしていたのか、一時思案した後に、手にした小柄をしまい、元親と向き合った。
 目の前の相手が岡豊の城主の息子と聞いても臆しもしない。
 ふてぶてしいのか、それとも彼もまたそれなりの地位に立つ男なのか。
 ムッとした親益が一言物申そうと前に進み出たが、仰々しい礼節など元々糞食らえな元親は、弟を片手で制してその男の前に立ち、上から見下ろした。

「その顔を覆った紗を外してもらえねえか。見たところ相当綺麗なお顔立ちしている様だが、だったら人前で隠す必要はあるまいよ」
「顔を晒す理由がない」
「そんなこと言わずに見せてくれよ。何だよあんたの顔は見物料を納めなきゃ拝めねえほど貴重だってえのか?」
「……」

 言っても駄目ならと無理やり剝がそうと手を伸ばす元親に嫌悪を露わにした相手は、渋々自分から薄い絹の布地を外した。
 思った通り、線の細い、すっきりとした綺麗な顔立ちの男である。
 涼しげな目許だけを見れば色香のある女と見間違えかねないが、紅を挿していない真一文字の口許は紛れもなく男。
 それも意志が強く、頑迷な性格であろうことを如実に表していた。

「もう一度聞くが、どこから来た。大方、一条家辺りの客人か」
「差に非ず。しかし、我が何者であるか知ったところで貴様には一切損得のないこと。この地はたまたま寄っただけ故、明日には立ち去る身。名乗るほどのこともあるまい」
「兄上が問うておるのだ。名乗れ」
「親益」

 再び弟を止め、元親は青年の顔を再び覗き込む。
 彼に見つめられ、相手も臆さず、切れ長の双眸で見返して来た。
 不思議と、何故か惹きつけられる相手だった。
 萩丸と似ているせいもあるが、それ以外にも何か、説明し難い引っかかりを覚える。
 ひょっとしたらこれが一目惚れと言うものなのだろうか、と胸の内で考えてみたが、そんな甘いものとはまた違う。
 身の内でざわめく苛立ちの正体が分からず、自分にこんな感情を抱かせる相手への興味が、元親はますます湧いて来た。

「名前を聞くぐらいいいじゃねえか。何も一晩伽の相手をしろって言ってんじゃねえんだぜ」
「兄上!」
「いちいち兄上、兄上うるせえよ。ちょっとふざけただけだろうが」
「度が過ぎます。それでなくても兄上の女遊びは些か過ぎていると言うのに」
「親益。お前も口喧しいところが親泰に似て来たな」
「兄上が誰の言うことにも耳を傾けて下さらないからです! いつまで皆に好きに言わせておく気なのですか」
「好きも何も、これが俺の本性だ。お前らの兄貴はその程度の男なんだよ」
「兄上!」
「うるせえ、うるせえ。耳元でぎゃんぎゃん喚くな」

 兄弟が口喧嘩を始めた間、男は黙して立っていたが、聞いているうちに馬鹿馬鹿しくなってきたのだろう。
 溜息を吐き、立ち去ろうと振り返るところを、後ろから素早く腕を掴んだ元親に捕まり、肩へと担ぎ上げられた。

「な…っ、貴様、離さんか!」
「ちょっくら俺と一緒に来てもらうぜ。あんたに興味湧いて来た。親益、おめえは先に岡豊の城に帰ってろ」
「兄上!」
「大人同士の話し合いだ。お前みたいな小僧はついて来んな」
「離せと申すに……!」

 戸惑う弟をその場に残し、男を軽々と担いだ元親は堤を一気に駆け下りて、川辺にある人気のない小屋へと向かう。
 簡素な扉を足で蹴破ると、中へと入り、肩に担いだ男を地面の上に降ろす。
 何か文句を言われる前に彼の上にのしかかり、着ている衣服を剥ぎにかかった。

「や…めんか……! 貴様、殺されたいか」
「殺れるものなら殺ってみろ。岡豊の姫若子はか弱いからな、お前みたいな痩せた男だろうと一撃でのせるに決まってる」
「ふざけた真似を……!」

 日頃、人形遊びが好きな姫若子よ、と嘲りを受けていても、自他共に剛腕を誇る親貞、親泰の兄である。
 熱心に槍の稽古をしないだけで、相撲でなら弟たちに負けたことのない元親だった。
 自分より小柄で腕も細い相手を組み伏せることなど訳もない。
 ただ、元親が思うより、相手の男も弱くはなかった。
 腹部に激痛が走ったと思った瞬間、彼の身体は跳ね飛ばされていたのである。

「やるじゃねえか。てっきり誰かの情人かと思いきや、どうやらそこそこ腕も立ちそうだな。だったら尻の締まりもいいだろう」
「黙れ。貴様如きに愚弄される我ではないわ」
「だから、その御高名を聞かせてくれって言ってんだろうが」

 飛びかかる元親の目に、相手の男は掴んだ砂を投げつける。
 目潰しを食らって顔を背けた彼の腹部を再び男の足が蹴り上げた。
 ここまで馬鹿にされては元親だって本気にならざるを得ない。
 互いの襟を掴み合い、地面にもつれて砂まみれになりながら、息が続く限り、彼らは揉み合い、決着のつかない殴り合いの末、とうとう息の切れた元親が「やめだ、やめだ」と言って観念した。
 
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