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KANON 終わらない悪夢

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14婚姻届

「美坂さん、結果が出ました、詰所で先生がお待ちです」
 昼食後、検査結果が出たので両親が呼ばれた。
「あたしも行く」
「お前は待ってろ」
 しかし、また3人だけにすると、大喧嘩になるのは目に見えていたので、人選に困る父。
「私は残りますから、あなたが行って下さい」
 命に関わる辛い話を、連日聞くのには耐えられない母が、監視のため残った。
「だめって言っても絶対行くわよ、あたしの事なんだから」
「好きにしろ」
 見た目は元気そうになっていたので、思う通りにさせようと思ったが、もしもの時は香里を支えてやる自身が無かったので、祐一に目線を送った。
「俺も一緒にいた方がいいだろ?」
「祐一は来ないで」
「は?」
 昨日から「一緒にいないと嫌」と言ったり、来るなと言ったり、香里の行動が理解できない祐一。そして父と香里が主治医の所へ行き、母親と栞、祐一が病室に残った。
「すみません、わがままな娘で」
「いえ、こんな時ですから。それより栞、悪かったな、昨日からあいつの言いなりで。 言う通りにしてないと、泣くわ、喚くわ、殴られるわ、もう」
 嬉しい思い出より、悲惨な記憶の方が遥かに多く、また泣きが入る祐一。
「私も、あのお姉ちゃんが、あんなになるなんて思ってませんでした。何があっても祐一さんに告白したり、友達の前で嬉しそうに手を握ったりする人じゃありませんでしたから」
 憧れていた姉の豹変に失望したのか、驚きを隠せないだけなのか、目線を落とし神妙な顔になる栞。
「そうだな」
 祐一も、香里に限って、泣き叫んだり、震えながら抱き付いて来るとは思っていなかった。何でも斜に構えて、クールに決めるのが香里だと信じていたが、それは、栞や家族に遠慮し続けるための仮面で、そんな物は危機に瀕した時、とっくに剥がれ落ちていた。

「あの、美坂ですが、結果はどうでしたか?」
 詰所に行くと、すでに聞くまでも無く、主治医は笑っていた。
「ええ、順調に回復しています、今すぐ退院とまでは言いませんが、何があったんですか? お二人とも治った経過を調べて、学会に報告したいぐらいですよ」
 昨日のように、他人に聞かれないためのカンファレンスルームではなく、その場で結果を説明する主治医。
「そうですかっ、良かったっ」
(やっぱり……)
 喜ぶ父や医者の前で、何故か喜んでいない香里。
「先生、それって、余命にしてどれぐらいなんですか?」
「治ります、もう寿命がどうとか言う段階じゃありません。妹さんと同じで退院できますよ、特に貴方の場合は体力もあるので、2ヶ月もかからないでしょう」
「良かったなっ、お前も治るんだぞっ」
 娘の手を取って喜ぶ父、しかし香里はこう言った。
「ねえ、父さん」
「どうした?」
「この事は、祐一と栞には内緒にして」
 何故か、この結果に絶望しているように見える娘を見て、不思議に思う父。
「どうしてだ? 相沢さんだって頑張ってくれたのに、それに栞だって」
 自分の恋人を姉の命ために差し出した、とは言えなかった。
「だって……」
「え?」
 その表情は、今まで決して父に見せた事がなかった、女の表情だった。
「あたしが治ったら、祐一に捨てられる、もう会いにも来てくれなくなる」
 母親に似て気の強い娘が、人前で涙声で話し、こんな情けない表情をするのも初めてだった。
「お前、どうしたんだ?」
 昨日、自分の寿命を聞く時でさえ喧嘩腰だったのが、今ではこうも弱くなっていた。 この時、父はようやく、自分の娘をここまで変えた相手、相沢祐一に嫉妬した。

 病室に戻る途中…
「父さん、もし祐一と栞、結婚させようとしたら、あたし何するか分からないわよ」
 この場合、栞がヤられる、祐一に何か問題が起こる、香里自身に大変な事態が発生する、のどれかだが、娘を犯罪者にして、もう一人を失うような選択肢だけは絶対に避けたかった。
「この間までは、お前が一番張り切ってたじゃないかっ」
「それは、祐一を諦めるため、栞と結婚するなら諦められた、でも今は嫌」
「どうして急に」
「呼んでるのよ、あたしの何かが祐一を」 
 それは香里に取り憑いた舞の魔物、「左手」が祐一を欲しがっていたから。

 検査後、午後の短い時間、外出許可を貰った香里は、例のスプレーを貰い、祐一に見せながらこう言った。
「これの使い方、もう知ってるわね」
「ああ」
 昨日の今日、それもあんな状態だったので、忘れられるはずも無い。
「もしあたしが倒れたら、昨日みたいに、これをたっぷり口の中に出して」
 唇を舐めながら、明らかに違う顔と表情をする香里。
「は?」
「それから「ここ」をしっかり揉みほぐして、人工呼吸もしながら、ホテルか貴方の部屋で休憩したら治るのよ」
 また祐一の手を左胸に持って行って、無理矢理触らせる。
「違うだろ」
 昨日はあれほど嫌がった、人工呼吸と心臓マッサージも、自分から求めるようになってしまった香里は、家族を置いて祐一を引き摺りながら病院を出た。
「歩き回って大丈夫なのか? なんならタクシーでも」
「いいの、それとも祐一がおぶってくれる? 病院だから変じゃないわよ」
「恥ずかしい奴だな、せめて車椅子にしろよ」
「じゃあ、また二人乗り」
「よけい恥ずかしいだろっ」
 そのまま近くにある総合庁舎に連行されて行く祐一。香里の足取りは軽く、とても昨日倒れて入院した女とは思えなかった。
「こんな所で何するつもりだ?」
 本気で遺言の相談でもするのかと心配するが、今の香里にそんな必要は無かった。
「こっちよ」
 祐一の手を持ったまま、窓口の職員に向かって、わざと大きな声を出す。
「あの、「婚姻届」下さいっ!」
「ぐはあっ!」
 つうこんのいちげき、祐一は256ポイントのダメージを受けた。
(こいつ、最初からこれをやるつもりだったな)
『まあ、まだ学生さんなのにねえ』
『最近の若い人は』
 それを聞いた職員や、周りの雰囲気が和らいで、二人を暖かい視線で包み、席について説明を受けている間も、祐一と腕を組んで嬉しそうにしている香里。
「こちらにお二人の名前を記入して頂いて、この下が」
 すでに家には、妻の蘭に「美坂栞」と書いた全く同じ書類があり、保護者の署名まで貰って、後は日曜に秋子の署名と印鑑を貰う所まで準備した事など、銀河の彼方に葬り去っていた。
 カリカリカリ
「美、坂、香、里っと」
(…書いてる)
 ここで、いかに鈍い祐一とて、次に何を要求されるか分かってしまった。
「書いて」
「えっ?」
「ほら、ここにぃ、あなたの名前ぇ~」
 もう香里の手口を理解し始めた祐一は、ここで断ったり、帰ってから書くと言えば、弱モードの香里が発動して、役所の窓口で泣き出し、「昨日あれだけ愛し合ったのにっ」とか「お腹の赤ちゃんはどうするのっ?」と言い出すのは簡単に想像できた。
「あっ、ああ」
(大丈夫だ、判子は持ってないし、親の署名も無い、そうだ、俺はまだ17じゃないか)
 震える手で自分の名前を記入して行く祐一。何となく13段階段を登って行くような予感がしていた。
(いや、本当に大丈夫なのか? 相手は香里だぞ)
 嫌な予感がしながらも、最後の「一」を書き終わった所で、香里が口を開いた。
「あの、事前の提出って、できるんでしょうか?」
「はい?」
「私達、まだ17歳なんです、でも」
 懐から病院の封筒を出す香里、すでにその瞳には、大粒の涙が盛り上がっていた。
(まっ、まさか?)
「実は私、病気で、もう永くないんです…… 持って、後3ヶ月って」
 流れる涙を拭おうともせず、震えながら泣いている(振りをする)香里。
(だっ、騙されるなー! これはこいつの演技だっ! 騙されるんじゃないっ!)
 祐一の心の声が虚しく響いたが、それは誰の心にも届かなかった。
「はっ!」
 両親からのお手紙(栞用)と、診断書を見せられた職員は、息を飲んで驚いていた。
「すっ、すぐ聞いてきますっ!」
 慌てて席を立って、奥の上司の所へ走って行く職員。 普通、誰もが目にする診断書に「余命?ヶ月」などと書いてあるはずが無いが、天使の人形の指示で加筆されたらしい。
「お前、狙ってたな、いつのまに診断書まで?」
 鬼に金棒と言うが、この場合「何とかにに刃物」が妥当かもしれない。そこで、職員のいない間に、祐一の言葉など無視して、妻と夫の欄に印鑑を押して行く香里。
「あ、相沢って、どうしてお前が俺の名前の判子持ってるんだ?」
「え? 日曜に必要になると思って買っておいたの、登録もしてあるから、もうすぐ貴方宛に「印鑑証明」の書類が届くはずよ、確認して返送しといてねっ」
「それって」
 犯罪じゃないのか? と聞きたかったが、さっきの職員が上司を連れて戻って来た。
「この度は、どうも」
 どちらの意味にも取れる「どうも」とは便利な言葉であった。
「結論から申し上げますと、受理の日付を今日にして、後ほど条件を満たした時点で発効とする事は可能です、後は未成年のお二人の場合、この欄に保護者の方の承諾を」
 香里は(嘘)泣きながら、委任状(栞用)を取り出した。
(何て用意のいい奴なんだ)
 案外、家庭に収まるか、勤めに出れば、何かと才能を発揮しそうな香里。しかし罠にはめられる方は、たまった物ではない。
「はい、これで美坂さん側の承諾は確認できました、この書類を付けて頂いて、こちらに署名を、後は」
(秋子さん)
 祐一の脳裏では「了承」の二文字と、秋子の声が渦巻いていた。
(ああ、秋子さんの否定のセリフって、せいぜい名雪にコショウを掛けたときに「食べないで下さい」って言ったぐらいだな、あの真琴にだって「花火は外でする物よ」だったし)
「分かりました「了承」してもらってきます」
(計画的やな)
 わざわざ承諾と言わず、了承と言う所が計画的な犯行だった。香里は席を立ち、深々と頭を下げた。
「「お大事に」」
 頭を下げて見送る職員達の言葉も、すでに戸籍係の物ではなかった。

「じゃあ、行きましょうか」
(こいつ、余命3ヶ月とか言われながら、アクティブに生きてるよなあ)
 栞とは全く違う、香里の生命力に感心している祐一。もちろん香里の方は自分が回復しているのを知っている。
(いや、こいつはもう治ったんだ、そうに違いない)
「なあ、お前もう治ってるんじゃないか? さっきの結果」
 すると香里は、ゆっくり振り返って、こう言った。
「そんな事言う人、嫌いです」
「はおうっ!」
 その寂しそうな表情、声、言い回し、髪も切った今、全てがクリソツだった。
(今、肩にショールが見えたぞ)
「起きないから、奇跡って言うんですよね」
「ぐはぁっ!」
 確実に祐一の弱点を突いて来る香里、姉妹でたっぷり情報交換(自慢話)をしていたらしい。
 そこでつい、婚姻届や印鑑証明の追及を忘れ、香里の心配までしてしまう。
「疲れてないか? あれだけ泣いたら喉も渇いただろ、どこかで休んで行くか?」
 これは優しさから出た言葉では無く、「時間が稼げれば、秋子は勤めに出てしまう」と言う意味だった。
「もう、こんな早くから「休憩」なんて、昨日あれだけしたのに、まだ足りないの?」
「ちがうよっ」
 思わず名雪語で否定するが、もう祐一のグレードは「カラカラ」「もう泡も出ません」「体力の限界っ」だった。
「それに、これ以上、秋子さんに待って貰うのも何だし、今日わざわざ休んで貰ったんだから、早く行きましょう」
「って、予約済みかいっ!」

 やがて、交通機関も利用し、香里に引き摺られた祐一は、秋子の家に到着した。
「こんにちわ、香里さん」
「ごぶさたしてます、昨日はすみませんでした」
「こんな時ですから仕方ありませんよ、具合はいいんですか?」
 昨日、名雪から事情を聞き出して、全て知っているはずが、いつもの表情で答える秋子。結構狸な人であった。
「はい、その事なんですけど」
「え?」
 名雪を大泣きさせた相手と平然と会話する秋子、やっぱりタヌタヌだった。
「私も、妹と同じ病気でしたっ、後、3ヶ月持たないそうです。だから… 残った人生は、思い残す事が無いように生きたいんですっ」
 早速「弱モード」のスイッチを入れる香里。その瞼からはオートマチックで嘘の涙が流れ落ちていた。
「じゃあ、今日話したい事って?」
「秋子さんや祐一に迷惑を掛けるかも知れません、名雪だって、妹だって祐一が好きなのに、すいません、すいませんっ」
 そう言いながら、秋子に縋り付いて泣き始める香里。
(なるほど、そう来たか)
 まるでグゥに陥れられたハレのように、すでに達観している祐一。
「うっ、うわあ~~~!!」
(騙されちゃ駄目です、これはこいつの演技なんですよっ!)
 しかし話している内容も、病気の事も嘘ではなかった、香里からすれば「単に表現の違い」があるに過ぎないらしい。
「香里さん……」
 優しく香里を抱き止める秋子の横に、さり気なく落ちる「診断書」と「婚姻届」、それに軽く目を通して祐一を見上げると。
「祐一さん」
「はい?」
「香里さんを「幸せに」してあげて下さいね」
「…はい」 
 もう祐一クンに、味方チームはいなかった。


「だめだよっ、ボクこんなお願いしてないのにっ!」
(もう少しがまんして、これであの姉妹は脱落だよ)
「え? どうして」
(このまま3人仲良く、なんて無理だよ。仲良く殺しあって、一緒に天国でも地獄でも、好きな所に行けば良い)
「だめだよっ!」
 天使の人形にしても、香里の思うままにさせておくつもりは無いらしいが、香里のターンはまだまだ続いた。
 
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