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KANON 終わらない悪夢

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06

「うっ、えっ、ぐすっ、ううっ、うっ」
 その後は予想通り、五時間目の授業中ずっと泣き続けている名雪、はっきり言って授業の迷惑になっていた。
 教室のドアをノックする音の後、事務員らしき女性が入って来て、この時間の教師にメモを渡す。
「ええ、はい、そうです」
「ええ、それでは」
「静かにっ、保健医の先生から連絡がありました、美坂さんは軽い貧血と過労でしたが大丈夫です、しばらく休むかも知れませんが、皆さんも受験勉強など無理をしすぎないように」
「「「「「「良かったーー!」」」」」
 嘘の報告に沸き返る教室。
(嘘つけ、本当なら婚姻届に判子でも何でも押してやる)
 その願いが、別の方向で叶ってしまうとは、思いも寄らなかった祐一。

 やがて5時間目が終わり、休み時間、担任に直談判に行く。
「何だ? 早退なら認めんぞ」
「先生、香里の妹は知ってますか?」
「ああ、話ぐらいはな」
「じゃあ、去年倒れて、余命一年って言われたのも知ってますね」
 さすがの、「事なかれ主義」の相手でも、これだけの単語を並べれば通じるだろうと思っていた祐一。
「違う、それは間違いだ、下らん噂を信じるんじゃないっ」
 しかし逆に怒られてしまい、二の句が継げなくなる。
「何だって?」
 若い祐一は知らなかった、ある一定以上の事件、事故を聞いた時、脳の回路を落として、「間違いや無かった事」にできるのが、公務員や社会人として、最も大切な資質だと言う事を。
「うわさだって? 噂で人が倒れるのかよ? 今生きているのが奇跡なんだから、ショックでまた倒れるかも知れないのにっ、香里だって後から行って会えるのかどうか?」
 もちろん、面会謝絶とか言う意味では無く、生きているかどうか、と言ったつもりだったが。
「馬鹿もんっ、休みの日にゆっくり行けばいいだろう、保健の先生から連絡もあった、ただの貧血だっ、男だったらこれぐらいでメソメソするな、教室に戻れっ」
 ここにも嘘の報告を信じている者が一人。
「ええ、帰りますよ」
 職員室を出ると、表で待っていた名雪や北川と一緒に、学校から抜け出した。

「どうする? 病院まで20分近く歩くか、それともバスで5分、学校前から行けるぞ」
 土地勘のある北川が、病院への行き方を教えてくれる。
「名雪、どっちがいい? 走るか? バスに乗るか?」
 元から歩く気など無かったが、後は名雪の気持ちと体力次第になっていた。
「バスでいいよ」
「そうか」
 全行程を走り切る元気は無かったのか、三人は学校前からバスに乗って、香里のいる病院に向かった。
(おかしい、水瀬さんは座ったら寝るはずなのに、相沢だって水瀬さんをからかって遊んでない)
 北川も二人の様子を見て、香里の病状が本当に悪いのだと思い始めた。
「次だな」
 停留所の看板で、次が病院前だと確認する北川。
『次は市民…』
 車内のアナウンスが終るのも待てず、発車するとすぐに停車ボタンを押す祐一。
「降りるぞ」
「あ? ああ」
 男二人は発車したばかりのバスの中で、早くも降車口に向かって歩いて行く。
『バスが走っている間の座席の移動は、危険ですのでご遠慮下さい』
 もちろん、そんなアナウンスなど無視して、降車口に並ぶ三人、祐一はすでに支払いを済ませ、階段を一段降りていた。
(相沢、香里は一体どうなったんだ?)
 答えてもらえない疑問を、心の中で繰り返す北川。
(たぶん病院でも教えて貰えないんだろうな)
『市民病院前、市民病院前です』
 扉が開くのと同時に飛び出した祐一に続き、二人も料金を払い、すぐに降りて来た。
「どっちだ?」
「こっちだ」
 以前病院に来た覚えのある北川は、小走りに走り出した。しかし、その横を名雪が走って追い抜いて行く。
「待てよっ、名雪」
 二人の心情を思って急いだつもりだったが、名雪の気持ちは遥かに急いでいた。
(水瀬さん)
 一直線に入り口までの坂道を駆け上って行く名雪、陸上部部長の全力疾走なので、男二人も置いて行かれる程だった。
「名雪っ」
 入り口の自動ドアが開く間ももどかしく、ガラスの間をすり抜けて入る名雪。
「待てったら」
 止める声も聞こえないのか、受け付けまで走り切り、香里の居場所を聞いていた。
「あのっ、香里、美坂香里はどこですか?」
 ようやく追い付いた二人も、受付が香里を探すのを待つ。
「1時間前、救急車で来たはずですけど」
「え~、その方なら、北館306号室です」
 名雪は聞き終わる前に走り出し、エレベーターにも乗らず、階段を駆け上ろうとした。
「走るなっ、そのまま駆け込むつもりかっ」
「えっ?」
 例え本人が気付いていたとしても、知らぬ振りをしておくのが人情、祐一の声は何とか名雪を止めた。
「うん」
 ようやく止まった名雪も、息を整えながら階段を上って行く。
「会っても泣くんじゃないぞ」
「うん」
 注意しても涙は止められないが、一応は言ってみる。
(香里の妹って、確か凄い病気だったはずだな?)
 二人の態度で何かを感じた北川も、ゆっくりと階段を上る。
(どうする? 告白でもして、相沢みたいになってみるか?)
 自分にはそんな力が無いのと、香里のそっけない態度からも、その望みは無かった。
(無理だな)

 やがて、病室に着いた3人は我が目を疑った。そこには全く血の気を失い、当時の栞よりも肌が白い香里の姿があった。
「あら、早かったのね、授業抜け出して来たの?」
 本人はベッドに座って平然としていたが、その顔色を見て、誰も「大丈夫?」などと声を掛けられずにいた。
「え、ああ」
「部活もサボッちゃった」
「土産はないぞ、貧乏学生だからな」
 生きていた香里を見て、ようやく落ち着いた3人だが、見舞いの品を用意する余裕すら無かった。
「え~、アイスクリーム食べたいな~」
 やはりこの病気は、「夏冬関係なくアイスクリームが食べたくなる病」らしい。きっと喉が熱を持って腫れ、普通の食物は受け付けず、水を飲んでも痛みが走るが、脂肪分を含んだアイスクリームなら親和性が良く、養分もとれる…… のかも知れない。
「バニラだな」
 栞の症状からバニラと予想する祐一。
「イチゴよね」
 自分の趣味に合わせようとする名雪。
「案外渋く、あずきか抹茶とか?」
 狙いすぎの北川。各人勝手な予想をしている時、初老の男性が入って来た。
「あっ、おじさんっ、こんにちわ」
「ああ、名雪ちゃん、北川君、久しぶりだね、じゃあ貴方が相沢さんですか?」
「はい、始めまして」
 そこで、次の日曜に挨拶に行くはずだった、栞と香里の父親に出会ってしまい、少し気恥ずかしくなる。
「この度は、栞だけでなく香里まで、何とお礼を言っていいやら」
「いえ、俺は栞さんの薬を使っただけで何も」
「あっ、アイスクリームあった?」
 父親の手にある袋を見つけ、挨拶を中断させる香里。
「ああ、まだ早いから、少ししか無かったぞ」
「うんっ」
 奪い取るように受け取ると、早速ふたを開き食べ始める。
(やっぱり……)
 祐一はある確信を抱いた。
「昼にあれだけ食べたのに、どこに入るんだ? 食事制限とか無いのか?」
「うるさいわねっ」
 折角のバニラアイスを邪魔しようとする相手を、鋭い目付きで睨む香里。
「そうだな、先生に聞いてみようか、ちょっと待ってなさい」
 父親にまでアイスクリームを中断させられそうになり、香里の取った行動とは?
「お父さんっ、この男が私の胸を触ったのよ、私が倒れたのをいい事に何度も何度も、それも栞が見ている目の前で」
 胸を隠しながら祐一を指差し、邪魔者を排除しようとする香里、アイスのためなら人格さえ変わるらしい。
「何て事言うんだ、命の恩人に」
「それに、もう少しで、「キス」される所だったわ、栞や名雪がいなかったら、今頃どうなってたか」
 さすがにこのセリフには、父親の表情が変って、その周囲だけ温度が下がって行く。
(雰囲気が栞に似てる)
 ちょっと怖い考えになった祐一。
「いえ、心臓マッサージは俺が、でもすぐにこいつと交代しました。それで人口呼吸は栞、さんにしてもらおうと思ったんですけど、酸素ボンベがあったんで(汗)」
 名雪を盾にして、懸命に言い訳を開始する祐一。
「緊急事ですから、気にしないで下さい」
 娘二人の恩人なので弱気だったが、栞の父親だけに、怒ると何をしでかすか分からない。
「こいつっ、顔色の割には元気そうじゃないか、そんな事を言うのはこの口かっ」
 頭を押さえ、自分を陥れようとした口を両側から挟み、「タコ口」にしてやる。
「名雪、カメラだ、写真を撮れっ」
「うにゅうにゅにょっ、みゃめみゃみゃいっ(訳、何するのっ、やめなさいっ)」
 ブサイクな所をカメラに収められないよう、抵抗する香里。
「「「あはっ、あはははっ」」」
 楽しそうな娘や友達の姿を見て、一緒に笑っている父、その目には光る物があった。
(残り3ヶ月)
 先程の医者の宣告では、娘に残された時間は栞より遥かに短かかった。

 そこに、ガラガラと音を立ててやって来た撮影機、本人が移動しないのを見ただけで、どの程度の重症なのか分かるが、面会謝絶になっていないだけマシなのだと思えた。
「美坂さん、肺の写真を撮ります、皆さんは外でお待ち下さい」
「じゃあ皆さん、あちらで何か飲み物でも」
「いえ、そんな」
 言われるまま病室を出て、自販機前で飲み物を渡されると、3人で香里の診察が終わるのを待っていた。
「相沢さん」
「はっ?」
 また父親が戻って来て、祐一だけが話し掛けられたので、きっと香里の冗談に怒り、外で「パンチでグー」なのに違いないと身を固くする。
「あちらに栞と家内がおります、会って頂けますか」
「は、はいっ」
 割と普通の誘いだったので、素直に受けてしまうが。
(いや、栞を目の前に置いて、「どんないやらしい事」をされたか全部喋らせて、香里にまでエロエロな事をしたとか言って)
 恋人の父親の前で、冷や汗や脂汗を流し、変な妄想をする祐一。

 祐一妄想中…
「さあっ、言うんだっ、どんな事をされたんだ!」
「いやっ、許してっ、お父さんっ」
「許してやって下さい、この子の病気が治っただけでも」
「うるさいっ、お前は黙ってろっ、どうなんだっ、栞っ!」
 いつもと違う父親の剣幕に驚き、観念したかのように口を開く栞。
「実は(ピーーー)以外にも(ぴーーー)な事を」
「何だとっ!」
「それから、(ぴー)って言われて、口で(ぴー)させられて「薬になるから」って、そのまま全部()に出されて、一滴残らず(ぴ)まされました」
「このっ、嫁入り前の娘に、何て事をっ!」
 最初より激しくなった、祐一の「お願い」に全て答えていた栞。
「その上、お風呂場で、そこ違いますって言ったのに、お(ぴー)の(ぴー)に石鹸を沢山塗られて、無理矢理」
「うわああっ!」
 椅子で殴られそうになり、逃げ回る自分を想像する祐一。
(まずい、このままでは)

 そこで小さな部屋に入ると、窓際に座っている栞と、栞の肩に寄り掛かって泣いている女性がいた。
「どうしてっ、どうして二人ともっ、前の検診では何とも無かったのにっ」
 二人の母親らしいが、この取り乱し方を見れば、祐一でなくても、「香里は助からないのでは」と思えた。
「お母さん、お母さんっ、この方が相沢さんよ、私を「治してくれた」人よ」
 栞の言い回しに少し違和感を覚えたが、母親の目の色はそれ以上だった。 
「ああっ、貴方が栞をっ、もう一度娘をっ、香里を助けてやって下さいっ、お願いしますっ!」
 祐一の手を両手で握って、床に膝を着いて懇願する母親。
(何だ? 何言ってるんだ?)
 目の前で何が起こっているのか理解できない祐一。
「お母さん、相沢さんには私からお願いするから」
 そう言って母親を起こし、椅子に座らせるが、手を握ったまま祈るようなポーズは変えようとしなかった。
「すみません祐一さん、お母さんが辛そうだったので、どうして私が治ったのか話してしまいました」
「え? ああ」
 秘密の治療をした覚えは無かったが、こんな母親の姿を見れば、祐一とて否定する言葉は出なかった。
「何を言ったんだ?」
 小声で栞に話し掛け、話を合わせようとする。
「祐一さんに会ってから、お別れするまで、全部です」
「は?」
 まさか、あ~んな事や、こ~んな事まで、包み隠さず言ったのでは無いかと、不安になる祐一。
「自分の体ですから、小さい頃から病気だったから分かるんです、生きる希望だとか、誰かの愛情では奇跡なんて起こらないって」
 涙ぐんで、以前の出来事を思い出しながら話す。
「でも最後の一週間の始まる前、噴水の前で私達…… キス、しましたよね」
 それが原因とでも言いたげな顔をする栞だったが、横では父親が聞いていた。
(うっ、マズい)
 しかし、父親もすでにその話を聞いていたらしく、それが奇跡の始まりだと言いたげに、目を細めて頷いていた。
(いいのか?)
「あの後の私、凄く元気でした、まるで命を吹き込んでもらったみたいに。それから学校へ行ったり、お弁当を作ったり、だったらさっき、お姉ちゃんにも人口呼吸してもらえば良かったですね」
 冗談でも言ったつもりだったのか、いつもの寂しそうな表情のまま笑う。
「それに、祐一さんの部屋で、愛し合ってから」
 太いお注射をした日らしい。
(うっ!)
 また嫌な汗を流す祐一だったが、父親は黙って聞いていた。
(これもいいのか?)
「あの日からずっと、高い熱が出ました、まるで体が燃えるみたいで、でも苦しくは無かったんです、私の中の弱い私が消えて行くようで、こうして強い私が生き残ったんです」
 もうすっかり目の色が違って来た栞も、母親と同じ目に変わっていた。
「ですから、お姉ちゃんにも「私と同じ事」をしてあげて下さい、お願いします」
「何言ってるんだ?」
 愛し合えば病気が治る、と信じている栞が理解できないのと、女としてそれでいいのか聞きたかった祐一。
「その、恋愛すると体の調子が良くなるなら、香里が好きな奴の方がいいだろ、俺にはお前がいるから」
 普通の女なら喜びそうな言葉を遮り、栞が答える。
「お姉ちゃんが好きな人って、祐一さんなんですよ」
「ええっ?」
「お姉ちゃん、最近成績が下がったんです。でもそれは私が治って嬉しかったとか、家で二人で遊んでたからじゃないんです。授業中もずっと祐一さんだけを見て、ノートを取っている所も、ペンを回して退屈そうにしている所も、全部教えてくれてたからです」
 今まで栞を気にしてか、愛も恋も無かった香里だが、妹の命を救った相手には素直に好感を持てた。そして妹が喜ぶだろうと、その日の祐一を観察して、仕草や行動を話していた。
「ノートも取らないで、祐一さんの横顔をスケッチした絵も見せてくれました」
 ただ、その絵が自分より上手かったのか、ご機嫌斜めの栞。
「休み時間に何を話したかも教えてくれました。あっ、お姉ちゃんがモノマネする所見た事ありますか? 家では祐一さんや名雪さんのまねをしてくれるんです」
 きっと男言葉で喋ったり、「うにゅう」とか「くーー」とか言っているらしい。
「だからもう、お姉ちゃんの頭の中は祐一さんで一杯なんです、勉強なんか手に着かないぐらいに」
 そう言って、また以前の寂しそうな表情で笑う、運命を受け入れたような瞳で。
「もし、そうだとしても」
 また祐一の否定の言葉を遮るよう、耳に口を近付けて小声で話す栞。
「お姉ちゃん、やっぱり私と同じ病気でした。持って後3ヶ月だそうです」
 震える声で医者の宣告を教えられるが、家族ではない祐一には、重過ぎる言葉だった。
「私も昔は気功とか、祈祷に行った事もあるんです、でも少しだけ体が暖かくなったとか、その程度でした」
 祐一にも、藁にも縋る思いで、色々な所に娘を連れて行った両親の姿は想像できた。
「でも祐一さんは違いました、その何倍も、何十倍も凄かったんです。会って話しているだけで元気になって、手が触れただけで体が熱くなるんです」
「だからそれは、俺とお前が」
 さすがに両親の前で「愛し合っているから」とは言えない祐一。
「そうじゃないんです、お母さん? 祐一さんの手を握って、どんな感じがした?」
 栞の目線の先には、汗びっしょりになって、震えている母親がいた。
「ああ、お前が言った通りだね、体が熱くなって、何だか燃えてるみたいだよ」
(暗示じゃないのか?)
「お母さんにも持病があるんです、これから検査がありますから、良くなってたら信じて貰えますか?」
 疑問を見透かしたように、その問いかけは家族ではなく、祐一にだけ向かって言われていた。
「え? ああ」
(もう二人共、信じてるんだな)
 栞に何を吹き込まれたのか、両親ですら祐一に何かの力があると思っているように見えた。
「でも、どうしても祐一さんが嫌なら、せめて手を握ってあげて下さい」
「ああ、その程度なら、いくらでも」
「ありがとうございます」
 すでに横では父親が深々と頭を下げて、正面では母親が祈っていた。これでもう祐一は後戻りできない状態に追い込まれてしまった。


「うぐぅ、栞さんと同じ事って何?」
(ほら、見てただろ、彼の部屋のベランダから)
「うぐ~~っ、見てないっ、ボク何も見てないよっ」
 そう言いながら、指の間からしっかり観察していたあゆ。
『でも僕が言った事、素直に信じてるんだ、みんなかわいいね』
 両親に暗示をかけた相手はここにいた、そして栞には……
 
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