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KANON 終わらない悪夢

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21最後の授業参観

 やがて食事が終わり、栞を無事叩き潰した一同も満足して解散。イチゴが食べられなくなった名雪と、代わりに全部食べた舞を引き連れて教室に入ると。
「……それでね、病室で愛し合った後、祐一がアイスクリーム買って来てくれたの(嘘泣)、あれって今まで貰ったどんなプレゼントより嬉しかった」
「すごいっ、相沢君って優しいっ」
 すでに教室には、目を真っ赤に泣き腫らした香里が進入し、「祐一の席」に陣取っていた。
 数日前の予測に反して、僅かな時間で香里シナリオの書き換えは完了していて、「あたしの処女の値段は210円(消費税含む)」は削除され、半レイプ?に近かったと言い張る自分の惨状も話さず、全てが綺麗事で上書きされ、「奇跡の恋シーズン2」が放送されていた。
(しまったーーーーーっ!!)
 時すでに遅く、香里の計略により、祐一クンの外堀の埋め立て工事は完了していた。
 まずは「奇跡の恋」を姉の命のために譲った愛しい妹。それを見守るために敢えて絶交した親友。
 そして何より、この恋愛の主人公、主演、美坂香里と相沢祐一でお送りする、お昼のメロドラマが、数十分に渡って語りに語られていたらしい。
「それに、「もし10ヶ月持ったら、赤ちゃん産むんだぞ」って言われた時も凄く嬉しかった。それからも「大丈夫」って言ったのに、ずっと優しくしてくれたから、トイレの中で泣いちゃった」
 タマネギでも装備しているのか、鼻毛でも引っこ抜いたのか、香里の嘘泣きは止まらなかった。もう自分の話に入り込んで、芝居の域を越えているのかも知れない。
「香里っ、それってプロポーズじゃないっ、どうして結婚しないの?」
「いいの、私ってもうダメみたいだから、妹か名雪と幸せになって欲しいの、きっとあの二人だったら、「遺髪」も捨てないで見逃してくれると思うから」
 そう言って、泣きながら机に寄りかかり、先程話し終わっていた「短くなった髪」に注目が集まるよう、乱れた所を整えてみる。
「いやっ、死なないでっ、香里っ!」
 祐一の予想では、香里の発言に引いて、離れて行く予定だった友人は、逆に抱き付いて泣いていた。
「香里、あんたって奴は」
 友達を無くすと注意するはずだった女も、香里の心意気に感動して涙を浮かべていた。
「ありがとう、名雪ってあんな子だから、私が死んだら一緒に死ぬって言い出すじゃない。グスッ、だからあたしもキツイ事言っちゃったけど、きっと死んだ時、全部許してくれると思うから、それに、妹だって……」
 全身に力を入れ、まるでその時の事を思い出すように、震えながら泣いている(振りをする)香里。

 ザワザワザワ……
 香里の周りに、どんどん人が集まって来る昼休みの教室。そこで、教室の入り口を見た女生徒がいた。
「相沢君っ!」
「「「「「えっ?」」」」」
 香里の周りにいた群衆が一斉に祐一を見た。そして最初の一人が祐一の所へ駆け寄って来た。
「香里から「全部」聞いたわ、大変だったわねっ、でも、でもっ、香里を幸せにしてあげてね~~」
 祐一の手を取って、大泣きする女子生徒。
(やられた……)
 祐一や栞が昼食?を済ませている間に勝敗は決した。単身敵地に乗り込み、弁舌一つでクラス全員を味方に付けた、香里の戦略勝ちと言えた。
(栞って世間体は気にするから、多分この筋書きに乗って来るな)
 表現に違いはあったが、元々そのつもりで祐一をレンタルした栞。実の姉とも壮絶な泥仕合をして学校全体での評判が落ちるより、一時姉の脚本通りの芝居をするしか無いように思われた。
「さあっ、香里が待ってるわ」
「早くっ」
 ハンカチを持って泣いている女子数名に取り囲まれ、両腕を引っ張られて、香里の前まで連行されて行く祐一。
(いや~~~っ!)
 予想のように、男子数名に引きずられて行き、体育館裏あたりでボコられるよりはマシだったかも知れないが、数日で消える体の痛みと、永久に残る戸籍上の問題では比べ物にならない。
「祐一っ、名雪」
 まるで今見付けたように驚く香里。当然、祐一達の昼間の行動を予測して、タイムスケジュール通り通路を迂回し、無事教室に侵入すると、また不健康そうな顔をして泣いたのは目に見えていた。
「ごめんなさい、来るつもりじゃなかったの…… でも、今日は貴方に会えないで、そのまま死んじゃうんじゃないかって思ったら、怖くなって、くっ」
「いいのよ香里っ、「相沢君だって会いたかった」はずよっ」
 すでにドラマの筋書きが一人歩きを始めたらしく、祐一の行動にまで制限が加えられた。
(早速かいっ) 
「香里……」
 後ろでは、「脇役」の名雪が、絶交「された」親友を目にして驚いていた。
「名雪っ、聞いたわよ、偉かったわね、でも無理しなくていいのよ、香里と仲直りしてっ」
「えっ?」
 ほえほえな名雪には、何が起こっているのか理解できなかったが、クラスメイトに導かれるまま、香里の前に連れて行かれる。
「ごめんなさい、あの時は気が動転してて、うっ、貴方にきつい事言っちゃったわね、ごめ……(嘘絶句)」
「香里っ」
 そこで名雪は、香里の芝居に簡単に騙され、泣きながらその手を取ってしまった。
「いいの? 名雪?」
「うんっ、こんなときだから、しかたないよっ」
「名雪っ」
 自分を許した親友の胸に飛び込み、嘘泣きを続ける香里。そして周囲の生徒も、「ハンカチをご用意下さい」の田舎芝居に騙され、貰い泣きしていた。
(うっ、やっぱりこの子に抱き締められると、心が癒されちゃう、だめよっ、今は癒されてる場合じゃないでしょ)
 名雪パワーに負けないよう、自分の舌を噛み締めて耐えている香里。昔からこうされると、ほのぼのとした人格に代えられていたらしい。

「みんな、今日はありがとう、祐一にも会えたし、名雪とも仲直りできたわ、バイバイ」
「だめっ、まだ帰らないでっ」
 席を立って、嘘逃げしようとした香里だったが、女子生徒によって教室に残され、祐一の席に香里、隣の名雪シートに祐一、余った場所に名雪が座り、教師が来るのを待った。
(って、次の授業、担任じゃないか)
 間違い無く、そこまで計算し尽くした結果の行動に違いない。祐一は背筋に冷たい物が走って行くのを抑えられなかったが、そこで始業の鐘が鳴った。
 断罪の鐘が鳴る、ここで祐一は人民裁判にかけられ、選択肢も「香里と結婚する」以外のシナリオは許可されず、全てが香里の思い通りに話が進んで行く。
「「「「「「「「「先生っ」」」」」」」」」」
「今、美坂さんが来てるんですっ」
「授業を受けさせて下さいっ」
「この時間だけでも相沢君と一緒にっ」
「うええ~~ん」
「分かった、分かったから落ち着けっ」
 入り口で女子生徒に取り囲まれた担任は、香里の授業参加を認めるしか無かった。
「先生っ、この時間は全員で、命について話し合いたいと思いますっ」
 普段冷静な委員長達も罠にかかり、その時間はホームルームと入れ替えになり、「命」について討論する時間となった。
(計画的やな)
 今は、香里の本性を知っている祐一だけが、この状況を冷静に判断していた。
「実は今日、美坂のご両親が来られているので、特別に授業を見て頂く事になった」
 さらに香里の両親が招かれて、後ろの入口から入り生徒に向かって頭を下げる、そして…
(カメラだ……)
 香里に密着取材しながら、事前に学校側や教育委員会にも許可を取っていた放送*会の皆さんが、カメラを担いで現れた。
(これも計画のうちなのか?)
 もう驚きとか、そういった次元を超えて、恐怖しか感じない祐一。
「それと、テレビの方も取材に来られてるが、普段通りにするように」
 すでに、命について語り合う時点で普通では無かったが、業務用カメラが教壇の横に設置された事で、次第に異世界へとずれ込んで行く教室。
(やられた……)
 きっと病院を逃げ出した香里が、「祐一に会いに行って来ます」みたいな書き置きを残し、それを見た両親と取材班が車に乗って学校に急行、本人の無事を確認してから両親が学校に頼み込み、「最後の授業参観」が行われる事になったらしい。
(今日はN*Kか?)
 公共機関同士なら、ほぼフリーパスと言うか、断った方が問題になるような放送局を呼び込み、全国をも味方に付けようとしている香里。
(これを放送されたら俺は終わりだ)
 他の女が術を使おうがどうしようが、カメラと言う証拠もあるので、香里と別れれば社会的に抹殺され、放送があった地域へ引っ越してもスーパーや商店にも出禁、日常の生活品にも困り、外国にでも逃亡しなければならないので、祐一の頭の中では結婚行進曲が流れ、香里に引き摺られるように歩き、奴隷のような生活をする自分の姿が見えていた。

 カッ、カッ、カッ
 委員長が黒板に「命」の一文字を書き、教壇の前に立つ。
「それではこの時間は、次のホームルームと入れ替えになります、次回が授業になりますので、教科書を忘れないようにして下さい」
(委員長って、こんな時でも真面目なんだな)
 もう教室で冷めているのは、祐一と舞の二人だけだった。名雪公認で祐一の隣に座っている女は、いつまでも泣き止まないし、女子の半分以上もグスグス泣いていた。
(香里、ふぁいとっ、だよ)
 流れる涙を拭いながら、暖かい目で二人を見詰め、すっかり騙されちゃっている名雪ちゃん。
 すでにディレクターらしき人物も、香里と両親を見ながら泣いて、その頭の中では自然に、いつものナレーションが浮かんでいた。
(最後の授業参観をするご両親、今日は病院を抜け出してしまった香さん(仮名)ですが、同級生の皆さんが引き止め、この時間は命について討論する事になりました)
「発言したい時は挙手して指名されてからにして下さい、それでは」
 手を上げた生徒を指名する委員長、今日はカメラがあるので書記は必要無かったが、要点だけは黒板に書き込んで行く。
「私も体が弱くて、いつも仲間外れだったけど、美坂さんの話を聞いて考えが変わりました、これからはもっと強く生きて行きたいと思いますっ」
 周囲の状況につられ、普段何も言わないような大人しい生徒まで、次々に発言する教室。
「私は、生まれて来る命の全部に意味があると思うんですっ、だからっ」
 次第にエキサイトしていく生徒の発言。
「美坂さんは相沢君に会うために、相沢君と愛し合うために生まれて来たんだと、思います……」
 もう涙で詰まって、言葉が続かなくなった女子生徒。そこでプロであるはずのカメラマンまで泣いてしまい、ビューワーのレンズを曇らせながら生徒の発言を追っていた。
(もしかしないでも、あの番組みたいになるんだろうな?)
 祐一は予知能力を使わないでも、今後、香里の病室には、「全員で折った千羽鶴」が吊るされ、「クラス全員で合唱」したテープが、病室に響き渡るのが目に見えるようだった。
(それで「愛の奇跡」でも起こるのか、ソッチは民放用の脚本か?)
 すでに番組ごとの傾向まで、把握して考えているであろう香里。
(このままでは絶対、香里に勝てない)
 そこで1年の教室で、この事件を知らないまま過ごしている、先ほど追い返したばかりの「彼女」を思い、手を上げた祐一。
「あの、1年に香里の妹がいるんだ。みんな知ってる通り、あいつも永く生きられないって言われてたけど、もう退院して元気になった。だから香里も治るから心配しないでくれ」
 あまりにもエキサイトした討論を鎮めようとした祐一だったが?
「ううっ」
「うわあああっ!」
 その言葉でキちゃったのか、後ろでは母親が泣き崩れるは、女子数名もオイオイ泣き出してしまい、火に油を注ぐ結果となった。
(ふっ、甘いわね、祐一)
 今はもう、祐一や香里が何か言う度に、危険水位にあった涙の堤防が、次々に決壊して行く。
(ああっ、こんな時に佐祐理さんがいてくれたら、一瞬でほのぼのした雰囲気にしてくれるんだけどなあ?)
「偉いわ相沢君っ、そうよ、きっとそうよ」
「奇跡ってあるのよ、また起こるわ、信じましょう」
 不正規発言が続いたが、教卓に突っ伏して泣いている委員長もそれを止められなかった。
「うっ、ぐすっ」
(いかん、委員長までマジ泣きしてるぞ、もうこうなったら)
 そこで、最後の手段を提案する祐一。

 選択肢
1、舞に暴れてもらう
2、佐祐理さんを召還して、この場を鎮めてもらう
3、最終兵器「彼女」を呼ぶ
4、秋子ちゃんと愛の逃避行
 選択「3」

「だから、この話し合いは香里の妹にも聞いて欲しい。それと、できたら何か聞かせて欲しい、あいつが一番命の大切さを知ってると思うから」
 教室では拍手が巻き起こり、賛同が得られた。
(チッ、余計な事を)
 香里にとっても、自分に近い実力を持つ、栞を呼ぶのは避けたい選択だったらしい。
「私が呼んで来るわっ」
「「「「私もっ」」」」
「いや、わしが呼んで来よう、お前らは静かにしてろ」
 珍しく担任が立ち上がり、父親も教室を出て行った。女子生徒が1年の教室に突然押しかけ、ギャギャー騒ぐのだけは避けたかったらしい。
(くっ、こうなったら)
 栞が襲来するのは確実となったので、ついに手を上げて自ら発言する香里。
「こんな大騒ぎになってごめんなさい。みんなも知ってる通り、私の妹って祐一の恋人「だったの」」
 わざわざ過去形にして、全員に再確認しておく。
「でも、あの子ったら、私が病気になったからって、祐一を「譲ってくれたの」、私が祐一を好きになったの知ってたからっ」
 まるで権利譲渡が終了したかのように言って嘘泣きする香里。もちろん昼休みの間に「相沢祐一観察日誌」から、横顔のスケッチに至るまでの、姉妹の心の葛藤も、嘘で塗り固めて語られていた。
「あの子だって祐一が好き「だった」はずなのにっ、まるで何も無かったみたいにっ」
 また嘘絶句しながら、しつこく、しつこく、過去形でまとめておく。
「いいの、いいのよっ香里っ、妹さんだって分かってるわっ」
「そうよっ、私だってそうなったら、同じようにするもんっ」
 また脚本が進化したらしく、現実にはそうするはずも無い生徒にまで賛同が得られ、香里の支持率は70%を超えた。
「あ、ありがとう、みんな……」
(フンッ、今はこれが限度ね)
 栞が来るまでの前処理が終わって、仕方なく着席する香里。

 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!
 そこで祐一にも、教室に魔闘気が近付いて来るのが分かった。
(来ちまった)
 諸刃の剣である最終兵器栞、失敗すればここは「ガ*ラ対ギャ*ス」「ゴ*ラ対キ*グギドラ」のような恐ろしい戦場になる。
「栞っ!」
「お姉ちゃんっ!」
 やはり栞は、父親の説明と、この場の空気だけで、瞬時に自分の役割を感じ取り、大嫌いな姉に抱き着いた。
(お前もそうなのか、栞?)
 そこで無言で立ち上がり、栞に席を譲った北川。
「いえ、いいんです」
 栞も一度断ったが、騒ぎを大きくしないよう、一礼して席に座った。祐一にも挨拶代わりにパンチでグーを叩き込みたかったが、人前でカメラもあったので自重した。
「ねえっ、栞さんっ、香里から話は聞いたわ、病気のお姉さんのために「相沢くんを譲ってあげた」んですってね、偉かったわね、私達今、命について話し合ってるの、良かったら貴方からも何か聞かせて」
 泣いている生徒から軽く説明され、発言を要求される栞。脚本は姉の都合が良いよう書き換えられていたが、何か答えなければならない。栞はアドリブで繋ぎながら、頭の中で素早く脚本を書き上げた。
「去年の誕生日、私は姉に無理を言って余命の告知をして貰いました。「貴方は次の誕生日まで生きられない」って」
「うううっ!」
 その言葉だけで数名が撃沈され、前の「奇跡の恋」の主人公から、新番組の前説に、シーズン1のあらすじを聞いていた。
「その後、姉からは徹底的に無視されました、家でも学校でも、そこにいないように無視されました」
(ふんっ、その程度であたしの評判を下げようって言うの? やってみなさい)
 ドス黒い表情で妹の行動を見守る香里。この後無様に言い訳しないで済むよう、対抗の脚本は既に用意していた。
「でも、治ってから祐一さんに教えてもらえました、姉は「病気の妹なんて、最初からいなかった事にしないと耐えられなかった」んだって」
「うわああっ」
「ひいいっ」
 悲鳴のような鳴き声を上げ、次々に撃沈されて行く女生徒達、栞は演技する必要も無く、当時の事を思い出しただけで、綺麗な涙がすっと流れた。
「姉にも沢山心配させたり、つらい思いをさせて来ました。私がこんなですから、姉は自分だけが幸せになろうなんて思わず、「恋愛や恋愛ドラマが凄く嫌い」な人になってしまったんです」
「香里っ、あんたって奴はっ」
「俺を断ったのって、そういう理由だったのか」
 肉親から香里の恋愛嫌いの本当の理由を聞かされ、教室内で女子の絶叫が響き渡った。多少勘違いしている男子もいたが、気にせず放置した。
「ですから「お姉ちゃん」が倒れて、病院で「余命は持って三ヶ月」と聞かされた時、こうしないといけないって思ったんです、「たった一晩の奇跡の恋」を、お姉ちゃんにもプレゼントしてあげようって」
「あひぃsdfhdそghdりおpいあぴゅ!」
 もう言葉にならない女子の悲鳴が教室に響き渡った。栞も、もう冷静に話せなくなったのを示すように、身内の呼び名を「姉」にせず、失言して「お姉ちゃん」と呼んでしまうほど取り乱している演出を加えた。
(まさか、この子?)
 新番組の名前が「たった一晩の奇跡の恋」にされてしまった所で香里も気付いた。貸出要件が「たった一晩だけ」で、利子はトイチで取って債権回収して、自分をキッチリ型に嵌めようとしているのを。
「皆さん、私が「一週間だけ祐一さんと恋人の真似事」をした後に入院して、その間はお姉ちゃんが祐一さんを観察して、私に知らせてくれたのはご存知ですよね?」
「知っでる、ざっぎ聞いだもん」
 もう泣きすぎて鼻が詰まり、濁点を正しく使えない女生徒が答えた。
「その後も、恋愛音痴のお姉ちゃんは祐一さんを見続けて、横顔をスケッチして見せてくれました。だから私が先に気付いたんです、それで、今度は私が告知してあげました、「お姉ちゃんは祐一さんが好きなんですね」って」
 先程聞いた悲しい情景を、妹目線から教えられ、教室は静まり返った。
「お姉ちゃん、凄く慌ててました。だっていけない事ですよね? 「大切な妹の恋人を好きになってしまう」なんて」
「もうやめてっ、栞っ!」
 まるでその時の記憶を思い出し、耐えられなくなって叫んだような演出を入れ、世論が冷静になって栞を応援し始めないように話の腰を折った。
「その時のことは祐一さんにも伝えました、だからお姉ちゃんの心配はしないでいいですから、一晩だけ恋人の真似事をして、お姉ちゃんを幸せにしてやって下さいってお願いしたんです。でも、祐一さんは悪い人でした」
 祈るような格好で、笑顔のまま涙を流し続ける栞の言葉に息を飲み、再び静まり返る教室。祐一は自分が悪役にされる予感はしたが、栞の弁舌が勝てば悪魔のような香里から開放される。そこで邪魔はせず、静かに次の言葉を待った。
「お姉ちゃんだって、告白しなければ忘れられた、本気じゃないって思わせれば、次の日には今までのクールで格好良いお姉ちゃんに戻れたのにっ、でも、祐一さんは、お姉ちゃんに本気で告白させて、本気で愛し合ってしまったんですっ、私からお姉ちゃんを奪って、どこにでもいるただの女の子にしてしまったんです……」
 首を振って涙の雫を飛ばし、「妹の彼氏との禁断の恋愛」であることを説明し、それよりも「憧れていた格好良い大切な姉」を壊して奪い取り、「どこにでもいるただの女」にしてしまった事を責める。
 香里は実力行使をして、抱き付いてでも妹の口を塞ごうと思っていたが、最期の言葉で逆転され、今行けば逆効果になる事を悟った。
「相沢っ、てめえ何しやがるんだっ、栞ちゃんから香里をっ」
 男子数名が泣きながら祐一を責め立てる。それは羨ましさや嫉妬ではなく、香里を幸せにしようと思う余り、栞から大切な姉を奪い、自分の物にしてしまった悪い男を責める言葉であった。
「祐一さん、お願いです、お姉ちゃんを私に返して下さいっ、あのかっこ良かったお姉ちゃんをっ……」
 泣いて叫んで嘘絶句して、姉が構築した世論を叩き潰し、「祐一を返せ」ではなく、全く角が立たないよう、格好良かった香里を返すよう言って、二人の関係を完全に絶とうとした栞。
 ここで香里を返さないような男は、体育倉庫に連れて行かれ、マットで簀巻きにされて十人ぐらいの男子が上に乗って制裁されたり、ホモーに掘られるのは間違いない、満足した栞は嘘絶句したまま席に座った。

(しまったーーーーーーーーーーー!)
 妹の実力を見誤っていた香里は、昼休みに喋って泣いて嘘芝居した労力を、全てひっくり返されて無駄にされるとは思ってもいなかった。さすがにシーズン1のヒロインだけあって、実力は自分と互角だと認識せざるを得ない。話の主題は「命」から外れているのに気付いたが、観客の方は気にせず視聴している。
 そこでマヌケな男が立ち上がって栞の言う通りにしようとしたのを見て、その短い時間に脚本を書き換え、妹に勝利して、尚且つ時間内に収め、授業終了時間に優勢でなければならない。難題に立ち向かうため、香里は脳をフル回転させた。

 祐一は栞の行動に恐ろしいほどの違和感を感じた。邪悪な芝居をして、香里が作ったお話を根底から覆し、自分を返すよう言うのではなく、自分の恋人をも譲った愛しい姉を、今すぐ返すよう要求されてしまった。
 事情を知っている祐一は、もう恐怖しか感じていなかったが、片方の悪魔と手を切れる機会を作ってもらったので、一時、栞脚本に乗ることにした。
「すまなかったな栞、俺、お前の恋人なのに香里と本気になってしまって。でも、もう返すよ、お前の大切な姉を、格好良かった香里を。医者だって香里はよくなったって言ったらしいし、大丈夫だよな? おれも精一杯頑張ったし、香里だって幸せそうにしてくれた、だから」
「やめてっ!」
 香里脚本が完成したのか、アドリブで対応しているのか、嘘芝居の悪魔が立ち上がって祐一を制止した。
「あたし…… 治ってなんかいない、祐一がいてくれなかったら、また血の気が引いて真っ白になってしまうんだからっ」
 脚本が完成せず、アドリブなのか今ひとつキレが悪い香里の芝居。そこで間を繋ぐために「恋は不治の病なんだゾ」などと下らない話を挟もうとしたかどうか定かではない。
「もうあたしは栞が知ってるかっこいい姉なんかじゃない、あんなの嘘なの、外見を取り繕ってただけの仮面。そんなの、命の危険からすれば何の価値も無いハリボテなの」
 主題の「命」を絡ませた脚本と芝居をして、格の違いを見せ付けてやることにした香里は、準備してきた「手首のためらい傷」が周りに見えてカメラにも映るよう調整してから、昼休みに公表していた、「二人の時間を繋ぐ運命の腕時計」を引き出した。
「香里っ、その手首の傷っ!」
 予定通り、傷に気が付いて、必要なセリフまで言ってくれた女生徒に感謝しながらも、見られたことに驚いた表情をして、顔を背けて手首を隠す。
「ち、違うの、これはっ」
「香里っ、傷って何だっ?」
 脚本に乗ってくれた父親まで必要なセリフを言ってくれて、ほくそ笑む香里。
「ええ、そうよ、自分で終わりにしようとしたの。あたしが妹から貰った時間は「たった一晩」、でも、でも幸せだった。伸ばしてた髪も、病院では邪魔になるだけだから、祐一に切って貰って「遺髪」として受け取って貰えた。きっと妹か名雪なら、見付けても捨てないでいてくれるだろうと思って」
「香里っ」
 計ったように感動した名雪が涙声で合いの手を入れてくれて助かる香里。昼休みに話してしまった「奇跡の恋シーズン2」のダイジェストを、カメラにも収めてもらって邪悪な妹に対抗しようとした。
「でも、妹が掛けてくれた魔法が解けても、12時の鐘が鳴ってしまっても、あたしは諦められなかった。電話で妹とも喧嘩して、心配してくれてた名雪とまで絶交して、あたしはみんなを裏切り続けたっ、だから終わりにしようとしたのっ」
 手首の傷を全員に見えるよう袖と時計を上げ、「長さも長く派手な割には浅い数本の傷」を見せた。時系列でどの時点で切ったかは言っていないので、それは観客の想像に任せた。
「でも、左手には祐一と交換した腕時計があったの、結婚式の真似事までして、祐一との愛を誓い合ってしまった、妹への裏切りの印があったのっ」
 そのまま顔を両手で隠し、嘘絶句して泣き崩れる振りをする香里。
「悪い魔女はあたしよっ、祐一を誘惑して、妹を苦しめて、名雪まで…… でも、できなかった、時計が手首まで滑り降りてきて、祐一に止められた気がして、切れなかったのっ」

 その時の栞は、姉の急ごしらえ脚本の見事さと、いつ必要になるか分からないのに、手首の傷まで用意していた天性の勘の素晴らしさに、悔しさから来る涙を流していた。
「それ、さっき話してくれた、病室で結婚式をした時、相沢くんと交換したエンゲージリングの替わりでしょ?」
 説明的なセリフも、自分から言ってくれた生徒に感謝して、不足した所を補っておく。
「ええ、朝日を浴びながら病院のカーテンを体に巻いて、頭にシーツを載せて、母さんだけに見守ってもらいながら言ってしまったの、「誰からも祝福されない愛の言葉」をっ」
 再び感動のズンドコに叩き落とされた教室では、「不倫は文化」などと言う下世話な言葉でも、真実の愛の前では有効になるのだと認識され始めていた。
「でもっ、祐一は答えてくれたっ、病める時も健やかなる時も、「死が二人を分かつ時までっ」愛し合うって誓ってくれたのっ!」
「うわああああっ!」
 香里の言葉と、余りにもいじらしい二人の愛の行為に耐えかねた女生徒数人と母親が爆発した。特に「死が二人を分かつ時まで」のフレーズがここまで似合う恋愛は見たことが無かったので、男子も数多く撃沈され、教室は再び香里に支配されて行った。
(ふっ、どうよこの脚本?)
 先程栞が修復してしまった、涙の堤防の爆破に成功した香里は、余りの脚本のできの良さに、妹に直接聞きたい誘惑に駆られたが、終業の鐘が鳴るまで馬脚は現すまいと思い直し、時計を見て残り時間を計算した。
(ふふっ、もうすぐね、このまま逃げ切れればあたしの勝ちよっ)

 選択肢
1、祐一に時計を返す
2,時計を返さず、「死が二人を分かつまで」待ってもらうよう栞に跪いて懇願する。
3,このまま終了時間を待つ
4,秋子ちゃんと愛の逃避行
 選択肢「1」

「あの時が、あたしの人生で最高の瞬間だった(嘘)。あんなに幸せな時間は無かったわ、あの一秒が止まって、永遠に続けば良いと思った。でも、それももう終わり、今日で終わりにするの」
 全員に見えるよう、ゆっくりと祐一の時計を腕から外し、その手を祐一に差し出した。
「香里……」
 祐一も香里と手が切れるなら喉から手が出るほど欲しかったが、その意味は「返したらすぐ死ぬからね、取れるもんなら盗ってみなさいっ! いーわね?」と言っているのと同義なので、それを受け取るような寝ぼけた奴は、男子トイレで軽くフクロにされ、目を覚ますまで便器の中で顔を洗われるのが定説なので、どうしても手が出せなかった。
「もういいの…… 今までありがとう、さようなら」
 笑顔のまま嘘泣きし、涙で枯れた声を絞りだすように出し、全てが終わったような爽やかな顔をして差し出すが、そこで異変が起こった。
「返しちゃダメ~~~っ!」
 不倫賛成派の女子数名が全力ダッシュで駆け寄り、祐一との間に割り込むと、時計を香里の左手にはめ直し、しっかりと固定した。
「結婚式、やりましょうっ、もう一度ここで、みんなで祝福して、やり直しましょうっ!」
 別の女が祐一の左手を上げ、証拠の品である「香里の女物の腕時計」を全員に見せ、カメラにもしっかりと収めてもらうと、周囲から賛同の拍手が巻き起こった。
 そこで驚くことに、復活していた委員長が、「相沢君と美坂さんの結婚式、日取りは? 衣装は?」と黒板に大書してしまった。
((しまったーーーーーーーーーっ!))
 栞と祐一は、心の声で同時に叫んだ、なんと真面目だと思われた委員長は、不倫賛成派だった。
「妹さんはどうすんだよっ?」
「そうだそうだっ」
「真実の愛なのよ、なんで分かんないのっ」
「そうよっ、こんなに切ない恋なのにっ」
 不倫否定派は案外男性側に多く、不倫肯定派は女性が多かった。そこで近くにいた女が、一歩踏み込んで栞の手を取り、涙ながらにこう言った。
「お願い栞さんっ、相沢君と香里の結婚式だけは認めてあげてっ、本当に届けを出すわけじゃないの(提出済み)、子供の遊びだと思って我慢してあげてっ」
 本当の届けを出す気満々の姉を思えば、子供の遊びで済む訳がない、既成事実として世論の指示を得て、大々的に利用するのは目に見えていた。
「え、でも?」
 姉との一対一の対決だとばかり思っていた栞は、無名の「歩」に陣地に入り込まれ、眼の前で「と金」に成られた、さらに近くでは桂馬が効いていて、角道には委員長が居座っている、ここで栞は「詰み」を覚悟した。
(フフン、チェックメイトよ、栞)
「私からも頼む、「死が二人を分かつ時まで」香里に相沢を貸してやってくれないか? 頼むっ」
 近くにいたタカラヅカの男役のような、背が高い女子が涙を流しながら詰め寄って、「お前は詰みだ」と宣言した。この申し出を断るような女は、机に一輪挿しを置かれ、油性マジックで机に「死ね」「ブス」「ブタ」「キモいんだよ」とビッシリ書き込まれ、ノートや教科書も同じ扱いでゴミ箱に投入、財布を盗んだ犯人扱いされ、仲間はずれ、無視、陰湿な暴力、暴言、からかいの対象になって、体育でもペアは無し、フォークダンスでも一人飛ばし、修学旅行でもボッチ、トイレに行けば上から水を掛けられるのが日常になるのは簡単に想像がついた。
(それって、私の小中学校時代じゃない、でも負けないっ)
「あの、子供の遊びなんでしたら、私も参加していいですか? 私もウェディングドレスとか着てみたいです」
 可能なかぎり子供っぽく言ったつもりだったが、下心が見え隠れしたかもしれない、姉の凄まじい攻撃に、負けを認めざるを得ない栞だった。
「おおっ、賛成」
「俺も、俺も~」
 男子達のやたら音を強調した拍手が起こった。不倫否定派の連中が、自分達はマイノリティーではないと主張したかったらしい。
「結婚式なのよっ、新婦が二人なんておかしいわっ」
「香里の最後のお願いなのにっ」
 過去には「キクちゃんもハナちゃんも好きダスーー!(声:野沢雅子)」で有名な風大左衛門が、「いなかっぺ大将」の最終回で二人の花嫁と結婚式を挙げた実例?もある。子供同士の結婚式なので有耶無耶になったが、前例が無い訳でもない。

 そこで香里は、栞を包囲していたうちの一人が、委員長にソロリソロリと近付き、何やら耳打ちしているのが見えた。それを聞いた委員長は、黒板の日取りの欄に「サ」と書こうとして、すぐ女に消されたのも見た。
(ふふっ、栞をのけものにして、三年生だけで「サプライズパーティー」として、あたしに結婚式をプレゼントしてくれるのね、あはははっ!)
 一文字にも満たない情報から、全てを察して次の一手を考える香里。幸い数人に囲まれている栞からは死角になっていて、委員長の行動は見えていない。
「いいの、もうやめて、これ以上妹を裏切れないっ」
 姉の意外な言葉に驚く栞。きっと勝利宣言のように結婚式を承諾し、取材班にも録画させると思っていたので、その言葉には違和感を感じた。
「どうして? 相沢くんだって愛を誓ったんでしょ?」
「あたしが言わせたのっ、あんな状況で断れる人なんかいないわっ、もう祐一を許してあげてっ」
 ここで香里は、再び一人歩きし始めた脚本に任せ、自分の口からは答えを出さなかった。
(フフン、今度もチェックメイトよ、祐一)
 再び「ナイト」である背の高い女子が詰め寄って祐一の肩を掴み、チェックを宣言した。
「相沢、知ってるか? こんな時の嘘はいくらだって許されるんだ、「残り三ヶ月」「死が二人を分かつ時まで」「奇跡の恋」の続き、私達にも応援させてくれよっ」
 まるで「もう分かってる」「無理すんな」とでも言いたげに、熱い涙を流しながら頷いて肩を叩き、「頑張るんだぞ」と思いを込めたパンチを軽く胸に入れられる。そして祐一と香里の手を取って引き合わせ、こう言った。
「私が牧師役をやるっ、香里のドレスを作ってくれるのは誰だっ?」
 数名の女子が嗚咽を堪えながら挙手した。どうやら統率力やカリスマ性、発する言葉の説得力でこの「王子」に敵う者はいないらしく、その言葉は全て決定事項になって行った。
「じゃあ、教室の飾り付けとか、音楽の準備は?」
 男子や女子も手を上げ、不倫否定派も完全に黙りこんだ。
「委員長、教室とか「体育館」の使用許可っているのかな? 頼めるか?」
 ハンカチで目を覆いながら、何度も頷く委員長。
「決まりだな、相沢。栞ちゃんも許してくれるかい?」
 もしここで断るようなカップルは、誰かが「不純異性交遊」の証拠を集めて、普通は問題にならない生徒同士の恋愛も、PTAや女性教師から徹底的に糾弾され退学、地元の有力者にも回状が回って就職や転校も不可能、残る人生は南の果てまで逃げて、夜のお店で働くか、パチンコや新聞配達の住み込みの仕事でも探すしか無い。そこで二人が言えたのはこれだけだった。
「ああ……」
「分かりました……」
 完全敗北した栞は、この屈辱を忘れないよう、奥歯で舌を噛んで、血が出るまで噛み締めた。寝る時も硬い薪に伏し、苦い肝を舐め、姉に勝利するその日まで「臥薪嘗胆」するのを心に誓った。
 その時、両親の横に立っていた北川が「呪いのビスクドール」のような表情をしていたのに香里も栞も気付いたが、演出上関係無かったので放置した。
「これから忙しくなるぞっ、やり切ろうぜっ」
「「「「「「おおーーっ!」」」」」」
 全員の賛同が得られた所で授業終了の鐘が鳴った。これを予想していた祐一と栞も、恐怖よりも完全にしてやられた敗北感に満たされ、時間配分まで計算し尽くした香里に敬意さえ抱いていた。

「さあ、時間だからここまでだ、後の事はまた改めて決めろ。美坂、外出時間も過ぎてるだろ? 病院へ帰れ」
「はい」
 担任に急かされ、席を立つ香里、そこで最後を締め括るよう、出口に向かいながら別れの挨拶をした。
「みんなっ、今日はありがとう、授業まで潰して話し合ってくれて。でも、この教室の中では、きっとあたしが一番幸せよ。だから「あたしがいなくなっても」悲しまないで、だって、皆にもこんなに良くしてもらったし、祐一とも出合って愛し合えた。あたしはこれから残された時間で、みんなの一生分を生きるの、後悔なんかしたりしないわ」
「ぐおうっ」
 今度は父親が撃沈されたらしく、おっさん泣きを披露していた。
「父さん?」
「大丈夫だ」
 後ろに行って父親を起こす香里、セリフも行動も、全て公*放送の範囲に収まるよう、自分で制限しているらしい。
「ありがとう、名雪」
「香里っ」
 涙だけでなく、鼻水まで垂らした見苦しい名雪を抱き、「最後のお別れ」をする。
(だめよ、この子にしっかり抱き締められたら、心が癒されるから)
 教室を出るまでは、しっぽを出さないよう頑張る香里。
「お姉ちゃんっ」
「栞……」
 この二人は芝居の上だけの愛情を。周囲にばれないよう、膝蹴りとか「目に指入れ」なんかはしないらしい。
「北川君、ありがとう」
 握手しようとして、まるで今気付いたように、包帯で巻かれた手を取る。
「ばかね、あたしのせいでしょ? こんなにして」
「違う、これはちょっと喧嘩しただけだっ」
「生きたくても生きられない人だっているんだから、これからはあたしだと思って大切にして」
 そう言って、痛めた右手を優しく撫でる香里、北川の見え透いた言い訳すらシナリオの範疇だったが、その手の名前が「香里ちゃん」になって、毎夜酷使される所までは想像していなかったらしい。
「くっ、ううっ」
「もう、泣かないでよ、男の子でしょ、笑ってお別れしましょうって約束したじゃない」
「できねえよっ」
 ゆっくりと手を離し、香里は声に出さず口だけ動かして「さよなら」と言った。
「祐一」
「ああ」
 両手で握手して、何故か祐一とは一番素っ気無い挨拶を交わす。テレビで放送できるよう、キスなんかはしないらしい。
「みんな、ありがとうっ、今日の事、絶対忘れないからっ」
 すでに教室は感動のるつぼに叩き込まれ、香里は全員の拍手で送り出されようとしていた。

「だめ……」
 しかし、出入り口で立ち止まり、何か言おうとする香里。
「「「「「えっ?」」」」」
 さっきまで笑っていたはずの香里は、(カメラに)振り返ったとたん、涙でボロボロの表情になり、教室は一瞬で静まり返った。
「やっぱりできないっ、このまま笑ってお別れなんてできないっ!」
 まるで、「今まで気丈に振舞って来たのに、別れ際に我慢できなくなった」ような雰囲気を出して、叫び出す香里。
(なるほど、そう来たか)
「私、もっとみんなと一緒にいたいっ、もっと「青春」したかったっ、祐一やみんなとだって一杯遊びたかったっ」
「美坂……」
 いつも気丈でキツイ女だった香里が、周囲の目も気にせずボロ泣きする姿を見せられ、さらに心を鷲づかみにされる男子一同。
「あたし、また学校来ていいかな? みんなと一緒に授業受けていいかな?」
「いいに決まってるじゃないっ」
「いいんだよっ、ここはあんたの学校なんだから、あんたの教室なんだからっ」
 自分のセリフと芝居だけで、名も無い脇役にも名演技をさせてしまう香里ちゃん。
「いいのっ? またみんなに迷惑かけるかも知れないのに、それに祐一にだって」
 まるで次のセリフを催促するように、視線を祐一にロックオンする。
(来た…)

 選択肢
 1、了承
 2、栞に決めさせる
 3、両親に決めて貰う
 4、香里の体を心配して断る

「いいんだよ、誰も迷惑だなんて思ってないだろ」
(ううっ、俺も偽善者だっ)
 そう思いもしないのに、何故か口からは了承の言葉しか出ない祐一君。ここで断るような奴は、人間として男子の大半から制裁を加えられ、屋上で立ち技のk-1ごっこから、寝技のグレイシー柔術を極められ、腕ひしぎ十字固やアキレス腱固めを同時に食らわされたり、アルティメット格闘技の末スペシャルビーフケーキをご馳走になり、ジャイアントスイングでフェンス超えの投擲を決められ、フリーダイビングさせられるらしい。
「栞、どう思う?」
 最後の希望を託し、毅然とした態度を要求する祐一。
「はい、お姉ちゃんの思った通りに」
 こちらも、そんな考えなど、これっぽっちも無いのに、笑顔で答える栞。
(お前も偽善者だ……)
 それを聞いた祐一は、急速に恋心が冷めて行くような気がした。
「じゃあ、ご両親は?」
 すでに言葉も無く、深々と頭を下げる二人、ついに退路を断たれた感じがしたが、最後の突撃を試みる。
「でも、やっぱり俺にはできないっ、お前が苦しむだけだからっ、1分1秒でも長く生きて欲しいからっ、「学校に来てもいい」なんて言えないっ」
 香里の邪眼に捕えられないように顔を背け、まるで「お前と会いたいけど会えないっ」みたいな演技をしてみた祐一。
(ニヤリ)
 目を逸らしていた祐一には、香里の口元がハンカチの下で笑っているのに気付かなかった。
「相沢……」
 瞬間最大視聴率を獲得し、静まり返っていた教室で口を開いた人物がいた。
「お前、休学してもいいぞ。人生、受験や就職だけが全てじゃない」
 それはついに香里の芝居に屈し、涙を浮かべながら休学を勧めた担任だった。
(しまったーーーーーー!!)
 自ら墓穴を掘って、中に入って土までかぶってしまった祐一君。先程の選択肢は、上から順に実行すると、最悪の状態を招く特急券が自動的にプレゼントされる仕組みになっていた。
「今日はもういいから、病院まで送って行ってやれ」
 深々と頭を下げ、今度こそ拍手で教室から送り出される香里と、引きずられて行く祐一。さっきのがカーテンコールだったらしい。
(いや~~~~っ!)
 その後、この映像は、放送前に校内のホームルームで各クラスで見せられたり、天使の人形の力で、あっという間に審査を通り、地方局ローカルで放送される事になった。これが難病アイドル、美坂姉妹誕生の瞬間であった?


「うぐぅ、香里さん、がんばって」
 こちらも香里の芝居に騙され、涙と鼻水でヌルヌルになっているあゆ。
(騙されちゃだめだよ、香里さんはもう治ってるし、あれは全部お芝居なんだ)
「え? そうなの、香里さん治ったんだ、よかった~」
 どこまでお人好しなのか、自分や祐一を騙している相手が無事なのを喜んでいるあゆ。
「あっ、あの人こっちに来るよ、見付かっちゃった」
 香里の芝居を見ても唯一人泣かず、後に「冷血女」とあだ名される剣豪が、教室の後ろに歩いて来た。
 じーーーーー
「うぐぅ、こっち見てるよっ、早く逃げないと」
(大丈夫、僕達は壁の中にいるからね、直接…)
 バキッ!
「うぐっ、うぐうう~~~~~っ!」
 自分の目の前にある壁を殴られ、パニックに陥るあゆ。
(壁の中まで攻撃はできないんだ、外に逃げた方が危ないよ、窓から飛び掛って来るかも知れないしね)
「うぐう~~~っ」
(仕方ない、帰ろうか)
 真上に上って、また何処かに消えて行く、天使の人形とあゆ。
(そうそう、佐祐理さんは休ませない方がいいよ、倉田家に「見えない魔物」が出るかも知れないしね)
「…何っ!」
(教室の方が窓も多くて明るいし、君が守ってあげられるだろ、分かったね)
「待てっ」
『嫌っ、何してるの、あの人?』
『幽霊とでも喋ってるんでしょ、関わっちゃだめよ』
 今は佐祐理、祐一などの弁護人がいないので、好き放題言われている舞。
「何してるんですか? 川澄さん」
 祐一関係の知り合いなので、思わず声を掛ける北川。もしかすると自分と同じ行動原理で、コンクリート壁を殴っているように見えたのかも知れない。
「…この中に何かいたから、香里さんが倒れた時にも同じ奴がいた」
「えっ?」
「…あの子も少し変だった、病気が治りかけているのを知っているのに、どうしてあんなに泣いていたのか分からない」
「ええっと?」
 珍しく饒舌な舞と、意味が分からず戸惑っている北川と名雪。
「あの、香里が治りかけてるって、どうして分かるんですか?」
 名雪に聞かれるが、香里の心の声が聞こえ、全て嘘だと分かったとは説明出来なかった。
「…祐一に力を貰ってるから」 
 香里の体にも魔物が潜んでいて、力を奪っているようにも、命を繋いでいるようにも見えたが、もちろん名雪には説明できない。この時舞は、放浪中の他の魔物は後回しにして、香里の中の魔物との対決を決意した。
 
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