白く咲けるは何の花ぞも
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序章
序章
序
海から吹いてくる強い風が毛利の肩に掛けた羽織りをはためかせる。
季節はようやく春の訪れを見せ始めた如月の頃。
小袖と袴だけでは寒かろうと城を出る時、長曾我部が肩に掛けてやったのだが、風が強すぎて押さえておくのが面倒になったのだろう。肩から滑り落ちるのをしきりに直していたが、やがて諦めて「邪魔だから持っておれ」と後から追いついた長曾我部の腕に押し付けた。
「寒いだろう。羽織っておけよ」
袖を通させようとする長曾我部から逃げ、毛利は再び先に立って歩き出す。
強い風が着衣を貼り付かせ、毛利の身体の細さを浮かび上がらせていた。
幾度か抱き合い、肌触りや匂い、吐息の熱さまでまざまざと脳裏に思い返せる相手である。
彼と過ごした過去の密な時間も甦ったが、今の毛利はそんな邪な気分など即座に払拭するぐらい病的に痩せていた。
死んでもおかしくない程の火傷を全身に負い、二月の間、何度か心音を止めながら、ずっと死地を彷徨っていたのだ。
かろうじて焼け焦げていなかった顔の半分と、彼が好んで着ていた浅黄色の着衣の切れ端から、ひょっとしたらこの怪我人は毛利なんじゃないかと判別出来た程である。
その火傷も二月の間にすっかり完治し、明るい陽光を浴びて眩しそうに目を細める彼の白い相貌に焼け爛れた痕は皆無だ。
医者が言うには顔だけでなく、手足の傷痕も綺麗に治癒しており、爛れ傷は脇腹に残っただけと言う。
「とかくこの世は、信じられぬことも起こりうるものでございます」
二月の間、毛利に付きっきりで容態を看ていた医師が、薄気味悪そうな目を御簾の向こうの毛利の影に向け、手元の数珠を鳴らして厄払いしたぐらい。
奇跡的に、そして神懸かり的に毛利は一命を取り留めた。
痩せてしまったのは床に臥せっていた間、重湯を口に含ませることしか出来なかったからである。
それだけでも驚異的な体力だった。
その毛利も、今日は随分と気分が優れ、機嫌も良いらしい。
長曾我部が部屋を訪れるのを、廊下を歩く足音で気付いていたのだろう。
襖を開けた時には久々に御簾を上げ、凜とした姿勢で起き上がる毛利が彼を待ち受けていた。
顔を見るのも久し振りなら、声を聞くのも数ヶ月振りである。
思えば彼らが最後に会話を交わしたのは、数ヶ月前、厳島の毛利の館に長曾我部が赴き、豊臣の九州、そして中四国侵攻前に内々に話し合いの場を設け、互いの国の取るべき道を話し合って以来だった。
「生きておったか、長曾我部よ。貴様の顔を見るのはもう飽いたわ」
「そりゃ、こっちの台詞だ。ったく、殺しても死なねえとはまさにあんたのことだぜ」
何事にも動じず、静かで厳か。
そして明晰さを窺わせる、毅然とした実に耳に心地良い声。
久々に聞く毛利の声に、長曾我部の身の内から素直な感慨が込み上げる。
「まさか、自ら他国は侵攻しないと評判高いあんたが、豊臣に刃を向けるたぁ、さしもの俺も予想外だったぜ。同盟結んでこの四国を攻めておきながら、どうして袂を分かって豊臣に兵を挙げた」
「何故、と問われても、理由は様々。取り立てて話すことでもあるまい」
「まあ、いいや──、で、話は医者からおおよそ聞いているだろうが、ここは土佐の俺の根城、浦戸城内だ。あんたは今、俺の捕虜になってる」
「うむ」
「飯やら酒やら……、あんたは酒は飲まねえが、何か必要なものがあれば用意させるぞ。あ、餅がいいか? ってか、食えるのか? 」
「特にはないが──」
ならば外に出たい、と毛利が言う。
仇敵が息を吹き返し、初めて漏らした自分への要望である。
長曾我部も叶えてやらぬ道理はなかった。
「だったらあんたが乗る輿を用意させねえとな」
「輿なぞ不要。歩いてまいる」
「おいおい、つい昨日まで寝たきりだったあんたが一人で歩けるかよ。ろくに食ってもいねえのに」
「不要だと申しておる。良いから湯浴みの支度をさせよ」
「まーた、強がり言っちゃって。ったく、元気になった途端、すぐにこれかよ。待ってろ、急いで用意させる」
下女たちに毛利の身を清めさせ、重湯を飲ませてから、そうして彼らは城から歩いて一里程の浦戸の湾に来ていた。
少し急な坂道を降って行くと、広い砂浜が見えて来る。
「足元、気を付けろよ」
長曾我部にとっては慣れ親しんだ土佐の海だが、毛利がこの地に自分の足で降り立ったのは実に久し振りである。
いつ以来かと言うと、それは彼らが初めて出会った、長曾我部がまだ「姫若子」とあだ名され、行く末を悲観されていた頃まで遡る。
この浦戸の城はその姫若子が鬼若子へと転身した、元親の初陣の地、長浜に近しい場所にあった。
「島影一つないのだな、この海は」
「おうよ。この大海原の向こうにも大陸があるらしいが、残念ながら俺もまだそこまでは到達していねえ。世継ぎが出来て、隠居の身になったら、船で旅してみたいもんだぜ」
土佐の地は日の本でも東の果てにある。
背後は馬で通るにも難儀する讃岐の山々に囲まれ、眼前はこのどこまでも続く、果てのない大海である。
余りに交通が不便なことから、かつては左遷の地として都落ちする貴族たちの流れ着く先となっていた。
左遷の地、土州。
それが土佐の名の由来であり、元を辿れば長曾我部が土佐を統一するまでは土佐で絶対的な権力を誇り、栄華を謳っていた名門土佐一条家も、そして長浜に根付き長曾我部と名乗るようになる曾我部家も都から流れて来た家ばかりである。
視界を遮る山もなければ、島影一つない。
ただひたすら水平線が続く、青く深い大海原は余所者がこの土佐を訪れた際、一番に感嘆することだった。
「この海を遥か彼方に越えた先には、広大な荒野が広がる異国の地があるらしいぜ。伝え聞いた話じゃ、この日の本の州全部を合わせたより遙かにデカいらしい。狭い瀬戸内の水溜まりで決着のつかない諍いを延々あんたとやり合ってるてめえが豆粒みてえに小さく感じる」
「エスパーニャとか申す南蛮人たちの住む国のことか」
エスパーニャ、或いはイスパニアとも言う。
西の果てに位置する吉利支丹たちの国だ。
この四国に渡来する南蛮人はさほど多くはないが、毛利が治める中国と北九州の港は外国からの玄関口である。
中国の国力はそれで成り立っている部分も多く、当然、長曾我部より毛利の方がその辺の事情に通じてそうなのだが、彼の関心は南蛮人が持ってくる財だけで、彼らの文化や歴史、暮らしぶりなどは全く関心がないようだった。
彼の目は常に自国の保全のみに向けられているのだろう。
「ったく、夢のねえ田舎者はこれだから困るぜ。いいか、エスパーニャってのは唐の国をこう越えて行ってよ」
長曾我部が地に落ちた枝を拾い、無知な毛利に世界とは何なのか教えてやろうと地面に世界地図を描き出しても、毛利の聞く気もないのか視線すら向けなかった。
「で、土佐から行く航路はこうだ──、ってあんた、俺の話聞いてんのかよ。何、人にケツ向けてんだ」
「遠い異国の話なんぞ聞いたところで何の役に立つ。どうせ忘れる知識など、聞くだけ無駄だ」
「無駄だと決めつけるのは俺の話をちゃんと聞いてからにしろよ! あんた程知識に飢えてる奴もいねえと思ってたんだが、案外狭い了見で満足してんだな」
「目の前の小事よりその先の大事とは申せど、己の足場が弛んでおるのに、遠く海の果てばかり眺めておるのも愚の骨頂。知識は無尽蔵には溜められぬ。我にとって必要な知識とは戦に完全勝利することのみ。それ以外はどうでも良い」
「……つっまんねえ男だなあ。あんたにゃ、これっぽっちも夢ってもんを感じねえ。毛利、あんたそうやって生きて来て楽しいと感じたことが生涯で一度でもあったか? 何だか俺は生まれ変わってもあんたにだけはなりたくねえ。俺は俺でいい」
「貴様のように始終酒をかっ喰らい、高鼾で呑気に惰眠を貪ってはおれぬ身故な。そもそも貴様と我とでは魂の完成度が違う。魂として未成熟な貴様如き俗輩が、日輪の加護を受けた非凡なるこの元就に成り代わることなど、断じてある筈がなかろうが」
「へいへい、そーかよ。もうあんたにゃ何も教えてやらねえ」
毛利の理解を得るのは到底無理だと諦め、長曾我部は地面に描き出した地図をせっせと消し始めた。
大柄で肩幅も広く、屈強な戦士である長曾我部が折れそうな程、細く小さな木の枝を掴み、地面の落書きを消している様はどうにも滑稽だった。
自分が笑いを隠せずにいることに気付いた毛利は、直ちに弛緩した口元を元に戻す。
「それにしても、今日は良い風が吹くな」
「ん? おお、そうだな。ちょっとばかし強く吹きすぎだが、船を走らせるには好都合だろう」
「うむ。これなら安芸へ戻るにも早かろう」
「安芸、か──」
毛利の一言で長曾我部は真顔に戻り、手にした木の枝を放り投げる。
「毛利、あんたは俺の捕虜だと言った筈だ」
改めて語気を強め、毛利を諭す。
戯けた表情で場を和ませることの多い長曾我部だが、真顔になった時の彼はまさに鬼神、鬼若子だ。
生まれつき白かった銀髪は獅子の鬣のように逆立ち、これまた先祖返りなのか彫りの深い顔立ちに赤茶色の双眼が燃え盛る焔のように相手を上から威圧して来る。
それで動じるような毛利ではないが、ようやく本題に入れると思ったのだろう。
長曾我部に向き直り、真っ正面から視線を交えた。
「あんたはここで──、俺の監視下で、ゆっくりと寛ぎ、静養するんだ。どんな我が儘な願いだろうと、この元親が手を尽くしてあんたの期待に応えてやる。だが、あんたを安芸に返すことだけは駄目だ。今は身体を治すことを第一に考えろ」
「これは頼みでも懸願でもない。我を安芸へ送り届けるのだ。断ることは断じて許さぬ」
「……嫌だって言ってんだろ」
「ならばここで死ね。その手で我を殺め、我から自由を奪うと良かろう。偽善はたくさんだ」
「強がりもたいがいにしろってんだ。今のあんたなんざ、赤児の首を捻るより容易く息の根を止められる。大人しく俺の命に従っておけ! ここはあんたの土地じゃねえ、俺の土地、この元親の言うことが絶対なんだ!」
「………」
長曾我部の言葉を愚弄と受け取めた毛利が腹を立て、眉間に皺を寄せる。
「姫若子が」
と吐き捨てる様に言う。
彼が本気で腹を立てた時、常に起こることなのだが、長曾我部の胃の腑が締め付けられ、食べた物すべてを吐き出したい程の錯覚を覚えた。
強い力で内臓が締め付けられるような。
嫌な汗が滲んで来る。
長曾我部には長曾我部の神が憑き、これまでの生涯、彼のことをずっと護って来たが、毛利にもまた同じように神が憑いている。
「良いから肝に銘じておけ、弥三郎。お前とあの男──、と言うより、あの男の背後に在る者とお前の相性がすこぶる悪い。けして混じり合わぬ縁故、互いに惹きつけられてしまう因果な関係じゃ」
過去にそう忠告された。
それでもこうして毛利と長曾我部は切っても切れない因縁を結んでしまった。
神仏や占術の類は一切信じぬことにしている長曾我部だが、毛利と自分の因果は確かにあると思っている。
思えば最初に会った時から、毛利の存在は長曾我部の周囲の人間の中で際立って異質だった。
一瞬だけ、毛利の背後に潜む者の姿が長曾我部の目にも映った。
神々しい程、眩い光を放つ、深紅色の瞳を持った白い大蛇である。
無数の蛇が互いの身体を巻き付かせながら、長曾我部へ向かって牙を剝いてきたが、懐かしい叢の香りが辺りに満ちたと思った途端、その錯覚も消えた。
「貴様が何と申そうと、我は安芸へと戻らねばならん。我もまた盤上の駒ならば、己が役目を果たさずして、生きさばらえる意味があろうか。己はどうなのだ、長曾我部。この地以外に身の置き所があると、本気でそう思うておるのか? 」
ともかく今は、目の前の毛利のことだ。
肩を抱いて落ち着かせてやろうとしたが、邪険に振り払われてしまった。
「落ち着け、毛利。一刻も早く安芸へ帰りたいあんたの気持ちは俺にだって分かる。だが、帰してやれねえ理由もあるんだ」
「理由? ならばその理由とやらを隠さず申してみよ」
「……まあ、おいおいな」
勘の鋭い毛利のこと。
歯切れの悪い長曾我部の様子に何となく事情は察したようだが、それでも引くに引けぬのだろう。
「ならば……」
と長曾我部に寄り添うようにぴたりと身体を寄せて来る。
「長曾我部よ。ここで我を安芸へと戻せば、かねてより貴様が望んでいた通り、我の心を貴様に差し出してやっても良い。心なぞ、幾らでもくれてやろう。我を安芸へと帰すのだ」
痩せて、衰えてはしまったが、やはり毛利は毛利である。
散々愛しんだ身体を抱いて、何の感情も湧き上がらぬ程、長曾我部は非情になりきれなかった。
ひんやりと冷えた指先が長曾我部の胸元を探る。
この冷たさすら愛しい。
蝋人形のように表情を変えず、歓びも哀しみも面に出すことのない毛利が、閨の中だけは声を上げ、蕩けて見せるのだ。
その特別感が堪らなく、故に長曾我部も毛利に本気で入れ込んでしまった。
それも充分分かっての演技だ。
憎らしいと思う反面、相手の我が儘さえ許容して歓びにすり替えてしまう自分はとことん甘いんだな、と長曾我部は改めて苦笑する。
だが、それでもやはり駄目なものは駄目なのだ。
「色仕掛けで俺を誑かそうったって駄目だ。もうしばらく、時を待て。機を見て帰してやる」
「いつとはどの程度先の話なのだ。曖でなく、然るべき期限を設けてはっきり申せ」
「だから、そんなのあんたの体力次第だろうが。俺にごちゃごちゃ言ったって……」
「貴様に言わずに誰に言うのだ! 良いから早急に船を出せ、長曾我部!」
「駄目だって言ってんだろ! 何度も同じことを言わすな! あんたがどんだけ帰りたがったって、今の安芸にゃあんたを歓迎する態勢は出来ちゃいねえんだ」
「それはどう言うことだ」
ここが床の上で、こんな至近距離で毛利と見つめ合っているのなら、すかさず床に押し倒していただろうが、今は昼の日中で、しかも彼は病人だ。
さすがにここまで病的に痩せた彼を見て、抱いて、愛しみたい欲望は欠片も湧いて来ない。
仇敵を前にして、身の内にあるのは彼への同情だけなのが、何とも寂しい気分にさせられた。
「あんたの帰る国はもうねえんだ、毛利」
「だから、何故だと問うておろうが。誰が我が国を奪った。竹中か、それとも九州の大友か?」
「どっちも違う。豊臣は滅びたし、大友は豊後から出て来ねえ」
「では何だと申すのだ! 貴様の話はまどろっこしい」
毛利にしては取り乱している。
それを静かに見守りながら、長曾我部はどうしたものかと顎を指先でなぞった。
正確には、中国と北九州一帯はまだ毛利領である。
毛利の身内である小早川と吉川の両川が国内の内紛を抑えてはいるが、何分にも中国の毛利領は大きく膨らみ過ぎた。
毛利一門とは言え、年若く、経験も浅い、小早川や吉川では広大な領地の監視は手に余った。
何より毛利の強引で厳格過ぎるやり方に不満を抱く臣下は少なくなかった為、主をなくした途端、方々からその憎悪の念が噴き出し、小早川、吉川共にそれを抑え込むのに精一杯で、新しい主を立てて毛利宗家を引っ張って行く余力などなかったのである。
希代の詭計智将と呼ばれ、常に陰謀張り巡らし、他者を陥れてきた彼が、今度は追いやられる側に回ったのだ。
「酷なことを言うが、あんた、てめえがどれだけ恨みを買ってんのか、いくらなんでも自覚はあんだろ? 」
「愚者が幾ら寄り集まろうと造作もない。すぐに叩き潰してくれる」
「だから、あんたのそのやり方が反発を買ったんだ。あんたをこの土佐の海岸で俺が見つけた際、あんたの安芸にも勿論、大将であるあんたが見つかった旨を急ぎ伝える遣いを出した。が、奴らは四国なんぞに元就様がいる訳がないと言ってな。うちの遣いの者を斬って殺して首だけ返しやがった」
信じられぬ、と言う顔で驚愕した毛利は首を横に振っている。
「あり得ぬ。そのような不手際なやり方、一体誰が指示したのだ」
「大方、使者の首を見て怒った俺があんたをこの手で殺すのを期待しての狼藉だろうがよ。この長曾我部元親様は、かつては姫若子と呼ばれ、百姓の童にまで後ろ指指されて笑われた軟弱者だ。弱ってるあんたの首に刃物なんざ突きつけられる訳がねえ。ましてや、惚れた相手なら尚更な」
「……許さぬ。この我に刃向かうなどと、愚昧な真似を。必ず首謀者を捕まえ、首を刎ねてやる」
肉薄な唇を噛み、毛利が怒りを露わにする。
普段は感情の浮き沈みもなく、穏やかな凪のように平坦な機嫌を保つ毛利なのだが、逆鱗に触れた時の変貌振りは尋常ではないのだ。
普段は理性で抑えつけている感情が怒りに我を忘れると制御出来なくなってしまうのかも知れない。
一度抱いた憎悪の念はけして消えることはなく、ちろちろと蒼い焔のように燃えたぎらせる。
彼の背後に憑いている白蛇のようにぬめぬめとした、底知れぬ執念深さ、陰湿さがあった。
「だから落ち着けって言ってんだ。帰さねえとは言ってねえだろ」
「腕を離さんか! 貴様などに命令される謂われはない! 馴れ馴れしく我に触れるでないわ! 」
「てめえから抱きついて来といてその言い草かよ。そもそも部下にそれほど恨まれてんのは毛利、あんたのこれまでの行いが捲いた種なんだ。諦めて今は体力を戻すことに専念しろ」
「黙れ! 今すぐ船を出せ! それも出来ぬと申すなら貴様などに用はない! 今すぐ我の目の前から消え失せよ! 」
激昂して体力を余分に消耗してしまったのか、毛利は咳き込み、蹌踉めいて倒れそうになる。
咄嗟に長曾我部が助けの腕を差し出したが、勿論、毛利には無碍にはね除けられた。
「この、分からず屋が! いい加減にしねえとぶん殴るぞ! 」
「貴様を殺してでも我は安芸へ戻る。邪魔をするな! 」
長曾我部まで一緒になって動転していても仕方がない。
落ち着け、と自分に念じると、毛利への苛立ちは一端沈めて、もう一度彼を腕の中に無理やり抱いた。
「よしよし。良い子だから大人しくしてくれよ。まったく、あんたの強情っ振りはうちの親父以上だぜ」
「戯れも、……たいがいに致せ、長曾我部、離さぬか! 」
「いいから。ほら、俺に寄り掛かって、体の力抜いて楽にしてみろって、毛利。ほんの一刻、この土佐で、俺と一緒の時間を過ごしたからと言って、何もあんたの一生分の時間を使い果たす訳じゃない。この元親、やると決めたことは必ず守る。あんたも俺の性分は嫌って程、知ってるだろう」
「やめよと、申しておるのだ……っ!」
喚く毛利を無理やり自身の胸に押し付けて、背中を抱き、赤子をあやすようにトントンと拍子を叩いて宥めて聞かせる。
その仕草はますます毛利を激昂させたが、長曾我部から逃れようと藻掻けば藻掻く程、毛利は体力を使い果たし、立っていることすら覚束なくなる。
気力で奮い立たせているが、それも限界に近いのだろう。
「貴様……、死んで…まえ…っ」
暴言を吐きながら倒れるように長曾我部の腕の中にもたれ掛かってきた。
散々文句を言いながら、それでもやはり腕の中の居心地はそれほど悪くなかったのか、咳が収まる頃には毛利は身体を弛緩させ、長曾我部へ体重を預けて来た。
胸板に諦めきった毛利の呼吸が当たる。
抱く力を強めると、同じ力で毛利も長曾我部を抱き返して来た。
「貴様は、殺しても殺し足りん。長曾我部」
「俺を憎むことであんたの気力が保てるなら、幾らでも恨めばいいさ。俺はんなことじゃへこたれんよ」
「そうであろうな」
貴様なら、と苦笑を浮かべて毛利が額を胸に押し当てる。
興奮して疲れたのか、毛利は長曾我部の腕の中で静かにそっと目を閉じた。
冷たい肌が長曾我部の熱に温められてじんわりと人肌の温もりを取り戻す。
心なしか頬に血の気も戻ったようで、彼の無愛想な視線を受け止めた長曾我部は素早く毛利の頬に唇で触れ、彼が怒り出す前にすぐに離した。
「何故、嗤う」
「笑っちゃいねえよ。真面目も真面目だ」
「貴様は信用ならん」
「お互い様じゃねえか。ま、とにかく、こうしてまたあんたを俺の腕の中に抱く事が出来た。その点にゃ感謝せねばなるまい。てっきりあんたは死んだものと思っていたからな」
それは毛利も同じだろう。
あの日、長曾我部が豊臣秀吉の侵攻を防ぎ切れずに、敗北を喫した時、あの場所に毛利の本陣が確かにあった。
その後の記憶が長曾我部の中から抜け落ちているが、毛利が竹中と袂を分かって中央へ向けて兵を上げたいのもその直後だと伝え聞く。
毛利にまんまと嵌められ、裏切られた長曾我部。
そして、国の為、長曾我部の好意を利用して踏みにじり、国体の保全を最優先させた毛利。
互いへの愚痴や恨み言、不満が溢れても良さそうなものだが、どちらもその言葉は口に出さなかった。
立場が変われば、事情も変わる。
自分自身、その選択に悩まされることのある長曾我部と、再び同じ機が起これば、何度でも長曾我部を裏切るであろう毛利だから、互いに言い訳は必要としなかった。
ただ、密やかに視線を交わし、どちらともなく唇を寄せた。
滑る舌から毛利の体温が長曾我部にも伝わって来る。
氷の武将と言えど、身の内まで冷たい訳ではない。
彼の洩らした吐息のような喘ぎ声に長曾我部は口元を緩ませながら、やはり自分は誰よりもこの相手を欲し、愛おしく思う気持ちを止められないのだと確信した。
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