KANON 終わらない悪夢
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13香里VS栞
「すみません、その子は行方が分からなくなっているようです。私共も捜索に協力したいと思いますので、今日はこれで一旦失礼させて頂きます」
あゆを紹介しようとした取材班だが、意識すら戻らなかった少女が「自分で歩いて行方をくらました」と聞かされ驚いていた。
「相沢さんでしたか、よろしければ連絡先を教えて頂きたいのですが」
「え? はい」
相手に名刺を渡され、手帳に水瀬家の住所と電話番号を書く。
「叔母の家ですけど、今はそこに居候してます」
「では、その子が見付かれば、また連絡させていただきます」
「はい」
ディレクターの行動は、天使の人形に制限されているのか、「月宮あゆ」の名前だけは、どうしても口に出せなかった。
「それでは美坂さん、取材の件はもう一度考えてみて下さい、お願いします」
「ええ、うちは娘の言う通りで結構です」
香里の望みだが、まだ不機嫌そうに認める父。
「ありがとうございます、それではお大事に」
それだけ言うと、慌ててあゆの事情を聞きに行く取材班。意識は無くても、何ヶ月も取材していると情が移ったらしい。
「ねえ相沢君っ、それヒーリングって言うんでしょ? 凄いっ、初めて見たわっ」
「だったら香里も良くなるよね?」
「良かった~」
取材班が消えると、一斉に騒ぎ出した香里の友人達。
「さあ? ヒーリングかどうか知らないけど、そうだ、検査したら分かる、すぐしてもらえよ」
父親との約束も思い出し、香里に再検査を勧めてみた。
「……嫌よ」
祐一に言われたので気弱だったが、今検査を受けると本当に退院させられそうで、どうしても「うん」とは言えなかった。
「私や栞だって良くなったんだから、貴方も良くなってるはずよ、調べて貰いなさい」
「わしらが言っても駄目だ、相沢さんにまかせろ」
両親が何か言えば、香里はさらにへそを曲げる、説得は祐一に一任された。
「どうして嫌なんだ?」
「だって、治ってたら「もうお別れだ」って帰るつもりなんでしょっ、そんなの嫌っ」
ついに家族の前でも本心を口にして、祐一の腕を両手で掴むが、今度は爪を立てず、顔を赤らめて可愛い声で叫んでいた。
『うそっ、香里って男嫌いじゃなかった?』
『相沢君だけは別なのだよ、遅れてるな、君は』
『うん、2月頃からずっと「追っかけ」してたよね』
友人の密談に気付かないのか、気にならないのか、手を離さない香里。
「帰らないから、どんな検査なんだ?」
「それは、昨日みたいに、色々と」
「血液検査だけです」
香里が目をそらし、言いよどんでいる間に栞が答えた。昨日のレントゲンやCTは、呼吸器や神経系に損傷が無いか調べただけらしい。
「じゃあ、すぐだろ」
「注射嫌いっ」
(昨日は大好きだったくせにっ)
昨夜は何度も、自分から痛いお注射を求めて来たので、そんな言い訳は却下だった。
「受けてもいいな?」
「…………」
「良くなってたら、アイスクリーム買ってやるから」
ビクッ
明らかに反応した香里だが、そんな物は両親にねだれば手に入る、何としても香里は首を縦に振らなかった。
「何かして欲しい事あるか? 俺にできる事なら何でもいいぞ」
「じゃあ、夜の公園の噴水の前でキスしたり、真冬の中庭でアイスクリーム食べたり、雪合戦してくれる?」
(うっ!)
妹に聞かされていた自慢話が、とても羨ましかったらしい。思いっきり身に覚えがある情景を思い出し、栞の方向からも殺気がしたが、あえて気付かなかった事にする。
『ひえ~~っ、チッスですと、聞きましたかね』
『おやおや、心配して来てみれば、違う意味で大変な事になってたようですな』
『でも相沢君って、香里の妹と付き合ってるんでしょ?』
そこで神妙な顔?をして座っている栞を見て、想像力を働かせる3人。
(はっ、まさかこの子、香里を治すために相沢君を譲ったの?)
(香里ってわがままだから、相沢君取られちゃったのね、かわいそう)
(修羅場よっ、修羅場)
三人三様、違う想像をしていたが、これが噂の根源となって学校中を駆け回るのに、さほど時間はかからなかった。
「冬まで無理じゃないか」
「それと……」
手を引き寄せられて、耳打ちするような格好をするので、耳を近付けた。
「赤ちゃん、お願いね」
「なにいいっ!」
残り3ヶ月と言われ、絶望していた香里に希望を持たせるため、つい口走ってしまったが、今に至って、そんな恐れは全く無いように思えた。
「そ、それはまだ有りなのか?」
「うふっ、当たり前じゃない」
そう言うと、真っ赤になってクネクネする香里。祐一は石化していたが、栞や友人には聞こえなかったようなので、何とか正気を保つ。
「願い事は3つまでだ、最初の3つでいいな」
やはり限定解除だと、どんな無茶な願いでも叶えさせられてしまう、きっとあゆと出会う前も、名雪か誰かに酷い目にあったに違いない。
「いやっ、最後の一つでいいわ、残りは考えとくから」
もちろんそれは、冬まで待って姉妹で雪合戦、などと言う甘い願いではなく、「赤ちゃん産むからセキニンとってね、あたしは留年するか退学するけど、祐一が18になったら結婚して、名雪や栞とはもちろん別居、あたしと赤ちゃんと三人で暮らすのよ、い~わね?」ぐらいの厳しい要求だった。
「それって3つ以上じゃないか?」
「それなら、検査してもいいわよ」
顔を赤らめながら、祐一の手に頬擦りする香里、今の人格は、「ラブラブ香里ちゃん」らしい。
「いいんだな、香里っ」
「えっ?」
まだ交渉中にも関わらず、先走った父親がGOサインと勘違いしてしまった。
「ええ、祐一がお願い聞いてくれるから」
「そうかっ、分かった」
両親はすぐに、看護婦詰所まで走って行った。
(いや~~~っ! 待って下さ~~~い!)
祐一君の心の声は両親にも届かなかった。
『やっ、香里ったらラブラブ、何て相談したのかしら?』
『ついに自分に正直になった、ってとこ?』
『うわーー』
朝っぱらからラブシーンを見せられ、ヒューヒュー言っている3人。
「なあ、あの3人、お前が呼んだのか?」
1年の頃の友達なのか、祐一の知らない顔も混ざっていた。
「別に呼んだんじゃないけど、朝に「お別れの電話」しただけよ」
それは「今から自殺するから、来てくれないと死ぬ」と言ったのも同然だった。祐一は自分が睡魔に負けて、香里を一人で泳がせたのを後悔した。
「他には誰に電話した?」
「え? 祐一が知ってるのは北川君ぐらいよ、他は別のクラスの女子だから知らないでしょ」
名雪に続いて犠牲になった北川他数名を想像し、哀れに思う祐一。しかし、光より早い女の噂は、すでに3年の間を駆け巡り、1時間目終了と同時に学校を揺るがす事件へと拡大していた。
「悪いけど、誰か北川に伝言してくれないか?」
「いいけど、北川君、凄い目付きしてて、朝来たらすぐ、先生に連れて行かれちゃったそうよ」
すでに手遅れだったようなので、がっくりと肩を落とし、何か間違いがあったのかと心配する。
「じゃあ、もう遅いかも知れないけど、香里は大丈夫だから早まるなって、言ってくれないか」
「うんっ、みんなにも知らせて来るねっ」
香里が元気になっていたので、少し安心して学校に戻ろうとする友人。しかし、「今の香里の状況」を北川に教えたりすると、さらに早まった行動を取るのは間違いなかった。
「ほらっ、あんた達もっ」
「ええ、私達、「お邪魔」みたいだし、そっちもみんなに教えておくわね」
「何っ!」
「ええ、いいわよ」
驚く祐一と違い、まるで噂を広めるよう頼んでいる香里の態度。
「香里っ、元気出してね、「ふぁいとっ」だよ」
帰り際、昨日の事情を知らないのか、名雪語で励ます少女もいた。
「ええ……」
その後、学校には「奇跡の恋再び」と言った吉報だけでなく。
「あの香里が、「相沢君」から「祐一~(は~と)」になって、ラブラブだった」とか、
「もう夫婦みたいで、香里が取り乱しても、優しく頭を撫でて落ち着かせた」とか、
「相沢君ってヒーリング能力があるのよっ」とか、「妹と修羅場だった」など、どんどん尾ひれが付いて、女の噂が伝播して大変な事になるなど、男の祐一が知る由も無かった。
「ははっ、やっと静かになったな」
祐一は、また選択肢を誤った。現在、両親は看護婦詰所に行き、病室にいるのは、栞、香里、祐一の3人だけになっていた。
ギンッ!
そこで栞の表情が一変し、真っ黒の斜線が入った顔の中で、目だけが赤く光っていた。
「祐一さん、「車椅子」の「恥ずかしい」「二人乗り」って何ですか?」
やはり香里と同じで頭も良いらしく、断片的な情報だけで、昨日の状況を的確に推察する栞。
(はうっ、今までは周りの目を気にして、まともに振舞ってただけなのか?)
祐一的定理その1、「栞は世間体を気にする」が、図らずも証明された。
「あ、ああ、まだ手足に力が入らなかったみたいだから、俺も乗って落ちないように押さえてたんだ」
そんな栞にはとても、「香里が上から座って、とっても柔らかかった」とか、「心臓がちゃんと動いているかどうか聞かれて、二人とも泣きながらしっかり抱き合った」とか「髪の香りが芳しくて誉めたら、切った髪を遺髪としてプレゼントされ、二人の愛を育んで行った」とは説明できなかった。
「それならベルトでもして祐一さんが後ろから押した方が安全じゃなかったんですか?」
「うっ」
息継ぎもせずに、抑揚の無い魅力的な低音で言われ、「うぐぅ」の音も出ない祐一。
「それと昨日からずっと聞きたかったんですけど「10ヶ月持ったら子供産む」ってどう言う意味ですか?」
この質問も、お昼まで待ってくれなかったらしい。
「いや…… それは、言葉のあやで、希望が持てるようにって、よくあるだろう?」
「ありませんっ」
ザシュッ!
(うっ!)
祐一が仮眠する時に使った枕に、栞の手刀が叩き込まれると、何故か祐一の頭も割れるように痛んだ。
「ねえ、希望が持てるようにって何っ? あたしとは遊びだったの? それともあたしをオモチャにするための嘘だったのっ? ねえっ!」
「いや、そうじゃなくて」
両方からステレオで攻撃して下さる美坂姉妹。アルトの栞、ソプラノの香里のハーモニーが素晴らしかった。
「お姉ちゃんは黙っててっ! じゃあ、「お前と一緒なら地獄に落ちてもいい」って何ですか?」
ゴリッ、ゴリッ
まるで枕の内臓を掻き出すように、中をほじくっている栞、もちろん祐一君も、お腹の中がキリキリと痛んだ。
「それも、ドラマとかで、よくあっただろ?」
「ありませんっ」
ザシュッ!
室内に枕の白い内臓?が飛び散る。
(はうっ!)
もちろん祐一も、まるでお腹の中身が引きずり出されるように痛んだ。
「あれもドラマのセリフだったのっ? じゃあ、あたしって何? ただのバカ? 祐一の慰み物にされただけなのっ? ねえっ、答えてっ!」
「違う、違うだろっ」
もちろん香里に伸し掛かられて乱暴にされ、一晩中慰み物にされたのは、祐一クンなのは間違いない。
「うるさいっ、黙ってろって言ったでしょっ!」
「何をっ、偉そうにっ!」
次第にエキサイトして行く美坂姉妹の戦い、祐一クンはBダッシュで、おとうさんとおかあさんを呼びに行こうとした。
「どこに行こうって言うのっ、祐一~~っ!」
香里の爪が腕に刺さり、シャツの袖に血がにじむ。
「ひいいっ!」
「逃がしません」
モンスターにまわりこまれた、ゆういちはにげられない。
(いや~~っ!)
すでに栞も香里も、何かに取り憑かれたように、別人になっていた。とても女とは思えない力で引っ張って行かれ、窓からフリーダイビングさせられそうになる祐一たが、同じ力で栞に引き止められ、左右に千切れそうになる。
(嗚呼、こふやって、手が取れてしまふと、香里君はあきらめてくれるのだね)
どちらも手を離してくれそうにないので、大岡裁きは期待できなかった。
「じゃあ、電話の後は、どうして抵抗しなかったんですか?」
「あたしが好きだからに決まってるでしょ? ねえ、祐一っ!」
「いや、それも、香里にのし掛かられて、無理矢理……」
「女の力に負けるはずがありませんっ」
ザシュウウッ!
(キャイインッ!)
真っ二つに切り裂かれた可哀想な枕、しかし、昨日の夜は明らかに香里の方が力も強く、ベッドに捻じ伏せられ、乱暴されたのも祐一だった。
「ひどいっ、あんなに何度も愛し合ったのにっ! キスだっていっぱいしたじゃないっ、それにあんな恥ずかしい事だって、祐一だから我慢できたのよっ、それに苦くって生臭いのも、祐一のだから飲めたんだからっ!」
「ヒッ! 生臭い? 飲んだですって?」
始業式以降も、何度かチャレンジして、恥ずかしくて目も開けられず、ソッチは未遂に終わっていた栞ちゃん。それに比べ姉の方は最後までイって、あまつさえ飲んじゃっていた。
「ええ、「大人の味」ってやつね、あんたみたいなガキにできないでしょっ!」
「祐一さん、私にしない事までさせてたんですね?」
栞の口から、ギリギリと歯を噛み締める、恐ろしい音が聞こえた。次回はきっと噛み切られるに違いない。
「いや、それも一人になるのが怖かったみたいで、トイレにまで付いてきて、個室に連れ込まれて無理矢理」
「嘘よっ!」
あの記憶すら、香里ちゃんの中では、「美しい愛の思い出」に変換されちゃっていた、今のラブラブ香里ちゃんには、オラオラ香里ちゃんの記憶は無いらしい。
「それに昨日の約束って何ですか? このお姉ちゃんが、夢とか幻って言うぐらいですから、きっと凄く嬉しい約束だったんでしょうねぇっ!」
(もう勘弁して下さい……)
血糖値でも下がったのか、肩が外れそうなのか、ガクガクと足を震わせる祐一クン。
「ええ、そうよっ、あんたの見てる面白く無いドラマなんかより、よっぽど凄かったわ、どこかの「奇跡の1週間」を一晩に詰め込んだぐらいかしらっ?」
「くっ!」
チキチキチキッ!
恐ろしく嫌味の篭った言い方をされ、栞のポケットの中から、「あの音」が聞こえ、夢の姉妹対決の火蓋が切って落とされようとしていた。
「い、いや、その後は電話で名雪と大喧嘩して大変だったんだ、全然楽しくなかったよな、ははっ」
何とか論点をすり替えようと頑張る祐一。
「へえ~、また私の時みたいに自慢話でもして、名雪さんも怒らせたのっ! そうっ、昨日はそんな嬉しい思い出が沢山できたのねっ、祐一さんに切らせた髪まで押し付けがましく渡したりしてっ、この泥棒猫っ!」
「ええ、夢みたいだったわっ、泣いてたらずっと優しくしてくれたし、さっきみたいに取り乱しても、「体中」撫で回して落ち着かせてくれたわ。目が覚めてからも世界が輝いてたから、本当に「天国」にいるかと思ったぐらいよ、祐一に「抱かれて」からは、「もういつ死んでもいい」って言うぐらい幸せだったわっ!」
自分を抱くように震えながら、祐一に愛された愛おしい体を撫でる。
「じゃあ、今死んで」
(ひいいっ!)
「それはあんたの方よ」
(うわああっ!)
ジリッ、ジリッ
二人はエモノを取り出して間合いを計っていたが、祐一クンはその中心にいたので、何となく両側から刺されちゃうような予感がした。
(いや~~~~っ!)
ビシッ! バシッ!
(終った……)
全てが終った爽快感が祐一の身を包むが、不思議と痛みは無かった。
「全く、あんた達は、「いつもいつもっ」相沢さんの前で恥ずかしくないのっ」
そこで倒れていたのは祐一ではなく、母親に張り倒されて、2つのベッドに飛ばされた栞と香里だった。
(あの、これって、いつも恒例の行事なんですか?)
ちょっと怖くて聞けない祐一クン。
「だって、お姉ちゃんが」
ビシッ!
また栞の頬を張り飛ばしたかと思えば、速攻で刃物を取り上げ、四次元ポケットの中からも残りを取り上げる。
(あの中って、栞以外取り出し不能なんじゃ?)
多分、同じ能力を持っている母。
「ほらっ、あんたもっ」
「えっ、これは昨日の記念品だから、キャッ」
腕を振りかぶった母親から、顔を庇うように手を上げた所で、昨日使ったハサミを取り上げられる。
「あっ、返してっ」
バシッ!
それを見ながら、同じ表情で怯えている父親と祐一クン、二人の友情はさらに深まったような気がした。
「昔はあんなに仲良くしてたのに、どうしてっ? それにあんた達女同士でしょっ、男の兄弟でもそんな酷い喧嘩しないわよっ」
「「はい……」」
美坂家は母親の体罰で統率されていた。そして栞の違った一面を見てしまった祐一クンは、恋心が少しだけ冷めてしまった。
その後、母親の説教が長々と続いていたが、採血の準備をした看護婦が入って来て中断された。
「いや、お恥ずかしい所をお見せしました。3月頃からこんな事が多くなりまして、最初は栞だけだったんで、病気の後遺症じゃないかって、カウンセリングも受けたりしたんですが……」
人は死ぬような思いをした場合、PTSDと呼ばれる心理的な傷に悩まされ、そのトリガーが引かれた時、恐ろしく攻撃的になる場合がある。
「そうでしたか、俺が香里にばかり気を使って、栞さんを放っておいたんでこうなったみたいです。昨日だって、電話の後は栞さんに会いに行くつもりだったのに、すみません」
しかし、このように限度を超えた争いになったのは、舞が言っていた「タクシーに乗って出て行った魔物」が、栞の命を繋ぐために、天使の人形の力で憑依させられたからで、昨日もおかしな目付きになった後、自分と同じ事を姉にもするよう言わせたのも、この魔物だった。
「いえ、相沢さんは悪くありません、謝らないで下さい。でも最近は香里の方もこうなってしまって、とても女同士とは思えない喧嘩をするようになったんです」
それも香里に取り憑いた1体の仕業で、「祐一に残っていた魔物の気配」とは、時折出てくる香里の中の魔物の残り香だった。
「それも、俺が原因ですよね?」
魔物が全力で逆らえば、常人の母親が適うはずもないが、相手が親なので支配が衰えたのかも知れない。しかし、祐一が欲しくて独占したいのは、魔物も同じらしい。
「いえ、相沢さんの話をしている間だけは仲良くしていて、ドラマを見ているのにニュースにチャンネルを変えたとか、そんな下らない事で大喧嘩してたんです」
そして両親に、「祐一と愛し合えば治る」などと言う、荒唐無稽な話を信じさせたのは、天使の人形が使った暗示で、普通なら世間体を気にして、例え娘が命を落とそうと、父親がそんな恥ずかしい真似を許すはずが無かった。
「親指を手の中に握って、力を入れたり緩めたりして下さい」
「はい」
二人が話している間、採血されている香里。しかし香里は、その最中呼吸を止めたりして、可能な限り悪い結果が出るよう、努力するのは忘れていなかった。
「大丈夫か? 手を握ってた方がいいか?」
表情が元に戻り、「オラオラ香里ちゃん」から普通の香里になっていたので、思わず声を掛ける祐一。
「い、いいの、注射だから危ないでしょ」
もちろん、祐一に手を握られると、他から電源を供給されているように、正常値が出てしまいそうで断った。
「はい、力を抜いていいですよ」
香里の名前が書かれたプラスチックの採血管にサンプルが採られると、「至急」の文字が書き加えられ、器材の乗った台車に置かれた。
「1時間程で結果が出ると思いますので、またお呼びします」
「「はい」」
(俺でだめだったら、名雪呼ぼうか)
秋子の言葉を思い出し、安易に名雪に頼ろうとする祐一。従兄妹の少女がどんな気持ちで家にいるかも知らずに。
「じゃあ、時間があるから、早いけど昼にしようか、相沢さん、何か食べたい物ありますか?」
「え? いえ別に」
とてもそんな雰囲気では無かったが、何とか状況を変えようとする父。
「あんた達、またさっきみたいな事したら、次はこれぐらいじゃ済まないわよっ」
「「はい…」」
母親の体罰は絶大な威力を発揮していた。お父さんと祐一クンは、また同じ表情で震え、隣にいる人は将来の自分だと、祐一は思った。
その後、外食に出るため着替えを始める香里、そこで父親と栞は追い出されたが、祐一は部屋に残され、手は握ったままだった。
「お前、女の子なんだから、着替えの間ぐらい」
「もう子供じゃないわよ、昨日「女」になったの、それにもうすぐ「母親」よ」
下着を替える間も、明るい場所で体を見せる香里、いつも恥ずかしがる栞とは正反対だった。
「ほら、これがあたしが初めてだった印。貴方にあげたんだから、これも持ってて」
「え、ああ」
ショーツに張り付けていた血が付いたナプキンを、自分が乙女を捧げた相手に見せ、下着ごと袋に入れて渡す。
「母さん、さっきのハサミも祐一に渡して」
「香里……」
先程の強い母はどこに行ったのか、また昨夜の電話のように涙声になる。
「これも、これもっ、あたしの制服もあげるっ、これも、持ってて」
声を震わせながら、制服のリボンやシャツ、思い出の篭った制服まで、遺髪と一緒に紙袋に入れて行く香里。もし何かあっても、絶対に忘れられたくなかったらしい。
「そんな、何から何まで貰わなくても、また学校行く時に困るだろ」
「もう、行けないわ」
香里にはそんなつもりが無いのと、今のままでは病院の外に出るのさえ、許可と付き添いが必要だった。
「おい」
その言葉で、母親だけでなく、また祐一まで泣きそうになる。
「ねえ、あたしにも祐一の物、何か頂戴。祐一がいなくても、絆が感じられような何か」
「…何がいい?」
手を出して、身に付けている数少ない物を見せる。
「じゃあ、腕時計交換して」
「ああ」
自分の男物の時計を外すと、香里の女物の細い時計を渡される。
「あったかい……」
祐一が外した時計を頬に当て、温もりを感じている香里。次第にそれが自分の体温と同じになると、左腕に巻いて一番奥の穴に留め金を入れた。
「ぶかぶか」
香里の痩せ細った腕には、男物の時計は大き過ぎて、腕を上下していたが、それでも嬉しそうに握って体に馴染ませる。
「でも、なんだかエンゲージリングみたい」
「そうだな」
祐一も、香里の腕時計を巻いていると、二人の時間が繋がっているような感じがした。
「止められなかったら、この辺りに穴開けて。母さん、栞のカッター貸して」
祐一から腕時計を外すと、印を付けた場所に新しい穴を開け、また祐一に戻して自分で金具を止める香里。
「お風呂の時以外、外さないでね」
「ああ」
「これも指輪の交換みたい。富める時も貧しき時も」
また涙声になりながら、自分の体を隣と隔てているカーテンで巻き、頭に白いシーツをかけ、体を白い物で覆って行く。
「また、病める時も、健やかなる時も、グスッ、死が、二人を、分かつ時まで、愛し合う事を誓いますか?」
震えながら、間近に迫った死を受け入れたような、弱々しい瞳で祐一を見上げる香里。
「…誓います」
こんな目で見つめられ、香里の現状を思えば、否定の言葉など出てこなかった。
「香里っ、あんたって子はっ」
母親にだけ見守られ、誰からも祝福されなかった結婚式の真似事。しかし、この時から母親は香里の味方になり、栞との仲を認めた夫と反発するようになった。
やがて全員が食事に出た後、シーツが整えられた病室に一人の男が訪れた。
「香里……」
教えられた部屋は既に無人で、荷物も無くなっていた。香里の部屋は一般病棟の大部屋に移動したらしい。
「香里~~~っ!」
その場に崩れ落ちるように膝を着き、痛めた手を床に打ち付ける北川潤。タイミングの悪い男だった。
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