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KANON 終わらない悪夢

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41天使の人形の記憶

 天使の人形から伝えられる記憶、少女たちに掛けた呪い、出会いにより紡がれた僅かな絆。
 しかしそれは愛や絆に飢え、命の危機にも陥っていた者にとっては天啓にも等しく、純血の妖狐の力は自分が抱えていた問題を全て解決する答えであり、それを失うのは全てを失うのにも等しかった。
 生きる(よすが)を得た少女たちの喜びと、別離の苦しみの悪夢が続く。

 第四十一話。
 また消えてしまった弟を探し、哀れにも屋敷の中をさまよっている佐祐理。流れる涙もそのままに、目の焦点も現実では無く、あの世に合わせて霊体を探していた。
「一弥~、帰って来て~~」
 やがて使用人から報告を受け、泣きながら屋敷の中をさまよっている娘の窮状を聞き、急いで駆け付けた母。
「佐祐理、あれは一弥じゃないの。純血の妖狐、水瀬の本家から来た使い魔なのよ」
 余りにも哀れな娘の姿を見て、何とか落ち着かせようとする母。
「でも、一弥もいましたっ!」
「じゃあ今度、水瀬の家に行きましょう。事情を話して、あちらと縁ができれば、一弥を返してくれるかも知れません」
「本当ですかっ!」
「断られるかも知れませんが、貴方にはそれに相応しい(えにし)が出来ました、あちらも分かって下さるでしょう」
 今は冷静になって、倉田の家のためになるよう、秋子と話す気になった母。
 可能ならばこの呪われた血から開放されたかったが、自分より血が薄れた娘に子供が生まれれば、美坂姉妹のように、さらに悲惨な結果が待っているかも知れない。
 残された手段は、丘に行って妖狐を呼び、たった1月の逢瀬の後、悲しい別れをするか、祐一のように数百年に一度、災厄の後に現れる「消えない妖狐」を婿に迎えるしかない。
 佐祐理の母は秋子に面会を求めた。

 数日後、水瀬家にて。
「ご無沙汰しております、秋子様。倉田家の四世代目で御座います、今日は恥を忍んで参りました」
 同行しようとした運転手も帰らせて、一人で乗り込んで来た佐祐理の母。ここでも秋子の逆鱗に触れれば、倉田家は終わる。
「いらっしゃい、お手紙は拝見しましたので、事情は分かりました。うちの祐一君が、ご迷惑をお掛けしましたね。立ち話もなんですから、どうぞお上がり下さい」
「お邪魔します…」
 日本を破滅の淵まで追い込んだ恐ろしい妖狐の姉妹の一人。それが下位の自分に対して丁寧な話し方をして迎えてくれるのは、かえって恐ろしかった。
「まず、お手紙以前の事情をお話しします。純血の祐一君が、このような間違いを起こさないように、遊ばせる子供は、この結界を超えられる子だけにしていました。うちの名雪と、月宮の直系、それと祐一君が連れ帰った狐。川澄の娘は近寄らせていません」
「はい…」
 秋子の目と声に宿る力は、確かに以前より弱っていたが、それでも尚、佐祐理の母を威圧していた。
「しかし先日、月宮のあゆさんが、森の中で木から落ちて大怪我をしました。そこまではご存知ですね」
「はい」
「守られていたはずの女の子を誰が呪ったのかは分かりません。その時、祐一君は使い魔を放って、佐祐理さんと私、川澄の娘、天野の家、美坂の家の「跳ぶ」子供の所まで走って、助けを呼んでしまいました。それが全ての始まりです」
「そうでしたか、その日、私は家を離れて不在でしたので、お力になれず申し訳ありません」
 一弥を失ってからは、水瀬家や丘への貢物をやめ、関係を一切断って来た倉田家。本来なら、この家の敷居を跨ぐような恥知らずな真似は出来なかったが、息子の霊を開放してもらうまで、帰る訳に行かなかった。
「いえ、佐祐理さんや運転手さんは、とてもよくして下さいました。ただ、そのお礼に祐一君が出向いてしまい、佐祐理さんの願いを叶えようとしたようです。「亡くなった弟の、一弥君と一緒にいたい」と言う願いを」 
 佐祐理の母は、このまま家捜ししてでも祐一を引きずり出し、一弥を取り返したかったが、使い魔の一つにも適わず、目の前に秋子がいる状況では、唇を噛んで耐える以外に無かった。
「自分の力も知らず、叶えられない願いを叶えようとしたのは許して下さい。悪意は無かったんです。でも祐一君と佐祐理さんには強い縁が出来ました。ここまでになれば、縁組をして許婚とする所ですが、祐一君は他の子とも強い縁が出来ています。それに何よりも、祐一君の体は、私の姉が連れ帰ってしまい、こちらからの呼び出しには応じようとしません」
「はっ?」
 使い魔を残したまま本体が消える。母にもその意味が分かったので、余りにも無責任に思えた。このままでは使い魔も、一弥の霊も、何もかも一緒に消滅してしまう。
「娘の名雪が何とか祐一君の記憶を封じ、この国、いえ、この星を破滅させるような災厄は防いでくれましたが、祐一君の使い魔と一弥君の霊は、一つに集まって月宮の娘さんの傍にいます。これは私の力ではどうしようもありません」
「ええ?」
 余りの話に、背筋に冷たい物が走る母。祐一は秋子達よりも酷い災厄を起こす力を持っていて、あの魔物達が集まって何かをしようとしている。
「体から離れてまで、何をしようとしているんですか?」
 秋子達のように、禁忌を破った人間を罰するために降りて来た妖狐を鎮め、走狗となってその者達を狩って来た倉田家。今度もそのような者がいれば、大変な災厄が起こってしまう。すでにその役目からは抜けていた倉田家だが、聞かずにはいられなかった。
「祐一君は、月宮あゆさんを助けようとしています。そして佐祐理さんの願い、一弥君の復活。力を消耗する美坂の栞さんの命を永らえる事。天野の家の三世代目、美汐さんとの再会。最後に… あゆさんを救っておきながら呪った、川澄の娘への罰です」
 祐一の子供らしい真摯な願いを感じ、少し安心するが、川澄の娘への罰というのが、今の状況なのだと考えると恐ろしかった。
「調べてみましたが、川澄の娘は既に抜け殻。自分の力を魔物として追い払い、自分自身と戦って傷付け合っています」
「はい」
 消耗し尽くすか、使い魔を全て葬った時、自分の命が終わる。すぐに死を与えるより、余程苦しい罰であり、あゆの命が終わって、祐一が放った使い魔が破滅を願った時、この星には終わりがやって来る。
「一弥君の場合、そちらでもお考えのように、佐祐理さんの子供としてお返しするなら比較的簡単でしょう。でも、あの魔物は何よりも月宮の娘さんを優先しています。他の願いは全て後回しにして力を蓄えています、あの子達はその為に生まれたのですから」
 例え佐祐理が一番で無くとも、縁組しておけば「お種」は頂戴でき、祐一さえ願えば、一弥は倉田家に返される。しかしそこで疑問が残った。
「体から離れているのに、どうやって力を蓄えられるのですか?」
「私の娘の名雪に憑依しています。あの子も大きな力を持っていますので、眠るだけで使い魔を維持できますし、娘も全く嫌がっていません。元々、娘を呼びに来た使い魔のようでしたから」
 力の有る者、名雪を目指して走った天使の人形。しかし、その時点では名雪に術は使えず、危機に陥った祐一と同じ速度で走る事すら出来なかった。
「それまでに、祐一君本体に大きな力が付けばいいのですが… もし、あゆさんが亡くなって破滅を願った時、私に防ぐ力はありません。まあ、私の力も災厄を起こす事しかできませんが」
 秋子としても、祐一を止める事はあっても、殺すつもりは無かった。もし滅ぼすとすれば、祐一の願い通り迷わず人間を死滅させる。その口元と心の声は、間違い無くそう言っていた。
「では、私共に何かできる事はありませんでしょうか?」
 過去の倉田家のように、人間の世界を守るため、妖狐の要求を聞く佐祐理の母。今は倉田家の事より、せめて縁のできた佐祐理だけでも生きて行ける道を残しておくのが先決と思えた。
「では姉を探して頂けますか? 上手く逃げているようなので、「私達」の網には掛かって来ません。そちらから正式な方法で探して見て下さい」
 妖狐のネットワークから隠れている祐一の母、しかし、倉田家なら妖狐の術ではなく、預金の引き出し先などから発見できるかも知れない。 
「分かりました、全力で探させて頂きます」
「それと、月宮の家にも言いましたが、お身内に月宮の子を呪った者がいれば差し出して下さい」
「は?」
 守られているはずの子供を呪った犯人。それは本当に存在するのか図りかねたので、「いなくても差し出せ」と言う意味なのかと思えたが、秋子の表情からも存在するのだと感じた。
「確かに承りました。娘の佐祐理と一弥の霊の件はよろしくお願いします」
 いつか佐祐理との縁組を貰い、孫として一弥を返してもらう内諾を得て帰る母。純血の妖狐との口約束なので、いつでも反故にされるが、親身を込めて秋子のために働けば、その謝礼として幸福や幸運が得られる。
 この災厄も妖狐への朝貢を絶ち、古い盟約を忘れて反旗を翻した自分達の落ち度。そう考えて耐え、唇を噛んで退出した。

 それから約2年、一弥の「また来るよ」の言葉だけを頼りに待ち続けた佐祐理。
「一弥、お姉ちゃん、もう待てないよ… 迎えに来てね」
 秋子の声や母親の命令により力も封じられ、一弥のように消耗して消える事は無かったが、自分自身を癒す歌声も途絶え、生きる力は失っていた。
 そして迎えを待ちきれずに、手首に消えない傷を残す事になった。

 あゆと名雪の夢の中で。
(お姉ちゃんが死ぬよ)
「どうしたの? 一弥クン」
「え? だれがしぬの?」
 一弥の言葉に驚く、あゆと名雪。天使の人形も予想外の事態を察知し、夜間の根城である名雪の体から出て行こうとした。
(行くぞっ、一緒に来い)
「うんっ」
 水瀬家から倉田家までは、飛べばほんの数十秒。幸い佐祐理は大事には至らなかった。
「かずや~」
 幽体離脱したまま、自分の体の上を漂っている佐祐理。 
「このひと、かずやくんのおねえさん?」
「うん」
 哀れな佐祐理を見て、同情する名雪の使い魔。
「じゃあ、もうかなしまないですむようにしてあげるね」
「え?」
 名雪の使い魔は、祐一を癒し、記憶を封じた時のように、佐祐理の霊体を抱き締めて、耳元でそっと呟いた。
「さゆりさん、かずやくんは、わたしたちといっしょにいますから、だいじょうぶです。 もし会いたくなったら、ゆめの中にあそびにきてね」
「そうなんですか?」
「みんなといっしょにいるから」
『ふぁいとっ、だよ』
「はい……」
 こうして佐祐理の悲しみの感情は封じられ、天使の人形と同じように、いつでも笑う事しかできない少女に変えてしまった。
(お姉ちゃん、僕、外に出たら消えちゃうから、またね)
「ええ、きっと会いましょう… 約束よ」
 久しぶりに弟の顔を見て、穏やかな気持ちで自分の体に戻る佐祐理。天使の人形も力を使って、か細い手首の傷を塞ぎ終わった。
「かず…… や」
 病院で目を覚まし、心地良く、暖かい涙を拭う佐祐理。夢の中で弟と出会い、再会の約束をした。それは幻ではなく、現実のように思えた。
「また、一緒に」
 覚醒と共に夢の記憶は失われて行ったが、その約束は必ず叶うような気がした。弟の傍にいた、大きな力を持つ何かによって。

 天野家、お婆さんの家。
「美汐、もう泣くでない、今日は目出度い日、新しい門出じゃ」
「だって……」
 花嫁姿で化粧までしてもらっている美汐だが、隣りにいる祐一の使い魔は、既に力を使い果たし、天野家の秘薬や術だけで持っている存在で、本体はこの地から連れ去られ、名雪にリンクを断たれて帰る場所もない。
「高砂や、この浦舟に帆を上げて。この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で汐の」
 お婆さんにより高砂が歌われ、仮祝言が行われ、堅めの盃も交わされて夫婦となった二人。
「もうこれで別れはせん、二世を誓い合ったお前達ならまた逢える。もう離れ離れにはならぬ」
「でもっ、もう、ゆうくんはっ」
 その口に指を当ててやり、取り乱す美汐を黙らせるお婆さん。
「わしも爺様とは、こうやって祝言を上げて二世を誓い合った。人の世の人生などあっという間、わしにももうじき爺様が迎えに来て下さる、ほんのすこしの辛抱じゃ」
「そんな、何十年も待てないよ、あたしもいっしょに行く」
「滅多な事を言うものではない、お前の想い人を気持ちよく見送って、子を産んで帰りを待つ、それが女の勤めじゃ」
「あたし、子供なんか産めないっ、もうお別れで会えないっ」
 何を言っても聞き入れない美汐に手を焼いていると、来客があった。家族には仮祝言も反対されていたので、誰も入れないようにしていたが、平然と跨いで入って来た人物、それは?
「あ、秋子様……」
 こんな何もない家に純血の妖狐、それも数年前に災厄を撒き散らした恐怖の存在が訪ねて来るなど、祝言をぶち壊しに来たか、妖狐の子を連れ去って、口封じにこの家の人間の命を奪いに来た以外に考えられない。お婆さんは衣装を捨て、孫の体だけでも抱いて逃げ出そうとした。
『逃げなくてもいいんですよ、今日はお祝いに来たんですから』
 荒ぶる神々の一柱が降り立ち、その言葉だけで体を固められ、逃げようとしたことすら忘れさせられる。
「あきこさん……」
「祐一君、迎えに来たのよ」
 この使い魔が消え、祐一の指が一本腐り落ちる前に迎えに来た秋子。天使の人形を名乗る使い魔も来るのは分かっていたが、ここに入れそうに無いので自分も来て、道を開いてやり、名雪の体にでも宿らせて命を繋ごうとしていた。
「いやっ、ゆうくんを連れて行かないでっ!」
 秋子を見て、死神か何かと思った美汐は、祐一にしがみついて離そうとしなかった。
「いいのじゃ、美汐。この方は狐様、丘から降りて来られた神様じゃ、婿殿を迎えに来られたのだから安心せい」
「いやあっ!」
 取り乱す美汐を無視して、土産の品を差し出す秋子。
「簡単ですが結納の品です、いつか祐一くんが見付かって帰って来た時、この約束を果たしましょう。この子はお孫さんですか?」
「左様です、天野の三世代目、わしの夫が丘から降りて来られた狐様でした」
 歯向かう事など許されず、ただ聞かれたことにだけ応えるお婆さん。恐ろしい妖狐が何故丁寧な語り口調なのか分からず恐れたが、悪意を持って来たのではなく、なんと手土産や結納の品を持って現れ、この祝言を祝福しているようにも見えた。
「貴方がたには祐一君の願いと呪いが降りかかり、幸運とともに不幸が訪れます、毎年貢物を捧げ続けた天野家ですから、酷いことにはならないと思いますが、お孫さんを悲しませるのは許して下さい。せめて、記憶だけでも消してあげましょうか?」
「いやっ」
 頭に手を当てられ、大切な思い出まで奪われそうになった美汐は祐一に縋って泣いた。
「ほんの一月だけの幸せ、その後に訪れる悲しい別れ。私達と人の繋がりは、その程度の儚い物ですが、今生では祐一君は消えない妖狐、いつかここに体も戻って来れば、お孫さんとの縁を認め、添い遂げられるように計らいましょう、それにどれほどの対価が必要かは例がないので分かりません。まあ、妖狐と人が一生を過ごすようなお伽話は無いと思って下さい」
「そうですな、この子にも、天から授かった子なので、好きになってはいかんと言ったのですが、わしと同じように、妖狐の力に惹かれたのでしょう」
「ゆうくんを連れて行かないでっ!」
 美汐が秋子に掴みかかり、服を引っ張り拳で叩き、歯向かおうとした所で何かの力に跳ね飛ばされた。
「きゃあっ!」
「やめなさい、貴方の小さな力でも、私に手出しすれば反作用で罰を受けて怪我をしますよ」
「ゆうくんっ、ゆうくんっ」
「美汐、これ以上困らせるでない」
 跳ね飛ばされてもまた秋子に向かって行き、跳ね飛ばされるのを繰り返す美汐。見かねたお婆さんが止めるが、聞き入れようとはしなかった。
「可哀想ですが貴方には天罰が下ります、私に歯向かい手を上げた罰、それがどれほどか分かりませんが、私に向けた怒りと暴力、それがあなたに降りかかります」
「秋子様っ、このような小さな子の不始末、どうかお許しをっ、罰ならこの婆がいくらでも受けますゆえ」
 美汐と共に地に伏して頭を下げ、神の怒りを収めようと務めるお婆さん。
「違うのです、私に向けた怒りがそのまま自分に降りかかる、そういう仕組みになっているんです、私には止められません、肩代わりも出来ないのです」
 それが七年間の孤独と苦しみになったのか、今ではもう分からないが、大きな幸せの対価は、大きな苦しみで支払う羽目になった。
「ゆうくんをつれていかないでっ」
「それも私が決めたことではありません、そういう仕組なのです。大きな力が一瞬だけ人間に貸し与えられ、その力に溺れたり驕り昂って周りに災厄を撒き散らしてしまう前に取り上げられる、そうなっているんですよ。さあ、お迎えがきました」
 結界の切れ目、秋子が故意に残した裂け目から覗いている化け物、天使の人形がいた。
「ゆうくんが二人っ、どうしたのっ、けがしたのっ?」
 とても同一人物とは思えない呪いの塊、一月の間、依代もなく、安らげる場所もなく、生きるために人を切り裂き、命を食らい続けた化け物にも、美汐は真心と愛情で答えた。
「ああ、これは僕の怪我じゃないんだ、ありがとう。そっちの僕、迎えに来たよ」
「えっ?」
 その張り付いたような笑顔に見覚えは無かったが、血に染まった服やズボン、自分と同じ靴には十分見覚えがあった。
「これを覚えてるだろ?」
「ヒッ、しらないっ、しらないっ!」
 思い出してはならない記憶を引き出されそうになり、必死に抵抗する祐一。
「この名前を思い出せ『月宮あゆ』」
「うっ、うあああっ!」
 天野の家で貰った愛情や術、結界、秘薬や食事で忘れさせられていた恐怖と苦渋と呪いを思い出し、激しい痛みで頭を抱えて座り込む祐一。
「ゆうくんっ」
「さあ、どうした? 思い出せ」
 血に濡れた両手で捕まえられ、ヌルっとした赤黒い血の感触と、生臭い匂いが鼻を突く。
「うわああああっ!」
「さあ、一緒に来い、僕達は『あゆちゃん』のために生まれた、だからまだ目を覚まさない『あゆちゃん』の前にいないと駄目なんだ」
「秋子様っ、どうかお助け下さいっ」
 お婆さんの願いも虚しく、首が横に振られ、祐一本人の意思が優先された。心の葛藤のように強い意志を持つ方が勝つ、周りの者はその行末を見守るしか無かった。
「でもっ、みーちゃんが、みーちゃんがっ」
 一人で置き去りにしてしまう少女を思い、その手から逃れようとする祐一。
「この子は死にはしない、それどころかこいつは『自分の他に好きな子がいるなら、治らなければいい』と思っている」
「え?」
「お前があゆちゃんとだけ遊んで、こいつと遊ばなくなるのを恐れている、だから『そんな子は死んでしまえ』って言ってる、聞こえたな?」
「う、うわあ」
 聞こえないようにして来た、美汐の心の闇。
「さあ言え、お前はどこに行くんだ?」
「あ、ああ……」
「『あゆなんか死ねばいい』と呪っているこいつの所か? それとも誰かが守らないと舞やこいつに呪い殺される『あゆちゃん』の所か? どっちだっ!?」
『ぼ、ぼくは、あゆちゃんのところへ行くっ! あゆちゃんのゆめの中へっ!』
 魂の言葉を叫ぶと、全身が光り始めた祐一。
「そうだ、それでいい」
 美汐の祐一も、天使の人形に取り込まれ、こうして祐一の使い魔の大半が失われた。
「さあ、行こうか」
 小さな翼を羽ばたかせ、天使の人形、あゆの祐一は病院へ戻った。

「ゆうくんっ、ゆうくんっ!」
「美汐、未練じゃ、お前は天から授かった子を好いてしもうた。わしと同じじゃ、苦しいのう、悲しいのう、でも別れは必ず来るのじゃ」
 そう言い聞かせても自分と同じく、失った物の大きさに代わるものなど無く、心に空いた大きな穴を塞ぐ方法は数十年経っても、その血を継いだ孫を抱いても見付からない。お婆さんは美汐を抱き締めて、その穴から流れる血を止めようとした。
「この子の記憶は封じてしまうのが一番でしょう、良い思い出だけを残して、友達は故郷に帰った、そう書き換えてあげます」
「いやあっ、ゆうくんをかえしてっ」
 秋子への呪いと怒り、祖母への怒り、天使の人形に対する怒り、美汐は自分自身が穢れと災厄になろうとしていた。
「やめるのじゃ美汐、この方に怒りを向けてはならんっ」
「いやあっ」
 美汐が壊れきってしまう前に、秋子の力で昏倒させられ、祖母の胸に抱かれて眠らされた。
「数日猶予を与えます、天野の家で記憶を消すか、出来なければ私の所に連れて来なさい。貴方のように生きながら死人(しびと)として暮らすよりは良いでしょう。では後日」
 自分の義姉や、その夫、息子、自分のコピーを見て、人間の心を学習していた秋子も人の心を理解し始め、美汐と祖母にも罰ではなく温情を与えて去った。
「ゆ、う…… く、ん」
 ほんの一月の出会いと別れ、その幸せには対価が求められたが、取り戻すにはもっと大きな対価が必要とされた。
 少女の怨念にも似た妄執は、天野の忘却の術すら破り、舞と同じく長い苦しみと血と汗と涙を積み上げたが、七年の歳月を掛けて天の(ことわり)をも覆して奪い返した。

 こうして大半の少女が命を失うはずの、長い一日が終わった。天の理を書き換え、物理法則を捻じ曲げ、命を繋がれた者も、命を永らえた者も、命のロウソクを他人から盗み出して与えられた者も、五行相克に反して罪人となった者達が、墓から這いずり出て人の世を歩む異常な事態に陥った。
 ここまでの罪を世界に許容させるには、逆に生者を墓に入れ、この世を冥界としてしまう以外に無い。
 
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