KANON 終わらない悪夢
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40事件後
祐一はまだ夢を見せられていた、失った記憶の大切な部分を。そして天使の人形も、この場所を捨てた祐一が何を見てきたのか、記憶の整合性を整えていた。
あゆが怪我をした次の日から、子供の舞はいつまでも待っていた。いつもの麦畑に朝早くから息を切らせて走って来て、日が暮れるまで待っていた。
(来ない……)
日が暮れて、お腹がすいて家に帰っても、何故か舞の残像がそこにいた。
(…やっぱり、わたしがこわいんだ)
やがてその思いは、怒りにも似た感情に変わって行く。
(…またアレを見たから気もちわるいんだ、わたしをきらいにならないで)
その願いは心を砕き、自分自身すら憎む心が大きくなって行く。
ザワザワザワザワ……
舞の周りで何かがざわめいていた。
「どこかへ行けっ、化け物っ!」
一瞬、ざわめきが収まったが、湧き上がる感情と共に、ザワザワと何かが蠢き出す。
その頃、水瀬家では。
「秋子、どうしよう? お前の術が効かないんじゃ、あの子は、あの子はっ」
「仕方無いわね、川澄の娘を連れて来て」
「いやっ、それだけは嫌っ!」
「我慢して姉さん、月宮の術者でも、何人か命と引き換えにして、生き返るかどうか分からない」
あゆとの別れの後、すっかり落ち込んで、自分の部屋に篭っていた祐一。静まり返った部屋にノックの音が響く。
「ごはんだよ、ゆういち、ここ、おいとくから」
いつまでも出て来ない祐一を気遣い、部屋の外に食べ物を載せたお盆を置いて行く名雪。
「……食べたくない」
あの日から何も食べず、布団の上で膝を抱えてうずくまっている祐一。
「どうしてっ、たべないと、しんじゃうよっ」
そこで、今一番言ってはならない言葉を使ってしまい、ハッとするが、中からは何の反応も無かったので、思い切ってドアノブを回して見た。
(あいてる)
トイレから戻った時に鍵を掛け忘れたのか、ベランダからも入れなかった祐一の部屋の扉が開いた。
「入るよ」
返事が無いので部屋に入る名雪。
「どうしたの、しっかりして、ゆういちっ」
「だめなんだ」
「えっ?」
「ぼくのともだちは、みんなしんじゃうんだっ、みんなっ、みんなっ!」
目の前で男の子が泣く所を見て、母性本能をくすぐられる名雪、その胸の奥で、何かがキュっとなった。
「そんなことないよ、わたしやお母さんは、どこにも行ったりしないよ、ゆういちを一人にはしないよ」
「うそだっ! すぐに血でいっぱいになって、うごかなくなるんだっ!」
洗っても落ちない血を見ているように、両手を震わせて泣いている祐一。
「だめだよっ、思い出さないでっ」
祐一が壊れるのを恐れた名雪は、泣いている祐一をギュッと抱き締め、胸の中に顔を埋めさせた。
「なゆき……?」
「ほら、こうしてるとおちつくでしょ、しんぞうの音が「とくん、とくん」って聞こえるでしょ」
「……うん」
「わたしもかなしいとき、お母さんにこうしてもらうんだよ、きっと、あゆちゃんもだいじょうぶだから、ゆういちもげんき出して」
ほえほえパワーで、幼い祐一の心の傷を癒して行く名雪。
「だいじょうぶ?」
「うん、『ふぁいとっ』だよ」
魔法の呪文で記憶を封印している名雪、こうして祐一の恐怖の記憶は封じられた。
ドタドタドタッ、ガチャッ!
「名雪……」
2階で強烈な力を感じた秋子と、一緒に付いて来た姉は、その力が祐一ではなく、名雪から発せられていたのを見た。
「やっぱり、名雪ちゃんも純血の妖狐だったんだね」
祐一の母は、名雪が自分達のような破滅の力を選ばず、祐一を救うため、癒しの力を選んでくれた事に感謝した。そして祐一が、この国を破滅させるような災厄を起こさなかった事にも安堵していた。
「ゆういち? もうねちゃった? あしたはいっぱい、ごはんたべるんだよ」
「……うん」
「ありがとう、名雪ちゃん」
祐一の母が名雪を抱き締め、息子を救ってくれた事に感謝する。
「うん、でもなんだか、わたしもねむくなっちゃった」
「ああ、よくお休み」
その日から名雪は長時間眠るようになった、力を使い果たして倒れる栞達とは違い、舞以上の力が有るにも関わらず、よく眠った。
追い払ってしまった恐怖と苦痛の記憶を持つ祐一の使い魔は、本体に帰れず、名雪の体に寄生して力を奪っていた。
その夜、約束を忘れなかった祐一が、舞のいた広場に現れた。本人は全てを忘れて眠っていたにも関わらず。
「来てくれたんだっ」
「うん、ごめんね、いっぱいまたせて」
何故か祐一にも、舞が待っていたのが分かった。心の声でその悲しみが伝わり、深い絶望が見えていた。
「ううんっ、いいのっ、あそんでくれる?」
まるで幽霊のように、普通の人間には見えない二人。幻のような祐一も、遠い距離を走るより、特定の人物と繋がって意識を飛ばす方が簡単だった。但し、3年前のあゆは祐一を知らず、妖狐としての力も僅かだったので、会う事は出来なかった。
「あの子はどうしたの」
「うん、だいじょうぶなんだって、だから泣かないでいいんだって」
名雪に記憶を消され、何もかも大丈夫だと信じている祐一。
「そう」
誰もいない夜の麦畑、しかし実体の無い二人には、明るい日差しが降り注いでいた。
「なおったら、いっしょにあそべるかな?」
もしあゆが治ったら祐一はここに来なくなる、そしてあの子供は決してこの場所に入れないと知っていた舞はこう思った。
(なおらなければいい)
治療を行った術者がそう思えば、あゆは助からない、誰かがもっと大きな力で守ってやらなければ。
「ねえ、あそぼっ」
「うんっ」
二人には月が日の光だった、鮮やかに照らし出される畑の中を、二人は走り、転び、笑い合い、月が傾くまで遊んだ。
「もう日がくれるね」
「うん」
「また明日もきてくれる?」
「うん」
「やくそくだよ」
「うんっ」
次の日も、その次の日も祐一は遊びに来た、やがて舞は怒りを忘れ、壊れた心が元に戻るかに思えた。しかし、休みの終りが近付くと、祐一はこう言った。
「あの、もういえにかえるんだ」
「いえって、あのいえ?」
「ううん、もっととおいところ、ずっとみなみのほう」
「え?」
祐一が災厄を起こし、人間達に狩られるより、ずっとこの地を離れて、何も思い出させないようにしようと考えていた祐一の母。
「もう、あえないかもしれない」
「うそ……」
「じゃあね、バイバイ、まいちゃん」
また舞の中で何かが崩れる感じがした。
舞は祐一の家、つまり秋子の家には近寄れなかった、祐一の母の願いと、秋子の力が、何があっても川澄の娘が近付くのを許さなかったから。
「でんわ」
もちろん舞が、秋子の家の電話番号など知るはずも無い、しかし受話器を持ち、願いさえすれば、それは繋がる。
「もしもし、水瀬ですが」
祐一の母親らしき人物が電話に出た。
「あの、『ゆういちくん』いますか」
「ええ…、ちょっと待ってね」
すでに力の無い母は、電話の主が誰か分からなかった。あまつさえ術にかかり、自分の意志に反して祐一を呼びに行く。
「もしもし?」
そして名雪の力で、一連の記憶を無くした祐一が電話に出た。
「…ゆういちくん」
「えっ?」
会った覚えも無い少女の声、だが祐一の体はその声に答えた。
「まいちゃん、ごめん、もうかえるじかんなんだ」
「どうして?」
(うそだ、もうここには来たくないと思ってる)
舞の心に氷で刺されたような裏切りが走った。
「休みがおわるから、がっこうへ行かないと」
「じゃあ、つぎはいつ来るの?」
「わからない、もうこれないかもしれない」
(ちがう、わたしがこわいからだ)
「どうしてっ? やくそくしたじゃないっ!」
次第にその目と声に狂気が宿り、氷の刃は心を切り裂いた。
「ぼくもきたいけど、おかあさんがだめだって」
ザワザワザワザワ……
舞の周りで何かがざわめいていた。
「いやっ、ここに来てっ! わたしをみすてないでっ!」
一度千切れた心は元には戻らない、そして自分自身を憎み、嫌い、滅ぼそうと思う心が、また表層まで浮かび上がって来た。
「まものが来るんだよっ 二人のあそびばを荒らしに来るんだよっ!」
また見捨てられると思う悲しみ、また化け物と恐れられ、忌み嫌われる事への怒り。
「いっしょにまもろうよっ」
それは喜びが強かったほど苦しく、楽しかった思い出の分だけ痛み、思慕の情が深いほど強く殺意が芽生えた。
「ごめん……」
「じゃあ一人で守ってるからっ、ぜったいに来てよっ、まってるからっ!」
「うん」
電話が切れると、魔物達はすぐ背後まで迫り、大きな爪と、牙と、棘で身を包み、醜い自分を切り裂こうとしていた。
「近よるなっ! 化け物っ!!」
その頃、舞が心配になった祐一の使い魔が家を出て走って行く、もちろん普通の人間に姿は見えない。
「まいちゃん、まいちゃんっ」
いつもの遊び場まで走っていると、前を歩いていた自分と同年代の少年を追い越した。
「どこに行くつもりだい?」
「えっ?」
その張り付いたような笑顔に見覚えは無かったが、血に染まった服やズボン、自分と同じ靴には十分見覚えがあった。
「これを覚えてるだろ?」
「ヒッ、しらないっ、しらないっ!」
思い出してはならない記憶を引き出されそうになり、必死に抵抗する祐一。
「この名前を思い出せ『月宮あゆ』」
「うっ、うあああっ!」
激しい痛みで、頭を抱えて座り込む祐一。
「さあ、どうした? 思い出せ」
「だいじょうぶだよっ、あゆちゃんはだいじょうぶなんだっ!」
名雪の言葉を繰り返し、あゆは大丈夫だと自分に言い聞かせる。
「違うな、あゆちゃんは今でも病院で死にかけてる、お前が思い出さないから、一人で苦しんで泣いているんだ」
血に濡れた両手で捕まえられ、ヌルっとした赤黒い血の感触と、生臭い匂いが鼻を突く。
「うわああああっ!」
「さあ、一緒に来い、僕達は『あゆちゃん』のために生まれた、だからまだ目を覚まさない『あゆちゃん』の前にいないと駄目なんだ」
「でもっ、まいちゃんが、まいちゃんがっ」
一人で置き去りにしてしまった少女を思い、その手から逃れようとする祐一。
「舞は死にはしない、それどころかあいつは『あゆが治らなければいい』と思っている」
「え?」
「お前があゆちゃんとだけ遊んで、あいつと遊ばなくなるのを恐れている、だから『あゆなんか死んでしまえ』って言ってる、聞こえたな?」
「う、うわあ」
聞こえないようにして来た、舞の心の闇。
「さあ言え、お前はどこに行くんだ?」
「あ、ああ……」
「『あゆなんか死ねばいい』と呪っている舞の所か? それとも誰かが守らないと舞に呪い殺される『あゆちゃん』の所か? どっちだっ!?」
『ぼ、ぼくは、あゆちゃんのところへ行くっ! あゆちゃんのゆめの中へっ!』
魂の言葉を叫ぶと、全身が光り始めた祐一。
「そうだ、それでいい」
舞の祐一も、天使の人形に取り込まれ、こうして祐一の使い魔の三体が失われた。
「さあ、行こうか」
小さな翼を羽ばたかせ、天使の人形、あゆの祐一は病院へ戻った。
ザワザワザワザワ……
「でて行けっ! わたしたちのあそび場からっ! ここからでて行けぇっ!!」
手元にあった棒を拾い、見えない魔物に向かって振り下ろす舞。
ゴスッ!
その時、舞の体と心に、心地よい痛みが走った。
ブンッ、ブンッ、ゴンッ、ガコッ、バキッ
同じように魔物達も舞の体を打ち付けた。
(フフフッ)
(ハハハッ)
誰かに心を奪われそうな時、耐えがたい苦しみから逃れたい時、一つだけ良い方法がある。それは自分に残された手で自分を殴り、刺し、切り裂く事、その相手が自分に割り込みたくなくなるよう、転げ回って苦しむまで。
ゴスッ、ゴンッ、ガコッ、ビシッ、ガスッ
醜い自分から自分の体を取り戻せない時、一つだけ良い方法がある。それは僅かに残った力で、自分の足をよろめかせ、手に握った物を落とし、探し物をいつまでも見えないようにする事、相手が自分を辞めたくなって、血の涙を流すまで。
「うわああああっ!」
(ガアアアッ!)
(ウオオオオンッ!)
(ガルルルルッ!)
(ギャアアアアッ!)
(ヒイイイイイッ!)
その日を境に舞の顔から表情が消えて感情を失い、次第に痛みも苦しみも感じなくなり、ただ魔物への怒りだけが渦巻いていた。
物理法則を捻じ曲げ、死んだ母の命を救い、名も知らぬ複数の患者の命を救わされ、金だとか名誉でその仕事を請け負ってしまった舞は、自分自身への自傷で対価を払い続ける羽目になった。
地獄から伸びた多数の腕は舞を捕らえ、離さなかった。たまに麦畑を訪れる生け贄によって対価が支払われ、舞の負担が減って行ったが、天使の人形も舞への救済を考えなかった。
そのまま死んでくれるか、あゆの事など二度と思い出さない状況なら、その呪いは届かない。
既に佐祐理の歌は途切れ、優しい歌声は終わってしまった。栞の力で跳んで逃げても舞の呪いは届く。それに体中に繋がれたチューブを抜くと、数日であゆは死ぬ。あゆを救っておきながら呪ってしまった舞は、救いのない人生を十年続けた。
あゆの事件の後、栞の元にも祐一が現れていた。
『この間はありがとう』
夜間は親と一緒にいる時間が多く、栞が一人になる時を見計らっていた祐一は、出会った時と同じ、夕闇が迫る公園で栞に話し掛けた。
「うん」
栞は、話し掛けられた少年が、誰だか分からなかったが、祐一の声で秋子に封じられていた記憶が少しだけ戻り、何か自分の力で少年を助けたのだと思えた。
『今日はお礼に来たんだ、僕にできることなら、何でもしてあげる』
「えっ?」
そう聞かれても、自分の願いは叶えられそうに無い物だった。「他の子のように元気に走って遊び回りたい」と言う願い。しかし、その切実な思いは祐一に届いた。
『うん、じゃあ少しだけど、はいっ』
両手を差し出して、舞がやったように、栞に力を分け与える祐一。それは小さな手ですくった水を手渡すような効率の悪い方法だったが、今の栞にとって、喉を潤すのに十分な量だった。
「あっ、ほんとに…」
今までの自分に欠けていた何かを受け取り、急に体に力がみなぎって来た栞。
本来なら一弥のように力を使い切り、幼い頃に命を失うはずだった栞は、この日から暫く、命を吹き込まれたように元気になった。
『じゃあ、何して遊ぶ?』
「う~ん?」
元気に遊んだ事の無い栞は、普通の遊びを知らなかった。姉が付き合ってくれる「おままごと」や「あやとり」など、座ってする遊びしか出来なかった。
『かくれんぼする?』
「うんっ」
珍しく微笑んで、元気に答えた栞。しかし、周りにいた子供達は、魔物の気配に怯えたのか、夜の闇が迫る公園から逃げて行った。
「じゃあ、最初は僕が鬼になるから、どこかに隠れてて。「もういいかい」って聞くから、まだ隠れてない時は「まだだよ」って言ってね」
「うんっ」
最初は魔物の祐一が鬼で、栞は元気に走って隠れる場所を探した。
『もうい~かい?』
「ま~だだよっ」
普通なら魔物に追われれば、他の子供と同じように泣きながら逃げて行くはずが、栞は物陰に隠れてワクワクしながら待ち、楽しそうに笑っていた。
『もうい~かい?』
「もういいよっ」
既に絆が出来た二人は、まるで磁石が引き合うように、お互いのいる場所が分かった。それは栞が鬼に代わってもも同じで、「かくれんぼ」には成り得なかった。
『み~つけた』
「うふふっ、どうしてすぐわかっちゃうの?」
『さあ? あの時と同じで、離れててもすぐに分かるみたい』
「じゃあ、かくれんぼできないね、ふふっ」
『今度は鬼ごっこしようか」
「うんっ」
まだライトアップもされていない、公園の噴水の周りを楽しそうに駆け回る二人。すでに日は沈んでしまったが、祐一にとっては、明るく輝き始めた月と星が日の光だった。その力を受け取ってしまった栞も、夜の眷属として、暗闇こそが過ごし易い場所になり始めていた。
「うふふっ」
『あははっ』
自分の体の状況も忘れ、駆け回り、笑い合う栞。やがてそこに、いつまでも帰って来ない妹を迎えに、姉が探しに来てしまった。
「栞っ、いつまで遊んでるのっ、早く帰りなさいっ」
「えっ?」
体が弱いはずの妹が、何故か元気に走っている光景。しかし香里は、得体の知れない何かが妹を追いかけ、声を掛けた自分の方を向いたのに気付いた。
「きゃああっ!」
薄れてしまった力しか無い香里だが、薄暗い公園の中で、ぼやけた魔物の姿が見えた。
「どうしたの? おねえちゃん」
幽霊のような化け物を見れば、こうやって悲鳴の一つも上げるのが普通の子供の反応だったが、栞にだけは、祐一が現実に存在しているように見えていた。
「そっ、それっ、幽霊っ!」
「ちがうよ、おともだち、あそんでもらってたの」
妹の隣に並んだ奇妙な何かに怯え、2,3歩後ずさる香里。
『うん、この間のお礼に来たんだ』
その声を聞くと、術にかかって、次第に祐一の姿がはっきり見えて来た香里。その頭の中では、同年代の子供が暗がりから現れ、街灯の下に出て来たように記憶が書き換えられて行く。
「そ、そうだったの… でも、もう遅いから帰りなさい、お母さんが怒ってるわよ」
「ええっ!」
自分達や父を容赦なく叩く、あの母親が怒っている表情まで見えた栞は、慌てて帰ろうとした。
「じゃあ、今日はありがとう、もう帰るねっ」
『うんっ』
少しだけ願いが叶えられたので、心地良く帰る祐一の影。美坂家でも、真っ白な顔色をしていたはずの娘が、血色も良くなり、夕食を残さず食べたので驚いていた。
そんな幸せな日々が、いつまでも続くかと思えた。しかし、休みの終わりが近付くと、栞の祐一も、舞の祐一と同じ事を伝えた。
『あの、もう帰らなくちゃいけないんだ…』
言葉は少なくても、縁の出来た栞には心の声でその意味は届いた。全てを心の声で会話していた舞ほど正確ではなかったが、「もう会えないかも知れない」「母親はここから離れて、二度と来たくないと思っている」と伝わった。
「え…?」
そして栞からも様々な戸惑いが聞こえた祐一。悲しみ、寂しさ、二人で繋がっていなければ、きっと自分は死んでしまうと言う怖れ。それは饒舌でなかった分、余計に祐一の心に重く圧し掛かった。
「ごめん…」
沈痛な表情の祐一、しかし、栞は笑顔でこう答えた。
「じゃあ、私が死んじゃう時だけでいいから、むかえに来てくれる?」
『ええっ?』
永遠の別離の前に、最後の願いを伝える栞。以前から、祐一が普通の人間と違うのは気付いていたので、幼いながらも自分も幽霊になれるなら、一緒に連れて行って欲しいと思っていた。
『うん… その前に迎えに来るよ、絶対』
まだ無力な自分でも、遠く離れていても、その瞬間だけは分かるような気がした。そして栞が生きていけないなら、自分と同じ存在にして、祐一の体に取り込んでしまおうと考えていた。
「約束よ」
『うん』
そこで、テレビで見て、こんなシーンではこうすると思っていた栞は、祐一に近付いて唇を重ねた。舞にも詰め寄れなかった、現世と幽界の距離を一瞬で駆け寄り、祐一の体にも届くよう、暖かい口付けをした。
『あっ…』
初めて女の子と交わしたキス、心の篭った契約の印。こうしてまた因果律の歯車が一枚増え、栞の命が尽きる前には必ず祐一が呼び出される事になった。
その日、夜が白み始めるまで抱き合って過ごした二人。やがて祐一が存在出来なくなって来た頃、何度も口付けを交わして、二人の絆が切れないほど強くなってから、別れの言葉を紡いだ。
『さよなら』
「うん…」
たった一言の別れ、しかし、お互いの一部を交換し合っていた二人には、それ以上何も必要なかった。
引き寄せられるように自分の体に戻る途中、自分と同世代の少年に出会った。
「お帰り」
「ただいま」
その張り付いたような笑顔に見覚えは無かったが、血に染まった服やズボン、自分と同じ靴には十分見覚えがあった。
「これを覚えてるだろ?」
「少し」
思い出してはならない記憶を引き出されそうになるが、栞との絆があれば、怖れる物は何も無い。
「じゃあ話は早い、一緒に病院に行こう」
「いやだ、あゆちゃんはだいじょうぶだよ」
名雪の言葉を繰り返し、あゆは大丈夫だと言い張る。自分に必要なのは、本体に合流して、栞が消耗した時、いつでも駆け寄って力を分けられるようにする事。
「違うな、あゆちゃんは今でも病院で死にかけてる」
「でも、僕には何もできない、僕は栞ちゃんが消える時、必ず迎えに行く。君もあゆちゃんが消える時、そうすればいい」
「僕は嫌だ、生きているあゆちゃんと会いたい。君も生きている栞ちゃんと会いたいだろう?」
血に濡れた両手で捕まえられ、ヌルっとした赤黒い血の感触と、生臭い匂いが鼻を突く。
「うわあっ!」
「さあ、一緒に来い、僕達が集まって、力を付ければ栞ちゃんの病気も治せる」
「ほんとに?」
「そうだ、それに僕達は『あゆちゃん』のために生まれた、だからまだ目を覚まさない『あゆちゃん』の前にいないと駄目なんだ」
「でもっ」
一人にしてしまった栞を思い、約束を果たせなくなるのを怖れ、天使の人形から逃れようとする祐一。
「栞ちゃんはいつ消えるのかな? また駆け回った時? それとも君を追って遠くまで跳んでしまった時? 後一ヶ月? それとも…」
「ちがうっ!」
「体は家に帰ってしまうのに、どうやって見守るつもりだい? 病院にいればいつでも近くにいられる、飛べばほんの数十秒。さあ言え、君はどこに行くんだ?」
弱い所を突かれ、考え込む栞の祐一。
「…いつでも栞ちゃんを見守れるなら、一緒に行ってもいい」
「そうだ、それでいい。 あゆちゃんを助けられれば、栞ちゃんも助けよう」
「うん」
キイイイインッ
交渉が成立すると、全身が光り始めた栞の祐一。 こうして栞の祐一も、天使の人形に取り込まれ、祐一の使い魔のうち四体が失われた。
「さあ、行こうか」
小さな翼を羽ばたかせ、天使の人形は病院へ戻った。
あゆの事件の後、佐祐理の元にも祐一の影が訪れていた。番犬のいる庭を飛び越え、照明が消えた部屋の窓も開けず、闇から湧いて出たように。
『あの… お姉ちゃん、この前はありがとう』
「えっ?」
もちろん普通の人間にその姿は見えず、妖狐の血を引いた佐祐理と母を除いては、幽霊か何か、不気味な物が視界の端を動いている程度にしか認識できなかった。
『あの子も、お姉ちゃんが歌ってくれたから、もう怖くないんだって、もう痛くないんだって』
普通なら、夜に突然現れた何かに話し掛けられれば、大声を上げて驚くか、使用人を呼ぶ所だが、佐祐理は「お姉ちゃん」と呼ばれた時点で壊れた。
「一弥っ、一弥なんでしょ?」
祐一の影の表情までは認識できなかったのか、佐祐理には一弥が幽霊になって帰って来てくれたのだと思えた。先日の出来事は、秋子の声で封印されていたので、何も覚えていない。
『名前は… 知らない、でも、お姉ちゃんの事は覚えてるよ。今日はこの間のお礼に来たんだ、僕にできる事だったら何でもしてあげる』
自分の名前も知らない祐一の使い魔。しかしその心と体は「あゆちゃんを助けたい」と言う純粋な願いで組み上げられ、今日はそれを助けてくれた佐祐理に礼をしに来ていた。
「じゃあ、もうどこにも行かないでちょうだい、お姉ちゃんを一人にしないでっ」
「うん…」
佐祐理の願いは心の声で祐一に届いた、「弟の一弥と一緒にいたい」と。先日の事故で力の使い方を覚え、舞、栞、秋子、佐祐理、名雪の力を見てからは、もっと力が使えるようになった祐一は、倉田家に残っていた一弥の残留思念を取り込んだ。
祐一にしても、何の繋がりも無く、この場に長く存在できなかったので、それは好都合と言えた。
「ねえ、お腹すいてない? のどは渇いてない?」
『ううん、だいじょうぶ』
「じゃあ、何かして欲しいことは無い?」
『う~ん?』
願いを叶えるはずが逆に問われて困るが、祐一はあの心地良い歌声を思い出した。
『じゃあ、また歌ってくれる?』
「ええ」
祐一の影に近寄って膝を付き、大切な物を取り戻したように、しっかりと抱き付いて、涙を流しながら歌う佐祐理。
やがてその歌声は心に染み入り、一弥が持っていた恐怖や苦痛を取り除いて行った。
『僕、もう怖くないよ、お姉ちゃんと一緒だから、ずっと見てたから』
「か、一弥っ」
もう歌い続ける事もできず、祐一の肩に顔を埋めて泣き始める幼い佐祐理。
それから夜中まで、飽きる事無く話し、昔のように遊んでいたが、月が傾いた頃、祐一はこう言った。
『あの、僕、朝になる前に帰らないといけないんだ』
「えっ?」
一弥と別れるのは辛かったが、幽霊なら夜にしか出られないのだと思う佐祐理。
「じゃあ、明日も、明日も来てくれるわね?」
『うんっ』
「きっとよ、約束して」
『うんっ』
その日から外に出ようともせず、カーテンを閉めて昼間に眠り、夜になっても照明を消したまま遊んでいる佐祐理。それを不審に思い、使用人の一人が部屋を覗き込んだ。
『お姉ちゃん、誰かが見てる』
「えっ?」
佐祐理も本能的に、この遊びが見付かってしまえば、人間ではない一弥が何をされるか分からないと知っていた。
「誰ですかっ?」
答えは無かったが、部屋の外を誰かが去って行く気配がした。それは祐一の存在に気付いた、母親の指示による物だった。
「奥様、やはりお嬢様は、お一人ではないようです。私どもが近所のお子さんを病院に運んでから、何かあったはずなのですが」
「そうですか、それでは、『思い出せるだけ、思い出しなさい』」
妖狐の一族である佐祐理の母の命令。舞のような天性の才能は無かったが、妖狐の血が濃い倉田家の力は、秋子の命令を少しだけ解除できた。
「あ、あの日は… お嬢様に助けを求めた子供を連れて森まで行ったのですが、森に入るとその子は消えて、大きな木の傍にその子と、あの御方が… それから、別の子が病院と言うと、て、転移、う、うわああっ!」
『もう結構です。それは悪い夢、思い出す必要はありません』
「は、はい…… はー、はー、はー」
運転手の狼狽の具合からも、妖狐関連の事件なのは容易に分かった。それも水瀬家本家の、秋子が関わった事件だと。
(まさか、佐祐理は丘の狐様を呼んでしまったの?)
幸運と災厄は表裏一体。ほんの紙一重の差で、倉田家にも破滅がやって来る。佐祐理の母は、慎重に今後の策を考えた。
「佐祐理、まだ起きてるの? 入りますよ」
母親が部屋に入ると、佐祐理はベッドに入って震えていた。まるで拾って来た子犬か猫でも隠すように、何かを抱きかかえて。
「いいのよ、怯えなくても、出てらっしゃい」
怯えているのは母親の方も同じだった。これが祐一のように子狐を拾っただけなら、丁寧に洗って寄生虫の卵を取り、予防接種でも受ければ問題無い。
寿命まで飼って、大切に育てれば災厄は起こらない。まだ母親は希望的観測を捨てきれなかった。
「本当… ですか?」
「ええ、佐祐理は誰を連れて来たのかしら? お友達、それとも…」
「では、電気を消して下さい。かず… いえ、この子は明るい場所はだめなんです」
母はとても悪い予感がした、明るい場所で生きて行けない化け物、もしくは伝承に残った使い魔。佐祐理は既に災厄に取り付かれていた。
「明かりを消せばいいの? でも、暴れたりしない」
「はい」
その言葉を信じ、母は照明を切った。やがて佐祐理はゴソゴソとベッドを出て、その「何か」に毛布を被せたまま起き上がった。
「さあ、出てらっしゃい」
『うん、お姉ちゃん』
「か、一弥っ!」
母から見ても、その幻のような姿は一弥だった。すでに記憶と霊が呼び出され、体が作られれば一弥になるはずの物だった。
「違うっ、この子は一弥じゃないっ、一弥なんかじゃないっ」
その影の中に、祐一も見てしまった母は錯乱して否定してしまった。それが災厄を呼ぶのも忘れ、自分の大切な子供の偽者を見て泣き叫んだ。
「何をおっしゃるんです? この子は一弥なんですっ」
思っていた通り、このままでは一弥は自分から引き剥がされて捨てられてしまう。母の取り乱し方を見て、佐祐理は祐一の影を抱いて、必死になって庇っていた。
「違うのよ佐祐理っ、それは使い魔。誰か力ある者が放った自分の影」
そこまで言って、妖狐の一族で話題になっていた、水瀬家の純血の妖狐を思い出した母。それならば先日の事件も、水瀬家の秋子の介入も説明がつく。
「まさか、貴方は水瀬、いえ、相沢様」
『そうだったかも知れない、でも今は一弥、これからもずっと一弥』
自分がそうしなければ、生きて行けそうも無い少女の心を感じ、先日の謝礼と共に今後も一弥として佐祐理を支えて行こうと決めた祐一の分身。
「ちっ、違いますっ、一弥は私の息子っ、私がお腹を痛めて産んだ子供ですっ! もし貴方のように大きな力を持っていればっ」
自分と同じように、力だけ持って生まれてしまった息子。祐一とは違い、あっと言う間に力を使い切って死んでしまった一弥を思い、冷静さを失って祐一の肩を掴んで泣き叫ぶ母。
「一弥を返してっ! 私の子供を返してっ!」
もし冷静なら、秋子の所へ行って佐祐理との浅からぬ因縁を説明し、祐一を婿に迎える確約を取るか、血を受け入れる約束をして、倉田の家のためになる行動を取るはずだった。
しかし母は、自分の息子の命を奪った呪われた血を憎んでいた。時に器にそぐわない大きな力を持たせてしまう、妖狐の血を呪っていた。
「やめてっ! お母様っ!」
そこで母は、佐祐理を叩いて跳ね除けてしまった。目の前の魔物がどんな力を持っているのかも忘れて。
『お姉ちゃんに何をするっ!』
まだ子供の祐一が出した数分の一の力とは言え、舞の魔物よりは強力だった。
その力はベッドを砕き、窓を吹き飛ばして巨大化して行く。この時点で一弥の意思は消え、佐祐理の祐一にとって、唯一無二の少女に手をかけた者に制裁を加えようとしていた
「ひいいっ!」
『キエロ』
「やめてっ、一弥っ! あなたのお母様なのよっ!」
目の前に出て母を庇う佐祐理を見て、何とか腕の動きを止めた祐一。
『お姉ちゃん』
「いいのっ、大丈夫だから… 落ち着いて」
ここで、本体から離れているにも関わらず、大きな力を使った祐一の影は消耗してしまった。祐一自身は既に実家に帰り、力の源は無くなったと言うのに。
「また歌ってあげるから、ね?」
『うん…』
母は、普段自分が出す使い魔より、遥かに大きな力を持った魔物に襲われそうになったが、それは佐祐理の言う事になら服従している。
そこで相沢祐一とは、佐祐理と「心も魂も呼び合う」相手ではないかと思った。伝承にあるように、自分の祖先がそうであったように。
「奥様っ、どうなさいましたっ」
そこで大きな音に気付いた使用人達が現れた。棒を持っている者もいる。
『入ってはいけませんっ、これを刺激すれば家が終わりますっ』
これ以上祐一を刺激すれば、家が壊れるのではなく倉田家が終わる。母は心の声で命令し、使用人を近付けさせなかった。
「一弥、おとなしくして」
巨大化した使い魔を怖れもせず、手を取って愛おしそうに頬擦りする佐祐理。その歌声が届くと、祐一の怒りも収まり、次第に元の大きさに戻って行った。
『ごめんなさい、お姉ちゃんのベッド壊しちゃって』
「いいの、でも、もうこんな事しちゃだめよ」
『うん』
佐祐理の腕の中で、小さくなって謝っている魔物。それはもう人の姿を保てなかったが、佐祐理には見えないのか、気にならないのか、大切そうに抱き締めて、頭のような場所を撫でていた。
『でも、何だか疲れちゃった、今日はもう帰るね』
「ええ、また来てくれる?」
『うんっ』
体を引きずって窓から出て行こうとする魔物。そこで、背中に現れた一弥の顔が口を開いた。
『また、来るよ』
「ひっ!」
母には、魔物に取り込まれた息子が見えた。まだ僅かだが、実体として作られ始めている、体の一部が見えてしまった。
「返してっ、一弥を返してっ!」
自分の息子が、不完全な形で復活させられるのを恐れた母は、魔物にすがり付こうとした。
『来るな。 絶対に返す、お姉ちゃんのために帰って来る』
しかし、心の声で命令され、それ以上は近付く事も出来なかった。ほんの一瞬とは言え、純血の妖狐の力で命令された母は、二度と佐祐理を叩く事はできなくなり、一弥が帰って来るまで黙って待つしかなかった。
やがて、力を求めるように水瀬家に辿り着いた魔物。この場所なら秋子や名雪の力が充満し、眠るだけでも力の補充ができていた。
『お帰りなさい、祐一君』
すでに人の形をしていない祐一を、秋子は笑顔で迎えた。
『ただいま、あきこさん』
魔物も、今は一弥ではなく、祐一として秋子に答える。
『お腹がすいたでしょ? 何か作ってあげますね、手を洗ってらっしゃい』
『うん』
すでに手と呼べる場所は無かったが、洗面台に行き、何かを掴み、切り裂く場所を洗う。帰り道、空腹に耐えかねたのか、吼えかける犬を切り裂いたのか、その両手は血に濡れていた。
『はい、どうぞ』
ご飯や肉類、滋養が付きそうな物も並べて行ったが、魔物は迷わずジャムを取った。
(やっぱり)
今までは一弥の体を作るため、他の物も食べていたが、魔物は既に自分の体を維持するのも困難だった。
秋子の体が欲する成分を含んだジャム、人の口では毒物としか感じられない物を、美味そうに一瓶丸ごと飲み込み、魔物は満足そうにしていた。
『まだありますよ、おかわりどうですか?』
『うん、もうお腹一杯、ごちそうさま』
『これからはお腹が減ったら帰って来るんですよ、外でつまみ食いしてはいけません』
『うん…』
幸い、魔物に付いていた血は、人の匂いはしなかったが、これから空腹に負けて人の命を吸い取って味を覚えてしまえば、いつか人の手で狩られてしまう。今の秋子には、祐一を守り続ける力は残っていなかった。
『お風呂に入りますか?』
『ううん、もう眠いから』
『そう…』
あれから、秋子の元にも祐一の影が現れたが、願い事を聞かれた時も、「祐一君がもっと大きくなって、力が強くなっていたら、その力を分けて」と言って、そっと体の中に帰らせていた。
あのとき確認出来た祐一の魔物は、自分の前に現れた者も含め6体。
しかし、天野の家や佐祐理の所に行った祐一は、少女達の心の寒さを感じたのか、何をしても体に帰ろうとせず、舞の祐一も、美坂の家に行った祐一も、天使の人形に吸収されてしまった。
秋子としても、それを黙って見守る他は無く、祐一の母も、使い魔が事件を起こして体が狩られる前に姿を消して、連絡をよこそうともしなかった。
影など見えなくなった母には、肉体のある祐一だけが自分の子供で、川澄の娘のように辛い思いをする前に、恐ろしい力が抜け出たのを幸いとまで思っていた。
『おやすみなさい、あきこさん…』
階段を這って上がり、以前自分に割り当てられていた部屋のドアを擦り抜け、祐一のために敷かれたままの布団の上に倒れ、闇の中に消えて行く魔物。
『おやすみなさい、祐一君…』
それを見送る秋子だが、この祐一は長くは持たない。力を使い果たす前に体に戻らなければ消滅する。その前に、あゆの夢の中に住む、天使の人形が吸収しに来るのは間違いなかったが。
数日後、少し回復した祐一の使い魔は、いつも通り暗闇から湧き上がり、倉田家まで這っていると、自分と同年代の少年に出会った。
「どこへ行くつもりだい?」
「えっ?」
その張り付いたような笑顔に見覚えは無かったが、血に染まった服やズボン、自分の靴には見覚えがあった。
「これを覚えてるだろ?」
「しらない」
思い出してはいけない記憶を引き出されそうになるが、無視する。
「もう自分でも分かってるだろ? 君はもうすぐ消える。 天野の家に行った僕も消えた、その前に回収したけどね」
「でも、お姉ちゃんが待ってるから」
一弥の顔が口を開き、天使の人形を睨む。
「君は一弥と同化したのか、それで長持ちしてるんだね」
「しらない」
「じゃあ、この名前を思い出せ『月宮あゆ』」
「うっ、ううっ!」
激しい痛みで、頭のような場所を抱えて暴れる魔物。
「さあ、どうした? 思い出せ」
「だいじょうぶだ、あゆちゃんはだいじょうぶなんだっ」
名雪の言葉を繰り返し、あゆは大丈夫だと自分に言い聞かせる。
「違うな、あゆちゃんは今でも病院で死にかけてる、君が思い出さないから、一人で苦しんで泣いているんだ」
「ちがう、お姉ちゃんの歌で、もう怖くない、苦しくないんだっ」
「そうだね、佐祐理さんの歌で、あゆちゃんは救われた。でも今は舞に呪われている、「あゆなんて死ねばいい」と思ってるあいつに」
そこで血に濡れた両手で同化されそうになり、慌てて身を引く。
「ガアアアアッ!」
「さあ、一緒に来い、僕達は『あゆちゃん』のために生まれた、だからまだ目を覚まさない『あゆちゃん』の前にいないと駄目なんだ」
「でも、お姉ちゃんが」
一人で置き去りにしてしまった姉のような少女を思い、力を使ってその手を跳ね飛ばそうとする。
「佐祐理さんは死にはしない、それに君はもう倉田家まで辿り着けない」
天使の人形も、この時点では佐祐理や美汐が、どれだけ祐一に依存しているか分からなかった。後になって、慌てて手首の傷を塞ぐはめになるとは、思ってもいなかった
「さあ言え、君はどこに行くんだ?」
「あ… ああ……」
「このまま佐祐理さんの所へ行って消えるつもりか? それとも誰かが守らないと舞に呪い殺される『あゆちゃん』の所か? どっちだっ」
『ぼくは、お姉ちゃんの所へ行くっ!』
「仕方ないな、消える前に同化してやる、そうすればまた佐祐理さんにも会わせてあげるよ。いつか力が付けば一弥も返してあげよう」
「ほんとっ?」
魔物の体に浮かぶ一弥の顔に、一瞬笑顔が戻る。
「ああ、佐祐理さんには世話になったし、あの歌が消えれば、舞の呪いがあゆちゃんに届いてしまう」
「でも、どうして君だけずっと消えないの?」
「名雪の力は無限だからね、眠るだけで僕達を維持できる」
秋子を呼びに行った天使の人形、それは、名雪の祐一だったのかも知れない。もしあの時、名雪が祐一の速さに付いて行けて、癒しの力を使って、あゆを救う事が出来てさえいれば全ては解決していた。
「あの夢の中に、あゆちゃんもいるんだ。さあ、早くしないと永遠に佐祐理さんに会えなくなる」
「うん…」
キイイイインッ
観念すると、全身が光り始めた魔物。
「それでいい、佐祐理さんに僕達を維持するだけの力は無い」
こうして佐祐理の祐一と一弥も、天使の人形に取り込まれ、祐一の力の大半が失われた。
小さな翼を広げ、倉田家へ飛ぶ天使の人形。
「さあ、佐祐理さんにお別れを言いに行こう」
また暗闇の中で、一弥を待っている佐祐理。自分の部屋は修理中なので、客間と元の部屋を何度も行き来して、一弥が来ていないか確かめていた。
『お姉ちゃん』
「一弥っ?」
一弥はここ数日現れなかったので、母の仕打ちを恐れ、もう来てくれないかと心配していたが、今日はその姿を見て驚く。
いつものおぼろげな姿ではなく、くっきりと見える体の輪郭、背中に生えた羽、頭の上の光輪、そして何よりも、血に汚れた服と両手。
「どうしたのっ? 怪我したのっ?」
その姿は明らかに一弥では無かったが、いつもの雰囲気に似ていたのと、一弥の気配も感じ、まず体の心配をしてやる。
『ううん、怪我じゃないんだ。それに僕は一弥君の友達、一緒に来てるから交代するね』
血に濡れた両手で顔を隠し、ほんの一瞬、一弥に体を貸してやる天使の人形。やがて、光輪と羽は残ったが、顔も服装も一弥に見えるように術をかけて行く。
『お姉ちゃん?』
「ああっ、一弥っ、一弥っ!」
懐かしい弟の顔を、はっきりと見て抱き付く佐祐理。しかし、その姿と心の声から、一弥は別れのために来たのだと悟る。
『今日は、お別れを言いに来たんだ』
「どうして? お母様がいるから?」
『ううん、もうここに来る力が残ってないんだ。だから友達と一緒に行くけど、いつか帰って来るから』
「えっ?」
先程見た「友達」は、とても邪悪な感じがした。体に付いた血ではなく、張り付いたような笑顔と、何かを憎み呪う心の声。それはいつも一弥を乗せて来た、純粋な存在とは全く違う感じがしていた。
『悪い友達じゃないよ、僕を生き返らせてあげるって、約束してくれたから』
天使の人形からも、佐祐理に対する「感謝」の心と、「約束」が伝えられた。まだそれは、力の弱い自分にとって、とても難しい作業だと言う不安と共に。
「どのぐらい待てばいいの… お姉ちゃん、そんなに待てないよ」
弟と話す時にだけ使う自分の呼び名、それを口にした時、猛烈な孤独感に襲われ、涙声になる佐祐理。
天使の人形からも「同情」と「悲しみ」の共感が得られたが、その心の中には一弥より優先順位の高い誰かがいた。
『分からない、でも、いつも見てるから』
「ええ……」
窓から月明かりが差し込み、まるで昇天するように去って行く一弥。
『また、会いたくなったら、夢の中で』
「何て言ったの? 教えてっ、もう一度教えてっ!」
バルコニーに立って、必死に手を伸ばす佐祐理。しかし、融合のために力を使い過ぎた天使の人形は、その姿を保てなくなる前に術を解いて消えた。
「一弥~~っ!!」
暗闇に佐祐理の絶叫が響く。諦めていた弟との再会、そしてまた訪れた別れ。それは幸せが大きかった分だけ、大きな傷を残した。
その日から佐祐理の心は一弥の声、つまり祐一の魔物の声が、いつでも聞こえるように固定された。祐一と再会した時、思った事が全て聞こえてしまうほど深い絆を残して。
(佐祐理お姉ちゃんの話はもう少し続くよ)
天使の人形から伝わる夢、出会いと絆と別れの悪夢は続く。
後書き
2000年頃最初の設定を考えて書き始め、2002年頃に手直しして投稿、当時は下手でも、気合が入っていて、設定も言葉の言い回しも、心に刺さる所も多く、微笑ましいと言うか、汚れていない感じがある気がします。
今の、このすばSSと、物語シリーズSSは、WIKIで調べたり設定も適当で、固有名詞を忘れては誤魔化し、1日10キロバイト程度でも毎日更新になるようにしているので、クオリティーが下がり、内容設定も適当なのがお恥ずかしい気もします。
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