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逆さの砂時計

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Side Story
  少女怪盗と仮面の神父 39

 「い……っ!」
 ドクン! と、けたたましく鳴いた心臓が、堕ちかけた意識を無理矢理、乱暴に叩き起こした。
 衝撃で見開いた瞳一杯に、濡れて霞んだ漆黒の空が飛び込んで来る。
 「ミートリッテ嬢! 戻ったか!?」
 「っふ……けふ、けふ……っ ぅ……く」
 見えない金槌で頭頂部を強打されたみたいだ。頭と目の周辺が尋常じゃなく痛い。耳奥でシュッ……シュッ……と響く血流音が鬱陶しい。喉が痛い。胸が苦しい。夜河の冷たい空気を一気に吸い込んだ所為か、気管を滑る湿気の感触で思いっ切り咽せてしまった。あまりの息苦しさに固く目を閉ざし、口元を押さえようとして……気付く。
 自分の両腕が、誰かの肩に縋り付いて硬めな布地を握り締めている。自分の両脇と背中に、濡れた服を引っ張る誰かの腕を感じる。
 要するに、いつの間にか誰かと抱き合っていたらしい。
 (……だ、れ? なんで……)
 乱れた呼吸を落ち着けながら目蓋をゆっくり押し上げると、ぼやけた視界の隅にベルヘンス卿らしき白っぽい人影が立っていた。瞬きを数回繰り返して涙を払い落とせば、見下ろす顔が安堵を浮き彫りにする。
 「大丈夫……だな。声は出せるか? 名前を言えるか?」
 肩越しで軽く息を吐いた彼の眉間には、暗闇でもはっきり見える深い皺が三本も刻まれていて。
 (ああ……、そうか……)
 それがなんだか、混乱しかけた思考をふわっと軽くしてくれた。
 「ミートリ ッテ です……。しわ、一本増えた、ね……おにいさん……」
 「余計なお世話だよ! 死にかけた人間が息も絶え絶えに突っ込む所かこれは! 大体、誰の所為だと思っ…………『おにいさん』? まさか、君……」
 安堵が怒りへ。怒りが疑いへ。疑いが驚きへ。
 表情をころころ変えるベルヘンス卿に微笑んで頷き、目線を下へずらす。
 「……ハウィス」
 金色の髪に頬を擦り付けた途端、腕の中でハウィスの体がビクッと跳ねた。顔は右肩に埋められたまま、後ろに引っ張られた服が微かに震える。
 「ごめん、なさい」
 ハウィスに助けられたのは、これで何回目だろう? 浜辺で拾われた時。初めてアルフィンと会った時。七年間、事ある毎に与えられ続けた柔らかな感触と体温と、体の芯を通り抜ける爽やかなミントの香り。此処に居ても良いんだと、言葉の代わりに優しく包み込んでくれていた、二人目のお母さん。
 「本当に、ごめん」
 強く握っていた騎士服を離し、背中を擦ってぽんぽんと叩く。
 戦闘中の動きを阻害しない為に素材選びと縫い方で工夫を凝らしているのか、肌理細かな表面に指を滑らせると、見た目以上にさらさらでとても気持ち良い。
 でも。
 (こんな物、本当は着たくなかったよね。もう二度と誰の血も傷も見たくなかった筈なのに、私がアルスエルナに来たから。私の我が儘が、ハウィスにこの道を選ばせてしまった。これは私の罪。私が現実から逃げた分、押し付けてしまった罪だ)
 どんな思いで袖を通したのか。どれだけの決意を持って再び剣を握ったのか。護られるばかりだったミートリッテには想像も及ばない覚悟を背負って、ハウィスは今、此処に居る。
 それはミートリッテがどうしようもなく愚かな人間だという証。
 同時に、唾棄されるべき愚行を犯したミートリッテであっても必要としているのだと、疑う余地も否定する余地も無く明確に提示された、ハウィスの愛情そのもの。
 (だからこそ)
 目を逸らさない。
 「……ありがとう」
 今度は絶対に。逃げたりしない。
 「大好き」
 腕に力を込めて肩を抱き直す。
 ほどなくしてハウィスの頭が浮き上がり、揺れる群青色の双眸に娘の笑顔を映した。
 「……愛してるわ」
 「うん。知ってる」
 「でも、信じてなかったでしょ?」
 「……ごめん」
 腕を解いたハウィスが自身の涙を拭い、苦笑う。
 「相談とか、全然してくれなかった」
 「迷惑になると思ったんだもん。ハウィスの重荷にはなりたくなかった。嫌われたらって考えると、物凄く怖かったんだよ」
 「臆病者」
 「いやいや。これ、普通だから。優しくされたからって、見知らぬ他人といきなり気が置けない家族になれる密入国者なんか、そうそういないからね? 疑心暗鬼が標準装備だからね?」
 「結果について、どう思われますか?」
 「申し訳もございません。」
 最早、土下座以外に術は無し。
 後退って平伏するミートリッテに、ハウィスは仕方ないわねぇと溜め息を溢し、愛し子の濡れ髪を撫でた。
 「反省中の愛娘さんは、謝罪の一環として、お母様のお願いを叶えてくれるかしら?」
 「私にできる事なら、なんなりと!」
 「まぁ嬉しい。だったら……目を閉じ、耳を塞いでいて」
 「え?」
 一瞬、意味が解らずに固まり。
 問い掛けようと顔を上げて、また、硬直する。
 穏やかで優しい母親は、冷たい殺気を纏う女性騎士に戻っていた。
 「ベルヘンス卿が合図するまで、決して動かないで。何も聴かないで。私を見ないで」
 「ハウィス……?」
 立ち上がり、ベルヘンス卿に「ミートリッテをお願いします」と言い置いて背を向ける。
 右手が腰に帯びていた剣の柄を握り、しゅりんと音を立てて白刃を閃かせた。
 踏み出した先には、何故かアーレストに組み伏せられているイオーネの姿。
 「ハウィス!?」
 何を。
 動けない女性に大嫌いな剣を掲げて、ハウィスは何をしようとしてるのか。
 「ミートリッテ嬢!」
 嫌な予感。胸がざわつく。
 衝動的に立ち上がろうとしたミートリッテの肩を、今度は膝を折ったベルヘンス卿の両腕が押し留める。
 それでも追い掛けたがる娘に、ハウィスは上半身で振り返って目を細めた。
 「お願いよ、ミートリッテ」
 悲しみや怒り、諦めや切望。
 様々な感情が複雑に入り乱れた難解な笑顔は、直ぐ様闇に溶けて消えた。
 そして。
 ハウィスの声色を著た冷酷無比な宣言が、ミートリッテの耳を貫く。
 「……当代リアメルティ領主・ハウィス=アジュール=リアメルティの名に於いて、隣国バーデルよりの侵領者イオーネを……断罪する」
 断罪。罪を裁く事。
 領主のハウィスが、密入国者のイオーネを。
 元義賊が、元一般出の侍女を。
 ……加害者が、被害者を……裁く。
 「遺したい言葉があるなら、聴こう」
 眼前に切っ先を突き付けられたイオーネは、敵の喉笛を噛み千切ろうとする肉食獣にも似た険悪な顔でハウィスを睨み……ふと、微笑んだ。
 嬉しそうに。楽しそうに。
 肩を揺らしてクスクス笑う。
 「良かったわねぇ、ハウィス。殿下が爵位をくれたおかげで、今後は誰に脅かされる心配も無く、仔猫をずーっと傍に置けるじゃない。ついでに、隠しておきたかった過去も消し去れて。嬉しいでしょ? 嬉しいわよね? 他人を踏み付けて手に入れた幸福は、この上も無く甘美でしょう?」
 「…………嬉しい? 幸福?」
 あははと高らかに笑うイオーネ。ハウィスは
 「何処に、あるの? そんなもの」
 かつてなく低い声を。ぴんと伸びた背筋を。月光で輝く剣身を。小刻みに震わせる。
 「ミートリッテは……生きたいと、言ったのよ? 明らかに誰の庇護も受けてない凄惨な姿で、自分を見棄てた人間達に対する憎悪や嫌悪を並び立てる事も無く。後悔したくない、笑いたい、子供に戻りたいと言って泣いたの。身も心も深く傷付けられ、人間社会に捨てられて……それでも「人」を求めていたあの子に、こんな……人殺しと変わらない、汚い仕事を押し付けてっ……! 逃げようが無い、領主後継者の枠に縛り付けて! 現状の何処に、あの子の幸せがあるって言うのよッ!? 私は……! 私は、他人の傷を見て自分の心臓を止めてしまう優しい娘に、両手を赤く染めて万民に誇れとは言えない……! 決して! 言いたくなかった!!」
 領主は盾、騎士は剣。施政者達はいつ如何なる瞬間も、略奪を図り襲い来る敵達と戦っている。清廉潔白な政治など、まやかしだ。人の前に、上に立つ者は、多かれ少なかれ必ず誰かの血と罵声を浴びる。護る為と言えば聞こえは良いが、やってる事は結局、自身にとって邪魔な者を斬り棄てる利己主義者達と全く同じ。笑いたいと願った幼い子供をそんな世界に引き擦り込んでおいて、これからは何の気兼ねも要らない。ずっと一緒だね……などと、能天気に喜べる訳がない。
 だから躊躇っていたのだ。ハウィスが指輪を受け取れば、ミートリッテには逃げ場が無くなる。新たな貴族、領主の後継者という肩書きが、ミートリッテを血塗れにしてしまうから。
 「ハウィス……」
 「あは! それよ。貴女達の、絶望に支配されたその顔が見たかったの! 殺したくなかった? 殺させたくない? バカも休み休み言え!! 生物は等しく奪わなきゃ奪われるだけ! 殺さなきゃ殺されるだけだ! そんな当たり前の因果からも目を逸らした気持ち悪い夢想家共が、したり顔で生き死にを語るな! 虫酸が走るわ!」
 「……!」
 「認めなさいよ。貴女達は貴女達以外から物を奪い、過去と未来を奪い、命を奪って生きている。綺麗な言葉で一生懸命装飾しても、搾取と強奪こそが人間の本質。本来の在り方だ。譲り合い分かち合いで回るのは、何の役にも立たないちっぽけな優越感だけ。崇高な善意様を投げ渡された相手の迷惑顔も顧みず、助けてやった自分は他より満たされ優れてるんだと思いたいだけよ!」
 「違……っ」
 「今だってそう! 邪魔な私を殺して仔猫を手に入れる。地位を守る。他に何があるの? 国の安全? 領民の不安を払拭? 領民一人一人が侵領者共を殺して安心させてくれと、殿下の立場を守ってくれと懇願したのかしら? 違うわよねぇ? 貴女達はいつだって、誰の意見も求めちゃいないんだから!!」
 「私達は!」
 「御託はうんざり! ……もう良いわ。ほら、バーデル軍が到着する前に早く殺しなさいよ。私の手足共を斬り裂いたその剣で! 本能と欲望が赴くままに! でないと……貴女の大切な仔猫が「殿下に」殺されるわよ?」
 「「!?」」
 母子が同時に息を呑み、腕を組んで立つエルーラン王子へ顔を向けた。
 バーデル軍は、騎士の護衛付きで自国へ逃がされた子供の顔を知っている。現時点、暗殺者との戦場でミートリッテが死ぬのは不自然極まりない。アルスエルナの騎士は護衛も満足に務められないのかと、体面の悪さも目立ってしまう。それは王子も十分に理解してる筈だ。
 なのに何故、彼がミートリッテを殺すのか。
 答えを求めて様子を窺っても、王子は指一本動かさない。戸惑うハウィスの剣先を黙って見てるだけ。
 首を捻りつつイオーネへ視線を移し……
 (……! そうか! 暗殺者に誘導されて来たバーデルの軍人達は、村付近の国境警備隊とは担当地区……指揮系統が違う。暗殺者の目的地が国端だと判明した時点で鳥か早馬を飛ばし、軍人達が追い着くまでの間は現地の警備隊に周辺の監視強化を要請していたと考えるべきだ。多分、私が教会へ行った時は既に見張られていた。にも拘らず、イオーネは「国境間近の教会で」見付けた私を追跡し、隠されていた村の情報すら集めてみせた。バーデル軍は、イオーネの顔はおろか背格好も把握してないんだ。なら、バーデル軍の前でアルスエルナ勢と交戦するか、或いは有益な情報をバーデル軍に直接開示しない限り、イオーネが暗殺者だとは証明できない。だって)
 彼女の言葉遣いに含まれる微妙な訛りと前情報無しでパッと見た容姿は、完璧なアルスエルナ人だから。
 アルスエルナとバーデルはどちらも多民族国家だが、現代のバーデル国民は八割以上が他大陸民族に由来する黒色素を外見の何処かに有している。バーデルの住民で小麦色の髪と銀色の目と白い肌の組み合わせは皆無……とまでは言えないが、遭遇率はかなり低い。波打ち際で生体の鮟鱇を釣るようなものだ。
 彼女の色彩でバーデルの暗殺者を連想させるのは難しい。
 他の暗殺者達も、バーデル軍と共に動いてるアルスエルナ勢が接触を妨害、制圧するだろう。
 そもそも、ブルーローズの情報は手札を失くしたくない王子が国内で封殺。シャムロックの情報は、暗殺者が国境で商人達を殺していた為に国外への流出は殆どしてない。
 つまり、開戦の危機はイオーネの沈黙を以て当面避けられる。
 けれど……
 イオーネが不敵に笑う。
 お前達も所詮はただの略奪者なのだと。
 私を殺して、欲しいものを手に入れ、私の正しさを認めるが良いと。
 ハウィスを、ブルーローズを、シャムロックを、騎士達を、人間を、嗤う。
 「駄目……」
 「ミートリッテ嬢?」
 ハウィスはイオーネに剣を突き出したまま、動かない。……動けない。
 当たり前だ。
 シャムロックと同じ浅慮な過ちだとしても、ブルーローズにはブルーローズの理由があって、南方領の経済安定を願う義賊をしていたに違いないのに。
 あんな言い方をされた後でイオーネを殺せば、理由も願いも抱いてる想いも、全部否定する事になる。
 ブルーローズは義賊ではなく、奪いたいから奪うだけの浅ましい盗人集団だったと。
 誰かや何かを大切に想う人間の気持ちは、総て絵空事なんだと認めてしまう。
 だけど、ハウィスが躊躇い続けて万が一バーデル軍にこの光景を見られてしまったら。
 (……時期を見誤れば、最悪私が真っ先に殺される。あの忠告の、本当の意味は……)

 『アルスエルナに不利な状況を作ろうとするなら、王子が元凶を抹殺する』

 ミートリッテは人質だ。
 イオーネが、ハウィス達を貶める為の。
 王子が、暗殺者を確実に断罪させる為の。
 バーデル軍に現場を見られなければ、王子率いる騎士達の手でどうとでも始末できる……人質。
 「やめて……お願い、止めて! もう、ハウィスを追い詰めないで!」
 「! 下がれ、ミートリッテ嬢! リアメルティ伯爵は君を護ろうと」
 「そんなの解ってる! でも!」
 腕を払い駆け出そうとした所で、再度ベルヘンス卿に捕まえられる。
 背後から両腕を抑える形で抱き込まれ、身を捩って暴れても足を後ろに蹴り上げても、振り解けない。
 (イオーネは被害者だけど、商人達を殺した罪人だ。アルスエルナを護ろうとする王子の判断は、きっと正しい。でも、だからってこんな、ハウィスを殊更苦しめる遣り方……っ)
 「ハウィ」
 「確かに、私達がやってきた事自体は略奪者と変わりないわ。ウェミアさん達……ミートリッテに対しても、償う方法なんてありはしない」
 ミートリッテの声を遮り。
 ハウィスの剣が夜空で……うっとり微笑むイオーネの頭上で、きらりと光る。
 「私も、陸な死に方はしないでしょうね」
 小さく零れた呟きは、ミートリッテからは見えないハウィスの目に、落ちない涙を感じさせた。
 「……いや……」
 (ハウィスが壊れる。心が、壊されてしまう)
 「嫌だ……!」
 柄を握るハウィスの手に力が籠る。
 (こんなの嫌だ! 私はもう、誰も……誰もッ!)
 鋭利な凶器が、イオーネの頭に狙いを定め

 「「やめてぇぇええええええええーーっ!!!」」

 
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