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王道を走れば:幻想にて

作者:Duegion
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第五章、その2の2:敗北



 崩壊の始りは瓦礫の落下であった。はらはらと落ちるそれは親指ほどの大きさのものが幾つか寄合い、砂丘の小砂のような粉も混じりながら、宮殿の大広間にかたんと音を鳴らした。じっと、何処へともつかぬ虚ろな場所を見定めていた慧卓の瞳は微動だにせず、まるで時を止めた木偶人形のように佇み、頭上より振りかかる瓦礫の粉など気に留めてもいないようだ。
 対してマティウスの瞳は、冷水を掛けられた蚯蚓のように素早く動き、周囲の変化に気付いた。散々に魔術を交し合い、更に龍の尋常ならざる膂力に震わされたせいであろう、宮殿は大いに傷ついてしまい、緩慢ではあるが徐々に崩壊しつつあったのだ。ゆっくりと走っていく壁の罅や、風雨にうなされるボロ家のように揺れつつある天井を、マティウスをじろりと睨みつけた。この遺跡がやがて塵芥のように跡形もなくなってしまうのは、それほど遠くない未来の話であるように思われた。
 ふぅ、と一息吐きながら、マティウスは対峙する若人に視線を向ける。剥きだしとなったグロテスクな胸部に埋め込まれた首飾りや、ひしと握られた錫杖からは、未知の獰猛な生物が発するかのような威圧感が放たれている。言葉を変えて言うならば、慧卓が扱えきれなかった甚大なる魔力が溢れて、一種のオーラのようなものを発しているのだ。これはただ自然的に放出されているものだけに留まらず、恐らく魔術が行使される際に魔力増幅の道具となるのだろう。練り込まれた魔術をコーティングする甲殻のようなものだ。無知蒙昧な人間は得てして雰囲気だけで畏怖するものを、しかしマティウスはその本質を見抜いているが故に全く動じる事無く観察できた。
 
 ーーー面倒だ。が、退屈はしないだろう。

 これがマティウスの感想である。ちょっとやそっとの魔術で動じぬ相手であり、尚且つ、不出来な有翼の蜥蜴のように撃たれ弱く精神的な動揺を覚えやすい生物では無い。興味本位でこの古びれた厠のような遺跡に来た甲斐があったものだと、マティウスは口端に小皺を寄せた。

「ゆくぞ」

 そうぽつりと漏らしながら、指先に魔力を溜め込む。全力の三割といった程度の力である。だが牽制の一打としては十二分のものであろう。
 庇から下りる天幕を払うかのようにマティウスは手を払い、その枯れ枝のような指先から縺れ合った毛糸のように束ねられた白光の稲妻が走る。瞬きする暇も与えずそれは慧卓の間近まで迫ったのだが、不意に何かにぶち当たったかのように力を失い、かき消された。
 直後、慧卓が反撃と言わんばかりに雷撃を繰り出した。回りの空間を歪にさせる程のそれはチェスターと伍していた時よりも強いものであったが、マティウスに当たる直前でそれは弾けてばちばちと小うるさい火花と化した。見れば、マティウスの反対の手から微細なスパークが生じており、防御のために魔術を行使したのだと見受けられる。

 ーーー魔力の増幅だけはないか。漏れだした力が天然の防壁をなって奴を守っている。これは中々に大変だなァ。

 くつくつとマティウスは喉を震わせる。またもはらはらと落ちてきた瓦礫の向こう側に立ち、悠然と相対している敵に、薄気味の悪い哄笑をプレゼントとして送った。
 遠くから響いてくる地鳴りのような低い音が、足元や側壁から振動と共に伝わってくる。遠からずこの遺跡は自壊していくだろう。数百年もの間よくぞ形状を維持し続けたものだが、それも今日を期として終わりを迎えるようだ。

 ーーーもうこのような場所に誰かが来る事もないだろう。なれば、被害を考慮に入れなくてもよいな。

 そう思うと、マティウスは両手の掌をぱちんと合わせた。手がゆっくりと離れていくと、その間から一本の槍ともいうべき形をした、閃光のように眩く細長い柱が生み出される。マティウスはそれを造り出すと杖のように握りしめて、切っ先を慧卓に向けた。

「これならどうだ」

 槍の先端から極太の雷撃ーーー先の戦いで脆弱な龍に放たれたのとと同一のものーーーが放たれた。ほぼ同時に慧卓は錫杖を地面に向け、錫杖から紫がかった光によって地面が砕かれて、瓦礫が光に繋がれながら壁のように慧卓の前に浮遊した。雷撃が瓦礫と正面から衝突して激しい火花を散らし、そのまま拮抗するかと思えたがすぐにその壁を貫き、光は轟音と共に慧卓に迫る。それは肉体を覆う皮膚や骨を『じう』と溶解させた後、それにとどまらず背後の壁すら破砕してしまった。 
 マティウスは思ったよりも簡単に敵を射抜いた事に拍子抜けしながらも、いつでも第二射が撃てるように構えを崩さなかった。雷撃の余波は凄まじいもので、まるで丸太を思わせる程に地面が抉れ、慧卓が立っていた場所は火山のような煙に覆われていた。やがて噴煙が治まっていくと、マティウスは煙の中に見えた黒い影に向かって第二射を放つ。しかし雷撃は煙を弾丸のように晴らしただけで、的に当たる直前に何かにぶつかって消えてしまった。
 煙が晴れた先には、マティウスが思わず喜ぶものが『浮遊』していた。

「いい恰好だ。それでこそ狂王よ」

 それは常識から考えればいたく冒涜的なものであった。錫杖と首飾りが虚空に浮遊し、それに付随するかのように慧卓の名残ともいうべきものが傍に漂っている。若さに溢れた瑞々しい脳漿と昆虫のような頼りない細身の脊椎、そして死を免れぬ筈なのにまったく正常であるかの如く鼓動する心臓だ。それらが半透明な光のオーブに守られながら浮遊し、雷撃によって消炭となった肉体を再生させつつあったのだ。スライムのように湧き立って細胞を再構築し、迷路のような毛細血管から泥濘のような色をした臓腑までもが造られていく。近くによれば臓腑特有の、あの不健全で饐えた臭いすら感じられそうなほどで、物の数秒のうちに慧卓は姿かたちを取り戻した。生命が蘇る瞬間であった。
 マティウスの知性は自身に告げる。あれは人間の手に負えるようなちゃちなものではない、尋常ならざる『治癒』の魔術を行使している。魔力の流れを見ればそれは理解出来た。浮遊する秘宝と慧卓であったものを中心に、まるで水を吸い込むかのように魔力が集中し、恐ろしい速さで『治癒』を行っているのだ。もちろん秘宝によってそれが為し得ているのは分かったが、それにしてもまるで秘宝そのものに意思のようなものがあるかのようである。否、老練な知見は、あの二つの道具に何らかの有機的な意思が宿っていると確信した。神すら畏れぬ狂的な人の意思があれには篭り、かつての主を求めるかのように今の宿主を必死に生かさんとしているのだ。
 
「美しい光景だ。今までみたどんな生き物よりも素晴らしい。あれこそが私の求めたものなのだろう。そうだ、そうに違いない。あれには綺羅星の如き魔術の粋と、悪魔めいて不浄な人の思いが込められていて......」

 恍惚とした老人の二の句は、中空の秘宝より発せられた衝撃波により噤んでしまった。波は勢いのままに壁の一部を打ち崩し、更には大広間の外にまで伝わって遺跡の支柱とも思わしき巨大な円柱に罅を走らせた。あと一度波を受ければ、そのまま崩れてしまうかと言わんばかりの不安定な様だ。
 マティウスは咄嗟に翳した障壁のために難を逃れ、健常な視力のままに秘宝を見詰める。再生成しつつある慧卓の肉体を守護するかのように、秘宝はオーブを張り、魔力をぐんぐんと高めている。次の衝撃波は更に強いものとなるのが一見して明らかであった。
 あれを妨げる事は可能であろう。全身全霊の魔術を駆使すれば、造作もなく肉体と秘宝の繋がりを断ち切る事ができる。だがマティウスは、歴史ある遺跡が魔術によって崩されるという背徳的で悲しい光景を想像して、それを見たいという思いを抑える気にはならなかった。即ち、秘宝が打ち出すであろう魔術をそのまま座視する事を選んだのだ。

「今更その気になった所で遅いわ。じわりじわりと、いたぶり、弄んでから、たっぷりとその秘密を暴かせてもらおう」

 次なる衝撃波が放たれた瞬間、マティウスの躰はまるで残像のようにぐらりとぶれてしまい、波が伝わる寸前で魔力の名残のみを置いてきぼりにして消失した。数分の一秒の暇を縫って行使された、高度な『転移』の魔術である。
 宮殿の外に広がる住宅群の只中にある、龍の亡骸の上にマティウスは現れて、その大きな胴体の上に足を落ち着けた。いつの間にやら外界は白雪がはらひらと降る幻想的な静謐さに包まれていたようだが、遺跡からの凄まじい轟音のせいで、すぐさま雰囲気を一変させてしまった。ごごごと、背筋に思わずぞわっとしたものを立たせる重低音。そして宮殿がふと身震いしたかと思うと、中心部にある螺旋階段が這う尖塔が、大地に飲み込まれるようにその荘厳とした姿を斜めに倒しながら沈ませていった。遂に自重を支えきれず、支柱が自壊してしまったのだ。
 マティウスは大きな感動を抱きながらその光景を目に焼き付けんとした。何かを無から生み出す事を喜びとする一方で、マティウスは存在しているものを無に帰す事も愉しみとする男であった。遺跡が自壊するという光景に見惚れつつ、彼は手元の光の杖をひしと握り直す。火山の火口のように舞う噴煙の中から放たれる存在感。それがふらふらとしながらも魔力を高めつつあるのを感じた時、マティウスの皺だらけの鳩面は狂犬病を患った野良犬のように醜く歪んだ。分かり難い、彼の心からの喜びの表情であった。

「嗚呼......これを待っていたのだ。未知なるものと対決できるこの瞬間を、私は待ち望んでいたのだ」



ーーー同刻:白の峰の集落にてーーー



 びうびうという凍えるような風が薄暗い山間部を通り抜け、人の名残に追いすがるかのように針葉樹がぼうぼうと生える獣道をなぞり、霊峰に築かれた小さなエルフの集落へとたどり着く。そこに人の気配は少なく、家畜ですら小屋に隠れてしまっている。まるで煤けた炭のような雲がすっぽりと集落に覆いかぶさっているためか、小ぶりの白雪すらどこか陰を纏っているかのように見えてしまう。このような陰湿な空気の中では寒さに強い鳥の類ですら鳴き声を潜めてしまうというものだ。
 静寂を割るように、馬が駆ける音が響いた。分厚い獣のコートとマフラーをくるんだソツは、若年のエルフらしい整った顔を赤くさせながら集落の家屋に駆け寄る。家の前には一人の老女が立っており、彼女は祭祀のために使う儀仗を支えとしながら、西より吹雪いてくる冷風の根源を睨んでいた。ソツは馬を厩舎に避難させ、老女に向かって言う。

「祈祷師様。風が強くなって参りました。そろそろ中へ戻られないと御体に良くありません。それにこの雪に乗じて獣がくるやもしれません。さぁ、急いでください。御風邪を召されたら大変です」
「おお、神よ。これは幻か。あなたが示す試練か」
「神でも幻でもありません!嵐です!さぁ、早く中へ!」 

 半分心あらずという感じの祈祷師の手をさらい、ソツは無理矢理に屋内へと連れ込む。暖炉の火のためか室内は温かく骨身に染み入る。彼女は藁の座敷に腰を下ろして早々、身体を僅かに揺らしながらわが身を助けよと祈らんばかりにひたすらに祈り続ける。

「その者の手にイチイの枝を握らせ火を三度さらい、兎の皮を放りたまえ。山の恵みを受くるにその者は忘れるる勿れ。山の息吹に神は宿へり」

 祈祷の言葉が煩わしく聞こえる。この嵐の激しさで集落を走り回ったせいでソツの心身は疲弊していた。
 彼は寒さに震えながら箪笥の引き戸を開けて、枝や葉を混ぜ合わせた薬草を取り出してそれを石皿に乗せて摩り下ろしていく。『ずず』と葉が擦れ、徐々に香しいものが鼻まで上ってきた。擦り終わると、薬草から出た汁をコップに入れてあった水に落とし、匙でもって溶かしていく。淡いライムグリーンが現れて、粒のように広がっていく。
 ソツはコップを持つと室内に寝かせてある、リコの下へと運んでいく。どういう経緯かは知らないが部下曰く、嵐がくる直前にいきなり厩舎に現れたという。意識を失っていたためここまで連れてきて、今はその看病を行っているところだ。

「さぁ、リコ君。苦いですが必ず良くなる薬です」
「あ、ありがとう、ございます・・・」

 重たそうに身体を起こしたリコを腕で支えて、ソツはその口許へコップを傾けた。リコはそれを含んで喉にまで持っていったようだが、途端にげほげほと咳き込んでしまって四分の一ほどを吐き出してしまった。寝起きには辛いものがあったようだ。しかし健気にもリコはそれをぐいっと煽り、一気に飲み干した。流石は白の峰を越えようとした者だとソツは感心をする。

「その者に山の息吹を当てるべし。精霊よ、悪霊を払いたまえ。艱難辛苦の災いより我等を救いたまえ」

 祈祷がさらに続いた。びうびうと猛烈に風が唸って家の戸を震わせ、老女は臆したようにさらに語気を荒くした。「何をそんなにおびえているのですか」との問いにも、彼女は全く答えない。言葉が届いていないかのようだ。
 ソツは冷たいリコの手を握りしめ、只管に嵐を耐え忍ぶ。この嵐はいつまで続くのだろうか。リコと共に遺跡へ向かった慧卓は一体どうしているのか。じわりと掌に汗が滲んでしまったのは部屋の暖かさだけによるものではないだろう。
 吹き荒ぶ嵐の中に雷が聞こえた。霊峰にも魂があると思えんばかりの轟きで、宛ら龍の咆哮のようでもあった。 



ーーーヴォレンド遺跡にてーーー



 激しい吹雪が山を覆い、遺跡に容赦なく雪を降らせていく。巨大な龍の亡骸はすでにその大きな足先を真っ白な沼のなかへと攫われてしまっていた。あんぐりと開けられた下顎や血みどろの肌にも雪が積もり、そのまま埋もれてしまえば何時の日にかは動物史的に重要な遺産として発掘されようものであった。しかしその期待を無にするかのように稲妻が走り、淡く桃色がかっていた雪を吹き飛ばしてしまう。それを被っていた亡骸については何をかいわんやである。
 遺跡には激しい魔術の交錯が行われていた。初めは宮廷と龍の亡骸を挟むように。しかしそのあまりの激しさを見せつけて宮廷の正門を完全に破壊してしまうと、その範囲は更に広まっていき、今では居住区に戦いの場所を移していた。一つ一つの雷に膨大な魔力が込められ、まともに喰らい、あるいはその余波を受けた古い家屋はすべてただの瓦礫に変じていた。嵐でさえこのやり取りの前では遠慮するかのようで、風のうなりが雷の轟きに敗北し、凍えるような雪も積もった傍から吹き飛ばされていた。今積雪しているところは、幸運にも魔術の破壊を蒙らなかったところである。
 地面と平行するように走る光によって一つの家屋が貫かれ、その先に逃れていたマティウスは『障壁』を張って耐えると、光の槍を地面に刺して掬い上げるように振るった。水中の鎖のように地面を光が走り、瞬く間に家屋を真っ二つにして向こう側の相手へと向かった。しかし吹雪の中に聞こえたのは肉を爆ぜるものではなく、瓦礫が砕けるそれであった。

「ちっ。ふざけた脳味噌をしているわ!」

 戦う前の異様な昂揚感は大分治まり、その代わりに怒りじみた闘志が彼にはあった。マティウスのもっとも得意とする破壊魔法は『雷撃』であり、いくら上級の魔術師といえど完全に防げぬほどの破壊力がある。しかし無尽蔵の魔力を誇る相手に対しては決め手を欠くものがあった。慧卓の魔力は底無しの上、秘宝のためか『治癒』が恐ろしく早い。正面からの打ち合いだけで勝つには火事場の馬鹿力でもないと勝利を掴めないと悟り、マティウスは力押しという第一の手段を捨て、第二の手段を取る事とした。
 ざくざくと雪を踏みしめてマティウスは駆ける。老いた身体であっても走るのに難儀するほど弱ってはいないし、無論、負傷するような下手も踏んではいない。
 家屋の陰に隠れるように走る。相手は此方を見失ったようだ。時折、相手が放った魔術の稲妻が走ってはいたが、僅か一本を除いては全てあてずっぽうに暗い空や家屋へと外れてしまい、その一本も近くの路地を偶々掠めただけで『障壁』を張る必要性すら感じられなかった。向こうは『探知』などの器用な真似はできないらしい。

(力を持て余しているようだな。頭が回れば、私を探すくらい事もないだろうに)

 マティウスは瓦礫を乗り越えて廃屋の中へ上がり、付近に気配が無いことを確かめるとその場に屈んで懐を探った。針のような見た目をした小さな棒を取り出すと、端っこを噛み切って路地の方へひょいと投げ、再び走り出す。そして比較的形を保った廃屋の中へと隠れると、針を投げ捨てた場所へと目を遣った。

(さぁ、来るがいい。お前の動きなど読めているぞ)

 先程捨てたのは魔力を籠めた一種の罠だ。うっかり踏めばどろどろのミートスープになる。この嵐の中では辛うじて足跡は見えるだろうが、細かなものには気付かないだろう。
 ニ、三分ほど何も起きず、びうびうと風雪が荒ぶだけであった。しかしゆっくりと露わとなる気配を感じてマティウスは杖を構える。目を凝らして息を潜めていると、それまでのものとは比較にならぬ程の大きな破壊の響きが鳴り渡って、噴煙のように雪と瓦礫が宙に舞った。得物が網に引っ掛かったようだ。

 ーーー喰らえっ。

 マティウスは構えながら最大火力の魔術を繰り出した。途端に、マティウスを中心として凄まじい閃光と衝撃波が広がり、廃屋も瓦礫も圧潰した。光が止んで数秒後、マティウスの身体に風雪が振りかかる。その魔術の行使によって数秒もの間、自然の猛威が妨げられたのである。
 それは『天雷』と名付けた、マティウス渾身の一撃であった。風雪や瓦礫、道を遮るすべてのものを文字通り『かき消す』代物で、罠に掛かって尻餅をついている相手へと直撃した筈である。魔力の残滓が満ち溢れて、視界を猛雪が占拠しているために気配を探るのが難しいが、それもすぐに明らかになるだろう。
 マティウスは気だるさを感じる身体を起こし、自らの勝利を確信していた。視界の奥から恐ろしい速さで迫ってきた、巨大な瓦礫を目にするまでは。

「なにっ!?」

 慌てて雷撃を打ちだす。瓦礫は真ん中を射抜かれて四散し、それを分け入るかのように人影が露わとなる。狂王の首飾りを身体に埋め込み妖しき錫杖を振り翳す、慧卓であった。

「むぅっ!?」

 理解するよりも前にマティウスの本能は働いた。咄嗟に杖を前に構えながら身体全体に『障壁』を張る。光の杖と錫杖が交錯し、飛んできた慧卓に激しい勢いで倒された。『障壁』を張っていなければ後頭部を強打して気を失うか、或は脳挫傷でも起こしていただろう。
 一気に近距離戦へと事が運び、慧卓は挽回の暴力を振るう。杖を使ってマティウスを無理矢理に地面に押し付けながら、拳に魔力を籠めて何度も殴りつけていく。城塞のごとく堅固な『障壁』に段々と罅が入っていくが、同時に慧卓の手もぼろぼろーーーそれこそ骨や神経がむき出しになるほどーーーになって、鮮血が二人と地面を濡れていく。治癒のスピードが追いつかぬほどに乱打していき、やがて手首がバキリと折れる音も響いたが慧卓は殴打を止めない。人間の五感そのものが機能していないかのようで、まさに人形の如く無機質なものであった。
 遂に、ボロ雑巾以下の体裁となった慧卓の右手が、マティウスの『障壁』を貫いて雪を穿った。それは慧卓にとって絶好の機会であり、同時にマティウスにとってもそうであった。彼は雪から抜け出しかけた慧卓の手を握ると、魔力のままにそれを千切った。一瞬相手の態勢が崩れ、それを突くが如く「しぇぇっ」と奇声を発しながらマティウスは慧卓を押し退けて、その顔面へと光の杖を突き刺した。そして杖を更に押し込みながら、むんずとばかりに錫杖を握り、それを奪い取る。

「図に乗るな、若造っ!!」

 鐘を打つように錫杖を突いて相手を引き離す。仰向けに寝転んだ慧卓は光の杖をどうにか引っこ抜いて無機質に相手を睨みーーーその瞬間、首が真後ろに捻転した。マティウスが全力で錫杖を振り抜いて彼の横っ面を殴り、その首をへし折ったのである。
 慧卓の身体はびくびくと痙攣する。錫杖が離れたことによって『治癒』のスピードは明らかに遅くなった。目で捉えられるほどにはっきりとした光景だ。無の空間から血液や神経、脳漿が生み出されてそれぞれの組織が再生成されていく。髄液を端緒として白い骨、そしてしなやかな筋肉が作られていくのがまざまざと見せつけられる。近くで見るとよりグロテスクであるが、マティウスのような人物にとっては、それは惹きつけられるような一種の魅力を感じさせた。破壊と創造とが一緒くたに見られるのはそうない。
 魔術と、慣れない棒術の行使によって息切れしながら老人は勝利の実感を得た。

「ふぅ......ふぅ......この私に、ここまで無理をさせるとは」

 マティウスは錫杖に凭れながら慧卓を見てごちる。じわじわと皮膚が再構築され、一通りの傷が治っていったがそれでもなお慧卓は身動ぎ一つしない。軽くその足を小突いても無反応だ。まるで子供のような寝顔ーーー何かから解放されたような無垢な表情だーーーを晒している。どうやら、本当に一難は去ったらしい。
 吹きつける風が一段と強くなった。ほとんど真横から叩き付けるようで、血に染まった雪がすぐに隠れてしまい、二人の髪はばたばたと揺れる。マティウスは錫杖を軽く振るうと、周囲に半球形の『障壁』が巡らせて風雪を凌ぐ。そして眼下の青年を見詰め、重々しく言う。

「さぁ、異界の者よ。私の奴隷となる日がきた。この私、ただ一人のために全てを投げ出せ。お前に敬意を払い、最高の名誉をもって迎えよう。死霊の傘下に入るのだ」

 頭上に錫杖をくるりと回す。軌跡をなぞるように魔法陣が作られて、マティウスと慧卓を囲うように降りてきた。マティウスは杖の石突で地面をどんと叩く。その瞬間、魔法陣が掛かっている空間が非対称に捩じられ、虚空の一点に向かって一気に集約された。二人の姿がヴォレンド遺跡から消えた。
 行使者が消えたことで、『障壁』も消えて辺り一面に猛雪が広がっていく。激烈な戦いの跡がものの数分もしないうちに白い厚化粧によって隠され、僅かな血生臭さまでもが消えていった。骨が軋むような風の唸りがヴォレンドに降り頻り、すべてを飲み込んでいく。



ーーーーーー



 慧卓の意識はふわりふわりとした白い世界に浮かび上がった。病棟を思わせるような簡易なベットに寝かせられて何もない空を見上げている。ともすれば天と地の区別すらつかぬ程の空虚な世界に慧卓ただ一人だけがぽつんと取り残されていた。
 彼の心は春の陽気にあたる小鳥のごとく平静で、穏やかであった。ここに現れる直前まであたかも海神の波濤に揉まれるような荒々しい場所で、人知を超えた何かと直面していたような気がする。だがそれを深く知ってみたいという気持ちにはなれなかった。無粋とも思えた。今はただこの虚無の揺り籠のなかでまどろんでいたい。実家にある自分の布団にくるまる時も同じような気分であったと、訳知らず思っていた。 
 何の感慨も浮かばず、ただ茫然として空を見上げる。雨や風も流れぬ静かな世界。そこに遠鳴りのように声が届いて、慧卓の鼓膜をちりちりと震わせた。

『母さん。彼に内緒で何をしたの。ずっとびくびくしてて可哀想だよ?』『別になんでもないわ。ねぇ、ケイタクさん。私を疑うなんて野暮な真似をしたら、嫌ですよ?』

 穏やかなエルフの母子の声が左から届き、壁に跳ね返ったかのように木霊する。聞き覚えのあるものであった。母のものと思わしき深みのある声が親身な調子で語り掛ける。

『エルフはあなたに味方するわ。でもその前に、あなた自身がもっと成長する必要がある。あなたを守る利益が、私達にはーーー』
『どうしたのだ、ケイタク殿?不安なのか』

 エルフの声が途中から波にのまれ、今度は凛とした女性の声が届いてきた。一級の鍛冶師が丹念に鍛えあげた剣のごとく芯がしっかりとして、女性ならではの優しさを感じさせるものであった。
 そういえば、と慧卓は思う。先の母子と同じように、この声の持ち主と自分はどのような関係を持っていたのだろうか。こんな人知れぬ空虚なところに反芻しているのだからきっと大事に違いないのだが、声を聞くうちに初夏の太陽を浴びたような焦げ茶色の髪が思い起こされ、慧卓の疑問は露となって消えてしまった。あやされているかのごとく心が和やかになってきて、頭を働かせるのが億劫になってきたのだ。 
 声はゆっくりと跳ね返る。

『あまり自分を追い込むな。たまには私を頼って欲しい。その、私でも助けになれるなら、喜んで助けにーーー」
『誓いは正統にして、絶対なものでなければなりません。破られたりしては誓いの意味がなくなってしまいます』

 次に世界を覆ってきたのは慈愛に溢れた少女の声であった。宛ら小鳥がさえずり色とりどりの花が咲く庭園を思わせる無垢な乙女心だ。
 全ての人が恋慕の念を抱いてやまぬ可憐な容姿と山海をも抱えるような精霊に祝福された包容心。見たことのない宝玉のような琥珀色の瞳。海を思わせる清楚な淡い蒼の髪。それまでのものと少し違って、その声はよりクリアなイメージを彷彿させる。まるで自分自身と一つの糸で繋がれているかのように、その声は段々とクリアなものとなって、慧卓の胸に落ちてこようとしている。

『ハーブの香り......いつも心が休まります。今日一日を乗り越えるためにって、ほとんど毎日のようにこのお茶を飲んでいました。今では......そうではありませんけどね。だってーーー』
『今日は誕生日でしょ?はい、これ用意しておいたよ』

 突然、実体のある声が響く。心がぐらりとして瞬きをすると、世界が豹変していた。
 そこは懐かしや勤木にある自宅、マンションの一室であった。使い慣れた家具や電子機器が水彩画のようにぼやけた色遣いをした世界に置かれて、ソファには学生鞄がぼつんと置かれて教材を口から覗かせている。いつの時代でも必須のペンケースとノート、そして面白半分で買った文庫本など。それまで動じていなかった慧卓の心に強い郷愁を感じさせるものがずらりと広がっていた。
 そしてそれ以上に慧卓の心を何よりも揺らめかせたのは正面に立っていた女性であった。花開く一輪の野花ともいうべきか。誰からも可愛いとは言われるが抜きんでたような魔性の美というのは持ち合わせていない。黒く艶やかな髪に近代的な若さを感じさせる肌。藍色の瞳はきらきらと光り、つぶさなまでに表情の可愛らしさが見て取れる。これまでの声とは打って変わりそれは完全な肉体を伴って慧卓の前に現れ、そして彼の心を見事に射止めた。
 ドラマのワンシーンを再生するかのように、慧卓とその女性はありふれた日常を『展開』していく。そのような経験があったかどうかは覚えてはいないが、しかしそのやり取りは懐かしくもあり、暖かさを感じさせるものがあった。

『欲しがってたでしょ?この靴。高校生にしては背伸びしすぎじゃない?こんな革張り、どこのパーティーに行くんですかって感じだし。ね、早く履いてみてよ』
「ああ......どうかな?」
『うん。案外しっくりくるね。冗談冗談。すごいかっこいいって。そんなに微妙そうな顔しないでよ』

 女性の姿がぼやける。慧卓の視点も何時の間にか切り替わり、二人は窓の方へと移動していた。

『あ。またあの鴉がきてる。いっつも来るんだよね。あの木がお気に入りなのかな』
「実晴の顔を見に来たんだろ?」
『うそ?私のファンって鳥類にいるの?あははっ。面白すぎだって、それ。人より先に鳥がファンになるなんてーーー』
『馬鹿でしょ?明日も学校なのに』

 世界が暗転する。地獄よりもなお濃厚な闇の中で女性は艶やかな笑みを浮かべていた。暗がりのせいで衣服を纏っているのか分からない。だが女性が身体をだらりと仰向けに倒れさせている事や、色気づいたその表情と木漏れ日のようでありながらも肉体的に感じる温かみから、きっとその人は全てを露わにしていると理解できた。
 すべてが世の強権的な男性にとって理想的であった。もしかしたら気弱な男子でもたじろぐかもしれない。年頃の女性らしい浮つきつつも確りとした趣味嗜好から、女性らしく美しく成長している四肢の膨らみ、自分の性格、そして心の悩みも。全てを見せることで『彼』を魅了しようとしている。「女は打算的な生き物だからそういう事ができるんだ」と、理性の声が囁く。しかし慧卓は一心に注がれる愛を感じてこの上なく幸福であった。貪欲に彼女の温もりを感じていたかった。二つのものが一つになるほどに密着し、動物のように融け合い、そして火花のように弾けたい。。
 声が囁く。鼓膜から入ったそれは背筋を震わせ、慧卓の精神の奥深くにわだかまっていた愛に対する哲学までを、日の下に引きずり出してしまうような声色であった。

『でも、いいよ。慧卓なら何度だっていい。ね、早くーーー』
『はぁっ......凄い良いっ。ほんと、相性抜群だよね』

 蕩けんばかりの表情。滾る思いに急かされるように世界は早鐘を打ち、それに同調するかのように女性の肢体は微動する。『揺さぶられている』といった方が正しいかもしれない。琥珀色の瞳が慧卓の魂を捉えていた。
 白が黒に。黒が白に切り替わる。梟がいなないて蛇が舌を出す。黒い波が岩肌を削りとって火の手が丘の上を駆け上る。雨露が反射して空に飛ばされる。天と地は入れ替わらず、揺れた。ぎしりぎしりと心の戸に罅が入っていく。堰が決壊してとめどなく流水してしまう。そんな危機感じみたものが背徳的で甘美な響きに聞こえて、なればそれを早く見たいとばかりに視界が勢いよく揺れていく。それでもなお慧卓の視点は女に固定され、彼女は蠱惑的な高い声を喉から鳴らした。
 慧卓の頬に透明な手が当てられた。くすぐられるような感覚がする。反対側の頬にも手が当てられ、視界の中で彼女がぐっと近づいた。まるで引き寄せられたかのようだ。ますますと心が追い詰められる。戦士が槍をもって世界を征服せんとしても押し寄せる命の津波には逆らえない。拍動する彼女の輪郭。上から下へと瞳がぶれる。理性が必死に、道を踏み外すなと叫んでいる。しかしそれは炎の壁に遮られて届かず、慧卓は断続的に脈打つ異物の奔騰を感じ取った。
 渾身の力で女を押し倒す。そして彼は誤った理性で、心の内側を露呈した。

『......いいよ、慧卓。我慢しないで』
「実晴、俺、もうっ」
『いいよ。慧卓なら、全部、受け止めるから』

 世界が一段と激しく揺れる。女はこれまでの何よりも嬉しそうに顔を蕩けさせ、魂を捉えて離さぬかのように艶やかな嬌声を奏でた。知覚できるものがどんどんと消えて行く。エルフの母子や流麗な騎士も、純真な王女も。

(あれ、なんで俺、エルフとか騎士とか、王女なんて)
『私を見て、慧卓!!』

 すべてが集約された。世界が弾け飛ぶ。 
 身体の細部、指先から膝の皿、心の臓に至るまでが千切れ飛ぶと思わんくらいの閃光が身体を駆け巡った。このままどうなってもいいと思う程に魂が震え、心地よく、世界が鐘を打っている。視界がちかちかと煌めいてしまい鼓膜がきーんと耳鳴りを覚えている。それすらも愛おしく感じる。闇の中で、慧卓は自分の理性に鞭を打って服従させ、あるがままに己を晒した。
 虚脱感と解放感に包まれながら、慧卓は真っ暗な闇の空を見詰めていた。このままずっとこの気持ちでいたい。
 そう願っていたーーー次の瞬間。慧卓の視点がぐいっと下に引っ張られる。

「捉えたぞ。お前の心を!」

 女の顔は醜く変じていた。その麗しき美顔はまるで死にかけた皺だらけの鳩だ。琥珀色の瞳はどす黒く濁って邪悪な煌めきを光らせている。その悪魔めいた顔は慧卓を大いに恐怖させ、彼の魂をその口に咥えこんでいた。
 世界が歪に曲がる。慧卓の意識が闇に落ちていく。醜い形相がさらに醜くひん曲がり、意識が落ちる最後まで裂けた笑みを浮かべていた。
 
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