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王道を走れば:幻想にて

作者:Duegion
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第四章、その8の2:迫る脅威

 叢が風にがさがさと揺れる音でユミルは目覚めた。瞼の隙間から入ってくる光の眩さに意識が無理矢理揺り起こされ、目端の目やにのがさついた感触を味わう羽目となった。光の差しこみ具合からして朝の9時頃か。どうも寝過ごしたらしい。
 彼は不快感を覚えながらもベッドから起き上がって、護身用の剣を手に取って屋外へと出ると、ひんやりとした外気、そして色褪せた森の風景が出迎えてくれる。もうタイガの森では冬を感じられる季節となっていた。風によって茶褐色の枯葉が地面を滑り、枝木が意思でもあるかのようにもぞもぞと動いている。どうやらリスか何かが冬眠に向けて食糧を探しているようであった。擦れ違うエルフらの表情は不安げであり、兵士らの厳めしいものとはいたく対照的であった。
 近くの川にまでユミルは足を運び、手先が痺れるような冷水で顔をぱしゃぱしゃと洗う。エルフ領に来てからの日課がこれであった。口の中も何回かゆすいで頭をはっきりと目覚めさせると、彼はそのままパウリナが留まっている家へと向かう。その家にはキーラやリタも留まっているのだが、この時間だ、既に起床してそれぞれの活動に従事しているだろう。

「おはよう・・・」

 遅まきの朝の挨拶を聞く者は矢張りいなかった。ユミルは自らの不摂生さに溜息を零しながら屋内に上がり、パウリナが帰って来るのを待つ事にした。昨晩遅くから盗賊等を偵察するために出掛けているのだ。そろそろ交代の時間だろうし、待つのも悪くは無い。
 ふと、ユミルの目に一冊の本がとまった。エルフ側から借りている資料と比べるとかなり真新しい。どうやら日記帳のようであった。裏表紙に書かれた『パウリナ』という名前を見て、ユミルは妙な気持となりながらページを開く。

「・・・『睨み合い三日目。正直眠いけど監視を続ける。朝から晩まで私が出来るといったらこれしかない。キーラちゃんはイル=フードと一緒に作戦の立案、御主人や兵士さんは他の皆に急ピッチで武器の使い方を教えている。私も混ざりたい。御主人の指導をあっちこっちで受けてみたい』。
 『睨み合い五日目。また敵の数が増えた。どうやら周辺から流れてくる賊や浮浪者が盗賊団に合流しているらしい。勝ち馬に乗ろうとしているのか。ヒキョーだ。こっちは森から抜け出そうとする人が出てきているというのに。逃げ出そうとする人を身体を張って制止する御主人が恰好よかった。正直惚れる』」

 くらっとするような感じを味わう。『何とも惚気た中身ではないか』と呆れ半分、そして、『此処まで想われているとは想像してなかった』と動揺半分である。彼女も一人の女性なのだと改めて知るような思いであった。
 ユミルは更に読み進める。

「『睨み合い六日目。御主人が差し入れを持ってきてくれた。冬越し用のジャムを取り出して作ったという、甘いサンドイッチだ。これもこれで十分美味しいのだが、御主人自ら御褒美をくれた方がーーー』」
「わあああああっ!!!」

 背後からの大声にユミルの背が震える。何時の間にかパウリナが帰還しているようであった。彼女は酷く赤らんだ顔をしながら鷹のような速さで日記帳を奪い、胸に抱えながらユミルを睨みつけた。

「ど、どどどど何処まで見たんですか!?この変態!?」
「睨み合い六日目の辺りまでだ。ついでに言うが俺は変態ではない。女に無理強いをさせた事は一度もないからな」
「うっさい!変態かどうかは相手の主観から判断されるんですよ!乙女の純情を覗き込んで!この変態!!」
「傍若無人な・・・それにパウリナ、お前乙女と自称するような歳じゃーーー」

 返答の代わりに蹴りが飛んでくる。言い過ぎてしまったと後悔しながらユミルはそれを甘んじて腹で受け止めた。身体能力が取り柄なだけに鋭いものであったが威力は無かった。
 一度蹴って幾分か怒りを飲み込んだのか、パウリナは不満げな顔をしながら自分の寝台に座り込んで、水差しから温い水をコップに注いで飲み込む。

「それで、敵の動きは?」「はぁ・・・動きなんてありませんよ。墓石みたいにぴくりとも動きません」
「不思議だな。食料に切羽詰まっていると思っていたのだが。・・・そういえば、東の村が襲われたのだったな。だとすれば、そこから奪った食料で食い繋いでいるのか?」
「そうでなきゃ馬肉か人肉でも食ってますよ。経験談です」
「・・・お前、人の肉を・・・?」
「あっ、違います!私の知り合いの経験談です!もう死んじゃいましたけど、そいつ何もない状態なのに人肉で一か月は生き延びたって言ってましたから!私は食ってませんからね!?」

 念を押してパウリナは言う。流石に元狩人であるユミルにとっても人肉を食らう真似はした事が無い。もし仲間内の誰かがそれをしたら嫌悪感でまともに顔を見れなくなる所であった。
 パウリナは思い出したように付け加える。

「あと敵の数なんですけどね、ちょっと接近して数え直してみたら、報告以上の数になっていましたよ?ざっと500は超えてました」
「お、お前っ、賊に不用意に近づくなと言っただろう!?なんでそんな危険な真似をした!?」
「だって私にはこれしかありませんから。申し訳ないです、頭も武も大して使い物にならなくて」

 身体を反転させてパウリナは壁を向く。表情の窺えぬ彼女を見詰めていると、不意にパウリナの方から言葉が掛けられた。  

「御主人。私、人を殺すのは嫌です」
「・・・そういえば血を見るのも嫌だったな。・・・どうして嫌なのか、聞いても大丈夫か?」
「・・・人殺しの経験が無い訳じゃ無いんです。ただ、嫌悪感というか・・・ぞっとする気分になって・・・」

 深い溜息を混じらせながら彼女は自虐的な笑みを零した。普段の軽妙な様とは正反対の暗い雰囲気に、ユミルは一瞬飲み込まれそうになる。
 抑揚を欠いた口調で彼女は続ける。昔の思い出についてであった。

「盗賊として彼方此方を回ってた時に、好きな人が出来たんです。牛を育てるだけの農夫だったんですけど、でも何故か好きになっちゃって。その人の気を惹こうと盗んだものをプレゼントしたりしたんですよ?で、何度か顔を合わせて話したりした時に、夕食に招かれたんです。私ったら凄い喜んで、普段しないおめかしまでして家に行ったんです。
 それで家で夕食を食べていたら、いきなり眠くなってきて・・・それで起きたら、笑えますよ、牛を屠殺する納屋みたいな場所で、その人に犯されてました。血の匂いが凄くきつくって・・・逃げようとしたけど、全然離してくれなくて・・・。だから朝になるまで我慢して、その後に納屋にあった鍬で・・・」
「もう充分だ。話さなくていい。・・・悪かった」
「いえ、大丈夫ですから・・・」

 どこまでも陰鬱な話であった。感傷的なままに辛い過去を話したからであろう、顔を直接見ずとも、パウリナが落ち込んでいるのが分かる。何とかして慰めてやろうと言葉を掛けようとした時、家屋の入口に兵士が現れる。場の空気を破るように彼は要件を告げた。

「ユミルさん。イル=フード様が御呼びです。会議に出席してほしいとの事です」
「・・・分かった。すぐに行くと伝えろ。・・・パウリナ」
「はい?」

 兵士の気配が遠ざかっていくのを確かめてから、さざ波に揺れる枯葉を拾うように、ユミルは出来る限り優しく声を掛けた。 

「盗賊を撃退したら、たくさん話そう。言いたい事があるのだろう?」
「・・・はい」
「俺も、お前に言いたい事がある。・・・元気を出せ」

 返事を待たないうちに、彼は背を向けて家を飛び出す。土と葉によって出来た絨毯を走っていく音。パウリナはごろりと寝台を転がって茶褐色の天井を仰いだ。その華奢な身体の中では鬱屈とした情念が蟠っては、彼女に感傷的な考えを巡らせた。
 パウリナは改めて己自身を見つめ直す。幾つ歳を取っても込み上げる感情を抑えるのは難しい。というよりも、これは自分自身にどこまでも付いてくる性質なのだと感じる。『自分を犯した男を殺したのは激情に駆られたからだ』。そんな思いすら頭の中を過ぎってくるのだから。
 ドツボに嵌ったかのようにマイナス思考となる自身に、パウリナは辟易としたくなる思いで一杯となる。瞼の上に被された己の腕が、やけに現実感を帯びているように感じた。


ーーーーーーーーーー


 心なしか、森を歩くユミルの足は何時もよりも早い。連れ添ってきた女性の気弱な姿を見て心が動揺を覚えていた。擦れ違う人達の訝しげな顔がユミルの背中を一瞥して、すぐに離れていった。
 森の中央にある大きな建物に辿り着くと、衛兵が恭しく踵と鳴らして敬礼をしてくる。ユミルはそれを目礼で返して屋内へと上がり込む。途端に彼の耳に、好意的とは言い難い苛烈な口論が入ってくる。中央奥に座るイル=フードを挟んで、エルフ側の御偉方と、驚いた事に気弱だと思っていたキーラが激しくぶつかり合っていたのだ。

「これしかありません。無茶は承知なのですが・・・」「無茶どころではない!!こんな作戦を立案するなど、貴様も矢張り人間だな!?エルフを侮辱するにも程があるぞ!!」
「ですがあの数の盗賊を一網打尽にするにはこれしかないんです!!小手先の手段を使っても、賊は敵意を増していくだけなんですよ!?」「素人の浅はかな考えを鵜呑みに出来るか!小娘が調子に乗りおって!!貴様が調停団でなければーーー」
「御話の途中、失礼する。何がどうしてこうなっているのでしょうか?」

 壮年のエルフの男がユミルを睨み付ける。人間に対する敵意すら感じさせる声色でユミルに言ってのけた。

「聞いていなかったのか!?この人間の小娘が、我々に到底飲めぬ作戦を提案したのだぞ!!」「そうだ!エルフの心を侮辱している!」
「ユミルさん、聞いてください!私の案を通してくれれば、賊を一気に潰せるかもしれないんです!」「黙らんか小娘!」「そうだ!誰の御蔭で貴様が生きていると思ーーー」

 バキンと、両者の間に置かれた机に大きな亀裂が入る。静寂が場を支配した。出掛けた言葉を飲み込みながら両者は、机に鉄拳を叩き付けたユミルを恐る恐る見遣った。大きく窪んでしまった机から手を放すと、ユミルは対面に大儀そうに座るイル=フードを見詰める。

「すまない。後で賠償する」
「せんでいい・・・一々謝罪を聞く気にもなれん」

 意外にも狼藉には寛容である。ユミルは首を傾げたくなる思いであった。常ならば威勢よく罵声を掛けてくると思っていたのだが、今日の彼はどうも覇気が感じられず、唯の疲れた老人としか見えないのである。

「・・・それで、話はどこまで進んでいるんだ?まさか俺に対してもまともに対応しない心算か?」

 エルフの指導者から目を離してユミルがそう言うと、凍り付いていた場の空気が揺らぐのが感じられた。先程まで出していた敵愾心を引っ込めながら、しかし堂々たる口調でエルフは言う。

「迎撃の手段を巡って対立しているのだ。我々が提案した作戦は、敵が攻勢に出る時まで待機して、森の入口に陣を敷いてこれを受け止める。そしてその間に少数精鋭で司令官を討ち、敵の指揮系統を混乱させ、反撃する。こういう流れだ」
「つまりスピード勝負か。聞いた感じ、悪くはなさそうだ。ところで少数精鋭とは誰の事を言っているのだ?」
「貴様ら王国の人間だ。他に誰が居る?」

 当然だといわんばかりに繰り出された言動にユミルは表情を顰めた。羊は単独では怯え竦むものだが群れになると途端に強気になるものだ。そんな群れの中に人間が幾人飛び込んだ所で、群れを操る技量が無い限りそれは無謀な挑戦という文句によって片付けられ、挑戦は失敗に終わるのが関の山だ。盗賊団とユミルら『少数精鋭』の関係とは、つまりそういう事である。

「前言を撤回しよう。まともな作戦とはいえないな」
「はん!貴様と同じように、この小娘も噛み付いてきたぞ。私ならもっとうまく出来るとな!」
「どんな作戦だ?」「森を燃やすというものだ!どこまでも狂っておる!!」

 飛んできた言葉を理解するのに幾秒か必要であった。真剣みを帯びたユミルの眼差しは、膝の上に拳を置くキーラを捉えた。

「キーラ、正気か?」
「・・・聞いて下さい。根拠が無い訳では無いのです」「分かっている。だから話すんだ。何事もそれから始まる」

 エルフらの男達が舌打ちをするなりして不快感を示す。会議中に幾度も感じたであろう刺々しい眼差しに慣れてしまったのか、キーラは臆する様子も無く咳払いをして、よく通る声で話を切り出した。

「私達が対面している敵は、もともと食糧難に苦しんだり、或は盗賊として身を窶していた者達が大勢を占めています。今日という日を乗り切る、ただそれだけを目的として迎合した集団。目的のためと生え、まともな軍事行動を取れる筈がありません。であるならばその指揮系統も武勇や恫喝頼みの煩雑なものとなっていても、不思議ではありません。ここが敵の弱点であると私は見ています。
 ・・・私の作戦はこうです」

 罅割れた机の上に本を幾つか並べる。小ぶりなものはエルフ側を、大ぶりなものは盗賊を指すのだろう。それらを動かしながら彼女は続けた。

「敵の攻撃を森の入口付近で受け止めて、徐々に後退して敵を奥地まで誘き寄せます。・・・この土地の気候や地理を調べたのですが、秋の終わりから冬の始まりに掛けて、北西から風が吹いてくるらしいのです。白の峰から降りてくる山風は、暦によれば丁度明日から吹き始めます。これを利用するんです!
 敵を森の奥地まで誘い出したら、北西方向から一気に火を点けて、敵を火炙りにするんです!事前に発火点周辺の木を切り倒しておけば必要以上に火が広まる事もありません。火はたちまち燃え広がり、賊を一飲みにしてしまうでしょう。これが決まれば、戦況は一気に私達に有利になります!ユミルさん!今更私達が人の和をどうにかする事など出来ません。でも、他の手段を取る事はできるんです!天と地を味方に付ける好機は今しかないんです!」

 辺りを憚らない高い声が、氷の如く冷えついた空間を貫いた。エルフ達の剣呑な視線がキーラの強張った横顔へと流れている。逡巡しながらも、ユミルはゆっくりとした口調で告げた。

「・・・キーラ」「はい」
「その作戦は確かに大きな効果を齎すだろう。俺も盗賊がまともに軍略を使えるとは思っていない。これほどの大掛かりな火計ならば、必ず奴等は狼狽し、身を焼かれるだろう」
「・・・」
「だが、俺はこれを容認できない」

 キーラの目端をぴくりとひくついた。涼やかに見える瞳の奥で反感の火が点るのが見える。しかしユミルは思慮が及んだ冷静な言葉を彼女に投げつけた。

「お前の作戦は冷酷すぎる。敵を斃す、ただ一点にのみ注意を払っている」
「だ、だって当然ではありませんか?賊徒を倒すためでしょう?」
「そのためにエルフの森を焼き払うのか?キーラ、此処に過ごして何も学んでいないのか?お前は今、積極的に、彼らの故郷を焼き払おうと言っているのだぞ。彼らが住む家や、心の拠り所を」
「・・・」

 彼女の瞳の火は和らぐ事は無かった。その通りだ。戦略的にも戦術的にも、彼女の提案した策の方が現状に効果覿面であるというのが明らかであるからだ。此処に滞在する間に彼女は開花させたのだろう。冷徹な為政者となるに相応しき、才能の片鱗を。
 だがしかし、ユミルが望む未来には、彼女の策が実行される事は有り得ないのだ。森が燃やされる事など彼は望んでなかった。

「俺達の目的はただ勝つためだけじゃない。生き残る事なんだ。盗賊はあくまでも序の口に過ぎん。後一月もすれば冬が来る。北の冬はお前が思っている以上に過酷で、非情だ。なればこそ、寒さを和らげ、そして暖の材料となる薪を得るためにも、木々は多く残しておかねばならん。何百年という時が作り上げた天然の家々を、我らの勝手な事情で刈り取ってはならんのだ。
 それにな、此処にいる者達だけが、この森に住む全てのエルフではない。まだ西方には魔獣討伐隊が居る。此処を故郷としている者達だ。彼らの家々が自分達の与り知らぬ所で勝手に消失し、彼らの家族が途方に暮れて地べたに座り込む。そんな様を見せてやりたいと思うのか?」

 ユミルの言葉を聞き、キーラは初めて思いついたかのように目をはっとさせた。気まずげに視線を泳がせ、握られていた手はゆっくりと力を失っていく。漸く彼女は自らの作戦の真の犠牲者を悟ったのである。彼女は一種の罠から目を覚ましたのである。計画を代案するという責任から思考が硬直化し、自分の正しさに必要以上に拘ってしまう。そういう罠に嵌ってしまっていたのだ。
 反抗の火を鎮めて意気を落とす彼女を、エルフらは勝利の表情で見下した。ユミルは励ますように言う。

「まだ俺達には時間がある。手段を吟味する時間が。今は皆で案を出し合って、何が良くて何が悪いのか、しっかりと確認し合うのがーーー」
「御主人っ!!!」

 室内の意識が一点に向けられた。会議の只中に飛び込んできたのはパウリナであった。息を整える暇など無いかのように、焦燥に駆られた表情で叫ぶ。

「盗賊が動いた!真っ直ぐこっちに向かってきます!」
『っ!!』

 無言のどよめきともいうべき、胸を掴まれるような緊張感が走った。エルフらの男達やキーラも、ユミルも、そしてイル=フードもまた、遂に森へと迫り来る戦の予感を如実に実感したのだ。ユミルは無言で、腰に吊り下げてある剣の鍔を撫でた。


ーーーーーーーーーー


 秋の終わりともいうべき肌寒さを感じさせる北風が、王都の石造りの宮廷を掠めた。つい二週間ほど前まではまだ暖かさを感じる事もあった。丁度兵団や騎士団が軍事演習のために出立した日もそうであった。しかし気候とは度し難いもので、僅か10日ばかり経過した程度で一気に衣替えを人々に強いるのである。御蔭で今王都では冬物の衣料に対する需要が急増しており、毛皮職人が汗を垂らして毛皮を卸しているのであった。
 一人の老人が宮廷の一室から、二重の防壁に囲まれた王都の街並みを見詰めていた。頭頂部に火傷の黒い痕が残る、蛇面の老人だ。常日頃より部下から恐れられている顔付が、今日に限っては更に厳めしいものとなっていた。

「・・・どうした事だ。マティウスめ、なぜ帰還しない?」

 老人、レイモンドは不満を十二分に滲ませて呟く。同朋ともいうべき気の許せぬ魔術士の鳩面が、レイモンドの脳裏に浮かび上がる。興味の無い者にはとことん冷たい男だ。道草を食っているとは思えないのだが、しかし現実を鑑みるにそうとしか考えられないのも、また事実であった。
 レイモンドは重苦しい息を吐いて窓の幕を閉めると、背後で控えていた美男子、ミルカに向かって尋ねた。

「ミルカ。学会からちゃんと書簡を受け取ったのだろうな?」
「はい。梟便でありましたが、確実に受け取ってあります。マティウス様は当初の予定ならば三日前には王都に戻っている筈です」
「だが戻ってきていない。これは一体どういう事だ。帝国で何をしている?」
「あの御方の事です。血生臭い道草を食している事でしょう。三度の飯よりも人を破壊する事が何よりも好きな御方と聞いておりますから」

 愛すべき騎士は自分と同じ事を考えているようだった。付け加えられた過激な言動は、若さによるものだろう。レイモンドは苦笑気味に答える。

「あながちその噂は間違ってはおらんな。悪趣味な所だけが奴の取り柄なのだから・・・。追って遣いを出そう。それで帰還せねば奴は王国から亡命したものと見做す。その時は・・・いいな?」
「はい。暗殺部隊を送り込みます」「それでいい」

 まぁ、仮に送った所で殺せはしないだろう。そんな本音を胸に仕舞うと、机の上に置かれた水晶の中にゆらりゆらりと小さな波が立ち始める。それはやがてホログラムのように明瞭な映像を映し出す。一人の若い男の顔が水晶の中に現れ、そこからくぐもった声が発せられる。

『御報告です。西の平原で行っていた軍事演習ですが、最後の予定である大行進の準備が整いましてございます』
「そうか。よく見えるように映せ」
『かしこまりました』
「・・・執政長官様、別に演習くらい見なくても大丈夫ではありませんか?」
「お前の剣の師匠がどんな活躍をしているのか、興味が無いとは言わせないぞ、ミルカ」

 少し気恥かしげにそっぽを向いた後、ミルカは大人しく頷く。

「見させていただきます」
「宜しい。では部屋の鍵を掛けろ」

 言われた通りにミルカは部屋を掛け、更に壁に点っていた蝋燭の火に息を吹き掛けて消した。窓の幕の隙間から毀れる光が無ければ、今が夜半であるかと思えるほどに部屋が暗くなった。
 レイモンドは水晶を壁際に運ぶ。するとぼやけた映像が石の壁に移りだした。対面する場所に椅子を運んで腰かけると、レイモンドは自分の膝の上を軽く叩く。ミルカは頬を俄かに赤らめた。

「そういうのは夜になってからします。今は我慢してください、レイモンド様」
「そうか?喜んだように見えたのだが?」「っ・・・知りません!」

 不貞腐れるように言いながら彼はレイモンドの傍に控える。欲求がむくりと首をもたげ掛けたが、しかし残念ながらそれに耽る時間は無いようであった。壁に移された映像がはっきりとしていき、やがて沢山の人の群れが見えるようになってきた。
 それは軍隊の隊列であった。総勢二千人と二百もの騎馬、そして10の大砲が整然とした様子で冬風を迎える平原を歩んでいる。それぞれの隊を率いる軍団長は勇壮に背中のマントをはためかせ、兵士等の先頭を悠々と行進する。音を伝える機能が控えめになっているのか、大地を震わすような響きは伝わってこなかったが、その迫力は移り行く人の群れを見るだけで十分に理解出来た。
 騎士団を率いているのは近衛騎士の騎士団長であるオルヴァ=マッキンガー子爵、そして黒衛騎士団団長である、矢頭熊美であった。

「おお、見事な隊列ではないか」
「レイモンド様・・・軍団の先頭に居るのって、あれ、帝国の士官ではありませんか?」
「そうだぞ。我らの軍事権はほとんど無いに等しいからな。こうした大規模な出兵の際には、帝国側から士官が派遣されて監視を受ける事となっているのだ」
「・・・この国って、本当にダメなんですね」

 冷ややかな突っ込みを他所に映像は騎士団を率いる熊美を中心とするように切り替わった。鍛錬の時よりも精悍な顔つきとなっている熊美を見て、レイモンドは噴き出すように言った。

「クマミめ、何時も以上に張り切っておるな?あんな勇壮な顔をしおってからに」
「付き合いが長いんでしたっけ?」
「ああ。三十年前の戦争では戦地を転々としてな、幾多の死線で文字通り修羅のように武を奮って、活躍して回ったらしい。やつの騎士団はそれこそ精鋭中の精鋭でな、帝国も恐れたものだ」
「レイモンド様も、ですか?」
「ああ。一度奴と戦場で邂逅した事があったよ。・・・恐ろしかったな。爪先から髭に至るまで凍り付くような感じがしたぞ。陣地に生還した後でも生きた気がしなかったな」

 それを聞いてミルカはふと思い出す。レイモンドは嘗ては帝国軍の一兵士であったのだ。作戦行動中に頭部に重傷を負った後は後方支援に回り文官として務め、それが今では王国の政を一手に担う重鎮である。映像から目を離して、ちらりと老いた肌に刻まれた深い皺を見遣る。この皺が出来るまでに彼はどれ程の苦労を覚えたのか、年若いミルカには想像の付かない事であった。

「・・・ん?どうかしたか?」
「いえ、なんでもありません」

 ミルカは再び映像へと視線を戻す。どうやら平原では雲一つない晴れ空であるようで、兵士等の影だけが地面に暗い色を落としていた。ふと、頭上に大きな黒い影が横切った。初めは鳥の群れであるとミルカは錯覚したが、しかし映像に映る兵士等の表情がそれを否定していた。一様に困惑のそれを浮かべている。そして影が大きくなるにつれて、その表情は恐怖の色を深めていった。 
 巨大な影が地面に近付いてくと、不思議な事に平原に強い風が生まれた。兵士達の毛髪や衣服がばたばたと揺れる。そして一段の強い振動が映像を揺るがすと同時に、ぐるりと映像が切り替わり、影の正体を正面から捉えた。ミルカとレイモンドが驚愕によって瞳を開く。

「っ、あれは・・・!?」
「・・・蜥蜴(とかげ)、だと?」

 地に降り立ったそれは、獰猛な眼光を放つ巨大な蜥蜴ともいうべき姿をしていた。蜥蜴であると断定できないのは、それが後ろの二本足で人間の二十倍にも及ぶやもしれない巨体を支えている事、頭頂部より生える鱗がぼやけた映像から分かる程に硬質である事、そして何より胴体より生える極大の二枚の翼が生えている事が関連していたからだ。閉じられた上唇から俄かに覗く鋭い牙は、その気になれば人間を串刺しに出来るものであろう。
 突如として来訪した巨大な蜥蜴に、兵士達は困惑と怯えを隠せない。魂まで射抜かれたように誰しもが身を竦ませて、互いを牽制し合っている。まるで前に出る者が最初の犠牲者であると、本能で理解しているようであった。そうこうしていると、一人の騎士が前へと進んだ。黒衛騎士団長の熊美である。獲物の3メートル弱のハルバードを下ろしながら、蜥蜴に向かって叫んだ。

『翼のある蜥蜴よ!貴殿が人の言葉を解するのならば、どうかその獰猛な牙を収め、我らと理性ある対話をしてほしい!!返答や如何に!!』

 明朗なる声を機に、その蜥蜴は凶暴な瞳をじろりと動かした。熊美は馬を後退させる事無く、真っ向からその視線を受ける。自らの数十倍はある大蜥蜴に睨まれて物怖じ一つ見せぬその胆力は凄まじい。だがミルカにはその対応は蛮勇のそれにしか見えないものであった。余りにも危険過ぎる行為であった。
 数十秒の言葉にならぬ沈黙のうち、不意に蜥蜴の瞼がぱちりと瞬いた。再び露わとなったその大きな瞳には、すっと窄まった瞳孔が見える。明瞭な殺意の現れだ。

「っ、拙い!」

 ミルカよりも先にレイモンドが声を出す。その瞬間、蜥蜴の長い首が俄かに引っ込み、光の様に繰り出された。牙が向かう先には無防備な姿を晒している熊美が居た。 

 
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