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靴墨

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第五章

 
前書き
爾の愛する者より與へた死は、願つてもない死であらう!
齒は肉體を裂き、長い舌は腸を絡め血をむさぼり舐める。
死亡まで大切にしてゐたもの。
でも死の瞬閒、情感は變はる權利が無く、身體は彼女との結束の中で喜び勇む。
しかり、美はグロテスクな形になつてゆけど、其の多面性を悟ることが、グロテスクをそんな美學的にする! 

 
あの日、その死體との醫業が終はつて、今夜其等は死體安置所に移送されると我等が言はれた。狼狽した。なぜなら、約束したんだ。しかし無駄だ…。同時に、スツトした。今夜、どこまで進むか思考しつゝ屍との出会ひに行く必要が無い。
でもその醫業は澤山の事を我に與へた、澤山の事を明確にした。我々の團結力の結果を全然覺えてゐないが、あの死んでゐる安氣な面影は我が目の前で飛んでつゞけた。死語であの暗いマントラを囁きたり歌へたりして慰めてゐた。知つてるよ、感じるよ、いま彼女はどこかに――最早地下かもしれぬ――橫たはつて我を待つてゐる。空氣も無く待ちつゞけて此前の通り叫ぶ。「脫げ、脫げ、脫げ!棺のフタを開けて!私を放免して!息が出來無い!」と。
我は彼女が何處に居ると知らず、無力である。しかし貴女は我の前に居るのを見て安心する。でも貴女を見方がもう違つてゐる。別の方面や、別の世界からの見方やう。その世界は今や貴女の中にあると氣がする。文字通り、中に。貴女の腸をもぐつて胎兒の姿をして橫たはりたくなつた。貴女の足の鄰りに橫たはつて汗の匂ひを味はつた時の如く。あれは起點だつた。あんなふうに、だれよりも低く橫になつて這つてゐて、その意味の無き自罵詈の反響の後ろに這ふことをもつて昇天したとき。それは新紀元を决定した。それはオシリスの生まれ變はりを决定した。
オシリスは死んでしまつて、イシスは彼の死體よりホルスを孕んで、それは更生をもたらした。カーリーは死んでゐるシヴァの上で踴り全世界としての彼を食はれて、其後新世界を生む。オシリスは自らを貴女に獻じた。貴女は彼を殺すや切るや喰ふ權利もあるけど、さうしなくてたゞ刄を囘して傷を廣げる。其後は改めて其れを舌で舐めて、更に刄を刺す。無限に、無限に。

ダレニモナイ手紙
“ヒステリツクナ笑ヒ。叫バナイ理由ガ、叫ブノハ負ケルト同ジデアリマスカラ。シカシ我ガ苦シメラレタル心カラ呻キ聲ガ聞コエテヰマス。其レハ、疲レタカラノデアリマス。苛マレタリ苦シメラレタリシテヲリマスガ、鬪ヒ續ケテヰマス。其ノ痛ミヲ止ムガ爲ニ死ヌ希望ハ何處カ深クニ有ルカモ知レマセンガ、貴女ハ未ダ我ガモノデナク我ハ未ダ貴女ノモノデナイノヲ知リヰテ、其レヲ許ス勇氣ガアル筈デアリマスカ?自分自身デ、アノ「容疑」ト稱スル刄ヲ持チヰテ自分自身ヲ切リ付ケテヰマスガ、我ガ手ヲ向ケルノハ貴女デアリ、叫ビマセン。叫ブノハ降伏ト同ジデアリマス。鬪ヒヲリマスガ、オ願ヒデスカラ、我ガ手ヲ我ガ心ノ方ニ向ケル事ヲ止メテ下サイ。面白盡クデモ、自ラノ爲デモ、我ガ勝チ目ヲ增シテ下サイ。何故ナラバ、我ガ未ダアマリ强クナラナカツタ理性ニ貴女ハ决意ヲ踏ミニジル動機ヲ與ヘル時、無限ハ有限ニナリ、天ハ土ニナリ其レハ足元カラ失ハレルノデアリマスカラ。デモ、我ガハトホルヨ、貴女ノ素晴ラシイ純然性ヘノ祈リヲオ聽キ下サイ。貴女ヲ觸ツタ事ガ有リ、其レハ法悅デアルト言ヘル情態ニ近ク居タノデアリマスカラ。
我ガgeliebte frau ニ”

オシリスは待つてゐた。貴女が自分の目的と運命を忘れた。我はそれを言はず、貴女の友はイシュタルであれば貴女はエレシュキガルである事を、貴女は理解が出來無いだらう?前者が無ければ全ては全然違つたかもしれないから彼女を呪つてゐたけれども、その均衡、その純なる友情の典範を感心してゐた。しかし我が感心は、羨みをすぎなかつた。
貴女はその妙(タヘ)なる屍姦行爲をする覺悟が無かつたかもしれぬ。でもさうだつたら全ては無駄であつただらう。オシリスの苦しみも、イシスの樂しみも。我ネルガルの能動も、貴女エレシュキガルの受動も。貴女の美學的意識はまだ其れに付いての思惑を入れなかつたから、胸が詰まる。貴女は的を忘れ、行爲中で自失して、序幕が始まる所にて、もう喜び勇む。離れると、永續に我自身に我が手で引き戻されるが、また了解が無く更に自失する。でもそれは駄目だよ。神々しい法は破れる可きが無い。ד(ダレツト)が無く、コクマーはビナーと、だう一緖になるのか?その貴女がもう長い閒に演じる可きだつた役割を、我は受かねばならないのか?貴女は死ねば、イシスが無限の再生周期性の中でオシリスを弔するが如く我は貴女を弔する。シヴァを喰つてゐて得意がるカーリーは彼を愛するが如く我は貴女を愛する。以前の通り貴女を見るのは、もう出來無い。步く時に、目の前には貴女が居るけど、貴女はもう違つてをり、貴女の面影はもつと暗くて遙かになつたやうだが、前のやうに脆いといふわけ無い。もう、貴女は暖かくて生けるのやうでなく、死んでゐるし冷たいのであるやうに貴女を見てゐる。その面影は貴女をもつと飾る氣がして、それは我が拜物になる。腕輪の如く、半ズボンの如く、靴の如く、貴女自身の如く。でも、貴女の魂の如くで無く。貴女と貴女の體を見てゐて喜ぶ。貴女の感情表現と微笑みも。たゞ、喜ぶのだ。幸せだ。蟲は、自分が蟲であると確認するが、自分の志に從ふよりほかはなし。彼は誰であるにも關はらず、彼の志はさうであればさうなる可し。でも貴女の魂の輪郭を見る時、喜ば無い。その魂は、胸での永遠の詰まりだ。潰瘍、腫れだ。其の本質を憎むけど、我に給つた事を其れに感謝する。ま、いゝは、これは我が志なのだ。是れに獻身せねば是れを完全に悟らぬ。それで、獻身した。すると、その恐ろしい欲念は我を染み込んで、我が手は刄で貴女の皮膚をユツクリと撫で、刄の分子は貴女の頬の可愛くて細い靜脈を見られ其れを觸ると跡が殘れるやうな氣がするほど纎(セン)細(サイ)なる自然屍衣の分子を割いてゐるのを想像しつゝ、我は自らの殘酷なる思惑の中で喜んでゐた。
だうやつて貴女の魅力はこんな情態まで至らせたのか?この思想は、狂氣で不可能さうに見えれば見えるほど現實的で道理のありさうに見える。そして今は、いつか我が初めの儀式中で自分の手を切つた刄で貴女のアサグロイ皮膚の分子の聖なる緣を崩す勇氣が無いかもしれぬとの考へが浮かぶと、自分は弱蟲だと思ふ。なぜなら我が思想は全く正義さうだから。自分の欲念をせめず、その事實の前の臆病をせめる。
さて知つて欲しい。貴女を愛してゐるつて。一生でいつよりもだれよりも愛してゐる。ヒョツトしたらそれこそは、我が現在狀態の原因かもしれぬ。
あの瞬閒より、我が古いポケツトナイフを持たず外に出られなくなつた。其れはいつも我と一緖にあると約束して常に右ポケツトの中で持つてゐた。其の鋼の重さに懷いた。一度、其れを家に殘した時に、パニツクになつたほど。飛行塲に到着して飛行機の切符を家に忘れたと意識した者のやうに。今までナイフが無く、我は一體だう存在してゐたのか分かることが出來無かつた。そして冬の寒さでは、其の柄だけが我を暖かめてゐた。
或ること、知つてる?憎みに取り付かれてゐなかつた。また、戀にも取り付かれたことがない。貴女だけに取り付かれてゐたの。我が志はいかに汚らはしさうか恐ろしさうかに見えても、その志は貴女に導かれてゐると知つてゐたならば喜んで安心して其れを認めた。自分でそれを氣付かなかつたかも知れぬとしても、貴女はたゞ一見だけで我が每行爲を祝福してゐた。我が今や歸られなくて急いで沈んでいく命そのものを祝福してゐたのだ。 
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