男女美醜の反転した世界にて
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反転した世界にて6
「うん。こっちは何ともないよ。心配かけてごめん」
『そうか。まあ、元気にやっているのならそれでいいんだ。声が聞けて嬉しいよ』
「……ん」
荒井くんと電車で別れて、帰宅後。僕は父さんからの留守電のことを思い出した。
――連絡が欲しいとのことだったので、折り返しの電話をかけてみると。別段、特別な要件があるとかではなく、本当に僕の声が聞きたかっただけだったようで。
その物言いは、まるで母さんかといいたくなるような雰囲気で。でもその声は紛れもなく父さんの物。
少なからず違和感を感じながらも、当たり障りない応対で適当に流すことにした。
『母さんが言うには、年明けまでには一度帰れるとのことだが、どうなるか……。具体的な日程はまた連絡する』
「うん」
……。どうやら、この世界の赤沢拓郎は、"僕"と比べて随分と過保護にされているらしい。
僕の知っている父さんと母さんは、僕の声が聞きたいなどという感傷的な理由で連絡を寄越してきたことは一度もないし。帰ってくる時だって、事前に連絡が来ることなんてなく突然で――と、これは過保護かどうかは関係ないか。
そもそも。
働いているのは父さんで、母さんはそれに付き添っていったはずなのだけど。
電話で話を聞いている限り、それも逆転してしまっているようだ。
とにもかくにも。つまるところ、"僕の認識している変容"は、海外にいるはずの両親にまで及んでいるということが、この電話でわかった。
『……――と、もうこんな時間か。こっちはまだ昼間だから、感覚がずれてしまってたよ。そろそろ切るけど、あまり夜更かしはしないようにな』
「わかってるよ。おやすみなさい」
ガチャリと。
「ふぅ……」
ようやく、長かった通話を打ち切ってくれて、文字通りほっと胸をなでおろした。
帰宅したのが18時頃だったはずだから、一時間近くも通話をしていた計算になる。
海外通話の料金って、結構バカにならない金額のはずだけれど。そんなことに散財するのであれば、もう少し僕のお小遣いにも割り振ってくれればいいと思う。
「さて」
自室。
普段、毎日何気なく生活している一人部屋。
意外と、意識してじっくりと見回す機会ってないモノだ。――というか、普段視線が固定される場所ってパソコンの画面くらいのものものだろう。
一見するだけならば、この部屋は紛れもなく、僕の部屋だ。パッと見、本棚に並べられている本も漫画も、すべからく僕の記憶通りの物が、覚えているままに羅列されている。
だがしかし。
「なん……」
一冊、適当に手に取って表紙を見て、愕然。
恐る恐る開いてみると、もう唖然。
「だと……?」
耳のないテディベアのような、それでいてカジュアルな髪型の何物か(性別不明)が、大剣を持って、マジ顔でチ○ドの霊圧がなんちゃら、と。
酷い。何ともひどい。
作画はそのまま、正しく作画崩壊してしまっている。
得も言われぬ気持ちを堪えながら、そっと本棚へ戻す。
一呼吸おいてから、隣の本棚に差し込まれている漫画を何気なく手に取ってみた。
そして表紙を一見して噴出。
「いつから軽音部が女子校のお話だと錯覚していた?」
何とも言えないご尊顔の男キャラクターが、ギターを担いでドヤ顔している。
少々イラッときたけれど、怖いもの見たさでパラパラと流し読んでみて――。
後悔。
「……」
予想通り、男子校で男四人のボーイズバンドがわさわさする漫画だった。
んで、後輩(中野東彦。通称あずにゃん)とか入部したりしてかもかもしてた。
「……そうか。なるほど……、こういう形で辻褄が合うわけだ」
――僕が元の世界で集めていた漫画は、少年漫画だったり男性向けの漫画ばかりだった。
それらが皆、タイトルはそのままに"男女美醜が入れ替わってしまっている"だけの話だ。今更驚くほどのことでもない。
驚きはしないけど、でもショックだ。
だって、僕の知ってる少年漫画が、皆、この世界基準の女性向け――すなわち歪な少女漫画に入れ替わってしまっているわけで。
趣味は読書(主にマンガ)、な僕は、一体これからどうすれば……。
あんまり深く考えると、立ち直れなくなりそう。
「……夕飯の支度、しなきゃ」
一旦、思考停止。
とりあえず、夕飯にしよう。
◇
本日のメニューは、豚生姜焼き定食+山芋となめこ盛り合わせ。
大変おいしゅうございました。
「しかしムラムラする」
僕はムッツリスケベとはからっきし縁のない人生をこれまで送ってきて、これからもそのように生きていくのだけれど。
普段は毎日自慰を欠かさないので、昨夜サボってしまった今日今現在、十分以上に溜まっている状態だ。
ましてや、今日は劣情を催さざるを得ないイベントが多かったように思う。電車のアレと体育の時のアレなんか特に。
このムラムラ、はらさでおくべきか。
PCを点ける。
目を疑う。
「ひぃ」
筆舌に尽くしがたい造形の男性キャラが、メイド服を着ている画像がデカデカと画面に表示された。
なんだこれ、ブラクラかよ。
と思ったら壁紙だった。
「そっか……。そうだよね」
夕飯前にも、考察したことではあるけれど。
世界が丸ごと、男女美醜入れ替わっているというのだから、PCの中身だってあべこべになっているのは、当然のことと言える。
軽く確認してみたところ、PCにインストールされているエロゲたちも、皆一様に"女性向け18禁ゲーム"と化している。
こいつぁ……、ひでえや。
だが。
「まだ、萎えない」
この程度では、溜まりに溜まったリビドーは邪魔できない。
一旦、壁紙を初期の無味簡素な風景画に戻してから。
――早速、『新しいフォルダ5』に隠されているお気に入りのサイト一覧から、適当なサイトにジャンプ。
「うげぇ」
――予想していたことではあるけれど。
僕のお気に入りだったエロサイトも、きっちり歪に"女性向け"に一新されている。
「あ、でもこれは中々。なんというハーレム」
サムネイルに映っているのは、綺麗な女の人だ。
とりあえず見てみよう。
タイトルを見る。
『美男子輪姦3 ~盛った雌豚に輪姦される蒼井次郎~』
「……」
主演:蒼井次郎。
ふざけんな蒼井次郎。
綺麗な女の人がたくさん登場しているのに、画面に映るのはやたら喘ぎまくるゴボウみたいな男優ばっかり。なんなの、馬鹿なの? 死ぬの?
こいつははずれだ、次に行こう。
「……これは素晴らしいな。めちゃくちゃ美人じゃないか。しかもSMか」
僕はちっともムッツリとかじゃないんだけれど、時にはこういうハードなシチュエーションも嗜むのだ。
タイトルを見る。
『M専Part4 ~ドS王子に牝穴を調教されて喜ぶ女~』
「……」
さっきのよりは幾分かマシだけど、しかし肝心の女性の顔が全く映らない。しかもここぞというところで男のイキ顔とか見せられて、一気に萎える。
というか、根本的に何もかもが間違っている気がする。
次に行こう。
「百合。こういうのもあるのか」
男が嫌なら、女しか映らなければいい。
まさに逆転の発想。孔明をも凌ぐこの頭脳が冴えわたっておるわ(欲求不満でややハイテンション)
タイトルを見る。
『淫乱リトルピグ ~Hな仔豚さんは全身が性感帯~』
「……」
タイトルセンスは最悪だけど、内容は……。
――これは素晴らしい。絶世の美女二人が弄り合って乳繰り合ってよがりまくってる。
タイトルだけが世紀末だけど、中身は最高だ。
今日のおかずはこれにしよう。
いざ。
……。
――。
――男の自家発電を長々と描写したって誰も得することはないので。紆余曲折な過程をすっ飛ばすことにする。
……決して、僕の愚息が短距離走タイプなわけではない。早撃ちでもなければ、三擦り半でもない。ないったらない。
「っ……!?」
いつもとは違う、なにやら尋常ではない違和感を感じた。
――まるで腹の底から絞り出されるかのような衝撃。
「な、なんだこれ……」
――同時に、一か月溜めたってこんなには出ないだろうというくらいの、凄まじい精液の量。
ティッシュをあてがっているそばから、繊維の隙間から漏れ出るようにしてあふれ出ていく
「て、ティッシュティッシュ……っ!」
ようやく収まったかなという頃には、ティッシュ箱の中身が半分くらいになってしまった。
コップ一杯分くらいは、出たんじゃないだろうか。
もし手元にティッシュ箱を準備していなかったら、大変なことになっていただろう。ベッドのシーツに精液で描かれた世界地図が出現するところだ。冗談じゃなく。
「なんだってんだよ……」
――これも、世界が変わったことによる変化なのだろうか。
だとしたら、変容は僕の身体にまで及んでいるということ。だからどうしたという話ではあるけれど、精神衛生上よろしくない。
「……寝よ」
なんだか、事後の気だるさも増している気がする。
これが世界が変わってしまったが故のものなのか、単に精神的な問題が起因しているのかはわからないけれど。
「……うぅ、僕の色欲魔人……」
射精の間際、"違和感"に直面するまでの間、自慰の最中。
睦みまぐわう美女たちと、白上さんを重ねていたことに、軽くはない自己嫌悪の念を覚える。
――明日どんな顔して白上さんと話せばいいんだろう……。
……なんて、昨日まで考えようともしなかったことだ。こんなにも当たり前みたいに、"誰かと会話している自分"を、想像できるとは。
明日が楽しみだなんて、十年以上は思ったこともない。
良い変化なのかは、わからない。実際、白上さんをオカズにオナニーしちゃった罪悪感は相当なものだ。
けどまあ、明日の朝にはすっかり忘れているんだろうな。
……明日は、ちょっと早めに起きよう。……お弁当、作らなきゃだし。
明日は、どんな一日になるのか……。……。
◇
今日の電車内は、人もまばらで随分と快適だ。
ドアの近くの座席。左肩を手すりによりかけて、自分だけの快適な空間を確保している僕。
車内の上部に取り付けられている空調から、涼しげな風が肌を撫でるのが気持ちいい。
それもそのはず。昨日、一昨日がおかしかっただけであって、僕は基本的に込み合う時間帯をずらして電車に乗るようにしている。寝坊さえしなければ、忌み嫌う満員電車になんぞ利用しなくても済むのだから。
「……」
いつもなら、学校前の駅に到着するまでの二十分間、軽く仮眠を取って過ごすのだけれど。今日ばかりは眼が冴えてしまって、そういう気分に離れない。
何故か。理由はいくつも考えられるしこじつけられる。
まず、今日も昨日に引き続き、車両内に同乗している男女比率がおかしい。チラリと隣の車両に目を向ければ、男性しか乗っていない車両があるわけで。これはつまり、この世界の価値観からして、そういうことなのだろう。
具体的には、女性八割に、男性二割くらいだろうか。
無論、ただそれだけだというのであれば、いちいち気にすることでもない。昨日一日、身を持ってこの世界の価値観の差は体験しているのだから。
眼が冴えているのは別の理由であると言える。
「(眼福……?)」
無防備、と表現すべきか。"目のやり場に困る"のに、目を瞑っているのはもったいない、そんな空間が当車両にて展開されている。
――例えば、あちらで吊革につかまって、スマホを弄っている女の人。黒のタンクトップにジーンズと、これ以上ないくらいにシンプルな出で立ちの美人さん。
電車がガタンと揺れるたびに、タンクトップから張り出す柔らかなナニカに振動が伝わって、ぶるるんと不思議な現象を引き起こしている。その現象は、球体からサラに張り出すポッチを基点として些細な振動でも反応して、繰り返し上下の反復運動を引き起こして僕の脳細胞を溶かしてゆくのだ。
それから、吊革に片手を預けている関係上、必然的に横から中身が覗けてしまう。白日の下にさらされている美しい腋にも注目したいところだけれど、それよりもオープンになっている横乳に視線が奪われてしまう。
大変なことだ。
「(目の保養……?)」
例えば、僕のほぼ対面の座席に座っている、大人しそうな眼鏡の女の子。あの制服は、確か僕の降りる駅から更に三つ先の駅近くにある高校の制服だったはず。
女の子は、携帯ゲーム機に熱中している様子だ。十字キーを人差し指で動かす、あの独自の指の動きを鑑みるに、多分、狩猟の最中であるに違いない。
それはどうでもいいとして、その女の子は、鞄を足元に置いている。こう、両足で挟むようにして、周りの人のスペースを邪魔しないよう、気を使っているのがわかる。
けれど、正面から淡い青色のパンツが丸見えなのだ。僕の後ろから、日の光が差し込んでいる関係もあるのかもしれない。薄い布越しにふっくらと盛りだすナニカが、パンツに一筋の幸せを作り出しているところまで、バッチリと観測できてしまう。
それだけならまだしも。女の子は時折、パンツの折り目をスカートの中に手を突っ込んで調整したりするものだからもう大変。目を背けずにいられようか、いや、いられない(反語)。
「(まずい……鼻血が……)」
鼻の奥がツンとしてくるのを感じて、とっさに手で口元を覆う。とりあえずは、噴出してしまうことはなさそうだけれど、このままではいつ流血沙汰になってもおかしくはない。
ほんに、価値観の違いとは、まっこと恐ろしい。
きっと、彼女たちは自分の何気なくもあられもない姿が、一人の馬鹿な男子を誘惑しているなどとは、夢にも思っていないに違いない。
「(おっ勃ちそう)」
ポーカーフェイスは得意だと、我ながら自負していたつもりなのだけれど。ちょっといまばかりは自信がない。顔が熱くなっているのは間違いないが、下半身の暴走だけは気合と根性で阻止している。であるがゆえに、それ以外の体勢を整えていられる余裕がないのだ。
昨日とはまた違うベクトルで悶々とする。
そんな試練の時間は、電車が目的地にまで到着するまで続いた。
◇
朝。この時間の教室は、人もまばらで風通しがよく感じる。
運動部に入っている生徒は、まだギリギリ朝練の時間なのだ。
いつも通りに立ち回るのであれば、僕は教室の扉を開けたと同時に、一切の無駄を排して自分の席にまで直行するのだけれど、今日ばかりは勝手が違う。
白上さんに、お弁当を渡さなければ。
「うぉ……」
教室の扉を開けた途端、ギラリと音が聞こえてきそうな勢いで、僕の方に向けられる視線。
理由は、なんとなく想像できる。昨日、喫茶店で荒井くんと相談していなければ、思いもよらなかっただろうとは思うけれど。
――昨日、僕は"白上さんにお弁当を作ってくる"と、クラスのど真ん中で公言してしまったわけで。クラスメイトたちの反応も、まあ予想できたことではあった。
だからといって、居心地の良い物ではない。反射的に顔を伏せてしまいそうになるのを堪えて、僕は室内を軽く見回す。
――果たして、目当てのポニーテール娘はすぐに見つかった。
「……」
自分の席で、頬杖をついて窓の外を眺めている、ように見える。――彼女の席は窓際から離れた、教室の中央付近に位置するので、実際のところその瞳に窓の外が映っていたかどうかは定かではないけれど。
そんな横顔もやはり美しい。このまま見惚れてしまいかねない。
の、だけど。
「……」
僕は自分の席に向かいながら、何気なく彼女の様子を観察していたのだけど。
なんかすっげえ、そわそわしてる。多分にフィルターが掛かってしまっているであろう、僕の眼を以てしても、一目で彼女が"落ち着きのない様子"であることを看破できてしまう。
しかし、彼女の方から僕に近づいてくる気配はない。というか、僕が登校してきたことに気づいてすらいない。
「……えっと」
「……」
事実、僕は直接自分の席に向かうのではなくて、彼女の横にまでこうしてやってきたわけだけれど、一向に振り向いてくれそうにはない。
……やっぱり、僕の方から話しかけた方がいいんだろうか。
勘弁してほしい。自分から誰かに話しかけるだなんてそんな偉業、ここ十年近く、挑んだ覚えはないのだけれど。
しかし、こうしていても始まらない。幾らか、頭の中で"円滑なコミュニケーション"をシミュレーションしたのち、僕は意を決して白上さんに声をかけてみることにした。
「あの。白神さん」
「え……――ほぁっ!? お、おはよっ、赤沢さんっ」
「あ、うん。おはよう」
ほぁっ?
その単語の意味するところが気にならなかったと言えば嘘になるけれど。
いま重要なのはそこではなく、如何にして、カバンの中で揺られている弁当箱を、白上さんに明け渡すか。
白上さんの表情を盗み見る――真っ直ぐになんてとてもじゃないけど見られない。眩しすぎて。
「きょ、今日もいい天気、ね。あ、雨が降らなくてよかったわ」
「? う、うん。僕もそう思う」
「あはは」
「えへへ」
何の話をしているんだっていう。
白上さんの方も、僕と同じくらい、何を話せばいいのかわからない様子だ。
時間が経てば、ボロが出る。ファーストコンタクトには成功したのだから、さっさとブツを明け渡して、この場を離れるべきだ。地味に、クラスメイト達の視線も厳しくなってきたところだし。
「これ、お弁当だけど」
なんだ、なんだこれ。
すごく恥ずかしいな。
客観的に状況を表すならば――美人の同級生のためにお弁当をこさえてきた、ブサイク男子の図。コミュ症じゃなくても意味がわからない。
「……――」
「し、白神さん?」
花柄(僕の趣味ではないのだけど、なぜか家にこれしかなかった)の弁当包みに包まれたそれを、まじまじと見開いた瞳で眺める白上さん。
一……いや、二呼吸分くらい、時が止まったようにすら感じた。
「――、……ゆ」
「湯?」
「夢にまで見た、男の子の手作りお弁当が……」
比喩ではなく、震える手で。白上さんはお弁当箱を受け取ると、ゆっくりと机の上に置いた。
そして恐る恐る、細い指先を小刻みに揺れ動かしながら、これまたゆったりとした仕草で弁当包みを解いていく。
「え、いま開けるの?」
僕の純粋な疑問は、白神さんの耳には届かなかったようだ。
何も言わずに立ち去るというのも、なんだか感じが悪いので、僕は白上さんが弁当箱を開封するまでの仕草を黙って見ていることにする。
「――っ」
「……(ドキドキ)」
なんとなく、緊張してしまう。
今日は、出し巻き卵に豚の生姜焼きと、ロールキャベツ。
豚の生姜焼きは、昨夜の残り物ではなくて朝、一から炒めなおしたものだ。冷凍食品の類もなし。僕が最も自信を持って提供することのできるお弁当であると言える。
ちょっとだけ、というかかなり。朝、いつもよりも早く起きてしまうくらいには、気合を入れて作ったのだ。もしも嫌な顔をされたりしたら、二重の意味で立ち直れない。
僕のそんな不安は、しかし無用の長物であったようで。
白上さんは真顔で無言のまま、おもむろに箸入れから音もなくお箸を取り出して、神に祈るかのような清廉とした動作で、手を合わせる。
「い、いただきます」
「え、いま食べるの?」
早弁どころか、朝ごはんの時間なのだけど。
しかし止める間も僕の問いかけに応えてくれる余地もなく、白上さんはそっとロールキャベツを箸で切り分けて、一口。
「――」
「……え、えっと。嫌いなものとか聞いてなかったから。もし入ってたりしたら、その、ごめん」
数瞬、白上さんはフリーズしたかのように一切の動きを止める。
もしや、口に合わなかったのではないか。――と、件並な不安が鎌首をもたげたりしたのだけど。
「ぐ……うぅ、ぐす、美味しい」
「お、大袈裟だよ」
次の瞬間、比喩ではなく涙ながらにお弁当を食べていく白上さん。
まさか泣かれてしまうとは思ってもみなかった。
まあ、なんだかんだ言って、自分で作った料理をおいしそうに食べてもらえるのは気分がいい。でも、出来れば泣きながらじゃなくて普通に味わってほしいなと。
一口一口に感謝をこめながら、ゆっくりと味わうようにして食べていたら、HR前の時間なんてすぐに終わってしまうと思うのだけど。
……それに。
『……ざわ……ざわ』
『アレは……一体……どういう……』
『事件ですよ……これは……』
『人類は……』
『滅亡……』
『なんだって……』
そろそろ、周囲からの視線がのっぴきならない密度になっている気がする。白上さんはこの空気、気にならないのだろうか……。
さもありなん。『朝、登校してみたら、クラスメイトの女子が泣きながらお弁当を頬張ってる』って。ちょっとした事件といっても差し支えないだろう。
予鈴までは、あと五分ほどか。お弁当の中身は、まだ七割くらい残っている様子。このまま放っておいたら、先生がHRを始めても気にせず食べ続けそうな気がする。
「あ、あの、白上さん?」
「ンッ……?」
流石に涙は止まっているようだけど、しかし必死そうな表情はそのままだ。
もっきゅもっきゅと、頬を森の小動物のようにパンパンに膨らませて、弁当箱と口への往復作業を一切休めることなく、白上さんは顔だけをこちらに向ける。
昨日も思ったことではあるけれど、これはこれでクるというか、癒されるというか、俗にいういわゆる"萌え"を感じたりしないでもなかったけれど。今はそんな白上さんを鑑賞している暇はない。
「そろそろHR始まるからさ、残りはお昼にでも――」
「……ッ、……ッ!」
咀嚼を止めることなく、顔とポニテをぶんぶんと横に振って、遺憾の意を示す白上さん。
子供かよと。そんな幼な可愛い白上さんも有りかなとは思うけれど、この状況はいただけない。
「もう放っとけばいいんじゃないかな。こりゃ、梃子でも動きそうにないよ」
「あ、荒井くん。おはよう」
いつの間に横にいたのやら。荒井くんは僕の横で白上さんを呆れた顔で眺めながら、辛辣な発言。
「弁当、ホントに作って来たんだな」
「いやまあ」
「で、何がどうしてこうなったわけ?」
「僕も聞きたいかな」
――そのうち、先ほどまで遠巻きに眺めていただけのクラスメイトの何人が、一心不乱にお弁当を貪る白上さんを何とか説得しようとしていたのだけど。
荒井くんの予想通り、白上さんはその一切に耳を貸すことなく食事を続ける。
「あ、チャイム。俺、もう行くわ」
「う、うん。また、お昼休みに」
やがて、HRの時間が来た。
信じられないことに、白上さんは先生が来てもお弁当を食べ続けるという暴挙に出る。先生に怒鳴られながら、しかし食べること自体はやめず、見事な食べっぷりを披露し始め、ついには完食してしまうという偉業を成し遂げた。
一体、何が彼女をそこまで駆り立てたのだろうか。
HRの間、白上さんは廊下に立たされることにはなったのだけれど。去り際の彼女の横顔は、とっても晴れやかだったとさ。
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