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逆さの砂時計

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不透明な光 3

 貴族の末端として生を受けた銀髪の兄妹は、生まれつき体が弱かった。
 兄は呼吸器系の、妹は心臓の病を患っていたのだ。
 二人共、労働はもちろん、軽い運動にも耐えられる器ではなかった。

 気を遣いすぎるほどに遣えば、なんとか十三年。
 奇跡が起これば十五年。
 それ以上長く生きられたなら神の御業だ、と医師に宣告された兄妹は。
 貴族の務めを任されないまま、領地の片隅で余生を送ることになる。

 父と母も同行して移り住んだ屋敷の近くには、海辺の村があった。
 たまには自然と触れ合うことも心身の療養になるからと母の案内で訪れた人口百五十人にも満たない小さな漁村で、兄妹は一人の少女と出会う。

 南国に咲く花を思わせる紅色の髪に、一点の曇りもない蒼穹色の目。
 健康的に陽焼けした肌に、溌溂(はつらつ)とした気質。
 同世代の男友達と無邪気に駆け回るその少女は、ほとんどの時間を薄暗い室内で過ごす兄妹に鮮烈な印象を与えた。

 兄は妹を溺愛していた。
 この世界でたった一人、互いの苦しみや恐怖を本当の意味で理解し合い、心を許して支え合える、掛け替えのない片割れとして。
 だから、妹とほぼ同じ世代の、妹とは正反対に元気な少女を憎んだ。
 妹がいつ死んでしまうとも知れないのに。
 どうしてアイツは、何の憂いもなく走り回っていられるんだと。

 妹は少女のまっすぐな笑顔に憧れた。
 自分には無いもの、決して踏み込めない場所でキラキラ輝く宝石のようなその笑顔に焦がれ、仲良くなりたい、近くで見つめていたいと願った。

 父と母に許可を得て、兄妹は毎日、少女の遊び場に姿を見せた。
 兄は妹の嬉しそうな笑顔を見る為。
 妹は少女と会う為に。

 紅い髪の少女は、兄妹が病弱であることを知らなかった。

 ある日。
 いつものように木陰から少女を眺めていた兄妹の元へ駆け寄った少女が、ここから見える景色はすごく綺麗なんだよ! と妹を木に登らせてしまう。
 木登りは負荷が大きい全身運動だ。体が弱い兄妹には命取りでしかない。
 当然、兄は妹に「危ないからやめろ」と言って、何度となく引き止めた。
 しかし妹は兄の制止を振り切り、体の負担を隠して懸命によじ登った。

 建物の二階部分に相当する高さから見渡した水平線は、妹に衝撃と感動を与え、また一緒に見たいねと、少女と二人で喜びを分かち合えたが。
 屋敷に帰り着いた途端、妹は重度の発作を起こして倒れてしまう。

 兄は激怒し、少女に暴力を振るい始めた。
 友達でいられなくなるから、病気の話だけはしないで、と妹に懇願され、仕方なくそれだけは隠し通したが。
 何も知らずにのんきな笑顔を見せる少女が、ますます憎くなった。



 数年が経って、妹は発作を起こす回数が増えた。
 憧れた少女に会う機会も減り、気力も体力も目に見えて衰えていく。
 兄は妹の代わりに毎日少女の様子を見に行った。
 少女がどうしているかを聴けば、ほんの少しだけ笑うからだ。

 妹は本当に少女が大好きだった。
 なのに、紅い髪の少女は漁師の手伝いをしながら平然と言うのだ。

 最近、妹さんは来ないのね、と。

 兄はどうしようもない憎悪を抱えて、毎日屋敷と村を往き来する。

 愛しい妹は弱っていく。
 憎い少女は笑ってる。

 いっそ、入れ代えられたら良いのに。
 妹が元気になって、少女が病気になれば良い。
 そうだ、少女こそが苦しむべきだと、兄は思った。

 そんな兄の頭の中に、不思議な声が響く。
 妹を助けたいか? と。
 兄は迷わず答えた。
 妹を救えるなら何でもする。
 妹を助けてくれ、と。

 声に身を委ねた兄は、指示に従ってまずは父を刺殺した。
 次は母を絞殺。
 使用人達には毒を盛った。
 たった一晩の凶行だった。

 兄に憑いた声は、不思議な力で使用人達の体を操って日常を演じさせる。
 外部との連絡は、どうしても必要なものを除く全部を使用人で断ち切り。
 妹も、表向きには突然の病で死んだことにして、部屋に閉じ込めた。

 部屋に鍵を掛けられた妹は、何も分からぬまま兄に体を奪われてしまう。
 お前に僕の命を分けてあげると。
 壊れないように優しく触れる手が、妹の正気を失わせた。
 それ以降、妹の発作はピタリと治まるが。
 その代わり、彼女は一切笑わなくなった。

 紅い髪の少女に関する話をしても。
 大好きなお菓子を作って見せても。
 まるで反応しない。
 心を閉ざし、声も出さず。
 起き上がろうともしなければ、飲食すらも求めない。
 妹は、呼吸するだけの虚ろな人形になってしまった。

 兄は嘆き哀しんだ。
 悲しくて寂しくて苦しくて、息が詰まる。

 物言わぬ妹の世話と延命に明け暮れる傍らで。
 兄の発作は日に日に増えていく。
 増えて、重くなって。
 とっくに狂い始めていた精神すらも、漆黒に蝕まれていく。


 少女のせいだ。


 ポツリと浮かんだ思いは急速に膨らんで、兄の意識を埋め尽くす。

 アイツが苦しまないせいだ。
 アイツが苦しめば自分達は救われる。
 アイツが笑ってるから自分達が苦しいんだ。
 アイツこそが苦しむべきなんだ。

 妹が笑わないのも。
 自分の発作が止まらないのも。
 何もかもがアイツのせいだ。
 全部アイツが悪いんだ。

 兄を動かしていた声が再び問いかける。
 少女を苦しめたいか? と。

 兄は答えた。
 自分の何と引き換えにしても構わないから。
 アイツを、紅い髪の女を、徹底的に壊してくれ、と。

 声は承諾した。
 兄の魂を喰った悪魔は、解放された力で嵐を呼び。
 村が所有していた船を全部破壊した。
 漁師達が海に出られないように。村の生活が成り立たなくなるように。
 少女から逃げ道を奪う為に。


「これが、私が知っていることと、教えられたことのすべてです」

 体を清め、レモンの果汁を垂らしたハーブ水で(のど)を潤した後。
 クーリア自身と彼女の母親が所持していたドレスに着替えた二人は、他に誰も居ない応接室でそれぞれ椅子に腰掛け、向かい合う形で座っている。

 クーリアが落ち着いた様子で淡々と語った真実は、屋敷中の豪華な装飾を恐ろしい儀式の道具だと錯覚させるほど凍てついた内容だった。
 レネージュの目から、涙がポロポロと溢れて止まらない。

「……あたしのせい……なの……?」
「いいえ、レネージュ様。貴女に罪などありません。すべては兄の……私達兄妹の所業なのです」
「でも、あたしがあなたに木登りなんてさせなければ、グリークは……っ」
「私が自分で望み、自分で選んだのです。面倒を見てくれていた両親ならばともかく、私と同じ立場の兄に私の行動をとやかく言う権利はありません。ましてや、私が起こした発作の責任をレネージュ様に押し付けて憤るなど。筋違いも(はなは)だしい」

 結局、兄が大切にしていたのは『一緒に育ってきた私』ではなく。
 ()()()()()()()()()()()『可哀想な妹』だった。
 自身の心を護る為だけに、私達の意思を(ないがし)ろにし続けた人のことなど、貴女が気に病む必要はありません。
 と、レネージュの肩を優しくさすりながら強い口調で断じるクーリア。

「それに、木の上から見る水平線。あの景色は今でも忘れられないのです。お忘れですか? また一緒に見たいと話しましたでしょう?」
「忘れてなんかいないわ! あたしはずっと、木の上で海を眺めるたびに、あなたを思い浮かべてた! あなたは線が細くて、綺麗で……、あたしの、憧れ、だったから……」

 レネージュは自分をバカだと責めた。

 グリークが村民のような仕事をしないのは、貴族だからだと思ってた。
 クーリアが走らないのは、由緒正しい家のご令嬢だからだと思ってた。
 二人が色白で綺麗なのも、時々日陰で横になっていたのも。
 生まれや立場に基づく習慣の違いなんだと。
 話を聴いた今になって、それらはすべて病気のせいだったと知った。

 月日を跨いだ間柄、気付く機会なんて、いくらでもあった筈なのに。
 レネージュは、兄妹を見ようとも、知ろうともしていなかったのだ。

「ごめん……、ごめんなさい……っ!」
「レネージュ様。どうか冷静にお聴きください。私にはもう、あまり時間が残されていないのです」

 レネージュの顔が固まる。

「先ほどの話の通り私は発作を起こさなくなりました。ですがそれは、兄が私に生命力を分け与えていたからなのです。具体的な説明は難しいですが、兄に憑いた悪魔の力が、それを可能にしていたのだとか」
「……誰かから聴いたような口振りね。さっきも、教えられたって……」

 不思議そうなレネージュに、クーリアは軽く頷いた。

「私は今日に至るまでずっと自分の内に閉じ籠り、耳目を閉じていました。何も見たくなかったし、何も聞きたくなかった。兄に体を弄ばれながら……もうどうでもいいと。考えることすら拒絶していました。ですが私にも声が聴こえたのです」
「声?」
「はい。滑舌が良く、耳に心地好く響く低い男性の声です。その声は私に、兄にまつわる一連の真実と、レネージュ様の危機を告げました」



「……で。アンタらがどうなろうと、俺にはまったく関係ないんだが……」

 心の中で膝を抱えて丸くなっていたクーリアの耳に。
 知らない男の声が、過去の出来事をささやいた。
 その上で、こう言った。

「ちょいとワケありでね。手助けする気はないか?」

 悪魔と兄が契約していたとか。
 両親や使用人達が殺されていたとか。
 そんなの知らない。放っておいて。

 耳を塞いで縮こまるクーリアに、男の声がくつくつと笑う。

「紅い髪の幼馴染みが、アンタの兄を喰った悪魔に襲われていてもか?」

 クーリアの肩が跳ねた。
 紅い髪。幼馴染み。
 憧れた、大好きな少女。

「……レネージュ、さま……?」
「今頃はお楽しみの最中だと思うが。殺されるまで放っておくか?」

 クーリアは、恐る恐る顔を上げた。

 大好きな少女が、自分と同じ目に遭おうとしている。
 いや、既に遭っている。
 兄に……兄の姿をした悪魔に、殺されてしまう?

「……どう、すればいいのですか?」

 自分はどうなっても構わない。
 でも、少女にまでこんな思いをさせてはいけない。
 少女は苦しいばかりの生に囚われていたクーリアに差す唯一の光だった。
 光を汚され、奪われるなんて。
 そんなことは、断じて許せない。

「私の体はもう動きません。動かし方も分からないのです。私はどうすればレネージュ様を助けられるのですか」

 男の声は、少し悩んだ様子で呻いた。

「んー……? そうだな。人間を砂時計に置き換えるとしよう。中の砂が魂、ガラス部分が生命力、そのフタであり支えである外枠が肉体だとする。砂時計自体は自力でひっくり返らず、砂が落ち切ればそれで終わり。つまりこれが人間の一生だ」

 何の話だろう。
 クーリアは首を傾げる。

「アンタはガラスと外枠がとにかく(もろ)い。どこもかしこもひびが入ってて、上からも下からも砂が溢れてる状態だった。外部から軽くつつけば、簡単に瓦解するだろう。それをアンタの兄のガラスが補った。砂の流出を止めつつ多少強度も増したわけだが、外枠の脆さは変わってない。だから、俺の力を貸してやろう。アンタの体が壊れないように、一時的に外枠を支えてやる。俺と契約しろ」
「契約?」
「俺が力を貸す代わり、アンタは紅い髪の幼馴染みを絶対確実に助け出す。意味は解るよな?」

 絶対に、確実に、今後も少女に危害が及ばない救助。
 それは

「……私に、兄を殺せと言うの?」
「アンタにできるかな?」

 兄は悪魔に殺されたと言った。
 それなら、あれはもう、兄ではない。

「契約します」

 迷う必要なんて、ない。

「……成立した。行け」

 その一言で、クーリアは覚醒した。
 長い月日眠っていたせいで筋力が衰えている筈の体は、信じられないほど自由に動かせた。
 部屋に掛けられた鍵も、一度の体当たりであっさり壊せた。
 普段は悪魔の力で操られているらしい使用人達の体が、廊下のあちこちで無造作に倒れている。

 異様に静かで不気味な雰囲気の空間を走り抜けて厨房へ。
 そして、鋭く磨かれた包丁を手に取り……。



「私は、貴女を助ける為に、その声と契約しました。レネージュ様には大変申し訳ないのですが……兄が両親を手に掛けてそれを隠し、外部との連絡をほぼ遮断していたせいで、私達一族は、貴族としての役目の大半を放棄した形になります。近々爵位と領地を返上することとなるでしょう。ですがその前に、一族所有の財産を可能な限り村の復旧に充てる旨の書状を遺します。どうかそれを持って、村へお帰りください」
「クーリアは? あなたはどうなるの?」
「村の復旧も、貴女を助ける契約の一部とみなされます。村の皆様の生活がある程度安定するまでは、ここで一族最後の一人として役目を果たします。事実がどうであれ、兄を殺した罪も償わなければなりません。その後は……両親と兄の元へ召されるでしょう」
「! そんな……っ」

 クーリアは動揺するレネージュの前に立ち。
 その肩をふわりと抱きしめた。

「貴女と過ごした時間は、私の大切な宝物です。兄と悪魔にされた仕打ちは忘れようがないと思いますが……どうか、幸せになってください」
「クーリア……!」

 レネージュも、クーリアの細い体を抱きしめた。

 しばらくの間、クーリアの腕の中で泣き崩れ。
 落ち着きを取り戻してから、預かった書状を持って。
 レネージュは一人で屋敷を去る。

 クーリアは屋敷の前に立ち。
 小さくなっていく幼馴染の背中を、ずっとずっと、見送っていた。



「あれ? レネージュ?」

 村の出入り口付近で仕事道具を運んでいた男性が。
 ふらふらと覚束ない足取りで戻ってきたドレス姿のレネージュを見つけ、どうしたんだ? と彼女に駆け寄る。

 レネージュは暗い表情で、うつむいたまま。

「……あたし……」

 屋敷の前で手を振っていたクーリアの姿が、頭から離れない。
 書状をぎゅうっと握りしめ、唇を噛んだ。

「迷っているのですか?」

 真っ白い服で全身を覆う黒髪の男性が、村人の横に立って問いかけた。
 レネージュは、潤んだ瞳を男性に向ける。

「素直な心に従いなさい。それが貴女の道です」

 柔らかな微笑みが、言葉が、レネージュの胸にすぅっと落ちて溶けた。
 まくり上げたドレスの袖を膝の辺りで縛り、傷だらけの腕で顔を拭う。

「これ、村長に渡しておいて」
「え? ちょっ、レネージュ!?」

 村人の胸に書状を押し付け、白い服の男性に頭を下げると。
 レネージュは今来た道を引き返した。

 一晩中、手酷く暴行されていた体だ。
 今の状態で歩き回るのは、正直かなりキツい。
 でも、そんなに長い距離じゃない。

「不本意だけど、あたしはもう、グリークの妻だもの! あたしには義妹を護る正当な理由と資格と権利があるわ!」

 ヘトヘトになりながら辿り着いた屋敷の前で。
 ずっとうずくまっていたらしいクーリアに、大声でそう宣言した。
 銀色の髪の少女は、その時になってようやく貴族の仮面を外し。
 レネージュの胸に飛び込んで、心のままに泣き叫んだ。



 それから少し先の未来。

 漁業と、魚類の皮や貝殻を使った工芸品の生産販売が盛んな小さな村で、紅い髪の未亡人が銀髪の幼い双子兄妹と戯れていた。
 半分に割れた薄い緑色の貝殻のペンダントをそれぞれ首に掛けた双子は、木の上から望む水平線が大好きだったという。

 
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