逆さの砂時計
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不透明な光 3
貴族の末端として生を受けた美しい銀色の兄妹は、残念ながら生まれついて体が弱かった。
兄は呼吸器系の、妹は心臓の病を患っていたのだ。運動は勿論、労働にも耐えられる器ではなかった。
十年か、良くて十二年……十五年生きられれば神の御業だと医師に宣告された二人は、貴族としての務めを任されないまま、領土の隅でひっそりと余生を送る事になる。
父と母も同行して移り住んだ屋敷の近くには、雄大な水平線を望む海辺の村があった。
人口百五十人にも満たないその小さな漁村で、兄妹は一人の少女と出会う。
同世代の男友達と無邪気に駆け回る健康的に日焼けした元気な少女は、殆どの時間を薄暗い室内で過ごす二人に鮮烈な印象を与えた。
兄は妹を溺愛していた。だから、妹とほぼ同じ世代の元気な少女を憎んだ。妹がいつ死んでしまうとも限らないのに、どうしてアイツは走り回っていられるんだと。
妹は少女のまっすぐな笑顔に憧れた。仲良くなりたい、近くに行きたいと願った。
父と母に許可を得て、兄妹は毎日少女の遊び場に姿を見せた。
兄は妹の笑顔を見る為。妹は少女に会う為に。
紅い髪の少女は、二人が病弱である事を知らなかった。
少女はある日、此処から見える景色は凄い綺麗なんだよ、と言いながら、妹を木に登らせてしまう。
妹は止める兄を振り切り、体の負担を隠して懸命に登った。木の上で見た水平線は妹に例えようが無い衝撃と感動を与え、また一緒に見たいねと、二人で喜びを分かち合ったが。
屋敷に帰った途端、妹は発作を起こして倒れてしまう。
兄は怒り、少女に暴力を振るい始めた。
「友達でいられなくなるから、病気の話だけはしないで」と妹に懇願され、仕方なくそれだけは伏せたが。
何も知らずに暢気な笑顔を見せる少女が、益々憎くなった。
数年の時が経って、妹は発作を起こす回数が増えた。
憧れた少女に会う機会も減り、気力も体力も衰えていく。
兄は妹の代わりに毎日少女の様子を見に行った。少女がどうしているかを聞けば、ほんの少しだけ笑うからだ。妹は本当に少女が大好きだった。
なのに紅い髪の少女は、漁師の手伝いをしながら平然と言うのだ。
最近、妹さんは来ないのね、と。
兄はどうしようもない憎悪を抱えて毎日屋敷と村を往き来する。
愛しい妹は弱っていく。憎い少女は笑ってる。
いっそ入れ換えられたら良いのに。妹が元気になって、少女が病気になれば良い。
そうだ。少女こそ苦しむべきだと兄は思った。
そんな兄の頭の中に、不思議な声が響く。
妹を助けたいか? と。
兄は迷う事無く答えた。
妹を助けられるなら何でもする。妹を助けてくれ、と。
声に身を委ねた兄は、指示に従ってまずは父を刺殺した。次は母を絞殺。使用人達には毒を盛った。
たった一晩の凶行だった。
兄に憑いた声は不思議な力で使用人達の体を操り、翌日からも日常を演じさせる。外部との連絡は総て使用人が断ち切り、妹も突然の病で死んだ事にして部屋に閉じ込めた。
部屋に鍵を掛けられた妹は、事態が飲み込めないまま、兄に体を奪われてしまう。
お前に命を分けてあげると言いながら壊れないように優しく触れる手が、妹の正気を失わせた。
妹は心を閉ざし、声も出さず、呼吸するだけの虚ろな人形になった。
妹の発作はそれ以降ピタリと止まる。
だが、妹は笑わなくなった。
紅い少女の話をしても、大好きなお菓子を作って見せても、全く反応しない。
兄は嘆き哀しんだ。苦しくて苦しくて、息が詰まる。
兄の発作は日に日に増えていく。
少女の所為だ。
ポツリと浮かんだ思いは急速に膨らんで、兄の心を埋め尽くす。
アイツが苦しまないせいだ。アイツが苦しめば自分達は救われる。アイツが笑ってるから自分達が苦しいんだ。アイツが苦しむべきなんだ。
兄を動かしていた声が再び問い掛ける。
少女を苦しめたいか? と。
兄は答えた。
自分の何を引き換えにしても良いから、アイツを壊してくれ、と。
声は承諾した。
兄の魂を喰った悪魔は、解放された力で村に嵐を呼び、船を総て破壊した。
決して海に出られないように。村が成り立たなくなるように。
「これが、私が知っている事と、教えられた事の総てです」
体を洗浄した後、クーリアの母親が所有していた貴族らしいドレスに着替えた二人は、他に誰も居ない応接室の椅子に向かい合う形で座っている。
クーリアが淡々と語る真実は、屋敷中の豪華な装飾を恐ろしい儀式の道具だと錯覚させるほど、凍て付いた内容だった。レネージュの空色の瞳から、ポロポロと涙が溢れて止まらない。
「……あたしの、所為……なの?」
「いいえ、レネージュ様。決して貴女に罪はありません。総ては私達の……兄の仕業なのです」
クーリアは静かに優しくレネージュの肩を擦る。
「でも、あたしがあなたに木登りなんてさせなければ、グリークは……」
「私が自分で望み、自分で選んだのです。それに、あの景色は今でも忘れられないのですよ。お忘れですか? もう一度一緒に見たいと話しましたでしょう?」
「忘れた事なんて無いわ! 木の上で海を眺める度に、あなたを思い出してた! あなたは線が細くて、綺麗で……憧れてたもの……」
レネージュは自分を莫迦だと責めた。
グリークが仕事をしないのは貴族だからだと思ってた。
クーリアが走らないのは令嬢だからだと思ってた。
二人が綺麗なのも、時々日陰で横になってたのも、生まれや習慣の違いなんだと。
話を聴いた今になって、その美しさが病弱故だと知った。
気付く機会なんて幾らでもあった筈なのに、見ようとしていなかったのだ。
「ごめんなさい……っ」
「レネージュ様。どうか落ち着いて聞いてください。私に残された時間はあまり無いのです」
レネージュの顔が固まる。
「先程の話の通り、私は発作を起こさなくなりました。ですがそれは、兄が私に生命力を分け与えたからだそうです。具体的な説明は難しいのですが、兄に憑いた悪魔の力がそれを可能にしていたとか」
「……誰かから聞いたような口振りね。そういえば、さっきも教えられたって……」
不思議そうに首を傾げるレネージュに、クーリアは軽く頷いた。
「私は今日に至るまで、ずっと自分の内に閉じ籠っていたのです。何も見たくなかったし、何も聞きたくなかった。兄に自由にされながら、もうどうでもいいと。考える事すら拒絶していました。ですが、私にも声が聞こえたのです」
「声?」
「はい。その声は私に一連の真実と、レネージュ様が悪魔に喰べられてしまう事を告げました」
「で、俺はアンタらがどうなろうと関係無いんだが……」
心の中で膝を抱えて丸くなっていたクーリアの耳に、知らない男の声が過去の出来事を囁いた。その上でこう言った。
「ちょっとワケありでね。手助けする気は無いか?」
悪魔とか両親が殺されたとか……そんなのどうでもいい。知らない。放っておいて。
耳を塞ぐクーリアに、声は笑う。
「紅い髪の幼馴染みが、アンタの兄を喰った悪魔に襲われててもか?」
クーリアの肩が跳ねた。
紅い髪。幼馴染み。
憧れた、大好きな少女。
「……レネージュ……さま?」
「まだお楽しみの最中だと思うが、放っておくか?」
クーリアは顔を上げた。
大好きな少女が、自分と同じ目に遭おうとしている。
いや、既に遭っている。
兄の姿をした悪魔に、殺されてしまう?
「…………どう、すれば良いのですか……?」
自分はどうなっても構わない。でも、彼女にこんな思いをさせてはいけない。
彼女はクーリアにとって唯一の光だった。
光を汚されるなんて、赦せない。
「私の体はもう動きません。動かし方も解らないのです。どうすればレネージュ様を助けられるのですか」
声は少し悩んだ様子で呻いた。
「んー……そうだな……。人間を砂時計に例えるとしよう。砂が魂、ガラス部分が生命力、その蓋であり支えである外枠が体だとする。砂時計自体は自力でひっくり返らず、砂が落ちればそれで終わり。つまり、これが人間の一生だ」
何の話だろう。クーリアは首を傾げる。
「アンタはガラスと外枠がとにかく脆い。何処もかしこもひび割れて、上からも下からも砂が溢れてる状態だった。外枠もちょっと突けば瓦解するだろう。それを、アンタの兄のガラスが補ってた。少し強度が増した訳だが、外枠の脆さは変わってない。だから、俺の力を貸してやろう。アンタの体が壊れないように、一時的に外枠を支えてやる。俺と契約しろ」
「契約?」
「俺が力を貸す代わり、アンタは幼馴染みを絶対、確実に助ける。意味は解るよな?」
絶対、確実に。今後も少女に危害が及ばない救助。
それは
「……兄を、殺せと言うの?」
「アンタにできるかな?」
兄は悪魔に殺されたと言った。
それなら、あれは兄ではない。
「契約します」
迷う必要なんて、無い。
「……成立した。行け」
その一言でクーリアは覚醒した。
長く眠っていた所為で筋力が落ちている筈の体は、信じられないほど自由に動かせた。部屋に掛けられた鍵も、体当たりであっさり壊せた。
普段は操られているらしい使用人が、廊下のあちこちで糸が切れた人形のように倒れている。
異様な空間を走り抜けて厨房に向かう。其処で、鋭く磨かれた包丁を手に取って……。
「私は貴女を助ける為に、その声と契約しました。レネージュ様には大変申し訳ありませんが、兄が両親を手に掛けてそれを隠し、外部との連絡を遮断した所為で、私達一族は貴族としての役目を放棄した形になります。位を返上する事になるでしょう。ですがその前に、一族の財産を可能な限り村の復旧に役立てる署名を遺します。どうか、それを持って村へお帰りください」
「クーリアは? あなたはどうなるの?」
「村の復旧は貴女を助ける契約の内。船が直るまでは、此処で一族最後の一人としての役目を果たします。事実はどうあれ、兄を殺した罪も償わなければなりません。その後は……両親と兄の元に召されるでしょう」
「そんな……っ」
クーリアは動揺するレネージュの前に立ち、ふわりとその肩を抱き締めた。
「貴女と過ごした時間は、私の大切な宝物です。兄にされた事は忘れようが無いと思いますが、どうか、幸せになってください」
「……クーリア……!」
レネージュもクーリアの体を抱き締めた。
暫くの間泣き崩れ……落ち着きを取り戻してから、預かった書状を手に、レネージュは屋敷を去る。
クーリアは屋敷の前に立って、小さくなるレネージュの背中をずっとずっと見送っていた。
「あれ? レネージュ?」
ふらふらと覚束ない足取りで戻って来たドレス姿のレネージュを見つけた村人が、どうしたんだ? と彼女に駆け寄る。
レネージュは暗い表情で俯いたまま。
「……あたし……」
屋敷の前で手を振っていた少女の姿が頭から離れない。
書状をぎゅうっと握り締め、唇を噛んだ。
「迷っているのですか?」
真っ白い服で全身を覆う黒髪の男性が、村人の横に立って問い掛けた。
レネージュは潤んだ瞳を彼に向ける。
「素直な心に従いなさい。それが貴女の道です」
柔らかな微笑みが、言葉が、レネージュの胸にすぅっと溶けて落ちる。
ドレスの袖を捲り、腕でぐいっと顔を拭った。
「これ、村長に渡しておいて」
「え? ちょっと、レネージュ!?」
村人に書状を押し付け、白い人に一礼して、レネージュは来た道を引き返した。
今の状態で歩くのは、正直かなりキツい。
でも、そんなに長い距離じゃない。
「不本意だけど、あたしはもうグリークの妻だもの! あたしには義妹を護る権利があるわ!」
ヘトヘトになりながら辿り着いた屋敷の前で、ずっと踞っていたらしいクーリアにそう宣言した。
銀色の少女は、その時になって漸く貴族の仮面を外し、泣き喚いた。
それから少し先の未来。
貴族籍を没収された未亡人が、漁業盛んな小さな村で銀髪の幼い双子兄妹と戯れていた。
半分に割れた薄い緑色の貝殻のネックレスをそれぞれの首に掛けた双子は、木の上から望む水平線が大好きだったという。
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