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逆さの砂時計

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クロスツェル

 ロザリアが教会に入った当初。
 彼女は想像以上の粗野な振る舞いを披露していた。

 ガラス窓の清掃を頼めば、三枚に一枚は割れ。
 礼拝堂の床磨きを頼めば、どこもかしこも水浸しになる。
 掃き掃除をさせれば、使ったほうきが真っ二つに折れる始末。

 せめて反省するなり、やり直す意気込みがあればまだ良かったのだが。
 彼女は、問題を起こすたびに投げやりな態度で隠れてしまっていた。

 クロスツェルは正直、頭を抱えた。

 しかし。
 よくよく観察すれば彼女はちゃんと教会の敷地内に居るし。
 失敗しては隠れるけれど、毎日嫌々でも手伝おうとはしている。
 これはもしやと思い、掃除の仕方から家事の事細かな注意点まで根気よく丁寧に見本を見せながら教えてみれば、少しずつではあるが、良い方向へと変化していった。

 ロザリアは記憶を持たない浮浪児だ。
 当然ながら自宅などは無い。
 家事を理解していないのは当たり前だったのだ。

 クロスツェルが教えた物事を徐々に吸収して自らの楽しみに変えていく。
 そんなロザリアを見ていると、自然に笑みが零れた。

 ロザリアはやがて、きっちり身形を整える習慣を身につけ。
 礼拝客とも挨拶を交わすようになってすぐ、彼らの人気者になった。
 言葉遣いや仕草は荒々しいままだが……
 彼女は決して言葉や態度で己を飾り付けない、まさに純朴な子供だ。
 嫌なことは嫌だとはっきり言うし、純粋な好意には素直に応える。
 そこが、悩み多き者達の目に魅力として映ったのだろう。

 ロザリアはよく笑い、よく怒り。
 時には盛大に拗ねて周囲を困らせる、天真爛漫な少女だった。
 初めこそ女神の力を持つ者として接していたクロスツェルも。
 空間を共有する日々の間で、彼女のそんな人柄に惹かれていった。

「なあ、クロスツェル。これはどうすりゃ良いんだ?」

 両腕に抱えたカゴ一杯の野菜や果物を落とすまいと慎重な足取りで歩み寄るロザリアの肩を支え、神父はクス、と笑った。
 ふらふらとよたつく姿は、まるで雛鳥だ。
 必死な表情がまた、なんとも愛らしい。

「厨房へ運びましょう。私も手伝いますよ」
「んーにゃ。このくらいなら一人で平気」

 足下は完全に見えてない状態で、またふらふらと歩き出した。
 危なっかしいが、彼女から仕事を奪うわけにもいかない。

 ロザリアは教会に来てから滅多に力を使わなくなった。
 必要ないから、とは彼女の言葉だが。
 利用されたくない、が一番の本音だろう。
 クロスツェルも無闇に使えとは言わない。
 ロザリアの力は、本当に困っている人の為に使うべきだと思うからだ。

 人の欲求にはキリがない。
 彼女の力が際限なく必要とされるのは間違いだ。
 それを許して、万が一彼女に何かあったら……
 そこまで考えて、クロスツェルは頭を振る。

 一瞬頭の隅に浮かんだ思いは、聖職者にあるまじき邪念だ。
 それこそ許されない。

「……ロザリアに、女神アリアの守護が降りますように」

 クロスツェルは胸の前で両手を握り、無垢な少女の幸福を祈った。



 教会の中庭に、女神が佇む噴水がある。
 平均的な身長の成人男性を縦に三人並べた程度の、大きな女神像。
 彼女は、蓮の葉が浮かぶ丸い池の中央に立って。
 掲げるツボから恵みの水を注いでいる。

 一昼夜すべての勤めを果たした後。
 池の手前で膝を突き、己の為したことと、至らなかったこと。
 反省すべきことを女神像に報告するのが、クロスツェルの日課だった。

 ロザリアが教会に来て半年強。
 報告内容の大半は、反省と祈願になっていた。
 未熟な己を恥じつつ、懸命に祈りを捧げる。

「私は女神アリアに仕える者。生涯を祈りに捧げ、迷える者を導く役目を、貴女から賜った聖職者です。それ以外であってはならない」

 誰かと話すロザリアを見ると、何故か心がざわついた。
 走り回る姿を目で追っているのは、ロザリアが心配だから。
 それだけ。それだけ。それだけ。

 でも、触れたいと思う。
 白金色の柔らかな髪は、肩甲骨を覆うまでに伸びた。
 あれが風に揺れる様は美しい。
 時折覗く白い首筋に指を這わせたら、どれだけ気持ち良いだろうか。
 薄い緑色の虹彩が潤めば、胸が高鳴る……

「……っ愚かしい!」

 クロスツェルは立ち上がり。
 池の中に勢いよく踏み入って、女神が注ぐ水を頭から被った。

「女神アリアよ。どうか私をお清めください。そうでなければ罰を……っ」

 聖職者が、仕える主神以外を想うなど、あってはならない。
 故にこれは罪。浄められるべき悪。

 しかし、その想いは一年が過ぎても正されず。
 より強いものとなって、クロスツェルの心を占めていた。



「最近、顔色悪いんじゃないか?」

 礼拝堂で行う、毎日恒例の説教へ向かう途中。
 ロザリアに顔を覗き込まれ、クロスツェルは体を竦ませた。

 彼女は、時を重ねる毎に明確さを増す、彼の想いを知らない。
 無邪気なままで。
 少しずつ伸びていく髪が、女性らしい柔らかな雰囲気を引き立てて。

「熱とかないだろうな? お前、この間も噴水に飛び込んでただろ。あれはもうやめとけって。聖職者でも風邪は引くんだからさ」

 爪先立ちでクロスツェルの前髪をぐしゃっと撫でて。
 本当、お前ってバカだよなーと朗らかに笑う。

「ええ、そう……、ですね。本当に、私は、愚か者です」

 数歩先を駆けていく背中を見つめながら。
 クロスツェルは、ぎりっと奥歯を食い縛った。

 彼女は女神アリアが人の世に遣わした聖女。
 自分は女神アリアに仕える聖職者。
 数歩離れた、この距離が正しい。
 これ以上は立ち入るべきではない。

 自らで強く引いていた境界線は、その日。
 礼拝堂に入ったロザリアによって、粉々に砕かれた。



「……ウェーリ!?」

 礼拝堂の入口で目を瞬かせたロザリアが。
 祭壇を見上げて立っていたその男に向かって、突然走り出した。
 男も驚いた様子で振り返り、嬉しそうに笑う彼女を見返す。

「チビ!? いきなりいなくなったと思ったら、こんな所で何してんだよ!」

 親しげな手つきでロザリアの髪をくしゃくしゃと撫でた男は。
 褐色の肌に銀色の短い髪がよく似合う、二十代前半の好青年だった。
 髪と同じ銀色の目が、ロザリアを柔らかく見つめる。

「あ、うん。まあ、いろいろあったからさ。今はロザリアって名前なんだ。ウェーリこそ、教会なんかに何の用だよ? 下町の荒くれ王子が」
「その呼び方やめれ! 俺、仕事が決まってさ。うまくいくようにって……願掛け? みたいなもんだな」
「へーっ! 良かったじゃん」

 おめでとうと、男を祝福するロザリアの笑顔が眩しくて。
 それを向けられた男が憎くて。
 クロスツェルが理性を保って聴き取れた会話はそこまでだった。
 説教の時間が過ぎても、二人は昔話に花を咲かせていた。

 いつも通りに勤めを果たした後。
 クロスツェルは、まだ明るいうちに噴水へと飛び込んで、膝を落とした。

「罰をお与えください、アリアよ! 汚れた私にどうか罰を! アリア!」

 自分が知らないロザリアを知る、あの男が憎い。
 ロザリアに無邪気な笑顔を向けられた、あの男が憎い。
 ロザリアに触れるな。
 ロザリアに語りかけるな……!
 ロザリアは、私の……っ!

『苦しいか、クロスツェル』

 地の底から響く声。
 クロスツェルは一瞬驚き……水面に映るもう一人の自分と目が合った。

 彼は、笑っている。
 自分を憐れむように。
 自分を皮肉っているかのように。
 目元と口元を嫌みに歪めて。
 自分を嘲笑っている。

『逃れたいか、その苦しみから』

 それがなんなのかは解らない。
 解らないが、クロスツェルは答えた。

「私は……ロザリアを……」

『そう、お前はロザリアを』


「……アイ シ テ、ル……」


 ぱりん……っ と。
 クロスツェルの頭の奥で、何かがひび割れた。
 そして、水面に映っているもう一人の自分が愉快そうに高笑いを始める。

『その悩み、俺が引き受けてやろう。契約の対価に、その魂と器を寄越せ。アリアの鍵よ!』

 自分が何を言っているのか解らない。
 ただ一つだけ理解できたのは。
 この自分の言葉を受け入れれば楽になれる、ということだ。

 クロスツェルは、そのささやきに……頷いた。

『契約は成された。永遠の闇に眠れ、哀れな神父クロスツェル』

 祈りを捧げるように。
 あるいは、安らかな眠りへと誘われていくかのように。
 静かにうつむいて目蓋を閉じたクロスツェル。
 その胸を、水面から伸びたもう一人のクロスツェルの腕が貫いた。



 クロスツェルの意識は途切れた。
 もはや、この世界にクロスツェルという名の愚かな神父は存在しない。
 女神に仕え、女神を愛した敬虔なる一人のバカな男は。
 悪魔に魂を喰われて消滅した。

 さて、苦しみからの解放という契約を遂行しようか。
 女神が微笑んだ相手を消し去り、次は女神を……

「……なんだ、コレは」

 立ち上がったクロスツェルの両目から、水滴が溢れて零れ落ちた。
 それが涙だと知覚した途端、胸の奥が急に締めつけられる。

「クロスツェル? お前、またそんな所に入ってんのかよ」

 背後から聞こえてきた、それはクロスツェルを苦しめた女の声。
 悪魔を封じた、憎い女神の声。

「早く出て来いよ。本当に風邪引いても、私の力じゃ治せないぞ」

 苦笑いを浮かべる女に振り返って……
 湧き上がった衝動が人間の物なのか、悪魔の物なのか。
 判別できなかった。
 心臓が踊る。
 血が騒ぐ。
 触れたい。
 抱き締めたい。
 無理矢理引き裂いて、声が出なくなるまで喘がせて、涙の一滴も逃さず、女の全部を喰い尽くしたい。
 女が、アリアが、ロザリアが、欲しい。

 ……だが、まだ喰らわない。
 女神が悪魔に施した封印は、完全には解けていないのだ。
 現時点で、何の策もなく女神に手を下すのは難しい。

「そう、ですね」

 悪魔はクロスツェルのフリで笑う。

 水を蹴って池から出れば、女が背中を軽く叩いた。
 神父の顔に残ってる涙を気にしているらしい。
 くだらないことに目が行くものだ。

 さて、復活の宴の準備を始めようか。
 お前の愛も、お前のこの体で叶えてやろう、神父クロスツェル。

 だからもう、心臓を引き裂くようなその叫びは、やめてくれ。

「行きましょうか、ロザリア」

 胸を穿つ鋭い痛みを隠して。
 悪魔はロザリアに優しく微笑んだ。

 
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