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逆さの砂時計

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それぞれの道

「お疲れ様でした」

 厳しい。あまりにも激しすぎる三日三晩だった。
 まさか、アーレストさんにあそこまでされるとは。
 学徒時代に鍛えていたとはいえ、腹部と喉は限界を超えてる。
 足に影響が及ぶほどきつくされたのは、入学当初、師範にされた以来だ。

「少々苦しかったでしょうか?」
「……いえ……大丈夫です」

 頭も少しクラクラするが、呼吸を整えればすぐに治まるだろう。

「なんだなんだ三日三晩程度でだらしない。怠けてたんじゃないだろうな」
「すみません……」

 今は軽く死ねそうなので、腰を叩くのは勘弁してください。

「ですが、どうやら形には出来たようで安心しました。実際にこうして己の目で見ても不思議なものです」

 正面に立つアーレストさんが見つめるのは、私の背中で白く輝いてる翼。
 私が首に下げているネックレスの羽根と同じものだ。
 何も無かった筈のそこで日時を重ねるごとに着々と実体化してきたこれはもう、どれだけ時間が経っても消えない。
 めでたくもなく、私は怪奇現象の仲間入りを果たしたらしい。

 さらば、平穏な日々。

「本当になあ。骨格とか関節とか構造とか、どうなってるんだ、これ。服の着脱時とか家具にはまったく引っ掛からないんだろ? 手では触れるのに」
「わ……っ、師範、ちょっ 触らないでください! くすぐったいです!」
「ふーん? くすぐったいってことは、痛覚も通じてるのか。面倒なモンを言葉通りに背負ったわけだ」
「……確かに。これほど大きな標的を敵前に曝して戦うなんて、不利な材料としか思えませんね。捕まった時の自分の手足以上に邪魔な気がします」

 翼の関節部分? は、頭頂部より拳一つ分上。
 先端は踵の辺りまである。
 これで全開にしようものなら。
 どうぞ獲物はこちらです、と誘う格好になりそうだ。
 刃物や鎖が通用しないだけまだマシだが、やはり邪魔になる気がする。

「ま、それも人間の感覚なんだろ。お前は人間を辞めたんだから、戦い方も考え方も変えてしまえ」
「はい。師範が教えてくれた術に加えて、新しい戦い方を作ります」

 レゾネクトが使っていたような力も、なんとなく解った。
 後は慣れるしかなさそうだ。
 それが一番難関かも知れない。

「ありがとうございました、アーレストさん」
「わぷ」
「あ」

 背筋を伸ばして腰を折ったら。
 翼をまじまじと見ていた師範の顔を叩いてしまった。
 当分、対人距離に気を遣う必要がありそうだ。
 人前に出る機会があればの話だが。
 ……休暇期間が終了した後は、どうしよう?

「音は今のところ安定していますが、念の為にあと一日様子を見ましょう。教えた内容は決して忘れずに」
「はい」
「フィレスは賢いからな。一度覚えたら忘れないよなあ」
「努力はします。あの、師範」
「ん?」
「…………いえ」

 私の肩に腕を回す師範の瞳を覗き。
 喉から溢れ落ちそうになった言葉を、飲み込む。

「すみません。なんでもありません」
「そうか」

 ぽんぽんと、私の頭を叩いて離れる師範に苦笑う。

 見透かされてるなあ……。

「よーし。今日はフィレスが脱皮した記念日だ。この俺が、自慢の手料理を振る舞ってやろう!」
「その表現は、私が爬虫類(はちゅうるい)になったみたいで嫌です、師範」
「全力でやめて。貴方、力を入れるほど失敗するじゃない」
「なにおう!? 俺の本気を侮ってるな!?」
「その本気が問題なんだってば」

 二人は楽しそうに話しながら厨房へ向かった。

 神父の仕事をしていた師範はともかく、アーレストさんは食事や入浴の時以外、不眠不休でずっと私に付き合ってくれていたのだが。
 何事もなかった様子で明朗快活に動き回ってるのがすごい。
 どれだけ線が細く見えても、男性なのだな。やっぱり。

「私も、一から鍛え直さなくては」

 師範。
 私は、貴方が誇れる弟子でありたい。
 だから、今よりもっとずっと強く、自分を磨きます。
 貴方に頼ろうとする弱い私は、今日、ここに置いて行く。

「師範! 私もお手伝いします!」

 二人を追って、私も厨房に向かった。
 三日三晩の恩義は、きっちりお返ししなくては。



「では、お世話になりました」
「おう。行ってこい!」

 一日が明けて。
 フィレスは、教会の一室から旅を始める。

「貴女に女神アリアの祝福が舞い降りますように」
「ありがとうございます、アーレストさん」

 尊敬する師と、人間とは思えない美しさで不思議なことをこなした神父の見送りを受けながら。
 羽根を握り締めた彼女は、忽然と姿を消した。

「なんだ?」

 怪訝な金色の虹彩でじっと睨まれながら、ソレスタはへらっと笑う。

「毎日毎日彼女を話題に持ち上げて気に掛けていたわりに、付いて行くとは言わなかったのね。貴方の面倒を見てる人間としては助かるけど」
「俺は普通の人間だからなあ。フィレスが相手ならともかく、謎の現象には手も足も出せん。生きて知りたい、やりたいことが山ほどあるし、まだまだ死にたくないのさ。それに」
「それに?」
「自分の手で滅茶苦茶に壊したいくらい愛する女にツライ旅をさせるのは、男の務めだろ?」

 とんでもない発言にギョッとする。
 女神に仕える聖職者が、神聖な教会で何を言い出すのか。

「アンタ、屈折しまくってるわね」
「そうか? 咲きかけのつぼみに水と肥料をやろうってだけの話だぞ」
「やめてよ? 聖職者でいる間に婦女暴行とか、シャレにならないから」
「そりゃアイツ次第だな。誰かのモノになるつもりなら遠慮なく喰うけど。俺は俺で自由にするし、その間は好きにさせとくさ」
「もしも、仮に、万が一、誰かの手で殺されてしまったら?」
「命って、万物平等だよな」

 冷えた瞳に反して口元には曲線が浮かぶ。
 この男の考えは、やられたらやり返すなんて可愛いものではないだろう。
 どの口が平等を唱うのかと呆れる。

「倫理って言葉の意味を、事細かに教える必要がありそうね」

 礼拝堂へ向かって歩きだす新米神父を睨み、彼の後に続いて部屋を出る。

「とりあえず、問題は俺がフィレスをどうこうって話じゃない。フィレスが世界にどう関わるか、だ。また増えたんだろ? 改宗希望者と入信希望者」
「……みたいね。こちらには大きく影響してないけど」
「受け入れは歓迎するが、来る者拒まずとか単純な事態じゃないからなあ。大司教様達も教皇猊下も、今頃は大慌て、ってところか」

 礼拝堂への入り口から、教会の出入口付近の様子を窺う。
 相変わらず、アーレスト目当ての女性達が黒山となっていた。

「フィレスさんが見たっていう、白金色の髪に、薄い緑色の目を持つ女性。アリア様だと思う?」

 ソレスタの隣に立って横顔を窺えば、彼は険しい表情で肩を持ち上げた。

「なんとも言えないな。ただ、フィレスを除いても人間じゃない『何か』が動き始めてるってのは、感じる」
「同感ね」

 頷くアーレストも、人間でない者に会うのは、フィレスで二人目だ。
 何かが起きようとしている。
 しかも、どうやらそれにはクロスツェルが関わっているらしい。
 アーレストは内心、クロスツェルと再会した時の自分の対応を反省した。
 中央教会に居た頃とは少し違うと気付いていたのに、何も言えなかった。
 下手に遠慮などせず、もっと詳しく話を聴くべきだった。
 もっとクロスツェルの内面に踏み込むべきだったのでは、と。

「アリア様が本当に顕現されているなら、世界がとんでもないことになる。でも、クロスツェルが巡礼を始めた理由としては辻褄が合うのよ。あの子の信仰心が簡単に揺らぐ筈ないもの」

 突然教会を放置して、悪魔と一緒にアリアの色彩を持つ女性を捜して旅を始めたらしいクロスツェル。
 フィレスの不思議な体験と力。
 そして。

「ま。なんにせよ俺らは神父として与えられた勤めを果たすしかないだろ。当面の心配はないとしても、近いうちに必ず何かしら働きかけが下る筈だ。準備だけはしておかないと」
「……アンタは羨ましいくらい冷静ねえ、本当に」
「慌てても仕方ないだろ。対処っていうのは、本来そうしたものだ。あとはフィレスが宗教関係者に遭遇しないことを祈るしかない。何が災いになるか判ったもんじゃないし」
「それもそうなんだけどね」

 ソレスタが礼拝堂に足を踏み入れると、女性達が一斉に椅子を占拠した。
 目的はもちろん、彼の説教ではなく、彼の横に付き添うアーレストだ。
 信仰を広める者としては微妙な心地だが。
 彼女達をないがしろにするわけにもいかない。

 アーレストも定位置について、毎日の説教の時間が始まった。
 少し低めの落ち着いた声が、静かな礼拝堂内に響き渡る。
 崇拝する女神アリアの教えを耳にしながら、アーレストが心に思うのは、頼りなくもまっすぐな心を持った友人の姿。
 何か大事に巻き込まれている気がしてならない。
 無事であれば良いのだけど。
 と思った直後、記憶の片隅をよぎった全身真っ黒な悪魔の男に、「お前はどんだけ苦しんでも、いや死んでも良いから、クロスツェルだけは絶対に、何がなんでも必ず護り抜きやがれ!」と悪態を吐いた。

 少なくともアーレストは、組織内での出世に意味を求めていない。
 上層に立つ資格よりも、より多くの人間に直接手を差し伸べられる立場であれば良いと思っていた。
 プリシラが上に立てば、下に就いた自分達が動ける範囲は更に広がると、その点も信頼している。
 だから。

「我が友クロスツェルに、女神アリアのご加護があらんことを……」

 今ここで。この場所で。
 自分にできる精一杯をしようと、改めて誓った。

 クロスツェルが求めるものを得られるように。
 フィレスが何者にも負けないように。
 迷える者達が己の道を選び取れるように。
 強く、祈る。


「どうか無事で。でも、次に会ったら絶対問い詰めてやる。覚悟しなさい、クーちゃん!」


 
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