逆さの砂時計
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クロスツェルの受難 A
国内の各居住地に入る時は『身分証明』か『通行許可証』が必要だった。
どちらも国が個人に対して発行する物で、この国で生まれた者はもちろん他国からの旅行者や商人などは、大抵の場合どちらかを持っている。
発行には出生届と手数料が必須な為、親次第では持てない子供もいるが。
どちらか一つがあれば、国内に限り、どこでも往来できる仕組みだ。
ちなみに、自分は神父時代に得ていた『自由通行許可証』を使っている。
アリア信仰の中でも教師の資格を持つ者にのみ与えられる特殊な手形で、これ一つだけで身分証明と通行許可証の役割を果たしてくれる貴重品だ。
ベゼドラには、自分が預かっていた教会を出てすぐ近くにある街でこれを使い、身寄りがない者や浮浪児に与えられる『特別身分証明』を発行した。
特別身分証明は、国の認許を得られない者の為に用意された救済措置だ。
出生届が確認できない場合でも、後見人が居れば発行できるのだが。
国が個人を保証して発行する身分証明や通行許可証とは違い。
こちらは、国の保証と許可を得た個人が、自己責任で他人に発行する物。
当然ながら証明の効果と権利は限定的で、公的な信用度も格段に落ちる。
状況次第では、後見人が一緒でないと入れない居住地もあるだろう。
特別身分証明だけでは、誰かの後見人になりたくても認定されないし。
本当に運が良い、一握りの子供しか社会に認められない、この現状。
もう少し改正されても良い気はするのだけど。
とはいえ、いずれも一定以上の知識を得られる環境や、伝手や手数料さえ揃えることができれば、孤児であっても取得できないことはない。
しかし、現時点で必要なのは国内の通行許可ではなく。
国の中と外を行き来する為の『渡国許可証』。
この国を出入りする為の許可と、隣国へ出入りする為の許可だ。
国境を跨ぐには二つの国から認許を貰う必要があり、それは一つの国から貰うよりもずっと手間と時間が掛かるし、手数料も難易度も跳ね上がる。
教会を放置してきた自分と、そんな自分が後見人となっているベゼドラの特別身分証明では、この国も隣国も許可は下ろさないと考えるべきだ。
仮に申請が通っても、職務放棄の件で一時拘束される可能性がある。
実際に通行できるのは数ヶ月後、ということになりかねない。
確実に、そして、速やかに許可を貰える方法は……
「このまま跳んできゃ良いだろうが。なんで許可を取る必要があんだよ」
「隣国への入国許可がないと、あちらの居住地に入る許可も得られません。うっかり両国の法律を犯せば取り締まりの対象に認定されて、無駄な手間が増えてしまいます。通貨交換にも支障が出るので、貴方が大好きな卵焼きのサンドイッチも食べられなくなりますよ。もちろん、盗みにはお説教を倍で追加しますからね」
「チッ。人間ってヤツはどうしてそう、住処を分けてくだらん手順や手間を増やしたがるんだ。一ヶ所にまとまって同じ金を使ってりゃ良いだろうが。陸続きで勝手に線引きして陣争いとか、お前らいったい何様のつもりだ? 人間の増長っぷりには、愉快を通り越して呆れを覚えるぞ」
その人間の生活にどっぷり浸かっている悪魔に言われても。
しかも怒りの論点はおそらく『面倒くさいことをしないとサンドイッチが食べられないから面倒くさい』……なのだろう。
最近のベゼドラは、一層分かりやすく我がままな気がする。
「とにかく、この旅を人間に邪魔させない為にも国を渡る許可だけは絶対に取得する必要があります。国内で進展がなければいずれは通る道でしたし、多少の手間は仕方ないです。リースは、もう少し頑張っていられますか?」
羽を背中に下ろして自分の手のひらに座る精霊さんは、軽く頷いた。
「朝露があれば大丈夫。これまでもそれでなんとか保ってきたから。でも、人間の時間で半月くらいが限度だと思う」
精霊と人間とでは時間感覚が違うのかな。
半月、か。余裕は無さそうだ。
「あまり会いたくはないのですが……やはり、そうも言ってられませんか」
今度は何を要求されるのか。
考えるだけでも背筋が凍りつきそうだ。
「リースは私のコートの内ポケットに入ってください。風圧が凄まじいので潰されたり飛ばされたりしないように気を付けて」
「風圧? ……うん、わかった」
右手を左胸に近付けて、リースがコートの内側に入ったことを確認する。
ポケットから顔だけをひょこっと出し、大丈夫と頷いて合図してくれた。
「ベゼドラ。まずは王都の中央教会へ向かいます。教会には私とリースとで行きますので、貴方は念の為、王都内部でアリアに関連する情報が出回っていないかどうかを探ってください」
「王都?」
「中央教会に私の友人が居るんです。各方面に顔が広い方なので渡国申請の協力をお願いしてみようかと」
「ふーん」
大して興味なさそうに、あっち? と、南東の方角を指すベゼドラ。
自分がそうですと答えると、彼は地面を蹴って空高く舞い上がった。
……人目につかないよう、周囲に気を配ってから跳ばないと。
これはこれで、不審者として国軍の方々に追われそうだ。
「行きます」
リースに聞こえる声で宣言してから、地面を蹴って跳び上がる。
ぶわっと襲ってくる風に、髪とコートの裾をバタバタと揺らされながら。
数秒の空中浮遊を経て地面に吸い寄せられ、踵でストンと着地。
足先を倒した勢いで、また雲より少し低いくらいの高さへと跳ぶ。
ベゼドラの背中にしがみついて跳んでいた時とは、感覚が全然違う。
解放感というか、爽快感というか、とにかく気持ちが良い。
これを好きに体感できる悪魔がうらやまし……
「……ふふ。私も相当、壊れてきましたかね?」
最近は誰かをうらやむばかり。
うらやましいだなんて、以前はそんなこと、思ってもいなかったのに。
ロザリアと出会ってからは欲が深くなる一方だ。
神父だった頃の自分が今の自分を見ていたら、きっと、「汚らわしい」の一言に尽きるだろう……なんて、こんな考え方自体が滑稽か。
「過去を思っても、変えられるものではありませんし、ね」
無駄な思考力は、貴女を取り戻す為に使うとしましょう。
差し当たって、
自分の胃を労りつつ、友人の機嫌を取る為には、どうしたらいいのか?
とかかな。
王都は、この国のちょうど真ん中。
中央区北寄りの高い山頂に、純白の石壁が目映い王城を見上げ。
南へ向かうなだらかな下り地形の上に、巨大な都市を抱えている。
王城に合わせてか、市街地の建物はすべて白い石壁。
屋根の瓦も、晴れ渡る空に溶け込む青色で統一。
健康的な歯列を連想させる美しい景観は、他領の民からも他国の民からも手放しで賞賛されているらしい。
この国のアリア信仰の本山である中央教会は、その美しい都のほぼ中心で二本の尖塔を高々と掲げ、白壁に刻まれた精緻な彫刻と無数のガラス窓で、眩しい陽光を弾きながら凛と佇んでいた。
敷地境を示す鉄柵のアーチ部分を潜り抜け。
正面にまっすぐ伸びる石畳を歩いていく。
その幅は、大の大人が横一列で三十人以上並べるほどもある。
両脇には芝生や低木、背高な常緑樹が左右対象に植えられていて。
波打つ木漏れ陽や葉ずれの音が、来訪者達を快く歓迎する。
教会本体に向かって前へと進めば、行く手をさえぎる噴水がお出迎え。
歩き疲れた訪問者の為に、鉄製の長椅子も数台設置されているが。
自分が目指しているのは、それを少し迂回した先。
手すり付きの低い階段を五段上がって見上げる、噴水の高さよりも大きく立派な三つの玄関扉だ。
ここは、信徒が出入りする時間帯だけ全開になっていて。
アリア信徒以外にも自由な見学が許されている。
「……相変わらず、人が多いんですね」
都民が活発に動き出す時間には少し早いくらいなのに。
一歩踏み込んだ教会の内部では、既に礼拝客達が長い列を作っていた。
アリア信仰そのものは、他の宗教団体と比べてもまだ大きいほうだ。
ただ、人は人が多い場所に集まる傾向があるらしい。
地元が寂れる気配を察した若い信徒達は、何故か都へと移住したがり。
中央教会での立身出世を良しとする。
結果、地方教会の担当神父は外れくじの扱いを受け、強制派遣で一定数は保っているものの、その数は年々減少しているらしい。
それは旅を通して直に見てきたから間違いない。
この辺りも、ベゼドラが皮肉に語っていた利己精神に繋がるのだろうか。
入り口正面奥の礼拝堂に向かって並ぶ百人超えの列を避け。
その両脇に構えた二階への階段を、右側から上がっていく。
行列ができるほど人がたくさん集まっても話し声が聞こえてこないのは、それだけ彼らが熱心な信者だからか。
自分も、以前はあの中に居た筈なのに。
ロザリアを知ってしまった今、気分は複雑だ。
階段を上りきった先には、一階の礼拝堂と同じ面積の空間があり。
木製の長椅子が六脚と、丈高の装飾台が四つ、その上に色鮮やかな花々を活けた陶製の花瓶を置いて、見る者の目と心を和ませている。
そこを左目に捉えつつ右へ曲がり。
複数の大きなガラス窓が光を注ぐ直線の廊下を進む。
右手側にいくつもの扉を通り過ぎ、突き当たり正面。
両脇に床置き型の燭台が立つ焦げ茶色の扉を、コンコンと軽く叩く。
「はーい、どうぞー」
おや、珍しい。
すぐに応答するとは。
「失礼します」
「…………え!? うそ! まさか、クロちゃん!?」
扉を開いて、中を確認すると。
バルコニーを背負って机と睨み合っていた金髪藍目の女性が。
華やかな顔をパッと持ち上げて、椅子から勢いよく立ち上がった。
聖職者が口紅を塗るなというのに、この女性は……。
いえ、今はもう、自由で良いと思いますけどね。
「今までどこを歩き回ってたのよ、クロちゃん! 貴方、担当の信徒達から物凄く心配されてたわよ!? 余計な事務仕事を無駄に増やさないで頂戴! 腹立つわね!」
肩を露出し膝上で切り揃えた元長衣の裾を蹴って近寄らないでください。
しかも、また裸足ですか。
貴女、本当に聖職者としての自覚……
ツッコミを入れたって、仕方ないんですけども。
「すみません、プリシラ。多大なる事情があって、断りを入れる余裕すらも一切無かったのです」
この女性に過小表現は禁物だ。
ならば! と、何を言われるか分かったものではない。
「ええ、もちろんそうでしょうね。貴方ほどアリア様に心酔していた神父は他に居なかったもの。それを放り出す事情って何? 事と次第によっては、査問委員会が動くわよ」
「異端審問官ではなく?」
「数年前の会議で東区への赴任を希望しなければ、今ここに座っているのは貴方だったのよ? 気遣いとか、いろいろ察しなさい」
ああ、知らぬ間に借りを作ってしまったのか。
空恐ろしい。
「ありがとうございます、プリシラ。正直にお話します。実は……」
もちろん、バカ正直に全部を打ち明けるわけがない。
そんなことをしたら、真偽以前に冒涜罪確定で、処刑台へまっしぐらだ。
プリシラには、東区の教会で浮浪児の少女を救えなかったこと。
未熟さを恥じて国内巡礼を始めたこと。
アリア信仰に反抗する意思はないことなどを、切々と語った。
ほとんどが作り話でも、あながち嘘とは言えない内容だ。
説得力に欠けるとは思わないが。
「……そういうこと。貴方らしいと言えば貴方らしいけど、それならせめて担当していた信徒達には挨拶くらいしておくべきだったんじゃないかしら。神父としては大失態よ、クロちゃん」
「返す言葉もありません」
プリシラは、「ふむ」と考え込んだ様子で、椅子に座り直した。
自分も扉を閉めて、机の前に立つ。
「良いわ。委員会のほうは私が抑える。で? 貴方がここに来た目的は何? 貴方に預けていた東区の教会へ戻りたいのかしら? それはダメよ。ちょっと前に別の神父を派遣しておいたから」
さすが、仕事だけは早い。
仕事だけは。
「国外への巡礼許可を頂きたいのです。ご協力願えませんか?」
「……ふぅううう~~ん……? この私に、お願いするのね?」
「はい。貴女以外に頼れる人脈が無かったので」
紅色の唇を愉快そうに歪めて、机の上に両腕の肘を置き。
重ねた手の甲の上に顎を乗せ、猫を思わせる無邪気な瞳で私を見る。
悪巧みをしている時の、彼女のクセだ。
うう……。胃が痛い……。
「何が良いかしら?」
「清掃員などはいかがでしょう? あれはあれで、なかなか味が」
「ダメね。全っ然、ダメ。貴方が清掃員? ちっとも魅力を感じないわ!」
「では、ゴンドラの」
「却下」
ああ、どうしても嫌な予感しかしない。
アーレストといい、貴女といい。
どうしてそんなに、私で遊びたがるんですか。
「ん~……。そうねえ…………」
プリシラは、かつてなく妖艶な笑みを浮かべ。
ありえない処刑宣告をしてくれました。
ベゼドラを別行動させておいて、本当に良かった。
リース、貴女は見なかったことにしてくださいね。
お願いします、本当に……。
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