逆さの砂時計
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解かれる結び目 15
闇。
真っ黒な闇。
どこを向いても、顔の角度を変えたのかどうかさえ分からなくなる闇だ。
頭と背中に石床の感触が無ければ、仰向けの自分にも気付けない闇の中。
ピチャ……ピチャ……と、水を掬い舐めるような音がゆっくり反響する。
心臓の動きだけが異常に早くて苦しくて、得体が知れない焦燥感を誘う。
「や……」
肌をなぞる男の手が、湿った呼気が、足元から這い上がってくる感触。
同時に、ねっとりとまとわりつく生温さと寒気を全身に感じる。
逃れたくて仕方ないのに、私は仰向けのまま、指の一本も動かせない。
「いやだ、助け……っ」
熱い吐息が、ぬめった何かが、私の太股から秘部へと滑り込み。
じっくりとそこを堪能した後、下腹部、脇腹、胸部、首筋、顎を辿って。
最後に唇を舐め回し、口内へ押し入って、無抵抗な舌を乱暴に犯した。
どんなに嫌だと思っても、体は私の意思を通してくれず。
容易く持ち上げられ、割り開かれた脚の間に、冷たい熱が伸し掛かる。
涙目に映るのは、何の感情も見えない紫色の二つの光。
「ん……んぅっ ……っい、やあ! 助けて! 助けてアっ…………!」
『アルフリード』
その名前を呼ぼうとして、喉が詰まる。声が、音を失う。
悪魔に貫かれたからじゃない。強引に揺さぶられているからでもない。
もう二度と呼べないと、自分で理解しているからだ。
呼んでも辛くなるだけだと、知っているから。
「……して」
もう、嫌。
これ以上、生きていたくない。
何も見たくない。
何も聞きたくない。
「ころし、て」
アルフ達を殺した仇に刃も届かず、囚われ、犯され続けるくらいなら。
誰か、私を殺して。
殺して!
「殺してぇええええええぇぇぇ────っ!!」
「ほんに、物騒な……。目覚めた直後の第一声がそれかえ、一族の末裔よ。神殿でどういう教育をされておったのだ、お主は」
「…………っ !?」
「まあ……何があったかは一目瞭然故、呆れるわけにもゆかぬがなぁ……。せっかく我が拾うた命。粗末に扱われても不愉快ぞ」
…………誰?
涙で滲んだ視界を、木造の天井から右にずらして。
ベッドの脇から私の顔を覗き込む、神々しい容姿の男性と目が合った。
二十代後半くらいの、凛々しく端整な顔立ち。
陽焼けとは縁が無さそうな、ツヤツヤで滑らかな白い肌。
耳に掛けるのも難しい短さで、さらさらした白金色の髪と……
なに、これ。
虹色の虹彩?
七色を併せ持つ目なんて、聞いたことがない。
「ふむ……異常は無さそうだの。どんな影響があるやらと肝を冷やしたが、これならば問題はあるまい」
「影、響? 問題?」
男性は、簡素な木製の椅子から立ち上がり。
数歩後ろにあるテーブルから蔓籠を抱え上げて、椅子に座り直した。
肩まで布団に埋まっている私にも見えるように傾けられた籠の中身は。
敷き詰められた白い布の上で横たわる、虹色の光を纏った赤子。
……眠っているの?
ぴくりともしないし、声も出してない。
肌の色も異常なまでに白くて、赤みがまったく無い。
それに、背中に付いている小さなあれは、翼?
白い翼を持つ赤子、って……
「お主があまりにも冷静さを欠いておったのでな。少々強引ではあったが、両者の命を第一と考え、お主の体と胎児の時間を進めて、産ませておいた」
「…………は?」
時間を進めて、産ませた?
「さて。お主は、この子をどうするつもりかの? 先ほどから殺してくれ、殺してくれと、物騒なことばかり口走っておるが」
どうするもなにも……
え? なに? どういうこと?
赤子が、なに?
「早う答えよ。今の我では、限定的に止め続けるのも辛いのだ」
「ま、待ってください! 時間を進めたとか産ませたとか、どういう」
「ぬ。説明が必要かの? 死にたがりのくせに、状況整理を要求するとは。それだけ思考が落ち着いてきたということか。なればもう、そちらの干渉は要らぬか? 一応、元には戻すがな。混乱状態には陥ってくれるでないぞ。これでも限界の際故、そこまで付き合い切れる自信は無い」
ふっと、急に頭が軽くなる。
なんだろう?
まだ少しぼんやりするけど、やっと目が覚めたような感じ。
「ほれ。ゆっくり起き上がって、お主自身の体を見てみぃ。産後より数年分進めておいた故、口頭での説明より明確ぞ」
私の、体?
……あ、確かに。
上半身を起こしてみて、分かった。
気を失う前は肩下辺りまでだった髪先が、今は背中全体を覆ってる。
ローブを着てるからはっきりしないけど、胸も微妙に大きくなってる?
長い袖から覗く腕には、陵辱の痕跡も、転けた時の傷も見当たらない。
「我は天神の一族、原始の一柱。
『時間』を司る神、バルハンベルシュティトナバール。
無駄に長ったらしい上に発音しにくい故、『ティー』と呼ぶが良い」
原始?
天神の一族の、原始の……
「…………って、ええ!? 天神の一族の始祖様あ!?」
「うむ。厳密に言えば始祖の次代だがな。一族の始祖は天上の女神と最初の人間であるが故に、我は真の意味で一族最初の巫に相当しておる」
私以外にもまだ巫が生きていたなんて。
それも、『時間』の司……
『時間』?
「もしかして、世界樹の時間を操っていたあの力は、貴方の?」
「ようやく、頭が回ってきたかの? そうだ。世界樹を枯らしてはならぬというのに、神々はいちいち対処が遅くてな。仕方なく、祝福として我が翼をくれてやったのだ。おかげで神としての力はほとんど空よ。表に顔を出せば悪魔共に狙われ、人間共には怪しまれ。まったくもって迷惑な話だ。いや、一人身も存外楽しいが」
そう、か。
世界樹に力を譲渡したから、翼が無くて。
そのせいで、神々が眠る世界にも行けなかったのね。
「つまり、この赤子の時間を止めておくのはかなり辛いと話しておるのだ。早う決めぬと、本当に死ぬぞ? 我が。」
「! あ、あの! その子は本当に、私の子供……なんですよね?」
全然、実感が無い。
だって、お腹の中に居るって気が付いたのは、気を失う少し前。
本当についさっきなのよ?
なのに、目が覚めたら既に産まれていて、目の前に居るなんて。
でも、言われてみれば、お腹の中には何も感じない。
私の力も激減してる。
片翼を失った状態に戻った?
「ああ。正真正銘、お主の腹から生まれ出た、お主の血を継ぐ実の子供だ」
「なら、殺します」
「これでもか?」
赤子を包む虹色の光が、すーっと薄くなって、消える。
柔らかそうな指先に赤みが差して、うにうにと小さく動き。
シワだらけの顔が徐々に赤く染まり、歪んで。
「んん……ふぇ、えぇ……っ、んんぎゃあああっ!」
「────っ!?」
その小さな体のどこに、こんな大きな声を出す力があるのか。
耳をつんざく凄まじい悲鳴に驚いて、自分の体が跳ねた。
「な、なに? なんで、いきなり……!?」
「ふぎゃあああっ! ふぎゃあああっ!」
赤子は泣くものだと、知識としてはある。
でも、これは多分、普通の泣き方じゃない。
聴いていると胸がきつく締めつけられる。体中が酷くざわつく。
なんて切ない声で泣くの、この子……!?
「お主の心の内を察して、泣いておるのだ」
時司の神ティーは、ベッドの端に籠を置いて。
泣き喚く赤子を、そっと抱き上げた。
よしよしと笑顔であやしても、泣き声が収まる気配はない。
「私の、心の、内?」
「赤子は無垢であるが故な、周りと己の感情に鋭敏で、素直だ。この子は、お主の嘆きを映して悲しんでおる。この声は、お主の涙なのだよ」
「…………!」
「ふぎゃああっっ! んぎゃああっ!」
ティーの腕の中で、子供としても整ってない顔を崩すにいいだけ崩して、わんわん泣き喚く赤子。
甲高い声が切なくて苦しくて、耳を塞ぎたくなる。
「可愛いであろう?」
ずいっと寄せられた小さな体に、肩がビクッと竦む。
途端、赤子の悲鳴が更に大きくなった。
「そのように怯えるでない。赤子のほうが傷付いてしまうではないか」
そんなこと、言われても……。
「ほれ、腕を出せ。頭と体をしっかり支えて……そう。優しく撫でてやれ。翼を曲げてしまわぬようにな」
「……っ」
落とさないように、壊さないように。
そっと抱き抱えた小さな体は。
ほんの少し力を入れたらあっさり潰れてしまいそうなほど、頼りない。
頼りないのに、温かい。
熱いとさえ感じる。
直に触れた肌や翼はふよふよで、柔らかくて。
「……ああ? だぁ! あーっ」
!?
笑った?
私に?
「あーあぁっ きゃうあ!」
「ふふ……、やはり、母が良いか。なんとも愛らしい笑顔よ。……のぅ? 可愛いであろう?」
短い両手を必死で伸ばして……笑って……
「………………はい。可愛い、です」
小さな小さな女の子。
悲しい声と無邪気な笑顔で私の心を揺さぶった、新しい女神。
可愛い。
自分から生まれてきたとは、まだ信じられないけれど。
すごく、可愛い。
泣き声で感じたざわつきとは違う。
頬を寄せて抱きしめたくなる、この感覚は、何?
胸の奥から湧き上がって広がる温もりが、涙を溢れさせる。
私を蝕んでいた恐怖を解かす、温かくて優しくて、穏やかなもの……
ああ、そうだ。
これは、アルフを護りたいと強く思ったあの瞬間に、よく……似てる。
「……アルフ……っ!」
「んんー? ……んきゃああっ」
止まらない涙が、赤子の頬に、体に、パタパタと落ちては弾けて散る。
「ほれ。受け取れ、娘」
「え?」
足に掛かっている布団の上へ、ぽすっと投げ込まれたのは
銀色に鋭く光る、抜き身の短剣。
「……────っ!!」
「神々の祝福を継いでおるらしい赤子を殺すのは容易なことではないぞ? 勇者もそうであったろうが、怪我の程度で多少なり回復速度が変わるでな。せめて苦しみを与えたくないなら、まずは心臓を的確に狙え。次に、素早く頭部を潰す。当然、先ほどよりも激しい悲鳴を上げるがな。両手が血塗れになれば耳を塞ぐのも難しかろう。それくらいは甘んじて聴き届けるのだな。あれだけきっぱり殺すと言い放ったのだ。我が子の断末魔の叫びを正面から受け止めるのも、もちろん覚悟の上であろう?」
ティーの言葉で、全身が凍り付く。
見開いた目から、溜まっていた涙が溢れ落ちた。
殺すと決めた。
決めていた。
だって、そうしないと。
『空間』を司る力が、どんな形でレゾネクトに及ぶか、分からない。
それだけは、絶対に避けなきゃいけないから。
それに、声が聞こえた。
この世界に居る筈がないレゾネクトの声が、はっきり聞こえたんだもの。
私やこの子が生きていて、良い結果を出せるとは思えない。
「……っ……」
護る。
この世界を。
私とこの子の命を盾にして、アルフ達が護ったものを。
「だあーあ! あぁーっ」
短剣を、取らなきゃ……。
今、すぐ……
……覚悟を、決め…………
「どうした? ほれ。届かぬのなら、直接持たせてやろう」
伸ばそうとした右手を掴まれ。
無理矢理開かれた手のひらに、冷たい感触が押し当てられる。
刹那。
「いや!!」
ティーの手ごと、それを払い除けてしまった。
回転しながら床に落ちた短剣が、テーブルの足にぶつかって静止する。
「っあ!? あ……あぁ……」
……掴まなきゃ、いけなかった。
護りたいと思うなら、絶対に掴まなきゃいけなかったのに!
「あぁ……あ、あ……っ!!」
「…………」
ティーが私を見る。
目線だけで、問いかけてくる。
死なないのかと。
殺さないのかと。
じっと、問いかけている。
「…………────っっ!」
無理だ。
私には殺せない。
この子を殺すのとアルフを殺すのと、どこに違いがあるっていうの?
世界を護りたいから、その為に都合が悪いから殺す、なんて!
私にはできない!!
「っどうして! どうして産ませたりしたんですか!! 顔さえ見なければ、声さえ聴かなければ気付かずにいられたのに!! この子を護りたいなんて、こんな危険なこと、思わなくて済んだのに!!」
「……ふぇ、え……んぎゃあああああ──っ!」
強く抱きしめた赤子が泣き出した。
また、あの悲痛な叫び。私の涙。
「貴方のせいよ! 貴方が余計なことをしたから、私は……っ!!」
「それで良いのだよ。お主は、悪魔とは違う。奪う者ではなく、護る者だ。生きるのが難しいからと、命を棄てようとするでない。それは、あの勇者の本意ではなかろう?」
「……っ!」
ティーの手が、うつむく私の頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でる。
触れた一瞬、レゾネクトの手と被って怯んでしまったけど。
この手も、温もりも、あの男悪魔とは全然違う。
大きくて優しい気配が、少しだけ気持ちを落ち着けてくれた。
「……貴方は、アルフを知っているのですね」
「遠くから見かけた程度にな。勇者一行の青臭い関係性も透けておったわ」
青臭い……。
「……それでも本気で……、真剣、でした……」
「知っておる。故にお主を拾い介抱したのだ。どこもかしこも傷だらけで、あのまま放置しては、命を懸けた勇者達が報われそうになかったからのう。一つ言い当ててやろうか? 勇者は最期に、こう告げた筈だ」
「『生きて』と」
アルフが貫き通した願い……笑顔。
最期の朗らかな笑みを思い出して、胸が鋭く痛んだ。
「今のお主なら、言葉の意味を正しく理解できるであろう?」
『生きて』
『どんなに難しくて、辛いことだとしても』
『どうか……死なないで』
アルフは、私と同じ。
護りたいと願い、護りたいと願うほどに喪失を恐れていた私と。
同じだった。
「これからのことは、これからじっくり考えれば良い。生きよ、我が子孫。『空間』を司る、最後の女神達」
頭の上から、ふんわりと柔らかく上着を掛けられ。
震える肩を二回、軽く叩かれた。
私の腕の中では、小さな赤子が大きく口を開けて叫んでる。
切ない声で、必死に泣き叫んでる。
「落ち着いたら名前を付けてやれ。お主と、気高い魂達の意志を継ぐ娘に、相応しい名前を」
「は……い……っ」
壊れそうな小さい体と泣き声を抱きしめる。
私が流す涙も、しばらくは止まりそうにない。
……生きよう……。
たとえ、どんなに難しくても。
一緒に生きよう。
私の……『アリア』……。
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