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逆さの砂時計

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責任を放棄した男

 建物の影から女の子の悲鳴が聞こえた。
 まだ十代と思わしき少女特有の高い声は、誰がどう聴いても助けを求める言葉を放っている。
 しかし、視界に入る人間は誰一人少女を助けようとしない。聞こえなかった振りをして、関わるまいと足早に遠ざかる。自らに降り掛かる危険を回避する為、少女の危険を放置する。
 ……人間とはこんなものかと思いつつ建物の裏に回り込んでみれば、見るからに悪者ですと主張する男の体が、線が細い子供に襲い掛かろうとしていた。
 「いや! 離してぇ!!」
 両手首を建物の壁に押し付けられ、金色のおさげ髪を振り回しながら、少女は懸命に泣き叫んでいる。買い物帰りに捕まったのか、足元には藁で編まれたバスケットと食材が散乱し、せっかくの新鮮な果物が一つ、台無しになっていた。
 「……見苦しい」
 「ああ? なんだテメェ」
 男の肩を掴んで軽く引っ張る。男は肩越しに凶悪な目で振り返るが……獲物を前に興奮した獣とはこんなにも醜悪なものなのかと、溜め息が溢れた。
 彼女を抱いていた自分の顔もこうだったのだろうか。あまり想像したくない。
 「……! 助けて!」
 蜘蛛の糸に絡め取られた蝶のような少女が必死にもがいて、自分に助けを求めた。濃さは違うが……緑色の目が潤んでいる様は、消えた彼女を連想させる。
 「その子を離しなさい」
 「うるせぇ! 引っ込んでろ優男!」
 肩に置いた手を払い退け、再び獲物に喰い付こうとする。少女の顔が恐怖で更に強張った。
 「怒鳴りながら称賛するとは、なんと器用な」
 「誉めてねぇよ、バカ」
 目を瞬く自分の頭上から黒い影と滑舌の良い声が降って来て、少女の唇を奪う寸前だった男の横顔を派手に蹴り飛ばした。低空を滑る巨体が積まれていた木箱に激突して、入っていたガラス瓶ごと粉砕する。白い泡を噴き上げた黄金色の液体が、男の周辺に勢いよく溢れた。
 あれは麦酒か。
 農家が原材料を育て、それを職人が加工した愛情詰まる飲み物だと言うのに、勿体無い事をする。
 「あまり損害が出るような行動はしないでください、ベゼドラ。補償金の持ち合わせは無いのですよ」
 「何言ってんだお前は。弁償なんぞする必要無いだろ。……早くどっかへ行け、小娘」
 汚い物を触ったとでも言いたげに、男を蹴り飛ばした足先をぶんぶんと振り回し、手で払った彼は、驚きに固まる少女を睨み付ける。
 ベゼドラの紅く鋭い瞳に威圧された彼女は、弾かれたように悲鳴を上げながら逃げ出した。
 「あ、荷物……」
 男に踏み砕かれた林檎も、パンや葉物野菜も、全部置き放したままで。
 「放っとけ。必要があれば取りに戻る」
 「ですが、彼が居てはまた襲われてしまうのでは」
 「あー、煩いなお前は本当に。喰っておけば良いんだよ、こういうのは」
 止める間も無くベゼドラは、壊れた木箱と割れたガラス瓶のベッドでぐったりと気を失っている男の首に牙を立てる。
 数秒後、彼は灰になって液体と混ざり、泥と化した。
 「うげぇー……不味ぃ……。炎天下に一ヶ月放置した牛の乳の味がする」
 「飲んだ事があるのですか?」
 「あるわけ無ぇだろ。例えだ例え。比喩も知らんのか」
 「比喩とは類似した異なる物事を代理表現する物で、つまりこの場合は知っていなければ例えようがないと思……」
 「お前、マジウザイ」
 「あ」
 苦虫を噛み潰したような顔で、ベゼドラはさっさと表通りに足を運んだ。
 私も、泥になった男に一礼してから、スタスタと歩くベゼドラを追い掛ける。


 ロザリアが姿を消した。
 礼拝堂で目を覚ました自分は、隣で眠る黒髪褐色肌の男をベゼドラだと理解していた。全ての詳細を覚えている訳ではないが、ロザリアにした事やベゼドラと契約した事、ロザリアがアリアだった事は記憶に残っていた。ベゼドラ曰く、彼の意識を通して実感していたのではないか……らしい。
 体の隅々に残るロザリアの感触と、それを心地好いものとして受け入れた自分に一瞬、猛烈な吐き気がした。
 仕えるべき彼女を欲望のままに汚し、閉じ込め、愉悦に浸っていた。
 実際にはベゼドラの行いだが、体は自分の物だし、望んだのは自分も同じだ。
 ずっとロザリアに触れたかった。抱き締めたかった。
 さすがにあそこまでの暴力的淫行は望んでいなかったが。
 しかし、ベゼドラが暴走の限りを尽くしてくれたおかげで、目を覚ました自分は冷静な自覚が持てた。
 ロザリアを愛している、と。
 彼女を踏み躙るベゼドラの遣り方とは違う。彼女には彼女のままで幸福をあげたい。
 逃げるべきではなかった。
 この気持ちは、向かい合って、受け入れて、彼女に告げるべきだったのだ。
 どの道、女神アリアに背く結果になるのなら。
 『一言の弁明も無しに楽になれると思うなよ!』
 脳裏に浮かぶ彼女の怒り。
 その通りだ。自分は彼女に何も告げていない。言い訳も謝罪も好意も……愛情も。
 何も言わないまま死に行くのは卑怯だ。
 彼女を導くと約束した。反古にはしない。
 してはいけない。
 ロザリアにもう一度会う。アリアに戻ってしまった彼女に届くかどうかは分からない。
 それでも、ロザリアに会う為なら……この気持ちを伝える為なら、与えられた総てを投げ棄てたって構わなかった。
 今までと随分変わった自分に薄っすら笑えてくるが、ベゼドラに吸収されかけたおかげで彼の影響を受けた……とでも、思っておこう。


 ざわめきの中に戻れば、これまで辿った道中と同じような、関心と無関心の視線に巻き込まれた。
 ベゼドラは容姿が特殊で背も高く、目立つから仕方がない。
 短くツンとした硬い黒髪に紅い虹彩。スラッと均整が取れた体の線。褐色の肌に詰襟で前面が開いたロングコートを羽織り、ベルトが飾りになっているズボンとロングブーツを履いている。総て黒革製。上半身はコート以外何も着ていないが、不思議と厭らしさは感じない。首に掛けた味気無い銀色のチョーカーが、彼の男らしい魅力を引き立てている。
 対して自分は、至って普通の白いシャツに、固めながら皺が付きにくい布地の白いズボンと白革製のブーツを履き、襟を寝かせたロングコートで全身を覆っている。
 ……コートの形が違うし、白黒でお揃いにしたつもりは無いが、端からはそう見えるかも知れない。
 同じ店で購入しなければ良かったか。
 好奇心や嫌悪感や恐怖心が溢れる数多の視線を潜り、街中を歩き回る。
 この街の建物は、どれも白い石を組んでから平らに削った壁で造られているらしい。
 基礎となっているのは木材のようだが、防虫加工を施された上に白い特殊な塗料で染められているので、パッと見の外観では何処に木材があるのか判別がつかない。匠の技だ。
 壁が白一色だからか、屋根に使用されている瓦は赤だったり青だったりと実に多種多様。家主の意向に添って決めているのだろうか。稀に紫色や桃色の瓦まであって、街全体としての統一感はあまり無い気がする。
 上下水道は民家にも完備され、人が集まる場所には廃棄箱が設置され、清潔感は申し分無い。
 広場には噴水まであり、水に困らない裕福な生活振りが窺える。
 それでも、一歩細道に入れば先程の悪行が見過ごされる影を見付けてしまうのだから、不思議なものだ。
 テントを張った屋台がずらりと並ぶ大通りでは、大声で客を引く店主や、笑いながら駆け回る子供、商品を値切る婦人が活気溢れる日常を演出している。
 微笑ましいと思う反面、これだけの人間が揃っていても、喰い物にされる女の子一人助けられない社会なんだな……と、物悲しい気持ちになった。
 女の子一人を喰い物にした自分が言う事ではないが、これがアリアの願っていた世界なのだろうか?
 遥か昔、救いを求める者に癒しの力で応えたという救世の女神アリア。
 人間のみならず、動物も植物も愛して護った彼女は、この現状を見て何を思うのか。
 「おいこら、クロスツェル。考え事に没頭するのは構わないが、ちゃんと聞き耳は立てろよ。何の為にこの俺が人間に混じってると思ってんだ」
 雑踏を先行くベゼドラが自分に振り返って、不機嫌に睨んだ。
 「……すみません。お手数を掛けます」
 「ふん。アリアを見付けるまでの間だけだ」
 背を向ける彼に苦笑する。
 契約者として自分を喰おうとした彼も、現在ではロザリアを捜す協力者だ。
 アリアを殺す為だと言ってはいるが、ロザリアを想って捜しているのは隠しようがない。半ば強引に付いて来たのは自分だが、彼なりにいろいろ考えた上で同行してくれてると思う。
 私達はアリアと違い、空間移動の力を持ってない。
 自由に飛び回る相手に対してあまり意味が無いとしても、人の噂にアリアの目撃情報が無いか、地道に調べるしかなかった。
 ベゼドラ的には不本意なのだろうけど、彼の悪魔としての力は人捜しに適していないので、其処は潔く諦めてもらう。
 太陽が空の頂点で輝く時間。
 私達は着いたばかりの街で、行き交う人々の声を慎重に拾い上げる。


 私はもう神父ではないけれど。
 貴女に手酷く叱られる為に、貴女を捜しています、ロザリア。
 もしも再会できたら、貴女はきっと開口一番にこう言うのでしょうね。
 この、バカ男!! ……と。


 
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