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逆さの砂時計

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責任を放棄した男

 建物の影から女の子の悲鳴が聞こえた。
 十代と思しき少女特有の高い声は、誰がどう聞いても助けを求めている。

 しかし、視界に入る人間は誰一人、悲鳴の主を助けようとはしない。
 聞こえなかったフリをして、関わるまいと足早に遠ざかっていく。
 自らに降り掛かる危険を回避する為、女の子の危険を放置する。

 人間とは、こんなものなのか。
 ほんの少しの寂しさを感じつつ、自嘲しながら建物の裏へ回り込む。
 そこに居たのは、見るからに悪者ですと主張している顔つきの男。
 そして、悲鳴の主であろう、見るからに非力な女の子だった。
 男は、無駄にがっしりした身体で、女の子を捕食しようとしていた。

「いや! 離してぇ!!」

 赤いワンピースに白いエプロン、白いストッキングに赤い靴。
 いかにもしっかり者な町娘といった装いの女の子。
 彼女は、両の手首を壁に押し付けられながらも抵抗をやめることはなく。
 金色のおさげ髪を振り回し、懸命に泣き叫んでいる。
 買い物からの帰り道で捕まったのだろうか。
 周辺には(わら)編みのバスケットや結構な数の食材が散乱している。
 その中で一つ、新鮮な果物が踏み潰されて、台無しになっていた。

「見苦しい」
「ああん? なんだ、テメェ」

 男の肩を軽く掴み、引っ張る。
 男は肩越しに凶悪な目で振り返るが。
 その顔を見て、思わずため息を溢してしまった。
 獲物を前に興奮した獣とは、こんなにも醜悪なものなのか。
 一時的とはいえ自分もこんな顔をしていたのかと思うと、胸が悪くなる。

「……! 助けて……!」

 女の子にとっては、一方的な色欲も殺意も同じ、恐怖でしかない害意だ。
 本当の恐怖に直面した時、人間の体は硬直して声が出にくくなる。
 抵抗したら殴られるかもしれない。
 逃げようとしたら殺されるかもしれない。
 こんな場面で「やめて」「助けて」と叫ぶのにどれほどの勇気が必要か。

 けれど女の子は、勇敢にも抵抗している。
 必死な表情に涙を浮かべて、か細い声ながらも自分に助けを求めた。
 自分の記憶に残っている、あの夜の彼女みたいに。
 濃さは違うが、緑色の虹彩が潤んでいる様は、消えた彼女を連想させる。

「その子を離しなさい」
「うるせぇ! 引っ込んでろ優男!」

 肩に置いた手を払い除け、再び獲物に喰いつこうとする男。
 女の子の全身が、恐怖で更に強ばった。

「怒鳴りながら称賛するとは、なんと器用な」
「誉めてねぇよ、バカ」

 そう答えたのは、目の前の男ではなく。

「ったく。面倒くせえことに首突っ込んでんじゃねえぞ、お節介野郎が!」

 パチパチと目を瞬く自分の頭上から、黒い影と滑舌良い声が降ってきて、女の子の衣服を引き裂く寸前だった男の横顔を派手に蹴り飛ばした。
 岩石のような巨体が、勢いに乗って地面すれすれを滑空。
 建物一戸分は離れた場所で、整然と積まれていた木箱に激突し。
 箱の中に詰まっていたガラス瓶ごと粉砕する。
 白い泡を噴き上げた黄金色の液体が、男の周辺に勢いよく溢れ出した。

 あれは麦酒、だろうか?
 原材料を育んだ農家と加工した職人達の愛情詰まる飲み物だというのに。
 勿体ないことをする。

「損害が出るような行動はできるだけ慎んでください、ベゼドラ。補償金に回せるほどの持ち合わせはないのですよ」
「何を寝惚けたこと言ってんだお前は。弁償してやる必要なんぞないだろ。いつまでボサッとしてんだ、小娘。とっとと失せろ」

 汚い物を触ったとでも言いたげに足先をぶんぶんと振り回し、服に付いた何かを手で払った彼が、驚きのあまり固まっていた女の子を睨みつける。
 ベゼドラの紅くて鋭い眼光に威圧されたらしい彼女は、弾かれたように、悲鳴を上げながら逃げ出した。

「あ、荷物……」

 男に踏み砕かれたリンゴも、パンや葉物野菜も、すべて放置したままで。

「放っとけ。必要があれば取りに戻る」
「ですが、あの男性がここに居ては、また襲われてしまうのでは」
「ああ――っ……たく! マジでぅるっせえな、お前! こういうのは全部喰っときゃ良いんだよ、喰っときゃ!」
「! ベゼドラ、ちょっ」

 ちょっと待ちなさいと、自分が引き止める間もなく。
 気絶していた男に大股で歩み寄り、その首に牙を立てるベゼドラ。
 数秒後、男は白い灰になって麦酒と混ざり、薄汚れた金色の泥と化す。

「まっずい! 炎天下に一ヶ月以上放置した牛の乳の味がする」
「……飲んだことがあるのですか? それ」
「あるわけねぇだろ。喩えだ喩え。比喩も知らんのか」
「比喩とは、ある物事を分かりやすく認識する為に、それとよく似た物事で代理表現する物で、この場合は味を知っていなければ喩えようがないと思」
「お前、マジでウザい」
「あ」

 苦虫を噛み潰したような顔で、ベゼドラはさっさと表通りへ足を運んだ。
 自分も、泥となった男に一礼を残して、真っ黒な背中を追いかける。



 ロザリアが姿を消した。

 夜明け前の礼拝堂には、自分と見知らぬ男が並んで横たわっていて。
 目を覚ました自分は、やけに古い時代を感じさせる衣服を纏うその男が、自分の頭の中に語りかけていた悪魔ベゼドラだと理解していた。
 意識が途絶えてからのすべてを、事細かに覚えているわけではないが。
 自分がベゼドラと契約したことや、ロザリアにしてしまったこと。
 ロザリアが本物の女神アリアだった事実は、鮮明に記憶していた。

 ベゼドラ(いわ)く。
 (ベゼドラ)に喰われかけたことで自分の魂と彼の精神体が繋がった状態となり、彼の意識から情報と実感を得ていたのではないか、らしい。
 だからこそ、彼にも自分の感情が声として聴こえていたのだろうと。

 礼拝堂で自分と話すベゼドラは、物凄く迷惑そうな渋面になっていた。
 自覚は無いが、体を乗っ取られている間、自分は相当騒いでいたようだ。

 当然だ。
 自覚があっても、自分は全力で大騒ぎしていただろう。
 目覚めた時、自分の体の隅々に残っていた、ロザリアの熱や感触。
 それを心地好いものとして受け入れた自分に、一瞬猛烈な吐き気がした。
 仕えるべき彼女を欲望のままに閉じ込め、汚し、愉悦に浸るなど。
 そんな状況を、神父である自分が黙って見過ごせる筈がない。
 確かに、ロザリアに触れたい、抱きしめたい気持ちはあったけれど。
 あんなにも酷い淫行(ぼうりょく)など、自分は望んでなかった。

 しかし。
 ベゼドラが暴虐の限りを尽くしてくれたおかげで、自分は冷静になれた。
 自分の正直な気持ちを、素直に認めることができた。

 彼女を愛している、と。

 彼女の心や尊厳を踏みにじるベゼドラのやり方とは違う。
 彼女には、彼女のままで幸福をあげたい。
 彼女が心から笑っていられる時間を、傍で見守りたい。分かち合いたい。

 逃げるべきではなかった。
 この気持ちは、この想いは。
 ロザリアと、そして自分自身と向かい合って、受け入れて。
 自分の口から、彼女に直接告げるべきだったのだ。
 どの道、女神アリアに背く結果になるのなら。

 今も耳奥で鮮明に響いている、怒りが籠ったロザリアの声。

『一言の弁明もなく楽になれると思うなよ!!』

 その通りだ。
 自分は、彼女に何も告げていない。
 言い訳も謝罪も好意も、愛情も。

 あれだけのことをしておいて、何も言わないまま死に行くのは卑怯だ。
 ロザリアを導くと約束した。
 決して、反古にはしない。してはいけない。

 もう一度、彼女に会う。

 アリアへと戻ってしまった彼女に届くかどうかは判らない。
 それでも、もう一度彼女に会う為なら。
 この気持ちを彼女に伝える為なら。
 これまで与えられてきたすべてを投げ棄てたって、全然構わなかった。

 今までとずいぶん変わった自分に、うっすら笑えてくるが。
 一旦ベゼドラに吸収されかけたおかげで、彼の性格から影響を受けた……
 とでも、思っておこう。



 ざわめきの中へ戻れば、教会を出てから今日になるまで辿ってきた道中と同じような、関心と無関心が入り交じる視線の渦に巻き込まれた。
 渦の中心に居るのは、ベゼドラだ。
 彼は容姿が少々特殊で背も高く、無駄に目立つから仕方がない。

 短くツンとした硬い黒髪と、ビロードのような深みがある紅色の吊り目。
 重厚な印象を与えながらも、余計な質感は一切付いていない体の線。
 褐色の肌を曝すように前面を開いたロングコートを羽織り。
 飾りベルトが特徴的な黒革製のズボンとロングブーツを履いている。
 防寒や防具という意味では薄いシャツの代わりにもならないだろう銀縁の黒いチョーカーが、却って彼の男らしさを引き立てていた。
 腹に響く艶声は、一言発するたびにすれ違う人を振り返らせている。

 対する自分は、ごく普通の白いシャツに生成色のベストを合わせ。
 硬めながらもシワが付きにくい白いズボンと、白革製のブーツを履き。
 襟を寝かせたロングコートで、脛の辺りまでを覆い隠している。
 布地の違いでややすっきりした見た目にはなるが、シルエットから受ける印象では、アリア信仰の神父が着用する長衣と大差ない。

 コートの形が違うし、白と黒でお揃いにしたつもりはないのだけど。
 端からはそう見えるかも知れない。
 同じ店で購入しなければ良かったか。

 お揃いに見える格好で並び歩く男性二人組への好奇心や嫌悪感や、無言で周囲を威圧している男への恐怖心などが溢れた数多の目線を潜り抜けつつ、密かに聞き耳を立てながら街中を歩き回る。

 この街の建物はどれも、白石を組み上げた後で平らに削っているらしい。
 基礎となっているのは木材のようだが、防虫加工を施した上に白い特殊な塗料で全面を染めているので、パッと見の外観では、どこに木材があるのか判別がつかない。匠の技だ。

 家主の意向に添って決めているのだろうか?
 外壁が白一色で味気ない代わりに、屋根瓦の色は建物ごとに赤色だったり青色だったりと、原色に加えて混合色から濃淡の違いまで、実に多種多様。
 稀には、極彩色に囲まれたせいで一軒だけ落ち込んだ雰囲気になっている黒紫色の瓦や、警戒色のつもりなのかと疑ってしまいそうな刺々しい蛍光の桃色が目に痛い瓦まであって、街全体としての統一感は無い気がする。
 一軒だけですべての色が揃っていそうな賑やかな屋根瓦を見ると、職人も瓦の調達係もなかなか大変そうなお仕事だと、感嘆の息が溢れてしまう。

 上下水道は民家にも完備。
 人が集まる場所には相応数の廃棄箱が設置され、清潔感は申し分ない。
 広場には噴水まであり、水に困らない裕福な生活ぶりが窺える。
 屋台や露店がずらりと立ち並ぶ大通りでは。
 大きな声で客を引く店主や、笑いながら駆け回る子供達。
 商品を値切るご婦人方が、活気溢れる日常を演出している。

 和やかな街並みを微笑ましく思う反面。
 これだけ多くの人間が集まっていても、路地裏で喰い物にされかけている女の子一人助けられない社会なんだなと、物悲しい気持ちが深まった。
 女の子一人を喰い物にした自分が言えた義理ではないけれど。
 これが、アリアが願っていた世界の形なのだろうか?

 遥か昔、救いを求める者に癒しの力で応えたという、救世の女神アリア。
 人間のみならず、命あるものすべてを愛して護った彼女は。
 この世界の現状を見て、何を思うのか。

「おいこら、クロスツェル。考えごとに没頭するのは構わないが、ちゃんと聞き耳は立てとけよ。何の為に、この俺が人間に交じってると思ってんだ」

 雑踏を先行くベゼドラが自分へと振り返り、不機嫌そうな顔で睨んだ。

「……すみません。お手数をかけます」
「ふん! アリアを見つけるまでの間だけだ」

 背を向ける彼に苦笑する。

 契約者として自分を喰いかけた彼も、現在ではアリアを捜す協力者だ。
 口ではアリアを殺す為だ、などと言っているが。
 ロザリアを想って捜しているのは明らかで、隠しようがない。
 半ば強引に付いて来たのは自分のほうだが、彼なりにいろいろ考えた上で同行してくれているのだと思う。

 アリアと違い、私達には思うがまま空間を瞬時に移動できる力などない。
 世界中を際限なく飛び回る相手に対してあまり意味がないとしても。
 人の噂にアリアの目撃情報があるかどうか、地道に調べるしかなかった。
 ベゼドラ的には不本意なやり方だろうが、彼の悪魔としての力は人捜しに適していないので、そこは潔く諦めてもらう。

 太陽が空の頂点で輝く時間。
 私達は着いたばかりの街で、行き交う人々の声を慎重に拾い上げる。



 私はもう、アリア信仰の神父ではないけれど。
 貴女に手酷く叱られる為に、貴女を捜しています、ロザリア。
 もしも再会できたら、貴女はきっと、開口一番にこう言うのでしょうね。

 この、バカ男!! と。

 
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