逆さの砂時計
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
不透明な光 2
見知った相手なのに、知らない人だと感じるのは何故だろう。
グリークの、喜びを隠そうともしない、上品に歪んだ綺麗な顔が迫り。
レネージュの視界から光を奪い取る。
重ねられた唇から、冷たくおぞましい何かが入り込んでくる気がして。
レネージュは咄嗟にグリークの体を突き飛ばしてしまった。
彼が油断していたのか、レネージュの瞬発力が勝ったのか。
あっさり絨毯に転がったグリークの隙を衝いて、その脇をすり抜け。
黒い人が立っていた窓枠に駆け寄り、背中を預ける。
「酷いことをする。神の前で愛を誓い合った夫婦だというのに」
クスクスと笑う今のグリークの目は、暗く濁った泥沼の底を連想させる。
目の色自体は、変わっていない筈なのに。
「違う……やっぱり違う! あんたはグリークじゃない! あんたは誰!?」
「グリークだよ。グリークで良いんだ。お前を……レネージュを絶望の底に突き堕とせるなら。永遠に苦しめられるなら。彼女を生かせるなら!」
「……!?」
立ち上がったグリークが、レネージュに襲いかかる。
逃げようとした彼女の左腕を掴み、力任せでベッドの上へ放り込んだ。
「っ、やだ!」
横向きで倒れた彼女に覆い被さってたくし上げたドレスの裾を引き裂き。
健康的に陽焼けした素足を暴く。
手足をばたつかせ、這ってでも逃げようとするレネージュの体を仰向けでシーツに押し付け、ドレスの胸元も乱暴に破り捨てた。
「いやぁああ!!」
胸を護る真っ白な下着も取り払い。
それで彼女の両手首を縛って、彼女の頭の上に持ち上げる。
左手で動きを封じて見下ろせば、レネージュの目尻から涙が零れ落ちた。
グリークは恍惚とした表情で彼女の頬に舌を這わせながら、右手を腰から腹へ、胸へと滑らせ、首元でピタリと止まる。
「なんだ、これは…… つっ!?」
それに触れた瞬間、グリークの体に静電気が走った。
いや。
静電気なんて、そんな優しいものではない。
上半身を跳ね起こしたグリークの指先が火傷を負い、煙を立てている。
「これは……」
驚きに固まるグリークを見たレネージュは、今のうちにと手首を縛られた状態のまま勢いよく起き上がり、ベッドから飛び降りようとした。
しかし。
グリークの左腕に捕らわれ、またしてもシーツに縫い付けられてしまう。
頭の上で固定された手のひらに、彼の左手の爪がギリギリと食い込んだ。
「痛、ぅっ」
「外せ」
「なに、をっ」
「この忌まわしい首飾りを外せ! 邪魔だ!」
美しい光沢を放つ、五枚の貝殻。
可愛い双子の兄妹が腕や体を傷だらけにしてまで探し集めた贈り物。
双子の母親が丁寧に加工してくれた、世界に二つと無いペンダント。
レネージュの幸せを祈ってくれた、大切な宝物だ。
レネージュは首を横に振った。
「いや……っ これだけは……嫌!」
状況はよく分からないが、グリークはこのペンダントを嫌がっている。
ペンダントが、レネージュを護ってくれている。
不思議とそう感じた。
「チッ 小娘が……!」
「……っ!!」
苛立った様子のグリークが、煙を上げ続ける右手でペンダントを鷲掴み、強引に引き千切った。
レネージュの首筋に赤い線が滲む。
双子の気持ちを。
彼らの母親の思いを。
グリークは、ゴミを棄てるようにベッドの外へ放り投げる。
その直後、バキッ! と、貝殻が割れる音がした。
「……っなにを……、なにをするのよ、グリーク! 大切な物なのに!!」
額から汗を垂らしつつ、苦悶の表情で自身の右手を見ていたグリークは。
レネージュの怒りを受けて、心から嬉しそうに、にっこりと微笑んだ。
「お前が苦しむ様は本当に心洗われるな、レネージュ。もっともっと苦痛に嘆いて、俺を癒してくれよ」
「い……っ! あっ!?」
赤く焼けただれた右手が、レネージュの無垢を護るショーツを引き裂き。
無理矢理持ち上げた左脚を自身の右肩に掛け。
大きく開かせた股の間に自らの腰を押し付けた。
弛んだローブの隙間から、熱くて硬いものが、秘部に直接触れている。
レネージュの全身が恐怖で震え、硬直した。
「や、やだ……」
歯をカチカチ鳴らして怯える彼女の目元に、触れるだけの口付けをして。
グリークは腰を進めた。
「永遠の闇に、堕ちろ」
「いやあ……っ つ!!」
濡れてない。解されてすらいない。
一度も異物を挿れた経験がない、その場所に。
グリークが強引に突き刺さる。
裂かれた激痛と容赦ない圧迫感で、喉を引き攣らせ。
真っ黒に染まった思考の中で、レネージュは黒い人の言葉を思い出した。
『うっかり殺されても俺を恨むなよ』
今になって実感するのは遅いのだろう。
こんなのは、夫婦の営みでもなんでもない。
明らかに性暴力でありながら、それとも何かが違う。
押し付けられているのに、吸い上げられているような錯覚がする。
稲妻のような緊張感と同時に、倦怠感が全身を駆け巡る。
レネージュは、グリークを名乗るこの男に、『喰われている』。
『喰われて』、そして、殺される。
何故。
何故、こんなことになったのか。
どうして殺されなきゃいけないのか。
理解を超えた恐怖と尽きない疑問が、レネージュを支配していく。
「レネージュ……ッ」
グリークの苦しげな声が聞こえた。
乱暴すぎる動きで、ベッドが絶えず軋んでいる。
それ以上に、体の内側からギチギチミシミシと壊されていく音がする。
「……た……す、け……て……」
絶叫と悲鳴と嗚咽と呻き声の間に紡いだ言葉は。
ただただ獲物を味わうだけの獣には、通じなかった。
「うん、そうだよ!」
夜の波打ち際で、黒髪の少年は嬉しそうに笑って答えた。
月と星の瞬きがゆらゆらと水面に揺れて、少年の肌に影を映している。
「すごくきれいなお姉ちゃん。しあわせになれるかな? なれると良いな」
少年はおそらく、結婚の意味もまだ理解してはいない。
それでも、本心から純粋に、少女の幸福を願っている。
少年も、少年に慕われている少女も、心根が優しい、良い子達だ。
できるなら無傷で助けてあげたいと思うが、それは難しいだろう。
自分達が人間として介入したら、村を救う手立てが失われてしまう。
他所者の自分達には、村の経済を立て直せるだけの知識も財力も無いし。
少女は、今の彼がどういう状態なのかを知らない。
知る術も、仮に知ったところで、抵抗できる術も無いのだから。
表立ってはどうにもしてあげられないし、今すぐにできることもない。
「ええ。貴方もまた彼女の幸せの一翼。どこでどんな風に存在していても、彼女の幸福をお祈りして差し上げましょう」
難しい言葉だったかな。
少年は、キョトンとした顔で自分を見上げて首を傾げ。
にこっと笑ってから、家族の元へと走っていった。
村人達も、何が起きているのか知らずに祝宴を開いている。
新郎新婦の幸せを願い、明日からの準備に心を踊らせて。
心からの笑顔を交わしている。
自分も、何も知らなければ、素直におめでとうと言っていたのだろうか。
末永くお幸せにと。
良い仕事をしなさいと。
女神アリアの名を掲げて。
知ることと、知らないこと。
知っていることと、知らなかったこと。
それが、見える世界をこれほどまでに変えてしまうとは。
教会に居るだけでは、気付けなかったに違いない。
「……少女レネージュに、幸福が訪れますように……」
賑やかな暗闇の中。
いたずらに砂を転がす波の音が、足元で無感情に反復していた。
朝が来た。
レネージュの目に、眩しい太陽の光が映る。
映るだけ。見てはいない。
一晩中、泣いても叫んでも、グリークはレネージュから離れなかった。
出血が止まらなくても関係なく貫いて、掻き回して、何度も中に出した。
指先すらも動かなくなるまで延々と続いたそれは。
今、この瞬間にも、彼女の心を壊しかけている。
「いつまで寝ているつもりだ、レネージュ」
一度は部屋を出ていたグリークが、愉しそうに目を細めてベッドに座り。
様々な体液で汚れたシーツに仰向けで沈んでいる裸体を見下ろした。
四肢を伸ばしきっている彼女にはもう、怯えるだけの余力も無い。
くり返す浅い呼吸は薄い腹すらまともに動かせず、見た目はほぼ人形だ。
ボロボロになるまで乱暴に扱われて、無惨に打ち捨てられた人形。
「安心しろ。いきなり全部を喰らうつもりはないさ。回復させて、喰って、また回復させて。彼女が苦しんできた時間よりも長く、ゆっくりゆっくり、じわじわと苦しめてやる」
ベッドに乗り上げてレネージュの頬を両手で覆い、唇に軽く口付ける。
すると突然、寝室の扉が大きな音を立てて乱暴に開かれた。
「!?」
体を起こしたグリークの目に、ネグリジェ姿の少女が飛び込む。
剣呑な目つきの少女は、手に持った包丁を腹の辺りで構え、叫んだ。
「死になさい! 我が一族の名を貶めた、邪悪なる亡霊よ!!」
「クーリア……!?」
凄まじい勢いでグリークに駆け寄り、その心臓めがけて刃を突き出す。
驚きで固まったグリークはその一撃をまともに食らい、仰向けで倒れた。
ベッドに弾かれたグリークの腕が、レネージュの胸を強かに打ちつける。
「……っ、クー、リア……、なぜ……」
「お黙りなさい、兄の姿をした悪魔! よくも兄を……っ! 私達の家族を汚してくれましたわね! 父様と母様まで殺して!」
グリークと同じ銀色の髪を振り乱し、少女は大声で叫ぶ。
雪原に射す影を思わせる色の目には、大粒の涙。
ネグリジェから覗く白い肌には、無数の鬱血跡があった。
「お、れは……お前を、愛 して」
「まだそのような戯言を! 私から大切なものをすべて奪い取った貴方が、私の何を愛していると言うのです!? 私は貴方の所有物ではありません! 関係ないレネージュ様にまで、こんな非道な仕打ちをしておいて……っ! ふざけるのも大概にしなさい!!」
「クー、リ ア…… っがぁ!!」
クーリアと呼ばれた少女がベッドに飛び乗り、少女の物とは思えない力でグリークの心臓に立てた刃を引き抜いて、再び振り下ろす。
飛び散る赤い雫がレネージュの頬にも貼り付き、下向きの線を引いた。
「……クー、リ、アあ、あぁ……!!」
グリークが、少女に手を伸ばして絶叫。
涙が浮かぶ目を見開いたまま。
少女の名前の形で唇を開いたまま。
少女に伸ばした手を上げたまま、息絶える。
「はぁっ……、はぁ……。レネージュさま……レネージュ様!」
クーリアと呼ばれた少女は、肩で呼吸を整えて。
事切れた兄には構わず、その横に居るレネージュの頬を軽く叩いた。
「お目覚めになってください、レネージュ様! どうか!」
目を開いたまま正気を失っているレネージュの頭を抱え上げて。
乱れた髪を、赤く穢れた頬を、一所懸命にさする。
しばらくして、レネージュの指先がピクリと動いた。
クーリアの今にも泣きだしそうな表情が、パァッと明るくなる。
「ァ……あ……」
「レネージュ様! お分かりになりますか!? 私です、クーリアですわ!」
「…………くー……リ、あ……?」
「はい! 村で一緒に遊んでいたクーリアです。覚えておられますか?」
「……クー……リア……。……クーリア……? 生きて、た……の……?」
レネージュの瞳に意思の光が戻る。
クーリアは本当に嬉しそうな笑顔で、力強く頷いた。
「どう、して? クーリアはもう、何年も前に死んだって……っひぃ!?」
隣で息絶えているグリークに気付き。
恐怖と驚きで息を飲んだレネージュが、クーリアの体にしがみつく。
クーリアは震えるレネージュを優しく抱きしめ、肩をさすった。
「あれはもう、グリークではありません。兄は一年前の嵐の夜、悪魔に命を奪われて亡くなっていたのです。兄は、グリークは数年前から悪魔と契約を交わしていたのですわ。私を……生かし続ける為に……」
「一年前……死んでた? 悪魔? 何を言ってるの?」
純潔を乱暴に散らされ、目を覚ました瞬間に相手は死んでいて。
ずっと前に死んだと思っていた少女が生きていて。
レネージュの頭は状況についていけず、混乱を極めた。
クーリアは苦笑いを浮かべ、レネージュの体をそっと解放する。
「すべては私達兄妹の体の弱さと、兄の邪なる願いが招いた事態なのです。レネージュ様は不当に巻き込まれただけ」
まだ震えているレネージュの両手を取り、悲しげに眉を下げた。
「順を追って説明いたします。ですが、まずはこの部屋を出ましょう。私もレネージュ様も、このような姿では落ち着けません」
「……うん」
クーリアに手を引かれ、よろめきながらベッドを降りる。
立って歩けるのが不思議なくらいの激痛と目眩と怠さに襲われるが。
ふとグリークに投げ捨てられたペンダントを思い出して、クーリアの肩を借りながらベッドの反対側に回り込んだ。
そこに転がっていた貝殻と、千切れた鎖を拾い上げ。
レネージュは沈痛な面持ちで、それらを胸に抱いた。
五枚のうち、丁度真ん中にあった貝殻が、真っ二つに割れている。
薄い緑色が綺麗な貝殻は、心なしか光沢まで失われていた。
ページ上へ戻る