逆さの砂時計
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不透明な光 2
見知った相手なのに、知らない人だと思うのは何故だろう。
喜びを隠そうともしない上品に歪んだ綺麗な顔が、レネージュの視界から世界を奪い取る。重なった唇から冷たくおぞましい何かが入り込んで来る気がして、レネージュは咄嗟にグリークの体を突き飛ばしてしまった。
彼が油断していたのか、彼女の瞬発力が勝ったのか。
絨毯に転がったグリークの隙を衝き、黒い人が居た窓枠の近くへ逃げる。
「……酷い事をする。神の前で愛を誓い合った夫婦だというのに」
クスクスと笑う今のグリークの瞳は、暗く濁った泥沼の底を連想させる。色自体は変わっていない筈なのに。
「……違う……。やっぱり違う! あんたはグリークじゃない! あんたは誰!?」
「誰でも良いんだよ。お前を地の底に突き堕とせるなら。永遠に苦しめられるなら!」
立ち上がったグリークがレネージュに襲い掛かる。逃げようとした彼女の左腕を掴むと、力任せに振り回してベッドに放り込んだ。
「っ……やだ!」
横向きに倒れた彼女のドレスの裾を引き裂き、健康的に日焼けした素足を暴く。
手足をばたつかせ、這ってでも逃げようとするレネージュの体を仰向けでシーツに押し付け、ドレスの胸元も乱暴に破り捨てた。
「いやぁああ!!」
胸を護る真っ白な下着も取り払って、それで両手首を縛り、彼女の頭の上に持ち上げる。左手で動きを封じて見下ろせば、レネージュの目尻から涙が零れ落ちた。グリークは恍惚とした表情で彼女の唇に吸い付き、右手を腰から腹へ胸へと滑らせ……首元でピタリと止まる。
「なんだ、これは ……っ!?」
貝殻が付いたネックレスに触れた瞬間、グリークの体に静電気が走った。
いや、そんな優しい物ではない。
上半身を跳ね起こしたグリークの右手指先が、火傷を負って煙を立てている。
「……これは……」
驚きに固まるグリークを見たレネージュは、今の隙にと手首を縛られたまま起き上がり、ベッドから飛び降りようとした。
しかし、グリークの左腕にあっさりと捕らわれ、またしてもベッドに縫い付けられてしまう。
頭の上で固定された手のひらに、彼の左手の爪がギリギリと食い込む。
「外せ」
「痛っ…… なに、をっ」
「この忌まわしい首飾りを外せ! 邪魔だ!」
磨かれて、美しい光沢を放つ五枚の貝殻。
可愛い双子が小さな手に傷を作ってまで探し集めて、加工が間に合った五枚だけを細い鎖に繋いだ、世界に二つと無い物。幸せを祈ってくれた宝物だ。
レネージュは首を振った。
「っ これだけは……嫌!」
状況はよく分からないが、グリークはこのネックレスを嫌がっている。
ネックレスがレネージュを護ってくれてる。
不思議とそう感じた。
「チッ 小娘が……!」
「……っ!!」
苛立った様子のグリークは、火傷するにも拘らず右手でネックレスを鷲掴み、肉が焼ける音を立てながら強引に鎖を引き千切った。
レネージュの首筋に赤い線が滲む。
双子の気持ちを。彼らの母親が作ってくれた贈り物を。グリークはゴミを棄てるようにベッドの外へ放り投げる。
直後、バキ! と、貝殻が割れる音がした。
「……っなにを……なにをするのよ、グリーク! 大切な物なのに!!」
額から汗を垂らしつつ苦悶の表情で右手を見ていた彼は、レネージュの怒りを受けて……にっこりと微笑んだ。
「お前が苦しむ様は、本当に心洗われるな、レネージュ。もっともっと苦痛に嘆いて、俺を癒してくれよ」
「いっ! あっ……!?」
火傷した右手がレネージュの最後の砦を無理矢理引き裂き、左膝を持ち上げて足先を自らの肩に掛け、大きく開いた股の間に腰を寄せた。弛んだローブの隙間から熱く硬いものが直接触れている。
レネージュの全身が恐怖で強張った。
「や、やだ……」
歯をカチカチと鳴らして怯える彼女の頬に、触れるだけの口付けを落として……
「堕ちろ」
「いやああッッ……!!」
濡れてない。解されてすらいない。一度も異物を挿れた経験が無い場所に、グリークが乱暴に突き刺さる。
裂かれた激痛と容赦無い圧迫感で喉を引き攣らせたレネージュは、真っ黒に染まった視界で黒い人の言葉を思い出した。
『うっかり殺されても恨むなよ』
今になって実感するのは遅いのだろう。レネージュはこの男に殺される。
何故? 何故、こんな事になるの?
どうして殺されなきゃいけないの?
「レネージュ……ッ」
遠くでグリークの苦しげな声が聞こえた。
それ以上に、体の内側がギチギチミシミシと軋んで壊されていく音がする。
「……た……すけ、て……」
絶叫と悲鳴と嗚咽と呻き声の間に紡いだ言葉は、ただただ獲物を味わうだけの獣に通じはしなかった。
「うん、そうだよ!」
夜の海辺で、黒髪の少年は嬉しそうに笑って答えた。
「すごくきれいなお姉ちゃん。しあわせになれるかなぁ? なれると良いなぁ」
恐らく結婚の意味もまだ理解していないだろうに、少年は純粋に少女の幸福を願っている。
少年も、少年に慕われている少女も、とても良い子だ。
できる事なら無傷で助けてあげたいと思うが、それは難しいだろう。
彼女は彼がどういう状態なのか、知らないのだから。
「貴方も彼女の幸せの一翼。何処にどう存在していても、彼女の幸福をお祈りしてあげましょう」
難しい言葉だったかな。少年は首を傾げ……にこっと笑って家族の元へ駆けて行った。
海の村人達は、何も知らずに祝宴を開いている。明日からの準備に心を踊らせて。
何も知らなければ、自分も素直におめでとうと言っていたのだろうか。良い仕事をしなさいと、女神アリアの名を掲げて。
知る事と知らない事。それがこれほどまでに見える世界を変えてしまうとは……教会に居るだけでは気付かなかったに違いない。
「……少女レネージュに幸福が訪れますように……」
暗闇の中、波音が足元で反復した。
朝が来た。レネージュの瞳に眩しい太陽の光が映る。
映るだけ。見てはいない。
一晩中、泣いても叫んでも、グリークはレネージュから離れなかった。
出血が止まらなくても関係無しに貫いて、掻き回して、何度も中に出した。
人形のように指先すらも動かなくなるまで続いたそれは、レネージュの意思を壊しかけている。
「……レネージュ。いつまで寝てるつもりだ?」
一度は部屋を出ていた銀髪の男が愉しそうに目を細めて、様々な体液で汚れたベッドに仰向けで沈んでいるレネージュの体を見下ろした。
四肢を伸ばして顔を横に向けている彼女にはもう、怯えるだけの余力も無い。
「安心しろ。いきなり全部は喰わないさ。回復させて、喰って、また回復させて……ゆっくりゆっくり苦しめてやる」
ベッドに乗り上げ、彼女の頬を両手で覆って軽く口付けをする。
突然、部屋の扉がバタン!と大きな音を立てて開かれた。
「……!?」
グリークが体を起こすと、ネグリジェ姿の銀髪の女の子が剣呑な目付きで、手に持った包丁を腹の辺りに構え……
「死になさい! 我が一族の名を汚した亡霊よ!!」
「クーリア……!?」
凄まじい勢いでグリークに走り寄り、躊躇い無くその心臓めがけて刃を突き出した。
驚きで固まってしまったグリークは、まともに一撃を受けて……ベッドに仰向けで倒れた。
グリークの腕が、レネージュの胸を叩く。
「……っ、クー、リア……な、ぜ……」
「お黙りなさい、兄の姿をした悪魔! よくも兄を……私を汚してくれましたわね! 父さまや母さままで殺して!」
波打つ長い銀髪を振り乱して、少女は大声で叫ぶ。
雪の影のような色の目には大粒の涙。ネグリジェから覗く白い肌には、無数の鬱血跡があった。
「お、れは、お前を 愛 して……」
「まだそのような戯言を! 関係無いレネージュ様にまで非道な行いをしておいて、愛を語れば赦されるなんて思わないで!」
「クー……リ ア っがぁ!!」
ベッドに乗った彼女は、少女のものとは思えない力でグリークの心臓に立てた刃を抜き、再び振り下ろす。飛んだ赤い雫が、レネージュの頬に張り付く。
「クーリアああぁ……!!」
グリークが少女に手を伸ばして絶叫し、パタリと息絶えた。涙が浮かぶ目を見開いたまま。少女の名前の形で口を開いたまま。
「はぁ……っ、はぁ……。レネージュ様…… レネージュ様!」
事切れた兄に構わず、その横に倒れているレネージュの頬をぺちぺちと軽く叩く。
「お目覚めになってください、レネージュ様! どうか……っ!」
目を開いたまま正気を失っているレネージュの頭を抱え、必死で髪を、赤く穢れた頬を擦る。
暫くして、ぴくり、とレネージュの指先が動いた。
クーリアの表情が、パァッと明るくなる。
「……ァ、あ……」
「レネージュ様! お判りになりますか!? 私です。クーリアですわ!」
「……くー……リ、あ……?」
「はい! 数年前まで一緒に遊んでくださいました事、覚えておられますか?」
「……クー、リア……。クーリア……? 生きて、た……の?」
レネージュの瞳に意志の光が戻る。クーリアは本当に嬉しそうに笑って頷いた。
「どう、して? クーリアは死んだって……っひぃ!?」
隣で息絶えたグリークを見て、レネージュはクーリアの体にしがみ付く。
クーリアは震える彼女を優しく抱き締め、肩を擦った。
「あれはもう、グリークではありません。兄は一年前の嵐の夜、悪魔に命を奪われて亡くなっているのです。グリークは数年前から悪魔と契約していたのですわ。私を、……生かす為に」
「一年前……死んでる? 悪魔? 何を言ってるの?」
純潔を乱暴に散らされ、目を覚ました瞬間に相手は死んでいて。死んだと思っていた少女が生きていて。
レネージュは混乱を極める。
クーリアは苦笑いを浮かべ、レネージュの体をそっと解放した。
「総ては私達兄妹の体の弱さと、兄の邪なる願いが招いた事なのです。レネージュ様は不当に巻き込まれただけ」
まだ震えているレネージュの両手を取り、クーリアは悲しげに微笑む。
「順を追ってお話します。まずは、この部屋を出ましょう。私もレネージュ様も、このような汚れた姿では落ち着きません」
「……うん……」
クーリアに手を引かれ、よろめきながらベッドを降りる。
立って歩けるのが不思議なくらいの激痛と目眩と倦怠感に襲われるが、ふと、捨てられたネックレスを思い出してベッドの反対側に回り込んだ。
五枚の内、ちょうど真ん中にあった貝殻が真っ二つに割れている。
綺麗な薄い緑色の貝殻は、心なしか光沢まで失われていた。
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