逆さの砂時計
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不透明な光 1
南国に咲く花のような紅色の髪を、肩までまっすぐ伸ばした少女が居る。
少女は他と比べて少しばかり背が高い木の上に立ち、一度深呼吸をした。
一点の曇りもない蒼穹色の虹彩には、青い空と碧い水平線が映っている。
村と接する海岸は、砂浜に座って眺めるだけでも息を飲む壮大さだが。
建物の二階部分に相当する高さから見渡す光景は格別だ。
着古した生成色のワンピースの裾と髪を揺らす湿った潮風。
地面を震わせるような、体の奥深くにぶつかってくるような低い轟音。
それでいて、降り注ぐ午後の陽光は肌に柔らかく、包むように暖かい。
彼方から運ばれてきては水面を揺らしてキラキラと輝くさざ波は、少女の蟠る思いをわずかに紛らわせてくれる。
と。
「レネージュ!」
一人になって、ようやく落ち着いてきたばかりだというのに。
またしても不快な雑音が足下から響いてきた。
時間にはまだ余裕がある、もう少しほっといてくれと耳を塞ぐ少女。
雑音の主は、それこそ聞く耳は持たないと、殊更大きな声を張り上げた。
「聞こえてるんだろう、レネージュ! いつまでも子供っぽく拗ねてないで早く支度しなさい!」
あまりのやかましさにうんざりした少女が、枝の隙間を渋々見下ろせば。
村には似つかわしくないタキシードを着ている筋肉もりもりの中年男が、掠れた声を張り上げて少女を叱っている。
刈り上げた黒い短髪と、意外にも愛嬌がある黒い目と、立派な顎髭。
両手の甲を腰に当てて胸を突き出した、無駄に偉そうなその格好は。
総合的に見れば野生の熊そのものだな……と、少女は思った。
「はあ~……。ああ、もう! わかってるわよっ!」
不満たっぷりに声を返せば。
だったら今すぐ降りてこいと、極太な指で地面を指し示される。
少女は自身の髪を両手で掻き乱し、心の底から息を吐き捨てた。
モヤモヤした気分を胸に押し込め、もう一度水平線に視線を送り。
この場所からしか見えない光景を目蓋の裏にしっかりと焼き付けて。
ひょいっ、と飛び降りる。
「ぬわ!? こ、こら、バカ者! 木の天辺から飛び降りるヤツがあるか! 体に傷が付いたらどうするんだ!」
少女が登っていたのは、太い幹の上部に枝葉を集めて伸ばす扇型の木だ。
太い枝はそんなに多くない為、変に引っ掛かる心配はないが。
無数に伸びる枝葉は先端が尖り、場合によっては触るだけで傷が付く。
少女レネージュは、なんて危ないことをと慌てふためく男の前で着地。
衝撃を和らげる為に屈んだ姿勢を戻し、膝を払った。
「父さん、いい加減にして。しつこいし、うるさい。あたしの木登りなんて昔っからでしょうが。向こうもそれを承知でバカな提案してきたんだから、今更傷もへったくれもありゃしないわよ」
「だから、それは」
「あーあー、聞きたくなーい。心配しなくたって行くわよ、行きますわよ。大切な船の為だもんね!」
自身の両耳を覆うように、ポフポフと軽い力で叩きながら。
レネージュは既に準備が始まっているであろう海辺の教会へ向かう。
予定の時刻はだいぶ先の筈だが。
白い壁の所々に劣化が見える寂れた教会の前では、めでたい席に並ぼうと集まった村の衆が、どこぞから持ち込んだ酒とつまみを手に談笑していた。
式が始まる前だというのに、そこは既に立食式の宴会場と化している。
「ありがたいねえ。これで心置きなく漁に出られる」
「明日からさっそく網の手入れをしねぇとな!」
「あのじゃじゃ馬も、これでちったあ娘らしくなるだろ」
「見たか? 今朝の若様。よほど嬉しいのか、ずぅっと笑ってたぜ」
ほう、アイツは笑ってるのか。
きっとニヤニヤ笑いなんだろうな。
権力と財力を使って手に入れる玩具だもん、そりゃ嬉しいでしょうよと。
レネージュは忌々しい思いで奥歯を軋ませた。
レネージュは今日、村の近くの屋敷に住む貴族の御曹子に嫁入りする。
レネージュと件の御曹司は、一般に幼馴染みと呼ばれる間柄だが。
当事者は元より、村人達から見ても、決して良好な関係ではなかった。
少なくとも、レネージュが法的に結婚できる年齢になった去年までは。
子供の頃は、遠慮なく殴り合い、蹴り合った。
レネージュが村稼業の漁を手伝い始めてからは、非力だの役立たずだの、これだから女はだのと、毎日毎日、顔を合わせるたびに因縁をつけられた。
そして、一年前。
村が突然の大嵐に襲われて。
所有する船がすべて使用できない状態になるまで破壊されてしまった。
村人達にとって、漁はほぼ唯一の収入源。
船を一隻も出せなくなると、村の生活が立ち行かない。
困った村人達に、御曹子が突然こう告げたのだ。
「村の損害を引き受けます。代わりにレネージュを私に下さい」と。
父親からその話を聴いたレネージュは、口を開けたまま目を点にした。
彼女の認識では、喧嘩友達ですらない相手だ。
その提案はあまりに突拍子もなく、最初は意味不明だった。
そういう話にまるで興味がないと言えば嘘になるが、相手が悪すぎる。
当然、レネージュは断固拒否の構えを取った。
ところが。
レネージュが父親から話を聴いた翌日。
村に現れた御曹子がレネージュの耳に唇を寄せて、ささやいたのだ。
「ザマーミロ」と。
レネージュに好意があるわけではない。
むしろ悪意しかない。
彼女を貶める為に、囲い込んでいても不自然ではない結婚を選んだだけ。
しかも、村稼業が危機に陥っていることまで利用した。
何も知らない村人達は、御曹子の提案を受け入れてくれと、必死な様子でレネージュに訴えかける。切実な顔と口調で、毎日毎日説得を重ねる。
ここは、森林と平野に囲まれた平坦な土地の上にある、海辺の村。
森林一帯は貴族の私有地に含まれる為、そこにある資源に手を出すことは許されず、村の領域で耕す土には塩が混じって作物が実りにくい。
海沿いを利点にして港を開こうにも、都が遠すぎて人や物が集まらない。
せめて、村の近くに村長が管理権を所有できる資源豊富な山でもあれば、レネージュも迷いなく御曹子の顔面にウニの殻やカニの爪でも投げつけて「おとといきやがれ!」と高笑いしてやっただろう。
だが、現実はそう優しくない。
代替となる資源も産業も無く、稼ぐ手段を失って。
徐々に、けれど確実に困窮していく村の生活ぶりを見せつけられては。
どんなに嫌でも、レネージュには頷く以外の選択肢がなかった。
「あ、レネージュお姉ちゃん!」
「ホリィ」
陽焼けで浅黒くなっている上半身を潮風に曝した、黒い髪の男の子が。
両腕いっぱいに色とりどりの貝殻を持って、レネージュに駆け寄った。
「見て見て。あのね。これね。『しあわせのかいがら』っていうんだって。ペンダントとかブレスレットにして、体につけて、神さまにお祈りすると、これからずっと、しあわせになれるんだよ!」
「こんなに、たくさん……ホリィが集めてくれたの?」
「うん! ボクとエミィで、集めたの!」
ふいと横向くホリィの視線を先へと辿ってみれば。
立食式の宴会場の向こう、教会の入口扉の隙間から、ホリィとそっくりな黒髪の少女が、チラチラと恥ずかしそうにレネージュの様子を窺っていた。
扉に掛かっている可愛らしい指先には、白い包帯が巻き付けられている。
無邪気に笑うホリィの手にも、所々すり傷や切り傷、刺し傷まであった。
貝殻は色こそ美しいが、欠けた部分は鋭利な刃物同然だ。
加工前には鋭いトゲだってある。
拾って、その上素肌で抱え持つなんて、腕も体も相当痛いだろうに。
「ありがとう、ホリィ。エミィにも伝えて。あたしが喜んでたよって」
「うん! 式に間に合うように、お母さんに、おねがいしてくるね!」
教会へ向かってパタパタと駆けていく小さな背中。
その場に取り残されたレネージュは、うつむいて浅いため息を吐いた。
五歳になったばかりの双子の気持ちまで騙して、嫌いな男と結婚する。
村稼業を再開させる為とはいえ、晴れ晴れしい気持ちにはなれなかった。
「ほんと、女の子らしくなったものねぇ」
「………」
御曹子側が用意したという、純白のウェディングドレスを着せられて。
レネージュはなんとも言えない気分になる。
上半身をすっきり見せる形も、控えめな刺繍も、全部好みのど真ん中。
寸法にすら、文句の付けどころがない。
採寸した記憶はないし、好みを尋かれた覚えもまったくないのだが。
肌触りの良さまで計算されているのが微妙に気持ち悪い。
「これを着けて、っと」
ドレスを着付けてくれたふくよかなご婦人が、レネージュの背後に立ち。
加工された貝殻のペンダントをレネージュの首に掛ける。
開始時間ギリギリで完成した、子供達からの贈り物だ。
丁寧に磨かれ、表面に独特の光沢を与えられた貝殻が五枚。
うっすら陽焼けしているレネージュの首周りを美しく彩った。
「それじゃ、行こうか」
可愛い盛りの子供達を思い浮かべている間にヴェールを被せられ。
早く行くよと、背中を軽く押される。
仕方がないとはいえ、容赦もない。
「……はーい」
ふわりと咲くチューリップを逆さにしたようなスカートを片手で摘まみ。
もう片方の手に小さな花束を持って、教会の礼拝堂へ向かう。
今回の結婚式は、ごく一般的な、市民的な形式で行われる。
貴族式で行う場合は準備期間を長く取らねばならないし。
村の様式では簡素すぎるから、が理由らしい。
これにはレネージュも納得した。
村の様式は、結婚する男女が手を繋いで波打ち際に並び立ち。
村の衆に見守られながら、二枚貝の上を新郎が、下を新婦が。
それぞれ同時に、海へと放り投げるだけ。
後はせいぜい、少し離れた場所にある街の役所で戸籍を書き換えるのみ。
非常に質素かつ味気ないものだ。
わざわざやる意味が解らない。
貴族式を選び、堅苦しい場所で知らない人間に囲まれて挨拶に終始する。
なんて、ひたすら面倒くさいこともしたくなかった。
しかし。
「顔を上げろ、レネージュ」
『傲慢』を絵で表現したらこの男の肖像画になるに違いない。
そう確信したレネージュは、言われた通り大人しく顔を上げた。
純白のヴェールを除けられ、夫となる男の顔を正面からじっと見据える。
海の近くで暮らしているとは思えないほど白い肌。
透き通るような青みが混じる銀色の髪。
長い睫毛から覗く海の碧色は、黙っていれば綺麗だと思う。
黙ってさえいれば。
少年のあどけなさと青年の精悍さを併せ持つ顔が視界を埋め尽くし。
紅を塗ったレネージュの唇に触れて……食らいつく。
後頭部に回った男の手が逃げ道を奪い。
男の舌が無理矢理口内に侵入する。
「っ……んん……!?」
レネージュと同じく純潔を示す白を纏う男は。
軽く触れるだけで良い筈の口付けを、深く長く、執拗に。
ねっとりと、いやらしい音を立てながら味わった。
「……っ、……!」
息苦しさで倒れそうになるレネージュの腰を引き寄せて支え。
満足げにうっとりと微笑む男。
そして、神前で誓いを立てた夫婦は肩を寄せ合い。
関係者に祝福されながら、礼拝堂を後にした。
「な……っ、んじゃありゃーッッ!」
レネージュは怒りを込めて、ヴェールを床に叩きつける。
ヴェールは、ふぁさあ……と、絨毯の上にゆっくり広がり落ちただけで。
妙な空振り感が余計に腹立たしい。
教会の外で村の衆に向けて花束を放り投げた後。
酔っ払いが出始めていた宴会には参席せず、ドレスも着替えないまま。
御曹子とは別の馬車で、屋敷へと連れてこられた。
天蓋付きのベッド以外には何も無い、あからさますぎる寝室だが。
外はまだそんなに暗くもない夕暮れ時。
男が来るまでは、そう緊張することもない。
ベッドの端にドカッと腰を下ろし、腕を組んで「ふん!」と開き直った。
「グリークめ。人前ですることじゃないでしょ、あんなの!」
吐き捨てるように呟いて、うっかり口内の感触を思い出してしまう。
耳まで赤く染め、身悶えつつ頭を抱えた。
「……っ、初めてだったのに……!」
容姿だけは一級品の幼馴染みと脅迫紛いの結婚。
人前で恥ずかしい口付け。
とんでもない、最低な式だ。
このドレスだって、できれば着替えてしまいたい。
そう思って、胸元に手を運び。
「おい、アンタ」
「…………っ!?」
突然響いた声に驚いて、顔を跳ね上げた。
正面にある、そろそろと黒くなり始めた空を切り取る縦長な窓枠に。
いつの間にか黒い人影が立っている。
肌も髪も、着ている服や靴まで全部が真っ黒。
唯一、目だけはレネージュの髪が黒っぽくなったような紅色だ。
「だ、誰!? なんで窓に……ここ、三階よ!? バルコニーも無いのに!?」
レネージュが慌てて立ち上がっても。
黒い人影は微動だにせず、冷静に言葉を続けた。
「銀髪男と本気で結婚したいと思ってんのか?」
「銀髪? グリークのこと?」
「名前なんぞ知らん。ただ、本気じゃないならやめとけ。喰われるぞ」
『喰われる』?
妙な言い回しだな、とレネージュは首を傾げる。
「あたしだって、あんな奴との結婚なんて嫌よ。しなくて済むならしない。でも、村の死活問題なんだもん。仕方ないじゃない」
ぷぅっと頬を膨らませると、相手はほんの少し目を丸くして笑った。
「なんだ。人身御供か」
「え。そう、だけど。改めて言葉にされると、なんとなく虚しくなるわね」
「人間問題に絡めて手に入れたか。ここのヤツはそこそこ賢いらしい」
クスクスと肩を揺らして笑ってる。
何が面白いというのか。
「生憎、俺達でどうにかできるのはアンタ一人に限られてる。今、この場で選んでもらうしかないが。喰われるのと逃げ延びるのと、どっちが良い?」
「……意味が解らないから、答えようがないわ」
「生きて村を見捨てるか、死んで村を助けるか」
黒い人は、ビロードを思わせる紅い目でレネージュをじぃっと見つめ。
冗談を感じさせない声色で問いかける。
レネージュはしばらく無言で考え込み、真面目に答えた。
「生きて村を助けたい」
「強欲だな」
「その為に、ここに居るのよ。あたしは」
黒い人は、口元に薄く笑みを浮かべる。
「なら多少の苦痛は我慢しろ。一日や二日じゃ喰い尽くされないだろうが、間に合うかどうかは運次第。うっかり殺されても俺を恨むなよ」
「だから、いったい何の話を……って、ちょっと!?」
窓枠を蹴った影が、レネージュのほうを見ながら外側へと垂直に落ちる。
焦ったレネージュが窓から顔を出すが、影は跡形もなく消えていた。
「い、いったい、なんだったの? 今のは」
喰われるとか、死ぬとか、生きるとか。
なんだか物騒なことを言っていた。
レネージュは不気味なものを感じつつ、ベッドに戻って座り直す。
「……でも、ちょっと格好良かったかも。どうせ結婚するんなら、ああいうガッシリした人のほうが良かったなあ」
今更愚痴っても仕方がないかと、両腕を天井に掲げて体を伸ばした瞬間。
寝室の扉が開かれた。
現れた幼馴染み……改め夫は、濡れた銀髪に着崩したローブ一枚という、見る人次第では黄色い悲鳴を上げそうな、艶めいた姿をしている。
「レネージュ」
「なんか、来るの早くない? 気持ち悪いんですけど」
彼は嬉しそうな上品な笑みで室内に滑り込み、後ろ手で扉を閉めた。
貴公子然としたその笑顔が、逆にレネージュを不審がらせる。
彼女が知る幼馴染みは、彼女に対してだけは、こんな笑い方はしない。
「気持ち悪いは心外だな。ずっと、お前だけを見てきたのに」
グリークが一歩近付く。
レネージュはなんとなく、座らなければ良かったと後悔した。
この姿勢では逃げようがない。
……元々逃げられないのだが。
「屈辱と快楽に溺れ、俺に赦しを乞いながら生きたまま死んでいく、お前のそんな無様な姿を眺めることだけが、ずっと、ずーっと楽しみだったのに」
「……っ!?」
グリークの目が。海のような碧色が、急速に濁っていく。
レネージュの背筋に冷たいものが這い上がった。
「…………あんた……誰?」
阿呆な問いかけだと思う。
目の前に居るのは、先日まで幼馴染みだったグリークだ。
見間違えようがないほどに見慣れた、美しい容姿の男。
なのに何故か、違うと感じる。
これは、グリークでは、ない。
「グリークだよ。お前の夫で、お前の主人。さあ始めようか、レネージュ。村の者達を助ける為に」
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