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逆さの砂時計

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解かれる結び目 10

 旅を通して、たくさんのものを見てきた。

 限りが見えない広大な草原や、一点の曇りもない鏡のような泉。
 自然に構築された巨大な地下迷路。
 一時期だけ薄紅色の愛らしい花が咲き乱れる不思議な森。

 灼熱と極寒の狭間にあって、荒れ狂う砂嵐と静寂が交互に訪れる砂漠。
 常に雪が降り積もる山脈や、絶え間なく噴煙を上げ続ける活火山。
 轟音(ごうおん)と共にすべてを押し流す土色の大河。
 そこから地底へ流れ落ちる壮大な滝と、飛沫で描かれた七色の橋。
 一日を通して明るい無人の大陸に、岩石しかない不毛の渓谷。

 懸命に生きる命と、他者の気持ちを踏みつけて楽しむ暴虐の徒。
 挫けて、諦めて、立ち直ることに疲れ果てて、自ら死に急いだ亡者達。
 器を奪われ、嘆き、さ迷う魂。

 私が神殿で与えられていた日常は、外界では幻みたいなもので。
 自分がどれだけ大切に護られていたのか、嫌でも自覚させられる。

 けど、辛いばかりじゃなかったし、これからだって頑張れる。
 魔王レゾネクトを退けたら、世界はきっと良いほうへ変わる。
 世界が変わったら、アルフは今ほど悲しまなくて済む。
 そうしたら私は……
 ……私は……、神々と…………



「マリア?」
「……え? あ、はい!? なに!?」

 アルフの(だいだい)色の目が。
 大丈夫? と言いたげに、私の顔を覗き込んでる。
 気付いた瞬間に心臓が跳躍して、体中の血液が頭部に大集合した。

「体調でも悪いのか?」
「いえ、ちがうの! なんでもないわ! 気にしないで、ね? それより、何の話だったかしら? ごめんなさい。私ってば、ボーっとしててっ……」

 何をしてるの、私。
 アルフにも、コーネリアにも、ウェルスにも、不要な心配をかけてる。
 しっかりしなきゃ!

「これからの予定だけど、レゾネクトが隣の国で王城を占拠してるらしい。目的は分からないが、これまでずっと世界中を飛び回ってた魔王が一ヶ所に留まってくれるなら、俺達にとってはこの上ない好機だ。距離はあるけど、ここから王城の内部へ直接瞬間移動できるかな? って話」

 一度行った場所なら思い浮かべるのは簡単。
 どれだけ遠く離れていても、『空間』を繋げること自体に難は無い。

「それは大丈夫よ。でも、占拠ってまさか、王様が殺されて?」

 隣の国の王様には、旅の途中で何度か挨拶に伺っていた。
 為政者(いせいしゃ)の長だけあって、物凄い威圧感を漂わせてたけど。
 出身や身分で態度を変えたりせず、親切に対応してくれたのは覚えてる。

「無事……とは、思えないな。紫色の雷光に怯えた国民が周辺各国へ一斉に避難したって話は聴いたけど、王族の目撃例は無かったみたいだから」
「……そう……」

 旅の間中、いくつもの惨劇の舞台を、感情が麻痺しそうなほど見てきた。
 それでもやっぱり、誰かの悲報には苦いものがある。
 顔を知っている相手のものとなれば尚更だ。

「今この瞬間にも移動されるかも知れない。準備ができ次第、すぐに行」
「! 待って!」
「ん?」

 え?

「どうしたんだ? マリア」

 ……えーと。
 私、どうして引き止めんだろう。
 アルフの言う通りでしょう?
 魔王が一つ所に留まってくれてるなら、今が対面する好機じゃない。
 これまで、その為に長い旅を続けてきたのに。
 ここに来て二の足を踏んでどうするのよ。
 本当にどうしたの、私?

「……アルフリード。一晩様子を見てからにしないか?」
「コーネリア?」
「確かに情報通りなら私達にとって良い機会になるが、相手は時々悪魔達を利用して私達を探ってる気配を見せてただろ? 多分一筋縄ではいかない。状況を冷静に見極める時間が必要だと思う。もちろん、準備は進めながら」
「ん……」

 いつの頃からか、悪魔達は本格的な勇者狩りを始めるようになっていて、退治の頻度(ひんど)が異常に上がってきてた。
 数体の悪魔から、レゾネクトの意思が関係してるとは聞いていたけど。

「闇雲に特攻すれば良いってもんじゃないからな。レゾネクトは私達の旅の最終目的だ。焦らず、どんと構えていこう」

 最終目的。

 …………そうだ。
 魔王レゾネクトは、勇者一行の旅の終着点。
 彼を退けることで、私達の旅は終わる。
 命を脅かす凶行への恐怖から世界を救えるんだ。
 コーネリアとウェルスは実家へ帰って、子供達と再会できる。
 アルフは世界を救った勇者として、故郷に堂々と凱旋(がいせん)するだろう。
 私は神殿へ帰り、天神(てんじん)の一族最後の一柱として……

「…………」
「マリア?」

 …………どうして?
 まだ叶ってもいない未来なのに、どうして涙が溢れるんだろう。
 それは良いことの筈なのに。
 皆が、今よりもずっと幸せになれる、意味がある別れなのに。
 それぞれの道に戻って、先へ進むだけなのに。

 考えると、胸が痛い。
 三人が顔を見合わせて困ってるのに、涙が止まらない。

 ……ああ、そうか、……私……

「……分かった。コーネリアとウェルスは、装備の手入れを念入りに頼む。マリアは俺と一緒に来て」
「え?」
「ごゆっくり~~」

 私達は最近、人間が集まる場所にはできるだけ近寄らないようにしてる。
 勇者一行を狙う悪魔の襲撃に巻き込ませない為、極力交流を避けてきた。
 情報を集める時は、四人の中で一番目立たない容姿のウェルスに頼んで、大きな街にこっそり紛れ込んでもらって。
 今も、人が居ない森奥の川辺で野営してる。
 その分、悪魔達にいつ、どこから不意打ちされてもおかしくない状況だ。

 そろそろ日が暮れる頃。
 森奥だけあって、川沿いでも夜になれば視界は極端に狭くなる。
 こんな足場が悪い所で二手に分かれたりして、大丈夫なの?

「アルフ?」

 さらさらと涼しげな音を立てて流れる細い川。
 その脇の、空が見える砂利道を、野営地が見えなくなるまで(くだ)って。
 私の手を引くアルフが突然、ぴたりと動きを止めた。

「何に怯えてる?」
「え……」

 振り返ったアルフの顔を見た瞬間、私の両肩が勝手に跳ねた。

「魔王に挑むのが、怖い?」
「っ!! 違うわ! それが怖いんじゃない! 逃げたいんじゃないのよ! 私はもう、そんなこと考えてな」
「なら、何に怯えてる?」
「……アルフ?」

 (だいだい)色の真剣な目が、少しも揺らがずに私を映してる。
 悪魔との戦いに挑む時のような強ばった表情で、私の手を離して……

 え? 何?
 どうして抱きしめるの?

「悪魔達との関わりが深くなるたびに落ち込んでたよな。怖くないのなら、どうして?」

 …………あ。

「教えてくれ、マリア。君は何に怯えてるんだ?」

 しまった。
 私、アルフを不安にさせてる。
 怯えてるのは私じゃない。
 アルフだ。

「っ、ご、ごめんなさい! 私……っ」

 出会った頃と比べてもたくましくなった彼の背中に両腕を回して。
 きつく強く、抱き返す。

 何をしてるの。
 私は笑ってなきゃいけないのに。
 アルフが安心して前を向いていられるように。
 私だけは、何があっても笑ってなきゃいけなかったのに。
 私、自分のことばっかり考えて、アルフの気持ちを置き去りにしてた。
 あんなにも護りたいって思ってたのに。
 私が彼を一人にしてどうするのよ!

「私……言ってなかったと思うけど、私ね。魔王を退けたら、神々と共に、こことは別の世界で眠りに就くと決まってるの」

 抱きしめている体が、少しだけ震えた。

「それも神々に授けられた使命だから従うつもり。でも、その時が近付いているんじゃないかと思うと……そうよ。怯えてるの。寂しさに怯えてる」

 アルフを、アルフの世界を護りたいと思うなら。
 魔王討伐は決して避けて通れない。
 でも、魔王を退けてしまったら、私は神々の元で眠らなきゃいけない。
 コーネリアと、ウェルスと、アルフ。
 貴方達と……貴方と別れるのが、寂しくて堪らないんだわ。私は。

「貴方達と一緒に旅をして予想通り怖い目にも遭ったし、予想してた以上に嬉しいことも楽しいことも実感してきた。眠るのが嫌になるほど、貴方達と過ごす時間を好きになってしまったのよ。だから寂しい。すごく寂しいの」

 勇者一行は、魔王がいなくなった平和な世界には必要ないから。
 普通の人間に戻って、それぞれの日常に戻るのが一番良いことだって。
 解ってる。ちゃんと解っているのよ。
 こんな気持ちは、胸に閉じ込めておかなきゃ

「マリアは嘘吐きだ」

「え?」

 少しだけ体を離して。
 もう一度覗いた(だいだい)色の目が、濡れてる。

「アル んっ!?」

 体を抱いていたアルフの両手が、私の頬を捕らえて。
 アルフの唇が、私の唇を無理矢理に塞いだ。
 強く吸いつかれ、口の中に侵入され、乱暴に掻き回されて、息が詰まる。

「や……! アル、やめ……っ んぅ、うぅ!」

 角度を変え、動きを変え。
 何度も何度も呼吸を奪われて、頭の奥がぼやけてくる。
 せめて手を引き離したいのに、全然力が入らなくて。
 アルフの手首を掴んでも腕を叩いても、抵抗にならない。

「……結局……、俺の帰る場所には、なってくれないんだ」
「…………っ!!」

 やっと解放されたと思ったら。
 さっきよりもずっと強く、後頭部と肩を抱えられた。

 苦しい。
 すごく、苦しい。
 物理的な苦しさだけじゃない。
 アルフの震えた体と言葉が、私の心臓をぎゅうっと締めつけてる。

「好きだ」
「!」
「俺はマリアが好きだ。女神だとか勇者だとか、そんなのはどうでもいい。強くなろうと、懸命に前を向こうとするマリアが、ずっと好きだったよ」

 腕の中に閉じ込められて。
 押し付けられた体から、速まっていく鼓動が伝わる。

「魔王討伐を成し遂げて勇者の看板を下ろした後、きっちりと身形を整えて告白するつもりだったのに。いきなりそんなのはずるいだろ。卑怯すぎ」
「アル フ……」
「マリアの嘘吐き」

 私を包む腕から力が抜ける。
 体が離れていく。

 ……待って…………

 待って!
 離れていかないで!
 私から心を離してしまわないで!

「マリ っ?」

 アルフの首に腕を絡めて、押し当てるだけのキスを返す。

 目蓋を閉じているから、アルフの表情は見えない。
 驚いて……それから、呆れてる? 怒ってる?
 一生傍に居られるわけでもないのに無責任だって、軽蔑する?
 それでも。

 それでも、今離れるのは嫌!

「私、も」

 状況に流されてるだけなのかな。
 泣いてる貴方に同情してるのかな。
 私が寂しいから、私が傷付きたくないからかな。

 どれでもいい。
 そんなの、どうでもいいよ。

「私も、アルフが好き……!」

 離れたくない。
 一緒に居たい。
 貴方に心から笑って欲しい。
 これから先の、貴方の本当の笑顔を、貴方の隣でずっと見ていたいの。

 眠りたくなんかない。
 貴方の傍に居たい!

「嘘吐き」

 低くなった声が、心臓に鋭く突き刺さる。
 ザ……ッと背中に滑り落ちる冷気で開いた私の視界を。
 泣きながら微笑むアルフが埋め尽くした。

「マリアは嘘吐きだから、信じないよ」

 私の額に、ついばむよりも軽いキスを残して。

 離れていく。離れていく。
 貴方の心が。貴方の存在が。
 私から離れていく。
 両腕で繋ぎ止めようとしても、追いつけない速さで。

「……なら、信じなくて、いい」

 アルフの体から腕を解いて。

「マリア? 何を……っ!?」

 私が着ている服を全部、脱ぎ捨てた。
 夕方の冷えた風が全身にまとわりついて、剥き出しの肩を震わせる。

「私は貴方が嫌いよ、アルフリード」
「……っ」
「貴方なんか……! 貴方なんか、大っ嫌いッ!! その顔も見たくないし、その声だってもう聴きたくない!! これ以上傍に居るなんて、絶対に嫌!! 二度と触られたくないし、無断で私の心に入って来ないで!! 私の心には、貴方の居場所なんて微塵も無いのよ!!」

 何をしているの? 私は。
 川辺で全裸になって、泣きながら大声で叫んで。
 羞恥心とか全部、川の水に流してしまったのかしら。
 みっともない。
 女神として信じられない言動だわ。
 神々に知られたら、どんな罰を下されるか。

 でも、良い。
 どうせ失うなら、全部まとめて失ってしまいたい。
 アルフからの想いも、アルフへの想いも。
 情けない自分自身も、全部、全部、全部。
 私の手をすり抜けるくらいなら、いっそ貴方に壊して欲しい。
 他の誰でもない、貴方に壊して欲しいのよ、アルフリード。

「大嫌いよ、アルフリード。貴方なんか、この世界で一番だいっきらい! この世界に存在する誰よりも何よりも、貴方が一番だいっきらい!!」
「…………本当に……」

 また。アルフの両手が私の頬を捕らえて。
 今度は、壊れ物に触れるような手つきでそっと、たどたどしく撫でた。
 触れ合ったそこだけが、じんわりと温かくなる。

「君は、どうしようもない嘘吐きだな」

 情けない。
 きっと、今の私以上に情けない表情で。
 アルフの両腕が、私の体を優しく、柔らかく包み込む。

「神々に処刑されそうになったら、君の嘘のせいだと告発するからな」

 冷えた体が、外側と内側から融けていく。
 速度を上げていく心臓の音が、とくん、とくんと、耳の奥で響きだす。

「知らないわ、そんなの」
「……酷い女」

 唇を重ねる。
 体を重ねる。
 言葉は、もう要らない。
 嘘になるだけだから。

 私は貴方が大っ嫌いよ、アルフリード。
 だって私は、貴方を置いて行くと決めているもの。

 だからこそ貴方に壊して欲しい。
 旅を通して見た景色、触れた想い、抱いた願い。
 それらの記憶への愛着と未練。

 そのすべてを、壊して欲しい。
 貴方は私の居場所ではないのだと。
 貴方に、思い知らせて欲しかっただけなの……
 


 
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