逆さの砂時計
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静謐の泉
何度かの跳躍を経て、巨大な山脈の麓に抱かれた大森林に辿り着く。
地上を行く人間の視点では見つけにくいであろうその場所に、想像よりも遥かに大きな水溜まりが見えた。
枝から跳び上がって別の木の枝へ、足場までの高度が変わるたびに陽光を弾いて目を焼く水面は、どことなくマクバレンさんの輝く瞳を連想させる。
鬱蒼とした森の中にぽっかりと開いた、見通しが良い楕円形の空間。
精霊達の心の負担を考えても、直接降りるのは避けたほうが良さそうだ。
泉から少し距離を置いた樹木の隙間に着地して、辺りの気配を探る。
見える限り、この周辺にも人間が入った形跡はない。
木々の一本一本は、上から見るよりもずっと胴回りが太く、背が高い。
適度に射し込む斜光が、異様にけたたましい鳥達の声と相反して……
けたたましい?
あ、そうか。
木々の間を縫って移動したから、幹や枝の隙間に巣を置いている相当数の鳥を警戒させてしまったらしい。
お騒がせしてしまって、すみません。
道沿いの森では、ここまで騒がしくならなかったのだが。
棲み分けができている証かな?
なんにせよ、マクバレンさん達に知られたら怒られてしまいそうだ。
それとも逆に、普通の人間ではできないことをしでかした自分達の生態に興味を持つのだろうか。
「そちらはどうですか?」
精霊達を案じて泉から距離を取った自分と違い、ベゼドラは恐れる必要も警戒する必要もないといった様子で、泉の近くへとまっすぐに降り立った。
異変は無いかと彼の気配を窺いながら、倒木や腰まで伸びた草花や山菜を掻き分けて泉へと近付く。
「何も無ぇな。他の精霊も居ないが」
「そうですか」
ある程度、予想してはいたが。
レゾネクトが来た後、精霊達は散り散りになったままなのだろう。
仲間を想ってか、ポケットの中のリースとリーフがわずかに震えた。
「これは……」
あと数歩進めば枝葉の天井から解放されるというところで、足を止める。
眼前に広がるのは、泉をぐるりと囲い込んでいる……花畑?
「綺麗、ですね。その真ん中に居るのが真っ黒な悪魔というのは、いささか残念な絵面ですが」
「女装したお前なら似合ってたかもな」
「その話題は今後一切口にしないでください」
冗談は抜きで、脛の高さで咲き誇る大小様々な花達は本当に綺麗だ。
所々に飛び回る蝶やハチや静かな水の音も、青空に映える見事な色彩も、踏み入るのをためらってしまうほどに幻想的な空間を演出している。
「やっぱり居ないな。レゾネクトの気配も、アリアの気配もしない。当然、悪魔が居るとも思えん」
「出てみますか? リーフ、リース」
コートの前面を開き、ポケットを外側へ向けてみる。
二人は恐る恐る顔を出し、辺りをキョロキョロと見渡した。
「……泉の前まで……行ってみても、良い?」
異変は無いと判断したのか、リーフが泉を指して自分を見上げる。
「手のひらに移りましょうか。そのほうが広く見えるでしょう」
万が一レゾネクトが突然現れても、精霊族は小指より小さい。
花に紛れさせてしまえば、見つかる可能性は低いだろう。
教会でされたように、雷で撃たれてはどうしようもないが。
あれは多分、そうそう放ってこないと思う。
彼なら獲物を一気に始末するより、少しずついたぶるほうを好みそうだ。
二度対面した結果受けた印象なので、明確な根拠は無い。
「……うん」
震えるふたりを右手に乗せ、できる限り花を踏んだり折ったりしないよう気を付けながら、泉の半歩手前まで歩み寄る。
「『鏡』ですね、確かに」
ほとんど風が無いからか。
水面は周りの景色を歪ませず、そのままの形を映している。
水底を見下ろした自分の顔が、不思議そうに自分を見つめ返した。
「降ろして、クロス」
リースが指先から落ちそうな勢いで泉を覗き込むので、慌てて膝を突いて地面に下ろす。
ふたりは ととと……っと泉に走り寄り、水に手を入れて。
「良かった。荒らされてない」
両手で掬った水を口に含む。
力無く垂れていた羽根がピンと立って、ふたりは同時に翔び上がった。
「元気になれましたか?」
「うん。もう大丈夫」
「私達は泉の水に命を分けてもらったから。泉の傍に居る限り死なないわ」
「良かったです」
自分の周りを嬉しそうに、くるくる翔び回って。
ふと、暗い表情で宙に静止する。
「もしかして、リオが気になっているのですか?」
「ん……。リオルカーンだけじゃなくて、皆。私達は運良くクロスツェルやマクバレン達に助けられたけど……全員がうまくいく筈ないもの。すごく、くやしい」
『悲しい』のではなく、『くやしい』と涙を零す小さな精霊達。
神々に使役されている間は、戦う術があったのだろう。
でも今、神々はいない。
戦う力や術を失っていては、護れるものも護れない。
それが、どれだけもどかしいことか。
元々力など持っていなかった自分には、推し量るのも難しい。
「状況はそれぞれ異なっているでしょう。けれど貴女達は今、こうして泉へ帰還を果たし、結果として生き延びた。他の方々も、まだ辿り着けていないだけで、こちらに向かっているかも知れません。今度は貴女達が、貴女達を必要とする誰かを救う番ではありませんか?」
ハッと顔を上げて自分を見つめる精霊達に、そっと微笑む。
「遠くじゃなくて良い。もしかしたらすぐ近くまで来ているかも知れない。貴女達の新しい役目は、仲間に泉の無事を伝え、届きそうな手を引き寄せることではないでしょうか」
精霊族については、精霊が一番よく解っている。
リース達がそうであったように、精霊族の多くは、遠くまで逃げきって、戻ってくるのを拒んだのだと思う。
自分の言葉など、気休めにもならない筈だ。
それでも。
もしかしたら。
彼女達が腕を伸ばせば、掴める手があるかも知れない。
何もできないと悔やむくらいなら、無駄だと思っても動くほうが良い。
それはきっと、無駄にはならない。
「リオは生きています。諦めるには、まだ早いでしょう?」
自分達の足でならわずかな距離でも、普通の人間の足では数日分の距離。
ましてここは大森林の奥だ。
きっと、さっき見た以上に大きい倒木もあれば、人間の背丈ほどに育った草もそこら中で群生しているし、獣道があるかどうかすらも怪しい。
泥沼なんかに落ちようものなら、それだけで一日や二日は軽く浪費する。
本当にギリギリ。
最悪、間に合わない。
でも、たとえば空を翔べる精霊が迎えに行けば?
少しくらいは時間と距離を短縮できるかも知れない。
その分、リオや他の精霊が助かる可能性は増す。
そんな風に考えられれば良いのだけど。
「……うん」
リーフが目元を引き締めて、頷いた。
「ありがとう、クロスツェル。私、行くね」
「はい。人間には、くれぐれも気を付けて」
空高く舞い上がったリーフの姿が、森の上を滑るように消えていく。
そういえば、マクバレンさん達は精霊が翔ぶ光景を見ていないのでは?
なんだかすごく大騒ぎしそうな気がするが……リーフ達なら大丈夫かな。
「貴女は行かないのですか? リース」
自分の前に浮かんで一緒にリーフを見送った彼女が、にこっと笑う。
「私はここで仲間を待つわ。ひとりも居なくなったら、皆が戻ってきた時に気付けないから」
「……そうですね」
そういう選択もあるだろう。
ただ……アリアが目覚めている今、可能性は低いとしても、レゾネクトが突然現れることへの恐怖は、常につきまとう。
アリアに繋がる手掛かりが無いなら、自分達だって、いつまでもここには居られない。
ひとりきりで待つのは、相当心細い筈だ。
「私は大丈夫よ、クロス。あのふたりがすぐ戻ってきてくれると思うから。それより、ここまで連れてきてくれてありがとう。ダメね。お礼として何かできれば良いのに、私は何も持ってないの」
心配が表情に出ていたのか、自分の顔にピタリとくっついて。
頬ずりのつもりかな?
ちょっとくすぐったい。
「貴女が無事なら良いのですよ、リース。でも……、そうですね。少しだけこの周辺を歩き回っても良いですか?」
「もちろんよ。自由に調べて」
ふわん、と離れて、どこへ行くのかと目で追ってみれば。
ベゼドラに向かって「花を踏まないで!」と怒りだした。
対するベゼドラが「無造作に生えまくってるのが悪いんじゃねーか!」と言い返しては、「花園なんだから群生は当たり前でしょ!」と言い返され、実年齢不詳者同士の大人げない口論が始まる。
王都の宿でも、たまに言い合ってはいたが。
あの時とは、リースの勢いがまったく違う。
たった一口分の水で、凄まじい回復だ。
精霊がそういう種族なのか、泉の水に特殊な力があるのか。
どちらもか?
「アリアが眠っていた泉、か」
膝を突いたまま身を乗り出して、水面を覗いてみる。
自分の顔が細部まではっきり映し出されると、なんとも奇妙な感覚だ。
人工的な鏡より、よほど綺麗に映っている気がする。
それでいて水中は澄んでいるのか。
右腕で陽光をさえぎれば、泉の底までくっきりと見えた。
「……冷たい」
意味もなく、泉に軽く手を入れてみる。
広がる波紋で、空を背負う自分の顔がゆらゆらと波を打った。
冷たいと言っても、雪の塊や氷ほどではない。
外気よりは多少ひんやりする程度だ。
飲んだら美味しそうな気もするが、生水は人体に悪いのでやめておこう。
「そろそろ行くぞ、クロスツェル! コイツ鬱陶しい!」
「鬱陶しいってなによ! ちゃんと話を……」
呼ばれて振り返れば、二人の言い合いはベゼドラが匙を投げて強制終了を迎えようとしていた。
もしかして、彼は論争の類いが苦手だったりするのだろうか。
最後は大体彼の、面倒くさいや鬱陶しいで締められている気がする。
「ちょっと待ってください。もう少し周りを」
立ち上がろうとして、視界の端に違和感を覚えた。
それが何かを確認する前に、鈍い衝撃が胸を貫く。
「懐かしくはないか?」
腕が。
水中から伸びた右腕が、自分の胸から背中へ、貫通している。
「己が預かっていた教会で、ベゼドラにその器を差し出した時も、こうして水面から伸びた腕に貫かれていただろう?」
水面から形を持って現れた自分の顔が、呼吸を感じる距離で笑う。
金色の目が愉悦に細められている。
ああ、これは……違う。
自分ではない。
「……そういえば、欲しがってましたね。薄い水色の宝石」
にこっと笑い返せば、自分と同じ顔をした彼も、同じように微笑んだ。
自分自身の微笑む顔を、自分の目で直に見る機会があるとは。
なんとも微妙な心地です。
「ああ。そろそろ貰っていこうかと思ってな。その代わり、お前には一時の休息をやろう。ゆっくり休むと良い。偽りの創造神に愛された神父。いや、魔法使いクロスツェル」
体から腕が引き抜かれていくのを感じる。
痛みを感じないのは驚きのせいなのか、実際そういうものなのか。
なんにせよ、苦しまなくて済むのは多少気が楽で、助かります。
「休みなんて、もう少しだけ待っていただければ……勝手に、訪れたんですけど……、ね……」
体から力が抜ける。
いや、引っ張られているのだろうか。
腕が完全に引き抜かれる寸前、ベゼドラの声が聞こえた気がする。
……ほら、ね?
先手を打っておいて、正解だったでしょう?
貴方も、面倒くさいとか言ってないで、少しは先を読む努力をしなさい。
あとは お願いします ね ベゼドラ
前方へ傾いた体は、とすん、と音を立てて水面に打ちつけられ。
泉の内側へと飲み込まれるように滑り落ちた。
それは、ほんの数秒間の出来事。
水上に浮かぶもう一人のクロスツェルが手に持っている、小さな布袋。
そこから取り出された薄い水色の宝石を見て、リースは目を見開いた。
それは、聖天女に近い力なんかじゃない。
それは、ただの宝石なんかじゃない。
「……聖天女、さま!?」
かつて勇者達と共に泉を訪れた、神々と人間世界とを繋ぐ巫で。
天神の一族、最後の一柱で。
精霊族に人間の言葉を教えた、最初の女神。
古の昔に聖天女と称されていた、白金色の髪と薄い水色の目を持つ少女。
現代この世界には居ない筈の『彼女』の意思、そのものだった。
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