逆さの砂時計
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想いの交差点
「はい。一週間お疲れ様、クロちゃん」
バルコニーへと繋がる二枚扉を開放した、プリシラの執務室。
クロスツェルは、机の上にドンと置かれた、両手に乗せ切れるかどうかの大きな布袋を見て、唖然とした。
「一応お尋ねしますが、なんでしょうか? これは」
「餞別よ。なあに? その警戒感と不審感を丸出しにした顔は」
「いえ、その、少々予想外と言いますか……まさか、教会の資金を流用」
「貴方が普段どういう目で私を見ているのか、ちょっと理解したわ」
「すみません」
椅子に座ったまま、机の上に片肘を乗せて、自身の額を覆う女性へ。
透かさず体を半分に折って謝意を示すクロスツェル。
プリシラは浅く息を吐いて、「まあ良いわ」と苦笑い、顔を上げる。
「渡国許可証も二人分入れてあるから。必要があるかどうか知らないけど、アリア信仰が排斥されてないすべての国に通用する代物よ。大切になさい」
「え!?」
「なによ」
「いえ、それは各国の大司教役が持つ物と同等の権限ではありませんか? 教会を放置して巡礼を始めた不敬な神父には、行き過ぎた気遣いなのでは」
しかも、同行者は教会関係の人間ではないと知った上での、この対応。
当然、異例中の異例だった。
「ふふん。次期大司教の座を任されているこの私に、不可能は無いのよ?」
暴理が暴利を押し付けてくる。
やはり、この女性は無茶苦茶だ。
いつか教会関係者の天辺から底辺まで全員を支配する暴君になるのでは。
そうは思っても、これから先を考えればありがたい話ではあるので。
彼はそれを、慎んで受け取った。
「ありがとうございます、プリシラ」
「本当にね。一生感謝なさい。ああ、半分は通貨交換を済ませてあるから、関所での手続きは出入国時の本人確認以外は不要よ。ここまで快適な巡礼のお膳立てをしてあげたんだから……もちろん、解ってるでしょうね?」
「あ、えーと……」
プリシラは、にーっこりと両目にアーチを描いて立ち上がり。
恐ろしさで半歩退いたクロスツェルの両肩に腕を絡ませ。
背伸びをして、彼の額に軽く口付けた。
「絶対、無事に帰ってきなさい」
「え」
藍色の眼差しが、金色の虹彩をまっすぐに見据える。
「たとえ、信仰を捨ててでも。必ず、生きて帰ってきなさい。命を軽々しく扱うことだけは、何があっても許さないから」
肩を抱いた柔らかな手が、細長い指先が、艶やかな黒髪を優しく撫でる。
それは、身長差がなかった子供の頃から、アーレストとプリシラが揃ってくり返した癖。
クロスツェルが東区へ赴任する直前まで、たびたび与えられていた仕草。
「……はい。必ず」
クロスツェルも、やや身を屈めて、プリシラの目元に口付ける。
ギョッとしたプリシラは彼から腕を離し、アーモンド型の目を瞬いた。
「驚かせてくれるじゃない。こんなこと今まで一度だってしなかったのに」
「そうですね。これまでのことと今回の協力に対する、感謝の印です」
「…………貴方、変わったわね」
「大切なものが見つかったので」
「そう」
「はい」
プリシラは、紅を塗った赤い唇をふわりと綻ばせ。
いつの間にか大きくなった友人の胸に、額で とん、と寄り掛かる。
「行ってらっしゃい。貴方に女神アリアの祝福が舞い降りますように」
「はい。行ってきます」
アーレストにされたように、と言っても、頬ずりまではしないが。
プリシラの小さな頭を抱えて、軽く撫でてから、与えられた荷物を手に、クロスツェルは執務室を、教会の敷地を出て行く。
旅立つ者の後ろ姿を笑顔で見送ったプリシラは、バルコニーへ足を運び。
両腕を天に突き上げながら、「んん――……っ」と全身を伸ばした。
着崩した長衣の裾が、少し強めの風にパタパタと揺れる。
「彼の誠意を真の物であると認めていただき、感謝しますわ。大司教様」
雲一つ流れていない青空の下で深呼吸した後。
カーテンで隠されていた大きな窓の外側に居る男性に目を向け、微笑む。
頭髪を剃り上げ真っ白な長衣を違和感なく着こなしている老齢の男性は。
穏やかな表情で腕を組み、窓枠に背中を預けて立っていた。
「あんなにも嫌がる姿を、公の場で一週間も延々と見せつけられてはね。あの子は相変わらず、君の趣味本位だと思っているようだけど。君は悪者のままで良いのかな?」
「あら。いやですわ、大司教様。私は、最初から最後まで、自分が面白いと思うことしか、していませんのよ?」
ただ、権力を持つ女の我がままに振り回された側の人間は、そうではない人間からだと、少ぉ~し可哀想に見えるかも知れませんけど。
と、肩越しで振り返った顔が嬉しそうに笑う。
「ふふ。君は本当に、あの子が好きだね」
神父が務めを放棄するなど、決してあってはならないこと。
当然、罰は受けて然るべきだ。
クロスツェルの場合、教会の鍵をすべて開放したまま放置してきたという悪質さも問題視され、悪ければ処刑、良くても破門が検討されていた。
それを水際で止めていたのは、他でもない、プリシラだ。
過去のクロスツェルの功績と敬虔さを主張し。
確定している次期大司教の立場を活用して。
反発が強くならないように、それとなく彼を擁護し続けた。
その上での、民衆と信徒を前にした女装被害騒動。
多くの信徒は『昔から奇行が目立つ次期大司教様』の被害者に好意的だ。
彼女に大人しく従うとはつまり、周囲の同情心を買うことを意味する。
本人が一番嫌がることを見抜いて、的確に突く。
その行い自体が、教会規定の懲罰と同等の扱いなのだ。
クロスツェルが一週間耐え抜いた結果、彼は大司教の名の下に赦された。
餞別も、国を渡る為の許可も。
大司教が有望な彼に再修行を命じた結果用意された物だったとは。
クロスツェルだけが、知らない。
「放っておけないだけですわ。あの子、修行徒としてここへ来た当初から、既に半分は死んでいましたもの。アリア様への信仰心がなければ、とっくに自殺していたでしょう」
中央教会で修行を始めた頃の彼は。
健康的な部分を探すのが難しいほど、全身傷だらけで。
今は綺麗に整えられて光の輪が浮く黒髪も、悲惨なくらいにボサボサで。
その鋭い金色の眼差しは、浮浪児だった頃どれだけ酷い目に遭ったのか、人間なんてわずかにも信じていなかった。
ただ、アリアだけを信じていた。
アリアに仕える為だけに生きている。
そんな子供だったのだ。
クロスツェルは。
だから、アーレストもプリシラも、彼を構って構って構い倒した。
人間は敵じゃないんだと信じて欲しくて。
鬱陶しがられても、逃げられても、ひたすらに追いかけ回した。
友人だと認めてくれた時の喜びは、今もプリシラの内にある。
「でももう、大丈夫ですわね。あの子は強くなりましたわ」
「男の子は、護りたいものを見つけたら成長が速いからね。寂しいかい?」
「まさか。クロちゃんはちょっとお出かけしただけ。行ってきますの後は、ただいまを言わなきゃいけない義務がありますのよ? 破ったら、今度こそ本当に花嫁衣装でも用意しますわ。とびっきりの可愛らしいフリル付きで」
くるんと、大司教に体の正面を向けて高らかに宣言するプリシラは。
やはり嬉しそうに笑っている。
「すごく嫌がるだろうね」
「それが面白いんですのよ。いちいち似合うところは、女の自尊心を微妙に傷付けたりするのですけど」
「君と同期じゃなくて良かったよ。近くに居すぎていたら、君という人間は見抜けないだろうから」
大司教も楽しげに肩を揺らして、柔らかな微笑みを返す。
「私は昔も今も、自分勝手で我がままなお嬢様ですわ。これからもずっと。それより、……状況に変化はありまして?」
ころころと楽しそうに笑っていたプリシラの表情が一転。
次期大司教としての威厳と品格を備えた、真剣なものに変わった。
大司教も、彼女の言葉を拾って眉間にシワを寄せる。
「正直厳しいね。混乱は深まっているようだ。現地の信徒達には、当面の間布教活動を慎むべしと伝えているらしい」
「それしかないでしょうね。下手に動けば異教徒を刺激しかねませんもの。ただでさえ上層が落ち着かない今の状況で下層までもが騒動を起こしたら、本格的な宗教戦争のきっかけを作ってしまう。この国はアリア信仰と中枢が繋がっているからまだ良いものの……そうでない国では、非力な信徒達から順に虐殺されてしまいますわ」
キリッと親指の爪を噛んでうつむくプリシラ。
大司教も、長く深いため息を吐き出した。
「かといって、ことがことだけに我々としても放置するわけにはいかない。事実確認を急げと上から直接指示されているし。私も、大司教の一人としてアリアシエルに召集されてしまったし。困ったものだねぇ」
「猊下からの召集命令? こんな時に、重役が一国集中なんて!」
「こんな時だからこそ、だよ。どんなに危険でも情報共有と検討は必要だ。どの国にも一応、大司教候補は居るし。大変だと思うけど、私が留守の間は君達に任せるよ、プリシラ次期大司教」
「……はい。心得ておりますわ」
聖職者らしからぬ装いながらも、プリシラは背筋を伸ばし、腰を折って。
敬愛する男性に対して上位者への礼を執った。
「どうぞ、ご無事で」
「君達も。クロスツェルにも。女神アリアの御加護があらんことを」
窓枠から背を離し、プリシラが下げた頭に手を翳す男性。
やがて顔を上げた彼女と信頼し合った視線を交わし、互いに微笑んだ。
「ところで、どうして踊り子だったのかな。単純に女性の格好で教会内外を歩かせるだけでも、あの子には相当な苦痛になったと思うのだけど?」
「何年前だったかしら。昔クロちゃんとアーレストに同じことをさせた時、二人のあまりの可愛さで発情してしまった変質者の男が居ましたの。教会の外にまで追い回され、押し倒されていましたわ。あの子、当時を思い出してさぞ辛かったことでしょうね。ふふっ、可哀想に」
「…………えー、と…………」
艶然と微笑む聖職者に、さすがの大司教も言葉を失う。
「だから言いましたでしょう? 私は、最初から最後まで、自分が面白いと思うことしかしませんの」
アーレストとプリシラ。
賢く敬虔な二人の問題児に囲まれていて。
よくぞ、そこまで強く、たくましくなれましたね……と。
年老いた大司教は、クロスツェルに心からの賛辞を贈った。
「これは教会からの善意の資金提供です。無駄遣いはしないでくださいね」
宿へと戻ったクロスツェルは。
プリシラから貰った荷物を二つに分けて、片方をベゼドラに渡した。
大きく見えた袋も、中身を分ければ旅の邪魔にならない程度で収まった。
カバンが必要だろうかとも考えたが、取り越し苦労に終わったようだ。
荷物は少ないほうがなにかと楽で良いとは、これまでの経験則だった。
「教会を放っておいたわりには、ずいぶん気前が良いな」
「ええ。私も、それなりの処罰は受けるつもりだったんですけどね。友人がかなり頑張ってくれていたようです」
その分、後が怖い。
なんて思ってから、善意には素直に感謝するべきであろうと。
プリシラに対する自分の考え方を恥じる。
が、やっぱり怖いと思って、苦笑いが止まらない。
「教会への対応はロザリアを取り戻してから考えるとして。昼間は、商隊の馬車を借りるか、歩きで戻りましょう。跳躍が一番速いのですが、速すぎる移動は関所に残る記録が不自然になってしまいますし、移動中の姿を人間に見られるのは大問題ですからね」
「面倒くせえ」
「夜までは我慢してください」
ベッドの上でダラダラと転がっているベゼドラにも苦笑しつつ。
窓際に置いてあった植木鉢を、そっと手に取る。
「私はクロスのコートの内ポケットに入っていれば良いのね?」
花弁の上に座っていたリースリンデが、こてん、と小首を傾げ。
精一杯腕を伸ばして、コートにしがみつく。
ポケットに入ってから顔をひょこっと出し「ありがとう。元気でね」と、植木鉢の花に手を振った。
「ありがとうございました」
そんなリースリンデにならい。
クロスツェルもお礼を言ってから、サイドテーブルの上にそっと戻す。
彼を見上げるリースリンデが、嬉しそうに微笑んだ。
「では、行きましょうか」
目指すは、西隣の国にあるらしい『静謐の泉』。
数千年の間、アリアが眠っていた場所。
現在もアリアが居るとは思えないが。
万が一の可能性と情報を求めて、三人は王都を旅立った。
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