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逆さの砂時計

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Side Story
  少女怪盗と仮面の神父 50

 飲めや歌えのドンチャン騒ぎが自然と終息した早朝。
 まだ薄暗く人気が無い村内を、一人でテクテク歩き回る。
 結局、昨夜は片付けの途中で半ば強引に帰されてしまったので、その後はどうなったのか心配していたのだが、ハウィスの家から果樹園、菜園、崖上の教会、住宅区、中央広場、自警団の詰所、酒場、砂浜、船着き場、魚用の保管庫、グレンデル親子の家、村の出入口へ続く坂道の袂まで、何処をどう見ても塵一つ落ちてなかった。
 さすが、片付けまでが宴です! と語るネアウィック村の女性陣。相変わらずの良い仕事ぶりだ。ぐでぐでに酔っ払っていた男性陣も、最後にはきっちり手伝ったのだろう。女性二人で運べるかどうかの重さだった瓶箱やら何やらが全部綺麗に無くなっている。
 (みんな、今日は昼頃まで寝てるかも知れないな。体調崩さなきゃ良いんだけど)
 家と家の隙間に横たわる穏やかな潮騒と朝を告げる鳥の声と葉擦れの音を聴きながら、村の門を目指して坂道を上る。境の一歩外へ出た瞬間から村民じゃなくなるのかと思うと、この散策にすら儀式めいた何かを感じて微妙に(くすぐ)ったい。
 「満足した?」
 門の近くで待ち構えていたハウィスが、此方を見付けてふんわり微笑んだ。
 その金色の髪は言葉では説明できない複雑美麗な形に結われ。
 その顔は、必要以上に手を入れない上品な薄化粧で彩られ。
 その体は、肘までを覆う真っ白な手袋と、銀を基調とした装飾品の数々と、新任領主に相応しく高級感溢れるレース特盛な群青色のドレスを纏っている。
 靴は円錐状に広がった裾で隠れているので断言できないが、多分ドレスに合わせた群青色のハイヒールだ。普段と比べてほんの少し目線が高い。
 言わずもがな村の空気とは全く合わない貴族の正装だが、仕方ない。要人が一塊になって動くのは良くないとかで出発時刻は多少ずらすが、彼女とリアメルティ騎士団(マーシャルを除く)も今日から当面の間エルーラン王子と共にネアウィック村を離れ、リアメルティ領の中心街で職務継承の手続きをしなくてはならないのだ。
 公的な領主交代の認証式や関連書類への署名等は済ませてあるものの、元領主から引き継ぐ屋敷と使用人達の管理等に関しては、近二代の領主達が現地で直接手を打つしかないとの事。そちらが落ち着き次第、近い将来国境に訪れる急激な変化に対応する為、以後のリアメルティ領の政務拠点は、アルスエルナとバーデル両国の王室公認でネアウィック村へ移される。
 ちなみに、貴族籍を剥奪された元領主一家だが。
 絶対知ってるだろうとエルーラン王子に引っ越し先を尋ねてみたところ、其処に関心を持っただけ成長したなと意地悪な言葉をくっ付けつつ、今は王都の片隅で一般民の生活を謳歌していると教えてくれた。引っ越し当初は「解任されて良かったよぉーっ」と一家揃って涙ながらに語っていたとも聴いた。お父様が彼らに何をしたのかは、恐ろしくて問い質す気になれない。
 「うん、ありがと。待たせてごめんね。ドレス、重かったでしょ?」
 「こればっかりは慣れるしかないもの。貴女も動き難そうよ? 足元は大丈夫だった?」
 「これこそ毎日着なきゃいけない物だし、どうしようもないもん。まさか、膝上で切り揃えるワケにもいかないしねぇ」
 斯く言う自分も、アーレストが普段着用してる物と同じ真っ白でダラダラした長衣姿だ。胸元にはアリア信徒の証である月桂樹の葉を銜えた水鳥のペンダントも掛けている。
 実際に着るのは二度目だが、白いだけあって些細な汚れでも異常に目立つし、丈が長い分結構重い。コルダ大司教もタグラハン大司教も、見た目は中年を超えてちょっと経ってる? くらいの年齢だったのに、長衣だのマントだの金物装飾だの、よくも平然と着ていられたなあと素直に感心する。さらっとした肌触りと通気性の良さだけは、繊維職人さんと服職人さんの腕に感謝したい。
 「……では、参りましょうか。お手をどうぞ? アリア信仰のリアメルティ伯爵令嬢ミートリッテ」
 くすくす笑うハウィスが、手のひらを上にして自分に差し出す。
 ああ……この瞬間が人生の分かれ道か。
 「はい。参りましょう、ハウィス=アジュール=リアメルティ伯爵」
 同じ名前を持って別の道を行く母の手に自らの手を重ね、二人で一緒に門の外へと歩き出す。
 村に残った小さな自分が、遠ざかる母子の背中に笑顔で手を振ってくれた……気がする。



 「もう良いのか?」
 門を離れ道なりに数分進んだ地点で、王族付き第一・第二・第三騎士団員の混成隊が、白塗りの豪華な馬車を一台ずつ取り囲む形で左右二隊に分かれて整列していた。右側の騎馬隊が先発する王都組、左側の騎馬隊が後発するリアメルティ領の中心街組だ。
 手を重ねたままの母子は先発隊に歩み寄り、馬車の横で待ち構えていた王子に恭しく頭を下げる。
 「はい。道中お世話になります、殿下」
 「殿下は止めてくれ。お前にそう呼ばれると背中がムズ痒い」
 「……正体を知った上で貴方付きの騎士に囲まれている現状……貴方を呼び捨てにした場合、罰を受けるのは私なのですが。不敬罪で死ねと仰いますか。顔馴染み相手に随分と残酷な要求をなさいますね。セーウル殿下」
 顔を上げてわざとらしく首を傾げてみせれば、周りの騎士の何人かが一斉にセーウル王子へ視線を投げた。ちょっぴり非難めいているのは、長年の村暮らしで一般民感覚が染み付いてしまったらしい彼に、王子たる自覚を促す為か。
 「だっ、誰もお前に死ねとは言わねぇよ! てか、んなコト言ったら俺がこいつらに殺されるわ!」
 「? 騎士に殿下を殺せる訳がないでしょう」
 「いいや、やる。こいつらなら絶対、躊躇い無く()る。」
 寒気でもするのか真っ青な顔で両肩を抱き、豪華な衣装で飾り付けた体を大袈裟に竦ませるセーウル王子。怯えを含んだ新緑色の目が捉えているのは、彼の護衛である騎士達だ。
 王子が護衛に怯えるとか、意味が解らない。
 「それに、お前はもう、アリア信仰上層の正式な関係者だ。王族(おれ)と同じ馬車に乗ると決まった時点で、よっぽどじゃない限り不敬罪は適用させられない。もっと堂々としてないと中央教会の信徒達に舐められるぞ」
 「うーん……」
 『堂々』と『図々しい』と『馴れ馴れしい』の違いについて考察してみたくなったが、これ以上の立ち話も彼に対する無礼行為か。しょうがない。
 「承りましたわ、セーウル様」
 「譲歩のつもりか!? 気持ち悪いから即刻止めろッ!!」
 「曲がりなりにも女に対して、気持ち悪いは失礼なのでは。十年越しの秘密裡な帰還とは言え、王族が礼儀に反する態度を見せては民への示しがつかないと思います。お父様に叱られますよ」
 「も、本っ当にヤメテ。お前が姪とか、嘘でも考えたくない」
 開け放たれている馬車の扉に肩を預けてぐったりするセーウル王子。此方を見ていたハウィスが何とも言えない感じで苦笑いを浮かべ、騎士達が一様に肩を揺らして……笑ってる? 笑う場面なの、今?
 「その辺にしとけ、セーウル」
 「ミートリッテさんもです」
 「兄上。アーレスト様」
 左の一団に指示を飛ばしていたエルーラン王子と、その傍らで様子を窺っていた見送り役のアーレストが、二人並んで近寄って来た。周辺に居る、セーウル王子以外の全員が慌てて礼を執る。
 「確かに、王家の方々以外の者が殿下方を呼び捨てにするなど、体面上は決して許されません。ですが、型に填まった対応しかできない人間は周囲に舐められる……というのも事実ですよ。言われた通りの事しかできません、自分からは絶対に動きませんと、己の限界を自らで証明しているのですから、当然の評価ですよね。有力者は時として下位者(ぶか)の器を上位者(じょうし)の器同然と見定めるもの。貴女に「つまらない」と札が付けば、縁を結んだ殿下方にも同じ札が貼られるのです。その点をよく考えて」
 「特にお前がこれから行く場所で待ってるヤツは、容赦無く人を()る。(へりくだ)る相手は遠慮無く踏み潰すし、隙を見せれば大喜びで取って喰う悪魔だ。ま、何事も適度に適切に、柔軟に生きろ」
 中央教会に悪魔? なんで? と内心で首を捻ると
 「また、彼女をそのように……。噂ほど酷い御仁ではないと思うのですが」
 セーウル王子も不思議そうに声を返した。
 (『彼女』?)
 「お前はあいつにとって護るべき対象だから被害に遭わなかったんだよ。弄る対象に選ばれなくて良かったな、マジで。」
 ミートリッテは十中八九ソッチ方面だ、ご愁傷様。って呟きが物凄く不穏なのだが。
 ソッチ方面て何? いったい、誰の話をしてるのか。
 脳内に疑問符を乱舞させてる自分の耳に手を添え、
 「貴女はセーウル殿下の御学友みたいな立ち位置だから。王都に着くまでの間だけでも、いつも通りに接して差し上げて?」
 ハウィスがこっそり囁く。
 本来は不敬とされる行いを、保護者役の三人に推奨されてしまった。
 そりゃあ、三人とセーウル王子は昔からの知り合いと身内で、今回の件でも協力者の立場だったから、そういう気兼ねは殆ど要らないのかも知れないが……此方は正真正銘の底辺上がりで、付き合いと言っても自警団員と一村人の枠を出ず、王子とアリア信徒では何処までが許容範囲内なのかイマイチ掴めてないのに。こういうのって、初めの内だからこそしっかり弁えさせるべきじゃないのか。
 (なんだかなぁ……)
 「分かった。一般民の前以外では、いつも通りね」
 「そうしてくれ」
 釈然としないものを感じつつも了承の意を示せば、エルーラン王子に頭をポンポンされながら満足気に頷くセーウル王子。
 (あんたは何処のお子様だ! 騎士達の冷めた目線に気付きなさいよね、まったく)
 「んじゃ、出発だ。二人共さっさと乗れ!」
 「痛……ってっ! ……ほら」
 兄に背中を強く叩かれてよろめいた弟が、それでも自然な動きで体勢を立て直し、手を差し出してくる。
 こうやって並ぶ所を改めて見ると、兄弟の容姿は華が無い辺りがそっくりだ。ずっと身近に居たから「本当は王子です」なんて言われてもピンと来なかったが、兄とよく似た隙が無い所作は、なるほど、王族だなと思わせられる。
 「……よろしくね、ヴェルディッヒ」
 「ああ」
 ハウィスから離れ、彼の手が導くまま馬車へ乗り込み、席に着く。
 「あ、そうだ。神父様」
 「はい?」
 「短期間ながら、大変お世話になりました。お礼と言っては何ですが、その顔に拳の跡を付けさせてくれませんか? 一つだけで構わないので」
 「神父として当然の事を為したまでです。なので、丁重にお断りさせていただきますね」
 「とても残念です。神父様に頂いた心理的負荷のおかげで不倶戴天な気持ちです。今は人目もある為潔く退きますが、いずれ必ずお返しに伺います。覚悟しておいてください」
 「はい。道中、お気を付けて。お二人に女神アリアの祝福が舞い降りますように」
 「「ありがとうございます」」
 全く動じてないいつもの笑顔で別れを告げたアーレストが、外側から扉を閉める寸前

 「行ってらっしゃい!」

 聞き慣れた母の明るい声に振り向き

 「行ってきます!」

 此方も、とびっきり明るい声を弾ませた。
 閉ざされた空間の外側で先導者の合図が響き渡り、やや間を置いてから、車輪がゆっくりと滑り出す。
 「嬉しそうだな、お前」
 正面に座ったセーウル王子……ヴェルディッヒが、寂しくないのかと頭を傾ける。
 七年間を過ごした最愛の故郷だ。寂しくないのかと尋かれれば、どんなに決意を固めてたって別れは寂しいに決まってる。
 でも。
 「嬉しいよ? だって」
 扉の上部に填まってる小窓の向こうで、少しずつ小さくなっていくエルーラン王子と、アーレストと、ハウィスの輪郭。
 「みんなが笑ってるもの」
 反対側の小窓に目をやれば、神々しいほどの白光が濃い青と深い緑を照らし出していた。
 今……長い夜が過ぎ去り、新しい未来が始まる。



 南方領を中心に活動していたシャムロックだが、他方領へ出向いた回数は両手の指で足りる程度だ。それも、領境から一日で移動できる範囲内が、子供の体力と精神と時間と金銭の限界だった。
 つまりミートリッテには、南方領と直接繋がる東方領か中央領の端っこまでしか立ち入った経験が無い。人口と物流と文化の規模は、幼少期を過ごしたバーデルの港町か、南方領で一番大きい街が最高基準になっていると言って良い。
 勿論、「都」と称される国の中心部が他の領地と肩を並べる程度で収まる筈がないのは解っていたが、最高基準を越える規模など、想像やら妄想やらの域を出られるワケもなく。
 要するに
 「どうしても、駄目ですか」
 「はい。貴女お一人で、お通りください」
 「どおおおおおおしても??」
 「何度でもお答えします。貴女お一人で。お通りください。」
 「うぅぅー……生きて出られる気がしない……」
 ネアウィック村と南方領の中心街全域を呑み込んでも余りありすぎる王都の大きさ・人口の多さ・途切れない商人の列・陽が落ちても下がらない熱気・いつ見ても不自然な白さが際立つ外壁の群れ等々に気圧された挙句、アーレストの教会なんか内部で幾つでも現物保存できそうなバカでかい中央教会の外観に戦慄し、「奥まではお一人でお進みください」なんぞと迷子確定な処刑宣告を受けて尚、平然としていられる田舎娘は存在しないだろう。という話だ。
 受付の席に座る長衣姿のお姉さんの清々しい笑顔が、いっそ憎らしい。
 「セーウル殿下ぁー……」
 「中央教会は治外法権だ。諦めろ」
 「デスヨネ」
 数多の雨嵐が吹き荒ぶ悪天悪路の最中(さなか)を突き進み、点在する居住地で休憩を挟みつつ馬を換え車輪を換え馬車を換え、三ヵ月近くの時間を掛けて(ようや)く辿り着いた王都。これそのものが山なんじゃないかと疑った巨大な王城の広々した客室で一泊後、第三王子の帰還に併せて次男不在の国王一家とご挨拶。更に一泊して本日、次期大司教への挨拶の為、ヴェルディッヒの案内で中央教会の関係者専用受付へ。執務室まで一緒に通されるかと思いきや、見学人や信徒達でごった返す見知らぬ建物内でいきなりの個人行動通達。
 嫌がらせか。
 王城では緊張してて殆ど眠れなかったし、出された食事なんか目でも舌でも味わってる余裕は無かったし、王家一同のご尊顔など直視できないし覚えられないし。ちょっとでも隙を見せていたら……と思うと、予め最低限の作法だけでも教え込んでくれていたヴェルディッヒには頭が上がらない。
 あ、でも。第二・第三王子の容姿は王様譲りっぽかった。王妃陛下と王太子殿下は、纏う空気からして異次元のソレだった気がする。なんかこう、体の周りで見えない花とか星とかが発光しながら飛び交ってる感じ。アーレストとはまた別の煌びやかさだった。
 と。正直な感想をヴェルディッヒに告げてみたら、地味存在で悪かったな! と拗ねられた。気にしてたのか。
 「そんなに萎縮しなくても、内部の造りは至って単調だぞ? 迷うとしたら、右へ行くか左へ行くか、手前から何番目の扉に用があるか、だけだ」
 「だって、外から見たら窓だらけじゃないですか! 何百部屋あるんです、此処!?」
 「教会正面に見える窓の数と部屋の数は一致しませんよ。今は、建物を三つに割って正面左が主に信徒達の生活・仕事区域、真ん中が一般向けの礼拝・見学区域、右側が役員達の生活・仕事区域、とだけ覚えていただければ十分です。貴女が招かれている次期大司教様の執務室は、中央に在る左右対称の階段を右へ上って右手側の廊下を真っ直ぐ進んだ先、突き当たり正面に在ります」
 (……本当かなぁ……?)
 「嘘を教えてどうする」
 「声に出してないのに!」
 「顔には出てたな」
 「純粋無垢な自分が恨めしいっ」
 「冗談を言える余裕があるなら問題無し。待っててやるから、とっとと行って来い!」
 「……はい。」
 肩を小突かれ、指定された場所へ渋々向かう。
 が。
 (案の定迷ったら一生文句を言い続けてやるーっ!)

 「……彼女も、閣下の『生贄』でしょうか。セーウル殿下」
 「……私に尋かれても困る。」

 一度擦り抜けた礼拝待ちの異様に静かで分厚い群列を再度擦り抜け、人の熱と臭いでへとへとになりながら中央階段を右へ上がる。
 言われた通りの順路は確かに単調で、突き当たりまでひたすら真っ直ぐに歩けば良いのだと一目で分かった。迷うことはなさそうだが……
 (む、無駄に広い……。いや、ちゃんと意味があっての広さなのかも知れないけど! それにしたって、突き当たりに着くまで何分掛かるのよ、この廊下!)
 さりげなく敷かれてる落ち着いた色調の絨毯とか、天井に点々とぶら下がってる豪華なシャンデリアとか、右側にずらーっと整列する扉の脇にそれぞれ飾られてる壺とか花瓶とか風景画とか、左側に等間隔で填められてる大きなガラス窓とか。
 此処に使われてる物だけで総額幾らになるんだろう? 一つでも壊したら生涯無償で強制労働させられそうだと口元を引き攣らせつつ、てふてふ歩いて行くと。
 「……っ!?」
 信じられない物が視界に飛び込んできた。
 (ま……まさか、そんな!)
 廊下の突き当たり正面に在る、焦げ茶色の堅そうな扉。その両脇に儚げな容姿でひっそりと、しかし、無視できない存在感を放って佇むあれは。
 思わず駆け寄り、触れるか触れないかギリギリの所で視線と指先を上下左右に泳がせる。
 (山型の台座から細長くも歪み無く真っ直ぐ伸びる黄金色の美脚に、絡み付くような着色ガラス製の葉っぱと茎。白濁した五枚の花弁の中央にピンと立った鋭い針と深型の金皿。そのどれもが一切の妥協を許さない、実物と見紛うほどの精密な造り込み。……間違いない。これはっ)

 「旧史一三七八年頃。バーデル王国の前体制であるアレスフィート公国の工業全盛期に、世界初の貴族女性装飾技師・フィルメランタ=クルールが作り出した元始の花型複材燭台。二十台前後の連番中、多くは歴史の流れに消えてしまったけれど、近代確認された三台の内、一台は一昔前に北大陸の内乱で焼失。一台がアルスエルナ国内で発見・修復されたそれ。右隣のは修復を担当した装飾技師が作った模造品で、もう一台はアリアシエルの教皇室に納められているわ。ふふ……あの距離から迷い無く本物に駆け寄るなんて。貴女、優れた鑑定眼を持ってるじゃない」

 「みゃぎゃっ!!?」
 その筋では大変貴重な歴史的文化遺産と呼ばれ、装飾技師と職人見習い達の誰もが死ぬまでに一度は見てみたいと血眼になって探している幻の逸品。それに出逢えた喜びと感動に浸っていて、油断した。
 まさか近くに人が居たなんて! と、反射的に身構え……
 「……あれ? 鏡? 幻聴?」
 誰も居ない。
 いや、居るには居るが。不思議そうな顔で此方を見つめているのは、水辺で見慣れた自分の顔だ。
 バンダナで覆い尽くせるよう、短く切り揃えた金色の緩やかな髪。
 南の地に在っても、何故かあまり陽に焼けない白い肌。
 陽光が落ちた直後の、ほんのり明るさを残した北西の空と同じ藍色の目。
 胸元に揺れる銀色の水鳥も、真っ白い長衣から覗く白い両膝も……
 (……ん? 膝? 出してたっけ?)
 「ふぅん? 想像していた以上にそっくりね。これなら十分楽しめそう。でも、惜しいわ」
 足元を確認しようと下げた視界に
 「此処がもう少し成長していればねぇ」
 洗濯板をぺたんと押さえる二本の腕が生えた。
 「……………………………………。」
 「あら。手触りは悪くない」
 むにゅ?
 むにゅって何だ、むにゅって。
 幻覚や幻聴にしては感触が妙に生々しい……
 「ってぇ! さすがの私でも、生の人間が触れば現実かどうかくらい判別できるわぁッ! 貴女、誰!? 何者!? というか、その手を放せぇぇえええッッ!!」
 咄嗟に両腕で胸部を庇い、大きく飛び退いてガラス窓に背中をビタッと貼り付ける。
 羞恥と驚きで潤んだ目線の先に両腕を伸ばしたまま腰を屈めている女性は、よくよく見ると自分より背が高く、胸が……大きい……。腰も括れてる……。なんたる屈辱感……。
 緩やかな髪も首筋で束ねてるだけで腰辺りまで伸びてるし、靴すら履いてない素の白い両足には僅かな傷も無く、筋肉の付き方からして美しい。
 あ。駄目だコレ。同じ顔(此方のほうがやや年下と推測)の別人に何かがボロ負けしてる。惨敗だ。
 「教会内で大声を出すものではなくてよ?」
 「誰の所為ですか、誰の!」
 「一時の感情を抑制できない貴女の所為」
 「そう言われればそうかも知れませんがっ! なんか理不尽!」
 「貴女も体験してきた通り、大人の世界で理不尽じゃないモノなんか滅多に無いわ。権力者に理不尽を訴えても、今更感満載で嘲笑の的になるだけよ。早急に慣れなさい。そして、理に適う対応術を身に付けなさい。一方的に操られる滑稽な人形に成り下がる前にね」
 「!」
 「ふふ。感情に素直な様はとても愛らしいけれど、今日は戯れる為に呼んだ訳ではないの。お入りなさいな」
 虚を衝く鋭い言葉で固まった腕を優雅な仕草で引っ張られ、開いた焦げ茶色の扉の内側へ招かれる。
 って……
 (この女性がアリア信仰アルスエルナ教会の次期大司教・プリシラ様だったのか!)




 「さて、と」
 勧められるまま客席に座った自分の手前へ淹れたての紅茶を差し出し、ローテーブルを挟んで正面の白いソファに腰を下ろしてから、膝の上で両手を重ねる。その動作には隙と呼べるものが一切無く、それでいて優雅だ。名家の令嬢、高位聖職者の肩書きは伊達じゃない、と言うべきか。
 ……切られた裾や素足には突っ込んで良いのか判らないので、目を伏せておく。
 「改めて挨拶させてもらうわね。私は、アリア信仰アルスエルナ教会の現中央区担当司教にして次期大司教・プリシラ=ブラン=アヴェルカイン。位は公爵で、この中央教会に於ける二番目の責任者よ」
 「あ、はい。私は、」
 「ふふ。貴女は良いのよ、リアメルティ伯爵令嬢ミートリッテ。私は、貴女が自覚してるよりも多くの詳細を、貴女よりも正確に把握しているから」
 「へ?」
 折り目正しい挨拶に慌てて頭を下げようとするが、軽く上げたプリシラの手に遮られてしまった。
 そして。
 「バーデル王国の港町ハーゲンで娼婦をしていたお母様ミリアリアと、一般上がりで外交書記官をなさっていたお父様ノインクロイツの一人娘。生粋のアルスエルナ人であるお二人から金色の髪と藍色の目と白い肌を授かった為に、ハーゲンでは民族意識と排他主義を根源とする迫害を日常的に受けていた。ご両親を病気で一度に亡くした後は単身でハーゲンを離れ、数ヶ月後アルスエルナ王国内ネアウィック村にて有力者の庇護下に入る。越境前から保持していた複数国の文字を書き分け・言語を聴き分ける能力は、幼少期の特殊な環境下で培ったもの。アリア信仰の教本には複雑な形の古代文字も含まれているのに、一見しただけで難無く書き写せるなんて。お父様は相当優秀な書記官だったのね。獣に追われて体得した足の速さは、アルスエルナ国内随一。手先の器用さは、修練を積ませればどんな分野でも一流の職人を目指せる可能性有り。趣味は崖観察と飛び込み。特技は裁縫と金物工作。将来の夢は、アルスエルナ史に名を残す燭台専門の装飾技師。料理の腕は良いが自覚は無し。非常に愛情深く義理堅い性格をしている一方で思い込みも激しく、斜め方向に勘違いすることも多々ある。男性不信の気が少し混じっているのは、貴女の前でお母様を侮辱し続けた人達の所為ね。恩人と定めた人間以外に噛み付く癖も、ご両親への愛情が色濃く影響しているから。大切にされたから大切にしたい……なんて、お二人が如何に貴女を愛していたのかが目に見えるような純粋さだわ」
 「なっ、ぁ!!?」
 驚きで思わず立ち上がる自分を見上げて、藍色の目が緩くアーチを描いた。
 「ど、どうして私の夢……、両親の、名前っ」
 村での惨劇時、心臓を止めて倒れた際にバッグから飛び出した義賊用の道具類は騎士達に気付かれていたが、燭台の構成図を描き連ねた簡易本は誰も見分しなかったと聞いたし、結局誰にも話さなかったから、自分が本気で装飾技師になりたがっていた事は、自分以外の何者も知り得ない筈だ。
 それに、両親は互いを「ミリー」「ノイ」と愛称で呼び合っていた。二人の本名など、実子の自分ですらはっきりとは覚えてなかったのに。
 「友達が教えてくれたのよ」
 「友達?」
 長年隣国で暮らしていた両親を知り、次期大司教とも繋がりを持ち、他人の心まで読めてしまう人間がいるのか? と首を捻りかけ
 「お座りなさい。此処は誰が・どうしてを解く場所ではない。貴女の覚悟を問う席よ」
 再度プリシラの手に着席を促され、戸惑いながらも黙って従う。向かい合った年齢違いの同じ顔が満足そうに頷いた。
 「貴女は私の補佐兼後継者として中央教会にやって来た。故に私は、後継者である貴女を犬猫のように可愛がったりはしない。苦しい時、辛い時、寂しい時も、私は貴女を庇わないし、助けない。総て自分で考え、自分の力で対処しなさい」
 一切の甘えを許さないと切り捨てるプリシラに、一瞬息が止まる。
 罰の意識を除いても、重責を担う者になる以上そういった覚悟はあって然るべきだと解ってはいたが……改めて突き付けられると少々胸が痛む。
 「……はい」
 動揺が滲む返事だ。不様にも震えてる。
 かと言って、今更退く気は微塵も無いが。
 「……良い目ね。強い意志を感じる、生きた目だわ。貴女を選んで正解だった」
 「え?」
 此方をじっと観察していたプリシラが自身の分の紅茶を一口飲み、ふう……と息を吐いて
 「アーレストとは何処まで進んだの?」
 「…………は?」
 唐突に話の腰を折った。
 「だぁーからぁ。アーレストよ、アーレスト! 話は細部まできっちり届いてるんですからね! 抱き合って口付けを交わしてたんでしょう? まさか、まだ一線は越えてないとかトロい事は言わないでしょうね!?」
 「は……っ、はいぃーっ!?」
 (突然何を言い出すの、この女性! 誰が、誰と、何だって!?)
 「全身をぐっしょり濡らして、それはそれは情熱的に身を寄せ合ってたそうじゃない。隠したって無駄よ!」
 「それは多分、崖下の河に落とされた時の救助活動です! 口付けされた覚えはありませんが、あるとすれば人工呼吸だと思われます! 誰に聴いたかは教えてくれそうもない予感がするのでこの際置いときますが、大いなる誤解で勝手な妄想を過剰に膨らませないでいただけますかね!? 神父様とそんな関係になる予定は未来永劫有りませんから!!」
 此処でもか。聖職の本山に来てまでも恋愛話なのか。
 (もー確信した! 恋愛脳は女性みんなで一蓮托生なんだ! 間違い無い!)
 自分とそっくりな顔が目と鼻の先で嬉々として恋愛を語るとか、勘弁してほしい。この遣り取りだけで一気に三十年分くらい老けた気がする。
 「そうなの?」
 「そうなんです!!」
 精神的にぐったりな自分を見て、首を傾けるプリシラ。
 「そう……やっぱり、駄目なのね」
 「?」
 独身女性に知り合い男性との縁結びを推奨するお節介なオバサマそのものの勢いで身を乗り出していた彼女は、またしても急にご令嬢の空気を纏って居住まいを正し、苦笑いを浮かべた。
 「あの子、極度の 人間恐怖症 だから。幼馴染(わたし)とそっくりな顔で性格が真逆な貴女になら心を開いてくれるかも知れないって、期待してたのよ」

 「……………………………………………………?」

 おかしい。なんか、言葉の途中で変な雑音が混じったような……
 「あーあ。今年も、年齢そのまま恋人不在歴更新……か。残念だわ。アーレストってば本当、おちょくり甲斐が無い子。いつになったら人間に馴れてくれるのかしら」
 「雑音じゃなかった! 神父様が人間恐怖症!? アレで!? ドコが!?」
 『ふてぶてしい大臣』と称えるべき態度の数々を思い出し、ありえない音の並びを全力で否定する。
 が、プリシラは目線を落とし、悲しげに眉を寄せた。
 「あの子、人前ではいつでも笑っていたでしょう? 女性の前では特に」
 「……はい。一部例外はありましたけど、大体は人好きのする笑顔で」
 「それがあの子を護っている「仮面」の一つよ」
 持っていた茶器をローテーブルの上に置き、バルコニーと部屋の境にある大きなガラス窓の傍らへ移動するプリシラ。
 「貴女、この音にどれだけ耐えられる?」
 形良い爪先の実体と影が透明な板の表面で重なり……

 きゅ…… っきぃいいいいいーーっ

 「ふ……っ、ぎゃああぁぁあっ!!」
 と、室内の空気を無残に引き裂いた。
 咄嗟に両耳を塞ぐも、全身を震撼させる不快な音は耳奥に貼り付いてなかなか消えない。
 「私達には聴こえないけど、アーレストが生まれた時からずっと、彼を視界に入れた人間の大半……主に女性が、こういう音をいきなり大音量で出すんですって。しかも、一度目二度目と顔を合わせる度に音質が酷くなるらしいわ。年齢を重ねるにつれてある程度は防御できるようになったみたいだけど、それでも、生きている限り全てを防ぎ切るのは不可能よ。彼以外の誰かに反応した音まで拾ってしまうと言うし、生れつき耳が良いあの子には毎日がとんでもない苦痛でしょうね。だからこそ、誰にでも等しく作り物の笑顔を振り撒いて期待の芽を摘み、必要以上の接触を拒んでいるの。多くの女性は自尊心や自衛心がとっても高くて、自分だけを特別視してくれないと解った途端、相手を観賞「物」扱いして距離を置くか、「こっちから願い下げだ」と勝手に身を退いてくれるから」
 「……こんな音……生まれてから、ずっと……?」
 頭痛にも似た鋭い痛みの所為で、細めた両目に涙が滲む。
 ふと、教会のアプローチに一人で佇んでいた彼の顔色を思い出した。
 (あれは……もしかして、女衆から離れて耳を休めてたの? でも)
 「村の音は心地好いし、私の音は綺麗だって……」
 「遥かな昔、世界はとても小さな鈴の連なりで編まれ、その繋がりと個々の音に依って美しい旋律を奏でていた。けれど、いつかの時代、何処か一か所に狂った音が雑じった所為で、其処から歪んだ旋律が全体に拡がってしまった。アーレストが産まれた時にはもう手の施しようが無いほど歪んでいた為に、彼は時間も場所も選ばず「助けて」と悲鳴を上げ続ける羽目になった。睡眠時以外何をどうしても泣き止まない赤子の世話で心身共に衰弱してしまったクレンペール家一同は、王妃陛下の助言に従い、彼を王城へ預けてみた。彼は、人の出入りが制限された王城の片隅で(ようや)く安らぎを得たそうよ。そうしていつしか意思が芽生えると同時に、歪みの原因の半分以上が人間の感情だと気付いてしまった」
 「旋律を歪ませた原因の大半が、人間の感情?」
 「人間の独占欲や支配欲や害意……自分以外の生命の在り方を自分に都合良く定めたい・縛り付けたい、自分だけを見て欲しい、自分と同じかそれ以上の想いを返して欲しい、自分の気持ちに添った言動だけを見せて欲しいと願う、相手の事情や気持ちを少しも考えてない身勝手な好意が、自分自身の音を狂わせ、周囲の旋律に悪影響を与えるの。例えば旬を無視していつでも食べられるように作り変えられた野菜。例えば家畜として閉じ込められ与えられる飲食物しか口にできない動物。例えば川の流れを無理矢理変えたり、本来其処には無かった動植物を連れて来たり植え付けて生態系を崩したり。植物には植物の、動物には動物の、そう在るが為に越えられない明確な線が有って、それ故に世界は均衡を保っていたのに。人間はそれらを全部、自分の都合だけで破壊しているでしょう?」

 『それに、ネアウィック村は総じて音が心地好い。必要以上に理を捻じ曲げず、生命が活力に満ち溢れている証拠です。此方に来るまでの街等では胸を引き裂かれる思いでしたが……こうした場所が残されていると知れて、僅かに救われました』
 『貴女にも聴こえているでしょう? さざ波の声、鳥や虫達の歌、風の囁き、植物達の語らいが。此処には無駄な物など一切無く、全てが輪を描いて繋がっている。あらゆるものが産まれ、生きて、死を迎えても地へ水へ還り、新たな命を育む糧となる。途切れることなく続き、されど二度と同じ旋律は辿らない、限られた刻の多重奏。私は、これ以上に美しい音楽を知りません』

 「…そうか。神父様が言ってた音って、命の声そのもの、なんだ」
 「そう。歪んだ旋律とは即ち、万物の悲鳴。断末魔よ。人間が幅を利かせる王都で生まれ育ったあの子にとって、人の手が殆ど入っていないネアウィック村は良い療養所になったことでしょう。……此処まで言えば解るわね? 貴女の音が私と同じく「綺麗」なのは、一聖職者として……あの子の親友として少々残念だったわ。叶うなら貴女に、彼を孤独から救ってもらいたかったのだけど」
 狂った音は、手前勝手な好意や欲や害意の表れ。
 つまり「音が綺麗」な自分の本心には、彼に対する興味が全く無い。
 彼を見ていたい、近付きたい、知りたいと思う程度の関心すら無い人間に、彼は決して救えない。
 「……すみません」
 (これから聖職者になろうとしてる人間が、近くで苦しんでる人に気付けなかったとか……いや、気付けと言われても、相手が相手だけに難易度が高すぎるけども! でも、考えてみれば誰もが苦悩を表に出してる訳じゃないし、平気な顔して抱え込んじゃう人って結構いるよね。多分私は……アリア信徒は、アーレスト神父みたいな人達の苦しみにこそ気付いて寄り添えるようにならなきゃいけないんだ)
 世界の意識を変えるには、上っ面だけの救済じゃ意味が無い。
 「元はと言えば人間に好かれる事を恐がってるアーレストが悪いんだから、貴女が謝る必要は全然無いわ。私だって、あの子が唯一自発的にしつこく纏わり付いていた相手が男性だった時点で匙を投げてるし」
 「しつこ……? そういう相手がいたんですか?」
 「今は遠くへ行ってるけどね。アーレストの前で音を大きく高くする人間が多い中、たった一人、小さく低くなる希少種だと言っていたわ。だからか、傍に居ると落ち着くんですって。美姫の名を欲しいままにするこの私を恐がっておいて、男性にはがっちりべったり絡み付くのよ? 憎たらしいったらありゃしないっ! 確かに、男性にしておくには勿体無いくらい綺麗な子ではあるけど!」
 (がっちりべったり? 男性に?)
 「……衆道?」
 「それ、本人達には絶対言わないほうが良いわよ。修行徒時代、二人共本気で被害者になりかけてね。以来、アーレストはともかく、もう一人のほうがその手の話に並々ならぬ嫌悪感を抱いているの。私が一般民の前で肌を曝す際どい女装をさせた所為だけど」
 「さらっと酷い告白!」
 「業腹な似合いっぷりだったわ」
 「教会で何をやってるんですか、貴女!?」
 「友達とは遊びたいじゃない」
 「遊びの定義をもう少し優しく、普通のものにしてあげましょうよ!」
 「「普通」の定義は「つまらない」よ。せっかくの人生、楽しまなくちゃ。主に私が。」
 悪魔だ。
 エルーラン王子の言葉は真実だった。女悪魔が教会に巣食ってる。
 もしやアーレストが度々自分の顔を見ては逸らしたり微妙な表情になっていたのは、プリシラのこういう悪魔的所業の所為か。自分とプリシラの顔を重ね、別人だと判っていても直視できないほどに恐がっていた、と。
 惨い。
 (何処の誰だか知らないけど、女装させられた人……ご愁傷様です……って、そういえばお父様も「ミートリッテは十中八九ソッチ方面だ、ご愁傷様」とか物騒な台詞を呟いてなかったっけ……?)
 いやぁーな予感に顎を持ち上げられて、プリシラの目をそろりと窺った瞬間。
 「っ……」
 自分と同じ顔なのに、思わず息を呑んでしまう妖艶さで微笑まれた。
 どうしよう。
 怖い。
 「……一応、数日間の付き合いしかない貴女にも親しい人向けの仮面を見せてくれたみたいだし、多少の進歩はあったってことで、アーレストの件は以後経過観察ね」
 ふわふわ泳ぐ裾を蹴りながらソファに戻ったプリシラが、優雅な仕草で紅茶を一口。手で持った受け皿の上に茶器を置く。
 「貴女にはこれから私の実家で最低でも五年を掛けて令嬢の振舞いと貴族の職務を徹底的に覚えてもらいます。補佐の仕事に関してはその後、様子を見ながら徐々に習得させていくつもりよ」
 「ごっ……五年!? 令嬢の振舞いはともかく、どうして貴族の仕事……」
 「アーレストに説明されなかった? アリア信仰の大司教はそれぞれの国で国主級の相談相手や家庭教師を務めたり、アリアシエル開催の定例会議で各国の代表者達と顔を合わせる為、その後継者の選定条件には「文字の読み書き」や「外国人との淀み無き会話」が含まれるほど高度な教養と完璧な礼儀作法が求められているの。それらは一年や二年で身に付く軽々しい物ではないわ。だから、中央区司教第一補佐の修業期間は、一般修行徒のそれよりもずっと長く厳しい。特に貴女の場合、先日入信したばかりで貴族社会や聖職に関わる実効知識は皆無に等しく、教会内に於ける信用度も零からの始まりでしょう? これといった特色も無い状態で突然「二代後の大司教です。よろしくお願いします」と顔出ししても、役員達の間で無用な軋轢を生じさせるだけよ。まぁ、顔見せ当日から私と同等量の仕事を失敗無く熟してみせるとかで周囲の人間を即時納得させる自信が貴女に有るのなら、全過程を省いてあげても構わないけれど……」
 思わせぶりに逸れた視線を辿り、バルコニーを背負う向きで設置された机の上下周辺に山積みされた無数の紙束を捉える。その体積、ざっと見、アーレストの教会で処理してきた書類の二十倍以上。
 「一日分の、まだ半分」
 「ぜひべんきょうさせてください、しゅぎょうだいすきです、なんねんでもがんばりますよ、ほんとうに。」
 「頼もしいわ。頑張ってね」
 「はい、よろこんで。」
 この女性(ひと)、いつ寝てるんだろう。部屋の四分の一は書類で埋まってるんだが。あんなの、一日で対処できる量じゃない。恐らく一週間でも無理だ。しかも、まだ半分って。素人が手を出したら、腱鞘炎どころか脳にも異常を来すんじゃなかろうか。発狂してないのが不思議だ。自分もいつかは同じ量の仕事を任されるのかと思うと、気が遠くなる。
 しかし……
 (次期大司教の第一補佐って、厳密には「出世を確約された修行徒」の扱いなのね。だから、条件さえ満たしていれば何処の誰が選ばれても問題無かったんだ。文字の読み書きや外国人との流暢な会話となると、ごく普通の一般生活じゃ然う然う習得できないし、今までは貴族とか商家出の信徒から選出されてたんだろうけど)
 現時点の自分は一般信徒よりも実務に遠く、一般修行徒よりも経験不足で、教会関係では何の権限も無いし、人的な繋がりも期待は薄い。与えられた準備期間でも足場構築に間に合うかどうか。加えて、信仰心の有無を問われたら「ごめんなさい」としか言えない現実。
 これぞまさしく、役立たずの極致。
 (焦っても仕方ないって、判ってはいるんだけど……)
 あまりにも無力だ。
 そう、溜め息を吐きかけ
 「聖職に直接関われなくても、貴女がやれる事はたくさんあるでしょう?」
 「ぐふっ」
 喉で引っ掛かった。
 「あの……国政や宗教に携わる方々って、心を読む力でも持ってるんですか?」
 「だとしたら、それはそれで楽しそうね。誰も彼もが正直な嘘吐きにならなきゃいけない世界。どれだけの腹芸師が心労で倒れるか……ふふ。見物(みもの)だわ」
 発想がえげつない。
 「顔色・目線・眉や指の動き・瞬きの回数・声の出し方・間の置き方・言葉選び・言葉や態度への反応。私達が見ているのはそういう部分よ。新規事業を成功させたいのなら、貴女はまず、その真っ直ぐな感情を操れるようになりなさい。無邪気なだけの子供に未来を委ねる人間はいないのだから。とりあえず、書簡を確認させて頂戴」
 「……私のほうが使者だと、確信してるんですね」
 「アルスエルナ国内で自生するコーヒーノキを見つけるなんて、バーデルにとってもアルスエルナにとっても、私にとっても想定外だった。この情報は一刻も早く正確に中央教会へ運ばなければ、リアメルティ領で血生臭い混乱が起きてしまう。速さ優先で、中央に召喚されているアリア信徒が直接手渡すか。正確さ重視で、大森林の管理権を預かっている近二代のリアメルティ領主のどちらかが届けるか。他の人間なら迷う局面でも、エルーラン殿下なら危険を承知で当事者を素早く動かすわ。一番大切な事は決して見失わない方だもの。……よく両陛下の前で口を滑らせなかったわね? なんとか取り上げようと揺さぶりを掛けられたでしょうに」
 「ハウィ……リアメルティ伯爵も命懸けで動いてるので、私も気取られまいと必死だったんです。王城は恐すぎます。壁一面に目や耳がびっしりくっ付いてるみたい」
 袋状の右袖に左手を突っ込み、内側に縫い付けた布と袖の隙間から手拭いで包んだ四つ折りの書簡を取り出し、プリシラへ渡す。
 「言い得て妙ね。城で僅かでも心を休められたのは、後にも先にも王妃陛下に全力で保護されていたアーレスト一人だけだと思うわ。あそこには所属違いの「影」達が跋扈してるから」
 「やっぱり。夜中に四方八方から見られてる気がしたんですよねぇ……。いつ襲われるかとヒヤヒヤでした」
 白地に黒いインクで記された内容と赤い紋様を確認した彼女は、一つ頷いた後、書簡を再度四つ折りにして自らの左袖へ仕舞った。
 これでやっと一息吐ける。
 「それ、半分くらいは「影」じゃないし、「襲う」の意味が違うと思うわ」
 「へ?」
 「セーウル殿下に感謝なさい。貴女よりも寝不足で、今頃はふらふらしてるわよ。彼」
 「??」
 「ふふ。こういう話は他人事だからこそ面白いのよね」
 ころころと笑いながら「頑張りなさい」と言われても、意味が解らない。
 怪訝な顔を傾げる自分にプリシラは笑みを消し、真剣な目を向ける。
 「リアメルティ領内に在る大森林の開拓権を寄進する旨、中央教会で正式に受領しました。以後、大森林に手を加える際は、誰の・どのような目的であっても、必ずアリア信仰を通していただきます。……土地そのものに手を出せないなら権利を遠ざけてしまえ、なんてね。やるじゃない、ミートリッテ嬢」
 「……バーデルの命綱をぶった切る発見ですから、国境付近にそのまま置いておくのは危ないって思っただけです。実際、発見者の私に密輸罪を吹っ掛けて大森林の所有権まで主張するくらい必死でしたし」
 コーヒーノキは西大陸南部が原産の植物だ。その果実から採れる種子(焙煎済)は先の大戦以前から中央大陸にも少数輸入され、富裕層の間でのみ売買されていた。
 が。
 戦後、バーデルの最南部でも自生するコーヒーノキが発見され、国を挙げての栽培計画が成功を収めると、中央大陸全土での需要が一気に高まった。
 コーヒーノキと生の果実(種子)は必然的にバーデルの国有財産となり、現在は他国での栽培阻止……要はバーデルの利益保持の為、国外への持ち出しを極刑付きで全面禁止にしている。
 大森林で額を打った団栗がまさかのコーヒーの生果だったと知った時は、本気で死を覚悟したものだ。自分のあやふやな証言で一緒に未開拓の森奥を探し回り、複数の場所で自生成熟したコーヒーノキを見付け出してくれた騎士達は、正真正銘、命の恩人である。
 「コーヒー製品はバーデルの特産品であり代名詞。憎いアルスエルナに奪われるなど、到底受け入れ難い話よね」
 「はい。ですから、バーデル国王の代理人と軍の代表者、私と二世代領主と大司教様方が協議した結果、領土管理はリアメルティ領主。開拓に関わる全権利はアリア信仰。労働従事者の監理はリアメルティ領主及び国境を挟んで隣合わせのベルゼンディ領主で、労働力の紹介と派遣は私とバーデル側の担当者で半数ずつ。コーヒーノキは二国の技術連携で栽培・管理。販路はアリア信仰を通した全大陸。売り上げの配分は試作品が完成した後の調整、という形に落ち着きました。表向きは。」
 「表向きは、ね」
 「事故に見せかけた追突とか転落とか賊もどきの襲撃とか、二度と体験したくないです」
 「残念! 要人の日常茶飯事よ。人気者は辛いわね」
 「ええ、ええ。仕舞いには刃物が飛び交う大草原を笑いながら追い掛けっこしましたよ! こうなりゃヤケクソだこんちくしょーって叫んだら、言葉遣いを正せ愚か者ーって怒鳴られましたけどね! 何故か、両国からの追手全員に!」
 「楽しそうでなによりだわ」
 「解せませぬ!」
 「可愛い子には可愛い振る舞いをして欲しいものなのよ。殿方としてはね」
 「……追手の性別も友達情報ですか?」
 「さぁ? どうかしら」
 膝の上に置いていた茶器をローテーブルへ戻し、音も無く客席の横に立ったプリシラが、自分の手を取ってゆっくり立たせる。
 「ねぇ、リアメルティ伯爵令嬢ミートリッテ。味方である筈のアルスエルナ国王にまで襲われかけたのに誰も助けてくれない理不尽な世界で、これからもずっと生きていける? この先何が起きても、此処に来た事を後悔せずにいられる?」
 自分を試すように覗き込む一対の藍色。一切揺るがない、痛みを感じるほど真っ直ぐな視線。
 その目の奥をじぃっと窺い……ふ、と笑う。

 「無理です。」

 「……そう」
 「はい。生きてる限り、人間は必ず後悔します。その時々で最善の選択をしたつもりでいても、別の可能性を見付けた瞬間に「もしかしたら」と思っちゃうんです。想像力が決意を邪魔しちゃうんです。でも、想像力が無ければ人間は生きていけません。だから、後悔はします。今は良くても、いつか、きっと」
 「……後悔したら、逃げる?」
 「いいえ。既に起きた事から逃げても過去は変えられない。膝を抱えて周りに八つ当たりして泣き喚いて駄々を捏ねてたって何も得られないし、みっともないだけ。なので、後悔した時はそれから先どう生きるかを考え直します。そして、死ぬまで後悔を繰り返します」
 「終わりが無い後悔を続けるの? 一生?」
 「はい」
 「そう……」
 「! プリシラ様?」
 固く閉じた蕾も綻ぶ温かい笑みを浮かべ、ふっくらした唇が戸惑う自分の額に触れた。
 「ようこそ、アルスエルナ中央教会へ。貴女を歓迎するわ、ミートリッテ=ブラン=リアメルティ第一補佐。先程も言った通り、私は貴女を助けない。でも、話し相手にはなってあげる。貴族教育や人材発掘で追い詰められた時は、私を相手に愚痴を溢せば良いわ」
 名前の呼び方と笑顔の質が変わった。
 本当の意味で迎え入れられたのだと悟り、嬉しいような恥ずかしいような照れ臭いような、そわそわした気分に襲われる。
 でも。
 「謹んで遠慮させていただきます」
 「あら、どうして?」
 「その……弱味にされそうで、すっごく怖いから」
 「まぁ! 聡い子は好きよ」
 (否定しないし!)
 「逃げ惑う獲物を上から眺めるのって、とても楽しいわよね」
 (獲物認定されてるし!!)
 誰だ。こんな危ない女性に実権を握らせた奴は。
 怒りたいから是非とも出て来てもらいたい。
 「ふふ。冗談はさておき……」
 (本気しか無かったよね、今)
 「貴女には本当に期待しているの。私も司教になって日が浅いし、急がせるつもりは無いけれど。貴女が私の隣に立って支えてくれる日を、此処で心待ちにしているわ」
 「っ……」
 白く細長い指先が自分の前髪をふわふわ撫でる。優しくて温かくて……まるでハウィスに撫でられているみたいだ。心地好さで頬に熱が集まる。
 「……プリシラ様、私」
 「二代続けて同じ顔の大司教って、絶対波乱を呼ぶと思うの。主に上層部で。こんな面白い話、見逃す手は無いわよね!」
 「帰って良いですか」
 「ダメ」
 「ですよね」
 (ごめん、ハウィス。愉快犯と貴女を重ねた事に対して、罪悪感が半端無いよ)
 目の前で微笑む人物に振り回されてる碌でもない未来が容易に想像できて、(つら)い。頭がくらくらしてきた。中央教会に足を踏み入れたばかりで何も為さないまま早々と後悔しそうになってるが……
 ふるふると頭を横に振って、気持ちを入れ替える。
 (ハウィス達が私の支援を待ってる。私は此処で、私ができる事をしっかりやらなくちゃ)
 「プリシラ様」
 両手で拳を握り、どうやら自分の存在で遊ぼうと企んでいる直属の上司を見据えると、彼女は「ん?」と首を傾けた。
 「愚痴は……たまには言っちゃうと思います。けど、私が貴女に望むのは話し相手ではなく、次期大司教の補佐に相応しい人間を育て上げる事です。手助けは必要ありませんが、私が貴女の隣に立つその日が来るまでは、何があってもずっと見ていてください。お願いします」
 「……ただ見ているだけで良いの?」
 「はい」
 誰かの成長を見つめ続けるのは、もどかしさのあまり手を出したくなったり不安で見ていられなくなったりと、実は結構難しい。
 だからこそ、誰かが見てくれているという事実は自分の足で歩く為の確固たる力になる。
 いつか貴女達の元へ辿り着き、更に先へ進む。その為の力に。
 「……気高き者ミートリッテ=ブラン=リアメルティ。貴女に、女神アリアの御加護があらんことを」
 貴族の令嬢でも、他人を揶揄って遊ぶ恐ろしい女性でもない、次期大司教としての厳粛な空気を纏ったプリシラが、自身の胸元よりもやや上辺りで左手のひらを翳す。
 上位の聖職者が下位の聖職者に贈る祝詞だ。上半身を軽く折り、黙してそれを受け止める。
 「本心から、貴女の成長を楽しみにしているわ」
 「……はい。精一杯、努めさせていただきます」
 上体を起こし、再度同じ顔を見合わせる。しかし、どちらの顔にも笑みは無かった。

 過去、南の地を駆け回ったすばしっこい山猫はもう、何処にもいない。
 風に乗った三つ葉は大地の中心へ降り立ち、やがて見渡す限り一面を鮮やかな緑色に染め変えるだろう。
 遠く離れた愛しい者達へ届きますようにと、願う心そのままに。

 
 


 ……ところで。
 コーヒーの実がぶつかってきた時に聴こえた偉そうなあの声は、結局なんだったのか。アーレストに何度確かめてみても、そんな声は知らないとしか返って来なかった。
 時間の経過と共に、自分でも本当に聴こえていたのかどうか自信が失くなっていく。
 (やっぱり、幻聴だったのかなぁ)
 白いバルコニーが映えるくっきりした青空を見上げ、ミートリッテは無言で首を捻った。

 
 

 
後書き
 【とある見届け役の嘆き】

 せっかく作った餌場が、またしても人間に奪われた。
 バーデルはともかく、こっちは自分から知らせたも同然だし、仕方ない。
 仕方ない、の、だが……
 あの娘! エルナとそっくりな容姿第五号のミートリッテ! あれは赦せん!
 誰が偉そうだ、誰が! 殺気を遮断してやったり、助言してやったり、アーレストに掛けてある防音障壁を一時的に解いて協力してやったりと、こんなにも親切な女神は他におらんのだぞ!?
 深い敬意と謝罪を要求するッ!!
 全く……あの(アルス)(エルナ)は、子々孫々私を困らせ続けるのだから始末に負えない。唯一褒められるとしたら、アリアシエルに次ぐアルスエルナの立国で、血脈をこの地に固定してくれた事だけだ。勇者一行のように世界中を跳び回ったりしない分、追跡がかなり楽になった。
 国内では至る所でやりたい放題だがなッ!!
 大森林なら近場の人間でも滅多に立ち入らないからと安心してゆっくり育てて、漸く美味い実をつけ始めたばかりなのに。
 ああ……。自分自身の迂闊さが憎い……。

  
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