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王道を走れば:幻想にて

作者:Duegion
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第三章、その2:西日に染まる


「街に出たい」
「却下です」
「えー」
「午前の御予定が御座います。まずーーー」
「つまり午後からはいいって事ですね?よぉーっし、ちょっと準備運動してきーーー」
「其処にお座りになりやがれますか、異界の若人様?」
「さーせん」

 王都の宮殿に朝は昇る。格式ばりつつ温かみを忘れぬ政務の朝だ。官位を受ける誰もがこの朝を経験し、貧しき木の家で過ごした日々を唯の思い出と化していかねばならないのだ。
 それは正真正銘言葉通りの異界人である御条慧卓にとっても同じく適用される。時と場所を選ばずにだ。だから彼は朝食のゆったりとした気分を味わえない出るのだ。侍従長のクィニによる本日の予定の説明が、まるで寝起きにコーラを飲まされるかのような苦行に思えてくる。

「先ず朝食を終えましたら熊殿も交えまして、侯爵閣下を初めとした皇位の貴族の方々との御歓談を御用意させて頂いております。各街から王都の方に御帰還されている造営官や財務官、そして王国の各大臣など、お国の政に携わっておられる高貴な方々です。決して粗相の無いように」
「(このパンおいしぃ・・・)粗相ってどんな感じです?エグイ冗句は禁止って意味ですよね?」
「どんな事を申されようと?」
「『身分不相応の力を持つと、つい隣国を襲いたくなりますよね』とか」
「絶対に言われてはなりません!!異界の方とはいえ、そんな事を申されて良い筈がありません!!斬首は免れませんよ!!」
「で、ですから冗句ですって・・・ハハハ・・・」

 からからと乾いた笑みを漏らす慧卓をクィニは閻魔の如き容赦の無い瞳で睨んでいる。彼女は冷静な口調を取り戻すと、再び説明を始めた。

「それが終わる頃は大体正午の半刻前でしょう。その時になられましたら、今度は再びこの部屋に戻って頂き、この世界について知るべき事を幾つか御講義をさせていただきます」
「講義ですか・・・どのくらいの濃度で?」
「そうですね・・・王都の神学館の講義を3/10とすれば、此方は8/10の濃度でさせていただきます」
「・・・・・・甘いものを用意してもらえます?」
「何故、そのようなものが?」
「疲れた頭には甘いものがとても効くのです。癒しや、疲労の解消などにね」
「成程・・・そのような効用があるとは存じておりませんでした。果汁のジュースなどでも宜しいでしょうか?」
「是非、お願いします。ところで、講義をしてくれるのは何方でしょうか」
「初日にてケイタク殿の湯浴みの御奉仕をさせておりました、リタに御座います。彼女について、何か御不満な点でも御座いましたか?」
「いえいえ、寧ろ喜んで受けさせて頂きます」
(これはひょっとしたら・・・ワンチャンスあるぞ)

 湯浴みの際に二人でし合った奉仕を思い起こし、慧卓は仄かな期待を抱く。瞳が俄かにいやらしさで傾いたのに気付いたか、クィニは慧卓が気付かぬほど微細に瞳を細めた。

「昼食につきましてはクマミ殿とお二人にて、御願い申し上げます」
「?あの、コーデリア王女や、アリッサさんは?」
「あの御二方は前者はいうべきに及ばず、後者につきましても王国に多大な御貢献をなされた偉大な騎士である故、その責務の全うは非常に重大な事が多く含まれているのです。ケイタク殿と昼食を共に出来ぬ以上に重大な事が」
「そうですか・・・すみません、無理を言ってしまって」
「いえ、お気になさらずに。取り敢えずは身支度を整えさせていただきます。さぁケイタク様、此方に侯爵の方々と御歓談するに相応しき衣装をご用意させていただいております。どうぞ此方の方へ」
「・・・ちなみに聞きますけど、まともに貴族として此処で暮らすとしたら、一日何回着替えます?」
「そうですね。衣装の交換は官位の高低や人の好みによりけりですが、私が知る限り最も多い方で、五回はありますね」
「五回分の汗を出すまでに脱水症状で死んでますね」
「貴方の場合、その前に緊張で胃を潰しているでしょう。さぁ、時間に猶予は御座いません。早く此方へ」

 彼女が手を差し出す方から侍従が二名、慧卓のために用意された黒の正装を手に持って現れた。朝食の締めである芳醇な果汁のジュースを飲み干し、慧卓は「黒ばかりじゃ飽きるなぁ」と思いつつ、その方向へと足を進めた。
 時は既に刻四つ半。朝の政務は既に始まっており、さながら渦を巻く水面のように慌しさを伴っている事だろう。慧卓もまたその渦中で暫しの間、揉まれる羽目となるらしい。




「ふーん、そういう事だったのね」
「超疲れました・・・」

 昼時、二人の人間が顔を合わせて昼食をとっていた。一人は慧卓、もう一方は熊美である。それぞれの用を片付けた後に共に昼食を採る事となっていたのだ。
 ぐってりと食卓に額をつける慧卓を見て、熊美は湯気薫るトマトのスープを口に入れながら尋ねた。 

「何はともあれ、お疲れ様。貴族との歓談は激務よね?」
「分かってくれます!?あれ本当にシンドイんですよ!皆海千山千の老練な政治家ですよ!下手な嘘つきゃそれとなく釘を刺されて、言葉を拾えばその意味を問われてその本質について延々と話されるわ・・・まだこっちが若いし新鮮な人だからって俺を立ててくれますけど、これ一月もしないうちに何かしないとマジでヤバイんですよ!!何がって?俺を立ててくれたあの人達の立場ですよ!!」
「落ち着きなさい、苦しいのは分かったから!!」

 一喝。綿で締め付けられたかのように心から余裕が抜け切っていた慧卓はびくりと震えて、項垂れるように食事に集中し始めた。いきなり顔を合わせる事となった大貴族の方々に何を言われたかは推測できないが、その中身は大方知れた。『期待している』、『相応の働きをしてくれ』、『良き結果を生み続けてくれ』、『見損なわせるような真似はしないでくれ』等々。宮中に入るまでの大量のステップを無視して入内した慧卓にとってはその言葉は錨のように重苦しいものであり、その誠実さゆえに心中に大きなストレスを抱えてしまったのだろう。取り柄無しの学生が急に大株式会社に入社させられ、取締役委員会他重役の方々に直接声を掛けられるようななものだ。
 食事に没頭する傍ら慧卓の意識が確りと自分に向けられて二言目を待っていると悟り、熊美は語っていく。

「・・・あのね、慧卓君。貴方の心労は理解できるわ。私だって、此処に召還された時はそうだったもの。いきなり首相や将軍クラスの人間から期待の目で見られるのよ?逃げ出したくて、期待に応えたくて、まともじゃいられなかったわ」
「・・・そうでしたね。というか、俺より酷い状況だったんでしょ?」
「そう、ね。でも状況が酷いか酷くないかなんて重要じゃないの。その人自身の価値観と覚悟によって、状況なんて二転三転景色を変えるから」

 慧卓がついと顔を上げる。不敵ななんとなしに弱気な色を瞳に浮かべていた。熊美は一つ一つの言葉を吟味しながら、ゆっくりと彼の心の深奥を温めるように言う。

「慧卓君、これだけは覚えておいて。大きな偉業を成し遂げるには、想像も出来ないような計り知れない時間が要るの。そしてその準備の一歩は必ずしも冷静なものとも、効果覿面なものともいえない。でもね、何時か、何時の日か、その経験は己を助ける事になるのよ」
「・・・はぁ」
「貴方には時間がある。沢山の時間が。今の自分を見詰めるのに一日くらい費やしても誰もとやかく言わないわ。だから今は冷静に自分を見直しなさい。じっくりと時間を咀嚼して、余裕を持って『セラム』を生きなさい。それがきっと、あの貴族の方々にとっても一番嬉しい筈よ」

 言葉に籠められた思いは探り探って尽きぬほど。言葉を零す中で熊美は、慧卓の曇った表情を見詰めながら己の若き頃を想起していた。道場からの帰宅中に遭遇した世界を跨ぐ転移。天地を震わす轟音の中じゃぶじゃぶと音を立てる血池、それに浮かぶ人体の毀損品。陰惨に生きる欲情深き人間模様。戦火の合間路上の花のように咲く癒しの日々と、恋想った人。全て今は遠き日々であり、今の自分を創る日々であった。
 慧卓にも同じ事が起きるとは思いたくないが、もしそうであっても自分以上に立派で、人から慕われるような人間になって欲しい。だからこそ今の艱難辛苦を乗り越えて欲しい。そんな思いを籠めた言葉は深意まででなくとも少しは届いたのかもしれない、慧卓の表情から少し曇りが消えたような感じがした。
 熊美は些細な話題を扱うかのように苦笑を浮かべて言う。

「辛気臭くて御免なさいね。やっぱり私、説教は苦手だわ。言葉を長々と述べるよりも、身体を思いっ切り動かす方が好き」
「・・・そういえばリタさんが言ってましたけど、俺が貴族の人と歓談をしたり講義をしたりしている間、熊美さん、騎士団の所に行ってたそうな?」
「あら、噂の足は速いわね。その通りよ。自分が礎を築いた騎士団がどんな姿になっているか、興味が沸いてね・・・うふふふ、本当に逞しくなってたわ」

 笑みを深める熊美。先程まで浮かんでいた片親のような温かみは俄かに失せ、代わりに老廃したいやらしさが浮かび上がっている。

「訓練の内容も凄く実践的になっているし、陣形の形成もとても早くなっている。とても立派だったわ・・・でもそれ以上に・・・うふふふ・・・」
「な、なんすか」
「あのね、こんな事言ってちょっと変態臭いと思われちゃうけど・・・でゅふっ、紅顔の美少年が多くて・・・」
「うわぁ・・・」

 一気に表情を爛れさせた熊美に生理的な嫌悪感を抱く慧卓。胸中の不安が心の隅っこの方へと追いやられたのは不自然でもなんでも無かった。 

「あっ、慧卓君は対象外よ。私が好みの子はね、明確に男と女を意識する、その一歩手前の初々しさを持ってる子なの」
「・・・あ、そうですか・・・なんて腐ったハンニバル」
「何か言ったかしら?」
「いや特に何も」

 外見が飛鳥時代の彫像のような逞しさの癖に愛すべきは血や黄金よりも少年の貞操ときたか。慧卓はかくの如く思い、ついついと冗談を零した。
 彼の顔から暗い色が見た限り見受けられなくなったのに安心してか、熊美はその渋みのある顔に晴れやかな笑みを浮かべた。

「午後は日暮れまでに宮殿に戻ってくれるなら後は自由らしいから、私と一緒に街に出ましょう。いい所、案内してあげるから」
「本当ですか?凄く期待しますよ」
「任せなさい」

 そう言って二人は手付かずのままであった昼食を再び頬張り始めた。口に入れ込むスープは既に温いものであったが、さりげない心遣いにも似た優しい酸味は衰えず、慧卓の咥内に染み渡っていった。

「ところでリタちゃんとは?」
「ワンチャンスありませんでした」
「あ、そう」

 スープに千切ったパンを浸して口に放り込もうとした時、赤く染まった生地から一滴の水滴が落ちて高級そうな純白のテーブルクロスに染みを作ってしまう。下品な事をしてしまった、これからは控えていこう。そんな考えを巡らせながら慧卓はパンを咀嚼していく。
 窓際から注ぐ光は煌びやかな白を湛えており、その下に石と木が入り混じった街並みは光沢を放っているのだろう。愉しみを抱きながら二人は昼食を進めていった。





「・・・で、此処が『ウールムール王都支店』。此処は良いわよぉ。綺麗な衣装を直ぐに欲しいと思うならやっぱり此処が一番ーーー」
「ちょ、ちょっと待って・・・はぁ・・・はぁ・・・」

 汗ばみ、息を荒げる慧卓。王都の内壁の内側には品の良い市場や商人の支店が設けられてそれぞれが耳に残る客引きの声を放っていたのだが、慧卓はそれらに馬耳東風を決め込み、というよりも強いられており、先にとんとんと進んで行く熊美の後に追い縋った。
 人行きの多い通りの端で立ち止まった熊美に対し、慧卓は声を整えながら言う。

「あの、ちょっといいでしょうか?」
「あら、もう飽きちゃったのかしら?まだ回ってない所はあるわよ。斧槍専門店の『ヘルサイズ』に、貴族御用達の宝飾店『キーリンの祈り』、王立高等魔術学院直轄の第二魔道研究所でしょ。他には・・・」
「いやそういうんじゃなくてですね・・・」
「なに?」
「なんで俺が荷物持ちなんですか!?」

 両手からぶら下がる三つの皮袋を揺すって慧卓は抗議する。袋の底は重みで変形し、四角いもので内側から圧迫されたか袋全体が角ばっている印象を受ける。紐で締められた口も随分と窮屈そうだ。
 これも全ては熊美の要らぬ努力の賜物である。行く先々で金銭で商人の顔を緩ませ、慧卓に艱難を押し付けるのだ。やれ宝飾、やれ衣装、やれブーツ。お陰で慧卓の掌は皮袋の紐によって何本もの赤い線が刻まれていた。

「だ、だってしょうがないじゃない!前に来た時よりも凄く街並みが変わっているし、目新しさで一杯なのよ!だから昔稼いで使わずに取っておいて、偶然金庫に残っていたお金で買い物しちゃうのよ!」
「言い訳になりませんよね、それ。大体ですよ、王都の案内ですよね、今日の目的は」
「そうよ。だから一杯買ってあげてるんでしょ、王都の商品案内って事で」
「あ、そうなんですか!じゃぁこれも案内の副産物に入るんですか?」
「そうそう、それも・・・って」

 ぴくりと目元をひくつかせる熊美。その視線は慧卓がおもむろに取り出した、まるで肢体の間に隆起した海綿体の如き木造の工芸品に注がれていた。

「なにそれ」
「ディルドーじゃないですか?」
「なんのために」
「インカ的カパックするために」
「私買ってないわよ。誰が押し付けてきたの?」
「今あそこの曲がり角に消えたスターリンみたいなおっさんから」
「ちょっと待ってなさい」

 肩を怒らせるように熊美は颯爽と通りの雑踏を早足で擦り抜け、錬金術師、またの名を調合師が開く店の横へ消えて行った。慧卓は手に持ったディルドーらしきものを顔の前に掲げながら疑問符を浮かべる。  

(なんでスターリン?ベリヤだろ、普通)

 性愛的な道具についてはそうであろう。目前でぶるぶる揺れるディルドーは強く握れば震動すら起こしてしまいそうなリアルな彫が刻まれていた。
 ふと、男の短い悲鳴を聞いて慧卓は顔を向ける。その男は髪を短く刈り込んでオールバックに決めて口元に見事に整えられた髭を持ち、粛清という言葉が似合いそうなくらい勇ましき顔付きをして黒いロープを身につけており、怒り顔の羆に耳を引っ張られながら慧卓の前に現れた。
 
「こいつ?」
「そうそうそいつ。おじさん、これどうやって使うんですか?」

 耳から指を離されたたらを踏んだ男に慧卓はディルドーを突き付ける。男はそれを見てにかっと破願して懺悔室の聖職者のような厳しい声で言う。 

「それかね?無垢であるが故に信仰を持たぬ少女に、その瑞々しくも硬く守り通された純潔を代償に、偉大にして清廉な主神の教えを教授するために使うものだ。苦痛の苦悩を乗り越えた先に、真の信仰は芽生えるのだよ」
「詰まりバージンマントをブレィクする道具ですね」
「なんてモン押し付けるのよ。あんたの不浄の穴に突き入れて喰わせるわよ」
「ま、待ち給え!我が純潔は既に我が偉大なる祖父達に捧げておる!無機質にして冷酷な木の釘を振り翳すのは止め給え!さもなくば貴殿らに遍く天罰が下るぞ!」
「遍くに天罰ですって?貴方共産かぶれのエセ信徒?一度絶頂地獄を見た方が楽に主審の御座に辿り着けるわよ。一発やっとく?ねぇ、慧卓君」
「くま、熊先生・・・あっ!いやいや止めときましょう!流石にダンディー中年の絶頂フェイスは気持ち悪いです」
「それもそうね。ほら、これ持ってさっさと消え去りなさい・・・なんか動き始めたし」

 熊美がディルドーを無理に男に突き付けた時、その凄まじき膂力に反応したかディルドーが螺子のような音をしながら先端を右に左に揺らし始めた。技術の無駄を凝らした道具を返された男はそれを懐に仕舞って謝意を述べた。

「おお、慈悲に感謝するぞ羆殿。ああ、ところで青年」
「はい?」
「私からの祝福だ。これを受け取っておき給え」

 代わりに取り出したのは紙の封筒に包まれた何か。その場で広げて中身を手の中に零す。それはありふれた銀色のチェーンと見た事も無いような不可思議で霊妙な紫紺色の光を放つ宝玉で形成される、一つのアミュレットであった。何処か古めかしい印象が見受けられ、遺跡に潜ればあっさりと見つかりそうな程の。よく見れば、宝玉の囲いには『セラム』で使う流線的な古めかしい文字が刻まれている。読めないのが実に残念だ。

「・・・アミュレットですか・・・でも何か変な見た目ですし、売れなさそうですね」
「ふん、率直な意見だな。だがその手の者にとっては貴重極まりないものだ、私のこの髭にかけて保障しよう」
「ふーん?なんでそんな事が?」
「『価値あるものはえてして無名』。そんな言葉があるのだ、実際にそれにも価値があるのだろう。私には理解できんがな!そんな物に金を叩く奴が居るとは、此の世も随分と風変わりなものよ!ハハハハ!!」

 からからと夏の日差しのような晴れやかな笑いを見せる男。抓られて赤くなった耳が高笑いと共に、くいくいと上下した。髭をくいと整えながら、男は別れの挙手を掲げた。

「さて異界の若人よ!王都を充分に満喫したまえ!時間は常に消費され、有意義に消え去るのを求めているのだ!それに相応しき行動を、スピーディーに行い給え!!さらばだ!!」
「あ、ちょーーー」

 男はそういうなり背をくるりと向けて脱兎の如く走り去った。慧卓はその余りの身のこなしの素早さに呆気に取られ、手の中に残るアミュレットをぼんやりと見詰める。 
 
「行っちゃったよ・・・ってかなんですかこれ。何処で付ろと?古墳?」

 西に傾きつつある日光を反射するアミュレットは、実にきらきらと絢爛で妖美な光を湛え、慧卓の黒眼の中に浮かんでいる。
 熊美は腹立たしい思いをぶつけられぬ不満を吐き出して、慧卓に声を掛けた。

「・・・やっぱり荷物重いでしょう?少し持ちましょうか?」
「いいえ、これは男の責務ですから!」
「私も元男なんだけど・・・」

 


 日は既に随分と西に傾いている。紅に染まる天に混じって金色の稜線がどこかも知れぬ彼方の空へと走っていた。まるで豪奢な扇を広げたかのような光景は人々の息を飲ませ、そして感嘆の息を漏らすに相応しきものであった。
 だが全ての人間がこれを見れるとは限らない。慧卓と熊美もその例に漏れず、壁に囲まれて何処までも続く、暗い螺旋の石段を登っていた。

「結局、全部見回れませんでしたね。王都って広いや」
「というより、あのスターリンのせいで疲れたのが一因でしょうね」
「ああ、それは分かります。なんか無駄に気力が無くなったっていうか・・・」
「そんな貴方を、コミンテルンは優しく応援します」
「呪われそう」

 冗談を交し合う慧卓と熊美の二人。あれからまた買い物袋が一つ増え、慧卓の手にはそれぞれ二つの袋がぶら下がっていた。肩がびんと張る痛みを飲み込んで、慧卓は男の矜持を張って階段を登っていた。
 そんな彼を先導するのは、真っ白な司祭服に黄色のストールを掛ける青年であった。風鈴が鳴っているのかと思うくらい涼しげで純朴な笑みを浮かべている。

「御二方、余程大変な目に遭われた御様子で。お察し致します」
「ああ、その涼しげな表情が羨ましい・・・」
「妬むのは止めなさい、女々しいから」
「女々しいって・・・男でもっ、女でもない人がm分かるんですか?」
「元、男だからね」

 話す内に慧卓の息は荒さを増していく。どんどんと続く石段は確かに終わりこそあるが、その頂点に達するまでが実に困難である。 

「この階段、何時までっ、続くんでしょうか?」
「もう直です。しかし御二人はとても幸運でいらっしゃる。この王都、夏になると西日が非常に鮮やかになる日がありまして、今日が正にその日なのです。この聖鐘に務めまして僅か二年ではありますが、矢張りなんといってもあの『煌日(おうび)の炎』は素晴らしきものです」
「そんなに、凄いんです、かっ?」
「はい。正に神々の悪戯に相応しき壮麗な光景で御座います。絢爛とした西日と清らかな空気。それに照らされる王都の街並みのなんと美しき事か。きっと御二人の心を癒す事でしょう。そう、腐敗した身体を癒す一服の清水のように」
「そうっ、ですか・・・水の勢いで、身体がっ、ボロボロに崩れなきゃ、いいんですけどっ」

 呼吸を荒げ、足元を見詰めながら登る慧卓。足が鉛のように重くなり、掌に紐が食い込んで痛みを産み付ける。だが慧卓は一向に歩みを止めず、只管に石段を登り続けた。
 ふと、足元の段差が途切れ、平たく続く床が現れた。階段を登りきったのだ。男が階段の先にある扉をぐっと押すと、音と共に埃が赤い光の中に浮かび上がり、緩やかな微風が頸元を撫でるのを感じた。思わずへなへなと荷物を床についてしまい、慧卓は溜まりに溜まった疲労感を味わう羽目となった。
 先導する男は嬉々とした表情で進む。彼は四本の柱の中心に支えられた四角錘の屋根より吊るされている、金色の巨大な鐘を愛おしく見遣り、そしてその外へと広がる光景を指差した。

「さぁ、着きましたよ。王都の聖鐘、その栄光の高みに!」
「・・・綺麗ね」

 後から続く熊美が静かに言葉を漏らし、慧卓も顔をそろそろと上げた。
 言葉にするのも雄大で、神々しい情景であった。夜空の一番星よりも強く輝く太陽が、その煌きで天上を紅に染め上げ、徐々に訪れる闇の蒼と混じって見事な調和を奏でている。煌きの足元に照らされるのは遥か遠くに聳え立つ秀峰の波であり、真っ直ぐに丘に聳え立つ樫の木であり、そして石と木の身体を持つ王都の街並みであった。
 手足のように広がるのは茜色の麦畑。微風にひらひらと稲を揺らして夏の薫りを運んでくるかのようだ。腰のように確りと構えられているのは木の家に彩られた王都の外延部。家屋は皆、不思議な懐かしさを感じる穏やかな赤に染まり、その背中の影を枝木のように伸ばしていた。内壁に囲まれた内縁部もいわずもがな、美しきものである。西日の煌きを受けて、木は影を落とし、石は優美な光をその表情に浮かべている。昼間の石の白光は今では唐紅に彩られ、その光は庇の下や柱の間、そして街を行き交う人々の姿を流星のように眺め、覆い被さっていた。人々の顔は陰影定かにならず、それがゆえに優しさと寂寥に満ちてより風靡なものとなっている。
 これこそが、王都の聖鐘が見守る世界だ。その壮麗な世界の中、教会の若き神父は朗らかな笑みを浮かべている。

「今年は昨年よりも空気が澄んでいるようだ。何時もより、光が綺麗ですよ」
「本当ね・・・綺麗な街・・・貴方もそう思うでしょ、慧卓君?」
「ぜぇ・・・へぇ・・・はっ、はぁ・・・そっ、そうですね・・・はぁっ・・・」
「落ち着いてからゆっくりと愉しみなさい。まだ日が沈むまで時間があるから」
「あっ、有難う、御座いますっ・・・はぁ、はぁっ・・・」
 
 荷物を漸く手放した彼は這うように屋上の縁へと向かう。そして柱と縁の間にある僅かなスペースに腰を落とし、柱に背凭れをついて足を投げ出した。ぶらぶらと足が縁から投げ出されて浮遊感に包まれる。
 しかし身が竦んだりはしない。微かに宙を漂う風が短い黒髪をはらはらとひらめかせ、首筋を伝う汗と肌を冷やしていく。まるで縁側でスイカを齧りぼぉっとするかのような穏やかさで、慧卓は言葉も無く燦々とする『セラム』の世界、その欠片の美しさに見蕩れていた。彼の頸元に掛かっているアミュレットもまた、光と風に揺られながら世界を見詰めていた。

 
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