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王道を走れば:幻想にて

作者:Duegion
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第一章、その3:オカマっていうな

 朝焼けの眩さが鬱蒼とした森林を照らしていく。『セラム』に明るい暁が訪れた。まるで笠の様に木々に生える青々とした葉っぱには、冷たい朝焼けの霜が降り立っており、一つ軽く靡いた風に水滴を落していた。樹木の根元に生えている小さな花、或いは傘を張った茸にも可憐に水気が帯びており、その慎ましい姿に色を添えていた。暁の到来に合わせて小鳥がちゅんちゅんと囀り、枝に足を着けて天空を、そして大地を見遣っている。その小さくも鋭い眼光の中に、一つの人間の集団を捉えて小鳥はまた囀りをする。その集団の多くは野蛮な風体をしており、乱暴に自然に覆われた大地を踏み抜いて行進していく。その者達に包囲されるように、慧卓ら三者が歩いていた。
 教会の地下道にて逃走を試みた慧卓ら三者は、地下道内にて野蛮な者達に包囲されて捕虜の憂き目と遭ってしまっており、今彼らは野蛮な風体をした者達に包囲されながら地下道を抜けて山中へと足を踏み出していたのだ。彼が歩んでいる其処は、自然の摂理が如実に現れた場所でもあった。
 地面の起伏は所々で激しくなり、1メートル規模の瘤のように出っ張った地形も珍しく無い。所々で突然と姿を消すように大地が凹み、小さな石ころが折れた枝に混ざって転がっている。水色の優美な花が大きな岩に隠れるように身を潜め、異臭を放つ狼か何かの獣の死体に蛆が群れ、蝿が飛び交っている。
 だがその一方で人の手が加えられている部分もある。獣道にも似た一本道が整備されていたのだ。視界の確保のためか山中を通る一本道を中心に樹木が伐採されており、障害物の姿は何一つとして存在していない。ただ茶褐色の道が続いていくだけだ。
 野蛮な男達はその道を堂々と歩いていく。まるで自らの縄張りであるかのように邁進する。慧卓は山中を歩く事にそれほどの難を来さなかったが、矢張り長時間の山歩きは堪えるものがあった。始めは余裕綽々といった様子で連行されていた慧卓であったが、数十分も山中を登り続ければ次第に無口となり、息も荒げてくる。

「俺達、何処に向かってんだ」
「黙ってついて来い」

 ふてぶてしい猪のような顔付きの男に睨まれ、慧卓は口を噤んで歩きに専念しようとし、慧卓は改めて彼らの装備に目を配った。
 動物の皮を剥いでなめしたか、彼ら一同皮の鎧に身を包んでおり、幾人かは明瞭な力関係を誇張するように、蛇の抜け殻や、小動物の頭蓋で作り上げた首飾りをしている。慧卓の浅い知識では彼らがどのような風習の元に生きているかは理解できなかったが、その集団の嗜好は直ぐに理解できた。彼らはいたく、威圧的に、暴力的に生きるを良しとする人間なのだ。
 それを象徴するように先ず目を引くのは血の穢れが拭い落とせていない鉄剣の数々。刃渡りは80センチはあろうかという片刃の曲剣、そして両刃の直剣。幾年も度重なり使用されたのか、赤錆が刀身に浮き出ており、そう簡単には拭い落とせぬであろう。だが彼らの逞しい膂力によって力の限りに振るわれれば、薄い皮肉を鋭利に裁断し、獣の引き締まった胴体を抉る事は間違いが無さそうだ。
 そして目を更に引くのが彼らの肩に通された、落ち葉のような茶色をした弓矢だ。屈曲した握りは一見単純な外観であるが、細部に渡るまで掌の形に符号するように磨かれている。弦の張りには動物の腱を引き伸ばした物を使ったのか、一分の緩みも存在しておらず、何時でも最大限の力を発揮出来そうである。慧卓はそれに似たものを現代で拝見している。勤木市の市営考古博物館に展示されていた、フン族の複合弓である。博物館に展示されていたのは複製品ではあったが、再現度が高いとニュースにも成っていたほどだ。その弓と彼らが担ぐ弓は、ほとんどが類似していたのだ。

(ほんと・・・凄い世界だな。まるでファンタジーだよ)

 無言の行軍が更に数十分程続き、慧卓が足にそれ相当の疲労を感じ始めた時であった。ふと視界が開けていき、慧卓は其処に聳える建造物を見て納得の表情を浮かべる。
 凸凹とした地面や人一人はゆうに隠せてしまいそうな程大きな岩石、それらを天然の堀と見立てた、巨大な砦が其処に築かれていたのだ。山中にて伐採された樹木もこれの建設のために大いに役に立ったのであろう。砦を砦たらしめる研磨された木壁が地形の起伏に沿って泰然と聳え、その所々に櫓が築かれており、遠目からではあるが人の姿も確認できる。これは見張りの弓兵か。また、朝の炊事の準備であろうか、靄のように灰色の煙が立ち上っており、上空にミミズ文字のような線を描いていた。
 近付くにつれて、砦の巨大さが明らかに成っていく。木壁は優に四メートル以上はあり、一流の職人の手によってであろうか、見事なまでに柱一本一本が均一の高さで維持されてあり、木壁の先端は鋭利に尖らせてある。その圧倒的な光景が右に左に緩やかなカーブを抱きながら続いて行くのだ。その端は慧卓が立っている部分からは確認できない。ぐるりと一周をして砦を囲んでいるのか、はたまた砦の背部は断崖絶壁の自殺スポットとなっているのか。
 この砦、かなりの規模の大きさである事は間違い無さそうだ。即ち、此処を収める者達もまたーーー。

「おーい、早く開門しろっ!!!」
『ちょっと待ってろ!!漏らすんじゃねぇぞ!!』
「誰がするかぁ!?」

 中の者から放たれた罵詈に、男は罵倒を返す。くすくすと周囲を埋める者達が笑い声を零した。
 やがて砦の門がギチギチと音を立てながら開かれて行く。人数人が肩を寄せ合ってやっと通れるほどの大きさの門である。それが開かれたと同時に男達が動き出し、それに合わせ慧卓達も足を進めた。
 彼らを出迎えたのは大きな広場と、男達の野蛮な野次であった。木壁の内側に位置された壁の上にて見張りの者達が囃し立て、広場にて立ち話をしていた男達もまた口々に出迎える。広場の中心では炊事の炎が上がっており、男が汗を掻きながら大きめの鍋をぐつぐつと掻き混ぜている。慧卓らと共に歩んだ者達も己の任を終えたのか、一部を残して言葉を零しながら散会していった。

『おい、あのデカブツ見たか?すんげぇ身体鍛えてるぞ』
『けったいな奴よかあの麗人だろ!綺麗な髪の毛してるよなぁ...しかも鼻筋も綺麗だし、諸好みだわ』
『ん~・・・どっかであの女性に似た人を見たような気がすんだよなぁ...あれは何時だったかな』
『おい爺さん、そりゃ何時の話だ?まさか三十年くらい前だって言わないだろうな?そんな昔の事なんて俺にゃ分からないぜ』
『ふてぶてしい餓鬼だぜ・・・見ろよ、あの面構え。ありゃ目の前で星が落ちてきても鼻で笑い飛ばす顔だぜ』
(いや、それはねぇよ)

 心の突込みを他所に慧卓らは残った者達に引き立てられて、砦の中へと連行されていく。
 山中の洞窟を利用して作られたのであろうか、壁を掘削して掘られた穴に燭台が掛けられ、其処に明るい火を燈した松明が掛けられており、中を明るく照らしている。地面はじめじめとした感じが一切無く、土の塊が踏み砕かれて砂と変じていた。だが場所によっては岩清水が浮いて出たのか、岩がじんめりと水気を帯びている。天然の通路を歩けば幾多もの分かれ道と扉が左右に覗き、扉の内々で人の話し声や笑い声が聞こえて来た。慧卓は一方で、B級映画にありがちな誰かの呻き声や鞭打ちの音がまるで聞こえない事に肩透かしを食らった気分であった。
 砦内の通路を進み、小さな広間を幾つか抜けて段々と下っていくと、一際重厚で冷淡な色をした鉄扉が彼らを出迎えた。男の一人が鍵を用いて扉を開けると、中からなんともいえぬ腐臭が漂ってきた。

「入れ」

 男に催促されて中へと足を踏み出し、慧卓は視界の中に捉えた光景に溜息を漏らしかけた。それはいわずもがな、冷酷な地下牢であったのだ。幾つもの牢屋の中には白骨化した死体があり、栄養を貪ろうと数十もの蛆虫がキチキチと歯を鳴らしている。鉄柵は精々指で掴めるくらいの隙間しか無く、無理に開けようとすれば忽ち轟音を鳴らしてしまうのは目に見えていた。
 慧卓らは幸運にも、蛆一匹、骨片一つ転がっていない一番奥の牢屋の中に入れられる。男がアリッサの腰に差されていた一振りの剣を奪い取る。牢屋の鍵を閉める際、男達が念を押すように言う。

「お頭が後で来る。それまで大人しくていろよ。」
「特に其処の、なんだ、漢女!!お前は特になっ!!あの、本当にお願いしますねっ!!」

 馬鹿丁寧に一人の男が懇願するように両手を合わせながら去っていく。がしゃんと乱暴に閉められた扉により、冷ややかに鉄音が牢屋の中に響き渡る。去り際に男が見せた何とも哀れな姿に慧卓は同情の念を禁じえず、その原因であろう同伴者、熊美に問う。

「熊美さん、森の中で、一体あいつになにやったんだ?」
「あの子に?うふ、顔をぐいっと近づけて、ちょっとお尻をスリスリしたのよぉ」
「うわぁ・・・それトラウマになるでしょ・・・」
「トラウマになるくらい私がケダモノに良く似た野蛮な容貌だと言いたいのかしら!?」
「いいえ!!!そのような事は決してありません!!」

 突如として変容した熊美の形相を見て反射的に慧卓は叫びを返す。熊美から目を逸らし、慧卓は大きく嘆息した。

「くそっ・・・まさかこんな事になるなんて・・・」
「・・・そういえばケイタク殿、でよかったかな?ケイタク殿はどうして此処にいるのだ?」
「そりゃあなたに巻き込まれたからですよ!?」
「あっ、ああ!すまなかった!言葉を間違えた!ケイタク殿はどうして、クマミ殿と一緒にこの世界に来たのだ?」

 慧卓はアリッサに視線をやると、前置きするように返す。

「話は長くなりますよ?」
「当分、賊の頭は来ないわよ。上で酒盛りをしているみたいだから」
「え?上って、岩盤ですけど」「ええ。それを貫いて聞こえるの。分からない?」
「・・・で、俺の話なんですけどね」「スルーって悲しいわ」
「これがまた大変なんですよ・・・」「そ、そうなのか」

 熊美をあっさりとスルーした事にアリッサは驚いているようだ。彼女にとって話を無視することなど出来ぬ、重要な人物なのだろう。だが慧卓にとっては巨体で、命の危機にあっさりと飛び込んでいく肉体・精神逞しいオカマでしかない。野獣めいた眼光をする訳でもないし、特に恐れる必要は無いのである。
 慧卓は疲れが滲んだ口調で始めた。

「話は、俺が勤め先での仕事を終えた所から始まります」


ーーーーーーーーーー



「今日は愉しかったわよぉ、またね、坊や」
「ほんとよねぇ、下戸に優しくてそれでいて愉しいお店ってそうそう無いわよ。今後、此処を贔屓にするわ」
「そうね、他の皆を連れて来て宴会をするってのも一興だわ。あの坊やを肴に、ね」
「今日はご馳走様でした。今度は私達のお店にも遊びに来てね」
『ありがとうございましたー!!!』

 溌剌とした声を背に受けて、奇奇怪怪・面妖な者達が腰を強調させながら店を後にする。皓々と光る夜の勤木市の繁華街の中を歩く彼らは、まるで宙を漂う蛾、否、蝶のように煌いてみえた。道中で擦違う人々が彼らを避けているようにも見える。
 彼らを見送った店員、御条慧卓と同店でバイトをしている実晴は笑みを湛えたままBARの店内へと戻り、『Close』の札を扉に付けて深い息を漏らし合う。

「ふぅ・・・一時はどうなることかと・・・」
「本当よ。あの熊美って人、無駄に逞しい肉体でアピールしてくるから困ったわ」
「こっちは竜子だ。スキンシップ激し過ぎてやばかった。唇の近くに接吻されかかって怖かった」
「御愁傷様」

 二人は互いの労を慰め合いながら晩餐の後を片付けて始めた。テーブルの上に置かれていたのは人数分のグラス、そしてジュースの空き瓶につまみの料理が盛られていた皿だけだ。グラスが擦れ合い、穢れの無い布巾でテーブルを拭く、耳障りの良い音が鳴っていく。
 酒飲みから距離を置いた目的を持つこの店に来るのは、専ら下戸や酒嫌いの常連客である。時たま新しい客が来店する事もあるが、矢張り盛り上がるうちに喉に渇きを覚えるのか、酒の不在に一抹の不満を覚えてその日限りの客となる事が多い。今日はあくまでも、リピーターが確保できた特例の日なのだ。客がえらくごついオカマという問題を除けば、喜ばしい事である。
 片付けをしていた二人の下へ、一緒にお客の接待をしていた妙齢の店長が姿を現す。手には、一連の清掃道具が握られていた。何れのその道具に職人の巧み特有の冴えは無く、打って変わって機械の無機質な丸みだけが存在していた。

「今日はこれでお終いだから、二人ともその辺で終わって帰っていいわよ。お疲れ様」
「はい、分かりました。店長、お疲れ様でした」「お疲れ様です、先に上がります」

 軽く一礼をして両名はバックルームへと引き返し、ロッカーを開けて荷物を取り出し始める。帰宅の準備だ。慧卓は手早く己の服装を着替えると、荷物を持って実晴に声を掛けた。

「ほら、着替えたから交代」
「覗かないでよ?」
「分かっているって」

 バックルームを後にして、慧卓は店の裏口を出て待機する。バッグからミネラルウォーターを取り出して一飲みしながら、何気となく空と街を見渡す。
 既に十時近くまで夜が更けている。夕方に見た天上の茜色は夜の漆黒のベールで閉ざされ、大地から放たれる人工的な電飾の光が、そこにある筈の宇宙の煌びやかな色を消し去る。空の彼方には飛行機のライトだけがおぼろげに光っていた。昼間にあれだけ蒸し暑く感じた街中に、今ではひんやりとしたビル風が吹き抜けていた。
 裏通りから大通りを見詰めれば、ネオンサインを後光の様に纏った様々な者達が入り交っていた。残業を終えて疲労した身体に最後の鞭を打つ者。和気藹々として宴の肴を巡る者。視線をゆったりと這わせ今宵の獲物を探る者。麻薬のように魅惑を放つありふれた光景だ。

「開けるよー」

 其の時、裏口の戸が開き、私服に着替えた実晴が姿を現す。デニムにより引き締められた腰と臀部、ブラウスから覗く鎖骨の出っ張り、そして何より私服となって強調される女性らしさを誇った胸部。それらに慧卓は思わず目がいき、直ぐに視線を逸らした。着痩せするという言は確かに真であった。実際は生のそれも見てみたいところであるが、そこまで関係が発展している訳でもない。

「お待たせ。かえろ、エッチな御条君」
「ちょっ、ちょっと待て!俺は別に盛っているわけじゃない!」
「はいはい」

 何時も如く繰り返される会話。全ての男子は艶やかな女性らしさに目が移るものだ。そう言いたげに言い訳をする慧卓と、軽く受け流してからかう実晴。二人は何時も通りに話をしながら、繁華街の人混みの中へと入っていく。 

「ん~、今日はなんか疲れた気分がするわ、やっぱ熊美は凄いなぁ」
「もう熊美はいいっての。あ~あ、俺も帰ったらなにすっかなぁ?」
「特に用が無きゃ私の家に来ればいいじゃない?今日は暇だし、あ、あと貴方が言ってた戦略ゲーム買ってみたの!キャラも可愛いし、意外と面白いゲームだったわ」
「おぉ、此処に素養持ちが居たとは!どっかの渋いのとは大違いだよ」
「で、渋いのはどうでもいいとして、どう?うちに来る?」

 慧卓はそれを聞いて、青少年ならば誰でもするであろう、邪な思いを抱かずにはいられなかった。横に並ぶ女性の美しく淫らな姿を何度も間近で見ているだけに、その思いは具体性を帯びて彼を誘惑する。だが慧卓は渾身の理性の働かせてそれを振り払った。

「そうしてイチャイチャしたいけど残念、学校の宿題があるんだわ。納期に厳しい先生から出されたものがあってな」
「あっ、そうなの、残念。別にイチャイチャくらいしてもいいけど」
「・・・それで止まらなくなって一日を無駄にするだろ。何度も体験してきたじゃないか」
「ヘタレ」「ヘタレで結構」
「いつもそっちから暴走するうちに」「・・・」
「本当、慧卓って馬鹿だよねぇ」

 返す言葉も思いつかない。慧卓は口をむっとさせながら歩いていく。
 勤木市中心街の夜は騒々しく、目に痛い。通りを歩けば、歩道では雑踏と話し声が入り交ざり、車道では大小の車が擦違い、夜空には車が入り交ざる蛮声が反響する。見上げれば店舗の看板は七色の派手な光を爛々と焚き、商業ビルの窓からはうすらと光が漏れていた。
 数分道中を供にすると、両名はバス停の一つに足を止めた。実晴は何時も此処からバスに乗って帰宅する。 

「じゃ、今日もお疲れ様ぁ。今度は普通に遊びましょーねー」
「おう、お疲れ様」

 バスを待つ実晴に別れを告げて、慧卓は大通りの歩道を歩いていく。電飾の眩さに目を細めながら歩いているうちに、心の中にもやもやとした感じが残っているのを感じた。いわずもがな、仕事の疲労から来るストレスだ。

「さってと、どーすっかなぁ?」

 ストレスを溜める事は風船に空気を入れ続けるようなものだ。何時の日か風船は破裂し、欠片となって地に落ちる。適度に空気を抜くか、或いは空気を入れ過ぎないか。それが一番の対策だ。

「んじゃ、ぶらぶらふらつきますかね・・・」
「おっ!?御条か!おーい、御条!!」
「ん?」

 聞き覚えのある声に慧卓はスクランブル交差点の右方へと頸を向けた。猪村が走ってくるのが見える。堅実でカジュアルな私服に身を包んでいる。
 猪村が近付くにそれ、その切れ長の瞳に焦燥の色が現れているのを見遣り、慧卓は僅かに表情を引き締めた。

「猪村じゃないか!どうしたよ?」
「なぁ、三沢見てないか?さっきはぐれて、見つからないって事で探してんだけど」
「三沢?いや、まだ見てないけど」
「そうか、って事はそっち方向じゃないってか?うーん、弱ったなぁ」

 猪村は遠くを見通すように周囲を探る。其の様子を見て心配になったのか、慧卓が真面目な表情をして尋ねた。

「どういう経緯で逸れたんだ?迷子?」
「いや、ビリヤード終わってさぁ、次の遊び場って頃にな、三沢が居なくなったのに気付いたんだよ。んで大変だって事で面子解散して暇な奴が手分けして探してるってわけ。いや困ったな・・・最近物騒になったから心配だよ・・・」
「・・・なぁ、俺も手伝おうか?」
「マジで!?いいのかよ?」
「丁度用も終わって暇してた頃だしな、手は丁度空いているってわけだ。それに、友達が困っているな助けてやらないと、な。それとも、俺じゃ頼りないか?」
「いや、全然助かるわ、マジ有難う!!!なんで中心街に居るのかわかんないけど、とにかく助かるぜ!!んじゃお前は中心街の西通りを頼むわ、俺東をもっぺん探すから!」

 喜色で顔を綻ばせて猪村は再びスクランブル交差点の東へと姿を消した。彼の颯爽とした姿を人々がちらりと見て、視線を元に戻す。幾人か、特に若い女子は釘付けとなったままであったが。

(流石イケメン、絵になるな)

 その背中を見送り西方へと足を向けつつ慧卓は三沢の面立ちと性格を思い出しながら声を零す。

「三沢か。大丈夫かな」

 彼女の笑みは当に『にへら』という擬音がつくほど柔和なもの。普段よりぼーっとしている事が多く、加えてトレンドマークのその掴み所の無い笑みと可憐な容貌によりクラス内の癒しキャラとなっている。

「けど友達放っぽり出して遊びに行くほどツレない奴でもないし・・・」

 少なくとも慧卓の中での三沢は、友人との興を放棄するよりかはその興に熱を上げるを良しとする者である。猪村達との遊びを放棄する事など考えられなかった。
 結局の所、三沢は理由も分からずに逸れてしまったという事とに変わりは無い。手掛かりもなく、困りながら西通りを歩く慧卓の目に二人組みの者が移りこむ。

「ペチャクチャペチャクチャペチャクチャペチャクチャ」
(ん?三沢か?)
「ん?」

 二人組みのうち一人、男が慧卓を見詰める。髪型がコーティングされたかの如く先端が尖り、顔の中心に耳と髪の毛以外の顔のパーツが集中した、うざさと軽妙さが混ざり合う容貌であった。

(違ったか)

 慧卓は視線を逸らして足早に西通りを歩いていく。

「おい、今のわけぇの俺見た後目を逸らしたじゃん?あれ内心じゃぁな...俺の余りの華麗さに動揺覚えまくって必死だから」
「すげー、兄貴すげー!!他人の心を勝手に推測出来るとかすげー!!」

 二人組みは奇妙に面白おかしいポーズを決めながら去っていく。
 その後も慧卓は街並みの光に照らされた人々の顔をちらほらと探り、三沢の姿を探していく。しかし道行く者にその姿、ましてや気配一つ感じる事無く、じんわりと慧卓の心の中に焦燥にも似た苛立ちが込み上げてくる。
 そんな時、西通りへと繋がる細道に後ろめたさを隠すように姿を消していく男二人・女一人の三人組を見遣り、そのうちの一人に漸く捜し求めていた者の顔を見出した。 

「三沢、だよな?」

 唐突に舞い降りた一つの手掛かりに、慧卓は飛びつくように足を速めて彼らの姿を追っていく。道行く人々にぶつかりそうになり、不機嫌なリーマンの舌打ちが毀れた。 

「失礼」

 視線を一つに集中した慧卓の謝罪の言葉もおざなりとなってしまう。慧卓は彼らの後を追うように細道に入っていく。
 丁度、商業ビルとビルの間に位置する細道は夜闇に加え、ビルの陰を纏って一層の漆黒を包んでいるかのようであった。足音を響かせないように慎重に、且つ足早に慧卓はその先へと進んでいく。ビル風の冷たさと、ゴミの収集箱から漂う腐臭が鼻を突くが、慧卓の気を削ぐ事は一向に無かった。
 幾つかのビルを横に置いた裏通りを抜けると、丁度繁華街の賑やかさから一つ距離を置いた、閑静な住宅街が現れた。立ち並ぶのは高層マンション、そして高級そうな外観の一軒家。今は静かに街灯が光を放つだけであり、遠くから車の遠鳴りが聞こえるだけであった。
 その街灯の光に照らされて、件の三人組が道の端を歩くのを御条は見つけた。足を速めて電柱の陰に隠れ、彼らの姿を窺っていく。

「ちっ、さっさと歩けよ」
「おい、どつくんじゃねぇぞ。下手に音立てたら民家の奴らが起きちまうからな」
「分かってるよ」

 光を受けて、二人組みの粗野な風貌が明らかに成る。その二人に急かされる様に三沢が歩いている様も見受けられた。何処か虚ろな足取りをしながら彼女の水色のスカートが揺れていた。男の一人が手元で何かを弄りながら話す。

「しかし、ブレインコントローラーさまさまだよな。金が無くても超簡単に女ゲット出来んだからよ」
「ほんとだよな。しかもやられた側は無遊状態っていうの?よくわかんねぇけど、意識がはっきりしてないから、抵抗も無いと」
「ああ。それにそそるよな、こう、意識の無い女をヤるってのもよ」
(こいつら、強姦する気だな!?)

 虚ろな足取りの正体を慧卓ははっきりと理解する。三沢はブレインコントローラーにより脳波を睡眠時のそれに強制的に移行されて、足だけを無意識に動かされているのだ。
 男の一人が前を歩く三沢の顔を覗き込む。

「結構可愛いよなぁこの子。やべっ、なんか勃ってきたわ」
「おぉおぉ、お盛んだな。んじゃ今日はお先にどうぞ。俺は後からじっくりいただきますから」
「へへ、んじゃ一丁」

 男が遠慮など彼方に放り捨てたといわんばかりに三沢の胸を服越しに握る。慧卓は電柱の陰に隠れていたために其の様子をはっきりと視認できないが、彼から視て、三沢に肩を並べて堂々と腕を彼女の胸の前に持っていった其の様は、当に胸を揉みしだくそれであった。

「おぉ、柔らけぇ!意外と胸あんぜこいつ」
「マジかよ。おっすげぇ、こりゃ期待できそうだな」
(糞っ、あいつら!意識が無いのをいい事に好き放題やりやがって!!)

 二人組みは己の気の向くままに三沢に小さな乱暴を働きつつ、住宅街を歩いていく。

「まだ此処は目立ちそうだからな、そこの細道の先に公園あっから、そこの茂みやろうぜ」
「あ、何時もの場所か、此処」
「まぁこっち側から来た事は無かったからな」

 雑談を交え二人組みは三沢を乱暴に抑えながら細道へと入っていき、それに続いて慧卓が静かに、蛇の如く緩やかに追従していった。
 細道を抜けた先にあるのは住宅街の価値をより高める涼やかな公園であった。昼間から夕方にかけて子供達の笑い声で満たされるこの場所は、夜に姿をなると一転し、幽霊でも出てきそうな不気味な空気を醸し出している。公園の花壇に咲く紫の紫陽花がコサージュのように公園の禍々しさを彩っていた。
 その紫陽花の花壇をずいずいと踏み抜け、二人組みは草むらの茂みへと三沢を倒す。虚ろな瞳のまま尻餅をついた彼女を見て、二人は笑みを一層深めた。

「うっし、着いたぜぇ、女ぁ。もう少し眠っていてくれよ」
「タブ壊さなきゃ大丈夫だっての」
「そりゃそうだ。ゲームかなんかなら、此処でヒーローが飛び出してきて俺らをぼこるってのがオチだけどな」
「はっはっは!!んな都合がよすぎる事が起きる訳ないだろっ!」

 軽く笑い声を上げると、二人は互いを見遣った。そして三沢を見詰めて掌をぱちんと合わせる。

「んじゃ」「あぁ」
『いただきます』

 今にもその無垢で柔らかな体躯を貪ろうと手を伸ばした瞬間、茂みを越えた強烈な飛び蹴りが二人の後頭部を直撃した。

「ぶろぉぁっ!?」「げぼっほぉ!!」

 奇天烈な悲鳴を零して二人組みが地を滑る。其の拍子に、懐に仕舞い込んでいたタブが地面に転がる。

「こんな物っ!!」

 果敢に飛び蹴りをした慧卓の靴が、そのタブを直上から思いっきり踏みつけた。歪な音を立ててタブレットに亀裂が走り、グラスが割れて草むらに毀れる。
 その破壊が契機となって脳波を操る電波が途絶え、虚ろな無意識から三沢が覚醒する。彼女は目をぱちくりとしてゆっくりと起き上がった。

「・・・ん、あれ、なんか冷たい・・・。あっ、けいくん、何してるの?一緒に遊んでたっけ?」
「起きたか!立て、走るぞ!」
「ほえ?でも店員さんがトリュフをまだ持ってきてないよ」
「そう言っていられるか!!」

 覚醒した直後の彼女のひんやりととした手を握り締め、慧卓は住宅街の中を疾走していく。元来た道を戻るだけであり、迷う事は無い。

「此処何処?中心街なのに知らない風景」
「なんだよ、分かってないのか?勤木市の住宅街だよ。・・・本当に覚えていないのか?」
「えっとぉ・・・あ、そうだ。ビリヤードの途中でお手洗い行こうとしてたんだっけ・・・あれ、其処からどうしたんだろ?」
「・・・あくどい奴らだ」

 大方、手洗いに行く最中の彼女をかどわかしたという事なのだろう。慧卓は不快な思いを更に募らせた。
 乾いた地面を駆け抜ける音が静謐の住宅街の中を反響していく。横を通過していく街灯から放たれる夜光が二人の姿を明るくしては、ぱちぱちと音を立てて点滅する。もうこの近辺では、虫の軽やかな囀りすら聞こえなくなっていた。
 やがて二人の目の前に燦燦としたネオンの光が現れていく。夜遅くとなっても色めきあう、歓楽街の光景だ。細道から抜け出て大通りの人混みに混ざるその一歩手前で、二人は足を止めた。

「うっし、もう安全だ!」
「おぉー、向こうはスクランブル交差点じゃないか。結構地理に詳しいんだね、けいくん」
「まぁ、そうだな」

 BARからの帰りに寄り道をして、近辺の地理には割と詳しいとは口が裂けても言えない。掛け持ちバイトを自ら露呈するほど自分が愚かだとは認めたくは無い。
 慧卓は三沢のくりっとした目を見詰めていう。

「じゃぁ、お前は猪村に電話を入れてから帰っておけ。あいつ、友達と一緒にお前の事を探し回っているからさ」
「あ、そうなんだ・・・迷惑掛けちゃったな、直ぐに電話しないと。今日はなんかありがとね、けいくん!また明日ねー!」
「あぁ、また学校でな」

 朗らかに手を振って大通りを歩いていく彼女の背を見送り、慧卓は深く安堵の息を吐いた。 

「さってと・・・帰るかぁ」
「そりゃねぇよ、兄ちゃん」

 背後から走る厭味な声に背筋が凍り、瞬間、脳に異常なまでの気だるさを覚え、気色の悪い電光が身体の内を走っていく感覚に襲われる。脳波を移行した際の独特の体感である。

『着いて来い。きりきり歩けよ』

 ぐらぐらと揺れた意識内で慧卓は何の疑問を持つ事無く、それでも幾分かしっかりとした足取りで細道へと姿を消した。
 意識が無くなった中では時間の感覚も、足運びの感覚すら怪しい。かろうじて自分が瞬きをしている事だけが理解できているが、その間に何秒が経っているのだろうか。何とかして一歩の足取りを感じる間に、自分が何処を歩いているのか。まるで暗い荒波に攫われたかのような、無軌道な浮遊感と虚脱感が彼の全身を支配していた。

『よぉ、連れて来たぜ』
『お疲れ。んじゃまずは一発っと』

 エコーが掛かった声の後、慧卓の腹部に金属バットで殴られたかのような強烈な痛みと衝撃が走る。ばきっと何かが折れる音がした。目を覚ました慧卓は、頭が現実の理解をする前に背部を電柱に打ち据え、ずるずると尻餅をついた。慧卓はずきずきと痛み始める腹部を抑え付け、呆然とする。何が起こったのか。

「お目覚めかい、兄ちゃん」
「聞けよ」

 太腿を爪先で蹴りつけられる。妙に尖った靴のためか痛みが強い。
 やっとその瞳に現実に対する理解を示し、慧卓ははっとして顔を上げた。其処に、瞳を怒らせ青筋を額に立てた、粗暴な二人組みの若人が立っていた。顔は知らずとも服は知っている。先程飛び蹴りを浴びせた男達だ。 

「この野朗。俺達の遊びを邪魔してくれちゃって。しかもなに?タブぶっ壊しておいて逃げようっていうの?」
「勘弁してくれよ。おまえさぁ、いくらなんでもこっちがやられっぱなしじゃん?ムカツクんだよっ、こういう一方的なのは!!!」
(今お前らがやっているだろ!!)

 慧卓の心の叫びを消すように、二人組みは蹴り付けを浴びせていく。顔を守るために腕で庇うが、それはかろうじて致命傷を避けるだけであり、依然として脚部や腹部に徹底して二人組は蹴り付けていく。
 瞳にぎらぎらと凶暴な光を湛えた二人は、明らかに怒りの心と暴力的な嗜虐心に身体を支配させていた。執拗に足蹴を続け、慧卓の顔に怯えが走るのを今か今かと待ち続ける。だが慧卓は屈せず、逆に瞳をぎらぎらとさせて腕の間から男達を睨み返した。その態度が気に食わない、弱者はいたぶられ、泣けばそれでいいのに。そういわんばかりに二人組の足蹴は疲れを覚える事無く、それが延々と続くかと思われた。
 ふと二人組みの片割れが、奇妙なものでも見るかのように背後を振り返った。

「あぁ?」
「どしたよ?」
「なんか、聞こえないか?」
「ほんとだ。鼻歌か?」

 暴力の足蹴を止めて二人は耳を澄ましていく。
 漸く止まった攻撃に顔を上げた慧卓の耳に、静かに、流暢に紡がれる男の声が入っていった。

「Glorious and happy day comes. My bony lass loves this rain. Heaven is crying for pain. And I sing my feeling.」

 雨でも無いのに雨の歌。その声はまるで詩人の歌のように紡がれ、浮かれ気分で近付いていく。だが慧卓はその声に聞き覚えがあった。誰かとは特定できないが、強烈な人間であった事は覚えている。そう、つい先程まで共にジュースを飲み交わしていたーーー

「You will know my feeling. I changed to love rain wet cloths. And あばー・・・あら?」

 ーーーオカマであった。それも筋骨が隆々としている。どこぞのオリンピック選手よりも、或いは古代ギリシアの逞しき銅像の数々よりも、均整の取れた肉体美であった。頸は太く、足は丸太のよう、胸板に至ってはふっくらと膨れている。人工的な豊胸ではない、自然とした大胸筋だ。
 だが何よりも気圧されたのは、オカマの服装ゆえであった。美麗な薔薇のように紅に作られたドレスは、当に女性の体躯の美を、官能さを際立たせるがための代物。だがスリットから覗くのは無骨な筋肉。そして意味が分からぬ事に、ドレスの谷間が開かれている。元々はそういう造りであり、女性の豊満な艶治さを強調するためのものであるのは理解できるが、何故ごつい男のもじゃもじゃとした胸毛を見る羽目と成るのだろうか。初夏の暑さをものともせずに着こなされた、美麗なストールですらオカマを歪に彩るだけである。
 嬲られ続けた挙句にオカマのドレス姿を見る羽目となるとは。自分の境遇に悲しみが込み上げて、慧卓は思わず眉を顰めて溜息を零した。その表情にそそられたのか、オカマが声を掛けてくる。

「あらあら、さっきの坊やじゃない。相変わらずいい面構えね?」
「・・・ただのオカマか、どうするよ?」
「やっちまおうぜ?どうせ一人だしよ」
「そうだな。俺の空手殺法が火を吹くぜ」

 面食らっていた男の一人がこつこつと靴を鳴らしてオカマに近付いていく。見慣れているのだろうか、躊躇いが身体の動きに感じられない。流石常習犯なだけはあると、慧卓は不謹慎にも感心を抱いた。

「悪く思うなよ、変態オカマ野朗。見た方が悪いんだっ!」

 そう言うなり男は一気に距離を詰め寄らせて、見事なまでに型に則った正拳をオカマの顔面に運ぶ。力強さ、鋭さ、そして動きの無駄のなさと言ったら、格闘に素人の慧卓にとって見たら一級のそれと大差が無いように見えた。
 だがその強烈な拳はオカマが突き出した掌に難なく受け止められる。鍛え上げられた厚い拳が男の握り拳を掴み、ぎちぎちと締め上げる。

「・・・言ったな?」
「えっ?」
「あたしはオカマじゃねぇんだよぉおおおお!?!?」
「がぇっ!!」

 裂帛。オカマの怒りの鉄拳が目にも留まらぬ速さで男の顔面を捉え、その体躯を吹き飛ばす。吹き飛ばされた男は一瞬の内に意識を飛ばし、粉砕された鼻から血潮を撒きながらもう一方の男へと飛来した。

「ちょ、おまっ!!!」

 哀れ、片割れの下敷きとなってもう一方が地面に倒される。何とか上に乗っかってる男を横に倒したとき、何時の間にか距離を詰めたオカマが、悪鬼の如き禍々しい表情で男を見下ろし、その悄然とした顔面に鉄拳を振り下ろす。

「ふんっ」
「ごほぉっ!!!」

 拳によるそれとは思えぬ凄まじい勢いで男は後頭部を地面に打ち付け、白目を剥いて気絶した。オカマと言ってないのに。そう言いたげな表情を顔に浮かべて。
 慧卓は、覚醒したとき以上に呆然としていた。一瞬の内に二人の暴漢を潰した一連の過程、まるで何処かのゲームのように、とても現実のものとは思えぬ光景である。

(でもオカマは出なかったよな)

 その内心に渇を入れるようにオカマが伏した二人に向かって言う。 

「オカマじゃないっ、漢(おとこ)よ!!若しくは漢女(おとめ)でも可!!・・・さて坊や、怪我はしてないかしら?」
「・・・腹が痛い」
「見せてみなさい・・・嗚呼、酷い青痣。でもこのくらいなら大事には至らないレベルね。私の家が近いから、其処まで送って治療するわね。さっ、掴まって」

 有無を言わせぬ圧力を醸し出して、オカマはその逞しく鍛え上げられた背中を差し出して跪く。おんぶをしてやる、という意味らしい。
 流石漢を名乗る者だと、滑稽な感想を抱きつつ、慧卓は素直にその背中におぶさった。オカマはきりっと立ち上がると、一つ慧卓を揺らして身体を掴みなおし、堂々と夜闇を歩いていく。
 おぶされた慧卓は、そのオカマの艶々とした黒髪に、熊を象った髪飾りが付いている事に気付き、漸くその者の正体を理解した。

「もしかして・・・BARに来ていた、熊美さん?」
「あら、漸く分かったの?」
「その、暗闇だったんで、よく・・・」
「あらそう?」

 二人は会話が途切れた。
 熊美が歩いているうちに周囲を窺うと、漸く自分が何処にいるか慧卓は見当が付いた。先の公園の近くであろう、住宅街の一角である。しかも見覚えが無い作りの道だ。余程奥まで誘い込まれたらしい。此処から傷を負った体を運んで家に帰るのは、流石に困難を極めるであろう。
 今日は大人しく熊美の行為を甘受するほか無さそうだと、慧卓は申し訳無さそうに呟いた。

「なんか、すんません」
「いいのいいの、困った時はお互い様なんだから。それは何時の時代、どの世界でもおんなじ事なのよ」
「はは、まるで、別の世界に行った事があるみたいな、口振り」
「・・・まっ、そういうのもあったわねぇ・・・遠い昔の事だけど」

 何処か懐かしむような口振り。それに少しばかりの違和感を感じて慧卓は熊美を窺った。
 その表情を確かめる前に、熊美の髪飾りが突如として淡い神秘的な白光を放ち、髪の毛から離れて浮遊する。

「はっ?」「あら、髪飾りが?」

 疑問に思う二人を他所に、髪飾りは光の度合いをより濃厚とする。その勢いに眩さを感じ始める直前、髪飾りの光が一気にどす黒く変色し、大きな球体を顕現させて二人を包み込んだ。深海の底から宇宙の深層に至るまでを支配する漆黒は、二人を飲み込んだ事を機とし、押し潰されるかのように一気に収縮し、大気の中に姿を消した。後に残るは膨張の残滓、きらきらと光の粒が宙を煌くだけである。その粒もまた煙のように立ち消えとなり、まるで何も無かったかのように透明となって消滅する。住宅街に元の静謐が戻った。
 一方で球体に飲み込まれた二人は、現実のものとは思えぬ不可思議な世界に身を包まれていた。光点一つ無い漆黒の世界、だが光のなきそこでは不思議と自分達の姿がやけにはっきりと浮かんでいた。その中で波に攫われたかのような奇妙な浮遊感に包まれている。つい先程まで感じられた己の重みを感じる事が無い。今自分達は浮上しているのか、それとも落下しているのか区別がつかない。実に理解しがたい世界を慧卓は驚きの視線で見詰め、熊美は半ば悟ったような色を瞳に浮かべていた。
 そして自らを包み込む漆黒のベールを抜け出しかと思いきや、彼らを深い藍色の世界が出迎える。周囲一面を光陰の如き速さで色鮮やかな線が駆け抜けていく。針葉の衣、土煙の靄、稲光の轟き、吹雪の豪風、そして溶岩の灼熱。自然に君臨する大いなる地球の神秘が二人を歓迎するように出迎え、早々に漆黒の世界へと向かっていく。まるで円筒の中を潜っていくかのような感覚である。
 其の時、二人の意識を惹き付けるかのように鋭い声が世界の中を反響した。

『さっさと出んか、このケダモノがぁぁ!!』

 罵声によって一線を越えたのか、藍色の世界が突如として元の漆黒に変貌し、段々と体躯を包み込んでいた浮遊感が消え去っていくのを感じる。
 そして、水面に足を着けたかのように身体が一気に沈み込み、二人の身体に重力の感覚が戻ってくる。瞬く間に視界を覆い尽くしていた漆黒が晴れていく。其処にあった風景を見て慧卓は絶句を禁じえなかった。
 其処にあったのは、鬱蒼とした大自然の調和であった。森林の偉大さと、宇宙の雄大さである。二人の周りを覆うのは聳え立つ木々、加えて枯葉と草むらの絨毯である。人の手が加えられていない木々の高みは十メートル以上もあるのではないか。そして上を見れば深き枝木の間から、不可思議な事に、神秘な光の海が広がっていた。つい先程まで消えていた煌煌とした海星が現れている。
 唐突に、連続して起こった事態に理解ができる筈も無く、慧卓はぽっかりと口を開けて固まっていた。彼の心を代表するように、熊美がごちる。

「・・・・・・あらぁ、此処ってどこかしら?」
「・・・・・・ケダモノって、こういう意味じゃない・・・」

 熊美の言葉に、何処か疲弊したような声がして慧卓は顔を向ける。無骨な鎧を身体に纏い、その美貌に苦悩の皺を浮かべた女性が居た。凡そ、現代では考えられぬくらいに物騒な風体であり、そして現代女子とは比較にならぬ程の凛々しき姿であった。
 発光する髪飾り、どす黒い球体、煌びやかな円筒の世界。そして変貌した現実、大いなる自然、凛然とした女性。

(あーあ、宿題どうなっちゃうんだろ)

 慧卓は考えるのをやめ、虚ろな瞳で宙を見渡す。慧卓の現実逃避を哂う様な輝きを星空は浮かべていた。 

 
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