王道を走れば:幻想にて
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第一章、終幕:ストレートアッパー、イン饗宴
日が西に落ち、葡萄のような紫紺の空が天上を埋めている。夜の冷え込みを抱きながら天上にきらきらと星々が瞬き、流麗な絵画を描いている。僅かに靡く雲はうすらと透けて、糸のように細く、綿のようにふんわりとして漂っている。穏やかな雰囲気を見せる空から月明かりが差し込み、人々の指標となって弧を描いていた。
其の空をハゲタカの群れが和気藹々とした様子で舞っていく。久方ぶりの馳走に回り逢えたのだろうか。涼風が地を撫でて、大地にしかと足を着き目を閉じて自然を感じている慧卓の身体を撫でていく。肌をびくりと震わせるそれは、夏に感じるものとしては割と涼やかな方である。予め兵隊の人から上着を借りて来て良かったと、慧卓は一人思った。手に握られたジョッキを揺らしながら一人呟く。
「今日は...随分と波乱万丈な一日だったなぁ...」
慧卓はそういって背後を振り返る。大きな篝火を中心に、人々が輪をなして語らい、朗らかな笑い声を零している。篝火の明るみを浴びて木製の民家が照らされ、黒味の深い影を地面に落している。腹の中に蟠る食欲を誘うように香ばしい料理の薫りが慧卓の鼻を刺激する。時折、笑い声に混じって溌剌とした調子の良い楽器の音が響き、小気味の良いタップが踏まれて地面が鳴らされる。
陽気にはしゃぐ者達に歳の差も、男女の差も関係は無い。若き村長が軍の指揮官と葡萄酒を挟んで会談をする。鬼の小隊長らが兵士と共に騒ぎ、尋常なる飲み比べに精を出す。それに村の老翁が参加し、場は一段と盛り上がる。村の女性らが呆れるように笑みを浮かべ、それでも酒を運んでいく。老練なる神官が優しく子供達に語り掛け、子供達はそれをうきうきとして耳を傾ける。子供達の心を惹き付けるのは、遥か昔より語り継がれた、一つの英雄譚である。紫紺の空を杯に、饗宴が盛況の道を邁進していく。
山賊討伐、改めて山賊捕縛の任を終えた兵士らと慧卓達。兵士達は昼を二つほど過ぎた時間になって砦の制圧を完了し、ひっ捕らえた山賊らと共に町に帰参。山賊らを警備衛兵らに引き渡すと、コーデリア王女と村の村長により催された、酒宴の歓待を受けていた。兵達が駐屯していた村、その中央の広場にて大きな篝火が焚かれ、周りを数多くの食卓が取り囲んでいる。何処からそんな数を調達したのだろうか。村の村長の財布の紐を握る若女房主導の下、村の女性陣が料理を瞬く間に仕上げ、それを食卓の列に運んでいく。運ばれる料理はお世辞にも豪華絢爛なわけでも、多種多様というわけでもない。だが、素朴な優しさの篭った味わいのある料理であった。
狐色に焦がされた鳥の丸焼き。丸々と肥えたその身体全体に照りが入り、瑞々しく色とりどりの野菜を下敷きにして大皿に盛られている。鳥にナイフを通せば脂を浮かせた肉汁が溢れ、水滴のように皮を伝って野菜に付着する。肉が切り開かれると、幾重にも積み重なった肉の断層が覗いて湯気を上げる。良く焼かれたのであろう、血が通っていた肉は白身を全体に帯び、湯気をベールのように纏ったそれを見れば否応なく食欲が刺激される。フォークに切り取った肉を刺して口に運ぶ。足を千切って手掴みで運ぶも良い。肉を噛み締めた瞬間、断層の中から肉汁の旨みと薫りが溢れ出し、咥内を支配していく。一口、二口。噛み締める度に肉がパンのように潰され、肉汁が溢れ出す。嚥下するのが勿体無いくらいである。そして幸運な事に、まだまだ美味たる料理は尽きなかった。
ふっくらと焼きあがったパン。現代でいうところの、ロールパンに近い形をしている。丸みを帯びたそれは程好い焼き色に染まりあがり、指で押せば表皮を崩しながら凹み、柔らかく温かな感触を指に伝える。それを千切れば、ほんわかとした湯気を漏らしながら、絹のような純白のパン生地が現れる。口に運べばそれだけで香りの良さと丁寧な膨らみ、その両方を一時に味わえる。だがそれだけでは単調だ。熱の残るそれにバターを塗れば、クリームのような淡い黄色が溶け出し、芳醇な香りが鼻を掠める。林檎のジャムを選ぶのならば、果実を含んだそれが生地の膨らみに彩りを乗せ、甘く爽やかな味と香りを約束するであろう。どちらを塗るかは、皆の好みに。
ほんのりと湯気を上げたトマトスープ。赤く染まりがった其の中には形を解されたトマトの他に、刻まれて筋を浮かせている玉葱もあり、そして外観に色を添えるようにパセリがかけられている。スプーンを通せば、溶けた玉葱が糸を零しながら掬われ、味覚をそそる刺激的な湖を匙の中に作り出す。きらりと光るそれを口に含み、舌の上で転がす。トマトの甘味が濃厚に詰まった汁に混ざり、玉葱が溶けるように喉の奥へと流れ込む。温かみのあるスープに心地が良くなる。また、パンを千切ってスープに浸して口に運んでみる。ふっくらとした生地にトマトの甘味と酸味が染み込み、生地の優しさを蕩かして味わいを深めていく。
甘味としては、果実をふんだんに混ぜ合わせたヨーグルト。牛より搾り取った乳を使っており、果実は村原産の新鮮なものだ。純白の海の中に、見目麗しい果実が浮かび、沈んでいる。赤く実りをつけた苺、新緑のような青みを花咲かせた葡萄の実、そして一口大に刻まれた林檎がヨーグルトに和えられており、その甘みをより引き立たせる。口に流れるヨーグルトはほんのり甘く、自己主張を過敏にしない。果実を噛み締めれば葡萄の酸味、苺と林檎の爽やかな甘みがオーケストラの弦楽器のように波長を合わせ、味覚を喜ばせた。慧卓はこれを大変に好み、味わうように食べている。一口一口に新しい旨みを知るように、ゆっくりと味を噛み締めた。
そしてなんといっても宴に欠かせぬのは、酒である。用意されたのは男好みの麦酒、そして葡萄酒である。黄色の湖面に泡の層が浮き立ち、口にそれを含めば一気に爽やかな苦味が咥内を支配し、喉の奥が歓喜に震えるように熱くなる。アルコールの面目顕如だ。喉をごくりと鳴らしてそれを嚥下すれば、えもいわれぬ爽快感を感じて声を漏らし、口元に白髭がつく。そして気付けば、更に食欲を満たさんと料理に手を伸ばしているのだ。そして葡萄酒。透き通った紫の湖面がゆらゆらと揺れて、妖艶に飲み手を誘う。口元に近づければ濃厚な薫りが鼻を惑わせる。一思いに口に含めば、葡萄の芳醇な酸味がまろやかな渋みに調和していく。鼻に抜ける薫りを愉しみながら嚥下すれば、喉を優しく撫でる様に旨味が通り抜け、芳しい余韻を残していく。だがワイン好きには不運な事に、この美酒をゆっくりと愉しむ者は此の宴には皆無である。まるでビールのようにごくごくと喉を鳴らし、その風味を味わう以上の豪快な笑みを漏らしていた。これも一つの酒の愉しみ方であろう。
他にも色々と料理はあり、鷹揚に人々の腹を満たしていった。口伝だけでは伝えきれぬほどの絶品の数々。兵達の心のささくれを取り外し、和気藹々とさせるに大変な良薬となっていた。
慧卓は熊美の下へと向かう。下戸であるその者はアリッサとコーデリアと歓談しながら、果実を搾り取ったジュースをちびりちびりと口に含んでいた。嬉々としてヨーグルトを頬張っていたコーデリアが慧卓に向かって朗らかに声を掛けてくる。
「お愉しみ戴いておりますか、ケイタク殿」
「えぇ、とても。今日は有難う御座います。助けてもらって、しかもこんなに美味しい料理を戴いて。そして素晴らしい歌と踊りまで披露して貰って」
篝火の傍にあるのは料理だけではない。娯楽もまた、人々の心を和やかにさせていた。
人間、作業効率を上げるために如何してもリズムを誘発してしまうものだ。現代ではそれこそが音楽の始まりとする説も提唱されている。きっとその提唱者は、現代よりも技術や生活水準に劣る此の世界に来れば歓喜するに違いない。何故ならば世界を違えるこの村の者達も同じように、リズムを取って音楽を奏でているのだから。
バグパイプの高らかな響きが空を靡き、地面を駆ける駿馬のような軽やかな歌が紡がれる。幾人もの村の男達がパイプを通してバグパイプの黒いバッグに空気を吹き込み、バッグの腹から生えるパイプから高調子の清清しい音が吹かれる。幾つものパイプから其の音が吹かれ、時にはズレを交えながら重なり、高調子を演奏たらしめている。旋律の中にこぶしのような音が短く入り、曲を一層鮮やかに仕立て上げた。酒に酔って浮かれ気分となる者達を囃し立てるようにバグパイプが音楽を奏で、気分を盛り上げた者達が酔っているにも関わらず妙にリズムの取れた歌を披露する。野暮ったくも朗らかな声が、渋みの走る勇壮な声が、若さの残る高らかな声が重なり、一つの歌を笑顔で歌っている。其の言語は慧卓には解せぬものであったが、だが彼らの表情を、軽やかな雰囲気を見て自ずと思う。きっとこれは、互いの心を讃え合い、愉悦の宴に杯を交わす歌であろうと。そうでなくば、どうしてこの酒宴に披露されようか。
そして男達は酒酔いの身体に鞭と打ってか打たないでか、小気味の良い踊りをも見せていた。リズムの波に身体を乗せて、踵を、爪先を地面に軽く打ち当てる。その途端にまるでタップダンスの如く兵達のグリーヴが鳴らされ、小さな土煙を撒きながらバグパイプのそれと調律を合わせる。右に左に、そして前後に。男達が自由気侭に場を踊り、浮かれ気分の心を更に掻き立てている。二日酔いが酷そうだと、慧卓は心の片隅で思う。
この様子をアリッサは柔らかな笑みで見詰めている。時折、リズムを取るように指を跳ね上げながら、コーデリアに話し掛けた。
「彼らは、祭りと聞けば直ぐに浮かれ気分となる性分ですから。しかも唯の祭りではなく山賊討伐の戦勝記念を込めた祝祭であり、更には王女殿下も御参加なさるとくれば...」
「旨みも一入、っというわけですね」
「其の通り」
慧卓の言葉に逡巡なくアリッサは頷いた。それに続いてコーデリアが華やかな笑みを慧卓に見せる。
「今宵は誰しもが無礼講。宴はいつもこうでなくてはなりません」
「えぇ、心より賛同します...でも一つ不満に思う事とあれば...」
慧卓は己の手の中にあるジョッキに目を落す。赤々としたワインが湖面を張っており、ぐらぐらと揺れている。熊美が思わず彼に同情の視線を浮かべていた。
(グラスが無いなら仕方ないな...いやいやそうじゃなくて!)
慧卓は溜息を漏らすように言葉を出す。
「...なんで俺は酒なの」
「主役だからよ...我慢しなさい」
「此処って、十六歳は成年として扱われるんですよね?」
「宴に年齢は関係ないわよ」
そういって熊美はジュースを口に含む。アリッサが意外そうな口振りで問いかけた。
「おや、御両名とも下戸でしたか?」
「私の事が今も尚持て囃されているのなら、きっとこの話も伝わっているでしょう。『酒乱熊、王冠を喰らう』事」
「あぁ、ははははっ!えぇ、まだ伝わっておりますよ!黒衛騎士団団長の、一世一代の大失態をね!」
調子の良い笑い声を漏らすアリッサを見遣り、ついで熊美に訝しげに慧卓は視線を向かわせた。
「なにやらかしたんです?」
「まっ、今日みたいなはっちゃけた晩餐会があってね。しかも丁度戦勝祝賀会だったわ。其処で私、酒でべろんべろんに酔い潰れた当時の宰相、つまり前の国王に絡まれて、酒樽に顔を突っ込まされたの」
「うっわ...」
「其の後はもう大変。人が言うには、私はいきなり全裸となり、宰相を掲げて猿の如き雄たけびを上げ、会場内を走り回り、終いには宴に参加していた当時の国王の王冠に噛り付いた」
「酒乱、此処に極まれり、ですね...矢張り恐ろしい液体です、これは」
「だからこそ、確りと酒を理解して飲むほどに、より旨みを感じられるのだ、ケイタク殿」
何処か誇らしそうに言うアリッサの言葉に納得がいかず、ジョッキの中の赤い液体を見遣る。鼻を刺激する芳醇で、それでいて苦味のある薫りはまだ慣れない。思わず眉を顰めてしまう。
「俺にはまだ理解できそうに無いです...葡萄酒だって初めてですし」
「なら、良い飲み方を教えてやろう」
(あっ、これは悪戯する気ね)
熊美が直感を働かせる中、アリッサが食卓よりジョッキを掴み取ると、並々とそれに葡萄酒を注いでいく。コップの端限界ぎりぎりまで注がれたそれに慧卓が軽く引いてアリッサを見遣った。常の冷静さを秘めたその顔は、ほんのりと赤みを浮かべているように見える。
「この葡萄酒は特製でな、下戸でも悪酔いしない酒として有名なのだ」
「...ふ、ふーん、そうなのかー?」
「そしてこれは秘伝の手法により醸造されたものでな、とてもさっぱりとした味わいとなっている」
「ってことは、喉に通りやすいって事ですか?」
「あぁ、だからこうやって...」
言うなりアリッサは腰に手を当てて一息にジョッキを煽った。ごくりごくりと喉が鳴らされ、深みのある葡萄酒を胃袋で味わうように嚥下していく。思わず瞠目する慧卓と対照的に、コーデリア冷たく細まったジト目を浮かべてアリッサを睨みつけた。アリッサは勢いのままに酒を嚥下していき、その最後の一滴を飲み干す。思わず慧卓は拍手をして彼女を讃えた。
「ぷはぁっ!一気飲みしても大丈夫だぞ!」
「...すごいですね...アリッサさん、もしかして酒豪なんですか?あの、酔ってないですよね?」
「そんなことないよー!私はな、ただちょっと羽目を外すと後が怖いだけなんだー!アハハハ!!」
(言ってる傍からいきなり酔ってるわよ)
美麗な顔立ちを赤く染め上げ、凛々しさの欠片の無いでれっとした笑みを浮かべてアリッサは笑い声を高らかにする。夜の帳にその声は響き、呆然とした慧卓の耳を打った。アリッサは慧卓の手の中にあるジョッキに酒を注ぎ足す。溢れる一歩手前まで注がれるそれに茫然とした慧卓の背を押すように、妙に艶治な声でアリッサが声を掛けた。
「ささささっ、今夜の主役なんだから、飲めっ!一気に!」
「えっ、一気ですか!?」
「はーやーくー!飲んでー!濃くておいしいの飲めー!一気、一気、一気、一気!!!」
手を叩いて戦慄の『一気コール』を始めるアリッサ。それに素早く反応してか、周りの兵士達もノリの侭に手を叩き、口々に囃し立てる。悪戯に輝かせたその瞳が、今は憎たらしくて仕方が無かった。皆が皆、素敵な笑顔を湛えて、有無を言わせぬ悪魔の如きプレッシャーを慧卓に押し付ける。
『一気、一気、一気、一気、一気、一気!!!』
「くそっ、このノリはここでも通用しているのかのよっ!!!
「後で介抱してあげるから、やっちゃいなさい」
「あぁもうっ!熊美さん、頼みますよ!!」
慧卓は据わった瞳をして一瞬憎憎しげに赤の湖面を見据えた後、躊躇いを消し去るような凄まじい勢いでそれを煽った。周囲の者達が拍手喝采を上げて彼の勇気を湛える。慧卓は自棄になった意識の中、焼け付くような酒の熱さを喉に感じ、噎せ返るようなアルコールの臭いに目を眩ませる。だが、途中でやめればそれこそ男の恥だ。慧卓は震える両手でジョッキを掴み、どんどんと中身を煽っていく。まるで砂漠で流浪した貧者がオアシスの水を嚥下するかのように、躊躇いも後悔も無い、神秘的なまでの姿である。慧卓がその最後の一滴を飲み干すと一際強い歓声が上がり、アリッサが咳き込む慧卓の背をばしばしと叩いて誉めそやす。
「やるじゃないか!見た目からしてモヤシっぽい奴だと思ってたけど、案外根性据わってたんだ!いやーすごいわー、アハハハ!」
「......かっ」
「アハハハ、あへ?」
「見てて面白いのかあああああっっっっ!!!!!!!」
『うおおおおっ!?』
突如として激高する慧卓に諸人は驚く。慧卓の瞳は明らかに酔いに据わり、咽喉は酒に侵されて息臭くなっていた。まるで蛇のような鋭い眼光を放ち、慧卓は正常な判断がつかぬ意識の中でアリッサの顔を掴むと、無理矢理に酒樽に突っ込ませる。
「ぶおおっ、んごっ、んっごぉぉ!?!?」
「アリッサさぁぁんっっっ、一気飲みは死んじゃうんでずよ”お”お”お”!!!」
二人の酒乱の醜態に諸人は再び溌剌とした笑い声を漏らす。誰も止めようとはせず、宴の華に愉快な気持ちを抱いていた。
一方で保護者の立場ともいえる熊美は引き攣った顔をして慧卓らの激しい動向を見詰めていたが、思い出したかのようにコーデリアに視線を配って深々と頭を下げた。
「...殿下、私の連れが粗相を起こしまして、申し訳御座いません」
「クマ殿。今宵は祝勝会である以上に、愉しい愉しいお祭りなのです。沢山騒いで、遊んで、みんなで笑うのが一番です。ですから、彼をとやかく言う必要はありません」
「...分かりました」
「でもアリッサに関しては在りますね。あの人のせいでケイタク殿が暴走してしまったんですから。本当、酒が入っちゃうと自制が出来ぬ人なんですから...ふふふ」
(目が笑っていない...怖いわぁ...)
冷ややかに笑みを零すコーデリアの瞳には一分の温かみも、ましてや好意の色も無い。まるで酒乱で浪費癖の父親を見下すが如き視線、如何様にも修正し難い阿呆を見る視線である。瞳からハイライトが消えているのではなかろうか。傍から見ればなんと背筋を寒からしめる瞳であろうかと、熊美は心の端で思う。
コーデリアは一つ頭を振り、常の宝玉のように美麗な瞳を取り戻すと、熊美に尋ねた。
「クマ殿。久しぶりの『セラム』はどうですか?」
「...此処は変わっていませんな。空気はうまいですし、星空はいつも絢爛としている。そして人々は、いっつも賑やかだ。貴方が思っている以上に此処はいい世界ですよ」
「......そうですか。そうだといいのですけど」
間を置いてコーデリアは応えた。心成しか、其の声に得心も共感も無いように聞こえる。まるで今生に辟易としているかのように、色を乗せていない声であった。
熊美が不審に思い尋ねようとすると、自らの下に近付く足音に気付いて目を向けた。表情を陶然とさせて顔を心地良さげに赤らめている慧卓が、覚束無い足取りでふらふらと近寄ってきた。近寄る度に、濃厚な酒の臭いが漂って鼻を突く。かなりの量を飲まされ、飲んだらしい。
「あぁ、王女様ぁ、ひっ!飲まないんですか?」
「過剰な飲酒は、将来、肌に悪いので」
「そーなんですか...ああぁ、ってことはぁアリッサは将来皺だらけーーー」
「おっらぁぁぁぁっっっっ!!!!!!」
裂帛の一声を伴い、アリッサが慧卓に向かって椅子を振り下ろす。へべれけとなった者に有るまじき鋭い一振りである。だがその一撃は虚しく空を切り、勢いを保ちながら地面に叩きつけられる。衝撃で椅子の足がぱっきりと折れ、酔いで頭をやられたのかアリッサが前のめりに地面に倒れ込んだ。
その様子を、慧卓がコーデリアを抱きかかえたまま見下す。こちらも泥酔した者に有るまじき機転の効き様である。胸元に押し付けられたコーデリアは、外観より想像する意外と引き締まっている体躯に若干の驚きを抱きながら、己の臀部に這う違和感を訝しむ。慧卓がアリッサに向かって心底馬鹿にするような口振りで吠え立てた。
「バーカバーカっ!お前なんか其処で突っ伏して寝てるのがお似合いだ、バーカ!!」
「ちょっとケイタク殿!?なんかお尻に変な感触があるのですけど、これは一体!?」
「握ってるのよ」
「握るな、このバッーーー」
言葉が妨げられたかのように途切れる。コーデリアは瞠目して意識を硬直させた。彼女の琥珀色の瞳に、瞳を瞑った慧卓のほろ酔い顔が移りこむ。
「......なっ...!」
「おぉっっ!?」
『おおおおおっっっっ!?!?』
人々の驚愕の声が場を木霊した。衆目が集まる中、コーデリアと慧卓の影が一つとなっている。否、一つとされている。胸の中に抱擁しているコーデリアの美麗な唇に、慧卓が己のそれを優しく、丁寧に押し付けている。酒酔いで明瞭となっていない意識の中ではあるが、而して慧卓はコーデリアの媚薬のような仄かな甘い香りと、餅のような柔和な触感を確りと感じていた。対照的にコーデリアは混沌とした意識の中、相手の唇の柔らかさを実感するより前に、泥酔人独特の酒臭さを間近で感じていた。
慧卓がゆっくりと唇を離した。悪戯っ気に溢れた稚児のような朗らかな笑みを浮かべる。
「ご馳走様でしたっ、エヘ」
「...何時か来るとは思ってたけど、まさか、政略結婚前の話が来る前だったとはね...」
「えっ?」
「どうせいつかは奪われるんだから、せめて、初めてだけは、好きな人に捧げたかったのに...悪酔いした何処かの馬の骨に奪われるなんて...」
「あれ?王女様?」
表情を窺わせぬ様に俯き、ぽつりぽつりと紡がれる言葉に何処と無く不穏な気配を慧卓は感じる。抱擁の手を離してその顔をのぞこうとした其の時、烈火の如く瞳を怒らせたコーデリアと視線が合わさった。
「なんで初めての味が酒臭いんだ、ざっけんなゴラァァァァッッッッ!!!!!」
「ゲバァッ!?」
腰の入ったコーデリアの正拳が慧卓の顎を跳ね上げる。空を舞う事は流石に無いが、酔いにふらつく男の意識を暗転させる程の威力を持った拳であった。慧卓はその威力に身体を仰け反らせ、そのまま後ろへと倒れ込んでいく。ぐらぐらと回転する視界の中、不思議な妖艶さを醸し出す光沢を放つ三日月が彼の目に焼きつき、それを最後に意識が奈落へと落ちていく。その最中、周囲の者達の囃し声が一段と高くなったような気がした。
はっと目を見開いて慧卓が覚醒する。
眠気の無い瞳に真っ先に飛び込んだのは、窓辺から差し込む払暁の明るい光と、無機質でそれでいて温かみのある白い天上。身体に感じるのは、深みのある上質なソファの柔らかな感触。そして鼻を誘うは、香ばしいパンの臭いである。これは、紛う事なき現代の風景。とすると、夢から現実へと回帰したのだろうか。まるで白煙のように眠気を残す意識の中を白い靄がかかっており、先程まで感じていた筈の現実とは思えぬ、而して現実感の強い世界の想起を妨げていた。
慧卓は納得のいかぬ表情を浮かべ、手を宙に翳して見遣る。此の手や肌に感じたのは、この耳目で捉えたのは、確かに紛いの無い現実であった筈なのだ。段々と血流の巡りを覚え始めて覚醒していく意識の中、慧卓は必死に己が感じていた世界を思い起こす。何処か深く、鬱蒼とした場所を走っていた気がする。そしてひんやりとした細い道を歩き、険しい陸を上り、下っていった。轟音が耳を貫き、そして何か噎せ返るような臭いに襲われた。漠然とした記憶だけしかないが、それでも慧卓にとっては、血潮に通う己の魂と同じくらいに大切で、とても価値在るものに思えてならない。例えそれがよくある一抹の夢だと笑わるとしても、慧卓の胸の中に喪失感も、ましてや虚無感も沸き得ないだろう。
慧卓は想起を巡らしていく中、やけにはっきりと記憶に残ったシーンを思い起こし、自己嫌悪に陥り始めた。先程まで体感していた世界にて、自分は何か嫌な飲み物を嚥下したのだ。そしてそれがために、今まで見た事が無い、まるで御伽の国の契情の美少女に口付けを落したのだ。到底普段の自分とは創造もつかぬ、ふしだらで、直情的な姿であった。そんな気にさせたのも、きっと夢にも似たあの世界の空気が悪いのだと慧卓は決め付けた。
「酷い世界だったなぁ...」
「あらぁ、慧卓君、起きたのかしらぁ?」
「現実はもっと酷かった...」
耳に入った声に頭痛を覚え、その方向へと目を向ける。合理的な配置をした料理道具に囲まれたキッチンに、可愛らしいひらひらをつけたエプロンを纏う、強烈なまでに逞しいオカマが其処に居た。慧卓の記憶は其の人物の名を、熊美と言い当てていた。
思わず毀れ出す溜息が朝焼けの部屋の中に混じる。ふと慧卓は己の唇に手を当てた。冷たと乾きが顕れたその部分は、確かに柔らかな感触を覚えていたのだ。仄かに薫り、艶やかな甘みを湛える少女の唇を。
此処は現実、勤木市の一軒家。しがなき一人の夜の蝶、『矢頭熊美』の静かな住まい。その家の中で、流線を描いたフォルムをしたトースターがちんと鳴り、狐色に焼かれた食パンが元気良く飛び出した。仄かに鼻を嗅ぐわすそれに、慧卓の腹はぐぅと鼓動を立てた。
ページ上へ戻る