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王道を走れば:幻想にて

作者:Duegion
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第二章、その4:甘味の後味

 かんかん照りの夏模様の空。太陽からまるで熱波のように放たれる陽射は想像を超える暑さを地上に齎す。そうなれば、自然と汗もだらだらと垂れていくのが道理だ。

「ふぃー、やっと追い着いたかー!」
 
 王都に程近き街、『ロプスマ』の街門を潜り抜けて、一人の少女が安堵の言葉を漏らした。顔には汗の筋が幾つも垂れており、手でぱっと払えば滴が地面に飛ぶようだ。一息に飲む清水でさえ、今の彼女にとっては極上の聖水に等しき美味であった。
 王都育ちの彼女がこの街に来たのは理由がある。彼女の母方の父親が此の街で衣服店を経営しているが、現在は人手不足であるためにその手伝いに来たのだ。無論給金目当てである事も忘れてはならない。だが此処に来るにあたり、途中の豪雨や今日の暑さといい、天気模様に恵まれぬ道程であった。だが一度街に着けばそんな苦労も吹き飛ぶものだ。
 幼さが抜けぬ雀斑顔で、少女は街を見渡す。多種多様な人々がわいわいと行き交う活気の溢れる街並みは、正しく『ロプスマ』の光景であった。

「何時来ても此処は賑やかだなぁ......って」

 少女は鼻をくんくんと鳴らす。途端に鼻孔を通じて豊潤で、爽やかな甘みを利かせた薫りが入り込み、彼女の目をはっと開かせた。

「この甘い匂い...もしかして...アップルパイ!?」

 意識の中でその匂いをはっと思い出し、彼女は周囲に視線を巡らせた。そしてその予想通りに、通りに面して開かれた即席の屋台で、恰幅の良い女性がアップルパイの売込みをしていた。
 少女は改めて通りを見渡す。屋台を開いているのはアップルパイの女性だけではない。魔除けの呪い道具を売る者、和やかな笑みと雰囲気で巧みに客を引き寄せる。家事道具を売り込む者、箒を片手に声を張り上げる様は旦那を尻に敷く女房姿と変わらない。厳しき面構えが功を奏したか、武具屋の前には似たような風貌の持ち主がわんさかと集まり、その周囲一帯だけがぎちぎちと張り詰めた緊張感が漂っている。明らかに空気を呼んでいない。
 だがそれさえ目を瞑れば、この街はまるで意思があるかのように、賑やかさをより高みへと盛り上げていた。誰も彼もが好奇の視線を交わしあい、欲の充足を全うせんと、その独特の雰囲気を愉しまんと歩いていく。人それを、祭りという。
 少女は懐から皮袋を取り出して小さく振った。じゃらじゃらと、にやけ面を浮かばせるような心地良い音が鳴る。 

(だ、大丈夫よ、トニア。ちょっとはお金も余ってるんだから、そうちょっとならいいのよ!ちょっとだけ...)

 自分に言い訳をする一方、香りに誘われるままにアップルパイの屋台へと足が動いていく。カリカリに鉄板の上で焼かれた林檎の実、其処から薫り立つ芳醇な香りを嗅いで、思わず喉を鳴らす。我慢の糸がぶつりと切れた。 

(きょ、今日は特別なんだから!そう、特別な日なの!だから...)
「いらっしゃい、お嬢さん!お嬢ちゃんも食べるかい?」
「はい!ひとつ下さい!!」
「はいよっ、ちょいと其処で腹を空かせたまま待ってな!!」

 屋台の女性はそういうなりへらで手際よく林檎を幾つか掬って白パンにそれを乗せ、果実を生地で包むように挟んだ。オーブンが準備出来ない以上、白パンが代替となるのであるが、それでも美味に相応しき外観をしていた。

「はいアップルパイ!たんと食べておいき!」
「有難う御座います!これ御代です!」
「はいよ、あんがとさん!はい次の方、何個食うんだい?」

 トニアは街の流れに身を委ねながら、焼き林檎を挟み込んだ白パンにむしゃりと齧り付く。咥内に広がる瑞々しい果汁、そして柔らかくも確りとした食感。舌の上で柑橘類独特の甘みが広がっていく。

「はむっ、あむっ...んふふふふっ」

 にへら顔を浮かべてトニアは更にアップルパイに齧り付く。通りを歩いていは立ち止まる度に、懐の重みが僅かに減っていった。



 同刻。場所は街一番の宿屋。
 慧卓は欠伸を噛み殺しながら朝の紅茶を啜る。薫り高い味わいは眠気を覚ましていくのにぴったりである。テーブルには白パンが乗っていたが、あまり手を出していない。宿屋の一階では彼の他に宿屋の主人しか居ない。他の面子は唯一人を残して既に外に出てしまっている。
 その最後の一人、コーデリア王女が確りとした足取りで階段を降りて来た。未だ眠気を覚えているのか、ジト目のままである。それでも宿屋の主人が用意した衣服|(清楚な白いワンピース、その上からラズベリーのような色をしたカーディガンを羽織っている)を着こなす様は、流石王族の娘といったところか。
 
「お早う御座います...ケイタク様」
「お早うございます。って王女様、結構眠そうですね?」
「何処かの誰かさんが、必死に礼儀所作の講義をお願いするからです...ふぁ...夜遅くまで頑張りすぎました...」
「あ、あははは、すみません...」
(感覚的には夜の十二時半くらいなんだけど、こっちではかなり遅い時間なんだよな...)

 罪悪感を感じる慧卓。それもそうだ。彼にとっての現実世界では、人々にとって夜とは仕事の時間であり遊びの時間。夜更けを過ぎて尚身体を運ぶ者が多いのが当たり前であったのだ。対して此の世界は夕暮れと共に身を休め、夜明けと共に身を起こすという慣習が根強い社会。コーデリアとて、その慣習に浸かっていない筈が無かった。
 慧卓の真向かいの椅子に座るコーデリア。そして喧騒を耳にしたのか、窓の方へと視線を向ける。

「...何やら街が賑やか感じですね...それにいい匂い...あっ、朝餉ですか」
「今日の朝餉は軽めにしましょう...後が愉しいですからね」
「そうなのですか?ちょっとお腹が減っているのですが、貴方がそういうならそうしておきましょう」

 そういうコーデリアの前に、宿屋の主人が朝餉を運んでくる。慧卓と同じ、白パン二つに紅茶のセットだ。焼かれてからそれ程時間が経っていないらしく、しなやかな手で千切られるそれからはほんわかとした香りが漂ってきた。
 一口一口、コーデリアはパンをゆっくりと噛み締めては嚥下する。慧卓は何気となく彼女を見遣る。咀嚼する間に眠気がまた来たのか、瞼が先程よりも降りてきており、まるで赤ん坊のようにゆっくりと初々しく口元を動かして、コーデリアはパンを食べている。

「むー......」
(あー...可愛いなぁ...)

 漏れ出す唸り声ですら心を揺り動かす可憐さを兼ね備えている。慧卓は彼女に見えぬように笑みを浮かべながら、付き人らしく叱責の声を優しく掛ける。

「王女様、食事中に寝ちゃ駄目ですよ」
「分かっているのですけど...もう、貴方のせいですからね」
「あっ、あははは...御免なさい。まぁ、時が来ればそんな眠気も、楽しさと喜びで吹き飛んでしまいますがね」

 慧卓の言葉にコーデリアは頸を傾げるも、それよりも空腹の消化を優先させてパンを嚥下していく。
 食事を進めるうちに眠気が消えていったのか、二人はちょくちょくと会話を愉しみながらパンと紅茶をを胃の中に収めていく。

「...明後日で出立、ですか」
「えぇ、何でも街の方々が王女様を御歓待申し上げたいとの事ですから」
「有り難い話なのですが、良いのでしょうか...山賊討伐こそが我等の主命であったのに、その帰り道にこのような歓待を甘受してしまっても...」
「王女様は堅苦しく考えすぎです。為政者といえども、時には息抜きは大事ですよ。でなければ心身が硬くなってしまいます」
「そうなのでしょうか?何時如何なる時も常に政や契約に誠実たれという事が、為政者としての責務だと思うんですが...」

 慧卓は肩を竦めて紅茶を飲み干す。時は既に三十分は経っていようか、遅めの朝餉を済ましたコーデリアはふぅっと息を吐いて、椅子に座りながら窓の外を見詰める。どうにも彼女は外の様子が気になるようである。

「実を言うとですね、王女様を歓待したいというのは、何も彼らだけではありません。俺達もです」
「?それは如何いう事ですか?」
「こういう事ですよ」

 椅子から立ち上がった慧卓は宿屋の入り口に足を運び、コーデリアに向かって手招きをする。そしてその戸を開け放ち、彼女に外の光景を見せた。コーデリアは其処に広がる、活気に溢れた大通りと喜びに満ちた人々の表情を見て、驚きに声を漏らす。 

「これは、まぁっ!!!」
「王女様を歓待申し上げたいと街の皆が集い、兵達も商人も一致団結して開かれた大祭事ですよ!」

 部屋の隅で縮こまっているような世風を吹き飛ばすが如く、商人小悪党が財貨と物資を投げ打って見世棚を開き、兵と役人がそれを統制して秩序を齎す。公民の協力の下繰り広げられる一大イベントに、どうして街の者共が参加しないであろうか。
 この光景を作り出した切欠である慧卓は、予想以上の規模の大きさに内心で冷や汗を掻きつつもそれを表に出さず、気障な笑みを作り上げてコーデリアに手を差し伸べる。

「さぁ、王女様。恐縮では在りますが、この私めがエスコート致しましょう」
「...ふふふ、じゃぁ今日はお言葉に甘えて、お願いしますね」

 差し伸べられた手をコーデリアが握る。その小さくも温かみのある柔らかな感触に、慧卓は己の心臓が一拍、鼓動を震わせたのを感じた。
 両名は手を繋ぎ、人々の流れに従うように通りを歩く。初々しく握られた掌より伝わる温度。木漏れ日に葉陰から差す陽射のように温かで、それに光を帯びている気さえしてくる。恥ずかしさからか、両名の距離は幾分か開けられているようだ。人それを初恋の距離と言うが、内心でドキマギしっぱなしの慧卓にはその言葉は届く筈も無い。
 稀代の美少女のエスコートという大役を背負った彼はその重責を感じさせぬ、朗らかな口調と態度を崩さず、王女に思い切った事を語りかける。

「き、今日は街の大通りを貸し切っての一大祭事です。此処に集う者達は、今日に限って皆無礼講です。王女様も、いえ、コーデリアも今日は一人の少女でいいんだぞ」
「...あの...よろしいのでしょうか?王女たる私が、そんな事までして...」
「いいと思うよ。此処は宴の広場。祭りにはしゃぐ人達に貴賎の格差は無いんだから、って...」

 慧卓の足が止まる。その視線を追いかけたコーデリアは、彼と同じく一瞬立ち止まってしまう。
 屋台に鉄板を敷いて、串に刺さった鶏肉を焼いている熊美が其処にいた。ご丁寧に花柄のエプロンを鎧の上に纏い、スキンヘッドを清潔な三角巾で覆っている。見た目がごつい中年過ぎの巨漢であるだけに、斬新過ぎる光景であった。

「...クマさん、なにしてはるんですか」
「見てわからないの?屋台よ、屋台」
「いやそれは分かるんですが、なんでよりによって焼き鳥?」

 赤味を帯びた肉につけられるタレが鉄板に毀れ、実に空腹感を擽るような焦げる音を炊きつけて来る。肉の間、間に刺された葱もまた焦げを見せてタレを吸い込んでいる。

「お手軽でしょ。序でに言うと材料が用意しやすいから。そこのお兄さーーん、よってかなーい!?今なら御安くしとくよー!!」
「もう完全に唯の商人ですね」
「クマ様...意外と似合ってます」
「まぁ、ありがとうね、コーデリアちゃん」
「ちゃ、ちゃんって...!」
「ほらさ?格差なんて全く意識して無いだろ?」

 あまりにあっさりと階級の差を崩しに掛かる熊美にコーデリアは呆気に取られる。そして周囲を窺うように視線を巡らせる。見れば其処に、明瞭な格差の存在など見受けられない。強いてあるならば、警備兵と市民、商人と市民、その些細な違いだけだ。富と力を笠に着る者も居ない此の場では、久しく脱ぐ事が適わなかった王女の器も外して良いのかもしれない。

「...そうですね......そうね、そうしましょう。クマさん、一つ下さい!」
「やっと素直になったわね!じゃぁこれはオ・マ・ケっ」

 コーデリアの言葉から、何処か意識的に凛然に構えられていた色が消える。それは詰まり、今の彼女が唯の少女となった事を指す。
 熊美は喜びを表し、使い捨ての木皿にたんまりと焼き鳥を乗せる。零さぬようにコーデリアが皿を持つが、意外と重みを感じさせるそれに吃驚とする。

「ちょ...ちょっといっぱい盛っていますね...こんなに食べたら、お腹がいっぱいになっちゃう...」
「お互い、交互に食べればいいんじゃない?此処には甘味処もいっぱい出店しているから、きっと愉しめるわよ。ほら、あそこのアップルパイとか」
「アップルパイ?...ケイタクさん、早くいこっ!!」
「うおおっ!?順応性凄いな!」

 甘露の響きに惹かれてコーデリアはそそくさと歩き出す。最早その口調や態度に王女としての高貴さは感じられず、代わりに若々しい溌剌さが感じ取れる。これこそが彼女の生来の性格なのだろう。
 串を指先で抓んで彼女は焼き鳥を頬張った。程好く甘さと辛さが調和したタレ、それを吸収した肉の食感は即席で用意されたいう割には、王宮の宮廷料理を食してきたコーデリアを唸らせる味があった。

「これ美味しい...ねぇ、ケイタクさんもーーー」
「おばちゃん、このアップルパイ二つ頂戴」
「はいよっ」
「ちょっ、ちょっとケイタクさん!!!」

 何時の間にか慧卓はアップルパイの屋台に並び、御代を払ってパイを二つ買っていた。両手にひとつずつ白パンを持ちながら慧卓は気楽に、友達にでも話しかけるような軽やかさでコーデリアに言う。

「お待たせっ。で、なにかな?」
「もう、勝手に行かないでよっ!これ食べない、って聞いてるの」
「う~ん...食べたいのは山々なんだけど、今両手が塞がっているんだよな~~」

 にやつく慧卓。意味を図りかねて一瞬逡巡しかけたコーデリアの隙を突くように、続けざまに言う。

「出来れば食べさせてもらえないかな~って思うんだけど...」
「あっ、貴方っ、最初から狙って...!」
「おっとっと!あ~、パイの果実が毀れる~」
「わっ、分かりました!やりますよ!やればいいんでしょ!」

 コーデリアは投げ遣り気味に声を出し、こみ上げる羞恥心を赤面という形で顔に表しながらおずおずと焼き鳥の串を抓み、その先端を慧卓の口に向けた。ぷるぷると指先が震えるのは、串を持って指先が疲れてきているためだけでは無い。

「はっ、はいっ、あ~ん...」
「あ~~~ん...」

 王道を真っ直ぐに行くシチュエーションに内心で大喝采を挙げながら慧卓は焼き鳥を頬張る。口の中に広がる芳しい肉の味も然る事ながら、目前で上目遣いで顔を赤らめたこの世の天使は、まさに至上の喜びを彼に与えてくれた。思わず笑みを零してしまうのを誰が責めようか。

「ふふふふっ、ふふふふ!」
「...も、もうっ、直ぐに調子に乗って甘えてくるんだからっ...」
「ごくっ。んじゃお返しだなっ、はい、あ~ん」
「えええっ!?!?」

 慧卓はアップルパイの矛先をコーデリアの口元に近づける。コーデリアは頬の赤らみを益々と高めて慌てる。気恥ずかしげに目が泳ぐ様ですら、彼女の元来の可憐さを際立たせるようで、慧卓の心をひしと掴み取っていた。

「あっ、あの、ケイタクさん!流石に公衆の面前でこういう...その...」
「あ~ん...」
「はっ、恥ずかしい事は、出来れば、出来れば...その、誰もいない時の方が...」
「あ~ん...」
「......このっ、馬鹿!あ、あ~ん,,,」

 意を決して、コーデリアは小鳥のようなあどけなさを保った口先をパイに口付け、それを齧り取る。唇からはみ出している林檎の実を口に含み、花恥ずかしき思いで視線を逸らしてそれを噛み締めた。

「ね?甘くてクリーミーで、美味しいだろ?」
「......馬鹿」

 拗ねた言葉を出すコーデリアであったが、慧卓から離れようとしない。そのいじらしさに胸を締め付けられ、慧卓はそれを表に出しては面白みが無いとばかりに、己もアップルパイを食べ始めた。
 その微笑ましく甘ったるい光景を見る街人の視線も、自然と微笑ましいものと変わっていく。一部を除いては。

「ふむ...上手くいっているようで安心したぞ...ふふふふっ、あんなに恥らっているのにケイタク殿と距離を開けようとしないとは...なんといじらしい姿か...」
「全くです...こんなに胸を動かされたのは、妻が二人目を懐妊した時以来ですよ...あぁ、可愛いなぁ、もうっ!」
「隊長、鼻から敬愛が吹き出ているぞ」
「近衛殿、目から忠誠が漏れていますぞ」

 建物の陰から顔だけを覗かせて、アリッサが歓喜の血涙を流し、ハボックがでれでれと鼻血を垂らす。致死量までは流れていないのだろうが、二人の足元には既に禍々しい水溜りが広がっていた。
 アリッサは血涙を流した容貌のまま生真面目な表情を装い、ハボックに語りかける。

「意外と造営官達が簡単に折れて助かったな。街の活性化の利点にすぐさま気付いてくれて、大きな援助を受ける事が出来た。お陰で、此処まで大規模な催しとなっても大した混乱が生じなかった」
「此方はとんとん拍子でしたよ、流石は機を見るに敏な商人ギルドです。利害の一致さえすれば簡単に大規模に動いてくれる。それぞれの商人達が己の自慢の商品を露店に並べていますから、とても良い販売競争となるでしょうな」
「全くだよ...だがな...」
「えぇ...」
『流石に此処まで繁盛するとは...』

 二人は建物の影、路地裏へと視線を向かわせる。普段から暗がりを保っていたその通路には、通りには見られぬ下品な光景が広がっている。それは、祭事で消費された商品の成れの果て、道端に散らかった塵屑だらけの光景だ。放り捨てられたスプーンや串、これ幸いとばかりに抓み出された古着や腐敗した食品|(茸やパンが目立つ)、そしてあろう事か人の老廃物らしき物まで其処にあった。塵の集積場を用意出来なかった結果がこれだ。夜盗が見れば歓喜するに違いない。何せ商売道具になりそうな物が探せば探すほどに、其処に眠っているかもしれないからだ。

「これは後始末が物凄く大変だぞ...催しが終わったら、きっと立案者はとんでもない説教を喰らう羽目となるだろうな」
「それにこんな祭りは滅多にありませんから、民衆はきっと祭りの継続を願い出るでしょうな...一年に一度とかそんな単位でも、其の度に商人ギルドの長は懊悩する羽目となるでしょうなぁ...いやはや」
『後が怖いな(ですね)~...』

 頷きあう二人。彼らの想像の中では、発案者は此の街の統治者相手に土下座を構えている姿が映り込んでいた。
 一方で別の建物からも、複数の視線が慧卓らの甘い光景を見詰め、否、睨んでいた。嫉妬に胸焦がすその者達の名を、ミシェル、パックという。

「くそっ、ケイタクの野朗!一人姫様とイチャイチャしやがって...もげて爆死しろっ!!!」
「おいっ、声が大きいぞ!バレちまったらどうするんだ!しかし爆死しろ」

 共に恋を未だ成就出来ぬ身分。欲望の捌け口は全て娼婦にしか向けられた事が無い悲惨さである。そんな二人を嘲笑うかのように慧卓が更にイチャイチャをコーデリアに仕掛ける。

「うわっ、うわ!あいつ肩が触れ合う距離まで近付きやがった!畜生!!いよいよもって爆死しろ!!」
「全くだ!俺達のコーデリア姫を、まるで己の女のように扱いやがって...許せん””っっっ!!!!!!!」

 腰に携えた剣の柄を握り締め、二人は視線を交わす。

「かくなる上は、吶喊だ!あいつらの仲を引き裂いてやるっっ!!!」
「独り身の俺達に先んじて幸せに成ろうと企図する裏切り者を、正義の鉄槌で粉砕してやるっっ!!!」

 嫉妬が怨嗟を変わり、現実の認識すら危くなるパック。

「往くぜ、ミシェルっ!」
「おうともさ、パックっ!!!」
『全ては男の正義の為に!!!』
「なにが正義の為にかしら、貴様ら?」
『......アッオー』

 絶望的な表情を浮かべて冷や汗を垂らす二人。壊れかけの人形のようにガチガチとして後ろを振り向く。一分の気配を読ませず、まるで蜃気楼のように突如として熊美が其処に立っていた。

「くっ、クマ殿...屋台にいたんじゃ?」
「バッカス殿に頼んで少しの間代わって貰っているわ...さて貴様ら、どうやってお仕置きしてやろうかしらねぇ?まぁそんなの決まっているわ。来なさい、漢と漢女の世界を魅せてあげる...」
『い、いやだあああああっっっ!!!!!』

 むんずと襟首を掴まれて引き摺られながら、二人は哀愁の漂う悲鳴を漏らし、無双を誇る怪力のままに裏路地の奥へと姿を消していく。此の日、祭りの裏側に不気味な悲鳴と雄叫びが木霊して、耳にした市民を酷く怯えさせたという。




「これは......なんと面妖なっ...」

 祭事を愉しむ者に格差は無い。それが貧富であれ、手にする職の違いであれ、なんであれ。
 この者、王都の中枢に冷徹の目を巡らす執政長官の手駒、小太りの中年男にとっても同じ様子であった。

(なんだこの円らな瞳は...この愛くるしく、何処か疎ましい表情は一体何なのだ!?)

 手にしたのは一つの御面。祭りに相応しき出し物である。だがその御面、無駄にでかくて丸い顔面、妙に艶光した髪、人をおちょくるようでそれでいて愛くるしさのある瞳と口元など、他の御面と一線を画す魅力を博している。

「...済まぬ店主、一つくれ」
「あいよっ、まいどどうも!ゆっくり被っていってね!!」
「...ほう、意外と手触りも良い...む?面の裏に文が...?」

 かくして男もまたそれを手に入れて面を被ろうとし、其処に書かれた文面に目を奪われる。

『ゆっくりしていってね!』
「ゆ...ゆっくり...?」

 解せぬ文章である。だが其処に書かれた以上、深い意味があるに違いない。でなければ誰の手に渡るかも知れぬこの御面に書く必要が何処にあろうか。
 男はその面を被り、紐を耳に掛けて固定する。面の目の部分に開けられた穴により視界が確保されているようだ。その穴の部分より、男はお目当ての人間を視界に入れた。

「......あれはコーデリア王女...その隣は、異界の戦士か?」

 珍しくも普段着の王女とそれに付き従う異界の若人。まるで唯の恋人のような新鮮さを醸し出しながら街の浮かれ気分に自らを乗せているようだ。だが若人はその一方で時折、周囲に鋭い視線を巡らせる。王女の護衛を兼ねているのであろう青年は、街を往く者に見受けられぬ黒髪黒目、そして輪郭のはっきりとした顔立ちが相まって、凛々しき空気を出している。

(珍しい容姿をした青年だな...それに、聡明な目付きだ...)

 手下の草、つまり間諜を放つだけに留まらず、自らの目で見に来た甲斐があったといえよう。でなければ街全体に漂うこの繁盛の香りを理解出来ず、そしてその発起人の顔に隠れた深淵も垣間見れなかったに違いない。

(恐らくこの盛大な祭事も奴の発案によるものであろうな。でなければこんな、こんないじらしいお面っ、誰が考えつこうか!)

 問題は其処ではない。
 交通の要衝として栄えていたこの街が更に活気を増しているのだ。その勢い、若人に分からずともこの男には理解出来る。今此の街はこの行事の力を借りて、王都を越えて、王国一の活気漲る街へと変貌しているのだ。

(...これは執政長官殿に油断成らぬよう上申する必要があるな...)

 御面のお陰で、男の険しき表情が隠れるのが幸いである。面に現れるうざったい口の歪みを撫でながら、男は踵を返し、人混みの中へと消えて行った。
 男の心情を露も知らぬ若人は、王女の冗談を耳にしたか、照れ臭そうに笑みを浮かべていた。




「ふぅ...」

 賢者に似た溜息を零す慧卓。散々に遊びまわったからか、疲れで身体の節々に気持ちの良い疲労が走っていた。
 既に日は落ち始め、熟れたオレンジのような空が広がっている。明かるい空に靡く雲はまるで魚の鱗のように和やかであり、心を穏やかなものにさせてくれる。
 街に広がる盛況の風景も今では下火となっており、稼ぎに満足を覚えぬ商人と、暇を持て余した者達だけが通りを歩いている。後は皆、欲を充分に充足させたのか、既に家路に着いていた。
 かくいう慧卓とコーデリアも同じ様相である。但し違う点があるといえば、穏やかに眠るコーデリアを慧卓がおぶっているという点である。

「ほら~、コーデリア。そろそろ宿屋だから起きなさい」
「くぅ......すぅ......」
「あーあ、こりゃ完全に寝ちゃってるわ...」

 背中に感じる重みは、人を背負っていると考えれば実に軽やかなもの。普通の者が鉛とするなれば、コーデリアは羽毛の布団のようである。温かみと柔らかな感触は正に女性の美の典型。まるで一級の香水でもつけているのかと思わせる程、彼女の香りは芳しいものである。
 其処で慧卓がはっと、今の状況を理解した。

(あれ...もしかして、俺、今物凄くチャンスなんじゃないか!?)

 眠り姫と護衛。彼が想起した事、即ち一夜を越える事。若々しき身体をこの世界で持て余していただけに、一端其の手の事を思考してしまえば突如として身体がそれに反応してしまう。特に耳の近くで感じる彼女の呼吸と、そして背中に無防備に押し付けられる柔らかな二つの双丘の存在に。そして本能は言う、『もっと欲張ってもいいんじゃよ』と。

(いやいや落ち着け!背中に柔らかい感触を感じているだけで幸福なんだ!吐息を近くに感じるだけで至福なんだよ!!これ以上の幸を求めるなんて...)
「んん...ばかぁ...おっきぃ...」
(すんませんっ、もう耐えられませんってぇぇぇ!!!!)

 何処か色欲を感じる言葉に苦悩して、慧卓は内股気味に道を歩く。もう直ぐ近くまで迫っている宿屋の入り口が、まるでスタート地点から見たフルマラソンのゴールテープのように感じられる。そして背中に感じるふくよかな感触は、慧卓の本能の箍を確実に蝕んでいった。
 それでも慧卓は路地裏に飛び込んでコーデリアに事を及びたいという本能を抑え込み、何とか苦労して宿屋へと辿り着いた。入り口の戸の前で、アリッサが爽やかな笑みを浮かべて待ち構えている。前日と同じ、爽やかな青空模様の服装だ。

「やっと戻ったなっ、ケイタク殿。其の様子じゃ中々遊びまわったらしいじゃないか?」
「はっ、はははは...色んな意味で疲れましたよ...」
「そうかそうか...可愛いだろ?」
「この世の天使って彼女の事だったんですね」
「お前になら分かると思った私は矢張り正しかった!!!」

 がしっと慧卓の肩を掴み、アリッサは神様だって見た事が無いような満面の笑みを浮かべた。余程コーデリアを溺愛しているらしい。だが凛然キャラを崩壊させるような笑みは、慧卓にとってのアリッサのイメージを容易く崩壊させてしまった。以前に見たモノも充分酷いものだったが。

「ではコーデリア王女は私が代わりにおぶろう。お前には客人の御相手を頼みたいのでな」
「きゃっ、客人ですと?何方でしょうか?」
「うむ。中に入れば分かるぞ。ささっ、代わるぞ、すぐに代わるぞ、今すぐ代わらせろ!」

 鼻息荒いアリッサに、慧卓は名残惜しげにコーデリアのおんぶという大役を譲った。嬉々として背中に重みを感じるアリッサ。その揺さぶりに反応してか、コーデリアが寝言を小さく漏らした。

「んん...無理ぃ......おっきいよぉ...」
「うふふ、おっきいのかぁ、うへへへへ...コーデリアは本当に可愛いなぁ...あっ、鼻血が...」
(大丈夫なのか...この近衛騎士は?)

 色んな意味で心配になる。慧卓の心配を他所にアリッサは先に宿屋へと消えて行った。 

「さってと、何方が待っているんでしょうか...」

 身体に残るヴァイタリティー。全快で100%というのならば、今は大体40%といったところか。それでも客相手に話し込むとなっても、10%くらいは残るであろう。その10%で夕餉も就寝も済ませられる。
 気楽に考えながら慧卓は宿屋の中へと入っていく。気だるさを感じながら歩いていくと、ハボックの姿が其処にあった。彼の真向かいに、如何にも偉い人といった風に、気品を感じさせる礼装に身を包んだ三人の男が座っていた。

「今参られたのがそうです。彼が此度の祭事の発案者、ケイタク=ミジョー殿。再び『セラム』に顕現された異界の戦士の一人です」
「初めまして、ミジョー殿。私はこの街の造営官、分かりやすくいうと、国王陛下より都市管理を任されているワーグナーだ」
「...はっ、はひぃ!?」

 カイゼル髭を生やした男の正体に慧卓は不意打ちとも言うべき驚愕を浮かべた。続いて几帳面そうな醤油顔の男が、そして恰幅の良い狸面の男が話す。

「私は街の財政管理を任されている、財務官のジョンソンです。此度の祭事の成功、先ずはお慶び申し上げます」
「私は商人ギルドの長を務めているピノだ。而してミジョー殿、我等一同、此処まで大規模なものになるとは露知らず、というのが偽らざる本音でな...」

 拙い。非常に拙い。此の流れは明らかに説教コースだ。
 慧卓の懸念を叶えるかのように男達が作り笑みを浮かべながら続けざまに語る。

「ミジョー殿、このように大掛かりな催しとなれば、財政に多大な負担を掛けるのはお分かりの筈でしたよね?発案の際には思い至らなかったのでしょうか?」
「そして大規模な祭事となればそれに関わる人員出動、そして祭事に関わる管区の警備等に多大な労を費やすが畢竟。これほどの催しを発案した賢者なのではれば、この程度の事は簡単に予想は出来た筈だ」
「加えて祭事において商人等の販売競争や物資消費が突発的に激化してしまった。ギルドの面子は競争による格差を抑えたり、消費を抑えるのに必死で、祭りを愉しむ所ではなかったのだよ。何故もっと早く知らせてくれなかったのかな?そうなれば、対策も早くに取れたのに」

 氷結した刃のような瞳が慧卓の心を切り裂いていく。ヴァイタリティー10%分の汗を背に掻きながら、慧卓は必死に言い訳を考えていく。思考の波の中、ふざけた冗談から生真面目な革命論、パンの味の論評、果ては至高の女性の胸の形についての理念すら流れていく。
 彼の答えを急くように、男達が詰め寄った。

『何故ですかな、ミジョー殿?』
「...し、強いていうなれば...」
『いうなれば?』

 慧卓は痙攣しかけの下手糞な笑みを飾り、思いついた言い訳を感じるままに吐き出す。

「た、唯の思いつきだから?」
『......其処に座れ』
「はい」

 悪戯がばれてしょげている子供のように慧卓は項垂れ、彼らの真向かいの椅子に座り込んだ。そしてそれを機に始まる、説教紛いの政策論と経営論を前に、頭の中に混沌の海が広がるのを感じた。

「...しまったっ、お金が全然無いっ!!やっちゃったぁぁあぁああああっっ!!!!!」

 一方其の頃、とある街中の片隅で、少女トニアが天に向かって吼える姿が目撃されたという。かぁかぁと鳴く鴉は、まるで人間を馬鹿にするように天から大地を睥睨し、優雅に黒き翼を広げていた。



 夜の帳が降りる。
 夏草が香り冷ややかな空気の中を香り、ちりちりと虫達が闇に着け込んで愛を囁いている。そっと目を凝らせば、地べたを這うように進む昆虫も見受けられるかもしれない。順風一つ荒ぐ事も無い。幾重にも暗闇のベールを羽織った木々は、卒塔婆のように屹立して人の立ち入りを招いているかのようである。
 そんなありふれた森の中、静謐を翻すかのような鋭くも剣呑な音が響き渡る。虫にも木々にも出せぬ、風を切り裂く音だ。それに混じり、ガシッと、まるで何かを踏みつけるような音が時をおいて鳴っていた。
 二つの音の中心、静謐の森林に潜むように一人の男が立っていた。地面の色とそう変わらぬ茶褐色のローブを纏っており、顔付きが露も見て取れない。だがその口より静かに毀れる緊迫した息、そしてその両手に握られて、自然体のままに下ろされた両刃の剣が、男の正体を如実に語りかけている。此の男は只者では無い。己を守るためならば殺生も躊躇わぬ、冷血が通う者だ。

「......いい加減諦めたら如何だ?」

 男は虚空の中に言葉を放つ。幻覚に囚われている様なものではない、明瞭とした声だ。男の言葉は真っ直ぐに、闇の中に潜む暗き影に向けられたものであった。
 男は剣を握り直しながら続ける。

「分かっているだろう?貴様には俺は殺せぬよ。苦痛を乗り越えて正道を歩む俺に、邪道の剣が通じる訳が無いだろう!」

 鍛え抜かれた武を嘲る挑発は、不明朗な木々の間を通り抜ていく。それが伝わったのか、何処からか歯噛みするような音がするのを男はその鋭敏な聴力で捉える。虫の音のみが耳を打つ自然の中、男の背がぶるりと震えを覚えた。鬱蒼と立ち込める木々の間より自然のものとは到底思えぬ、研ぎ澄まされた殺気が男を捉えたからだ。
 男は一瞬身体の動きを止めて、次の瞬間には全身の力をだらりと抜かせていった。殺気に無意識に反応した身体では速さに勝る奇襲に対応できない。常にリラックスをして、身体全体に目を、そして耳を持つ事で、己に宿る武の真髄を発揮できるのだ。
 唯感じるままに男は自然に調和していく。まるで空気に溶けるかのような感触。男の意識の中では距離という概念すら無に帰していく。右も左も融和し、一つの直線が描かれていった。刺々しくも真っ直ぐに伸びる線の先に、どす黒く濁った等身大の存在を見つけた。

(......其処か)

 男はかっと瞳を開き、上段に剣を構えた。木々の合間を見詰めて微動だにしない。剣先一つ揺るがぬ其の背中は、明白に、致命的な隙を作り上げていた。
 瞬間、その背中を目掛けるように、男の背後の木々から一つの人影が駿馬にも劣らぬような速さで駆け寄っていく。ひょろりと痩せ木のように伸びた体躯を、暗がりに親和するような黒い装束が覆っている。ひしと腰溜めに構えられたその手の中、一振りの剣が禍々しい光を放っていた。体躯に突き立てれば、背中を越えて胸を貫き尚余る刀身であり、人を殺すには充分すぎる凶器であった。
 痩せ身の男は地を駆け抜け、男の背中、その奥に潜む肝臓目掛けて剣を伸ばした。完全に隙を突いた一撃。逃れられようの無いその一突きを、ローブの男は自然に、まるでそう決まっていたかのように身を横に退けて避けた。そして無様に突き出された男の身体を見遣り、凄惨な笑みを浮かべる。

「ぁっ...」

 空振りに終わった剣先を見詰めて絶句する男。完全に不意を突こうと身体を投げ出したために、退避する事が適わない。その呆気の無い表情を見詰めながら、男は上段に被った剣を真っ直ぐに、男の腹部目掛けて振り下ろす。森を走ってきた音と比べ、一際鋭く高調子の音が響き、痩せ身の男の後背を捉えた。刀身が肉に埋まり、瞬きの如き速さで身体の中を駆け抜け、反対側の肉の層を突き破った。
 痩せ身の男は勢いのままに大地に転がる。身体が一気に軽くなったかのような感触と、溶岩を髣髴とさせるような熱が、下腹部から下を走っている。今更ながらに逃げようとするも腕に力を入れて身体を起こす。そして振り返って見た情景に息を呑む。濁流のような鮮血を零し、男の下腹部から下、即ち下半身が地面に転がっていた。裁断された肉の層に太目の骨が見える。そしてそれ以上に、饐えた臭いを放った腸が無様に毀れているのが見えた。
 恐怖からか、それとも怒りからか、わなわなと痩せ身の男が震えた。刀身にべっとりとついた鮮血をそのままに、ローブの男が言う。

「...なんとも、哀れな最期だな、お前」
「っぁぁ!」

 痩せ身の男は仰向けとなり、最後の抵抗を試みる。といっても、力の入らぬ手で剣を握り、蝿が止まるような速さで剣を振るだけである。不意打ちを見事に避けて閃光の如き剣閃を振るうほどの武技を持つ男が、どうしてこの一撃を喰らおうか。
 痩せ身の男の剣が地に触れた瞬間、それが上から踏みつけられる。そしてローブの男が勢い良く、死に瀕した男の頸に剣を突き立てた。ざくりと、艶かしく厚い音が鳴って、地に伏せた男は突如として抵抗を止める。剣先が肉を突き破り、脊髄を裁断したのだ。剣を引き抜けば流血が始まり、地を更に穢して生臭く染めていった。
 その無情なる一部始終を、一人の女性が付近の岩陰から見詰めていた。小さな身体を覆うのは軽装の、黒々とした衣服だ。身体の節々を魅せるかのように、生身の肌が所々にざっくりと露出している。それでも意外にも女性らしい膨らみを保っている部分は確りと隠されていた。腰の後ろに二振りの短刀が回されて、鞘に収まっている。そして夕餉頃の一刻手前の夜空を想起させるような紫の頭巾で、後ろに束ねられた銀髪を覆っていた。
 銀の髪間から覗くのは、まるで愛猫のような愛くるしい顔立ち。気の小さそうな垂れ目に、保護欲を誘う幼げな感じの口元。均整の良いパーツ一つ一つが、今ではすっかりと焦りの色に染まって歪んでいた。 

(おいおいおいおいっ、マジかよっ、マジで殺しかよ!?)

 表情とは打って変わって勇ましい口調で内心でどぎまぎとする少女。人を屠って以後全くといっていいほど移動したりしない男に怯えながら、岩陰に縮こまって必死に声を殺す。
 ふと、男が声を掛けた。

「...おい、其処の者」
(気付いた!?いやそんなわけないっ、唯其の手の人しか見えない何かを見ているだけ...ってそれも怖いよ!...そうだ、幻覚だ!そうっ、あの人は幻覚を見てるんだよ!それに話しているだけでーーー)
「其処の岩陰に隠れている者。顔を出さねば、岩諸共斬り殺すぞ」
「はいいい!!!な、な、な、なんでしょうかっ!?!?」

 少女は脊髄反射の如き速さで立ち上がり、気を付けの構えで男に応えた。

「王都はどちらの方角だ?」
「へ!?あああっ、王都はですね、あっちですっ!ずっとあっち!!」

 あっちにそのまま消えてしまえといわんばかりに勢い良く一方を指差す少女。顔は恐怖で引き攣りながらも稚拙な笑みを見せる。男は僅かに逡巡して、考えが纏まったのか少女に言う。

「...君、王都まで案内しろ。これは依頼だ。給金は払うぞ」
「ええええっ、嫌ですよ!!なんで見ず知らずの殺人狂を王都なんかに送らなきゃーーー」
「ほう」
「いいえ大丈夫です!案内します!!行きますよ!!行っちゃいますよ!!!」

 きらりと光る剣先に一気にびびり、少女は先導するように森の中を歩き始めた。
 溜息が毀れそうになる口元を引き締めながら、内心で自分を叱咤した。 

(嗚呼、これも盗賊の悲哀なのか。唯の帰り道でこんなのに出くわすなんて。頑張れあたし...頑張れパティ。きっと明日は良い事あるって...)

 少女は期待に縋るような目付きで空を見遣る。高きに居並ぶ枝木の合間から、鼠に齧り付かれたチーズのように形を変えた、黄色の月が光を放っていた。
 
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