王道を走れば:幻想にて
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第二章、その2:雨雨、合掌
時は昼過ぎ。現代でいう所の時計でいうなれば、分針が一つか二つ回った頃合。午前には青々としていた空は薄らと曇り始め、御面をつけるように表情を隠していく。
がつがつと鳴り響く軍靴のマーチを耳にしながら、慧卓はぶらりと後方の空を見上げた。どんよりと黒染んだ積乱雲が彼方に泳いでいる。それは夏の微温風に押されて、徐々に慧卓の方へと追い縋るようであった。行軍開始から数日、快晴続きの空は一転、漸くにして悪天候らしい悪天候に見舞われそうである。
「あーあ。ありゃ降るかなあぁ...」
大きな背中を見せていた熊美が、頸だけで振り返る。今は一つの馬に慧卓と熊美、二人で騎乗している形だ。馬は部隊一の大馬を使っているために潰れる心配はない。
慧卓が軽く雲を指差して続ける。
「あれですよ、あれ!しかも大降りの雲ですよ、真っ黒ですし。あーやだやだ、洗濯物の天敵です」
「天敵?今のご時勢、貴方の家に乾燥機とかあるんじゃないの?」
「そんな金なんかある訳ないでしょ!!バイト掛け持ちでも結構キツキツなんですよ!?」
「あ...御免なさい」
真剣み溢れる言葉に熊美は気圧され、思わず謝罪の言葉を漏らした。慧卓は表情を一転、晴れやかな太陽を仰ぎ見るように小さく笑顔を浮かべた。
「それに、天日干しの方が良いんです。太陽の匂いが気持ち良いっていうか...ぽかぽかしてて気持ち良いんです」
「分かるぞ!分かるぞその気持ち!」
「アリッサ?」
隣に馬を合わせたアリッサは瞳をきらきらとさせている。そして僅かに息を荒げるている姿は、まるで興奮しているかのよう。
「カンソウキとかなんとか分からんが、日の下で洗濯物を干したり取り込んだりするというのは、慣れて来ると愉しくなる!」
「アリッサさん...そうですよね、気持ちいですよね!」
「纏まった洗濯物を片付けた時の達成感といったら、好きな奴には分かるものだよな!」
「ですよね!他人の服の趣味とか垣間見れるから、それもそれで愉しいですよね!」
「そうだとも!コーデリア様の下着の匂いとか、色模様とか、本当に素晴らしいんだ!」
(うっわ...)
ドン引きである。慧卓は露骨に表情を顰めて隣り合わせの変態から顔を離す。アリッサは而してそんな反応などいざ知らず、夢想の中の可憐な乙女の下着模様に心躍らせているようだ。だらしのない口の緩みはほとんど変質者と変わりない。
熊美はそれ程に驚いていないようだが、それでも口を引き攣らせていた。熊美は話を無理矢理に逸らす。
「ま、まぁ何にせよ、慧卓君。此方でも向こうでも、洗濯事情には些細な差しか無いのよ。まとまって干すのがとても大変とか、種族によって着るものが違うとかね」
「...種族って何です?」
「あら?言ってなかったかしら?この世界の人というのはね、人間だけじゃないのよ」
「...へぇー、知りませんでした。ってか今気付いたんですけど、俺此の世界の事、丸っきり分からないです。どんな国があるだとか、歴史がどうだとか」
慧卓はここ数日に見聞きしてきたこの世界の事を想起させる。銃火器の無い戦場だったり、とんでもなく美味い宴の肴であったり、村人達の朗らかな笑顔であったり。だがどれもこれもこの世界の歴史や文化を断片的に語るのみであり、慧卓の心に疑問符だけを浮かばせていく。一体『セラム』とは、どのような世界なのか。
「そうか...ケイタク殿は御存知ではなかったのか。では『セラム』について語ろうか」
その思いを叶えるように、破廉恥な妄想の海より帰来したアリッサが、なんでもなかったように極自然と話し出す。まるで純真な生徒に歴史を聞かす先生のような口振りだ。ドン引きするやら感心するやらで忙しい心を諌めつつ、慧卓は話に傾注していく。
「この世界、『セラム』には主に複数の人種が存在する。此処、紅牙大陸を支配する人間、北方の少数民族であるエルフ、そして少数民族のドワーフだ。最初は人間について話そう」
一度間を置いてから彼女は話を紡いでいく。鳥の嘶きが、空にぴうぴうと響き渡っていた。
「此処、紅牙大陸には二つの国がある。一つは我等がマイン王国。大陸の東方を支配する、樫の花の下に集う、強く気高き人間の王国だ」
「(ふむふむ...人間の王国と。)で、西方は?」
「...西方には、白百合を掲げ君臨する神聖マイン帝国がある。邪教の集まりで、酷く冷酷な者達が群れている。人間とエルフが共に作り上げた国家だ」
帝国を語る口振りは、蛆虫を踏み潰すが如く、汚らわしきものを嫌悪する声色であった。慧卓はそれに気付きつつ、温厚な雰囲気を保とうと軽い口振りでいう。
「どちらも同じマインなんですね?まぁそれは置いといて、なんでそんなに剣呑な感じなんです?帝国が嫌いなんですか?」
「...少し歴史の話に移るぞ。...今から三十数前、マイン王国内にて大内乱が起きた。当時の政治情勢の悪化から惹起されたものでな。北は当時のヨーゼフ宰相率いる保守派、南は軍務大臣率いる改革派。それぞれの軍閥が臣民の支持を集めんと政治的な強攻策に打って出たのが事の始まり。数年を掛けて内乱が繰り広げられた...」
「そうね...数え切れないほどの死傷者や戦争難民が出たわ」
「だが同時に名誉を受ける者も出た。クマ殿を始め多くの将兵らや隠れた天賦の才の持ち主を民草から得られたのは望外の喜びであった」
誇らしげな声色はすぐに変わる。目付きが腰の剣の刃先のように鋭くなり、彼方を睨みつける。美麗な花瓶のような肌が僅かに赤くなっている。思い出すだけでもむかむかとするものがあるらしい。
「そして内乱から数年後、双方が戦闘を重ねて疲弊し切った其の時、帝国が大軍勢と共に王国に攻め寄せた。紛れもない外敵の出現に窮した我々は団結、帝国を相手に抗戦を始めた。確か、クマ殿が召還されたのはこの辺りと聞き及んでおりますが」
「...えぇ。視るにも耐えない、凄惨な戦場だったわ」
その光景を想像してか、熊美は瞳を細めて視線を逸らす。声色も低くなり、その胸に抱かれた感情が窺い知れぬものとなっていた。
アリッサは泡を弾かせるような情を抑えつつ、淡々と続ける。
「量にも質にも勝り、我等と違って疲弊しておらず、何より連携の強い帝国に抗し切れず、結果としてマイン王国は両陣営揃って併呑された」
(...機を見るに敏な奴が帝国に居たもんだ。最高のタイミングで横合いから思いっきり殴りつけるってさ...)
現代にて歴戦ゲーを幾年もプレイしてきただけに、然るべきチャンスを掴み取る事の大切さを、データ上であってもよく理解している慧卓は帝国側に感心を覚えた。だがその思いを口に出したりはしない。アリッサに怒鳴られ、もしかすると殴られるかもしれないからだ。鉄のグローブで覆われたパンチを受けたら、じゃがいも以上のブサイクになってしまう。御免被る。
「その後は哀れなものだ。王家を補佐するという名目で帝国側から神官や宦官らが派遣されて、敢無く政治中枢を乗っ取られた。そして今では、この国は実質的に帝国の傀儡国家と成り果てている。王国は負けたのだ、完全にな」
「...敗北ですか」
「あぁ、完敗だよ。王国の名誉と誇りの象徴である騎士団が解散されなかったのが不幸中の幸いだ。これはクマ殿を始め、戦乱で騎士達が大いに暴れた事によるでしょうな」
「それもあるかもしれないわ。でも本音は、騎士団も解散してしまったら、今度こそ王国が徹底抗戦をするという予感めいた危惧が帝国側にあったからでしょうね...。自暴自棄になった兵士が、民草に隠れて帝国に抗戦するっていうのは、本当に辛いものよ。双方にとってね」
「...私はそれでも良かった。帝国に屈服するなんて、何時までも耐え切れるような屈辱ではない」
「アリッサ、それは言っちゃ駄目よ。貴女は王国が負けた時にまだ生まれてないのだし、なにより今、貴女は騎士なのよ。自分の感情を抑制して、今の王家に奉公するべきじゃないの?」
「...そうですね、失言でした。お許しください」
自らより遥か昔、一人の騎士として存在していた熊美にアリッサは頭を下げた。熊美は手を上げてそれを制する。
慧卓は熊美の逞しい背中を横目に、アリッサに再び尋ねる。
「纏めるとこの大陸は実質、帝国の支配下にあるという事ですか...それで他の民族は?」
「...北方に住んでいる、エルフ民族。北嶺は鬱蒼とした森林が広がり、また高い山岳が連なっている。雄大で神々しい風景だよ、あそこは。其処に住まう彼らは、当に自然の妖精といったところか」
「へぇー...もしかして、耳が長かったりとか?」
「ふっ、流石異界の出身だ。クマ殿と同じでケイタク殿、貴方も察しがいい。そうだ、耳が人間より長い。詰まり地獄耳だ。其の上、やる事為す事すべてが姑息だ」
「...え?」
剣呑とした言葉に慧卓は思わず聞き返す。アリッサは表面上では笑みを浮かべているが、目には怒りの炎が滾っている。
「まともに剣で斬り合うとせず、只管弓で射掛けるだけ...奴らには正面から啖呵を切る者なんて一人とて居ない。...それに加え、奴等ときたら常に自分達以外の種族を見下している...あいつら、此方が何か言えば直ぐに皮肉で返して馬鹿にする!あぁぁ、思い出してきたら腹が立ってきた!!あの性悪な引き篭もりめ!!」
(なにこの罵詈雑言...どんだけ恨んでいるんだよ...)
遂には笑みすら消して罵詈雑言を述べ始める始末。余程エルフという民族に恨み辛みがあるらしい。如何なる嫌がらせや屈辱を受けたら此処までの反感を買えるのであろうか。
このまま会話のペースを任せていたら街に着くまで只管に文句を聞かされそうである。慧卓は危機意識に衝き動かされるままに話を逸らす。
「と、とりあえずエルフはもういいです!耳が長いんですね!で、で、ドワーフはどうなんです?」
「変人変態種族め......ん?あ、あぁ、すまん。ドワーフだが、大陸の南部に居を構えている種族だ。面立ちがとても濃い種族でな、そして代々彼らは総じて膂力が凄まじい」
「その力自慢を利用して王国や帝国に出稼ぎに来てるのも居るわ。多分王都でも見られるでしょうから、楽しみにしてなさい」
「あっ、はい!楽しみにします!」
アリッサから放たれるびりびりとした空気が和らぐのを感じて安心を抱きつつ、慧卓はまだ見ぬ種族に思いを馳せる。自分達で描かれていたエルフとドワーフと、此方の世界のエルフとドワーフはそれほど見た目に大差は無いらしい。もしかしたら此方の世界に来訪した者が、元の世界へとその存在を輸入したのかも知れない。唯の空想であるが。
だが話を聞く限り、エルフの方はどうにも性悪で皮肉屋な種族のようだ。それもそれで面白いと、慧卓は内心に呟く。口に出したら矢張り鉄拳が飛んできそうで怖い。
続けてアリッサは、言葉を濁し気味に言う。
「まぁ、実はもう一種類、人種に似たような奴らがいるんだがな」
「?それは一体?」
「...見た目は人ではないのよ。どちらかというと、獣かしら?」
熊美が変わって続ける。髪を一気に刈り上げた顔がひょうと上を向いて唸り始める。それは何かを思い出すというよりも、噂話を掘り下げる、或いは知識の箪笥を引き出そうと苦悩する姿であった。
「んん...外観が黒い烏もいれば、口先が尖がった蜥蜴もいるらしいわ。共通するのは、奴らは我等と同じ言葉を話し、生活を営むという事だけ。我等はその異形故に、奴らを魔人と呼んでいる」
「魔人ね...アリッサさん、一応そいつらって人なんでしょ?」
「まぁ、喋れるからな。..だが奴らは未開の種族だ、実態が良く分からぬ。臣民の間で話の種として持ち出されるとしても、それは物語や詩の中だけだ。常に誇張と脚色が付き纏う。私が敢えて、騎士の一人として奴らを言うならば...」
まるで辛酸を舐めてそれを押し殺すような顔付き、そして自然と低くなる声でアリッサは言う。
「奴らは生粋の戦狂い、血に飢えた天邪鬼だな」
「?それはどういうーーー」
「近衛殿っっっ!!!!」
穏やかな空気を立ちこませていた慧卓等の中へ、緊迫感をどんと滲ませた兵士の声が走ってきた。馬に騎乗した兵士が、兵士の列を横目に駆け寄ってくる。何時の間にやら前方では、兵達が足早に展開していく様子が見て取れていた。
「近衛殿、直ぐに前方へ参られたく存じます!」
「何があった?」
「馬車が一台...乗客と御者共々、殺されています」
『っ!!』
「ちっ、案内しろ!ケイタク殿とクマ殿は行軍をお続け下さいっ!!」
聞くや否や、アリッサは常の凛然とした騎士の様を取り戻し、馬に手綱を打って駆け出して行った。颯爽と兵の列の横を駆け抜けるアリッサの頭上にて、人の走駆よりも何倍も早い綿雲が天を覆い、薄暗い陰を地面に落す。もう一度後ろを振り返れば、どんより気分の暗雲が此方へと漂ってくるのが見える。見間違う筈の無い、底の厚い積乱雲である。
「...一気に曇ってきたわね...」
「...だから言ったでしょう?大雨ですって、あれ」
展開していく兵士の邪魔にならぬよう街道の端に寄り、二人を乗せた馬はこつこつと蹄を鳴らして地を歩いていく。
「...そうか、遠征は上手くいったか」
「山賊達は一網打尽との事です。抵抗する者は皆ハゲタカの餌となり、生き残りは『弾劾の丘』で処刑致しました。鉄斧山賊団は、これで壊滅です」
暗がりを生むように、広々とした非対称のカーテンで窓を閉ざす。自然と生じてくる陰鬱な陰を背にするように、男がひとつの部屋の中で椅子に座り、人に否応無く警戒心を抱かされるような撫で声を吐いた。爬虫類を思わせるような鋭い藍色の目は虚空を睨んでおり、頭部には紫がかった黒い火傷の痕が広がっている。年嵩をかなり重ねているのか傷痕に隠れるように額に皺が寄せられており、瞳の光をより剣呑なものとしている。その威圧的な顔立ちの前にすれば、彼が着ている紳士的な衣服でさえ形骸と化してしまう。
机を挟んで跪く男、外套と纏った小太りの中年男は、そのでっくりと肥えた体躯とは対照的に、毛髪の後退という衰えを見せている額に冷や汗を掻きつつ、恭しく目の前の威圧的な男に言う。
「また、火薬についての情報を垂れ込んだ商人は、数日前に仕留めて置きました...奴は存分に、生き血を啜ったようで」
「周辺の住民らに勘付かれておらぬであろうな?」
「魔獣の牙を使った特製の鎌を渡しております。早々に真相が露呈する事は無いかと」
「だが所詮は人の手の仕業。獣よりも劣る力ならば直ぐに見抜かれるだろうさ。無理に人力に拘るから、こうやってボロを顕すんだよ、太っちょ」
老人の隣より紡がれた高い声を聞き、小太りの男はその正体を忌々しく目端で捉えた。その男、青年と言うには歳をそれをほど重ねていない。どちらかと言うと少年の部類に入るほどの童顔である。丸々とした蒼の瞳と幼さの残る高い声は母性を燻り、艶のある金髪は掌に置くだけでさらさらと流れていくだろう。紛れもない美少年。だが少年をそれに留まらせぬのは、顔つきに似合わぬ侮蔑に歪んだ口の歪み、そして嗜虐的な瞳の光であった。小太りの男と少年の視線が噛み合い、冷たい火花を宙に散らす。
それを遮ったのは老人の鶴の一声であった。男は慌てて礼を正す。
「何はともあれ御苦労であった。一先ず貴様は草の者を放ち、再びあ奴らを監視しておけ。そして、『セラム』に顕現した異界の者とやらを探って来い」
「承知致しました...長官、コーデリア王女については如何なさいますか」
「あれは血気盛んだが、まだ幼い。奴が真の力を得るまではまだ時間が掛かる。手を出すな」
「御意。では...」
最後に少年に睨みをきかせて小太りの男はそそくさと部屋を出て行く。老人は一つ息を漏らす。
「ふん...鉄斧の異名を持つ賊であっても、所詮は唯の賊であったか。案外、あっさりと逝ったな」
「...かの者は確か齢五十手前であった、と記憶しています。最盛期をとうに過ぎ、後は朽ちるだけの身でした。切伏せられたのは当然の結果です。しかし...」
「...なんだ?もったいぶらずに言ってみろ、ミリィ」
少年は其の名を恥らうように照れ臭く笑みを零し、それを引き締め直して、少年なりの生真面目な表情を作り上げる。老人はその些細な努力を内心で愛おしく思う。
「王女の独断行動を放置してよいのですか?昨今、コーデリア王女についてあまり良くない噂が御座います。...奴は、今の王家に、大きな反抗心を抱いているとかなんとか...真実かどうか定かではありませんが」
「...くくっ、可笑しな噂だな?反抗心とは...奴はもう子供ではあるまいし...くくくっ」
壷に入ったかくつくつと小さく笑う老人を諌めるように、少年は瞳を細めて老人に身体を向けた。
「笑い事では在りませぬぞ。奴が本当に反抗するとなればーーー」
「噂が出る時点で王女に、そして王女と心同じくする者にも、人々の視線が殺到しておる。仮に噂が本当だとして、そんな注目の中で事を動かすと思うか?潤沢な資金も持ち合わせぬ少女一人が、唯の反抗期を迎えているのに過ぎんよ。放っておけ...」
「...では、付き人の近衛に関しては如何です?あの者、反帝国派の急先鋒ですぞ。其の上忌々しい事に、白馬の王子と思わせるが如き稀代の美女。一部の臣民から熱狂的な支持を受けており、且つ剣の腕も悪くは無い...これも忌々しい。その気になれば謀反の一つや二つ、起こせるのでは?」
「...確かに、お前の危惧も尤もだ、ミルカ。だがな、この世は民草の泡のような支持だけで、孤高の武人だけでは回せぬのだよ。...危険は無い、放っておけ。...だが、嫉妬するのは勝手だよ。何せ二人とも、とても美しい女性であるからな、ミリィ?」
「っっ、私は断じてそのような事は抱いておりませぬ!!もう私は子供ではないんです!!!」
可愛げのある綽名を呼ばれムキになってそっぽを向く少年の耳は赤みを帯びており、その横顔は好きな女子に羞恥を覚えた少年のそれに瓜二つである。老人は笑みを深めて言葉を続ける。
「それにミルカ、忘れたか?対策は最初から打ってある。奴等が帰還した際に採るべき最良の手段をな。ほれ、あの騎士は、エルフと昔から仲が悪かったではないか」
「...成程。だからこそ派遣を?」
「そうだ、其の通りだとも。...そういえば今年は暑い日が続いていたな?あの者も何時も鎧を纏って苦しんでおろう。少しばかり休息も必要に違いない、なぁ?」
「...えぇ、心安らげる、避暑地への旅行などが。...これから本格的な夏が来ますから、それに備えなくてはね」
「そういう事だ。少しばかり冷ややかな思いをするくらいが、丁度良い」
笑みを交し合う二人。腹の黒い視線が合わさり合う。少年はその視線に先の小太りから感じられた紛う事無き敵意ではなく、列記とした大いなる愛情を感じて、心に充足感と情念を抱いていた。男たる象徴である少年の股座の槍が、無意識に鎌首をもたげた。
其の時、ごろごろと天を震わす蛮声を耳にして二人は窓の方を見遣る。少年がばっとカーテンを開けば、ガラス窓越しに大きく黒々とした大雲が広がっていた。何時の間にやら、天は機嫌を損ねていたらしい。
「...今日は随分と、雲行きが怪しいな」
「そうですね...今にも雷が落ちそうです」
それを紡いだ瞬間、遠方の雲間にて稲光が走り、十秒ほど遅れて肝を震わせる低音が宙を裂いて飛来した。窓越しの雷光の軌跡を見詰め、老人は静かに告げる。
「......ミルカ、急ぎ兵を出して街の住民に声を掛けておけ。雷雨が迫っていると」
「承知しました...では私はこれにて、レイモンド執政長官」
少年は急ぎ足で部屋を出て行き、直後に廊下を疾駆していく。普段他人を貶して嘲笑う悪癖を持つ癖してこのような時だけ純真無垢に直走るのは、ある意味少年の才能というべきか。老人は溜息を一つ漏らして立ち上がり、窓をそっと開く。
「...冷えるなぁ」
雲に急き立てられるように涼しげな風が吹き込み、老人の身体を撫でる。窓から見下ろせば、その眼下に映り込む壮麗な街並み。マイン王国の王都『ラザフォード』に広まっていく、悪天候に備えようと慌しく行き交う人々を見下ろす。
(......ふむ、今宵は茸のシチューでも頼んでみるかな)
つい先程走駆して去った少年は従者にして、料理等の家事一切と得意としている。夏入り始めに吹いてきた冷風を凌ぐのに、温かなシチューを作るくらい造作も無いであろう。
嬉しげに炊事に手を運ぶ少年の姿を夢想しつつ、マイン王国の政を一手に担う切れ者、レイモンド執政長官は窓の戸をそっと閉めた。勢いを増す風が窓に当たり、がたがたと揺らしていく。
悪雲立ち込める天上より、ごろごろと唸るような雷鳴が轟き始める。それに端を発したように、ぼつぼつと大粒の雨が大地に落ちていき、一分も経たぬ内に視界が雨の軌跡に覆い隠されていく。数十歩先の風景は大雨が生み出す土煙に消えてしまった。
「...一気に降ってきましたね」
「落雷が怖いわ。避雷針なんてないから、当たったら当に不幸としか言いようが無いわね」
「残念、貴方の冒険は此処で終わってしまった!」
「笑えないから止めなさい」
慧卓と熊美は雨に顔を叩かれながらゆっくりと歩を進ませる。慧卓の短い黒髪は水滴をすっぽりと吸い尽くしており、熊美の頭皮に雨粒が当たって弾けている。その横と後方を、兵団の最後尾の者達が馬車を引いて歩んでいく。防水を兼ねて馬車に被された布も既にどっくりと雨粒を吸い込んでおり、雨が長く続けばそれが馬足を遅くさせる一因となっていくだろう。
蹄が地面を鳴らす音が耳に入る。慧卓は顔を上げて目を細くする。雨のカーテンの中から、アリッサが駆け寄ってきた。焦げ茶色の髪の毛が額に張り付き、樫のマントもまるで重石の様に背中に吸い付いていた。
「御待たせしました」
「結局、どうだったんです?」
三者は馬を合わせて歩んでいく。雨に負けぬよう、自然と大きな声を出す。
「雨が本降りになるまで現場を探っていたのだが、どうもあの商人達、矢張り魔獣にやられたようだ、頭に拳大ほどの穴が開いていた」
「まじゅう...?魔獣ってなんです?」
「魔人共が掌握している凶暴化した獣だ。一般の獣よりも膂力があり、そしてより残忍な性格となっている。集団で襲われたら此方も死傷者を覚悟せねばなるまい」
慧卓は僅かに瞠目する。獣一つに近衛騎士とあろうものがかなりの警戒心を抱いている事は流石に予想外であった。否、恐らく自分自身が此の世界の現実を良く理解していないだけであろう。彼我の事象に対する認識の差に改めて慧卓は驚きを抱いていた。
アリッサは宙を見据え、何処か腑に落ちない様子でごちる。
「しかし、妙な死体だったな...」
「どうしたの?」
「...魔獣の仕業としては、あの死体は妙に損壊が小さい方なのです。普通は原型を留めていなくても可笑しくないのですよ?まるで狙いすましたかのように穴が開いていて...もしかしたらと...」
「魔獣の仕業ではない、と言いたいの?」
「...あくまでも唯の推測なのですが、どうにも気になる死に方をしていたので。...それでも、既に死体は獣に貪れております。あれが誰かなどは、我等には特定できぬでしょうな」
「...そう。不運ね、あの人達も。此処で骸を晒すだなんて」
(......えげつない。本当に異界なんだな...此処)
普通の話のように交わされる凄惨なストーリー。改めて慧卓は彼我の世界の格差に驚きの念を抱き、そしてその中身に思わず顔を青褪めさせた。
ファンタジー世界における美の部分を、幾多もの動画や画像、そして空想で知ってきただけに、その美の裏に潜んでいるどす黒い穢れには目を瞑ってきたのだ。みずほらしい生活、歴然とした貧富の格差、力無き者への蹂躙、そして人の死に様。商人の想像するに堪えぬ死に様は、夢想を打ち砕くには充分すぎるものである。
話を聞く内に神妙な顔付きとなり、独り言のように言葉を零す。
「......『セラム』って、思っていたより厳しい世界なんですね」
「えぇ、人間には人一倍厳しいのです」
「っ、王女様...」
降り頻る雨から身を守るようにフードを被ったコーデリアが近付く。近くまで迫って漸く、彼女が乗っている馬の足音が聞こえて来た。雨粒を受けて顔に幾筋も水滴が垂れており、まるで涙の軌跡のように光っていた。心を律するような淡い青色の髪は大雨を受けて涼やかに垂れており、まるでそう決まっていたかのように一房となり、鎧に張り付いている。琥珀色の瞳が愁いを帯び、そして慧卓を確りと見詰める。其の様は確かに教会にて厳粛な洗礼を受けた一人の修道女としての凛然とした雰囲気を顕しており、その言葉は有無を言わさぬ圧倒さを帯て、慧卓の心に深く突き刺さる。
「覚えておいて下さい、ケイタク様。世の厳しい自然の摂理を。村で貴方が話していた異界は、とても煌びやかで素晴らしい世界なのでしょう。其処に住まう人々は、私共とは比べ物に成らぬ程幸福な人生を歩んでいるのでしょう。ですが、此処は違います」
「......」
「皆、常に命の危機と隣り合わせであり、いざとなれば己の命は己自身で守らねばならないのです。その結果がどうであろうとも、彼らは最期まで勇敢に、そして純真に生を希求しているのです。どうかこの事を、覚えて下さい」
「......はい、心に刻みます」
慧卓の重い言葉を受けてコーデリアはゆっくりと頷き、アリッサに視線を合わせた。
「行軍を早めましょう、アリッサ。雨が強くなるのもそうですが、遠くでは既に雷が落ち始めています。早いうちに近隣の街に入らなければ、兵士らが危険です」
「殿下、商人等の亡骸は如何します?せめて街に運ぶだけでも」
「...残念ですが、原型を留めず、そして獣に貪られた死骸を歓迎する者は、街には居ないでしょう。それに顔が分からぬ以上、その亡骸を御家族の下に運ぶ事も適いません。申し訳ありませんが...」
「...そうですか。ではせめて神官殿に祈りを捧げいただくよう、頼みに行って参ります」
「待って下さい、アリッサさん。せめて彼らに墓を作っては如何ですか?」
馬に鞭を打ちかけたアリッサは逡巡し、頸を横に振って答える。
「...時の猶予が無い。この一帯は暗くなれば魔獣が出没する非常に危険な地帯。墓を作っては腐臭で彼らを惹きつけて、兵達を危険に晒してしまう。...残念だが...」
アリッサの言葉に抗する言葉も見つからず、慧卓は無念を覚えるように項垂れる。曇天から吹き付ける雨粒が彼の顔を叩き、ざぁざぁと雨粒のドラムが鼓膜を響かせる。
目の前に己の死を晒した者は、敵味方問わずしてなるべく救ってやりたいというのが慧卓の本音であった。ゲーム内でもそうだ。キャラクターそれぞれにデータ上で死を予定されているだけに、せめてその最期は華々しく飾ってあげたい。そういう独自の哲学を持って、彼は無意識にキャラの行動を左右していた。結果の良し悪しとを問わず、ドラマチックにキャラクターが動いていく様子は彼の心をわくわくとさせるものであった。その心をこの世界、『セラム』でも通して行きたい。そういう思いを抱いていた。
だが目の前の現実は最早動かしようが無い。与り知らぬ所で朽ち果てた人の死体を自分達が偶々発見し、そして偶々それを運んだり葬るための余裕が無いだけ。己の小さな哲学と相反する現実に慧卓は悔しさを覚え、それを言葉に変えて吐き出す。
「......でも、やっぱり野晒しは可哀相ですよ...彼らだってきっと、最期は誰かに看取られて安らかに眠りたかったんです。...王女様、貴女の言葉の通りですよ!彼らだって最期まで必死に努力したんです...生き残って、生を謳歌する為に。獣に食われるためにこんな所で死んだんじゃない筈なんです。見過ごしておくなんて...」
「.........アリッサ」
「はっ」
「『蒼櫃(そうひつ)の秘薬』を使います。良いですね?」
「っ...承知いたしました。ではこれを...」
アリッサは馬上よりコーデリアに向かって一つの布袋を手渡す。掌に収まるほどの小さな袋をコーデリアは確りと握り締めて、馬首を兵列の向かう先に向ける。
「皆様。行軍の途中で通り掛かったら、黙祷を捧げて下さい...では、私はこれで。神官には私から伝えておきます」
「...有難う御座います、殿下」
アリッサの礼に一つ頷き、コーデリアは馬に鞭を打って足早に去っていく。空を覆う雲により地表に落された暗い陰が、彼女の背中を早々に消していった。
シャワーの向こう側に消えたコーデリアの背中を見詰めて、アリッサは敬服が混じった声を漏らす。
「...驚いたな。唯の商人にあれを御使いになるとは...」
「...あの、こんなこというのもなんですけど、蒼櫃の秘薬とはなんなんですか?」
「...弔いの炎さ」
「...弔い?」
「高貴な騎士が亡くなった際に使う粉末の薬、それが蒼櫃の飛躍だ。骸に掛ければ、海のように深い蒼をした美しい炎が現れて、其の者の最期を救済する。...コーデリア様の御慈悲の手は遍く臣民に差し伸べられるという事か」
「良かったわね、ケイタク君。貴方、自分自身が思った以上に、あの子に気に入られてるわよ」
「...俺には、王女様が御考えになっている事なんて分かりません。でもその秘薬を王女様が使って下さり、それであの人達が最期に救われるなら、それに越した事はありません。彼らの魂が無事に天へ行けるように、確りと祈らせいただきます。俺なんかで大丈夫なら...」
言葉の最後が小さくなってしまったが、それでも二人には確りと聞こえていたらしい。熊美はまるで、未熟でありながらどこまでも実直な後輩を呆れ、微笑ましく思うように苦笑を浮かべる。そしてアリッサもまた笑みを浮かべている。慧卓が真摯に人の死を悼んでその最期を助けようと独白し、結果としてコーデリア王女を動かした事に驚き、そして彼を誇りに思っているのだ。心の誇らしさと驚きで埋める一方、その片隅で慧卓を羨む気持ちもあった。
(...素直な気持ちだな...我等には無い純真さがある。...羨ましいよ、ケイタク殿)
何時の間にか年嵩を重ねるうちに無くしてしまったかけがえの無い気持ち。今では国の将来を憂える事、そしてコーデリア王女を純真に想う以外にそれを感じる事が無かった。それだけに、アリッサの視点から見て、何事にも熱心で純真に気持ちを向けられる慧卓の姿勢は羨望の対象となるのは自然ともいうべきであった。
ふと彼らの視界の一角にて、ぼっと、まるでサーチライトを焚いたかのように蒼い光が現れる。大雨の数え切れぬ軌跡の中、その光はめらめらと揺れている。三者はそれが自然と何であるかを悟り、アリッサが言葉にする。
「...あれが、『蒼の弔炎』だ」
歩を近づけてそれを見遣る。大きく破損された馬車を床に見立て、二つの人間大の袋を包み込むように炎が上がっている。まるで磨き上げて輝きを放つ宝玉のように美麗なその炎、外炎が透き通るような蒼に、内炎が果実のように色濃い蒼に燃える様は、海のようにとは言いえて妙である。型を留まらせる事無く炎が形を変えて揺らめく様は、まるで骸に閉じ込められていた魂が抜け出していくかのような動きに思えた。数え切れぬ雨粒を受けているに関わらず、炎は勢いを止めず燃えていく。
炎の傍らに立つ老神官が胸の前で手を合わせて指を絡ませ、静謐に祈りを込めて、死骸を悼んでいる。熊美とアリッサは馬の足を遅くさせ、片手を胸に当てて哀悼の念を表す。慧卓もまた、掌を合わせて黙祷を捧げた。揺らめく炎に燻られて、物言わぬ骸が身動ぎをしたような気がした。
(......どうか、安らかに...)
憐れなる末路を遂げた死者の魂が、迷いを持つ事無く、真っ直ぐに天国へ昇れるように慧卓は祈る。此の世界では寧ろ主神の御許の下か。何れにせよ、慧卓は無垢に黙祷を捧げるであろう。それが今彼にできる、唯一の事なのだから。
時を進めると供に雨雲はどんどんと色濃くなり、長靴に溜まった水を吐き出すように土砂降りの雨が降り頻る。カイロも暖房機器も無い時代、雨に打たれ続けたら命に関わる事だってある。
兵達の最後尾が蒼の炎を見送り、誰も彼もが急ぎ足で行軍を続ける。彼らを見送るように、蒼の弔炎がぼぉっと燃え尽きた。跡に残るのは、火花と共に飛び散った黒い燃えカスだけである。その燃えカスもまた雨に流され、遍く土に還った。
梅雨の終わりの土砂降りを受けて、王国の将兵と異界の者達はその足を進ませていった。
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