王道を走れば:幻想にて
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第四章、序の1:勧誘
昼時の王都の外縁部。その一角に位置する喧騒に包まれる一軒の酒場にて、ニムルはぼぉっとした目付きで葡萄酒を口の中で躍らせていた。昼と夜の区別も付かぬ馬鹿騒ぎが周囲に立ち込み、窓からはきらきらとした陽射の眩さが目を打っていた。そんな煩わしさをまるで意識しないかのように、ニムルは窓際の椅子に座ってゴブレットの中身を啜る。
一人、その場の空気も読んでいない彼の態度に対して、鎧姿の髭面の男が迫ってきた。がさついた声と酩酊した目付きはとても憲兵がするようなものではない。
「おい、あんた。きいてんのか?」
「・・・聞いておらん」
男はむっと顔を顰めた。先程から無駄な努力を図っていたらしい。
「っざけてんじゃねぇぞ。酒代よこせってんだ、糞。誰相手にしてんのかわかってんだろうな?」
「王都の憲兵だろう、昼間から酒をたらふく飲んでいる」
「わかってんなら金出せよ、ユミルちゃん?報奨金で酒飲む以外何もする事ないんだろ?だったら俺が有効に使ってやるって言ってんだよ、よこせよっ!平時は守ってやってんだからその謝意を見せるくらいは出来るだろ、能無しっ!!」
「・・・ふん」
ユミルは男の啖呵を鼻でふっと笑い飛ばし、葡萄酒を更に啜っていく。男は露骨に大きく舌を鳴らし、周囲がぎょっとするのを省みずグリーヴに覆われた拳を振り上げようとした。
「・・・お、いたいた、御主人よーい」
その時、気を削ぐような軽い声が掛かってきてユミルは視線を向けた。酒場の入り口からひょこひょこといった軽い足取りで、常の大胆な黒衣装に身を包んだパウリナが近寄ってきた。そして兎を射殺すような瞳をした男とユミルを見比べて、居心地悪げに猫のような口を微苦笑に変えて言う。
「え、えっとぉ・・・お邪魔でした?」
「・・・ちっ、ツレがいんのかよ」
男は憎憎しくユミルを睨んでから傍を離れ、別の一人客に絡み出した。流石に数日前の騒動鎮圧で報奨金を頂く程の活躍をした二人を相手取っては、男も立場が悪くなるというものである。
パウリナは腰に手を当てて、呆れ顔でユミルを見下ろした。
「昼間っからお酒なんて飲んで、大丈夫なんですか?」
「俺は別に下戸でもないし、金銭には困っておらん」
「そんなこと言ってると直ぐに使い切っちゃうもんですよ。酒に手を出して全身浸っちゃうなんて、人生損してますって」
「ほう?そういうお前は金を何に使うんだ?」
「もっちろん、服の新調ですよっ!いやあ、前々から変えようと知り合いに頼んでたんですけどね、代金が思ったより高くて払い切れなかったんですよ。だから今回の報奨金を当てて、漸くこのボロ服ともオサラバですね」
そういって彼女は己の服をぱんぱんと叩いた。彼女の肢体に色目を放っていた男達を睨んでから、ユミルは服を見る。別段これといって避けていたり、或いは解れていたりといった破損は見られない。しかし歳月と習慣のお陰か、元々は漆黒であったであろう服は色褪せて灰色の斑点を浮かせており、或いは裾の部分がよれていたりしている。確かに新調の必要はありそうだが、ユミルの視点かれ言えばもう暫くは使用できそうな服であった。
「そんで、御主人。御主人はどうなさるんです、これから」
「・・・これからか」
「そうそう。あの夜依頼ずっと無口で、ほとんど口を利いてくれなかったじゃないですか。だからそろそろ何か言って貰わないと寂しいんですよ」
「・・・ふむ・・・」
葡萄酒の薫りをぐっと喉へ通しながら、ユミルは酒気を常態化させていた脳味噌で思う。酒に食事に溺れていた生活のためか、実にゆっくりとした口調で言う。
「・・・あの夜、久方ぶりの生きているという実感が沸いた感じがしたな・・・。狩人として生活するのもいいが、いっそそっちの方向へ進んで見るのも悪くは無いか・・・?」
「ははっ、なら私と同じ稼業にでも足を突っ込みますか?各地の財宝財貨を探り当てて、全部自分のものにしていくんですっ。綺麗な女性も煌びやかな宝石も全部独占。宝箱に金貨や宝石を詰め込んだり、色んな美酒を飲んだり出来るんです。浪漫があるでしょ?・・・あ、店主、私にも葡萄酒を!」
手を颯爽と挙げて希望したパウリナに店主は直ぐに頷き、ゴブレットに紫紺の泉水を注いでいく。ユミルはすっかりと重みを失くした杯を傾けたり、撫でたりしながら静かに答える。
「・・・それも面白いかもしれないな」
「そうでしょ?目標に向かってまっしぐらに進んでいく!御主人にピッタリかもしれませんよ。あ、人からものを盗るっていう意味じゃありませんよ?ひっそりと何処かに眠っている、手付かずの宝をゲットするって意味です。遺跡からだったり、ね。あれ、こういうのって盗賊の仕事なのかな?もっと別の名前があったような・・・」
「冒険家、だろ?」
「そうそう、そっち!私もそろそろ踏ん切りつけようかって思っていた頃なんです。やっぱり人から物を盗るなんて、足が着き易いですからね。バレたら地獄、バレなくても地獄ですよ。だから一緒に如何です?冒険稼業に転職しませんか?」
「いいぞ、やろう」
「よぉーっしその意気・・・えっ、嘘、やんの?」
「ほら、酒だ」
目をぱちくりとさせたアリッサの目の前に、店主はぶっきらぼうにどんとゴブレットを置いた。慌てて紫紺の滴が零れぬよう足を押さえたパウリナは、縁からつつと流れてしまった滴を舐め取りながら酒をぐびぐびと、まるで麦酒か何かのように飲み込んでいった。ユミルは顎に手を当てて、呆れの混じった口調で言う。
「お前から誘っておいて、何故驚く?」
「あ、いや・・・こういうのもなんですけど・・・つい昨日まで気が抜けた麦酒みたいな人間が言う台詞じゃないなぁって思いまして」
「・・・自分を見詰め直していたのさ。十年近くの歳月を無為無策に狩猟に費やした今の俺が、果たしてこのまま先もこんな風に当ての無い人生を送っていいのだろうか、とな」
「例の御友達の件ですか・・・ビーラさん、でしたっけ?」
「ああ。俺が狩人に身を落とす羽目となったのも奴が関係していてな、正直恨みがましい思いを抱いていたし、奴を屠った程度で恨みが解消される訳でも無い。この恨みを晴らすべく、奴以外の人間も追い続けようとも考えていた。だが、奴の最後の言葉を聞いて、そんな気が失せたのさ」
「差し支えなければ、聞かせてもらっても?」
「・・・『お前の人生を他人に明け渡しては駄目だ。お前はお前の思う通りに生きていけばいい』。そう言った」
「・・・ありきたりな表現ですけど、良い人だったんですね」
「ああ。実に身勝手だが、良い奴だった・・・良い友人だった」
杯を傾けてユミルは気付いた。底の方にまだ僅かに紫の滴が残っている。影を落としながらも光を放つそれを、ユミルは一気に仰いで大きく息を吐いた。酒のきつい香りは少量ながらも咥内に広がり、胸の蟠りを燃やしてくれる。小さく口元が歪むのは葡萄の味に満足しているからだけではないのだ。
言葉も無く酒を飲んでいく二人の下に、一人の男がやって来た。雀斑顔の兵士である。
「失礼しまう、ユミルさん、パウリナさん」
「・・・貴方は?」
「騎士ミジョーの使い走りって感じです。・・・なんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだか。騎士特権ってのはむかつくねぇ」
「あの・・・?」
「あぁ、すいません、一人で愚痴っちゃって。で、実は御二人に用があって来たんです」
「用とはどのような事なのだ?」
「それを説明するためにも、ちょっと来て戴けますか?結構大事な用事らしいから、出来れば人目は少ない方が良い」
それは遠回しに、王都内縁部の騎士宿舎へと案内する言葉であった。先まで用を成していた葡萄酒も無くなって、今は足が軽やかである。
「断る理由も特に無い、承知した。パウリナ、お前も来るよな?」
「ごくっ、ごくっ、ごくっ、ぷっはあああっ!!!はいっ、行きますよ?」
満面の笑みを酒気の赤に照らして、パウリナは快活にそう言った。麦酒を飲むのではあるまいし、酔いはかなりきつめに回るであろう。それにしたっては豪快な飲みっぷりであり、将来の有望性を窺わせるものであった。
「・・・な、なら此方へ。・・・凄い友人ですね」
「うむ・・・酒乱で無いのが救いだよ・・・」
「あああっ、なんか火照って来たなぁ・・・すいません、もう一杯下さいぃ!」
「・・・酒乱じゃない?」
二杯目の葡萄酒目掛けカウンターに寄り掛かるパウリナのだらしない格好を、ユミルは何処か申し訳無さげに且つ怒りの入った瞳で見詰め、店主は迷惑顔で睨み付けていた。酒場の酒気がどんどんと増すにつれて、喧騒の波もまた勢いを増していった。兵士の男は呆れるように背中を向けて、酒場から出て行き扉をどんと閉めた。
「酒臭い」
「も、申し訳無い・・・連れが予想以上の、その・・・」
「酒乱で?」
「・・・酒乱で」
「・・・パウリナさんは其処のベッドで」
「すまん、酒の臭いが移るぞ」
「ははは・・・慣れっこですよ」
実務のために整然とした一室にて、慧卓は呆れるように眉を悩ませて首肯を繰り返した。彼の視線に気まずげにしながらもユミルは部屋をこつこつと歩き、背中に抱えたパウリナを寝台に下ろす。背中がびりびりとするのを感じつつもこうするより他が無いのだ。解放感にくつろいでいる彼女の寝顔が実に腹立たしいものであった。
慧卓は此処まで彼らを案内してくれた友人に笑みを見せた。
「案内ありがとな、パック」
「礼には及ばないよ。その代わりだな」
「あいよ、今度酒奢ってやる」
「そうこなくっちゃ」
そう言ってパックは扉を閉めた。慧卓は換気代わりに窓を僅かに開き、椅子を寝台の横に置く。
「まぁ、掛けて下さい。それから話をします・・・どうぞ」
自らは執務もするであろう机の上にどっかりを腰を置いた。再度手で催促されてからユミルは椅子に座る。庇の上では可憐な高調子の囀りが響いている。
「さて、何処からお話しましょうか・・・まぁ取り敢えずは近況からですね。最近は如何です?お金に困ったりしてませんか?」
「報奨金のお陰で暫くは食うものに困らないな。節約を重ねれば、後二月は持ちそうだ」
「俺達の命を救ってくれたのに、報奨金がたったの200モルガンってのは無いですよね?パウリナさんはそれに加えて火事の際に人命救助をしてくれたから、700モルガンらしいですけど」
「・・・実を言うと、あれから酒を浴びるように飲んでいるよ。一日に大体50モルガンが消えていっている」
「そのペースでいくと・・・ってかもう金無いんじゃ・・・」
「実は彼女から金を借りて酒を飲んでいる」
「・・・なんか、凄い駄目男っぷりですね。でも幸運をお持ちだ。なんせ俺から今から話す話題も、ある種金が絡みますから」
窓際から吹き付ける緩い風は夏の暑さを伴いながら髪を撫でる。パウリナの頬に宿っていた酔いの熱もそれで冷めてくれるよう祈りながら、ユミルは話を聞いていく。
「騎士になって数日経つんですが、遂に初任務が回ってきたんですよ。かなり長期の奴が」
「どんなのだ?」
「エルフ自治領に行くんです。北のクウィス男爵の領土を経由してね。北嶺調停官補佐役に就任したんです」
「ちょうてい・・・なんだ?」
「調停官補佐役です。エルフ民族と人間族との不和を取り持ったり、或いはエルフ民族内での問題に王国としての立場を伝える、調停官をサポートする仕事です。慣例として調停官と同時に任命され、同時期に出立する予定なんです。数日後には、北嶺に向かいます」
「良かったじゃないか。重役なんだろ?」
「まぁ、そうなんですが・・・この調停官補佐役ってのがかなり癖がある職でして。」
慧卓は其処で一息吐いて水差からグラスへ冷水を注いでいき、それをユミルに渡しながら、世間話をするかのように軽い口調で言う。
「一般的には、北嶺調停官はエルフ民族との交渉等を主任務とする役職ですけど・・・補佐官は文字通り、その補佐に専念する職でしてね。言い換えれば調停官への進言をしたり、情報の整理をしたり、身の回りを整えたり、不測の事態に備えての準備とかしなくちゃいけないんです。ありとあらゆる方向からね。
でも知っての通り、俺は異界の人間だ。エルフという民族が何を考えているのか、北嶺でどんな事態が起き得るのか何一つ予想出来ない。アリッサさんが仕事に専念するためにも、彼女に頼り切りになるわけにも行かない。だから彼女を助けるためにも、俺の補佐、詰まり補佐官の補佐が欲しいのです」
「・・・それで俺達か。なら俺の素性がどんなのかも分かっているんだな?どうやって?」
「パウリナさんと一緒に酒を同伴する機会がありまして」
「ったく、何でもかんでも話すな、こいつは」
水を飲みながら彼女の銀糸の束を掻き分けてやると、パウリナはくすぐったげに寝息を漏らした。慧卓は続ける。
「パウリナさんのお話では、貴方は北方の森林地帯で狩人をしているとお聞きしました」
「していた、だ。今はもう転職している」
「冒険家ですか?」
「な、なぜ分かる?」
「あれ、当たってました?」
「・・・お前も良い性格だよ」
「どうも」
慧卓はにやりとした笑みのまま水差から冷水をグラスに注ぎ、それを景気良く仰いだ。潤いを帯びて通りが良くなった喉を鳴らす。慧卓は先程との軽さとは対照的なまでの真面目な表情でユミルに言う。
「と、いう訳で俺は推測してわけです。北方に幾数年暮らしていた方であるならば、もしかしたら向こうの風習や気候に詳しいのではないかと。これは向こうで仕事をする際に非常に役に立つ。それに見た感じ屈強そうですから、身辺警護も頼めそうですからね」
「・・・それだけか?俺には如何にも妙に見える。見ず知らずの他人に、それもたった一夜邂逅しただけのこの俺を頼るだなんて、まともな判断とはいえない。・・・お前、この仕事に危険を感じていないか?もっと言うと、命令を下した王国中枢に疑念を抱いていないか?」
「・・・・・・本音を言いましょうか。この長期任務は如何にも胡散臭い。この補佐役という重職、新参者の俺にとっては役者不足、荷が重過ぎる職務です。にも拘らず他の騎士よりも優先して宛がわれるという事には、何か政治的な意図を感じずにはいられません。ましてアリッサさんが補佐官ですよ?疑念しかありませんって」
「そんなに、疑わしいのか?」
「直接過去を伺った事はないですけど、あの人はエルフを敵対視している節があります。仄めかした程度なんですけど、不安材料にはなりますね」
ユミルは背凭れに体重を掛けて椅子をぎぃっと鳴らし、グラスで口元を隠しながら考える。慧卓の言葉から察するに、調停官やその補佐役というのは外交的な役割が強い、重要な役職の一つと言えよう。まして他民族との間を取り持つのであるなら、それが過去に内戦で対立した事があるエルフ相手であるなら、尚更である。柔軟な対応が出来る老練な者をそれに選出するのが自明の理であるが、慧卓は若い新任騎士であり、アリッサという者はエルフとは折り合いが悪いようだ。新たな風によって王国の内情を改善する選出と考えるならば納得は出来なくも無い。だがそれは余りに王国側に都合が良すぎる考えであった。無論、慧卓のように王国中枢に不信を抱くのも一方的な都合であるのは言うまでも無いが。
「話を纏めようか。お前は自らに下命された任務を受命しつつも、政治的な不信感を抱いた。そこで政治とはとは全く関係の無さそうな俺達に救いの手を伸ばした。こういう事だな」
「・・・簡単に纏められちゃったよ」
「お前の話は回りくどい。相手方に分かりやすく話そうと考えているようだが、それが逆に相手の不信感を募らせる事もある。時には直接的な言動も必要となる。覚えておけ」
「やだなぁ・・・俺そういう英雄的な行動取れないよ」
「直接的な行動をする奴が英雄となる論理など何処にも無い」
「ベッドの上では如何です?」
「・・・あほか、お前は」
慧卓は態とらしく笑い声を漏らした。下命された重責は案外、彼の精神を鎖のように束縛するものであったようだ。冗談のように掛けられたユミルの突っ込みに、一縷の安心を抱いているようにも見える。
「・・・すまんが、俺だけでは決められん。パウリナが起きたら言っておくから、その後で改めて返事を出すよ」
「御安心を。話は一応もうしております。彼女、既に俺との旅行を期待しているようですよ」
「・・・・・・旅行、か」
そのような安らかな旅路になるとは思えない。そう口に出して遣りたかったが、慧卓の手前、言葉は胃の中に落とす。
自らの手の内に渡された選択の重さを咀嚼していると、とんとんと扉が叩かれて、一人の兵士が扉の外から声を掛けてきた。
「失礼します、ケイタク様。執政長官殿が御呼びであります」
「直ぐに行きます。・・・呼び出しておいて申し訳ありませんが、お話は後で。此処、俺以外使ったりしないんで、休んでいていいですよ。何かあったら扉の外の兵士に言って下さい」
「待て、質問がある。俺の他に誰を誘った?」
「んーっと、兵士の友人二人に騎士が二人、侍女が一人。さっきの雀斑の兵士が友人の一人です。後、今日中に貴族の方にも遭いに行って誘ってみる予定です」
「そうか・・・最後に一つ。何故パウリナも誘った?」
「悪口言うけどおっちょこちょいな女性でしょ?最高に可愛いじゃないですか!!」
「出てけ、馬鹿者」
慧卓はからからと笑みを湛えながら、部屋を軽い足取りで出ていった。残されたユミルは消えて行った彼の姿に、俄かな羨望を抱いていた。
「持つべきは友人か・・・奴には困らなさそうな話だな」
「・・・それぇ、無理ぃ・・・」
「俺の友人は如何にも、一癖二癖ある奴ばかりだな、本当に」
「・・・・・・げっぷ・・・うげぇ・・・」
「・・・はぁ、完全に断れなくなるな」
腹から何かが込み上げて来そうな不穏な喉の音に、ユミルは頭痛のようなものを覚えて眉間を押さえた。そして水が残っているグラスを机の上に乗せて、急ぎ足で部屋の外で待機している兵士へと向かっていった。
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場所は変わって王都中央部に堂々と、絢爛と建立している宮廷。かんかんと晴れた日光を浴びて、眩いばかりの光沢を全身から放っている。地に腹を乗せる街並みを見下ろす一室、即ち執政長官の陰険な部屋の前に慧卓は立っていた。久方ぶりに一対一で話すかと思うと、やけに胸の鼓動が煩く感じる。根が温厚そうなのは理解出来ているが、それでも緊張する相手であった。
立っているだけでは始まらぬと、慧卓は鼓舞するようにすっと息を吐いて、重い戸をとんとんと叩いた。
「騎士ケイタク=ミジョー、入ります」
「入れ」
戸を押し開いて慧卓は中に入る。中は夏場の真っ最中だというのに想像以上に暗い。不健康にも厚手のカーテンで窓を隠しているようである。密閉空間であるのにまるでクーラーのように冷気が効いているのに慧卓は驚き、そして中にレイモンドだけではない、もう一人の人物が居た事に驚く。
「失礼します・・・っ!」
「此方があの?」
「・・・そうだ、異界から顕現した件の若人だ」
億劫げに言い放ったレイモンドから視線を背け、机の前に立っていた老人は慧卓を見詰める。黄土色の瞳に人を食ったような尖った目付きと顔立ちは、まるで都会の鳩を髣髴とさせる。穢れを纏う事を躊躇わなさそうな灰色のロープを着ていれば、尚更鳩の格好を思い起こすというもの。年老いた顔の皺を興味深そうに伸ばして、その老人は話し掛けてきた。
「会えて光栄だ。王国高等魔術学院の学院長を勤めておる、マティウス=コープスだ」
「あっ、御初にお目に掛かります、御条慧卓です!御条が苗字で、慧卓が名前ですっ」
「そこまで肩を張らんでも良いぞ、ケイタク君。時は糸を紡ぐようにゆったりとしている。焦らず、じっくりと話し合おうじゃないか」
「よく言うわ。これから直ぐに出立するというのに」
「無粋ですぞ、執政長官殿」
相手を侮蔑するような色を滲ませてマティウスという老人は言い放ち、改めて慧卓を見遣り彼の疑問を嗅ぎ取った。
「此処に呼ばれて疑問に思っているようだね?」
「あ、はぁ・・・何故執政長官が私のような取るに足らぬ騎士を呼ばれたのでしょうか?」
「呼んだのは私だ」
「あ、はぁ、そうでしたか・・・何故でしょうか?」
「好奇心のためさ」
「へ?」
「それ以外何の理由がある?君が異界出身でなければ騎士などそもそも呼びはせん。暑苦しさが取り得の脳無しの騎士などはね」
「はぁ?」
「すまぬ。こいつは時折他人を強く見下す節があるのでな」
レイモンドの謝罪に納得する。大方、大衆の無知を侮蔑して自らの知能の高さを誇る、その典型の人物という事なのだろう。マティウスは慧卓に向かって言う。誤魔化しようのない鋭い瞳であった。
「ケイタク君、ずばり聞きたい事は一つだけだ。異界はどんな世界なのかな?具体的に教えてくれ」
「そ、そうですね・・・世界の全体像が明らかになっていて、人は海や山を渡ってたりして、沢山の国家が成立しています。そこかしこに鉄で出来た建物や乗り物が溢れかえっていたり・・・場所によっては食べ物が種類も量も豊富でして、新しい品種の奴も作れたりします」
「ほうほう?」
「・・・昼間は仕事を携えた多くの人間が街を闊歩します。俺が住んでいる場所ではそれこそ数万、世界全体で見れば数億もいきそうなくらいに。多種多様な職業が溢れ、それぞれが生活に密接して存在しています」
「ほうほう?」
「えっと・・・昼間は凄く明るいんですけど、夜もそうなんです。稲妻の光を人間は自分で作れるようになっていて、それが夜の街を安全に照らすんです。代わりに、夜空から星空が消えるなんて現象が起こっていますけどね。あ、実際に消えたわけではありませんよ?」
「それくらい理解できるわ。大方光源が密集している場所ではその勢いが強過ぎて、人間の目が受け入れる光の量を調整しているだけだろう。光を隠せば夜空の星とて見えるだろうに、消えるとは随分と無粋な言い方ではないか」
「す、すいません・・・」
理解のし難い理由で叱られて、慧卓は不承不承ながらもそれを受け入れた。『セラム』ではあり得ぬような情景を口頭で説明しているのだ、少なからず褒めて欲しいものである。
「・・・聞かせてくれて有難う、ケイタク君。細かい所は今度逢った時にでも話してくれ給え」
「あ、そうですか。では御機会を頂いた時に、また」
「・・・御洒落は良いぞぉ、ケイタク君。その者の魅力を引き立てるからな」
慧卓の頸元にかかっていた紫のアミュレットを指でなぞりながら、マティウスは静かに言ってのけた。妖しい光を抱く宝玉に鋭い観察眼を注いで、レイモンドの耳に届かぬ小さな声で囁く。
「北嶺に行くならば、古代遺跡についても少しは知っておいた方が良いぞ。浪漫が海のように眠っているからな・・・これも喜ぶかもしれんぞ」
「えっ、それは、どういう・・・?」
疑問に答える事無く、マティウスは足を扉の方へと運んでいく。そして躊躇いも無い足取りが扉の前ですっと止まり、ゆっくりとした動作で慧卓に振り返った。
「最後に聞きたいのだが・・・此処最近でだ、垂れ眉で、黄金色の垂れ目をした男を見ていないかね?身体つきはかなり屈強な奴で・・・噂では、北の方で狩人として生活を営んでいるそうな」
ユミルの事を尋ねている。慧卓は胸をどきっと鳴らして答えようとするが、直ぐに表情を鎮めて口を閉ざした。答えの向かう先に佇んでいるレイモンドの視線がやけに鋭く、底が深く暗澹とした光を放っていたからだ。それは言うならば取逃がしていた獲物の臭いを嗅ぎ付けた猟師のそれであり、或いはこれから死に行く生物を仔細に眺める学者の如き表情であった。真正直に答えるのはいたく危険な香りがしてならなかった。
「・・・いえ。見ていませんよ」
「・・・・・・そうか。ではさらばだ、ケイタク君、執政長官殿」
本心が読めぬ逡巡の後にマティウスは扉を開け放ち、その奥へと消え去っていく。ぎぃっという重たい音が響いて戸が閉まり、室内の二人が同時に溜息を吐いた。互いに同情気味の視線を交わす。消え去ったマティウスの背中をジト目で睨みながらレイモンドは呟いた。
「・・・やっと行ったか・・・」
「・・・あの方、どちらへ向かわれたのですか?」
「帝国だ。向こうと此方の魔術学院の協定によって、帝国内の魔術学校で共同研究をする予定となっておる。奴は其処で王国代表として研究をするのだ」
「ふーん・・・」
人から嫌われそうな顔をしている一方で学院長の座に上り詰めただけあってか、それ相応の実力を持っているという事なのだろう。慧卓は其処まで考えて、自らが呼ばれた意味が既に無くなってしまったのだと気付いた。
「・・・あの、俺はこれから、どうすれば?」
「自分の部屋に帰れ。お前もさっさと出立の準備をしろ」
「あ、はい・・・失礼します」
面倒事のように扱われて、慧卓はしゅんとして垂れ眉となりながら部屋から出て行った。残されたレイモンドは眉間に集中した皺を直そうと目をぱちくりとさせ、余計に顔の皺を重ね合わせていた。
「・・・今宵は、ミルカと寝るかな」
そう呟いたレイモンドの顔は実に億劫とした皺が幾つも走っており、六十数年生きた彼の精神が、唯一人の老人との邂逅で苛まれたのを証明していた。そしてその苛みの解消に小姓にも似た己の騎士を宛がうのは、当然の事であった。老いて尚滾る事がある欲求は、彼の肉体にしたたかな快楽を齎し、不平不満の解消に繋がるという事を彼は熟知していたのだ。己の老体と夜光に包まれた寝台に挟まれて、高らかに嬌声を漏らして若く小さな肉体を卑猥に身動ぎさせるミルカを夢想し、レイモンドは俄かながらの精気を取り戻していった。
「・・・なんでゲロ臭いの?」
「申し訳無い・・・」
騎士宿舎で豊潤な吐瀉の香りを、しかも自室で覚えている慧卓にとっては、その解消法は今少し後の話となるであろう。ただただ申し訳無さそうに非礼を詫びるユミルの姿に、慧卓は何も言えずに天井を見詰めていた。
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