世界は狂い出している。
生物の営みが奏でる雑音と怪音と騒音は、そうと知る者に何処までも厳しく……無情だ。
産まれて以来延々と耳を引き裂かれる思いに苛まれ、温情に溢れたと表せる環境に身を置く事も許されず、約束されていた不自由すらも奪われて。
母の死を対価に、漸く本当の自分が何者であるかを知った瞬間、彼女の視界を占領したのは、限り無く広がる青い空と白い雲。そして、それらを鏡の如く映し出す美しい碧の海だった。
なんという解放感。なんという爽快感。天上に住んでいるらしい者達と同様、背に翼でも生えたかと歓喜に震える肩を止められた筈もない。
そうであるのに。そうであったのに。
吹き渡る風も、岩壁に押し寄せる海水も。浜を滑る砂の一粒でさえ。
作り物の灯りしか知らない脳に鮮烈な印象を深く刻み付けて尚、心臓を抉るような痛みを伴う不愉快な悲鳴を上げていた。
高揚と隣り合わせの失望。
世界は狂い出している。一寸先では更に狂乱の宴が待ち構えているだろう。
目蓋を閉じ、耳を塞ぎ、口を閉ざせば、少しは正常を保てるか?
ふと過った考えは、瞬きの間で嘲りに変わった。
ああ……なんて莫迦莫迦しい浅慮だ。
自分を閉ざしても世界は回る。
結局の所、世界と自分に連動性は無く、何をどうしたところで世界は自分を救わない。それは世の理を知らぬまま生かされていた時分が証明する。
世界は生命の個に傾倒しない。
なら、自分は自分として生きるのみだ。
「死んでたまるか……!」
誰であろうと何であろうと。例え世界を相手にしても、決して殺されてなんかやらない。
意地汚くとも図太く生きて。
生きて生きて、生き抜いてやる。
彼女は艶やかな桃色の目で真っ直ぐに未来を見据え、容赦無く斬り付けてくる形無き刃に立ち向かった。
かつては同族だと疑いもしなかった者達を喰らい、憧れた純白の翼をへし折り。
思いもしなかった自分の本性に馴染んでいく。
けれど……煩わしい自由。滑稽な有り様。無意味に零れるだけの嘆息。
生の責め苦は永遠に続くのかと、寒気にも似た錯覚を誘う。
そんな中で突然訪れたあの日々は、彼女にとって最初にして最後……最大の安らぎと言えたのかも知れない。
「ぅびゃふっ!」
「あんたねぇ……いい加減、裁断中に転ばない工夫くらいしなさいよ」
「いっつつ……ごめん……。でも、見て見て! さっきより少し綺麗に切れてるよ」
「はいはい。あんたの額もちょっと切れてるけどね」
「え? あ、本当だ」
『此処まで酷い不器用さだとは……お前、何故今まで生きて来られたんだ……?』
「んー。グリディナさんに逢う為だったりして」
「カール。それ、説得と違うから。」
『嬉しいクセに』
「お黙り非常食! その綺麗な羽毛、千切って売り飛ばしてやろうか!」
『あっはっは! 照れるな照れるな』
「グリディナさん、顔が赤いよ? 大丈夫?」
「うがーっ! もう、なんなのこいつらぁッ!」
目蓋を閉じれば浮かぶ情景に、自然と頬が緩んだ。
誰かが隣に居る鬱陶しさこそが幸福なのだと教えてくれたのは、何の皮肉か、彼女が棄てた筈の種族と彼女を罪と吐き捨てた種族。
賑やかで騒がしくて喧しい声。なのに、胸の奥をじわりと温める音。
「大好きです。グリディナさん」
ゆっくりと穏やかに。
でも、あっさりと駆け抜けた優しい時間。
失っても消えない温もりは、代を経て継がれていく。
『コーネリアは勇者達と共に死んだようだ。戻って来る気配は……無かった』
「そう」
『止めなくて良かったのか?』
「何を今更。アンタだって、「子供を残して村を出て行く辺り、さすが母娘。そっくりだなー」とか言って、笑ってたでしょうが」
『すまん……』
「あの子が選んだ道よ。私達が口を挟む問題じゃないわ。……でも」
『グリディナ……』
「……莫迦みたいね、私。何の為にあの子を村に託したのかしら。こうなると判ってたら……もう少し、長く……一緒に居てあげても……良かった……っ……」
見た目まだ若い未亡人が村にどんな形で必要とされるか、彼女は知っていた。
そして、人間としては長期間一ヶ所に留まって生きられない彼女が、人間として産まれたコーネリアの傍に居るのは難しい。
だから、離れた。
いつかは必ず置いていく。なら、まだ幼い内に。
新しい結婚相手を押し付けられる前に村を出て。でも、捨て切れなくて。
人間には見付け難い山奥からずっと……母親を待ち続ける小さな背中をずっと、見守っていた。
夫婦になったコーネリアとウェルスが、二人の子供を実家へ預けて勇者と旅を始めてからは、アオイデーが勇者一行を、グリディナが村の子供達を、それぞれ遠くで見守り続けていたのだ。
『なぁ、グリディナ。前から尋きたかったんだが……お前、元々は人間世界で生きていたのか?』
「……どうしてそう思った?」
『神にも悪魔にも大した意味を持たない人間の結婚って言葉で露骨に動揺してたし、人間生活に慣れるのが異常に早かったから……か。観察してるだけじゃ身に付かない技術も見せてたよな。主に、刺繍……とか。あんなもの、他の村女の誰もしてなかった。というより、刺繍そのものを知らないんだろう。まさか、悪魔の趣味とは思えんが』
「……見掛けなくて当然だったのね。表に出さなくて良かったわ」
『?』
「小さい頃に教えられたから、一般的な物だと思ってたのよ。人前でする作業でもないし、皆自宅でひっそりやってるんだとばかり。考えてみれば、王族と平民じゃ違ってて当然ね」
『お、ぅ?』
「とっくの昔に滅んだ国での話よ。未練も興味も無いわ」
『……』
陽光を遮る石壁の内側に隠された、正統な王の血を継がない王女。
出生を秘匿していた王妃と何者かの間に産まれ育った当時は、言動に枷を填められ、足裏を直接地面に降ろす機会も無く、宛てが無い編み物や、たまたま聴こえた歌を覚えるしか、やる事が無かった。
それが、ほぼ他人の親兄弟を滅ぼしてくれた何処ぞの国のおかげで自らの意思を手に入れたのだから、つくづくおかしなものだ。
村中できゃあきゃあと走り回るコーネリアの子供達を涙目で見下ろし、微笑む。
「アンタはこれからどうするの?」
『なにがだ?』
「神々の気配が消え始めてるでしょ。戻るって言うなら……」
『不要だ。私は堕天した身。二度と天上には帰らん』
「そ。じゃあ、頼みがあるんだけど」
『なんだ?』
「私と契約して。アンタが特性以外で放つ音総てを、私の力で消し去るわ。気配も断つから、近距離で特性を使わない限りどんな相手にも見付からない筈よ。アンタがドジさえ踏まなければ、あらゆる危険と生涯無縁でいられるってわけ。その代わり……これから先、私に何かあったら、あの子達に音で伝えて欲しい物があるの」
『伝言か』
「ええ。コーネリアが産まれる直前のカールの話、覚えてる?」
『いろいろ言ってたな……多すぎてどれだか見当が付かんぞ』
「名前よ」
『ああ、あれか』
「もしもアンタが見てる間に調律の力を持つ子供が産まれたら、あの名前を付けさせて欲しい。アンタなら産声で判るし、別に男でも女でも不自然じゃないでしょ?」
『やたら跳びまくるコーネリアの音を辿った以上に面倒だな。自分でやれば良いだろうに』
「だから、何かあったら……よ」
この時、既に予感があったのか。
彼女はこの数十年後、聖天女とよく似た音を纏う女の力で封印された。恐らく人間が絶えない限り……もう、目覚めないだろう。
それほど強固な眠りに堕ちたのは、他ならぬ彼女自身がそう望んだからだ。
事実上世界から存在を切り離し、あらゆる視線を避けて隠れていたアオイデーの前で。
彼女は自ら封印して欲しいと、女に願っていた。
アリア信仰が拠点として築いた純白の宗教国アリアシエル。
その一番都市・リウメに建てられた主神殿の下で、彼女は深く眠っている。
アオイデーが何度となく訪れても、やはり意識が目覚めた音はしない。或いはアリアの力に関わらず、自身で起床を拒んでいる可能性もあるが。
コーネリアを喪った彼女は、笑っていても何処か虚ろに見えた。カールもコーネリアも居ない世界には耐えられなかったか。
……それでも。
神殿の屋根に降り立った小鳥は、ぴるるるるっと美しい声で鳴いた。世界がどう転がって来たのかを伝える為に。望んでいた者がやっと現れたんだぞと、彼女に報せる為に。
アオイデーはカールとグリディナの子孫を影で追い続け、僅かに残る特性を使い、勇者達の鼓動を歌にして彼らに届けた。せめて音だけでも後世に遺せたら、コーネリアの死は無駄ではなかったと……目覚めた彼女に誇らしく報告できると信じて。
一頻り鳴いて気が済んだアオイデーは、小さな翼を忙しく動かして神殿裏に伸びる一番高い木に移った。いつもなら直ぐ様アルスエルナに帰るのだが、今回は「彼」が居る。暫くはこの木の枝が宿代わりだ。
枝葉の隙間に覗く直立姿勢の「彼」は、何をするでもなく金色の目で空を見上げ、真っ直ぐ長い金髪を風に遊ばせている。
中性的な顔立ちに純白の長衣が引き立てる凛とした雰囲気。
まるでコーネリアみたいだと言えば、彼女達はどんな反応をしただろう。
コーネリアが産まれる前……やけに興奮したカールが、珍しく一生懸命に自己主張していた場面を思い出す。
「ずーっと考えてたんです! これの他には一歩だって譲れません! 女の子だったらコーネリア! 男の子だったら絶対」
「アーレスト」
カールの言葉を継いだ女声で意識が引き戻された。見れば、緩やかに長い金髪と藍色の目を持つ女が、長衣の裾を蹴りつつ「彼」に歩み寄っている。
「悪かったわね。こんな所まで付き合わせて」
「こんな所って……貴女ね。アリア信仰の中心部で迂闊な発言はしないで頂戴。折角司教の座に就いたのに、数時間で取り上げられたら洒落にならないでしょ」
「あら。本来は猊下にお伺いを立てる必要なんか無い地方の司教座承認儀式を、この忙しい時期に、わざわざ呼び付けてまで、一方的に執り行ってくださったのは、完っ全に神殿側の都合でしょう? 飼い犬の恭順ぶりを確かめる意図でもあるんでしょうけど、迷惑極まりない強行予定表のおかげで、私達は無駄にげんなりしてるんだもの。愚痴くらいはお赦しくださるわよ」
「程度を弁えなさいと言ってるの。本当、プリシラは猊下が嫌いねぇ」
「ええ。猊下に限らず、頭を使わない上司は全員気に入らないわ。どうやって排除してやろうかしら……ふふ。考えるだけでわくわくする」
「逞しいのは良いけど、手段に溺れて身を滅ぼさないでよ? 頼りにしてるんだから」
「分かってる。だから貴方を協力者に選んだのよアーレスト。期待してるわ」
「ええ、努力はしましょう。後輩を扱くのは私の得意技よ」
二人は聖職者に有るまじき黒い笑みを浮かべて、軽く肩を叩き合う。
産まれる前から「彼」の近くに居たアオイデーには何の話か判っているが、この会話だけを切り取れば叛意有りと指摘されても仕方ない。人影が無いのを承知で話しているにしても、見守る小鳥は内心ひやひやだ。
長い歴史を持つアリア信仰も一枚岩ではない。二人の野望は多くの敵を作るだろう。主に上層部で。
早々と目を付けられたら、待っているのは草の根潰しだ。頼むから無茶はしないでくれと何度叫びそうになったか。
浅く息を吐いたアオイデーは、賢さと無邪気さを兼ね備えた心優しい二人の気を静めるつもりで、小さな波を放つ。
すると、「彼」が気付いて顔を上げた。
「また、この音……」
「どうしたの?」
「……いいえ、なんでも」
カールと違って力に自覚がある「彼」は、波に対して非常に敏感らしい。
が、金色の目は一度も小鳥の姿を捉えない。何処からともなく聴こえる音に首を傾げるばかりだ。
それで良い。
膝を抱えて眠る悪魔と交わした契約は「彼」の存在によって既に果たされているが、引き続き見守っていても、彼女なら許してくれるだろう。
アオイデーは歌う。
どれほどの時間を過ごしても二度と重なり合わない美しい調べを思いながら、やがて最愛の親友に連なる者と言葉を交わすその日まで。
紡がれてきた多くの想いを、歌い続ける。