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逆さの砂時計

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Side Story
  無限不調和なカンタータ 8

 世界は狂い出している。
 生物の営みが奏でる雑音と怪音と騒音は。
 そうと知る者にどこまでも厳しく、無情だ。

 産まれて以来延々と耳を引き裂かれる思いに苛まれ、温情溢れたと表せる環境に身を置くことも許されず、約束されていた不自由すらも奪われて。

 母の死を対価にようやく本当の自分が何者であるかを知った瞬間、彼女の視界を占領したのは、限りなく広がる青い空と白い雲。
 そして、それらを鏡の如く映し出す、美しい碧色の大海原だった。

 なんという解放感。
 なんという爽快感。
 天上に住んでいるらしい者達と同様、この背に純白の翼でも生えたかと、歓喜に震える肩を止められた筈もない。

 そうであるのに。
 そうであったのに。

 吹き渡る風も。
 岩壁に押し寄せる海水も。
 浜を滑る砂の一粒でさえ。
 作り物の薄暗い灯りしか知らない脳に鮮烈な印象を深く刻み付けてなお、心臓を抉るような痛みを伴う不愉快な悲鳴を上げていた。

 高揚と隣り合わせの失望。
 世界は狂い出している。
 一寸先では、更なる狂乱の宴が待ち構えているだろう。

 目蓋を閉じ、耳を塞ぎ、唇を引き結べば、少しは正常を保てるか?
 ふと(よぎ)った、そんな考えは。
 瞬きの間で嘲りに変わった。

 ああ、なんてバカバカしい浅慮だ。
 自分を閉ざしていても、世界は回る。
 結局のところ、世界と自分に連動性は無く。
 何をどうしたところで、世界は自分を救わない。
 それは、世の(ことわり)を知らぬまま生かされていた時分が証明する。

 世界は個の集合体でありながら、だからこそ、生命の個には傾倒しない。
 ならば、自分は自分として生きるのみだ。

「死んでたまるか……!」

 誰であろうと、何であろうと。
 たとえ世界を相手にしても、決して殺されてなんかやらない。
 意地汚くとも、図太く生きて。
 生きて、生きて、生き抜いてやる。

 彼女は艶やかな桃色の目でまっすぐに未来を見据え。
 容赦なく斬り付けてくる、形無き刃に立ち向かった。

 かつては同族だと疑いもしなかった者達を喰らい。
 憧れていた、空舞う純白の翼をへし折り。
 流れ行く時の狭間で、思いもしなかった自分の本性に馴染んでいく。

 けれど……煩わしい自由。
 滑稽な有り様。
 無意味に零れるだけの嘆息。
 生の責め苦は永遠に続くのかと、寒気にも似た錯覚を誘う。

 そんな中で突然訪れたあの日々は。
 彼女にとって、最初にして最後、最大の安らぎと言えたのかも知れない。

「ぅびゃふっ!」
「あんたねぇ。いい加減、裁断中に転ばない工夫くらいはしなさいよ」
「いっつつ……、ごめん。あ! でも、見て見て! さっきよりは少しだけ綺麗に切れてるよ!」
「はいはい。あんたの額もちょっと切れてるけどね」
「え? あ、本当だ」
『ここまで酷い不器用さだとは。お前、何故今まで生きていられたんだ?』
「んー……グリディナさんと会う為? だったりして」
「カール。それ、説得と違うから」
『嬉しいクセに』
「お黙り、非常食! その綺麗な羽毛、千切って売り飛ばしてやろうか!」
『あっはっは! 照れるな照れるな』
「グリディナさん、顔が赤いよ? 大丈夫?」
「うがーっ! もう、なんなのこいつらあ!!」

 目蓋を伏せれば浮かぶ情景に、彼女の頬は自然と緩んだ。
 誰かが隣に居る鬱陶しさこそが己の幸福だったのだと教えてくれたのは。
 何の皮肉か、彼女が棄てた筈の種族と、彼女を罪と吐き捨てた種族。
 賑やかで、騒がしくて、やかましい声。
 なのに、胸の奥をじわりと温める音。

『大好きです。グリディナさん』

 ゆっくりと穏やかに、けれど、あっさりと駆け抜けた優しい時間。
 失っても消えない温もりは、代を経て継がれていく。

『コーネリアは勇者達と共に、死んだようだ。戻ってくる気配はなかった』
「そう」
『止めなくて、良かったのか?』
「何を今更。アンタだって『子供を残して村を出て行く辺り、さすが母娘。行動までそっくりだなー』とか言って、笑ってたでしょうが」
『……すまん』
「あの子が自分で選んだ道よ。私達が口を挟む問題じゃないわ。でも」
『グリディナ……』
「バカみたいね、私。何の為にあの子を、村に託したのかしら。こうなると判ってたら……もう少し長く、一緒に居てあげても……、良かった……っ」

 見た目まだ若い未亡人が、村にどんな形で必要とされるのかを。
 彼女はよく理解していた。
 そして、長期間人里に留まって生きられない悪魔が、人間として産まれた娘の傍に居続けるのは、とても難しい。
 だから、離れた。

 いつかは必ず置いていく。
 ならば、新しい結婚相手を押し付けられる前に。
 コーネリアが幼いうちに、村を出て。
 でも、捨て切れなくて。
 人間には見つけにくい山奥から、ずっと……
 母親を待ち続ける小さな背中を、ずっとずっと、見守っていた。

 夫婦になったコーネリアとウェルスが、二人の子供達をウェルスの実家へ預けて勇者と長旅を始めてからは。
 アオイデーが勇者一行を。
 グリディナが村に残された子供達を。
 それぞれ、遠くからずっと、密かに見守り続けていたのだ。

『なあ、グリディナ。前々から尋きたかったんだが』
「ん?」
『お前、元々は人間の世界で生きていたのか?』
「……どうして、そう思った?」
『神にも悪魔にも大した意味を持たない、人間の『結婚』って言葉で露骨に動揺してたし。人間社会での生活に慣れるのが、異常に早かったから、か。観察してるだけじゃ身に付かない技術も見せてたよな。主に、刺繍、とか。あんなもの、他の村女の誰もしてなかった。というよりは、刺繍そのものを知らないのだろう。村人の普段着に、そういった飾り気はなかったからな。まさか、女悪魔の間で流行していた趣味だ、などとは言うまい?』
「そう。見かけなくて当然だったのね。表に出さなくて良かったわ」
『?』
「小さい頃に教えられてたから、一般的な物だと思ってたのよ。人前でする作業でもないし、皆自宅でひっそりやってるんだとばかり。考えてみれば、王族と平民じゃ違ってて当然ね」
『お、ぅ?』
「とっくの昔に滅んだ国での話よ。未練も興味も無いわ」
『…………』

 陽光を(さえぎ)る石壁の内側に隠された、正統な王の血を継がない王女。

 出生を秘匿していた王妃と何者かの間に生まれ育った当時は、言動に枷を填められ、足裏を直接地面に降ろす機会もなく、贈る宛てがない編み物や、たまたま聴こえてきた歌を覚えるくらいしか、やることがなかった。
 それが、ほぼ他人の親兄弟を滅ぼしてくれたどこぞの国のおかげで自らの意思と自由を手に入れたのだから、人生とはつくづくおかしなものだ。

 村中できゃあきゃあと走り回るコーネリアの子供達を涙目で見下ろし。
 彼女は肩の力が抜けたように、柔らかく微笑んでいた。

「アオイデー」
『なんだ?』
「アンタは、これからどうするの?」
『これから?』
「神々の気配が消え始めてるでしょ」
『……ああ』
「同族のところに戻るって言うなら」
『不要だ。私は堕天した身。天上には二度と帰らん』
「そ。じゃあ、頼みがあるんだけど」
『頼み?』
「私と契約して。アンタが神力以外で放つ音すべてを私の力で消し去るわ。ついでに気配も断つから、近距離で神力を使わない限りは、どんな相手にも見つからない筈よ。アンタがドジさえ踏まなければ、ありとあらゆる危険と生涯無縁でいられるってわけ。その代わり、これから先私に何かあったら、あの子達に『音』で伝えて欲しいことがあるの」
『伝言か』
「ええ。コーネリアが産まれる直前のカールの話、覚えてる?」
『いろいろ言ってたな。多すぎて、どれのことだか見当がつかんぞ』
「名前よ」
『ああ、あれか』
「アンタが見ている間に『調律』の力を持つ子供が産まれたら、あの名前を付けさせて欲しい。アンタなら産声で判るし。あれなら別に、男でも女でも不自然じゃないでしょ?」
『それは、まあ……しかし、聖天女(せいてんにょ)の力で世界中をやたらと跳びまくってたコーネリア達の『音』を辿る以上に面倒だな。自分でやれば良いだろうに』
「だから、何かあったら、よ」

 この時、既に予感があったのか。

 彼女はこの数十年後、聖天女(せいてんにょ)とよく似た音を纏う女の力で封印された。
 おそらく、人間が絶えない限り……もう、目覚めることはないだろう。
 それほど強固な眠りに堕ちたのは、他ならぬ彼女がそう望んだからだ。

 事実上、世界から存在を切り離し。
 あらゆる視線を避けて隠れていたアオイデーの目の前で。
 彼女は自ら封印して欲しいと、女に願っていた。



 アリア信仰が拠点として築いた、純白の宗教国アリアシエル。
 その一番都市リウメに建てられた主神殿の下で。
 グリディナは現代でも、深い眠りの底に沈んでいる。

 アオイデーが何度となく訪れても、やはり意識が目覚めた音はしない。
 あるいはアリアの力に関わらず自身で起床を拒んでいる可能性もあるが。

 コーネリアを喪った彼女は、笑っていてもどこか虚ろに見えた。
 カールもコーネリアも居ない世界にはもう、心が耐えられなかったのか。

 ……それでも。
 神殿の屋根に降り立った小鳥は、ぴるるっと、美しく澄んだ声で鳴いた。
 現代に至るまで、世界がどう転がってきたのかを伝える為に。
 望んでいた者がやっと現れたんだぞと、彼女に報せる為に。

 アオイデーは、カールとグリディナの子孫達を影で追い続け。
 わずかに残る神力を使い、勇者達の鼓動を歌にして彼らに届けた。
 せめて音だけでも後世に遺せたら、コーネリアの死は無駄ではなかったと目覚めた彼女に誇らしく報告できると信じて。

 ひとしきり鳴いて気が済んだアオイデーは、小さな翼を忙しく動かして、神殿裏の庭園に伸びる一番高い木の枝に飛び移った。
 しばらくの間は、この木の枝が宿代わりだ。
 いつもなら、すぐさまアルスエルナへと帰るのだが。
 今回は、()が居る。

 ()は直立姿勢を保ったまま、何をするでもなく、金色の目で枝葉の隙間に広がる青空を見上げ、腰上まで届くまっすぐ長い金髪を風に遊ばせている。
 中性的な顔立ちに、純白の長衣が引き立てる凛とした雰囲気。
 まるでコーネリアみたいだと言えば、彼女達はどんな反応をしただろう?

 コーネリアが産まれる前……やけに興奮したカールが、珍しく一生懸命に自己主張していた場面を思い出す。

『ずうーっと考えてたんです! これの他には、一歩だって譲れません! 女の子だったら『コーネリア』! 男の子だったら絶対、』


『「アーレスト」』


 カールの言葉を継いだ女の声で、意識が現実に引き戻された。
 見れば、緩やかに長い金髪と藍色の目を持つ女が、やけに豪華な装飾品を付けた真っ白な長衣の裾を蹴りつつ、()に歩み寄っている。
 物影に隠れてもなお目を惹く、若々しく華やかな男女が並び立つ光景に。
 アオイデーは、軽い頭痛を覚えた。

「悪かったわね。こんな所まで付き合わせちゃって」
「こんな所って……、貴女ね。アリア信仰の中心部で迂闊な発言はしないでちょうだい。せっかく司教の座に就けたのに、数時間で取り上げられたら、シャレにならないでしょ」
「あら。本来だったら、教皇猊下にお伺いを立てる必要なんかまったくない一国一地方の司教座承認の儀式を、誰も彼もが忙しいこの時期に、わざわざお膝元へ呼びつけてまで恩着せがましく強引に執り行ってくださったのは、完っっ全に神殿側の都合でしょう? 飼い犬の恭順ぶりを確かめる意図でもあるんでしょうけど。迷惑極まりない強行予定表のおかげで、私達は無駄にげんなりしてるんだもの。愚痴くらいは寛容な御心でお赦しくださるわよ」
「程度を(わきま)えなさいと言ってるの! 本当、プリシラは猊下が嫌いねえ」
「ええ。猊下に限らず頭を使わない上司は全員気に入らないわ。どうやって排除してやろうかしら……うふふ、考えるだけでわくわくしちゃう」
「たくましいのは結構なことだけど、手段に溺れて身を滅ぼさないでよ? これでも頼りにしてるんだから」
「解ってる。だからこそ、貴方を協力者に選んだのよ。期待してるわ」
「ええ、努力はしましょう。後輩を(しご)くのは、私の得意技よ」

 二人は聖職者にあるまじき黒い笑みを浮かべて、互いの肩を叩き合う。
 産まれる前から()の近くに居たアオイデーには、何の話か判っているが。
 この会話だけ切り取れば、上層部への叛意ありと指摘されても仕方ない。
 周囲の無人を承知で話しているにしても、見守る小鳥は内心ひやひやだ。

 長い歴史を持つアリア信仰も、決して一枚岩ではない。
 二人の野望は多くの敵を作るだろう……主に、上層部で。
 早々と目をつけられたら、待っているのは草の根潰しだ。
 頼むから無茶はしないでくれと、何度叫びそうになったか。

 浅く息を吐いたアオイデーは、賢さと無邪気さを兼ね備えた心優しい男女二人の気を静めるつもりで、小さな『波』を放つ。
 すると、()が気付いて顔を上げた。

「また、この音……」
「どうしたの?」
「……いいえ、なんでも」

 ()はカールと違い、子供の頃から『調律』の力に自覚がある。
 だからか、音に対して非常に敏感らしい。
 だが、金色の目は一度も小鳥の姿を捉えない。
 どこからともなく聴こえる旋律に首を傾げるばかりだ。

 それで良い。

 今も膝を抱えて眠る女悪魔と交わした契約は、()の存在と健在によって、既に果たされているのだが。
 引き続き見守っていても、彼女なら、苦笑いしつつ許してくれるだろう。
 きっと、「アンタも大概、物好きなやつよね」……なんて言いながら。



 アオイデーは歌う。

 どれほどの時間を過ごしても二度と重ならない美しい調べを思いながら、やがて最愛の親友に連なる者達と直接言葉を交わす、その日まで。
 数千年もの歴史の中で紡がれてきた多くの想いを、歌い続ける。



 
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