逆さの砂時計
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Side Story
少女怪盗と仮面の神父 8
住み慣れた家は、親戚を名乗る見知らない男が売り払った。
与えられたのは、一週間分の食費が入った小さな肩掛けバッグ一つのみ。
襟から裾に向かって濃くなっていく青色がお気に入りだったワンピースと赤い靴を履かされて。
雨の中に一人で放り出された。
行く当ては無い。
頼れる親戚も知り合いもいない。
だから生まれ育った海辺の町を出て、遠く離れた『どこか』を目指した。
灰になった両親が眠る海を、違う角度から見てみたかった。
それ以外の何かを求めたつもりはない。
ただ行きたいと思ったから、そうしただけ。
結局、何日、何ヵ月さ迷ったのか。
雑木林を抜け、沼に転がり落ち、岩だらけの山を登って下りて。
服はぼろぼろ、靴には穴。
お腹は空くし喉は渇くし、手足の爪は割れたり剥がれたりして赤黒い。
気付いた時、両親が遺してくれた体に、死別した頃の面影はなかった。
そうして夢中で辿り着いた大きな浜辺は、既に異国の領土内。
曇り空と一体化した鉛色の海に、訳も分からず茫然としていた。
「どうしたい?」
立ち尽くす背中にかけられた声は、大人の女性の物。
「これから、どうしたい?」
……どうしたい?
自分が、これからをどうしたいのか?
問われた内容を頭の中で反芻して、ゆっくり振り返る。
「何も、要らない」
「……そう」
肩で巻いた金色の髪が綺麗な女性は、群青色の目をスッと細めるだけ。
多くの言葉を重ねようとはしない。
「何も要らないの」
『大好きよ。生まれてきてくれて、ありがとう』
『ごめんな……』
伏せた目蓋の裏に浮かぶ、痩せ細った両親の顔と自分に伸ばされた指先。
両親の表情は見えない。
あの時、二人は笑っていたのか、泣いていたのか、思い出せない。
「……でも」
もしもあの時、二人の手をかわさずに取っていたら。
大丈夫だよ、私も大好きだよと、言えていたら。
記憶の中の二人は、笑ってくれていただろうか。
「もう、後悔はしたくない」
雨が降り出した。
小さな粒がぽつりぽつりと頬に当たり、零れ落ちる滴と混ざり合う。
「生きたい?」
女性が問う。
「……生きたい」
自分が答える。
「生きて、何をしたい?」
女性が一歩近付く。
自分は動かない。
「わからない。ただ、……笑いたい」
両親が元気だった頃は無邪気でいられた。
二人が同時に病で倒れた後は、看病を言い訳にして笑わなくなった。
疲れた自分を気遣う、二人の言葉が煩わしかった。
二人が息を引き取った時、二人の腕がベッドに落ちた瞬間、心のどこかで『やっと終わった』と安心してしまった、汚い自分が嫌になった。
「……二人が好きだと言ってくれた私に……、戻りたい……っ」
両親はもう、いない。
海で眠っているから、二度と言葉も笑顔も交わせない。
私も大好きだよ……なんて、向き合うことからずっと逃げていたくせに、今更だ。
自己中心的すぎて、自分がもっともっと嫌いになる。
それでも
「……ふた、り、の……っ……! 二人の子供に戻りたいよぉおおーっ!」
家なんか、なくなっても良い。
お金なら全部あげる。
お気に入りの服も、おもちゃも要らない。
だから、二人を返して。
お父さんとお母さんを返して。
どの時点の二人でも良いよ。
返してくれるのなら、今度は笑うから。
ずっとずっと、最後の瞬間まで笑って。
二人に『大好きだよ』って言い続けるから。
ちゃんと、手を繋いで看取るから。
笑っていられた三人家族を、私に返して。
無理なのは、知っているけど。
「私も……後悔はしたくないわ」
静かに歩み寄った女性の両腕が、堰を切った悲鳴ごと自分の体を包む。
「朝起きて、誰かと話して働いて遊んで、笑って泣いて怒って喜んで。合間合間に食事をして、夜は眠って……たったそれだけのことなのに、どうしてこんなにも難しいのかしらね……?」
うねる風と、荒れ出した波の音。
叩きつける勢いが激しくなった雨にも責められながら。
泣き叫ぶ自分の首元に顔を埋める女性の肩も、震えていた。
「……ッテさん。ミートリッテさん?」
滲んでぼやけた視界に、金色の糸が数本垂れる。
それは、冷たい体を温めてくれた、大切な人の髪と同じ色。
「……ハウィス」
「え? あの、ちょ……」
「大丈夫だよ……私が居るから……ハウィスが許してくれてる間は、ずっと一緒に居るから……。今度は、私が温めてあげる……。だから……ねぇ」
覗き込んでいる相手の背中に、座ったまま腕を回して。
きゅうっと抱きしめる。
「……悲しまないで」
白い服に頬をすり寄せ。
ふと、違和感を覚えた。
(あれ……? ハウィスにしては硬い……よう、な……)
そういえば、自分は今、礼拝堂の中に居る筈。
時間にしても場所柄にしても、ハウィスが教会に居るわけがない。
彼女も、アリア信徒ではないのだ。
ならば、この人は誰だ?
細身ながらも並の女性体とは異なる、ほど好い厚みの筋肉を持っていて、やや低めの体温が気持ち良いこの人は。
少しずつ冴えてきた思考で、ゆぅーっくりと顔を上げ……
相手を直視したと同時に ビギッ! と音を立てて、全身が凍り付く。
「…………おはようございます?」
「────っっ!?」
アーレストが困ったように微笑み、抱きついた自分を見下ろしている。
理解した瞬間、声にならない叫びが礼拝堂内に溢れた。
「す、すすっ、すすすみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみません、わざとではないんです、勘違いなんです、人違いなんです! ご容赦くださいこの通りーっっ!」
「ええと……大丈夫ですよ。ご自身でどなたかのお名前を仰ってましたし、人違いされているのはすぐに分かりました。ですので、その……土下座とか必要ありませんから、せめて椅子に座り直していただけませんか?」
「とんでもないです、聖職者である貴方の身に不埒な行いをした私なんかが顔を上げられる状況じゃないです! 本っ当ーに! すみませんでした! 一生ずっと謝り倒しますのでどうか喰わないでください、お願いします! 硬いし薄いし小さいし、絶対に美味しくないです、私ーっ!」
「喰…… はい?」
「へ?」
拍子抜けしたような、驚いて言葉を失った時のような声が耳を突く。
思わず床に擦り付けた額を上げれば、アーレストの目が点になっていた。
何を言われたのか分からない……そんな表情だ。
その微妙な空気を読んだミートリッテは、またしても自分が、酷い失態を演じてしまったのだと気付いた。
床での平伏姿勢から跳ね起きて、周囲の確認を瞬時に行い。
ぶわわわわっと、耳まで真っ赤に染め上げる。
(誰も居ない、着衣に乱れもない、荷物を探られた様子もない、の、現状をよく顧みなさいよ! どう見ても寝惚けた私に手出ししてないじゃない! アーレスト神父にその気が無いなら、遊び人疑惑まであえて口にしなくても良かったのに! 喰わないでとか自意識過剰で痛々しい! バカのお手本か私は!!)
ステンドグラスの向こうはとっくに漆黒。
女衆も引き上げた後。
礼拝堂の中には、アーレストと寝惚けたミートリッテの二人だけ。
燭台の灯りも、二人の周辺以外は落とされていた。
女に手を出すなら絶好の機会だが、彼は、ミートリッテの失礼極まりない発言にも顔に疑問符を貼り付けて瞬くばかり。
いつの間に寝ていたのかも含め、自分の間抜けぶりを海賊に対して以上に罵倒したくなった。
『戦』の最中にうかうか眠ってしまうとか。
これでは用意していた策が台無しだ。
今後何をしたって、悩んでいる信徒には見えないだろう。
失敗に重なる失敗で、情けないやら恥ずかしいやら。
あれだけ気を抜くまい、油断するまいと意気込んでいたのに。
なんたる無様。
「とにかく落ち着いてください。なにやら私のほうが誤解を与えてしまったようですが、ほぼ初対面である貴女に危害を加えるつもりはありませんし、女性に無体を強いるなど、神父としても、人間としてもありえません」
それはそうだ。
アーレストの本性がどうであれ。
仮にも聖職者が一般民に手を出せば、村が騒ぎになるだけじゃ済まない。
宗教の性質上、国際規模で大問題になる。
普通に考えて、着任した翌日にいきなり自分の立場を危うくする愚か者がどこにいるというのか。
問題があるのは、教会を閉める時間まで礼拝堂で居眠りした挙げ句神父に抱きついて騒ぎ立てた、ミートリッテの短絡的な思考だ。
(ええ、ええ。アルフィンだって理解してそうな理窟なのに! 私が勝手な思い込みで無駄に警戒、そして自爆しただけ。悪いのは私なんです!!)
それに。
怪盗シャムロックとして挑んでおきながら、すっかり素のミートリッテに戻ってしまっていることも、余計に頭を混乱させた。
何重にも自己暗示を掛けてから教会へ来た筈なのに。
どうして今、シャムロックの意識が解けているのか。
おかげで、平静さがまったく取り戻せない。
「すみません、本当すみません! 尊厳を害する失礼なこ、と!?」
「ですから」
これまでにない経験で挙動不審に陥ったミートリッテの顔を。
アーレストの大きな両手が、ふわりと包み込む。
琥珀にもよく似た金色の、少し吊り上がり気味な両目が。
驚いて目をまん丸にしている子供の顔を静かに映した。
「どうか落ち着いてください。私の目を見て。良いですか? 私は、貴女を責めていません。謝罪の必要も感じません。そんな風に頭を下げられても、私には何を反省されているのか解らないので、却って対応に困ります」
「っ!」
綺麗な顔が、真剣な表情でまっすぐに自分を見ている。
整った容姿が間近で放つ迫力と言葉に気圧され。
ミートリッテは息を飲み、立ち竦んだ。
「貴女が私に抱きついたのは、微睡んで親しい方と間違えてしまったから。でしたら、それは不埒な行いではありませんよ。不用意だとは思いますが、地に額を擦り付けるほどの反省を要するものではない。相手が何者であれ、男性を警戒してしまうのも、女性の身であれば、ごく自然な防衛本能です。特に貴女のように実直で可愛らしい方なら、日頃から異性関係の話で心労が絶えないでしょう?」
いや、ですからね?
その軽口がこっ恥ずかしい自意識過剰系・勘違い暴言の素なんですけど。
と、真剣な表情を崩さない神父には、なんとなく言いにくい。
「貴女が何をそこまで思い詰めているのか、お話していただけない限りは、以後お気を付けて、としか言えないのです。ご理解ください」
謝罪は程々にしろというお説教か。
確かに、今のは神父に非礼を詫びている感じではなかった。
勢いで一方的に喚いていただけ。
誠意が欠けた謝罪なんてきっと、されるほうがいい迷惑だ。
アーレストの瞳に、みっともない子供の姿を見て。
沸き立った全身の血が、すーっと冷えていく。
「……すみません。勝手に騒ぎすぎました」
アーレストはきょとんとして……優しく微笑んだ。
「貴女は、見た目以上に内面が綺麗なのですね」
「は?」
「失礼します」
つい、と顔を寄せて、何をするつもりかと思えば
「…………はいぃ────っ!?」
両の目元に、軽く口付けられた。
ゆっくり離れた彫刻の微笑みに、くわっと目を見開く。
「な、ななっ、なに……っ!?」
「このままでは、ただれてしまいそうです」
「は!? え!?」
「涙で」
自身が着ている服の袖で、戸惑うミートリッテの目尻を撫でる神父。
どうやら自分は、眠りながら泣いていたらしい。
何故……と考えて、答えはすぐに出た。
(この人が、悲しげに微笑んでたせいだ)
王都に居る親友達の話をしていたアーレストの泣き出しそうな顔を見て、迂闊にも彼と自分の過去を重ねてしまった。
生死に拘わらず、親しい者に会えなくなるのは、それだけで辛い。
ミートリッテは、別れの悲しみを知っている。
どれだけ優しくされても埋められない空白があることを知っている。
だから、アーレストの微笑みに『会えない寂しさ』が触発され。
感情に引きずられた記憶が落ち込んだ。
そんな場合じゃなかったのに。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
アーレストの手をやんわり押し返し、一歩退く。
同情で手段を手放すなんて、シャムロックらしくない。
目的を思い出すべきだ。
自分がしっかりしてないと、ハウィスは護れない。
「ミートリッテさん」
「はい」
「人は、一人きりでは生きていけません」
「……はい」
「ですが。心であれ、物であれ、誰かと寄り添うことに対価を求めるのは、大きな間違いです。それは相手への信頼とは違う。挟んだものへの依存だ」
「……すみません。意味が解らないです」
信頼と依存?
何の話だ?
またしても真剣な顔になった神父の言葉に、眉をひそめる。
「貴女は愛されている。応えようとする気持ちも見受けられます。しかし、本当の意味では受け止め切れていない」
彼は何が言いたいのか。
不審感で顔を歪めるミートリッテに、アーレストは至上の微笑みを浮かべ
「指導が必要かも知れませんね。良いでしょう。では、ミートリッテさん」
「はい?」
唐突に。
どデカい砲弾を投げつけてきた。
「貴女を、アリア信仰に入信させます」
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