逆さの砂時計
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Side Story
少女怪盗と仮面の神父 6
「ただいまー!」
「……え!? ミートリッテ!?」
家に帰り、バターン! と豪快な音を立てて玄関扉を開くと。
すぐさま、酷く驚いた様子のハウィスが二階から顔を覗かせた。
階段の手すりに左手を添えて、ととと……っと小走りで降りてくる。
「どうしたの? 今日は遅くなるって言ってたわよね?」
「ちょっとね、予定を変更したの。一応、夕方にまた出掛けるんだけど……あ。これ、ピッシュさんがくれたんだよ。ハウィスによろしく、だって」
「まあ! ピッシュが!?」
後ろ手で玄関扉を閉め、作業服のポケットから取り出したマーマレードの小瓶を手渡すと。
それを受け取ったハウィスの目が、パチパチと小刻みに瞬いた。
どうやら、ミートリッテよりずっとずっと長い付き合いのハウィスでも、ピッシュが物をくれるのは珍しいと思うようだ。
「明日の朝食は一段と豪華になるね。ピッシュさんお手製の貴重品だもの。ゆっくり味わって食べなくちゃ。うふふ、楽しみ! ……伝言があるなら、感想と一緒に伝えるよ?」
水を掬う形で揃えたハウィスの両手にちょこんと乗っかる透明な小瓶。
器を満たす黄金色の液体の中で、オレンジの薄い皮がゆらりと動く。
「そうね……じゃ、ありがとうと、これからも愛娘の世話をよろしく、って伝えておいてくれる?」
「承りましたわ、お母様」
にこっと笑って答える娘に。
ハウィスは一瞬、硬い表情で肩を竦めた。
「……何故かしら? 娘と呼ぶのは良いのに、母と呼ばれるのは微妙だわ」
「三十代半ば独身女性の意地? そろそろ好い人を見つけなきゃ、本格的に行き遅れるよー?」
「んもう! 意地悪な娘ね!」
「あはは、ごめーんっ」
冗談口も上等なミートリッテの前頭部を小突きながら、艶やかに咲き誇る薔薇の微笑みを浮かべるハウィス。
分かってる。
村一番の人気者が行き遅れるなんて、ありえない。
彼女は、その気になれば今すぐにでも落ち着く所に落ち着ける器量持ち。
ただ、ハウィス自身にその欲求が無いだけだ。
一時は娘の存在が枷になっているのかとも思ったのだが。
お酒にほろ酔うたび、
『家事と性処理と子育てを押し付けられるだけの結婚なんか面倒くさいし、鬱陶しいし、煩わしいから、こっちからお断りよ!
男は釣りを楽しむ生き物で、釣った魚そのものには拘らない。
造形美と稀少性と難易度に心踊らせて他人と比べまくって、デカイ獲物を捕まえたぞー! とか、そんなくだらない見栄と自己満足に利用されるのはまっぴらだわ! 私は便利機能が付いた装飾品じゃないってーの!』
などと有刺鉄線ばりに刺々しい言葉を連発されては、苦笑するしかない。
年齢を絡めた現実的な身固め話は、娘の反応で妄想を楽しんでいるとしか思えない、いつもの恋愛話に対する仕返しだ。
結婚願望がなくても、年齢を気にしてしまうのは女の性。
たまには面白くない話を振られる者の気分を味わえば良い。
大人の余裕で返されるのは、ちょっと口惜しいけれど。
しかし。
神だの、不思議現象だのを、まったく信じていないミートリッテにさえ、微笑んだハウィスは本物の女神に見える。
眩しさで目を細め。
ふと、彼女の装いに違和感を覚えた。
「誰か来てるの?」
「え? あ、ああ……これ?」
ハウィスは仕事上、夜になるたび、豊満でしなやかな体の線を引き立てるスリット入りの肩出しドレスを着ているが。
昼間は大体、大きめでゆるゆるなシャツに脛丈で動きやすいズボン姿だ。
変質者紛いの男が、いつどこでどんな風に現れても撃退できるようにと、自衛目的での落差だった。
今も、いつもと同じくシワが付きにくい布地の白いズボンを穿いてるが。
上に着ているのは、濃紺のぺプラムトップスと襟ぐりで一体化した花柄の真っ白な総レースジャケット。
以前これと似たような服を着ていたハウィスを見て、変わった形だね? と尋いたら、アンサンブルといって、その着やすさが女性達にウケて、現在街で流行してるらしいと教えてくれた。
アンサンブルを着るのは、街への買い物や、誰かと会う時に限るとも。
ただ、淑女が公衆の面前で臀部や足の形を露にするズボン姿になるなど、はしたない! とか、一部に残る因習に従い、街ではスカート姿が常装だ。
着替えの途中でもなさそうだし、これから出掛ける感じでもない。
まさに今、この家で誰かと会っているのか、これから会おうとしている、としか思えないのだが。
「似合う?」
引き締まった腰より少し上辺りでジャケットの裾をついっと摘まみ上げ、くるんと回転。
勢いに乗って流れる金色の巻き髪と、翻るジャケットの裾から放たれたミントの爽やかな香りが、訝しむミートリッテの鼻をくすぐった。
「今、ちょっと古い知り合いが久しぶりに来ててね。昔と現在進行形の話に花を咲かせてたトコなの。国外在住在勤で、結構忙しい人だから、なかなか顔を見る機会がなくて……興味ある?」
(……ふぅーん……?)
群青色の虹彩を細めて窺うハウィス。
そんな彼女を見上げていると、少々ひねくれた感情が頭の奥を過る。
「あんまり会えない人と、久しぶりに、懐かしい話を、してるんでしょ? 私が知らないハウィスの話を聴いても、身の置き場がなくて居心地悪いし。元気いっぱいなお花に冷や水をぶっかけるのは申し訳ないから、興味なんて全ッ然無いよ。全ッ然。で、男の人?」
「まあ。しっかりあるんじゃない、興味。返答は拒否させていただきマス。男だったらまた、その人と将来どうのこうのと意地悪言うつもりでしょ」
「チッ バレたか」
「ミートリッテぇえー? 悪いのは、このお口? このお口なの?」
「いひゃい、いひゃい! やうぇふぇ、ハウィふっ! ごうぇんわふぁい、ごうぇんわふぁい!」
ハウィスの細い指先が、視線を落としたミートリッテの頬を摘まんで強くひねり、ぐにぃーっと持ち上げた。
指先が離れる瞬間に走った鋭い痛みで、両目にうっすら涙が滲む。
「ごめんね」
「……どうして、ハウィスが謝るの?」
「寂しがり屋なミートリッテが、大好きだから」
頭を軽く抱えられ、頬をさする手が止まる。
「……バレバレですか」
「バレバレですよ。何年溺愛してると思ってるの?」
ふふ、と楽し気な笑い声一つで、胸の奥に蟠りかけた嫉妬や疎外感が、呆気なく霧散していく。
やはり、大人の余裕には敵わない。
「むぅー……ズルいなぁ。二、三日くらい洗い物全部押し付けてやろうかと思ったのに」
「あはは、抜かりないわねぇ。先手を打って良かった」
薄い唇が額に降りて、柔らかな感触を残した。
温かさとくすぐったさで、全身がむず痒くなる。
「仕方ない。私はできるだけ部屋に籠ってるから、上手くやってよ?」
「その言い方は不適切! 残念ながら、相手は他人以上・友人以下です!」
「やっぱり男か……」
「ほっぺむぎゅーと、こめかみグリグリ。どっちが好き?」
「下世話でしたごめんなさい」
「解ればよろしい」
額と額を合わせ、どちらからともなく、クスクスと笑い出す。
肩に置かれた腕が嬉しくて、ミートリッテもハウィスの体を抱きしめた。
トクントクンと規則的に響く音を堪能してから、ゆっくり離れる。
「じゃ、また後でね。夕飯は先にもらっちゃうかも」
「了解。そのまま出てく?」
「うん。帰りは入れ替わりになるかな。はっきりとは決めてないけど」
「朝帰りじゃなければ構わなくてよ?」
「ぶごふっ!?」
背中にハウィスの視線を受け止めつつ、二階へ上がろうと手すりを掴んだ途端の一言に、持ち上げた右足が空振りそうになった。
「な、何を言うかなあ!? 転けたら危ないでしょうが!」
「ふむ。その様子じゃ、虫はまだ付いてないのね。年頃だと思えば安心して良いのか良くないのか……親心は複雑よ?」
わざとらしい嘆息に、口元を彩る意地悪な形の歪み。
仕返しの仕返しだ。
「もぉーっ! ハウィスのバカーッ!」
これ以上一緒に居たら、手酷くからかわれる。
手練手管の限りを尽くして娘を弄ぶ母から逃げろと、突き当たりの壁をぶち抜く勢いで階段を駆け上がった。
「……っと。いかんいかん」
与えられている部屋の扉を乱暴に閉める寸前。
隣の部屋に居るであろうハウィスの知り合いを驚かせてはダメだと、腕を急停止させた。
極力静かに閉じて、こぢんまりした正方形の室内と向き合う。
正面に、空を映した四角い窓と白いカーテン。
その右隣に、焦げ茶色のクローゼット。
左隣には、四つ足で支えられた木製のベッド。
ふかふかな枕元には、お気に入りの『くらげタン人形』が鎮座している。
『くらげタン』とは昔、潮流の影響でネアウィック村の海岸全体がくらげだらけになった事件を期に、ネアウィック村を象徴する旗印として作られたマスコットだ。
青いカサの下に、口腕を象った白く長い四本の棒が伸びていて、とにかく全体が丸っこい。カサの上部に付けられた、本物のくらげには無い、黒くてつぶらな瞳も、妙に愛らしい。
もっとも。
マスコットとしては、くらげを売りにしたって人や物は集まらないと、早々に放置された哀れな経歴の持ち主ではあるのだが。
「ただいま、くータン!」
ベッドに飛び乗って転がり。
引き寄せたくらげタン人形のカサへと頬をこすりつける。
布自体は柔らかでも滑らかでもないが、みっちり詰め込んだ綿にふんわりもこもこと押し返される感覚は、なんとも心地好い。
「ああー……癒されるぅー……」
すりすり、すりすり。
殺風景な部屋を飾る唯一の華を思う存分愛でて……
くらげタンに埋まったまま くわっ! と目を開く。
(……あ、危なかった……癒し効果のせいで、必要な準備まで忘却の彼方へ吹き飛ばすところだったわ!)
帰ってきたのは、くらげタンに癒される為ではない。
夕方の『戦』に万全を期す為だ。
非常に名残惜しいが、くらげタン人形を枕元に置き。
紺色の絨毯へ足裏を降ろして、のそのそと立ち上がる。
雇い主と同じ作業服のままでは話にならない。
クローゼットを開いて中を漁り。
手持ちの服の中では一番女の子らしい、薄黄色のワンピースを取り出す。
隣に掛けてあったネグリジェの破れた裾を見て、無性にイラッとしたが。
今はどうしようもないので、そのままそっとしておく。
手早く着替えて作業服をしまい。
クローゼットの下方に三つ積んである、フタ付きの箱の一番上を開いた。
中身は、ワンピースと同じ色の花飾りが付いた、可愛らしい女物の靴。
街へ買い物に行く時や、お祝いごとがある時なんかに着なさい、と言ってハウィスがくれた一式だったが。
「こんな風に着るとは思わなかったよ。ごめん、ハウィス。親不幸者で」
手にした靴を揃えてクローゼットの外側に置き。
代わりに、脱いだ靴を空箱の上に乗せて扉を閉める。
後は夕食の時間に合わせて化粧と髪を整えれば、外見の準備は終わり。
重要なのは、ここからだ。
カーテンと窓を開け放ち、強めに吹く海風を室内と体内に呼び込む。
今なお明るい空を見上げ。
目蓋を閉じてから、深呼吸を数回くり返し……唇を引き結んだ。
(私は折れない。私は挫けない。私は誰より優れた足で駆ける風。弱き者の幸福を祈り、ひび割れた大地の崩落を繋ぎ止める三つ葉『シャムロック』)
怪盗シャムロックがどんな場面に遭遇しても冷静に動けるよう、仕事前に必ず行う自己暗示。そして、脳内で描いておく何通りもの未来予想図。
顔見知りに囲まれた『戦』まで数時間。
今回は特に、強い意思と鮮明な可能性の構築を必要とする。
極限まで集中力を高めないと、わずかでも迷いを残せば命取りになる。
(夜の闇に偽りを纏え。人の目に飾られた花の姿を焼きつけろ。目的はただ一つ、海賊が教会に隠した指輪の奪取!)
覚悟は決めた。
もはやどんな恐怖も罪悪感も、怪盗の足枷にはならない。
「……あんな奴らには絶対、壊させたりしないからね」
窓枠に両手を預け、海へ向かってなだらかな斜面に建ち並ぶ木造二階建て家屋の群れを見つめる。
悪党の害意なんかで、ここに住む村人が一人でも欠けたりしないように。
その為に行くんだと、自分自身に強く言い聞かせながら。
世界が夕焼け色に染まるまで、じぃっと見つめ続けた。
人は、時として『当然』というものを忘れる。
近くにあればあるほど、何故か見失ってしまう。
この時のミートリッテが、まさにそうだった。
本当に冷静で広い視野を持っていれば気付けた筈の『当然』が。
自身の足下で、鋭い牙と爪先を磨いていることを。
彼女はまだ、知らない。
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