逆さの砂時計
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Side Story
少女怪盗と仮面の神父 2
ネアウィックは、人口約三百人の漁村だ。
南側に大きな浜を抱えて三方向を山と森に囲まれた村領は、海に牙を立て噛みつくような三日月形になっている。
ミートリッテの仮の職場は、北西方面の山肌を一部切り崩して作られた、村一番の規模を誇るオレンジの農園。
海面に反射する陽光と、吹き込む暖かな風が栽培に適しているらしく、丸々と大きく育つ甘い果実は南方領主達の間で密かな人気を集めている。
おかげで、漁に次ぐ貴重な村の収入源ではあるのだけど。
いかんせん単価の安さが難点で、売り上げから生産や運搬に掛かる手間と費用を差し引くと、残りは赤字ぎりぎりのわずかな金子のみ。
漁業だけでは村の今後が危ういと読んだ、数代前の村長の肝煎りで始めた農業だが、思ったほどの経済効果は出ていない。
当然、この果樹園にも多くの人間を雇う余裕は無かった。
他所から来た未成年のミートリッテが、仮にでも働かせてもらえるのは、ひとえにハウィスの人望があってこそだ。
彼女の頼みだからと、得体の知れない子供を受け入れてくれた雇い主や、正規雇用されている他の従業員達には、本当に申し訳なく思っている。
それでも、最近は顧客が増えたのか。
少しだけ伸びた売り上げと一緒に、従業員全員の給料も右肩上がりだ。
雇い主達の上機嫌な姿を見るたびに、ミートリッテも喜びを感じていた。
「ん~……こんなものかな? ピッシュさん、味見をお願いしますー!」
「あいよーっ」
果樹園の資材倉庫脇で鉄鍋の中身をぐるぐる回すミートリッテは、倉庫に併設された保管庫内で出荷の下準備をしている雇い主に声を掛けた。
ほどなく小走りで飛んできたのは、短くも巻き気味でピョコピョコ跳ねた赤茶色の髪に、虹彩の色も判らないほど細い目を持つ痩身の青年。
白いシャツの袖を肘の辺りまでまくり上げ、サスペンダーで吊った緩めの黒いズボンを穿いて長靴をカポカポ鳴らすその姿は、どこからどう見ても、紛うかたなき農夫だ。
ミートリッテから柄杓を受け取った彼は、味見用の白い小皿に鉄鍋の中で煮えているマーマレードを少量、移し取った。
滑らかに透き通る黄金色の液体。
程好く白さを残して薄切りにされた皮。
柑橘類特有の、爽やかで甘い香り。
見た目は文句無しの逸品だ。
しかし、一番重要なのは『味』。
甘さがすぎても足りなくても、商品価値は下がってしまう。
ピッシュは柄杓をミートリッテに返して小皿の上で小指を滑らせ、適度にとろみがついた液体を絡め取って口の中へ運ぶ。
少しの沈黙後……
「……合格! 急いで瓶に詰めるぞ!」
「は、はい!」
良かった。
手伝う時は大抵、何かしらの手直しが入るので、味見の瞬間はドキドキとヒヤヒヤが止まらないのだ。
一発合格を貰えて、ちょっとだけ肩の力が抜ける。
が、安心している場合でもない。
マーマレードは非常に固まりやすい食べ物。
冷めないうちに容器へ移さないと、それこそ売り物にならなくなる。
簡易机の上にあらかじめ並べておいた円柱型の小瓶を手に取り。
ミートリッテが一本一本丁寧に、マーマレードを流し込んでいく。
それを受け取ったピッシュが洗浄用の布で注ぎ口周りを拭い、軽くフタを閉じて別の簡易机に並べ直す。
そうして完成した約五十本の商品は、しばらく常温で冷ましてからフタを閉め切り、未開封の証となる印を貼り付けて出荷される。
マーマレードは、そのままでは売り物にならない傷物や奇形などの果実を利用した副産物だが、商品としては果実そのものよりも扱いやすく、顧客の評判も上々と聞く。
稀にはこれを買う目的で村を訪れる客もいるのだから、ありがたい話だ。
瓶詰め作業が終わったら、すぐさま鉄鍋と柄杓を洗って乾かし。
空いた簡易机と一緒に、ミートリッテが倉庫へと片付けていく。
その間に、ピッシュが小瓶達を保管庫内へ移動させ、午後に控えた出荷と在庫の再確認をして、管理室に戻った。
「終わりましたー!」
「お疲れさん。ほい、これ。オマケな」
本日、すべての作業を終え。
終業の挨拶で管理室を訪れたミートリッテに、ピッシュが商品である筈のマーマレードを一瓶手渡した。
閉めたフタに印を付けたそれは、ミートリッテが担当した分ではない。
ピッシュが自ら朝一番に作った物だろうと気付き、慌てる。
「え……も、貰っちゃって良いんですか!?」
こんなことは初めてだ。
夢幻でも見ているかのような、疑惑と困惑と期待混じりの目線が、小瓶と陽に焼けたピッシュの顔の間を往き来する。
「良いの良いの。薄給で働いてくれてるお礼だ。たまには、な」
「うわぁあ、ありがとうございます! 嬉しいぃ。ジャムとかお菓子とか、なかなか手が出せないから……ハウィスもすっごく喜びますよ!」
小窓から射し込む陽光に掲げた小瓶の中身は、キラキラと輝いていて。
まるで黄金色の宝石だ。シトリンや琥珀を隣に並べても見劣りしない筈。
宝物を手に入れた子供のように、無邪気な笑顔を見せるミートリッテ。
ピッシュも、満更でもない様子で肩を持ち上げた。
「おう。姐さんにも、よろしく言っといてくれ」
「はい! じゃあ、今日はこれで上がらせていただきます。また明日!」
「ああ。明日な」
ひらひらと手を振る雇い主に頭を下げ。
貴重なマーマレードを大事に大事に抱えて、管理室を後にする。
明日のトーストは、贅沢な今日よりもっとずぅっと贅沢だ。
楽しみすぎて、待ち遠しすぎて、顔が勝手にニヤニヤしてしまう。
この後のことがなければ、もっと幸せな気分でいられたに違いない。
「ぐぬぅうう~。私の満点な幸せを返しやがれ、海賊めぇえ~っ!」
果樹園の敷地を一歩出たら、途端に気が重くなった。
義賊としてじゃない盗みなんて、投げ出せるものなら即刻投げ出したい。
重石を付けたロープで縛って海の底へ沈め、一切を忘れてしまいたい。
だが、海賊の依頼を無視して家へ帰るわけにはいかない。
怪盗の正体が暴かれるだけならまだ良……いや、良くはないが。
その時はその時で、周囲の人達を一方的に利用したんだとか言い張れば、裁かれるのはミートリッテ一人で済むかも知れない。
実際、ミートリッテの悪行は誰にも話してないんだし。
本当に何も知らない人達が裁かれる正当な理由なんかない筈だ。
しかし。
海賊の狙いは、ミートリッテ本人よりも、ミートリッテの周りの人達への直接的な危害にある。今も、どこかから村を見張っているのだろう。
下手な動きをしたら、ハウィスがどんな目に遭わされるか。
考えたくもない。
頭の中には『嫌』の一文字しかなくても。
一番安全で確実な手段は、やはり依頼の完遂だ。
仕方ない、仕方ないと唱えながら、住宅区へ続く坂道をてくてく下る。
いつもなら心地好い潮風が、妙にじめっとして重く、気持ち悪く感じた。
果樹園を降りてすぐの菜園を抜け。
海の方角へ、村の輪郭を辿るようにもう一度長い坂道を上ると、その先に真っ白な外壁が特徴的なアリア信仰の教会が建っている。
海に突き出した三日月の先端だけあって、吹く風は勢いがあって強く。
それなりに高い場所なので、微妙に息苦しい。
防風林のつもりか、敷地内のそこかしこに伸びる太い木々はよくしなり、たまに飛ばされてくる葉っぱが顔や体にぶつかって、地味に痛い。
神を信じてないミートリッテは、外門まで近寄るのも今日が初めてだが。
もしや昨日まで教会に人が集まらなかった理由って、信徒云々ではなく、この葉っぱ攻撃じゃないだろうか。
ごぉおおおおおーと耳を撃つ低い風の音は、敷地内へ忍び込む際に気配を消してくれそうだが。
こんな環境で一人寂しく暮らしていた前任の神父が物凄く哀れに思えた。
とにかく、現場を直に見なければ始まらないと、白銀色のアーチを潜り、建物の正面入口まで足を進める。
両開きの大きな扉は閉まっているが、単純に風避けが目的なのだろう。
鍵は掛かってない。
「お邪魔しまー……」
扉の片方をそぉ~っと開いて、中を覗き……唖然とした。
色彩豊かに光り輝くステンドグラスを背負った、二階建て家屋に匹敵する高さの女神像。
入口から祭壇まで一直線に伸びる赤い絨毯を敷いた広い通路。
その両脇に高い天井を左右対象で支える計六本の太い石柱と、五人並んで座れる木で出来た白塗りの長椅子が計十脚。
左右の壁一面に活き活きと描かれた神代の生物が、限られた空間を奥深く演出している。
大きい。
外観よりも、屋内のほうが広く高く感じる。
騙し絵とか錯視とか、そういった類いの視覚効果だろうか?
建築家と画師が織り成す、見事な業の結晶だ。
しかし、内装より装飾品より真っ先に目に付いた、あれはなんだ?
「神父様、私の迷いを聴いてくださいますか?」
「神父様。これ、今朝ウチの畑で採れた野菜なんですけど、もしよかったら食べてみてください!」
「神父様、神父様」
礼拝堂の中央。
ひときわ背が高い……容姿ははっきり見えないが、神父? らしき人影にわらわらと群がる女、女、女、女、女。
どこから出て来た女衆。
いったい何十人居るのか、普段村中を歩き回ってても、こんなにたくさん集まってる場面など絶対に見かけない。
礼拝堂の床という床を女だけで占領しているのでは、と目を疑いたくなる光景に、かつてなく激しい戦慄が走った。
「うああ……こりゃ確かに近寄りたくないわ。ちょっとでも変なコトしたらフルボッコにされそう」
怖い。
女の人、めちゃくちゃ怖い。
著名な芸人とかが居るならともかく、神父を相手に何故こうなる。
衆人環視?
違う。
これは囚人監視だ。
囚人とは無論、女衆のきゃわきゃわ攻撃を一身に受けている神父を指す。
ほぼ無人の教会をたった一日でこんなにも賑やかにしてしまった神父は、よほど顔が良いのか、高濃度のフェロモンでも振り撒いているのか。
どちらにせよ……と、目蓋を伏せて扉を閉めようとしたら。
突然、視界が広くなった。
「どうなさいました?」
「……!」
誰かに扉を開かれた。
反射で声の元を見上げ、言葉を失う。
彫刻だ。
金色の長い絹糸と、琥珀に近い金色の宝石二つを埋め込んだ、動く彫刻。
透明感漂う白い肌。
高めにスッと通った鼻梁。
柔和な微笑みを浮かべながらも芯の強さを滲ませる凛々しい顔立ちには、人間らしい隙がまったく感じられない。
全身を覆う真っ白な衣が、余計に現実味を遠ざけている。
この彫刻……もとい、人が、新しい神父だろうか。
なるほど、美形が大好きな女衆が騒ぐのも当然だ。
しかし、いつの間に接近していたのか。
いやいや、それより。
「女の、神父?」
背は高い。見上げる首が痛みそうだ。
が、全体の線の細さや声質は、女性に近い、気がする。
「……よく間違われますが、生物学の視点では男性に分類されていますね」
ふんわり微笑む相手に対して『嘘だっ!』と声を荒げる勇気は、さすがのミートリッテにも無い。
人外生物に化かされた気分になりつつも、姿勢を正して頭を下げる。
「失礼しました、神父様。突然の非礼をお赦しください」
「いいえ、慣れていますから。どうぞ、アリア様の御前へお進みください。外は風が強くて大変でしょう?」
細長くて綺麗な白い手が、甲を下にして礼拝堂の奥を示す。
その向こうで、鋭く光る嫉妬の眼差し達。
怖い。
怖すぎる。
「……ありがとうございます」
帰りたい。
本当に今すぐ帰りたい。
そして、二度と教会には来たくない。
だが、ここで逃げ出してはいけない。
ハウィスの安全を考えれば、優しかった村の人達による狂気染みた視線の集中砲火など、大したことではない。
ひたすら怖いだけだ。
意を決して踏み入れば、背後で静かに扉を閉められた。
断頭台へ上る絶望感とはこんなものだろうか。
色彩豊かな礼拝堂内のすべてが、白黒の濃淡に切り替わった気がする。
気のせいだけど。
「アリア様に祈りを捧げても良いでしょうか?」
「もちろんです。女神アリアは、いつでも貴女の心をお導きくださいます」
「では、御前に伺います」
「ごゆるりと」
あっさり離れてくれた神父に安堵し、女衆を避けて祭壇へ向かう。
再びきゃわきゃわと囲い込まれてしまった神父には申し訳ないが。
足止めされてくれるなら絶好の機会だ。
それとなく内部調査をさせてもらおう。
壁の凹凸や、柱同士の距離。
正面扉以外の出入り口の有無や、祭壇までの歩数。
女神像周辺の構造や、置かれている花の種類。
礼拝堂内のありとあらゆる物がシャムロックにとって有益な情報になる。
ステンドグラスの色彩配置まで、事細かに脳へ刻み付け。
最後に女神像を確認した。
赤子を抱える姿勢で、右腕に百合の束を抱く女神アリア。
左手は浮き気味で、花弁の先に人差し指が軽く触れている。
逆光で分かりにくいが、袖から覗く手首に細い物が絡まって見えた。
(……あれかな。距離を考えると、相当長い鎖を使ってるわね。重さも頭に入れとかなきゃ、脱出する時に足を引っ張られそう)
祭壇の手前で両手を組み、祈るふりで周りを窺いながら様々な実行手段と侵入逃走経路を思索する。
だが、情報はまだ足りない。
怪盗は夜に動く。
ここには夜の暗闇が足りてない。
今はまだ、下見の下見段階だ。
(念の為、崖の高さと教会の裏側も確かめとかなきゃ)
頭の中で予定と計画を編み出したミートリッテは。
背後の集団から、彼女の背中をじっと見つめる何者かが居ることに。
まったく気付いていなかった。
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