王道を走れば:幻想にて
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第五章、その3の1:影走る
夜の山道に清涼な蟲のさえずりと、合点がいった老人のような梟の声が響く。風もない静かな夜。月光も星光も仄暗い。青々とかつ鬱蒼と茂った草木によってすべての音が隠されているかのようだ。遠くの農家に見える獣避けの篝火くらいしか頼りになる明かりがなく、それとて小粒程度の大きさであった。
帝国領北ベイル州。『紅牙大陸』の西方に君臨する神聖マイン帝国の北部を治める州である。険しい山岳地帯や針葉樹林帯をカバーし、長年帝国の未知なる希望が詰まった土地だといわれてきた。その実態は官吏のいう事とは真逆だ。州の北半分は未だに未開発で、南部および西部の一部地域のみに人口が寄り集まり産業を展開している。北に行けば行くほど、『白の峰』から振り下ろされる冷気の影響を受けやすく、居住地を選ばぬ獣以外は寄り集まらないのであった。
闇夜を縫って影が走った。梟が驚いて声を潜め、ドーナツのような丸い瞳が影の正体を見抜いた。それは人影であったのだ。北ベイル州の最北端の村からも遠いこの場所で見かけるくらいだ。碌でもない性質の人間なのだろうといわんばかりに、梟は影を凝視し、後ろ姿が闇に消えたのを見計らってまた声を出し始めた。
人影は狼もかくやといわんばかりの速さで、木々の陰を選ぶように進んでいく。不意にその足が遅くなり、影は慎重に歩み始めた。『ガタガタ』と、奥の山道に広まっていた静けさが破られたのだ。それは木箱が揺れるような音に似ていた。
影がゆらりと足を進めていくと、何もない夜に明瞭な人声が響く。「次だ、次!」。何かを煽り立てているようであった。更に近付いくと馬の嘶きと、焦ったような人の声が聞こえてくる。
「うわぁっと!?お、おい、落ち着け!」
「よし、これも大丈夫と....おいそこ!馬をそんなに乱暴に引くな」
「すみません。こいつ、なんか急に怯えだして」
「そいつは元からそうだ!そういう時は鼻を撫でてやれ。とにかく落ち着かせるんだ」
草むらの闇に隠れて、複数の男達が馬車から馬車へと何かに運んでいた。そこは別の山道との合流地点である。といってもたまにハンターが使うくらいの寂しい場所でしかないのだが、今はどういう訳か、ハンターよりも人相の悪い者達が占有している。腰にぶら下がった剣が男達の雰囲気を邪悪なものとさせていた。
馬車の陰から二人の男が現れ、草葉の人影は目をじっと凝らした。松明の火が二人の顔を照らす。一人は中年太りの不健康そうな商人で、もう一人は近辺の村に居を構えている若い貴族であった。
「これで大丈夫だ。商談成立」
「いい取引だった。手に入れるのには苦労しただろう」
「いんやいや、生臭い神官にはな、ちょっとイイ女を差し出してやりゃいいんだ。それだけでうまい具合に落とせる」
「小賢しい商人め。まあいい。こいつがなければ研究もうまくいかなんだ。商品はありがたく頂くがお前を頼るのは、これっきりだ。危ない橋を渡るのは好かん」
「今は会いたくなくても、いずれ会いたくなるぜ。商人は言われたモンはなんでも持ってくる。邪悪な魔術具でもな」
「さらばだ、帝国の善良な臣民よ。末永く暮らせ」
車輪がばたばたと言いながら轍をなぞっていく。一台の馬車が山道を走り、動物たちの声をかき消していく。
取引が終わって安堵したのか、商人は懐から蓋つきの皿を取り出して、中身を指でつまんで鼻に近付けた。すんすんといわせると星を見上げて息を吐く。嗅ぎ煙草のようだ。ざわりと視界の端で草が揺れたのが見えたが、ここに来る間にも野生の鹿と出くわしている。ただの小動物だろうと商人は気に留めなかった。
一服愉しんで心を落ち着けたか、商人は荷台に乗りこんで「出立しろ」と急かす。帰ってきたのは無言であった。よく見ると、御者は力無くうなだれているように見える。
訝しげに肩を揺らしーー御者の首が落ちた。大樹の陰よりも尚暗い、黒ずくめの人影が御者の身体を乗り越えて現れる。
「ぅああっ!?な、なんだてめっーーー」
護身用のナイフを取り出さんとした商人だったが、それより早く人影は彼を荷台に押し倒した。その手に握られた赤い短刀ーーエッジが利いた残忍なもので月光のせいで既に生血を啜っているのが分かったーーを見て、商人は人生最大の膂力を働かせんと人影を押し退け、荷台から転げ落ちる。
周囲には護衛の兵が全員倒され、例外なく暗澹とした血の泉が広がっている。『どういう事だ。何が起こっている』と混乱する商人は、背中から乗っかられたために突っ伏してしまう。脂汗をかいた首に血塗れの刃が添えられた。
人影は商人に顔を近づけて、北ベイル州の民間伝承に伝わる暗鬼を思わせるようなトーンで囁いた。「動くなよ」。トーンの割には若々しさが残った声だと、商人の一抹の理性が直感する。
「今、お前は何を売った。素直に言わないと後悔するぞ」
「はっ、俺等を舐めんなよ!たかが物取りの分際で調子に乗りやがってーーー」
鉄が空気を裂いて、『ざくり』という音に続き、商人の二の句は悲鳴へと変わった。その辺の豚よりも肥えた商人の右脚の太腿が斬られている。
真新しい血を見せつけるように、人影は商人の頬を短刀で撫でた。商人は恐怖のあまり膀胱が緩むのを感じた。
「このままお前の太腿から肉という肉をすべて引きずり出す。答えろ」
「わ、分かった!言うから助けてっ、助けてッ!」
「何を売った」
「道具だよっ!あの魔術師に依頼された教会指定の秘蔵品だ!召喚魔法の新しい開発に必要とか何とかで、よく分からねぇ!兎に角入用だっていうんで、裏市場に回ってるやつを急いで確保したまでよ!」
「名前は?」「ハぁッ!?」
「道具の名前は?」
この期に及び、商人は口を噤んでしまう。問いに対する返答に迷いが生じたのだ。素直に答えるべきか、或は貴族への義理を働かせるかで。
絶叫が再び響いた。商人の右脚の太腿はすでに半分切り開かれていた。ピンク色の筋肉がひくひくと動いているのが見える程だ。鮮血がアンモニア臭の液体に混じって、地面を濡らしている。
「名前は?」
「『聖石』だよッ!!呪印が施された黒い石を五個!!それが商品だっ!」
「....よし。もうお前に用は無い」
「なら、早く解放してくれ!」
商人の背中から重みが消える。一目散に逃げんとした商人であったが、突如首を貫いた鈍い感覚に驚愕して地面にうつ伏せとなってしまった。身体を動かそうにも指先がぴくりともせず、どんどんと力を失っていくような感覚に陥っていく。
人影の足音が背後でざくざくといっているが、それすらもはっきりと聞き取れなくなってきた。喉も満足に動かせず、視界も濁ってきた。五感が消えていく。『死が迫ってくる』。商人の瞳は大きく見開かれ、涙をつつと流していた。
「マティウス、聞こえるか」
『おお。どうだった』
「少し遅れてしまったようだ。目標は手に入らず。これより追跡に移る」
『わかった。一人では心許ないだろうから、援軍を送っておいた。合流したらもう一度連絡しろ....それとな』
「なんだ」
『お前は若い頃の私より残忍だな。素晴らしい』
商人は最後の力を振絞って身体を仰向けにした。ぼやけた視界が手伝ってか、七色に光る星々が見えなくなっていた。
ふと、商人は己の人生を顧みる。物を集めるという事に喜びを覚え、少年時代には拾ってきたブナの枝の大きさを巡って友と争ったものだ。収集はだんだんと交換へと昇華し、毛皮を扱い、宝石を扱い、剣を扱い....。
男は弱弱しく咳き込んだ。血泡だらけの口から必死に言葉を練り出した。
「誰か。助けて」
大粒の涙が毀れる。ざくざくと、足音が近付いてきた。商人が最後に見たのは、カーブを描いた鉄色の光が首を閃いた所であった。
世界が暗転し、商人の視界は勢いよく二転三転して闇に落ちていく。再び空を仰いだ商人の顔は、疲れきったかのように口許を開けていた。
ーーーーーーーーー
バッ。瞼が一気に開き、窄まった瞳孔が暗い部屋を睨みつけた。
意識が覚醒して間もないというのに視界はクリアだ。上等とはいえぬ木の天井に刻まれた斑点(年季)でさえ、はっきりと見える。服に吸いこんだ汗がやけにリアルに感じられて、思わず軽い寝布団を蹴飛ばしたくなるほどだ。
「嫌な夢だな……」
ベッドから立ち上がってカーテンを開ける。まだ夜は空けていない。獣避けの松明と、星月の灯りが村を照らしている。牛の放牧くらいしか特徴の無いこのこじんまりとした村では、こんな朝早くから活動している人はほとんどいない。王都であれば気の早い商人らが朝の開店に間に合わせようと張り切る姿がよく見られた。一種のノスタルジックな感じを覚えつつ、ミルカは首元についた寝汗を拭く。
生々しい悪夢であった。暗い山道に起きた惨劇である。最後のシーンでは明らかに、必殺の一振りで人の首が刎ねられていた。コンスル=ナイトとして剣を振るう事は珍しくないが、あそこまで明確な殺意をもって誰かに対峙した事は無かった。
ーーー任務を前にあんな夢を見るとは。何か吉凶の前触れか?
もはやベッドで寝ようという気は全くない。仕方がないが、早めの朝食を取るとしよう。
水差しから一杯コップへ水を注ぎ、ミルカはナップザックから固い黒パンを出して、水に浸しながら貪った。この村の近くで買ったものだ。小麦以外にライ麦も耕しているようで、ついでとばかりに買ったのだが……。
「かったいなぁ……嗚呼、王都のパンの香りが懐かしい」
味は御世辞にもいいものとはいえなかった。水に浸して何とか旨くなる程度である。それでも食べねばエネルギーは補給されない。大事な任務を成し遂げるためには、日々の食糧に文句を言ってはならないのである。
ミルカがいる場所は王国最西端の村で、さらに其処から足を伸ばし西にある大国、神聖マイン帝国へと『忍び込む』予定となっている。レイモンド執政長官直々の命を遂行するためであった。
長官は自らの執務室で、こう始めた。
『この件は北嶺監察団が帰って来る前までに動かさんといかん。もうじき、エルフ領では『賢人会議』が行われるそうな。それを受けてからでは遅い。
お前に問う。「カーター」は知っているな?去年付けで、コンスル=ナイトの宿舎を警備を辞めた者だ』
カーターなる男は元は憲兵の使い走りであったが、他の者に比べて功績が著しい事で役人の一人に気に入られて昇格した者だ。二年ほど前からコンスル=ナイトの宿舎警備の任に就き、去年の夏を機に体調を崩し、秋の半ばには療養のために故郷へと帰っていた。
本来なら二か月には王都に帰ってくるはずであったが、一向に帰って来ず、不思議に思って使者を差し出した所、彼の家はもぬけの殻となっていたらしい。
『事件があるのではと調べを進めて居たらな、やつの交友関係に一つの妖しい噂が持ち上がった。それを探っていく内にとんでもない事が分かったのだ。あの男、ブランチャード夫人と密通しておった』
男爵夫人、淫猥なる醜態。夫の居ぬ間によその男と盛る。宮廷全体に飛び火しかねない一大問題であった。
状況をさらに悪化させたのは、事が判明した時、夫人は妊娠五か月目であった事だった。身籠ったのが監察団……すなわち男爵が王都を出た後なのは確実。すなわち彼女の胎にはカーターの子が宿っているのである。
『夫人の腹が膨れて、懐妊したのが誰の目にも明らかになった時だ。ちょうど冬の始まりの頃であったか。貴族の妻となった女性が懐妊した際には、宮廷魔術師が『儀式』を執り行う事になっている。生まれてくる子供が健康で、聡明であるように祈る簡単なものだ。
ところが夫人は、『既に個人的にやってあるため不要だ』と言いおった。不思議よな。娘を得た時などは大々的に行ったというのに』
それを持ちだして、カーターとの関係を追及すると、夫人は泣く泣く事実を認めたらしい。彼女は己を求めぬ夫に苛立ちを募らせ、その腹いせにカーターと寝台を共にし、男爵がいない隙を見計らっては事に及んでいたという。丁度妊娠が発覚した時期にカーターが王都を逃げた事で、彼女は己の罪深さを深く自覚したようだ。
執政長官は彼女に事の真実を明らかにせぬよう厳命すると、すぐさまカーターを捉えんと兵を遣わした。故郷の村が近くにあるため捕縛は容易であると思われた。
『……だが逃した。やつが一歩早かった』
不覚にも先手を取られた長官はカーターの動向を探り、つい二週間前、彼が西へ向かったのを突き止めたという。宮廷に騒乱の種を持ちだしかねない醜聞の元凶が、足跡を残していたのだ。
かくしてコンスル=ナイト随一の忠実なる騎士であるミルカに、密命が下った。
「カーターを探し、始末しろ」
自身に課せられた使命を、ミルカは黒パンの最後の一切れをもって噛みしめた。パン屑が浮かんだ水をごくりと飲み干す。水差しの水で口を軽くゆすぎ、残った水で顔を洗うと、装備を身体に身に着け始めた。
カーターが逃げたのは王国最西端の村よりさらに西。すなわち帝国だ。事前の根回しでいくらか準備が整っているとはいえ、暫く王都には帰れないのも予想できる。鎧は鋼鉄製で、近衛騎士も愛用する軽くて耐久力のあるものだ。これを隠すために熊の皮で作られた茶褐色の地味なマントを羽織る。夏場では蒸れやすいが仕方がない。目立った格好をしてはカーターに警戒される恐れがあった。
忘れてはならぬ得物ーー最も得意とする全長八十センチほどのロングソードーーを腰に差すと、他の宿泊客を起こさぬよう気を払いながら、ミルカは外へと出た。厩舎にある馬に乗ると、そのまま西へと歩み始め、村の敷地から出るのを機に一気に走る。
村に燈る赤い光から離れていく。星月の明るみは頼りにはならないが、街道の幅は大きいために迷う事は無かった。懸念があるといえば、この先で待ち合わせをする事になっている者が、無事であるかどうかであった。
ーーー獣などに襲われていないだろうな……いや、それはないか。国境警備がそんなに疎かになっている訳が無い。
丘を二つ越えた所でミルカは大きな川に対面した。北の山脈から南へと流れる、暁の光(ドーン・ライト)と呼ばれる川であった。此処を越えれば帝国である。全てにおいて、ミルカの知らぬ世界があの川の向こうに築かれているのだ。
川に掛かる橋にまで近付くと、徐々に人影が見えてきた。どうやら何事も無かったようだ。ミルカは執政長官が遣わした兵に近付く。
「用意はできていますか?」
「ええ。此方が地図です。カーターが最後に目撃された地点を示しています」
「……すぐそこに町があるのですか」
「最近できたばかりですよ。奴はそこで馬を買って、そのまま街道沿いに進んでいったようです。普通なら、国境警備兵が亡命者を捉える事になっているのですが、奴は素通りでした」
「賄賂でも贈ったのでしょう。手切れ金とばかりに、夫人から金銭を盗んでいるとも分かりませんから」
「あの、ミルカさん。こう言っては何ですが、まだ王国に忠義を捧げる御積りで?」
ミルカは思わず兵を見る。まだ年若く……といっても二十歳を少し過ぎた頃であろうが、立派な成人である。彼の三白眼は素直にも、常識の欠けた者を見るような冷めた目付きとなっている。王国に対する忠義の念が無いのは明らかであった。
ミルカの反論はやや強いものとなった。
「私は王国で生まれ、王国で育った。レイモンド様に育ててもらった恩義がある。私はそれを果たすだけです。もしあなたがわが身可愛さで亡命したいのなら、今の内です。私と共に川を渡りますか?」
「い、いえ。家族を残す訳にはいきませんので……では、これが残りのものです。帝国ではお気を付けて」
そう言って兵は、必要な荷物が収まったナップザックを押し付けるように渡すと、東の暗闇に向けて姿を消してしまった。
中身を確認した後ナップザックを鐙に掛けると、ミルカは嘆息を漏らした。
「国を想う者は、少ないのか」
胸に生まれる感情は悲しみ、というよりも残念という気持ちの方が強いだろう。帝国に敗北してから三十年も経つのだ。国としての権能を奪われ続け、残すは僅かな軍事権と古くから続く血筋のみ。
ーーー死にかけた国は、寝台に横になった病弱な老人と一緒か?なるほど、そう考えればそれに最期まで付き添う我々のような存在は、さも奇特に見えるだろう。
ミルカは、祖国が滅亡するという痛ましい妄想を頭から振り払い、馬の手綱をぎゅっと握りしめた。これから長旅を共にするだろう愛馬に向かって囁く。
「頼むぞ。その快足で帝国の土を踏み均してやれ」
手綱が軽く打たれ、馬は息を震わした。ゆっくりと流れる川の音に混じって、かつかつという音が鳴る。四本の蹄が石造りの橋を渡っていき、そして橋を渡ると、静かに砂利を踏みつけた。遂に異国の領土へと進んだのだ。
一人と一頭は暗闇を進んでいき、そして胸に走る緊張を消すかのように、また走り始めた。『暁の光』は緩やかに流れ、川面に星月の淡い光を映している。空は暗いままであった。
ーーーーーーーーー
男は苛立ちを隠せなかった。必要であった商品は確かに手に入れる事が出来た。しかしその質と量に、彼は鬱屈たる思いを募らせていたのだ。
「死体が三つだけか。どれも新鮮だが……くそ、やはり大男は貴重か!」
貴族の館の傍に置かれた、薄暗い蔵の中には馬車の荷台が安置され、その上には無造作に血の気の引いた人間の亡骸が横たわっていた。男のものが二つ、首を絞めつけられた痕が残っている。そして女のものも一つあるが、生前の惨劇を想像させるような生々しい傷跡が彼方此方にあった。死の直前まで酷く扱われていたのだろう。
しかし男……この館に住まう貴族にとってそれは然したる問題では無い。問題はこれらが、『生贄』としての質が良いものとはいえない事であった。彼が用いる秘術を耐えうるには心許ない身体つきであったのだ。
「こんな瘦せっぽちでは魔術を使っても何の意味が無い!もっと強力な生贄が必要だ!」
「……んで、あっしらはどうすればいいんで?」
男の背後にいた粗野な男がそういう。亡骸を用意した山賊上がりの頭の悪い男だ。四則計算すら出来ぬこの者を雇うのには勇気がいったが、力任せの汚れ仕事にはぴったりであった。
貴族は返す。
「ここに死体を放置しておけ。腐ったら使う」
「へぇ、わかりやした」
「……ん?おい、『聖石』はどうした!」
「へ?あっしは死体を運んで来いとしか言われてませんがね?」
「黙れ!それを寄越さんと碌な目に遭わんぞ!賊の風情でつけあがるな!」
男は機嫌悪そうに唸ると、懐からそれを取り出した。鈍い黒色をした五センチほどの石だ。貴族の男が闇商人との取引で勝ち得た商品、『聖石』である。これを用いれば魔術の安定性を著しく増幅させる効用がある。秘術の成功のためには是非にも使いたい一品であった。
貴族の男がそれを奪わんとすると、ひょいと引っ込められてしまい、手が空を切ってしまう。貴族は声を荒げた。
「何をするか!」
「あっしら、アレだけじゃ腹が膨れませんので、もうちょい報酬を恵んでもらえねぇかと」
「何を言うかっ!!オパールとサファイアだぞ!それで腹が膨れぬとはどんな食い矜持だ!」
「いや、ですからね。この国じゃ、死体弄りなんていけない事をしたら貴族であろうと処刑は免れませんよね?でもあんたは貴族の癖に、夜を見計らってやっている。これはどういう事でしょうかねぇ?」
「どういう事とはなんだ!知的探求は人類の性だ!」
「だぁかぁら、その心も今ここで無駄にされたら溜りませんですよね?あっしら、人殺しは慣れてる方なんですよ、貧乏貴族さん」
何とも一方的で、品性に欠けて、それでいて恐怖心を煽る言葉である。詰まる所、報酬をさらに渡さねば石を奪って殺してやる、と言っているのだ。
彼以外にも、複数の者達を貴族の男は雇っていた。どれもこれも山賊上がり、あるいは盗賊として身を窶していた者達だ。状況が許せばこんな者達など雇いはしない。それどころか近隣の町から選りすぐりの兵を使う事もできよう。だが自らの野望のためには倫理的に最悪であっても、決して口の割らぬような者でなければならないのだ。そうして集めたのがこの者達だ。今反乱を起こされては、野望が道半ばで挫折する事になってしまう。
貴族の男は歯噛みしながら告げた。
「明日には追加の報酬を用意するっ、それまで待て!」
「三倍ですぜ」
「っ……いいだろう!!用意するゆえ、待っているがいい!!」
そう叫んで男から石を奪うと、貴族は蔵を出て早足で館へと向かった。
男の館は帝国領北ベイル州にあった。大きな農場を背後にして建物は塀に囲まれ、警邏のものだろう、いくつかの光が夜の暗闇を照らしていた。
館の自室へ荒々しく入ると早速、男は酒の蓋を開けた。濃厚な林檎の香りは高級品の証明だ。近くの村で取れた最高の質をもった酒を、彼は幾つか拝借していたのだ。
「とんだ気狂いどもめ。此処からみすみす返すとでも思ったか」
カップに注いで、一気に煽る。これをさらに二度繰り返すと、男の瞳は皓皓とし始めた。明確な意思が彼の目に宿っている。
酒に汚れた口許を拭うと、邪な微笑みが浮かべられる。
「そうだ。あいつらが新しい生贄だ。幸いにも体格が良いのが三人もいる。全員殺せば、たとえ今持っている実験体がやられようと釣りがくる!我ながら冴えているではないか」
そう言いながら、男はドレッサーの中へ隠してある魔術杖を手に取った。樫製の確りとした柄に、持ち手には煌びやかな小さな宝石が埋め込まれている。これを振るえばあの『気に食わぬ』者達を、一瞬にして『気に入る』事が出来るのだ。
カップに更に酒を注いで、男は窓の外を見る。下劣な者達には味わえぬだろう酒気をもって、心を慰めんとしたのだ。しかしどういう訳であろうか、外にあった警邏の光が消えているのを見て彼の手は止まってしまった。
「なぜだ。皆どうしたのだ?」
まさか逃げ出した?それとも獣に……いや、彼等は腕が立つ。それはこれまでの仕事ぶりから明らかではないか。
そんな疑念に横槍を入れるかのように、塀の一角で不意に何かが揺れるのが見えた。じっと目を凝らすと、それは何かの人影であるのが分かる。徐々にそれは近付いてきて、館へと乗り込まんとしているのが分かった。
ーーー誰だ……?誰が私の館に!まさか賊か!
その影は館の死角へと移動し、姿が見えなくなった。どうやら正門にいるらしい。直に此処へと乗りこんでくる事だろう
だが貴族の男は余裕の笑みを崩さなかった。たとえ塀の外を警備していた者達がやられようと、館の中には正真正銘の強者達がいる。あの山賊上がりの汚らしい男も含めて、ざっと十人。忠誠を尽くして無給で働く者達もいる。いかに賊が腕利きであろうと彼等の警備が敗れるとは微塵も思えなかった。
男は、寝台の傍にある紐を三度引く。『がらんがらん』と、館中に轟くような大きな鐘の音が鳴った。野蛮な侵入者が館に立ち入った合図である。それぞれの部屋から物々しく強者達が出て、階下へと急いでいくのが聞こえた。間もなく賊を撃退するための宴が繰り広げられるだろう。
酸味たっぷりの林檎酒を贅沢に味わいながら、男はさらに酒を注がんとした。その時であった。
『まっ、待て、待て!助けてっ、たすけっーーー』
潰れた鳥のような断末魔が響いた。動揺で手元が狂って、酒が手に掛かってしまう。次々と聞こえるのは、毎日顔を合わせていた者達が放つであろう、死の叫びであった。剣を打ち合わせる音も疎らという事は、あの者達が一方的に負けているという事なのだろうか。
期待していたものとは違う展開だ。彼等が敵わぬ以上、自分も此処にいてはただでは済むまい。男は焦燥に駆られながら扉の鍵を閉めると、部屋の奥にある本棚にある厚い本を掴んで引く。本棚が俄かに手前によると、そのまま横へとずれていく。外へと繋がる螺旋階段が現れた。緊急脱出用にと作った甲斐があるというものだ。
『どんっ』と、扉が強く叩かれた。もう外にまで誰かが迫ってきている。
「く、曲者ぉっ!!」
男はそれに向かって魔道杖を振るう。杖の先から繰り出されたのは太さ七十センチほどの大きな『氷柱』だ。男は破壊魔法にも精通しているのだ。
氷柱が扉へと突き刺さり、奥にいたであろう何かを食い破ったような響きを立てた。生々しく肉が裂ける音である。男は踵を返して階段を降り、ロビーに広がる惨憺たる光景に息を呑んだ。
皆殺しの絵図であった。血塗れのロビーには彼方此方に死体があり、腹や頭など、人体の急所に深い傷跡を刻み込まれていた。侵入者は類稀な剣の使い手であろう、死体の一つは胴を真っ二つにされて半身が文字通り『引き離されていた』。何とも残酷な結果であろう。
「私が何をしたというのだ!私は善良な帝国臣民でーー嗚呼っ!父上の彫像が壊されてる!いいものだったのに!粗末な顔だが安くないんだからな!こいつらの食事代も安くなかったんだぞ!!今日は呪われているっ!!」
男は館を出て、蔵へとひた走る。こうなれば四の五の言っていられる暇はない。何とかして侵入者を迎撃せねばならない。手段を選んでいられる必要がどうしてあろうか。
蔵の中ーー道中で、先程会話をした男が首を刎ねられて横たわっているのが見えたーーは、まだ安泰であった。誰も此処には辿り着いてない様子で、死体も手付かずである。男は荷台に乗りこむと、『聖石』を取り出して握りしめる。
「蘇れ、我が下僕よ。死して尚我に忠誠を捧げるのだ」
杖の柄頭が荷台を叩く。魔力の波動が空気を伝わり、三つの死体をゆるりと取り巻いた。ただ腐る一方と思われていたその骸は、まるで糸に吊るされたかのように身体を起こし、ふらふらとしながらも地面に足を着ける。声もなく、生気もない。しかしそれは確実に男の動く下僕となっている。『聖石』の御蔭で一時に三体もの死体を操る事が出来る。まさに感謝感謝であった。
男は破壊魔法の他に、死霊術にも心得があったのだ。帝国では研究そのものが禁じられているが、王国のとある魔術学校にはこれを専門に研究している老魔術師がいるという。そいつといえども、このように死体を操る術は見付けてないだろう。この術を進化させてその魔術師に高く売りつける事を、男は一つの野望としていたのだ。それをたかが賊ごときに邪魔されるとあっては、死んでも死にきれないのである。
荷台に陣取るようにしながら男は蔵の入口を睨みつける。何時でも現れると良い、最大の魔力をもって歓迎しよう。そのように勇気を奮って構えていると、ついにその時が訪れた。
『バァンっ』。背後にある壁が弾け飛んだ。
「ずおおっ!?」
衝撃波を受けて男は荷台から転げ落ちて、頭を強く打ち付けてしまう。昏倒しかける意識であっても男は杖を手放さない。背後に向かって下僕らを向かわせた。動く死体にさぞ敵は混乱する事であろう。
男は振り向いて煙が晴れるのを待たんとする。そして其処から吹き飛ばされてきた影に押し倒され、恐怖した。自分が向かわせた下僕の一人であった。いとも容易いかのように、胸部から頭にかけて刃の爪痕が走っている。
煙から剣呑な響きが生まれた。ざしゅ、ざしゅ、ばたり。刃が何かを切裂いて、それが倒れこむ音だ。何かが倒れたかなど、地面に伸ばされた腐りかけの腕を見れば分かるというものだ。
「そんな馬鹿なっ。なんで、なんで私を襲うんだ」
男は尻餅を突きながら、後ろへ、後ろへと後ずさっていく。股座が濡れるという羞恥は気にも留まらなかった。
煙が何かが飛来した。赤く濡れた鋭い先端はを見て、それが剣であると知る頃には遅かった。剣が男の腹を捉え、深々と突き刺さった。
「ぐぅぁっ……」
急速に生まれる溶岩のような熱とじわじわと広がる痛み。杖を握る力が一気に失われるのを感じて、男は仰向けに寝転んでしまった。痛みは際限なく拡大する。まるで腹の内側から甲虫に食い破られるような感じで、涙さえ浮かんできてしまう。
こつこつと、靴を鳴らして誰かが近付いてきた。男の視界に、二人の人間が姿を現した。一人は蝋人形のような白い肌をした異様な女性である。もう一人は頬と首に黒髪黒目の若い男であった。頬と首に食い千切られたような深い傷跡があったのだが、まるで蛆が湧くかのように徐々に肉が再生している。何が起きているのか説明を求めたくなるも、痛みのために問う事はできなかった。
若い男が、貴族の手にずっと握られていた『聖石』を奪い取った。宙に翳しながらしげしげとそれを見ている。
「こいつが『聖石』か?」
「あまり粗末に扱ってはいけません、マティウス様がお怒りになられます」
「分かっています。兎も角、ここにはもう用が無い。さっさとずらかってーーー」
『ブリッジ様!どこにいらっしゃいますか!?』
遠くから微かに聞こえてきたのは、自分の名を呼ぶ誰かの声だ。貴族の男は最後の気力を絞るように口を開かんとする。しかし出てきたのは弱弱しい喘ぎだけで、声にすらならないものであった。
「騒ぎを聞きつけられたようです。『転移』の準備を」
「やっております。範囲詠唱ですね」
「ええ。ついでだからこいつも持ち帰りましょう。下種は下種なりに情報を持っていそうだ」
男が貴族の襟を掴んで、地面を引き摺っていく。破壊された蔵の壁には男らの他に、更に幾人かの者達が控えていた。誰もかれもが死人よりもなお白い肌を持ち、しかし生前の健康ぶりを彷彿とさせる見事な体格をしていた。
その者達の間へと男は引き摺られ、中央に寝かせられる。彼を引き摺っていた男も力尽きたように膝をついた。直後、魔力がまるで小さな火山が噴火するかのように膨れ上がり、そして弾けた。視界が燦々たる白光に眩んでしまい、意識が七色に明滅した。貴族は初めて体験する『転移』の膨大な魔力の流れに終始途惑い、そして恐怖のあまり意識を失ってしまった。
後日、北ベイル州に居を構える貴族『ブリッジ男爵』が何者かに襲撃されたという報せが帝国全土に広がり、暫くのあいだ、庶民等はそれを酒の肴にしたという。
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