逆さの砂時計
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純粋なお遊び
合縁奇縁のコンサート 23
vol.31 【異変】
時は経ち、プリシラと騎士達が中央教会へ帰る朝。
「……あら?」
玄関から入って右手側、一番手前に在る少し手狭な部屋の中で、プリシラの両目がこてんと傾いた。
その部屋は食用以外の各種薬剤を保管しておく為に整えられており、住民達が必要な時、必要な分だけ使えるようになっている。毎日の仕事等で怪我や虫刺されが絶えない彼らは、今日も仕事前に幾つかの虫除けと外傷用の洗浄液を持ち出していたのだが……。
「何やってんだ、クソババア。ベルヘンスの奴が外で待ってんだから、とっとと行けよ」
開け放しておいた扉の一歩外側で腕を組んで立つクァイエットが、心底面倒臭そうに悪態を吐く。顔色が悪く見えるのは、間違い無く甘さしか感じない味覚の所為だ。今の彼の味覚は、騎士達がどんなに美味しい料理を提供しても、その総てを彼が嫌いな味に強制変換してしまう。
飲食する度にげっそりと窶れていく様は、まるで悪魔にでも取り憑かれたかのようだ。
それでも、彼が孤児院から逃げ出そうとする気配は無い。
住民と仲良くしようとする気配も見せないが。
「ねぇ、クァにゃん」
「その呼び方を定着させようとすんじゃねぇ!」
「この瓶の中身、どう思う?」
「無視か、この野郎。……ったく、その痒み止めがなんだって?」
「……ほら」
イライラした様子で頭を掻きながら隣に立ったクァイエットの眼前へ、手に持っていた円筒形の小瓶を突き出すプリシラ。
太さは成人女性の手首程度、長さは上下に親指と人差し指を当てて持ち上げられる程度で、上部には回して填める型の銀色の蓋。
透明なガラスの半分ほどを満たす液体は濾過された水のように透き通っていて、左右に振ればちゃぷちゃぷと小気味好い音がする。器の中で飛び散る水滴は、液体に粘度が無い事を表していた。
「おかしいと思わない?」
「……何処が。昨日と変わってないだろ」
目の前に突き付けるな鬱陶しい、とでも言いたげに奪い取ったそれを棚に置き直すクァイエット。
「よく見て」
「しつこいな」
定位置へと戻され、安定した台の上で次第に落ち着いていく水面。上部に貼り付いていた水滴もやがて液体の中へと落ちて、空気と液体の境はやはり器の真ん中辺り。
「おかしなトコなんか無ぇよ。どう見たって昨日と同じだろ」
「そう。昨日の朝と比べて、変化が全く無いのよ。それがおかしいの」
「はぁ?」
「今、この孤児院に何十人居ると思う?」
「知るかよ。興味も無い」
「でしょうね。でも、孤児院の生活環境で痒み止めがどれだけ有用か……くらいは、クァにゃんにも分かるでしょう?」
「……ああ」
孤児院が設置される場所は、王都に限らずどの領地でも大抵は郊外。
つまり、人体に有害な植物にうっかり触ればかぶれ、虫に刺されれば炎症を起こす、自然豊かな危険地帯。
痒みに耐えかねて引っ掻いたりしようものなら、開いた傷口に入り込むのは雑菌だ。軽く膿むだけで済むならまだ良いが、場合によっては致命傷にもなり得る。
実際、現代よりも不衛生な環境に置かれていた昔の各孤児院では、そうやって命を落としたであろう子供達が数え切れないほど確認されている。
ある程度の自制心を育んだ大人達ならともかく、軽率な行動に走ってしまいがちな子供達にとって、外傷用の洗浄液と痒み止めは命綱にも等しい必須道具。
そして、毎日欠かさず使わなければいけない消費物の筈。
「昨日から全く変わってないなんて、普通ならありえない」
「昨日は偶々痒くならなかったんだろ」
「クァにゃんも痒くなかったの?」
「気にしてなかった。何処かのクソババアの所為でそれどころじゃなかったしな!」
「ふぅん……? 気にならないって事は、痒くなかったのね」
「嫌味まで無視かよ。マジでムカつく」
「私も気にならなかったの。どうしてかしら?」
「知・る・か・っ! もういいから、さっさと出てけ! オレが連中に絡まれんだろうが!」
扉を指し示して喚くクァイエットを横目に、もう一度じいっと痒み止めの瓶を見つめ……ふっと微笑む。
「じゃ、そろそろ帰りますかぁー! 薬の管理はよろしくね、クァにゃん♪」
「は? なんでオレが」
「覚えてるんでしょ? 此処に在る薬の種類と、継ぎ足し用の置き場所。たった一日の滞在で、名前も書いてない薬を正確に言い当てて元の位置に戻せるなんて、なかなか素晴らしい記憶力よ。伸ばしなさいな、その長所」
「……盗むかも知れないぞ」
「ふふ。食べ物以外を盗んでも、適切に処理できる相手がいなければ宝の持ち腐れ。分かってるからこそ、空き巣に入っても食材にしか手を付けて来なかったんでしょう? やって来た事自体は勿論責められて当然だけど、頭の回転が速い子は個人的に嫌いじゃないわ」
震える彼の肩をぽんぽんと叩きながら横を擦り抜け、部屋を出て行く次期大司教。
自信と威厳が溢れるその背中に振り返り
「…………っ、オレはお前らが大っ嫌いだ!」
顔を真っ赤にしたクァイエットが吼える。
「一生赦さないし、一生搾取してやるからな! オレを此処に入れた事、死ぬまで後悔しやがれ! バーカ!!」
施設内全体に反響しそうな叫びを背中で受け止め。
プリシラは無言のまま、ひらひらと手を振って応じた。
「……元気ですね、彼」
馬車の扉を開いて待っていた聖職者姿のベルヘンス卿が、手を重ねたプリシラにだけ聞こえる声量で言葉と笑みを零した。
プリシラも柔らかく微笑み、肩越しに施設をちらりと見る。
「これからの時代を生きる者の一人ですもの。あれくらいの負けん気が丁度良いのです」
「まだまだ不安は尽きなさそうですが」
「此処には可愛らしいお目付け役も、護る意味を学ぶ存在も、切磋琢磨できる相手も居ます。ついでに、恐ろしくて頭を上げられない指導者も。孤児院での経験はあの子を逞しく育ててくれるでしょう。数年後のあの子達に期待ね」
満足そうな顔で座席へと移動する彼女に続き、ベルヘンス卿も対面する位置に乗り込んで。
「我が国には若い人材が豊富で、頼もしい限りです」
「人は宝。損なわぬように愛でてこそ、ですわ」
「ええ……本当に、その通りだと思います」
扉を閉めてから、御者に合図を送る。
やや間を置いてカラカラとぎこちなく滑り出した馬車の窓を覗いてみれば、施設の窓や畑の隙間から両腕を大きく振って送り出す神父達やミネット達の姿。
イオーネらしき影は何処にも見当たらないが、大方適当な木の上で葉っぱに紛れて寛いでいるのだろう。その辺りが一番人目に付きにくいから。
誰にも見えないと分かっていて、それでもプリシラは小さく手を振り返した。
次に会う時も、皆が元気でいるように。
そんな願いを込めて。
「ところで、ベルヘンス卿に一つお尋ねしたいのですが、よろしいでしょうか」
「はい」
姿勢を正して向き合う彼女に、ベルヘンス卿もちょっとだけ背筋を伸ばした。
「騎士団の方々は、孤児院に居る間に一度でも痒みを感じられましたか?」
「は……」
予想外の角度から来た質問だったのか、一瞬、彼の肩がカクンと落ちる。
しかし直ぐに持ち直し、真剣な表情になって「そういえば」と呟いた。
「いいえ。そうした素振りを見せる者はおりませんでした。私も同様です」
「そうですか」
「……何故気付かれたのか、お尋きしても?」
「痒み止めの薬液が減っていなかったからですわ」
「なるほど……。孤児院行きは急遽決まった話でしたね」
「ええ」
「となると、事前に何者かが何かを仕掛けていた、という線ではなさそうですが……」
ベルヘンス卿は唇に人差し指の側面を当てて、思考を巡らせ始めた。
整備された区画ならまだしも自然界にほど近い孤児院で痒みを一切感じなかった事実に、護衛としての勘が何かを察したらしい。
「……此方のほうで影を何名か見繕いましょうか?」
孤児院への攻撃性から来る異変だとすれば、数日は警戒・監視しておくべきだろうとの判断だった。
プリシラも同意見だと頷き、彼に采配を一任する。
「お任せを」
快く承諾してくれた彼に感謝を告げつつ……けれど、再度窓の外に目を遣ったプリシラの顔には、彼ほどの緊張感は見られない。
「……長く留めるのは難しいかしらね……」
「はい?」
「……いえ、なんでもありません。それより、ベルヘンス卿は「ヘナ」という植物をご存知?」
「ヘナ、ですか? ヘナ…………ああ、同じ物かどうかは判りませんが、王都に住む知り合いがよく買い求めている植物の名前が「ヘナ」でしたよ」
「まぁ! では、私でもそのヘナを数日以内に入手できるかしら?」
「緊急のご入用でしたら、明日にでも知り合いに頼んでみますが」
「ぜひ、お願いしますわ! どうしても急ぎで試してみたい事があるのです!」
「承知しました。可能な限り速くお届けできるように手配しておきましょう」
「ありがとうございます! 個人的な話で大変申し訳ないのですが、よろしくお願いします」
「お力になれるのであれば光栄です」
「これ以上無いほどの救済ですわ! 世界を救えるかも知れないほどの!」
「……それはまた……大きな展開になりましたね」
「ええ! 私にとっては一大事ですもの!」
少々興奮気味のプリシラが何を考えているかなど知る由も無いベルヘンス卿は、首を傾げて苦笑うしかなかった。
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