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王道を走れば:幻想にて

作者:Duegion
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第四章、終幕 その2:峰を登り

 地平線の彼方から朝焼けの透明な光が大地を照らし、未だ安堵の眠りに就いたままのエルフの森に意識の覚醒を促した。早起きな者は既に起床して朝餉の準備に取り掛かっているが、しかい大多数の者はまだ床に就いたままだ。哨戒を除くエルフの兵も、兵士の治療に当たっていた調停団の面々も同様である。アリッサも目をとっくのとうに醒ましているのだが、だが寝間着を着替えようとはしなかった。力の抜けた表情で何もない天井を、ただぼんやりと見詰めては瞬きをするだけであった。
 森の一角から二頭の馬を携えて、三人の人影が現れる。馬には馬具が確りと嵌められ、長旅に備えて食料と水、万能ナイフ等の小物、鍋をはじめとする簡単な料理道具、代えの衣料、エルフから提供された治療薬等を詰めたバッグが提げられている。路銀が幾許か入っている小袋も同様であった。馬を連れる二人の男性、慧卓とリコはそれぞれ温かそうな防寒具を着込んでおり、得物である両者の剣は此処までの道中を付き添ってくれたリタが持ち運んでくれていた。
 慧卓は朝日の眩さに、瞼の内にふわふわと明滅するものを感じながら、リタを振り返った。

「すみません。ここまで荷物を持ってもらって」「いいのですよ。弟の旅立ちを見守りにきたついでですから。それにしても本当に良かったのですか。他の皆さまが寝静まっている、こんな早い時間に出発してしまっても」
「ええ。事は速さを求めています。早いうちに手を尽くしていけば、その分あとで有利になれるんです」
「とても大事な仕事なのですね。正直、心配になってきました。リコはまだまだひよっこですから、無理をして怪我を負ってしまうのでは・・・」
「ね、姉さん。そこまで大袈裟なものでもないよ・・・」「いいえ。冬の霊峰を越えるのだから、これくらい心配した方がかえって当然くらいよ。兎に角身体に気を付けてね。危険なのは寒さだけじゃないんだから」
「分かってるって。大丈夫、いざとなればケイタクさんが守ってくれるよ」「そうだな。お前よりは剣が出来るからな」

 軽く肘で小突くとリコは淡くはにかんだ。リタから剣を受け取ると二人はそれを腰に差し、紐で確りと鞘とベルトを固定すると、馬にゆっくりと乗る。慧卓が鼻息をぶるりと震わすベルを宥めていると、リコが後ろから問う。

「他には何もない?何か、言い残した事も無い?」
「僕は特にないけど」「・・・じゃあ俺から、キーラへの言伝を預かってもらえますか?」「はい。承ります」
「『あの人や君を裏切るような真似をしてしまった。申し訳ないと思っている。この罰は必ず、王都で受ける』って」
「それは一体・・・いえ、分かりました。確りと伝えておきます」
「有難うございます。じゃぁ、リコ」「はい。姉さん、行ってきます」

 意味深な事を残した後、慧卓はリコを連れて西へと続く道を進んでいった。遥か遠くに聳える山並みから流れてくる向かい風によって、馬の尾がふりふりと、二人の外套がばたばたと揺れていた。蹄が乾いた土を踏みつける音が段々と遠ざかっていき、リタは二人の無事を、とりわけ何よりも大事な弟の無事を心より祈り、胸の前で手を組む形で二人の出発を見送った。大地を歩む二つの影が、まるで日に晒されて乾かされる洗濯物のように形を変えながら、森から遠ざかっていく。影の上方には、未だ姿形を煌めかせる星々が、朝日の光に負けないでいる様子が見て取れた。
 見送りの祈りを終えたリタは踵を返して森へ入ろうとするが、木立の中に何を見たのか、くすりと笑みを浮かべて其処へ言葉を送った。

「言伝は預かるまでもなかったようね。ねぇ、キーラさん?」「・・・」

 返答が帰ってこないのがまた微笑ましい。リタが近付いて其処を覗き込むと、樹木の肌に寄り掛かっているキーラの姿があった。恐らく出発する慧卓らの姿を見て後を付けてきたのだろう、寝起き姿のままで清流のような髪も梳かされてはおらず、ハリネズミのような寝癖が出ているのが更に面白い所であった。
 リタは笑みを浮かべたまま、キーラの真意をすっと見抜いて問う。

「声を掛けた方が良かったと思いますよ。直接顔を合わせなければ、言うべき事も言えないままですからね。恋煩いの解決策というのは、そういうものです」

 キーラは心中の蟠りの正体をあっさりと看破された事にむっとしながら、しかし次のように反論した。

「・・・今は駄目です。何を言ってしまうか、自分でもわかりませんから」
「あら、そうなのですか?」「ええ。ですから今は駄目なんです。もう少し心が落ち着いたら言います」
「・・・年上からの冷や水からもしれませんけど、恋というのは、素直になった人が勝つ。そういうものなのです。帰ってきてからでいいから、自分の思いをぶつけてみなさい。そうすればきっとうまくいきますから」
「・・・先に戻りますね」

 幹より背を離したキーラは足を進めかけて、一瞬寂しげに遠ざかる慧卓の背中を見遣った後、すたすたと森の居住区へと戻っていく。

「もう。素直じゃないんだから・・・」

 自分の気持ちをぐっと抑え込む様が歳不相応に見えて、リタは微苦笑を湛えて彼女を見る。どうにも此処には不器用な者が多過ぎると頭を振った後、リタは朝餉の準備に取り掛かるため、耳を安らげるような清水を流す川辺へと向かっていった。エルフの子供らより教えられた焼き魚なるものを、今日は試してみる心算であったのだ。宮廷内では豚・牛が貴族らの主食であっただけに、魚料理に触れるのは最近では珍しい。腕によりをかけて作ってやろうとリタは心中で気概を燃やした。

 さて、慧卓ら一行の道程というのは中々にハードであると言えよう。これを彼らの行動を追っていきながら説明するとする。
 先ず二人は極力無理する事無く馬を進めて、凡そ一週間で山の麓へと到達する事が出来た。道中、野党が潜んでいるであろう鬱蒼として影の深い木立を回避していき、友好的な村を訪れ其処の宿に泊まり、無駄に危険を冒さぬよう努めた結果だ。また村中では偶然発見した馬具の損傷、これまでの幾つもの旅路で負担が積もったのだろう、を直すよう村の職人に路銀を叩き、同時に魔獣討伐隊の行動を聞き出す事に成功していた。話によると討伐隊は道に沿って進軍していき、本格的な活動時期を控えている魔獣の巣などを急襲したという。それも比較的人間に無害なリザード、背丈が1.5メートルほどの大蜥蜴らしい、の巣も襲ったそうだ。慧卓はこの話を聞いて、矢張り討伐隊の出立には裏があったのだと確信したのであった。
 麓に到着した二人は、討伐隊の進軍の痕らしい、妙に踏み鳴らされた山道を歩いていった。遠景から分かっていた事だが、白の峰と称されるこの山々は、自然の要害ともいうべき険しい場所であった。標高でいう100メートルを超えた辺りから急激に山肌の起伏、風の勢いが激しくなり、歩行のペースが著しく落ちていった。更には太陽が東に照る昼間だというのに、山がすっぽりと雪雲に覆われてしまい、白銀の結晶の雨に見舞われる事となってしまった。視界は5メートル先も明瞭とせず、道中には濃霧よりも尚煙い、冷え冷えとした雪の靄が立ち込めていた。

「冷えるな・・・これが北の霊峰か」「まだまだ入口です。ここからが本番ですよ」
「そうかもしれないけど、でもこれはいくらなんでも・・・っ!」

 慧卓はあまりに厳しい自然環境に愚痴を零したくなる。今まで歩んできた場所とはまるで別世界だ。怒鳴らねば相方に声が届かないし、目も碌に開ける事が出来ないし、露出している僅かな肌がぎちぎちと寒さに痛んでいる。筋肉が固められるような痛みである。毛深い衣服にも雪が積もり、手綱を握る指先がきりきりと痛む。口から漏れ出る吐息はすぐに風に飛ばされ、白い蒸気がすぐに顔に張り付いて凍ってしまう。左手の薬指に嵌めた指輪が、ぎちりと肌に食い込むようであった。
 時折風雪が勢いを弱め、煙が晴れる事もある。その時こそ背筋がぞっとする時だ。自分が歩いている場所が道幅1メートルも無い、岸壁に沿った坂道であると分かるからだ。雪の嵐が山間を流れているためか谷底は見えない。それが底の深さを強調するような空漠とした印象さえ受けられ、慧卓に嫌な汗を掻かせるのである。道の細さに全く動じぬベルの蹄が道端の小石を弾くと、小石は雪を蹴り付けながら岸壁を下っていき、ぽろぽろと雪片を散らしながら消えていった。

「うへっ・・・落ちたらやばいな。これは、早い所越えた方がよさそうだ」

 そういった慧卓の焦りとは裏腹に、リコは全くペースを崩さず、馬の調子に合わせて休息を取ったり、或は彼の御蔭で山の咆哮を受けていない絶好の場所を発見する事が出来た。元は動物の塒であったのだろう、吹き込む風を除けばこの厳しい環境とは反対に、人馬共に安堵出来る所であった。幸いにしてまだ高山病には罹っていない。鼻血も出てこないし、気圧で気管が締まったりもしない。ここにおいて慧卓は、干し肉の噛み応え十分な味わいを、まさに身に染みて堪能する事が出来たのであった。
 山登り開始から数日後、リコの活躍の御蔭で、調子を崩す事無く最初の山、標高で言う1000メートル級の峰の入口というべき山を踏破する事が出来た。しかし同時に山の向こう側に広がる、更に険しく連ねている山の峰を見て、慧卓は気が遠くなるような思いを抱いた。嗚呼、遥か遠くのヴォレンド遺跡や平坦温厚なる平原の、何と待ち遠しき事か。哀しさに満ちた短歌を詠いたいような思いで、慧卓はリコの先導で二つ目の山を目指していく。
 ひゅぅひゅぅと吹き抜ける風を縫いながら、慧卓は坂道を下っていく。前を進んでいたリコが慧卓に向かって怒鳴った。

「そこ気を付けて。崩れやすいですよ」
「ああ、みたいだな。・・・リコ、一つ尋ねたいんだが」「何です?」
「お前、今までどんな所を歩いてきたんだ?地図の製作を仕事としているんなら、いろんな場所に行ったりしたんだろ?」
「その話は、今日の寝床を確保してからにしましょう。どうにも雲行きが怪しくなってきました。今晩は吹雪くかもしれません」
「・・・あの雲だな?あの背の高い綿みたいな」

 白い雪空を塗り替えるような、灰を思わせる暗澹とした雲が西から流れてくる。山の天気の変わりやすさといったら凄まじいものがある。今は昔、セラムに来る前、登山部の活動で身をもって体験している慧卓は危機感を抱き、なるべく早いうちに比較的安全な場所へ向かおうと心に決めた。
 山を降りてから二時間後、矢張りというべきか雪の勢いは一気に強くなり、風がほとんど真横に吹き抜けてるのではないかと思うくらいに、慧卓らの顔を叩いてきた。最早進むどころではないと、二人は道を外れて、苦労の後に雪風から逃れられる洞穴のような場所を見付け、その穴の奥へと退避した。この雪嵐は長く続きそうである。今晩はここで一夜を明かす心算であったのだ。
 火を熾してその上に鍋を置いて、中を匙でかき混ぜる。ひゅうひゅう、ばちばちという相反する音を耳にしながらリコは話す。先程慧卓の問いに対する回答であった。

「僕が地図を作るために今まで旅してきたのは、所謂ドワーフ領。つまり、王国の南部なんです」
「南部?」
「ええ。賢人曰く、『熱砂の海』。知人曰く、『好き者は行く場所』。それが南部です。
 王都は大陸の真ん中にある分、気候がとても恵まれていて、人や作物がとてもたくさん集まる場所なんですけど、南は全く違いますね。知っていますか?最南端には砂の沼が広がっているんです」
「沼、ねぇ」

 リコが言う沼とは、一体どういうものなのか。底なし沼と同じように、砂に足を踏み入れた途端ずるずると身体が沈んでいく事なのだろうか。アリジゴクの巣を思い浮かべていると、リコは喜色が滲む笑みを湛えて続けていった。自分の体験を人に語るのがとても嬉しいのだろう。

「ドワーフが暮らす場所というのは、砂と木々の間にある、とても不思議な場所なんです。雨の清水が川から流れて、それを挟むように大きな灌漑地帯や堤防のための林が広がっています。建物は石造りのものが多くて、白の峰には及びませんけど、遠くには雄大な山々が臨めるんです。
 食べ物も変わっていますね。酸味が利いた果物が向こうでは豊富で、市井ではとても重宝されているんです。何でも、『炭の肌にならない』ためだとか。後、木々の中に住む生き物の中でも、特に鳥はとても鮮やかなものが多いんです。僕が見た中で一番珍しかったのは、尾羽は海のような水色、身体の二倍はある主翼や艶のいい体毛が宝玉のような深い碧に染まっているのに、その瞳は夜の彗星のように煌びやかな蒼に包まれているんです。生物の神秘をそのまま見たような感じがして、とても感動しましたね」
「俺はお前の素晴らしい台詞に感動するよ。将来、お前は良い詩人になれるぞ。人の生き死にを詠うのも、自然を詠うのも同じくらい難しいが、それ以上に誇り高いものだ。俺はそう思っている」
「よしてください。僕はそこまで立派な人間にはなれませんよ。せいぜい、将来のために延々と筆を動かすくらいしかできませんって」
「ははっ。謙遜するなって」

 照れくさそうに笑うとリコは鍋から丸い木の容器に、火で温めていた粥を盛った。一口大の兎の肉と千切ったパン、また道中の村で手に入れたニンニクを混ぜたものであり、身体を温めるには丁度いいものであった。

「これ、どうぞ。身体が温まります」「ああ、ありがとう・・・ん、うまいな」

 肉の臭みまでは消せてないが、しかし冷え切った身体が喜ぶのが感じられる。爪先から五臓六腑にまで染み渡る。匙を使ってずずずとそれを味わっていると、外からの風に乗って、『ぐるる』という動物の低い唸り声のようなものが聞こえてきた。それに混じって悲哀に溢れた嘶きもだ。二人は手を止めて互いを見詰める。

「・・・おい、聞いたか?」「・・・ちょっとだけでしたけど、でも聞こえました。・・・ラプトルですか?」
「かもしれないな。もしかしたら近くに居るかもしれない。少し様子を見て来るよ」「気を付けて下さい。外は凄い雪ですから」

 急ぎ剣を取って慧卓は洞窟の入り口まで駆け付け、そして大いに驚く。そこには先程、地面に一本の木を突き立てて馬の手綱を止めてあった筈なのに、馬も、そして木も無くなっているのだ。地面に大きく抉れたような痕、そして壁に掛かった血飛沫を残してだ。

「くそっ、なんだこれは・・・!」

 よくない事が起こったのは確かなようだ。外套のフードを被って顎紐をきゅっと締めると、慧卓は勇んで外へと打って出る。途端に耳も目も利かなくなるような豪風が彼を迎え、ばしばしと雪片が横顔に叩き付けられた。白銀の地面には蹄の跡が残り、点々として一つ一つが大きな血痕もあった。その後を辿るように慧卓は道を走っていく。
 体感距離で100メートルであろうか、右も左も分からぬ内に血痕を追ううちに、木立の中へと足を踏み入れている事に気付いた。そして慧卓は道端に、先までリコが乗っていた馬が腹を内臓が滅茶苦茶になるくらいに乱暴に裂かれ、頭が到底ありえない方向へ曲げられて横たわっているのを発見した。何と凄惨な死に方であろうか、人の膂力で出来るものではない。ぞっとするような思いを抱き、慧卓は更に木立の中を掻き分けて進む。愛馬がそのような憂き目に遭っているのではと心配でならなかったが、しかしその黒毛の躰が無事、木陰の合間に避難しているのを見て一気に安堵した。

「ベル、大丈夫か!?おい!!」

 ベルの方へ進もうとすると、風上の方角から重厚な唸り声が響いた。記憶の片隅が強烈な警鐘を鳴らし、彼の背筋を冬よりも冷たくさせ、心拍をばきんと震わせた。コートに覆われた肌にぞわりと鳥肌が立っていく。
 はたして振り向くと、木立の奥から大きな影が車もかくやといわんばかりに疾走してきた。四足の毛深い、いかな勇壮な武士であろうと適わぬであろう立派な体躯の動物は、常識外のスピードを保って雪の上を走り、飢餓によってぎらつく瞳を慧卓に一心に注いでいた。理性の利かぬ、野生の熊である。

「やっべっ・・・」

 今生最大の危機感を覚えて慧卓は疾風の速さで抜刀する。雪の中に光る鈍い銀光を見たのか、熊は訝しげに足を遅くして徒歩で近づいてくる。慧卓は威嚇するように、熊に向かって剣を向けてゆっくりと後退していく。これで腹の底から唸っておけば遭遇時の対策としてはばっちりなのだが、緊張のせいで喉が笑ってしまって声が思うように出そうにない。
 此方の得物を警戒しながら、しかし熊は着実に近づいてきた。人間などと比べようのない、凶暴で容赦のない黒い睨みが、慧卓に過剰な緊張を強いらせる。

(・・・おいおい、そうガン飛ばすなよ。人間の肉はまずくて食えたもんじゃねぇよ?)

 大きな蹄がのしのしと地面に足跡を残し、その独特の獣臭さが鼻を突いてきた。風雪の中、段々と露となる、全身2メートルほどの巨体に慧卓はたじろぐ。人間を相対するのとはまた別種の緊張が、手先に発汗による微熱を感じさせた。

「はぁっ・・・はぁ・・・」

 息苦しそうにしながら、慧卓は徐々に後退していく。吐かれる白い息が顔に掛かる。熊と相対した以上、向こうが諦めるまで絶対油断せず、このまま逃げなければならないだろう。そうでなければ忽ち熊の接近を許し、その爪の餌食となって雪原に赤いペイントを撒く破目となる。
 一人と一頭は付かず離れずの距離を保ちながら、徐々に木立の出口へと進んでいった。足を後退させていた慧卓は、何時の間にか頭に雪が吹き付けるのを感じて更に動揺する。だだっ広い場所で熊と攻防する度胸など持ち合わせていないのだ。その時、突然、『ざくっ』と足を踏み外しかけてしまった。

「っ!」

 倒れかけた態勢を引き戻しながら慧卓は後背を見て、慄然とする。叩き付けるような風が自由に吹き荒れる、崖の谷間がすぐ足下に存在していた。慧卓が踏みかけたのは崖の上にある雪庇(せっぴ)だ。素早く態勢を立て直してなかったら、そのまま奈落の底へと墜落する危険があったのだ。
 直後、一心不乱の熊の雄叫びが慧卓の意識を惹きつける。慧卓は全身を駆け巡る危機感から、ほとんど反射的に剣を振り抜いた。銀の刃が宙舞う結晶を裂いて、瞬く間に接近していた熊の側頭部に入り込む。しかし熊の疾走の勢いまでは止められず、毛深い巨体は腕を投げ出しながら慧卓の身体に覆い被さって押し倒す。熊の爪が左の二の腕を、掠った程度であるのに驚くくらい鋭利に引き裂いた。

「っぎぃぃっ!!」

 痛みの視界が暗転しかける。両者の身体は縺れ合いながら、雪庇を大いに崩し、積雪のなだらかな斜面をなす術なく滑落していく。滑っていく場所から白い雪煙が巻き起こり、両者を包んでいった。ずるずると頭から慧卓は斜面を転がっていくが、途中何とか熊の頭から剣を引き抜いてその腹を蹴るようにして、拘束から逃れる。しかしその時身体を半分捻転したためか、今度は横向きに身体が落下していく。腕や足が胴体に巻き込まれるような感覚で慧卓は落ちていく。剣を握る事は適わず、視界の何処かを剣がひらはらと宙を泳いでいくのが見えた。
 三十秒も落ちたであろうか、漸く斜面は平坦となっていき落下の勢いは静まっていった。反り立つような岸壁の傍において、漸く滑落は終わったのだ。慧卓は平衡感覚を完全に混乱させ身体全体にずきずきとした痛みを感じながら、面を上げる。明滅する視界を左右に振ると、それほど遠くない場所にもぞもぞと巨体の影が蠢くのを見つけた。

「くそ・・・」

 このままでは拙い。熊に死んだふりが利かないはあまりに有名過ぎる話だからだ。腕からどくどくと血を流しながら慧卓は地面を這おうとするも、身体に力が入らずすぐに突っ伏してしまう。慈悲など見せぬ降雪が身体に覆い被さり、段々と眠気を覚えてくる。まるで脳を直接締め落としにきているかのような眠気である。それに抵抗する事も適わず、慧卓は瞼を徐々に閉じていった。
 ゆっくりと黒く染まっていく意識の中、水面を揺らめく木の葉のように、不思議と存在感のある声が慧卓の耳に届いてきた。それが誰によるものか、判別がつくよりも早く、慧卓は意識を落とした。

『Para・・・to W'sia?』
『だいじ・・・まだいき・・・』


ーーーーーー


 意識を落とした慧卓は、幻影のように形を留めぬ世界を漂っていた。初めは空虚な砂漠のような場所であった。そこをふわりふわりと浮かんでいると、瞬きをした瞬間には世界は実に自然に、違和感を感じさせる事もない程、鉄色に色を変えた。まるでモノクロのような壁面。無声映画のワンカットを切り取ったような、覚束ないその場所を見ると、慧卓は何故か郷愁の念を覚えた。
 段々とそこが何処なのか分かってくる。木の床を境に段差が作られた場所は玄関口。壁面にある白く四角いスペースは照明のスイッチだ。それを過ぎて広がるのはテーブルを置いた居間である。壁際にある教科書や歴史本の類が詰められた本棚がり、ローボードにはゲームのパッケージが乗っかっている。それを見て慧卓は此処が何処かを理解し、だらしなく床に寝転ぶ私服姿の自分自身を見付ける。

『ここ・・・俺の家か?・・・あれは、俺?普通に生活してるじゃん・・・』

 その時慧卓は、なぜか部屋の片隅を見なければいけない気がした。そこには一台のベッドが置かれており、その上には可憐さ溢れるリボンが特色の、女性用のハンドバッグが置かれていた。

『おいおい。誰か連れ込んでいるのか?これ女物じゃないか。随分恵まれた生活ですねぇ』

 自らのすけこましの具合に呆れていると、身体が自然とそよそよと漂い始め、静謐の居間から離れていく。身体が向かう先には何故か色彩がはっきりとした、キッチンが存在していた。冷蔵庫の無機的な銀色やマグネットの緑色、ラップを入れる箱の橙色も、そして戸棚の白色も全て理解出来た。
 視点が上昇して、斜め上からキッチンを覗き込む格好となった。奥にある黒色のガスコンロの上にはフライパンが置かれ、火を下部から炙られており、フライパンの上にはじゅうじゅうと音を立てる油と一切れのステーキ用の肉が置かれていた。振りかかった塩胡椒の点々や肉の赤みも見る事が出来て、幻影にしてはやけにはっきりとした光景であった。

『肉・・・ああ、そういや昔は苦手だったっけ。ステーキだなんてそんな脂っこいの・・・』

 旨み溢れる湯気を出す肉が、フライ返しによってくるりと引っ繰り返され、じゅうじゅうと腹を空かせる心地の良い音を立て始めた。慧卓はフライ返しを握った手のしなやかさ、繊細さに内心でびくりとする。それは見間違いの無い女性の手であったのだ。
 視点が再び下降して、その女性の横顔が(つぶさ)に分かるくらいの場所に移動する。笑みを浮かべれば季節外れの華も咲くであろう可憐な顔立ち、淡く緩められた桃色の唇。そして首の辺りで結わかれたきめ細かな長髪に兎マークのヘアピン。これらの特徴を見て、慧卓はまたも自然と、この美しい女性が自身の恋人であると思い出したのである。

『・・・そういやそうだった。俺、彼女と付き合ってたんだっけ・・・確か、名前は・・・』

 ジューシーに蒸れる湯気を換気扇が吸っていく。程よい焼き加減となった肉を見ると、女性は一つ首肯してコンロの火を止め、くるりと慧卓の方へ視線をやった。それを受けて、まるで矢で射抜かれたように心臓の拍動が止まり、世界は急速に喪失されていく。香り立つ湯気や焦げ目の付いたステーキ、色彩鮮やかな台所や調理小物も、それが当然であるかのように違和感なく空漠の世界へと溶け込む。最後まで残った女性の瞳が慧卓の胸を捉え、まるで炎のように彼の記憶に刻み付けられた。色褪せる周囲を見遣りながら、慧卓は胸中の郷愁の念が強くなるのを感じていった。


ーーーーーー


 どこか懐かしい何かを垣間見たような、そんな奇妙な思いに囚われながら、慧卓は重たくなっていた瞼を開いていく。きらきらとした太陽の日差しが何処からか差し込んで、黒ずんだ茶褐色の天井と梁を明るくさせていた。ちらりと目を横にやると、水が入っているであろう木桶が置かれ手拭らしき布が掛けられていた。色彩鮮やかな世界に慧卓は、言葉で形容できぬような不思議な安堵感を覚えた。

「ってか・・・ここは・・・」

 慧卓は身を起して屋内を見渡す。見るからに、年代を感じさせる古さと住居の主人の優しさを思わせるような感じが混在した、木造一軒家であった。神棚のように小さな赤い祭壇が壁際に置かれ、居間の真ん中には紫のランチョンマットを乗せたテーブルがあり、それを挟んでベンチのような長い椅子がある。家の出口の近くにはどこか昭和期を彷彿とさせるような雰囲気の釜戸があるのが印象的である。他にも辺境の穏やかな民族生活を思わせるような家財道具が置かれており、慧卓を当惑させていた。
 その時、家の入戸が開けられ、白い肌と彫りの深い顔立ちの中年の男性が中に入ってきた。チベット民族を思わせるようなゆったりとして厚手そうなロープと、もこもこが付いたフードは防寒にぴったりの衣服であろう。彼は起き上がっている慧卓を見て目を開くと、外に向かって何かを叫んだ。

「Wocke'lla! Zo jamme diou ssa!」
「ああ・・・何て言ってるの?」
「ケイタク様!無事でしたか!?」

 聞き覚えのある声が耳に入ってくる。中年男性の後から入ってきたのは、優しさが全身から滲み出ているかのような黒髪の青年である。慧卓はそれを見て記憶の内に眠っていた一人のエルフの青年、つい最近跡取り競争に敗北して村から追放されたその人を思い出した。

「あ、あなたは・・・ソツ様!?」
「はは!覚えていただけるとは、感謝の極みです」

 ソツは中年男性と同じようなゆったりとした衣服を着込みながら、ソツは部屋の戸棚にごそごそと手を突っ込み、そこより代えの包帯や小さな徳利のようなものを取り出して近付いてきた。

「それよりもケイタク様。傷は痛んでおりませんか?左腕に大きな傷を負っていたようですが」
「え、ええ・・・少し痛むだけで何ともありません。それよりも、此処は?なぜあなたが此処に居るんです?それより、リコや、ベルはどうしました?」
「順を追って説明します。が、今は腕を捲って下さい。傷の様子を見なければならないので」

 言われて初めて慧卓は、自らの恰好に気が付いた。持参していた麻の下着の上に現地のものであろう羽毛を利用した厚手の上着を着込み、左腕の二の腕にぐるぐると包帯が巻かれていた。僅かに血が滲んでいるのはまだ傷口が塞がっていないためだろうか。
 ソツがそれを解くと、麻糸で縫合された痛々しい赤紫色の傷跡が露となった。傷口から浅黒い肉筋が見えているのに、慧卓は顔を引き攣らせる。しかしソツは安心させるように微笑んだ。

「此処特製のポーションです。裂傷などの傷の回復が早くなります。Dommadi wyu's akko das ejete lummo?」
「Yen,dasd qui.」

 男性が徳利の蓋を空けて、中身の透明な液体を傷口にかけていく。恐らくアルコールと同種の成分なのだろう、噎せるような酒の臭いが鼻を突き、同時に傷口にびりびりとした熱帯びた痛みが伴った。慧卓は身を捩りたくなるがソツが見ている手前、情けない真似は出来なかった。
 必死に瞼を閉じて痛みを我慢していると、液体を注ぐのが終わったらしい。

「炎症も酷くありませんし、化膿も見られません」
「そ・・・そうですか。ソツ様。その人に、有難うって伝えてもらえますか?」
「ええ。Geppel. Eqimun do suien, Danm」
「Haha. Zo buim sdoumen.」

 中年の男はからからと笑みを湛えて、徳利を持って家を出て行く。余分な液体を拭きとると、ソツは傷口に新しい包帯を手際よく巻いていく。

「我慢強い人だ、と言ってましたよ」「は、はは・・・そうですか」
「では話をしましょうか。此処は白の峰の山腹にある集落です。村より追放された私共は秋の山中を彷徨う中、此処の村人達に迎え入れられまして、以来幾つかの集落に人を分けて、この峰一帯を生活の拠点としているのです。今日まで私共は集落の家屋の修繕を行ったり、或は狩猟のために得意の弓を用いて人々の信頼を得ようとしておりました」

 包帯を巻き終えて固定すると、衣服を整えて両者は互いに向かい合う。慧卓はソツの話を静かに聴く。

「三日前の事でした。獲物に飢えた熊の遠吠えが聞こえたという報せを受けて、私は護衛の者を連れて山中に見回りに向かいました。瞼が開けていられなくなるような風雪に見舞われながら進んでいきますと、護衛の者が『血の香りがする』と言うではありませんか。それに驚いて香りの下を辿っていくと、そこには大きな熊が一頭、側頭部に裂傷を負い、転落のためか頭が陥没して横臥しているのが見えたのです。
 恐る恐る近付いて様子を見るに死んでいるのが分かり、一つ安堵を覚えますと、その傍らにある立派な樹木の蔭に真っ赤な血を滴らせる一振りの剣と、そしてケイタク様、あなたを見付けたのです」

 ソツの話を聞いて、慧卓は漸く自分が何処に居て、何故そこに着いたのかを知る事が出来た。それにしても、あの風雪の中を蠢く影は瀕死の傷を負った熊だったのだろうが、よくも崖から転落して即死しなかったものだ。無論、それは自分に対しても言える事なのだが。

「冷たい吹雪の中で衰弱したあなたを介抱するために、また偶然にも仕留められている熊を持ち帰るために我等は集落へと向かいました。その道中、一つの山道から急ぎ足で降りてくる一頭の馬と一人の青年を見受けました。それがあなたの言うリコ殿、そしてあなたの愛馬であらせられるベルです」
「ふ、二人は無事ですか?」
「はい。リコ殿は今は身体を休められておりますし、ベルはむしゃむしゃと飯を食らっておりました。とても元気な姿でしたよ」
「そうですか・・・それは良かった・・・本当に良かった」

 相方と愛馬が無事な事に、慧卓はすこぶる安堵を覚える。欲を言えば熊に屠られた馬も回収して葬りたい所だが、流石にそこまでを頼むのはおこがましいために憚られた。何にせよ、アクシデントを挟んでしまったが、自分達の旅は途中で終焉を迎えずに済んだのである。
 話すべき事も大方話したのか、ソツは話題を変えた。

「集落の祈祷師があなたと御話をしたいそうです。師は申し訳ありませんが、王国の方々が理解出来る言語には堪能ではありません。よって私が通訳させていただきたいのですが、宜しいですか?」
「勿論お会いします。ですが出来れば、もう少し休ませてもらえたらうれしいなって思うんですけど・・・」
「大丈夫ですよ。気分が優れるまでどうかここでお休みください。何かありましたら、外の者にどうぞ。・・・もう雪は止んでおりますので、いい景色も見られますよ」

 ソツはそのように残して、屋外へと出て行く。残された慧卓は小さく溜息を吐くと、寝台に仰向けとなって寝転び、額に手を当てて天井を見上げた。強い風雪の中で熊と対峙した記憶がフラッシュバックし、幻想のように天井に投影される。

(・・・無理をしちゃったな、また)

 後から考えれば何と無謀な事だったであろう。山中の熊に真正面から相対する等、命知らずにも程がある。そもそも熊とは一体いつの時期から冬眠に入るのであろうか。もしかしたらあの時敵対した熊は冬眠前の最後の餌集めのために山中をうろついていたのかもしれない。そう考えても特段不思議とは思えないのが、自然の怖さであった。
 慧卓は暫く瞼を閉じて仮眠を取っていたが、身体の血の巡りが良い事を感じるとむくりと起き上がった。少しばかり立ち眩みに襲われるが、特に歩きに支障は無い。
 外に出ると同時に、家屋を守護していたエルフの衛兵の「御機嫌はどうですか、補佐官殿?」という声が掛かって来た。

「え?・・・ああ、大丈夫です。少し歩きたくなってので、もしソツ様がいらっしゃったら、俺は近くを歩いているって言ってくれますか?」
「失礼ですが、あまりご無理をされない方が宜しいかと。顔色が優れていらっしゃらないようですから」
「だ、大丈夫ですって。俺そんなに酷いですか?」
「ええ。まだ血が足りていないと思われます。御無礼かもしれませんが、今しばらくは休まれた方が良いかと。まだ、太陽も昇っておりませんから」

 言われて慧卓は気付く。厚い雪化粧に包まれる山々は薄暗く、また底の深そうな蒼が空を支配していた。空気の冷たさや空の暗さから考えて、まだ午前の三時を過ぎたばかりであろうか。
 雄大に広がる白の峰は静まり返り、慧卓が運び込まれた集落も寝静まり、鳥一匹とて囀る事は無かった。山の緩やかな起伏に沿って立てられているこの集落では、頑丈な木造建築の家々が目立ち、その屋根には例外なく厚い外套のように雪が被っている。獣除けのために照らされる篝火の火が静かに揺れて、雪を煌めかせる事無く照らしていた。
 このような時間帯であるなら、出歩く方がかえって危険か。自重の心で慧卓は屋内へと戻り、そして昼間にはきっと外は、燦々とした日差しを浴びる海原のように煌めいているのだろうと想像して、ぽつりと呟く。「きっと、白銀の世界なんだろうな」と。

 
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