王道を走れば:幻想にて
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
幕間+アリッサ:酔いどれの悪夢 その2
「ここか・・・」
アリッサは目の前に佇む大きな館を見上げた。二階建ての威厳のある木造建築の家で、ひっそりとした路地裏に己の存在を誇示するかのように建っていた。此処に愛しき王女を描いたバッジを盗んだ、あくどい者が居るのであろうか。いや、その者が盗んだという確信は無いのだが、兎も角として問い質す事が正義だと、彼女は酔った頭で強く信じ込んでいた。
ずかずかと進んで正門を開けると、一直線の廊下があり、突き当りに大きな扉があって衛兵らしき男が守護していた。男は近付いてくるアリッサに警戒心を向けて鋭く言う。
「おい、会員証はあるか?ねぇと通さねぇぞ」
「私はぁ・・・此処にいる者に用があるぅ。通させてもらおうっ」
「おい、ちょっと待て。そりゃあんたルール違反、って痛い痛い痛いっ!!」
伸ばされた男の腕を軽くひねりながら、アリッサは大扉を力強く開け放つ。ぎしりと音を鳴らして扉が開かれ、万雷の拍手が彼女を迎えた。室外と同じくらい暗く、館の大きさからは考えられぬ程広い室内で、まるで小劇場のような舞台を前にして平坦な床に多くの椅子が置かれ、そこに紳士的な男性達が座っているのだ。
ぱちくりと目を驚かせたアリッサであったが、拍手が向かう先は彼女では無く、あくまでも舞台上であった。丁度その時、どこからともなくスポットライトのような光が壇上に点り、一人の紳士姿の男を照らしたのだ。男は剽軽な口ぶりで言う。
『レディィスあんどジェントルマァン!お待たせしました!ロプスマ一の論壇へようこそ!先ず最初に登壇していただくのは、この街の南東部に家を構えていらっしゃり、最近は夜な夜な欲求不満に苦しんでいる、皮職人のザンパーさんです!』
再び拍手が響き、司会の男がはけると共に舞台の暗幕が横に流れた。壇上の真ん中にはピンスポに当てられた、一人の男が立っていた。怪しげな笑みと男勝りな顔立ちが特徴の男だ。毛織物のシャツに革製のベストを羽織り、麻のズボンと革製のゲートルを履いている。男は上品な口調で話し出す。
「こんばんわ、皆さま。単刀直入に申しまして、私の方から皆様にお願いしたい事が御座います。昨今、王国軍の治安維持活動のためとあってか、街道やその周辺における獣らによる襲撃の報告が、二か月前に比べて随分と少なくなりました」
そのように言いながら、男は緩やかに左右にステップを刻み、徐々に衣服を脱ぎ始めた。御約束といわんばかりに観衆がくすくすと笑い始める。両手を交差するようにしてベストを脱いで蹴飛ばし、ベルトを取って縄のようにぶんぶんと回して捨て、ステップの合間に手も使わずにゲートルを脱ぎ飛ばす。観衆は御約束の展開とばかりにくすくすと笑い始めた。
「そのため、王都近郊における街道の安全性が極めて高くなり、人の行き来がとても容易なものとなりました。しかし悪影響も御座います。私を初めとした一部の職人は主とする原材料の調達を狩人や冒険者らに頼っておりまして、此度の獣の減少に伴いまして生産できる商品も前年度の88%しか生産できない事が見込まれております。市場需要に生産を追いつかせる事が適わなくなったのであります」
男は見せびらかすようにシャツの襟元の紐を一本一本解いていき、その度に胸を反らせて引き締まった筋肉を強調する。シャツを脱いだ男の両乳首には、洗濯用と思われるハサミがつけられており、更にそこには腰まで届くような長い紐が結んである。男が乳首を抓むように手を回して、円を描くように身体を動かすと、紐もぐるりと円を描き始め、観衆はこぞって笑い声を上げた。男は更にズボンを脱ごうとしながら至極冷静に、真摯に話を続ける。
「私共の質の良い衣服などを皆様に提供できなくなるのはとても悲しい事であります。この状況を打開するためには、私共は新たな原材料調達手段を確保せねばならないのです。だからこそお願いがございます。どうかギルドに所属しておらぬ私共、皮革職人に援助の手を差し伸べてはいただけないでしょうか。健全な契約関係を構築して、私は皆様と手を取ってゆきたいのです。生産態勢が立ち直った後には、成約金として売り上げの5%を、商人ギルドへと寄付させていただく所存であります。これにて私の発表を終えさせていただきます」
ズボンが脱ぎ捨てられると観衆は手を叩いて爆笑した。男の純白の下着はもっこりと盛り上がり、その股間部には乳首と同様に洗濯ばさみが飾られ紐が結んであったのだ。身体を大きく回すと計三本の紐がぐるりと旋回して、男の無駄に逞しい裸体の前に円を描く。一部の観衆は気付いたであろう、股間部の紐の先端には、一枚の綺麗なバッジが結ばれている事に。それはほとんどへべれけに近くなっているアリッサであっても捉える事が出来たようで、彼女は大きく目を見開いていた。
男が一物を際立たせるよう大きく腰を突き上げた。乳首の紐が鞭のようにしなって男の肩甲骨を、股間の紐についたバッジは男の胸部を叩いた。それがフィナーレを意味するのか、暗幕が徐々に閉まっていき、観客は万雷の拍手を彼に送った。どこまでも理路整然とした彼の論調に、大衆は心を大きく打たれたようであった。
袖から司会の男が再び現れた。
『素晴らしい発表でしたね。皆様、拍手の方、有難うございます、有難うございます・・・しつけぇぞ、いい加減にしろ。・・・はい、どうも。では次の方を御紹介しましょう。東の小さな港町から一旗揚げて此方へと移住し、一躍一財産を獲得された皆様ご存知の刀鍛冶!東区にお住いのーーー』
だんっ、と大扉が閉まる音が、男の台詞を中断させた。人々の目が一斉に扉を閉めたアリッサを見詰めた。司会の男は動じる事も無く言う。
『お嬢様、如何なさいましたか!何かご質問がありましたら、喜んで承りましょう!』
「先程登壇された男と話がある!大事な用なんだ、すぐに話したい!」
『ああ!個人的な御話ですか!ではどうぞ此方へ来て下さい!舞台の上手の方から、登壇者用の控室へと繋がっております!そちらでゆっくりと、御話下さいませ!』
「寛大な処置に、感謝する!」
彼女は堂々とした姿で会場を縦断し、司会のにやけた笑みを受けながら舞台の上手の方へと上がる。暗幕の後ろにあった階段を下っていくと、背後からまた拍手が響き渡り、論壇の再開を知らせてきた。
細長い通路を進んでいくと、『控室』という看板を打ち付けた扉が目に入る。アリッサは勇んでその扉を開けて、中へと入る。正面奥の壁に燭台が掛かって火を燈しているだけで、その部屋には誰もいなかった。暗いせいで見えないだけなのではと思ったが、どこを見渡しても誰もいない。
「・・・どういう事だ。誰もいないぞ」
「誰も居なくて当然だ。馬鹿な女め」
背後から声が響き、扉がぎぃっと鳴って閉まった。振り向くと先程の司会の男がにやけながら立っており、また大柄な男を二人引き連れていた。どうにも友好的な雰囲気ではない。
「お前が会員証や紹介状も無しに入って来たのは衛兵の報告を受けて把握済みだ。さぁ、きりきり吐いてもらおうか。お前は一体何の目的でこの館に立ち入ったのだ」
「・・・うっぷ。何の話だ」
「あくまでとぼけるか!下手な芝居など通用せんぞ!お前は我等商人ギルドの裏の舞台、『路地の論壇』へと入ったのだ!何の疚しい思いもなしに此処に入るなど、考えられん!一体何が目的だ!ギルドの弱みを握って、一体何をする気なのだ!」
「馬鹿な!私はそんな、おえっ、大それた事など考えておらん!私はただ、あの男に用があって、うえ・・・」
「おのれっ、どこまでもふざける女め!お前等、やってやれ!」
大柄な男達がゆっくりと迫ってくる。アリッサは地の利が自分に無い事を悟ると徐々に足を後退させていき、いきなり瞳を大きく開いて口元を両手で抑え、俄かに前のめりとなる。暗がりと二つの肉体が壁となっているせいで彼女の変化がよく見えぬ司会の男は、強気な態度で言ってのける。
「ふん、観念しろ。こいつらは元は山賊として腕を鳴らした強者だ!貴様のような軟弱な女だと、剣の錆びにしてくれーーー」
「おえええっっっっ!!!」
『うおおおっ!?』
男共が全員驚愕する。秀麗な美人が身体を丸めて、いけないものを吐いてしまっているのだ。暗闇と肉壁のせいで肝心のそれが直視できないのがせめてもの幸いであった。そういえば傍を通った時、独特の酒臭さが鼻に突いたなと、司会の男は思い返した。
アリッサがゆらりと頭を上げた。涎らしきものが顎についてきらきらと光っている。それがまるで歯茎から伸びる鋭い牙のような光にも見えて、元山賊は一瞬たじろぐ。アリッサは身体の筋肉を強張らせると、一瞬で爆発するかのように前へ駆け出した。
「おぉぉおおっ!!」
「うあっ、くっさっ!?」
臭気にやられながら一人の男が拳を繰り出す。アリッサはそれを巧みに避けてあっさりと接近する。
そこからが彼女の独壇場であった。男らが今まで見た事もないような動きで、拳や蹴りなどを繰り出して翻弄してきたのだ。ある時は千鳥足となりながら怪鳥のように爪を立てて襲ってきて、またある時は尻を突きだして腹部を打ってくる。グリーブ越しのためやけに痛い。男らが今まで相対した事の無い、有り得ぬほどに予測の付かぬ動きだが、しかし一手一手が恐ろしい程に完成されており、美しく炸裂する。時折自分が泥酔状態である事を知らせるように喉をひくつかせ、泥のような息を漏らす。しかし眼光の鋭さはまさに武の神髄を極めた武士の如きものであった。知る人驚嘆の内に彼女が扱う武術をこう呼ぶであろう。『酔拳』と。
虎の如き猛烈な拳が男のそれと正面からぶつかり合い、男は圧倒されて後退する。片方の男はまるで大壺を回すかのように頭を腕で揺さぶられ目を回し、アリッサは横に回転しながら頭突きを繰り出し、男を床に叩き伏せた。アリッサはゴキブリのように這いながら男の上に覆い被さる。頭上に艶治な笑みを浮かべる美女が現れ、男の闘志がぐらりとする。しかし美女は口にうっぷと息を膨らませ、切羽詰まったように脂汗を掻いた。
「や、やめろ!ゲロをかけーーー」
「うぉろろろ・・・!」
「いやああああっ!!!」
「止めろぉぉっ、兄者を穢すなああっ!!」
拳から血を流す男が女を羽交い絞めにして引き離す。倒れていた男はきらきらとしたものを顔面に受けて、衝撃の余り意識を失っているようだ。暴れるアリッサの肘が男の頬を小突くも、羽交い絞めは全く崩れなかった。
それならばと、アリッサは酩酊状態が為し得る事か、自分の股座へと腕をやり、その下に手を潜らせて男の恥部を鷲掴みにする。
「はぅ!?」
男は諸に意識をそこに向けてしまい、そして続けざまに股座より走った激烈な衝撃に、目を白黒させた。アリッサの手が男のそれを全力で、握り潰したのだ。
「ほぉ・・・ほぉぉぉっ・・・」
声にもならぬ痛みを抱えて男は悶絶し、涙と共に、恥部を抑えながら床に倒れた。アリッサはゆらりゆらりとしながら、部屋の扉に背を預ける司会の男へと近づく。男はあからさまな恐怖を現していた。
「ひぃっ・・・く、来るな・・・来るなぁっ!」
「うえっ・・・どこだああ・・・バッジぃぃ・・・・」
幽鬼の如き暗澹とした顔つきが迫り、男はぎゅっと目を閉じた。荒々しい手が男を掴むと部屋の隅へと投げ飛ばす。これより始まる暴虐の嵐に男は戦々恐々としていたが、一向に追撃の手は来ず、瞼をちらりと開ける。アリッサは男に何の興味も示さず、部屋を出て行ってしまっていた
一瞬茫然とした様子をしたが、男はすぐに意気を取り直し、開け放たれた扉へと近づく。
「馬鹿め!!俺を見逃すとは、なんと愚かな選択ーーー」
部屋を出ようとした瞬間、鉄拳が飛んできて男の鼻っ面を直撃し、彼を失神させた。不良品の玩具を見るような眼つきで男を見下ろしたアリッサは、ついと目を逸らして廊下を駆けていく。散々に暴れ吐くものを吐いたためか頭が妙にすっきりとしており、自分が追い掛けるべき目標を漸く見定めたようであった。
廊下を進むと倉庫らしき所があり、どうやらそこから通用口へと繋がっているようだ。
「はぁっ・・・はぁっ・・・何処だ!一体何処に行った、あの男は・・・おのれぇ・・・」
控室から此処に至るまでに幾つか部屋があったが、どの部屋にも人影や人の気配は見当たらなかった。つまり、あの変態的な盗人は、この通用口を通って外へ出て行ったという事。
アリッサは息を切らしながら進もうとするが、酔いがぐらりと頭を揺さぶり、少し足が縺れてしまう。その際に水の入った樽に手を掛けるが、バランスを崩した樽が倒れかかり、それに釣られるようにアリッサも地面に倒れた。ばしゃあっと水が床に毀れ、髪がはらはらと解れて水に浸かった。
「くそぉ・・・ひっぐ・・・うぅ・・・」
情けない嗚咽を漏らしながらアリッサは立ち上がり、目元を拭いながら通用口へと進み、そこから外へと出る。どうやら館の裏門に回ったようだ。商人や富を得た冒険家らが住む、品の良い住宅が立ち並んでいる。幾つかの場所には賊除け用の篝火が焚かれており、道を明るく照らしていた。
「私は、諦めないぞ・・・」
アリッサは鎧を鳴らしながら道を駆け出す。目前に現れる道は、まるで希望の如く彼女の行く末を讃えているような感じがした。
ーーー捜索から一時間後ーーー
「どうしようっ、あれをなくしたら、私・・・!」
現実は非情であった。北東部の高級住宅地や東部の色町周辺を粗方探し回ったのだが、男はおろか、道には人っ子一人いなかった。それで北西部へと足を向けていたのだが、そこでもお探しの人物は見当たらなかった。偶に夜警や鼠が徘徊するだけなのである。変質者や賊徒すら夜道を歩いてはいなかった。
ひっきりなしに歩き、走ったためか、足にも大分疲労がたまってしまい、酔いも合わさって何時もより疲れているように感じる。一軒の宿屋の軒下に座り込むと、手の内に存在しない手応えに、嗚咽が込み上げてきた。
「うぅ・・・うぅっ・・・」
目頭が熱くなって泣き出したくなる。何と情けない事だろう。これはバッジ一枚に欲を出して兵士を脅した報いなのだろうか。そうだとしても自らの報われなさに悲哀を感じずにはいられない。今は彼女にとってそういう気分であったのだ。
「何しているんですか、アリッサさん。そんな所で」
「っ・・・け、ケイタク?」
聞き覚えのある声に、アリッサは慌てて目を拭いて其方を見遣る。宿屋の入口に驚いたような表情を見せる、慧卓が立っていた。どうやら彷徨っているうちに自分達が泊まっている宿に辿り着いたようだ。随分と長い寄り道だったような気がする。
近付いてくる彼に向かってアリッサは尋ねた。
「お前、何でここにいるんだ?コーデリア様と一緒の筈じゃ・・・」
「風に当たってたんです。今は王女様が就寝されているんですけど、それまでは礼儀所作についてのレッスンを受けていたんです。そんで俺も寝ようかなぁって思ってたんですけど、なんか目が妙に冴えてて寝付けないんですよ。それで夜風に当たろうって宿屋の入口の前に立っていたら、すぐ傍で泣き声が聞こえまして。・・・もしかして泣いていたんですか?」
「っ、そ、そんな訳ないだろう!?馬鹿じゃないのかっ!?」
「ば、馬鹿って・・・うわ、なんの臭いだこれ・・・酒か?」
慧卓は鼻をすんすんと鳴らして訝しげにアリッサを見遣る。己の嫌な部分に目を向けられたようで、アリッサは羞恥から顔を逸らす。夜風のせいで自分の頬が熱くなっている事、そして身体に酒気が帯びているのを如実に知られたのが、また恥ずかしい所であった。
「アリッサさん、随分御酒飲んだでしょう?ってか顔赤いですって。今から水を持ってきますから、中に入って下さい」
「で、でも、私にはやらなければならない事があるんだぁっ。だから動かない!」
「動かないって・・・ほら、行きますよ!」
「ふざけるなぁ!どうしても行くんだったら、お前が私の代わりに動けぇ!」
「はぁ・・・酔っ払いめ。どうすればいいんですか?」
運び出すのを諦めて、慧卓はアリッサに視線を合わせるようにしゃがみこむ。アリッサは先程までの威勢とは対照的に、言葉を濁らせながらも続けた。
「あのな、風吹村を出た後、バッジを貰っただろ?」
「ええ。パックさんが作ったやつですよね?それがどうしたんですか?」
「さっき、造営官の所から帰って来る時にな・・・無くしてしまったんだ」
「ああ・・・大変な事になっていますね。でも、バッジはそんなに大事なものなんですか?またパックさんに頼めばいいじゃないですか、新しく作ってくれって」
「駄目なんだぁ!私はパックのをほとんど奪ってしまった形だろ?それにパック、あれを作るのに結構苦労しているみたいだし、そんなにおいそれと頼めないんだ。それに、パック以外にもミシェルや、もしかしたらハボックも欲しがるがもしれないだろ?だからそいつらの横を割って入って頼むなんて出来ないんだ!
それに、貰って数日なのに無くしてしまっただなんて情けない事があってたまるか・・・。コーデリア様のバッジなんだぞ!大事じゃ無い訳がある筈・・・うぇぇっ・・・」
「あーあ・・・泣き上戸になっちゃって」
アリッサが膝に頭を埋めて、ぐすぐすと声を震わせた。何故か水気を帯びている彼女の髪を見遣りながら、慧卓は面倒臭げに頬を掻く。本当に面倒ならば放置してさっさと寝てしまえばいいのだが、体育座りで落ち込む彼女が哀れに見えて、どうにも足が動かないのである。
「・・・どこで無くしたか覚えてます?俺が探しに行きますよ」
「どこって訳じゃ無いんだ。・・・でも、心当たりな人を探していたら、そいつが途中で消えて・・・」
「じゃあそいつを探しましょう。どんな格好をしてました?」
「えっとね、黒いマントの男だ。凄く怪しい男だ」
「オーケーです。じゃぁ、探してきますから、アリッサさんは中に入って、ゆっくり休んでいて下さい。俺が代わりに頑張ってきます」
「・・・うん、休む。・・・肩貸して」
アリッサの腕を首に廻して、慧卓は宿屋の中へと彼女を連れていく。バッジの捜索をするという言質を取ったのか、途端に彼女の心に安堵が生まれて、それが眠気を触発しているようだ。階段に彼女の軍靴ががつりとぶつけそうになって、慧卓は誰も起こさぬよう気を引き締めて、千鳥足となっている女性を運んでいく。
寝室に戻ると、慧卓は燭台に火を点けて明かりを取り、アリッサが寝易いように四苦八苦しながら手足のグリーブを外し、外套を取り、鎧を外す。かなりの重量であるため腰にぎくりとしたものを感じながら、慧卓はそれを邪魔にならぬ所へ持っていく。そして一杯の水を含ませて口の中を濯がせると、部屋の隅にあった桶を持ってきてそこへ吐かせる。こんなにへべれけとなっているのだ、本当ならば臭気を落とすために水でも浴びせたい所だが、逆に危なっかしくて見てられなくなる。宿屋の人には悪いが、今日の所はこのまま寝てもらう事にしよう。
後は汗を拭いて掛布団の中に寝かせて終わりだ。慧卓はそこまでの世話をしておいて、ちらりと彼女の肢体を見て顔を赤らめる。鎧を脱がせたせいで彼女の赤らんだ肌や慎ましい女性的な起伏が見えてしまったのだ。鎧の下に着せられていた白の薄着は汗を吸っており、そのせいで肌や臍、更には色気の無い純白の下着までが透けて見えてしまう。騎士としての鍛錬を怠ってないために、腹筋が割れており、二の腕も中々に筋肉質だ。脚の方も、白磁といっても差支えないほどの美しく引き締まった脚が投げ出され、それが酒のせいで赤らむ様は、まるで深雪の内より可憐な赤い花が覗いでいるかのようだ。
慧卓は一瞬心が揺らぎかけるが、頭を振り、心頭滅却の思いで彼女の肌に伝う汗を拭いていく。手拭越しの柔らかな肌がまた蠱惑的であったが、それに何とか耐えると、そそくさと彼女に掛布団を掛けてやった。アリッサは牧場の子羊の如く穏やかな瞳をしてうつらうつらとさせながら、慧卓に視線をやった。
「けいたく・・・ありがと」
「はいはい。お休みなさい、アリッサさん」
そう言ってその場から去ろうとしたが、慧卓は欲求に耐えられず、彼女の髪を軽く撫でてやる。ひょっとすれば顔以上に大事かもしれない女性の命に触れられても、アリッサは特に抗する様子も見られず、瞼を閉じてそれを甘受していた。これも泥酔が為し得る寛容さなのだろうか。
心地よさげに息をし始める彼女を見て、安眠の邪魔をしないよう、慧卓は音を立てぬように部屋を出て行く。数分後には室内に鈴虫の羽音よりも小さな寝息が立ち始めた。長きに渡る捜索活動は、こうして慧卓に引き継がれるのであった。
ーーー翌日、朝ーーー
小鳥が囀る音でアリッサは目覚める。彼女は瞼を重たそうに擦りながら欠伸をして、ゆっくりと身体を起こす。窓から差し込む日差しの眩さに目の内をちかちかとさせた。日光の傾きから見るに、まだ一部の一般的な家庭では朝餉が終わっていないような、割と早い時間帯のようだ。
「・・・あれ。朝・・・?」
ぼぉっとしながら明るい光を浴びていたが、徐々に意識をクリアにさせていき、自分の現状に気付いていく。全く自覚の無いうちに自分の宿屋に戻っており、更には自室へと寝かせている。鎧一式は外されて部屋の隅に置かれ、今着ているのは昨日から着ている白の薄着だけだ。傍のキャビネットの上には寝汗を取るための手拭がの上に置かれており、用意して時間が浅いのか水気を帯びていた。
あまりに穏やか過ぎる環境に惚けたままであったが、気を取り直して昨日の行動を思い出そうとする。確か造営官の館から帰る途中、酒屋に立ち寄って酒を煽った事のだ。そこから先を思い出そうとしたのであるが。
「あれ・・・昨日、何をしていたんだ?」
そこから先が余りに不明瞭過ぎて、自分が何をやっていたのか端々としか思い出せないのだ。昨日、自分はどうにも奇怪な行動をしていたような気がするのだが、その部分を思い出そうとしても煙霧が掛かったように記憶がはっきりとしない。寧ろ何か、思い出してはいけないものがあるように思えてくるのだ。大事な何かを失ったような気がするのだが、アリッサは記憶を採掘する事を諦めた。
他にも何か忘れてはいないかと寝台の上でうんうんと唸っていたが、漸くそれを思い出してアリッサは瞳をぱっと開いた。何か特別な理由でバッジを紛失してしまったのだ。コーデリア王女の横顔を描いた、『セラム』にたった一枚しかないバッジを。
「っ!そうだ、バッジ!!」
アリッサは一気に覚醒して寝台から起き上がり、手早く身支度を整える。汗で湿った薄着や下着は全て脱ぎ、寝汗を手拭で拭ってから、新しい着替えを着用する。その上から鎧を着込み、脇に剣を装備しようとした時だ。ふと手拭が置かれていたキャビネットに、何かきらりと光るものが置かれているのに気付く。目を凝らしてそれを見て、アリッサは驚愕した。それは今自分が追い求めていたバッジであったのだ。急いで駆け付けてそれを手に取ってみるも、手に伝わる重みや感触も、そしてバッジの美しき女性の横顔も記憶通りのものだ。贋物ではない、本物だ。
「・・・よかった、嗚呼、よかったぁ・・・」
途端に全身の過剰な力が抜けるようであり、アリッサは安堵の内に寝台に、脱ぎ捨てられた衣服の上に寝転んだ。目前でバッジを引っ繰り返したりピンを弾いたりしてみる。バッジはまるで光の粉が弾けているかのような輝きを放っている。明らかな錯覚なのは分かっているが、今はそう思っていたい気分なのだ。これを握っているだけで嫌な記憶も体験も、全て浄化出来るような漠然とした確信が胸中にあった。
穏やかに寝台に寝転んでいたが、ふと階下で誰かの笑い声を上げているのに気付く。もしかしたら誰かが起きて、朝餉でも食べているのかもしれない。そう考えながらアリッサはバッジを大切そうに懐へ仕舞い、湧き上がってくる食用を片手に階下へ降り立った。窓辺の席で、寝起きの茶を啜る慧卓の姿があった。彼はアリッサに気付いて淡く笑みを浮かべる。
「おはよう御座います、アリッサさん」
「おはよう」
「王女様はまだ寝ていらっしゃいます。・・・今、朝食を作ってもらっているので、ちょっと待っててくださいね」
「ああ、すまない」
アリッサは向かいの席に座り、ふぅと人息を吐く。そして外から俄かに伝わってくる、盛り上がったような人々の声に疑問を抱き、それはすぐにある喜ばしい確信へと繋がった。
「もしかして、外は?」
「ええ。祭りが行われています。アリッサさんの御蔭ですよ」
「そ、そうか?私だけではなく、他の皆も頑張っただろうに・・・それにしてもよく商人達は納得したな。出費が凄いと思っていたのだが」
「ミシェルさん達曰く、脅せば何とでもなる、らしいです。まぁどっちにしろ、造営官や商人ギルドのマスターから協力するよう言われたら、動かない訳にはいかないでしょうね」
「そうか、ハボック殿も上手くいったのか・・・。ところでだ、ケイタク殿。私の寝室にこれがあったのだが」
そう言ってアリッサはバッジを見せる。覚醒していく頭が徐々に記憶の細部を思い出していった御蔭で、寝る直前、慧卓がバッジを探しに行った事を思い出したのだ。同時に自分が泥酔状態であった事も思い出したため、少しばかり羞恥心も感じていた。
慧卓はきょとんとしてバッジを見ていたが、照れたように視線を逸らす。
「駄目ですよ、大切なものなんだから管理も確りしないと。結構大変だったんですからね、探すの」
「・・・本当に感謝してもしきれないよ。ありがとう、ケイタク殿」
「そ、そうですか。それよりも御腹に何かつめたようがいいですよ。昨日の疲労が残っていたら大変ですから」
「え?昨日って・・・私、何かしたか?」
「え?・・・あ、いや、何でもないです!さ、さて、俺はちょっと用があるんで失礼しますね!んじゃ!」
そう言って慧卓は立ち上がり、ポケットに手を突っ込みながら外へと出て行った。下手な追及を避けるというよりかは、まるで気遣うかのような去り方である。
「焼きたての白パンです。バターと御一緒にどうぞ」
「・・・ありがとう」
店主が持ってきてくれた白パンの香ばしい薫りが鼻を掠めた。アリッサはそれにバターを塗して、一口齧る。ロプスマ一の宿屋の朝食は、とても品の良い味を彼女の口に齎してくれる。慧卓の去り方に疑問湧き、一体何のことだろう、昨日私は何をしたのだろうと頭を悩ましながら、彼女は朝食を召し上がる。
その後アリッサは茶を飲み干して食休みをしているうちに、自分が昨夜、口外するのも憚られるようなとんでもない酒乱ぶりを発揮したのを思い出し、自分の顔を殴りたくなるような特大の羞恥心のあまり、奇妙な呻きを漏らしながら顔を隠す羽目となってしまった。店主の白い視線が痛々しく突き刺さる、恥ずかしい朝であった。
ーーー数十分後、冒険家ギルドの受付ーーー
常日頃より賑わいを見せる街の通りは、今朝から急に始まった屋台の数々に驚き、喜ぶ人々によって埋め尽くされ、好奇心が好奇心を、噂が噂を呼んでまさに飛ぶような速さで賑わいを見せていた。取り分を何とか回収しようという屋台の商人らの宣伝を請け負った売り子が、それぞれ声を掛けて人々の背を叩き、自分らの店へ追いやろうとしている。
商店と同じように通りに面していたロプスマの冒険家ギルドでは、通りの賑わいから避難してきた野良の冒険家や傭兵らが詰めており、此処も何時も以上に混んでいる。主な話の内容は突発的な祭事についてだが、日々の生活の糧を如何にして稼ぐかという事も語り合っているようであった。そして一部の者達は、圧倒された小鹿のような眼つきで受付に立つ大男を見詰めていた。
「ハボック様から窺っております。『鉄斧のカルタス』の討伐、お疲れ様でした。どうぞ報奨金をお受け取り下さい」
「ああ、ありがとう。・・・ふむ、ではこれで祭りを楽しむとするかな」
その者とは、熊美であった。先日の山賊討伐についての報奨金が貰えると、朝方ハボックより言われたため、遠慮なくそれを貰う事にしたのである。自分の体躯と恰好、王国軍正式採用の鎧一式で用意できる最大サイズ、ゆえにこのギルドに居る者達から畏怖に近しい視線を浴びせられているが、その貫禄のある羆のような表情に全く動揺は見られなかった。戦場でその程度の些末な視線は浴びまくっていたためだろう。中には挑戦的で刺々しいものもあるというのに、この余裕ぶりは流石といった所だ。
報酬を受け取った熊美は、通りの混雑を回避するために路地を通って宿屋に向かう心算であった。祭りを愉しむのにこんな重たい鎧は不要であるだけでなく、無粋であった。地べたに座る浮浪者に銀貨を一枚投げながら悠々と歩いていると、路地の角を折れて此方に近付いてくる人影が見え、それがすぐに慧卓であると分かった。何やら重たそうに、雁字搦めに縛り上げた男を引き摺っている。
「あら、どうしたの?慧卓君」
「ああ、熊美さん。ちょっとこいつをとっ捕まえまして、裏路地を引き摺ってきたんです」
「こいつって・・・あらあら、まぁ」
熊美は呆れ苦笑しながら頭を振った。亀甲縛りにされているのは、無駄に男前な面構えをしたほぼ全裸の男だ。恍惚としたように涎を垂らしているのは一体なぜだろうか。
「変態ね」
「ええ。猥褻物陳列罪です」
「どういう経緯でこいつを引き摺っているの?」
「昨日の夜、探し物をしている最中にこいつを見付けましてね。なんかその時から既にボコされた後みたいだったんです。それで一応調べてみたら、こいつ、俺が探しているものを持っていましてね。んで、それを取るついでに衛兵に引き渡そうって思いつきまして」
「はぁ・・・あなたも意外と苦労しているのね」
「まぁ、軽い御仕事みたいなものですよ。んじゃ、ちょっと行ってきますね」
「ええ、いってらっしゃい。・・・意外と力持ちなのね、あの子」
ずずずと引き摺られていく男を見ながら、熊美は慧卓の意外な逞しさに少しばかりの感心を寄せた。
その日、衛兵所で外来者用の受付をしていた女性衛兵は、引き摺られながら来訪した変態の恥部を見て、今生最大の黄色い悲鳴を上げたらしい。
ページ上へ戻る