王道を走れば:幻想にて
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第五章、その1の2:邂逅、再び
ぽたぽたと、水が撥ねる音がする。それは天井の隙間から生えた、今にも朽ちそうな木の根っこより落ちる雫であり、薄暗い通路に木霊するものであった。何と形容すべきか分からぬ動物の饐えた死臭のようなものを感じながら、リコは厳しい表情で慧卓の到達を待っている。その息は大分落ち着いているのだが、足も重たそうに投げ出されており、それまでの道中の困難さを予想させた。
「酷い道だ・・・よく倒壊しないよな」
今にも崩れそうな壁面を見ながら思う。この遺跡の内部は惨憺たるものであった。風化と劣化の嵐に晒されて、石は朽ち、鉄は赤黒く錆びてしまっている。かつての荘厳な繁栄とは正反対の様相だ。また通路のあちこちで植物の侵食が拝見可能であり、こうして天井にも何かの根っこが張っているのだ。たまに、ちうちうと、鼠の泣き声のようなものが木霊してくる。こんな辺鄙な場所でも彼らは逞しいのだなと、リコは感心する。
いい具合となっている瓦礫に腰掛けて一休みしていると、『ごごご』と、何かを持ち上げてずらす音が聞こえた。松明を持ってそこへ近づくと、いつの間にか出来ていた床の穴から慧卓が現れて、床のタイルを持ち上げて押し退けているのが見えた。どうやら彼は地下を通って此処まで来たようだ。彼は廊下によじ登るとタイルを元に戻し、用心深く床に耳を当てた。
「・・・何してるんですか、ケイタクさん」
「・・・何って・・・さっきまで逃げてたんだよ、鼠の大群から」
「そうですか。よく逃げきれましたね」
「どうかな。なんかまだ気配がするんだよなぁ・・・」
顰められた顔を見るに床越しに物騒な響きが聞こえるらしい。灰色で寸胴の生き物が一気に群がって追いかけてくるのは、さぞ肝を冷やす体験であっただろう。
「あまり顔を近づけていると、耳を齧られますよ。それよりもこっちに来て下さい。さっき凄いものを見付けたんです。いつまでも鼠に構っている暇なんかありませんよ?」
「分かったって。何が見つかったんだ?」
リコは慧卓を連れて道を進む。赤みがかった松明の光がざらついた石壁や、破損した床にできた小さな水たまりを照らした。段々と、壁面に何かで刻まれた模様のようなものが見られてくる。それは椅子に座った人や、杖を掲げる者達、大きな鳥とひれ伏す人々などを描いているようにも見える。それを説明するかのような文字も刻まれている事から、おそらくこれは過去の政を記しているのだと推測できた。
「これが見せたいものか?別に不思議でもなんでもないぞ?」
「まさか。ただの石版なんか面白くもなんともないじゃないですか。あれが、僕が見せてたかったものです」
そういってリコは通路の最奥を指差した。松明の淡い光がそれを露わとする。
それは重厚な一枚の大扉であった。僅かな隙間からは背筋が冷えるような風が流れ込んできている。それが扉の存在を誇示しているようで、まるでこれが王の間に繋がる入口のようにも思えてしまう。
「・・・遂にか」
「ええ。遂にここまで来たんです。この奥。絶対に何かがあります。十中八九、僕たちが求めている遺跡の宝物ってやつでしょう」
「・・・なんかさ、リコ。俺よりやる気があるように見えるんだけど」
「だって、ここまで来たんですよ?古い遺跡の最深部にまで。なんかこう・・・胸がドキドキするんです。分かりますよね?まだ見ぬ新世界や、冒険が待っているような感じがして・・・なんかじっとしていられないんです」
扉を前にしたリコは落ち着きが無く、ソワソワとして弛んだような笑みを浮かべていた。普段の理性的な面立ちが消えて童心に帰っているように見える。たった数時間別れただけでこの変化は奇妙であるように感じたが、慧卓は疑問には思わなかった。
「年頃って事かな。・・・一応確認するけど、ここって正しい道だよな?」
「当り前じゃないですか。ここで行き止まりなんですよ?他の道は五分は歩かないとありません。それにさっきの石版!大事な場所じゃ無ければどうして刻むんです?間違いなく僕達は順路を辿っているんです」
「はいはい、落ち着けって。ちょっと興奮しすぎだ。飯でも食って落ち着けよ。ほら、非常食の干し肉が余ってるからさ。さっき下水道で尻に敷いちゃったけど」
「結構です。・・・ってか下水道を通って来たんですか」
「ああ。身体が鼠臭いだろ?」
「知りませんよ、そんなの」
つれない返事だなぁ、と慧卓は苦笑を漏らし、扉に手を掛ける。
「んじゃ、さっさとこれを開けようか。待っててくれたんだろ?」
「ええ。僕一人じゃ力が足りなくて」
「そっか。んじゃ、1,2でいくぞ。いいな?1・・・2の・・・」
『さんっ!!』
うんうんと唸りながら、肥えた牡牛の何倍も重たいであろう大扉を押す。ぎぃぎぃと音が鳴るだけでほとんど手応えが無く、初めは数センチ程度しか開かなかった。しかし何度か繰り返していく内に、漸く身体を通せそうな隙間が出来上がる。汗だくの身体をその内へと入れて、慧卓は息を吐いた。
「いやぁ・・・一苦労だったなぁ・・・っておい、リコ!どこへ行く?」
「分かりませんか?ケイタクさん。風です」
「うん?」
「風ですよ。奥から吹き込んでます。たぶんこれ、外に繋がっているんです・・・行かないと」
「おい、だから先走るなって!!」
返答もせずにリコは早足で奥へと突き進んでいく。その足は段々と駆け足となっており、慧卓が追いつくには僅かながらも時間が掛かってしまう。リコに追いついたのは通路の薄暗闇から、外界の光り輝く世界に飛び込んだ時であった。
思わず光に眩みながら外を見る。目の前に広がるのは生き物ただ一匹の気配も見られない広漠とした遺跡の様相と、そして遠くから迫りつつある雲海である。それら二つの景色がいっぺんに見渡せる場所といえばただ一つ、遺跡を取り囲むように作られた螺旋階段であった。慧卓達が抜けた扉は、螺旋階段の入口であったのだ。思い込みとは恐ろしいものである。一瞬とはいえ、存在感ただ一つを基準として、あれが王の間に繋がる運命の門だと考えてしまったのだから。
リコは吹き抜ける風の冷たさや、暗い場所に長く居続けたから感じるであろう光の眩さに、まったく反応をしていない。それどころか、感じていないかのように浮ついた様子を見せていた。正常な反応を見せる慧卓とは正反対だ。
「本当に外に出るんだ・・・っていう事は、この階段を登れば・・・いよいよ王の間に・・・いよいよ、僕は秘宝を手にして・・・」
「おいリコ!!」
「っ・・・なんです、いきなり肩を掴まないで下さい」
「リコ、お前一体どうした?なんでそんなに急いている?人が変わったみたいにいきなり・・・っ」
「・・・なんですか、急に黙って」
「お前・・・左目が真っ赤に充血しているぞ?」
「え?」
リコは思わずはっとして、自分の左目に触れようとし、静電気が走ったかのように指を離して顔を顰める。それは目からくる頭痛に悩む表情であったが、しかし不自然さを感じずにはいられなかった。それがまるで痛みを『思い出した』かのような反応に思えたからだ。とても常識から考えられる反応ではなかった。
足場の覚束なさにビビりながら、リコの苦悶を心配しようとした・・・その時であった。
ーーーッッッッ!!!!!
突如、大気や大地を震撼とさせる凄まじい咆哮が耳を突いた。思わず耳を覆って身体を埋めたくなるような大蛮声。錯覚によるのだろうが、遺跡の軒並みが震え、宮廷もが振動しているようにも感じられる。あたかもその蛮声を歓迎しているようにも思えた。
慧卓は目をしばしばと瞬かせて天を仰ぐ。雲行きが怪しくなってきただけで、蛮声の出所は見られない。遠くの空を探す慧卓とは対照的に、リコは遺跡の頂上を見遣り、愕然としたように目を見開いていた。目端がぴくぴくとひくついて、隠しきれぬ畏怖の瞳を『それ』に送っている。今生最大の命の警鐘が、彼の心中に鳴り響いていた。
「・・・ケイタクさん、走って。早く先に行って!」
「え!?」
「いいから早く!!」
急かされるように慧卓は螺旋階段を登らされる。不思議に思って振り返ろうとした瞬間、再び、あの大蛮声が轟いて身体を震わした。声はほとんど真上から轟いたように聞こえて慧卓は仰ぎ見ると、尾っぽが長く翼のついた蜥蜴ようなものが空に羽ばたくのが見えた。それは遺跡の陰に隠れると、悠々と旋回して一気に接近してくる。その巨体さと異様さが近付いてくるのに、慧卓は動揺し、きらりと光った何かに危機感を覚えて階段に倒れ込む。その直後、巨大な何かが遺跡に突撃し、壁や階段を大きく破壊しながら再び飛翔していった。
慧卓は破壊の惨状を見るより先に、後ろについていた筈のリコの安否が気になった。崩落した階段の先は、噴煙と瓦礫によって何も見えない。
「リコっ!!!」
呼びかけは虚しく消える。下を見ても瓦礫が落ちてゆくだけだ。無事であって欲しいものだが、それを確かめる術は今の彼には無かった。
きっとした目を空を飛翔するそれに注ぎ、そして大きく見開かれた。雲間を背にして泳ぐそれは、自分の知識と常識からは認めがたい存在なのだ。だが、そんな筈はないと頭を振ってもそれは消えたりはしない。まさしくそれは現実の光景なのだ。蛮声と共に遺跡に飛んでくる翼のついた蜥蜴。それは伝承通りの外見をした、龍であった。
「・・・ふざけんなよ。龍って何さ。伝説の話じゃなかったのか!?」
そう言いながら、慧卓は再び階段を登り始めた。急いで登りきらないと龍の攻撃に見舞われる。螺旋を一周した所で龍が再び近付いてきた。倒れこむ直前に見えた煌めき、すなわち獰猛な爪を、鳥のように立てながら。
「やっばっ!?」
ほとんど飛び込むような恰好で慧卓は倒れこむ。龍の前足が壁に突き刺さり、破片がばらばらと散乱する。凄まじい振動に揺らされながら慧卓は立ち上がった。
「そ、そんなのありかよ・・・ショーの主役とか、俺には荷が重すぎるっての!」
龍が自由を取り戻す前に、慧卓は一気に階段を上りきり、そこにあった通路の中へと駆けこんだ。すぐに龍が追い掛けてきたようだが、その足はあまりに大きく、入口を僅かに引っ掻くだけに留まった。一向に感じぬ手応えに、龍は痺れを切らしたように唸って羽ばたいていく。
一端去っていく危難に安堵しながら、慧卓はボロボロとなった通路の入口に目を向けた。例え幾分待とうとも、そこから人影が現れるとは思えなかった。
「・・・・リコ、無事だろうな?」
ともすれば・・・という一抹の不安を抱えながらも、慧卓は前に進むしかなかった。唯一の撤退路を塞がれてしまった今、眼前の道を無視するわけにはいかないのだ。
通路を進んだ先、建物のアーチの真ん中には、一台のゴンドラリフトが用意されていた。この遠大な順路の先にあるのがまさかこのようなものとは。随分な手の込みようである。狂王はかなりの酔狂な人物だったらしい。
慧卓はリフトによると、ゆっくりとレバーを倒す。滑車ががらがらと揺れてリフトが降下し始めた。久方ぶりの稼働であるのに何の支障もなくゴンドラが動くのは驚きであった。その時、『ずどん』と、頭上よりまた大きな振動が伝わってくる。龍が怒り散らして遺跡を破壊するより早くゴンドラが着いてほしいと、慧卓は心底思った。
ーーー遺跡の中心、『王の間』にてーーー
時折感じる上階からの振動と咆哮にびくりとしながらも、チェスターの歩みは止まらなかった。彼は今、感激するかのように、見事な保存状態を保つ重厚な広間を眺めている。
ここから人が消え去って何年経ったことであろう。幾百、或は幾千なのかもしれない。それほどまでの長大な時を経て尚、広間の魅力は損なわれないでいた。まるで人知では及びもつかぬ、奇跡の魔法がかかったかのように。
「壮観だな・・・素晴らしい光景だ」
「ここって・・・いったい・・・」
「アダン殿。ここは中央の間だ。嘗てヴォレンドの狂王は此処で恐怖政治を敷いたのだ。臣民を畏怖させ、思うが儘に魔力を操った。あの台座に座りながらな」
玉座であろう大きな石の座席を指差しながら、チェスターは嬉々として闊歩する。その後ろをアダンが歩いているのだが、何やら寒気を感じているようで腕を何度も摩っている。肉体逞しいドワーフにしては繊細過ぎる態度であったが、彼はその鋭敏な感覚で、何か言い知れぬ、底の深い波動のようなものを感じていた。それはこの広間全体を覆い、ひしひしと自分に振りかかっているように感じる。まるで魔物の口の中に飛び込んでいるような錯覚だ。気を張っていなければ一瞬で飲み込まれそうな感覚すら感じる。
加えてアダンは、チェスターに疑念や不安の念を覚えていた。この遺跡に来てから、いや、遺跡に近付いてからというもの、彼は人が変わったように秘宝に執心しているのだ。普段の冷静さを欠き、何かに急かされているように歩を進める。彼の手に握られた魔道杖も、此処に来るたびに何度も行使された。ほとんど直線距離を通るかのように、邪魔なものを破壊魔法で壊してきたのだ。この荒々しさを疑わずに、何としようか。
チェスターは広間一帯を見渡せる大きな玉座に触れると、仕掛けがないか探り始めた。
「台座には何か細工がされている筈だ。それをどうにかしない限りは、秘宝には辿り着けん」
「・・・な、なぁ・・・本気でやるつもりか?今なら戻れるぞ、やめようぜ」
「おいおい。ドワーフが怯えているのかね?その逞しき肉体は上っ面の矜持を守るための飾りか?墓荒らし程度で慄くような男ではないだろう?何を躊躇っている、手伝いたまえ」
「俺がやめようって言っているのはな、お前が変に見えるからだ!」
「・・・変、だと?私がおかしいと?」
ちらりと顔を向けてくる。その眼つきは薬物中毒者のように見開かれて鋭いものであり、口はひくひくと小さく痙攣している。まるで極上の晩餐を前にした獣の顔だ。常軌を逸した表情であった。彼はアダンに向けて実に朗らかな口調で言う。
「そんな、人の正気を疑うような目をしなくても大丈夫だ。道中で見ていなかったのかね?私の魔術が行使されるのを。一度たりとも狙いを筈無かったのは、私が正気だからだ。分かるか?私は正気だから、正気なのだ」
「い、いや、今のお前は明らかに変だ。何かに取りつかれたような、そんな気さえする。さっきまではそうではなかった。この遺跡に入ってからだ、チェスター、お前の様子がおかしくなったのは!」
「ははっ、成程。秘宝を前に茶化そうとしているな、アダン殿?さては貴殿も宝が欲しいという訳か!心配せずとも私が必要としている秘宝は唯一つ、義眼だけだ。他は何もいらん。そうだ、友誼の証に君には錫杖を与えよう。そして今は亡きビーラ殿が蘇った暁には、彼のために首飾りを探すとしよう・・・うん、友誼とはすばらしい言葉だ・・・」
ますますもって疑念が深まる一方であった。もはやアダンの理性から考えれば、チェスターは狂気に染まっているとしか思えない。王国を変えるという理念に燃えていたあの青年の姿は、ここには存在していなかった。
「お、お前・・・どうしちまったんだ?理想はどうした!?王国を救いたいんだろ!?そのためにここに来たんじゃないのか!?」
「理想・・・か。確かにそのようなことを考えていたな、昔の私は。だがあれは浅慮であった!私はそんな他愛のない事よりも、もっと崇高で、強烈な意思を感じたのだ。己の魂の本質さえ覆してしまうような、神の御意志を!」
「は・・・?」
「私はなぁっ、アダン殿っ!!」
チェスターは台座の肘掛けに隠された小さな突起を見付けると、まるで最初から知っていたかのように『くい』と引っ張る。すると台座の背後に大きなレバーが地面から伸び上がり、チェスターは確りとそれを掴む。
「狂王にもう一度、御目に掛かりたいのだ!!」
叫びながらチェスターは、レバーをぐいと引き倒す。それを拍子として、床の下から歯車同士が複雑に噛みあい、閂が解かれるような音が連続して響いてくる。その連続は、段々と台座の後背にある壁の方へと伸びていき、壁に接触したと思った瞬間、全ての鍵が外されたかのように一際大きな音が響く。
固唾を飲んで見守っていると、あろうことか、壁が二つに分かれて開放されていく。壁全体が一枚の隠し扉となっていたのだ。開かれるにつれて壁の向こう側から、積年の怨念が篭ったような邪悪な薄紫の靄がドライアイスのように地面に広がっていった。この先にあるのは人が触れてはならない狂逸の代物である、世に解き放っていいものではないと、アダンは本能的に悟った。同時にそれは今のチェスターが本心から待ち望んでいるものだとも理解できた。
はたして壁の向こうに安置されているものを見付けると、チェスターは狂喜のあまり声を裏返した。
「はっ、はははっ、ハハハハハッ!!見たまエッ!!あれが『義眼』だっ!!」
一つの大きな棺の上に、もやもやとした魔術の光に包まれて、義眼と錫杖が浮かんでいた。義眼は白目の部分は暴力的な紫に染まり、黒目の部分には魔法陣特有の複雑な模様が刻まれている。かつての狂乱ぶりを彷彿とさせるような異様な物々しさが、いたく心を惹きつけるような気がしてならなかった。その傍に浮かぶ錫杖は一見すると、鉄でできた輪形の遊環が幾つもついた、ただの一本の杖である。しかし周りを囲う光が杖を中心として発している事を見るに、迂闊な評価をしていいようには思えない。あれも、義眼も、恐ろしく危険なものだと理解出来た。
アダンの警戒心とは反対に、チェスターは嬉々として魔術の光に近付くと、しげしげとそれを見詰めている。初めて見るものに好奇心が抑えられないというより、ちゃんと魔術が機能しているか確かめているようにも見える。まるでチェスター本人とは考えられぬ程の確信のある行為であった。
「ふっ、ふふ・・・魔術で結界が張ってあるな。非常に強固だ。修業時代に教会の宝物殿で見た、龍の鱗よりも硬い。だが分かるぞ。今の私なら、この結界の解き方を知っている!!こんな杖は不要だ!!必要なのはこいつだ!!」
チェスターは後ろにひょいと自分の杖を捨てると、光の中にぐいと腕を突っ込む。途端に、落雷のようなばちばちとした閃光が生じ始め、オーブのような結界が顕となる。圧倒的な魔術の力がアダンにも感じられた。閃光から走る稲のようなものが、床や壁に走っては玩具のように壊していく。人体に当たれば致命傷は免れない威力であり、いかに膂力自慢のアダンといっても、暴風のような魔力を前にしては顔を庇う事しか出来なかった。
結界の中へと突っ込まれたチェスターの腕にも、何度も光が突き刺さり、衣服ごとバーナーのように焦がしていく。指先は爪と肉がごっちゃになるまで溶けており、腕は骨が見える程に爛れている。絶叫してもいい程の痛みを感じているであろうに、チェスターはまるでその素振りを見せず、狂的な笑みを浮かべたままだ。そして彼の骸骨のような手は、結界の中心を浮遊していた義眼を、がしりと掴み取った。待ちきれぬような厭らしい笑みを浮かべると、チェスターは前髪を掻き上げながら結界へと顔を近づけ、それに義眼を近づけようとする。
何をやるのかはっきりと悟ったアダンは、荒れ狂う魔術の余波を受けながら呼びかけた。
「や、やめろっ、チェスターっ!!お前、自分が何をしようとしているのか分かっているのか!?」
「ああっ、分かっているさ!!これが正しい解き方なんだ!!私はぁっ・・・!!
義眼とチェスターとの距離が、徐々に縮まっていく。結界の猛威に身体を焼かれながらも腕は止まらず、遂に義眼が結界を潜り、チェスターの左目に触れた。
「私はやるぞ、アダン殿!!!」
「待て、チェスター!!」
静止に耳にを貸さず、チェスターはぐいと義眼を自分の目玉に押し付けた。白目が押されるように変形して、次の瞬間には義眼の圧力によって眼孔の中で爆ぜた。水晶が混濁した血みどろの歓迎を受けて、義眼はチェスターの身体に収まった。
それがすべての始まりであるかのように、結界が一段と強く、まるで爆炎を吹くかのように弾け飛んだ。天地が逆さまになる閃光に意識を呑まれながら、アダンは両出を広げて仁王立ちするチェスターを見て、身体を焼く鋭い熱を感じた。
ーーー遺跡の上階、ゴンドラにてーーー
慧卓は薄暗い吹き抜けの階層を、ゴンドラと共に降っていた。がらがらと滑車の鳴る音に耳を傾けながらリコを心配していた、まさにその時である。突然、下層の方で強烈な爆発音が轟いたかと思えば遺跡全体を揺るがし、ゴンドラが急停止したのだ。
「なっ、なんだってんだ・・・一体?」
返答の代わりに、上層の方で嫌な音が聞こえた。それは『きぃ』という、聞き違えでなければ滑車が緩むような音であった。心なしかゴンドラも僅かに傾いている気がする。
ーーーえ?え、え?ちょ、おまっ・・・。
引き攣った息を漏らした直後、遂に、そして呆気なく、ゴンドラを繋ぎとめていたであろう滑車が崩れゴンドラは自然落下していく。尻が竦むような奇妙な浮遊感と、風景が一瞬で過ぎ去っていく爽快感は、『現代』の絶叫マシンに通ずるものがあった。しかし命綱が無いという一点が精嚢をひゅんと縮めさせる思いを沸かせる。慧卓はゴンドラに尻もちをついたまま、ただ為すがままに落下の感覚を味わっていた。
幾秒か経った時、眼前の光景が明るいものとなり、視界に光が差しこんだ。目をぎゅっと細めて何があるのか見ようとしたが、それより早くゴンドラが床に激突した。慧卓は背負っていたナップザックを潰しながらゴンドラの床にぶつかり、跳ねるように前に転げ出された。ゴンドラの上に滑車が降りてきて、ばらばらに壊れてしまった。
「いぃっつ・・・うそ・・・俺まだ生きてる・・・」
自身でも信じられぬ幸運に驚かされながら、慧卓は身体を走る痛みに耐えつつ起き上がる。一体何が起こったのか、辺りが爆炎に飲まれたように噴煙を被り、石壁にはっきりとした焦げ目がついていた。広間の奥の方では黒煙が立ち込めている事から、爆発が起こったのは間違いがないようだ。噎せるような匂いと共に、慧卓は心臓に刺すような直感を感じる。咄嗟にガントレット越しに左手の指輪を触れたのは、何も無意識によるものだけではなかった。何か恐ろしいものが黒煙の向こう側に待ち受けているような気がするのである。
いつになく緊張を覚え、慧卓は深く息を整えてから抜剣し、油断なく煙の方へと歩んでいく。しかし数歩したところでその歩は急に止まった。足下に大きな人影が見えたのだ。調べるとそれは体格のいいドワーフで、全身に火傷のような赤黒い斑点を作っているのが分かった。
「・・・こいつは・・・」
「久しぶりだな。若き騎士殿」
懐かしき声に警戒心が一気に湧く。煙が不自然なまでに一気に晴れ渡って声の主が現れた。跡形もなく吹き飛んだ台座の上に佇むのは、荘厳な黒い錫杖を握り、災禍の直後のようだくすんだ衣服を纏う、チェスターであった。左の頬にはまるで血涙の痕のようなものが走り、それが熱によって乾かされて獰猛な戦化粧のようにも見えなくは無かった。
地形の破壊ぶりを見るに、おそらく彼が立っている場所こそが爆心地なのだろう。にも関わらずあの悠々たる様は一体どういう訳か。
「・・・チェスター・・・何をやったんだ?」
「おや、私の名前を知っていたとは。自分から名乗った覚えはないのだがな?」
「・・・こっちでは有名だよ。碌でもない教会嫌いの御尋ね者としてね」
「そうか・・・では改めて名乗るとしようか。私の名はチェスター・ザ・ソード。王国のあるべき姿を取り戻さんと理想を燃やしていたが・・・そんな事はもうどうでもいい。今の私は狂王の忠実な僕だ」
「遂に頭がイかれたか?狂王はとっくのとうに死んでる。っていうか狂王って、何百年前にいたかどうかも分からない、ただの御伽噺だろう?」
「それがなぁ、実際に存在していたのだよ。この宝具がその証明だ」
彼はそう言って誇らしげに自分の左目を指差した。よくよく見ると、そこに嵌っていたのは親より授かりし唯一無二の瞳では無く、異形の紫の瞳であった。
「お前・・・その目は・・・」
「ああッ!義眼だよ!狂王お墨付きの逸品さ!『セラム』有数のアーティファクトといってもいいだろう!君達もこれを求めていたようだが、一足遅かったな。これはもう私の手中にある。そしてこれこそが、私の新しい理念であり、新しい『主君』だ」
「・・・お前、本当にイかれたのか?頭とか打ったんじゃないだろうな?」
「いやいや、私は正常だ。なぜなら私は正常だからだ。ンっんー、マーベラスな気分だよ。・・・それにしても、私は想像以上に魔術の才能を持て余していたようだな。この眼の御蔭で世界が新しく見えるよ・・・。今まで感じれなかった、透明な血潮のようなものも感じる」
狂言染みた口振りをしながら、チェスターは不意に慧卓を見下ろすとにやりと嗤った。
「嗚呼・・・君、何かの契約を結んでいるのだね?魔術による契約を」
「ッ!?」
「くっく、狼狽えるな。その程度の魔力の繋がりなどすぐに見破れる。弱者と弱者の繋がりなどな。・・・いや、それにしては存外大きな流れだ。ただの契約にしては魔力が強すぎる。それになんだ?魔術の流れに何か大きな、光のようなものが絡んでいる・・・。これは、なぜだ、何か近しいものを感じるのだが・・・どうにも思い出せない。何か大事なものが欠けている気が・・・」
「・・・ぶつぶつと分からない事を呟きやがって。キチガイめ。そんなんだからお前は、仲間を何とも思わずに傷つけられるんだ。さっき爆発か何かが起きた時、あいつを安全な所に避難させてなかっただろう?」
「ん?ああ、アダン殿か。彼は最後まで立派に役に立ってくれたよ?道中、私が駆除しきれなかった無法者や獣は、彼が率先して狩ってくれた。雇われのドワーフにしては随分と義理深いやつだった。だが、もう用済みだ。勝手に処分してくれたまえ」
慧卓は信じられぬ思いを抱く。ここまで連れ添った仲間をよくも簡単に捨てられるものだ。人としての良心が微塵たりとも感じられない。それに狂王の秘宝を手にした今、放置しておくのは余りに危険過ぎる。
凛として剣の切っ先を向けながら、慧卓は宣告した。
「チェスター・ザ・ソード。お前の思想は危険すぎる。生かせばいつか王国に仇をなす。今ここで、騎士の誇りにかけてお前を成敗する。それが俺の為すべき事だ」
「・・・餓鬼風情がよく言えたものだ。魔術のいろはも知らんくせに。・・・よかろう!この力を試すには持って来いの機会だ。騎士道の精神に則ってやろう。フェアプレイが大好きだからな。・・・そういえば、あいつは魔道杖が使えたな・・・?」
ーーー魔道杖は魔力の無い者には反応を示さない。ならばあいつには・・・。
聖鐘の時の慧卓を思い出すと、チェスターは床に転がっていた、嘗ての所有物を蹴り付ける。それはからからと転がり、慧卓から数歩の所で止まった。チェスターが使用していた魔道杖であった。
「私のお古をくれてやる。君になら、きっと使える代物だからな」
「・・・舐めるなよ?俺はこんなものがなくても、コイツでお前を倒せる」
「遠慮するな。私が使えと言っているのだ、使いたまえ。でなければ・・・あそこに立っている君の仲間を殺すぞ?」
「ッッ!!」
咄嗟に背後を振り返る。広間の正しい入口であろう大門から、リコが広間へと入らんとしていた。身体中に傷が目立つがそれらは奇跡的にも軽傷に留まっているようで、安堵を覚えたい所だ。だが今はそれどころではない。
慧卓が目前の杖に向かって走るのと同時に、チェスターが大振りに錫杖を振り被った。遊環に支えられるように紅の光が宿る。
「きっひ、丸焼きぃ!!」
奇声と共に杖を振るった。馬車ほどもありそうな特大の火球が生まれ、猛スピードでリコへと迫らんとする。しかしそれは直下からの別の火球を受けて変形し、爆炎を上げて立ち消えとなってしまった。
チェスターは喜ばしげに干渉の正体、魔道杖を構えた慧卓を見詰めた。
「やはり使えたな?思った通りだ。君には、魔法の素地と才能がある!」
「・・・リコっ!!そこのデカイ人を安全な所へ運べ!ここはすぐに危険になる!!」
「で、でも、ケイタクさん!僕だって・・・」
「いいから行けっ!俺を信じろっ!!」
リコは不満げに言葉を呑み込むと広間を走ってアダンに近寄り、肩を担いで後退していく。その間、慧卓はチェスターを睨み続け、チェスターはニタニタとした笑みを崩さなかった。その気になればアダンごとリコを始末するのも容易な事であろうに、それを態と逃がしたのは彼のプライドを窺わせた。今の自分なら卑怯な手を使わずとも勝てると言いたいのだろうか。
体重に四苦八苦しながらも、リコはどうにかアダンを広間から連れ出す事に成功し、大門を押さえつけるように閉ざした。煤と、もやもやとした魔術の残滓が広間に立ち込める中、慧卓は二つの得物を構え直した。理論などは知らないが、手中の魔道杖から芯を温めるようなエネルギーが流れ込んでくるのを感じる。慧卓は確信をもって『魔力』の流れだと感じる事ができた。眼に見えないだけで虚空にある筈の『契約の器』が、そうであると彼に確信を持たせたのだ。
新しい力によって、勇気が湧き起るようだ。これならば何も怖くない。
「舞台は整ったな?じゃぁ、始めようか」
「・・・最初に言っておこう、騎士殿。今の私は・・・」
チェスターは錫杖を優雅に振る。彼の頭上に、まるでアーチを描くように幾つもの火球が生まれた。その一つ一つが先程繰り出された火球と同サイズのものであり、圧倒的な覇気を放っている。今の慧卓ならば分かる。あれには尋常でない魔力が込められている。それこそ凡人が一生を費やして練り上げるような精錬された魔力が、火球一個一個に凝縮されている。それらを一瞬で生成して、しかも中空に安定させるのは至難の技に違いないのに。
「大魔術士と同格だ」
その自信たっぷりな台詞には、魔法の素人としても、冷汗を掻かざるを得なかった。途轍もない嫌な予感が胸を打つ中、チェスターが再び杖を振るう。途端に火球が順序よく飛び出していき、慧卓に向かって迫っていった。
ヴォレンド遺跡において、魔術の光が交錯し始めた瞬間であった。
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