王道を走れば:幻想にて
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第五章、その1の1:ヴォレンド遺跡
ーーーマイン王国宮廷、王女の部屋にてーーー
かりかりといわせながら、羽根ペンが羊皮紙をなぞって黒く典雅な文字を作られ、それらは窓からの明るく日差しを受けてゆっくりと乾いていく。川を流れる枝によって出来る軌跡のように流麗な綴りはこう記されていた。『コーデリア=マイン第三王女』と。
コーデリアは羽根ペンを置くと、身体の凝りを解すようにうんと伸びをする。集中して書類を裁可してしまったため、遅めの昼食を取る事になりそうである。午前中、侍従長のクィニより『あまり集中しすぎるな』と言われた直後にこれである。集中しないに越したことは無いのだが、如何せん多忙の身となって来た昨今では、このような事は控えなければならない。昼食を取った後は市内の視察をせねばならないのだから、自分の管理くらいは確りしないと。
窓の外には、冬らしい透き通った空気が流れていた。少し前に雪が降っていたため、石造りの家々の屋根は白く染まり、街路は雪かきによってできた白雪の粉が散見していた。内壁の内側を歩く者達は、みな毛皮のコートを羽織って寒さを凌いでいるようで、露天商もやり難そうに手を摩っている。一方で宮廷では、宮廷魔術師が『暖房』の魔術を使っているため、適切な温度にまで室温が上がっていてとても過ごしやすい。しかしコーデリアとしては、市井の人間、とりわけ寒さに身を震わす外壁内の者達と同じ水準の生活をした方が良いのではという思いを抱かずにはいられなかった。高貴な身分だけが微温湯に胡坐を掻くのは、どうにもおかしい気がするからだ。
トントンと、部屋の戸が鳴らされる。コーデリアは振り返って言う。
「どうぞ」「失礼します、コーデリア様」
一人の美しい少年が入ってくる。コンスル=ナイトのミルカだ。最近では剣の腕が良くなってきているという話も聞いている。一度時間が出来たら軽く手合せをしてみたいとも、コーデリアは考えていた。
「ミルカ、お変わりはありませんか」
「はい。殿下の御蔭で、宮廷の空気も温かくなりました。今が真冬だという事を忘れそうです」
「私は何もしていませんよ、本当に。ただ毎日、王女の責務を全うすべく、自分の政務に勤しむだけです」
「いえ、殿下。殿下が積極的に政に取り組んでいただいた御蔭で、他の者は一層奮起しております。自分ばかり怠けてはいられないと漸く悟ったのでしょう。その御蔭で件の憲兵団監視組織の設立のための草案が、先程、議会を通過しました。施行は前倒しとなりまして、再来月となります」
「随分と早いですね。まだ春にもなっていないのに」
「機関への参加を希望する民草が、予想よりも早く集まっていて、ブルーム郷が見事な判断で、早い段階からその者達の研修に取り組んでおられたのです。そのため、研修の終了時期も前倒しとなりまして」
「成程。巡り巡って、良い方向へと転がっていったと」「まさしく」
コーデリアにとっては嬉しき話題であった。これによって王国の悪しき所が改善されると確信していたからだ。残りが組織の設立だけならば、後はブルーム郷が上手くやってくれる。そう彼女は信じていた。
「それで?」
「・・・それで、とは?」
「執政長官の遣いたるあなたが、ただ一本の法案が成立すると報せるためだけに、私の下に来た訳では無いでしょう?本題はなんです」
「・・・此方を見ていただきたいのです」
ミルカはそう言って、コーデリアに一冊の古い本を差し出した。受け取ったそれの題名を見て、コーデリアは苦笑を漏らさずにはいられない。それは彼女が幼少期に怯えながら読破した、一冊の本だったからだ。
「・・・また随分と古いものを持ってきましたね。『北方の狂王』とは」
「殿下も知らない筈はありません。教養のある者ならば誰もが知っている。とある王が敷いた恐怖政治の過程とその末路を描いた物語を」
「ですが学説曰く、『現実にはあり得ない創作性が散見するため、事実的根拠に乏しい』。『歴史的資料と見るには問題がある』と窺っております」
「ええ。一般の歴史学者ならそう言うでしょう。何せ、三つの秘宝なるもので幾万もの臣民を支配するなど、現実味がまるでありませんからね。本当にその秘宝が存在しない限りには」
「・・・あると、言いたいのですか。その秘宝が」
「栞が挟まれてあるページをご覧ください」
ミルカの言葉に従って、本の半分を過ぎた所を開く。そこは幼き頃、コーデリアが本の中で最も恐れた部分の一つである、禁断の道具が記されていた頁であった。その禍々しく得体の知れない魔術の効用と、それに操られる人々の奇行に恐怖して、夜な夜な悪夢を見ては早朝に冷たい思いを感じていたものだ。その度に泣きかけてしまい、アリッサやクィニの手を煩わせるのが何よりも恥ずかしく、姉君によく抱き付いたものであった。あの時の呆れたような、しかし柔らかな慈愛の笑みが今となっては懐かしく思える。
「・・・あの、王女様?」
ーーーいけない。感傷に浸っていては。
目前に立つミルカの訝しげな視線に取り繕うような微苦笑を返しながら、コーデリアは改めて頁を見て、眉を顰める。そこに書かれている首飾りの形状に強烈な既視感を感じたのだ。幼少の頃でもなく、最後の王女になった時にでもなく、慧卓と出会った後である今でこそ感じる違和感だ。
「苦労しましたよ。文章だけなら兎も角として、挿絵がついているものが必要だなんて。おかげで王立図書館の禁書の書架を探す羽目となりました。見つけるのに三日も掛かりましたよ」
「・・・」
「私が何を言いたいのか、察していただけると有難いです。恐縮だとは思いますが」
文面から目を離して面を上げると、ミルカの真剣な眼差しを受ける事となった。コーデリアは本を机に置くと椅子から立ち上がり、宝飾品などを仕舞っているドレッサーへと向かい、一番下の大きな引き出しを開けた。上品な樫の箱を取り出すと中身をミルカに見せる。それは旅立ちの日に慧卓より頂いた、美しい紫の宝玉の首飾りであった。
「これが、秘宝だと言うのですか?」
「少なくともレイモンド様はそう疑っております。それがもしかしたら、『狂王の首飾り』ではないかと」
「・・・いつそう疑ったのです?」
「三日前の宴から帰る途中、あなたが姉君・・・下の方の姉君の墓前で、それを身に着けているのを見たらしく」
「ふふ。あのレイモンドとあろう者が、たかが伝承を真に受けているのですか?常識を疑わざるを得ませんね」
「レイモンド様の名誉にかけて申しますがっ、これはあの方が考え付いたものではありません!全て、マティウス様が申されていた事であって、あの方は仕方なくそれを聞き入れているだけです!」
「・・・本当にそうなのですか?」
ミルカは言い澱み、悔しげに閉口した。彼とて自分の主が考えている事、すべてを把握している訳では無いという訳なのだろう。若き従士の懊悩に手を貸してやりたい所だが、それは兎も角として、一つ彼の主張より分かる事があるとすれば・・・。
「・・・執政長官がこれを所望していると言いたいのですね」
「はい。それがあれば、憂いは無くなると」
「憂い、ですか。執政長官の憂いがこの首飾り一つを渡すだけで解決するならば、喜んで手を貸したい所です。ですが渡せません。これは私の大切な方より頂いた物です。私の誇りを掛けて、これは私が所持いたします」
「・・・だと思ってました。いいですよ、無理に取ろうとまでは考えていませんし、そう命令を受けた訳でもありませんから」
コーデリアは虚を突かれたように一瞬ぼぉっとし、疑問符を頭に掲げた。もう少し首飾りについて追求されたりすると思っていたのだが。
「・・・やけにあっさりと引くのですね」
「だってそれ、コーデリア様が渡す訳無いじゃないですか。想い人からの大切な贈り物を」
「ま、まぁそうですけど」
「ちょっと気に入らない人ですけど、まっ、あの人が嫌いってわけじゃありませんからね。進んで恋の御邪魔虫になろうとは思っていません。僕たち部外者は」
「そうなのですか・・・」
どこか腑に落ちない感じがする。あの冷徹な御人がどうして憂いを放置するような真似をするのか。何か魔が差したという訳でもあるまいに。とかく、人間の心の機微というものは時折分からなくなる事がある。今少し精進が必要だとコーデリアは思った。
また、慧卓が自分が思っていたよりも他の人達と仲良くしている事に安堵する。コンスル=ナイトは異界の人間という得体の知れぬ不穏分子を毛嫌いしているという風潮が、耳に入った事があるからだ。だがミルカの言動を聞くにそれについて心配する必要はないらしい。危惧を覚えていた一件が、穏便に消化される事の何と心安らかなことか。
「あいつが戻ってきたら真っ直ぐにアプローチしてみたらどうですか?あの人、あれで結構馬鹿ですから、あっさりとあなたに傾くかもしれませんよ。それはもう、心の天秤がガタっと傾くくらいに」
「そこまであっさりといってしまったら、それはそれでどうかと思いますが・・・でも素直になるのは良い事かもしれません。助言をありがとう、ミルカ」
「いえいえ。僕も、あなたには幸せになって欲しいですから、コーデリア様。では僕は、我等が執政長官殿の所へ戻ります」
「あの・・・手ぶらで大丈夫なのですか?」
「ええ。あれば嬉しい程度のものだって、仰ってましたから。あの人は本心からマティウス様に迎合する事はありませんよ。では、私は失礼します」
「分かりました。御勤め、ご苦労様です」
ミルカは朗らかな笑みを残して部屋を去っていく。王女は紫の宝玉の首飾りを取ると、窓辺に近付いて外を見遣った。遥か北の空には、どんよりとした暗く厚い雲がかかっており、先行きの不安と苦難を予感させた。
「ケイタク。早く帰ってきて。待っているから」
ひしと首飾りを抱きながら、コーデリアは慧卓のみならず、調停団一同の安全を心より祈った。耐え難い心の痛みを感じるのは、もっと自分が老いてからでいい。今は自分達の友人や自分を想う人々が、何事もなく無事で帰還する事が大切であると確信していた。
彼女の祈りに応えるかのように、首飾りは妖しげに光る。まるで言葉にするのも憚られるような、薄らとして微かな光である。だがその微かなものにさえ魔術の仄暗い深淵を感じさせるものがあったが、コーデリアはそれに気付く事無く、ただ一心に祈りを捧げていた。王女の純真さは、まだ魔術の本質というものを知るには幼すぎるようであった。
ーーー白の峰の集落にてーーー
見渡す限りの白銀の世界がそこに広がっている。雄大な峰は長く降りつづいた雪によって純白に染まり、まるで鏡をひっくり返したように光っている。青々とした朝日のおかげで、その光沢が近景から遠景に至るまでどこまでも広がっているのが分かる。積雪によるなだらかな稜線と、冬の透き通った空気が合わさり、このような奇跡を生んでいたのだ。まるで満月に浮かんでいるかのような美しい光景である。
昨日まで続いていた冬の嵐は一先ず治まりを迎えており、集落にはそれまで見えなかった人の姿が現れていた。リコ曰く、彼らは昔から山の奥地に暮らす少数の部族であるらしい。民族としては『タイガの森』にいるエルフと同様であるが、両者の交流は少なく、彼らは専ら山中で牧畜を営んでいるのが常であるようだ。
集落の者達は皆、獣の皮からこしらえた分厚い衣服を纏い、靴は雪にすくわれぬように確りとした造りになっている。家屋の傍には寒さに強い牛が『もぉ』と鳴いており、また見た事も無い動物も柵の中にいた。それは頭部は山羊で、身体はデブいラクダ、二股に分かれた尻尾をゆさゆさと揺さぶり、『ゲェッ』と引き攣った鳥のような声を出す。まるで『寒くてやってられない』といわんばかりの声色であり、アンバランスな外見に似合わず微笑ましいものであった。
慧卓はそれらの様子を愛馬とリコと共に見て回り、新しいものを見ては思うが儘に感想を述べていた。
「ゲェだって、ゲェ。腹を殴られたみたいな泣き声だな」
「『ボーボ』って言うんですって、あれ。春になると毛だらけになって毛玉みたいになるから」
「へぇ・・・顔を埋めてみたいなぁ。こう、ぎゅぅって」
「駄目ですよぉ。あれで結構、お肌に敏感な生き物なんですって。ぎゅぅってしたら足蹴にされちゃいます。ちなみにそれでタマタマを潰された方が村にいるそうで」
「タマ・・・じ、冗談だって、冗談、抱き付いたりしないって。・・・にしても、特別ここら辺って寒い訳じゃ無いなぁ。この村って山腹にあるんだよな?大体どのあたりに位置するんだ?」
「峰の一番高い場所から数時間ほど降りた所です。普通に山道を通った場合、回り道やらなにやらで、二つ目の山から此処まで二週間は掛かるらしいんです。ですが村の方々が作った秘密の洞窟のおかげで、慧卓さんが倒れた場所から此処まで、たった数時間で移動できるんです」
「すげぇ短いな。秘密の洞窟って何だ?」
「天然の洞窟ですよ。山の中をくり貫くように広がっていて、そこを通れば態々山頂を越えなくても、白の峰をほとんど超える事が出来るんです。ただ、たまにラプトルの群れが冬越しのために根付く事があるので、頻繁には利用できないらしいですが」
「地元民しか知らない抜け道か・・・もっと早く知っていれば、俺も熊とランデヴーする事は無かっただろうな」
「一生の思い出になりましたね?」
「そうだな。生の熊を見たのは最高の経験だったよ。おかげで死にかけた」
そう言いながら、二人と一頭は西の山々を臨める場所に着く。箒で払われ削られた様に広がる谷間に一本の大きな清流があり、それを辿っていくと二つの山が見える。あの向こうには、目的の場所である『ヴォレンド遺跡』がある筈であった。
「リコ。ヴォレンド遺跡ってどこら辺だ?」
「あの山間部を越えた先らしいです。ほら、あの小さな小川が見えるでしょう?あれを遡っていって谷間を抜けます。それで双子山と呼ばれる二つの山の間を進んでいくと、遺跡を見ることが出来るそうです」
「だが山間部を抜けるにはどうしても川を越える必要がありそうだ。なるほどねぇ・・・あいつら、こんな厳しい道を歩こうとしてたのか。そりゃ人手が必要なわけだ」
「例の、聖鐘を襲った一団ですか?」
「ああ。奴等もヴォレンド遺跡の宝を狙っている。あいつらより早く向こうに着かなきゃならない。けど、機を誤っては駄目だ。天気が晴れていないと厳しいだろうな」
「さらに言えば、遺跡が盆地みたいな場所にあるせいで、山風が厳しいらしいんです」
「マチュピチュみたいな場所じゃないって事か・・・あ、こっちの話」
「まぁ何にせよ、天気の酷い日に行くべきじゃありませんよね。凍えちゃいますし」
まさに指摘の通りだ。ここから先は然したる障害物は無いが、遺跡に着いたら着いたで何も発見できずに、立ち往生する可能性も考えられる。行きの心配も大事であるが、それ以上に帰りの心配をするべきであった。こんな場所で死ぬなど、それだけで悔いても悔やみきれない事なのだから。
ベルの首を撫でてながら景色を見渡していると、ふと、後ろから足音が近づいてくるのが分かる。集落の人と同様に厚着を着たソツであった。
「ケイタク様。既に起きていらっしゃいましたか」
「あっ、ソツ様。すみません、寝起きの癖にこんな自由気儘に動いてしまって。どうしても大自然の美しさに触れてみたかったので」
「そうでしたか。お気に召していただけたのなら、この集落の住人として、何よりの嬉しい事です。さぁ、祈祷師様の下へ向かいましょう。あなたの未来について語りたいそうなので」
「分かりました。じゃ、悪いけどリコ、ベルを任せていいかな?」
「御安い御用です。いってらっしゃい」
愛馬の顔を何度か撫でてから、慧卓はソツの後に続く。何軒かの家を通り過ぎた後、トーテムポールのようなものを両脇に置いた家の前に着いた。衛兵が短槍を持って護衛している。
「Quo'ddm Mizaj, Sotu.」「Ka.」
ソツが衛兵に話すと許しが得られたのか、慧卓は家屋の中へと通される。途端に御香のようなつんとくる臭いが鼻を突く。
屋内は中々の様相であった。明りは奥の祭壇らしきものにあるだけで薄暗い。動物の皮を剥いだものが壁にかけられ、兎の頭蓋骨らしいものが砕かれて瓶に収まっている。草木を散らしたような模様の赤い絨毯が敷かれ、家の奥に一人の老女が座っている。祭壇には幾つも焼香のようなものが焚かれ、これが臭いと共に灰色の薄い煙を上げているようであった。
「此方が祈祷師様です。ケイタク様、あなたの未来を占い、その吉凶の兆しを予言して下さる方です。私も予言を受けておりますが、どれも身に覚えのあるものばかり。信頼を置いてまず損をする事は御座いません」
「そうなんですか?あの、祈祷師様、私の未来を占っていただけると聞いたのですが」
返答は無かった。幾秒かの沈黙の後、老女は燭台と刻んだ香草が入った取り皿を取って、慧卓に振り向く。皺だらけの彫りの深い女性であったが、その皺の一本一本に歴史を感じさせ、女性の言葉に説得力と圧迫感を滲ませていた。
「Zo'g yende kkollosa iu.」
「・・・えと?」「手を差し出して下さい。どちらでも構いません。掌の皺が見えるくらいに、大きく指を開いて」
言われた通りに右手を開く。老婆は慧卓の手を掴むと、爪先から手首の辺りまで、さらには関節の皺や指の間のヒレにかけて、香草を塗りたくっていく。葉から漏れたのであろう、変な水気も感じる。
「毒は無いですよね?」「はい、ありません。ただの香草ですが、祈祷には欠かせぬ大事な道具です」
老婆はふんだんに香草を使うと、燭台の火へ慧卓の手を入れようとする。思わず抵抗して手を引っ込めようとするが、ソツは安全だといわんばかりに言った。
「炎の中に手を入れて下さい。大丈夫、熱くはありません」「・・・本当ですか?」
返答がされる前に手が燭台の火に当てられた。掌が炙られる感じがあるのだが、不思議にも熱や痛みは感じない。余分な香草がばちばちと線香花火のように弾けているだけで、何事も無いのである。
芯に至るような仄かな熱を感じ始めた時、老婆は燭台を遠ざけて掌を面にする。香草が炙られたところを中心として、皺や血管をなぞるように深緑の線が広がっている。それらは鼻を擽るような匂いを出しており、時間と共に心を安らかにする気がした。
しげしげとその碧の模様を見ながら、老婆はしわがれた声で告げた。それらをソツが翻訳する。
「Zo jakme quo'dm papas.」「あなたの未来に、大きな壁が見える」
「Zo temme rohomn'd aquinus korruns.」「あなたはそれに正面から挑み、そして初めは敗北するでしょう」
「Jaet Zo qoum o'z Magic, kommijen's pikko mme Zo's doran.」「しかし大きな魔に触れる事で、あなたの中の龍が目覚める」
「つまり?」
「ヴォレンド遺跡において、あなたは敗北します。その際、あなたは何らかの機会を得て、自分自身の魔力を解放させるでしょう。困難に打ち勝てるという事です」
苦笑を漏らさずにはいられない。壁、敗北、おまけに龍。一体何を指しているのか見当がつかないが、遺跡では要注意という事だけは明確に理解できた。
占いは続く。
「Doran jumai bluddm's fyims Zo's pttou.」「龍の力に酔うなかれ。それはあなたの命を削るだろう」
「Uiom kamsdo gui, Zo istuq foll yu nord.」「淡い花は悲しみに暮れ、あなたを北に遠ざける」
「Zo nuim ccosai quo'dm Xiotselle gelun Wei Doran.」「あなたが次に花を愛でる時は、悪しき龍と相見える時であろう」
どうもこの占いというのは人を悲嘆に暮れさせるような事しか言わないらしい。次々に出るこれらの言葉は、いずれも確証の無い推量によるものに違いないのだが、心に一抹の不安を抱かせるには十分なほど不穏であった。苦笑も引っ込んでしまい、慧卓は俄に緊張した表情となってしまう。
「Vulod wum sallen. Zo's Eire gellen.」「闇の数は増えていく。あなたの炎も小さくなるだろう」
「Zo am Zo's Elv. Zo's kjem Lesste mui, dnu quo'dm doran」「遺す命を見詰めよ。あなたの骨に宿るのは、鋼の思いと、大きな龍である」
それが最後の言葉であったのだろう、老婆は大きく疲労の息を漏らすと、香草が入っていた取り皿や燭台を片付け始める。ソツが沈黙を取り繕おうと口を開きかけると、老婆は彼に向かって近くによるよう指をやる。ソツは近付いて耳打ちされると、困惑したような顔付となって言った。
「予言はこれで終わりですが・・・祈祷師様曰く、あなたと二人きりになれば、更に予言をいう事も出来るらしいです」
「・・・じゃぁ折角だから、いただこうかな」「分かりました。では、私は少し失礼します」
ソツはそう残して部屋を去っていく。慧卓は煙でむせ返りそうになりながら咳払いをし、老婆の注意を惹きつけてから尋ねた。
「で、俺に何を言いたいんです。・・・言葉が分かるとは思ってないけど」
「・・・・・・お前は闇に誘われる」「!?」
鷹揚で、重々しい言葉であった。それはエルフだけにしか通じぬものでは無く、慧卓らが話す言語であった。老婆は唖然としている慧卓を、深い泥のような黒い瞳で見詰めた。
「闇の手が、大きな墓の中から這い出て、生贄を求めさまようだろう。その手はまっすぐにお前を狙う」
「・・・その闇は一体・・・」
「遥か昔に葬られた、骸の妄執。肉体は死すとも野心は消えず、大地を蠢き、骨を伝い、どこまでも求めるだろう。決して光を手放すな。それがお前の命綱となる」
不吉極まる予言であった。今までに遭遇したことの無い、巨大な敵の存在を予感させる。慧卓は虚空の中にある筈の、自分とコーデリアを繋ぎとめる『召喚の器』を握るように、ぎゅっと手に力を込めた。形の無いそれが勇気の源となってくれたのか、慧卓は不安や恐れに襲われつつも、老婆の言葉に傾注することができた。
老婆は新たな予言を付け加える。
「お前を囲う花は三本だ。その他にも様々に花と出会うが、しかしその三本はいついかなる時も、お前を迎えてくれる。花を裏切るな。それはお前の安らぎの場所となる」
「・・・心当たりがあります。その花っていうのに」
「ならば恐れるな。真実を告げよ。時間はかかるが、しかしお前を裏切る事は決してありえないのだから。花は一途だ。大事にせよ」
「・・・はい」
「・・・そして、お前の心に宿るのは、鉄の都への郷愁だ」
「っ!!」
ーーー彼女には、『現実の世界』が分かっているのだろうか。
心臓がどきりと高鳴った慧卓の、そのあまりに分かりやすい反応に老婆は小さく笑みを零した。その息で室内の煙が微かに揺れる。
「ふん、女の姿も見えるな・・・魂は今、一方へ留まっているが、しかし夢を介して『元の場所』へと戻り、そしてまた『此処』へ戻る。だが魂は決断を迫られるだろう・・・それは大いなる闇に触れた時だ。魂は真の拠り所を迫られる。鉄の都か、紅の街か。魂が二つに分かれる事は無い。どちらか必ず、選ばねばならん」
「・・・選ぶって、どういうことですか?」
「成否はいずれ分かる。だが、一つはっきりと分かることがある。お前の未来は困難に満ちている。この世界に居る限りはな」
老婆はそうぽつりと零す。それは遠くの暗雲の中に轟く雷のように重たく、慧卓の心に伸し掛かるように響くものであった。辺境の老いた祈祷師は俯きがちに慧卓の手を見据え、確信めいて、しかし沈み込むような奇妙な表情をしていた。その謎めいた老女の表情が、今の慧卓にとっては運命の審判を下す裁判官のような絶対的なものに見えてしまった。落ち窪んだ黒い瞳には、北嶺の絶対零度の光が篭っているように感じられる。
外でいななく牛の声がどこか遠くのもののように聞こえる。入口に透明な扉が敷かれて、まるで密封されたように室内に澱んだ煙が循環していた。
「存分に気を付けられよ。そなたは今、分岐点に立っておるのだぞ」
煙が揺れて慧卓の顔を掠めた。その若々しい顔立ちには不安の色がありありと現れており、老婆は気を良くしたようにほくそ笑んだ。祈祷師の予言の手は慧卓の心をひしと握り、何時までもそこに残ろうと力を込めているように感じられた。胸の奥にざわめくような、或はきりきりと痛み出すような感触を覚えた瞬間であった。
この二日後、怪我はある程度我慢できるくらいに回復し、慧卓らは再び遺跡に向かって進むこととなった。
ーーー出立より数日後ーーー
白雪の山地を一頭の馬が進む。山間部に広がる谷間を歩き、慎重に慎重を重ねて凍てついた小川を渡る。うっかり愛馬が薄氷を踏まないよう手綱を操るのには凄まじい緊張が必要であったため、越えた後の疲労感もかなりのものであった。そうやって歩いていくと、徐々に双子山の間にある麓へと近づいていく。時折、そこから薄い雲が吹き抜けてくる以外に青空には変化は見られず、行程は至って順調に消化されていった。
そんな幸運や、後ろに跨るリコの期待に胸膨らむ様子とは反対に、慧卓の表情は浮かないものだ。数日前、祈祷師に囁かれた言葉が重石のように心に伸し掛かり、彼に否応なしに『現実』についての想起を強いらせていた。
(こんな所でも、故郷を思い出すなんて)
久しく感じていなかった懐かしい鉄とコンクリートの都市。そして記憶違いでなければ、夢に『現実』の恋人の姿も出ていたような気がする。彼女の太陽のような笑みを思い出そうとしても、今はどうしてだろう、そこだけが靄が掛かったようにはっきりとしない。目が現れては口が隠され、髪が現れては顔が隠される。それが無性にもどかしくなってしまい、大切な任務の最中だというのに、彼女の姿を確かめたいという気持ちが募っていく。遅まきのホームシックに罹っているという事なのだろうか。
慧卓は馬上から周りを見る。枯れた木々には雪が被り、野生動物の気配は微塵もない。そのシチュエーションが『現実』の街によく似ている気がして、ますますと思いは募ってしまった。
(・・・向こうはどうなっているんだろうな。今頃、冬か。街灯やもみの木のイルミネーションが綺麗なんだろうな・・・)
「ケイタクさん、足下!」「えっ?あ、ああ、悪い」
道を外れてしまい川の薄氷を踏みかけてしまった。危なかったと反省する一方で、慧卓は決心をした。王都に帰ったらもう一度、王都の魔術研究所によってみよう。そこであの所長にお願いして、自分にもう一回あの世界を見せてほしいと頼むのだ。まだこの世界にはやる事があるため離れる事は出来ない。だがせめて夢の世界、或は現実とも幻ともつかぬ不思議な空間で、自分自身の心を慰めたい。一方の世界を斬捨てるという難しい事は自分には出来ないのだから。
二つの世界を跨ぐ苦悩を抱えながらも歩は進んでいく。リコは段々と迫る遺跡に対して、慧卓以上に期待を募らせているようであった。
「これを越えれば遺跡が見える筈です。あと一踏ん張りですよ!」
「お前、本当に元気だな」「ケイタクさんは見た目の割には体力無いですね。もう少し精の付くものを食べないと駄目ですよ。たとえば、ステーキとか」
「そうだな。王都に戻ったら考えてみるよ」
どうやら沈んでいる様子が、疲れている風に見えてしまったらしい。これではいけない。リコを守ると彼の姉に約束した手前、こんな不甲斐ない姿を保つわけにはいかないのだ。
ベルの蹄は雪を蹴りながら、ゆっくりと麓へと近づいていく。時間をかけて少し傾斜のきつい坂を登り切ると、遂に遺跡がその姿を現した。
「見えました」「ああ。壮麗だな」
そこには、石造りの街が広がっていた。まるで王都を思い出させるように、円形状に大きな街が広がっている。歴史と共に色褪せ、崩れかけた家々が外縁部に連なり、その周りを囲うボロボロの石壁は今もなお外敵を防ごうとしているかのようだった。王都のどの通りよりも大きな、まるで『現実』のものと大差無いほどの通りが街を貫いており、街路樹代わりに巨像が立ち並び、それが向かう先には巨大な宮殿が佇んでいる。
まるで神の意志を告げるような大きな建物は、優にビル七階建てに近いほどの高さを誇り、アンコールワットやクレムリン宮殿を想起させるような、丸い屋根をいただいている。そしてバベルの塔の傲慢さを想像させるように、螺旋状の階段が建物途中から現れて、小さな庭園を通りながら一番高いフロアへと繋がっていた。ここに住んでいた当時の住人は、あの宮殿を見るたびに狂王の奇行・暴虐を畏れたのだろう。周囲の険しさから逃げる事も適わず、ただ嵐が自分に振りかからぬよう祈り続けたのだろう。何という歪さだろうか。時代や場所にそぐわぬこの異様さこそ、ヴォレンド遺跡の最大の魅力なのかもしれない。
だが自分は観光者ではない、騎士だ。任務遂行のために風景に見惚れる事は出来ない・・・非常に悔しいが。それよりも懸念事項に目を向けねばならない。遺跡の向こう側の空からゆっくりと、しかし着実に近付いている厚い雨雲についてであった。以前見舞われた豪雪の時も、あのような雲が空に掛かっていた。これは早々にケリをつけて集落に帰らないと、重大かつ緊急の帰宅困難者になる恐れがあった。これに『絶望的な』という修飾語が付かぬよう努力する必要があった。
リコは遺跡の姿に暫し惚けていた様子だったが、気を取り直すと、懐から小さな獣の皮を取り出す。そこには何やらマークのようなものが刻まれていた。
「そいつは?」
「集落の人から地図をもらったんです。まぁ、精巧なものじゃないですけど。・・・よし、行先が分かりました。あの宮殿みたいな建物。あそこが嘗て狂王が住んでいたという場所です。恐らく残りの秘宝はあそこにあるでしょう」
「あそこに、義眼があるのか・・・。遺跡までどれくらいかかると思う?」
「ざっと見て、一刻ですね。御昼までには到着するでしょう」
「案外早いな。ピクニック用のサンドイッチでももってくりゃよかった」
「それはまたの機会にしましょう。さ、行きますか」「あいよ」
馬は麓を越えた。転ぶ心配の無いなだらかな斜面を降りていく。高みから見えていた遺跡は一度木々の中に隠れ、暫し歩いた後、いきなり高度を下げたように目前に現れてきた。壊れたブロック塀のように石壁の名残が散乱しているのが分かる。家屋が痛々しい姿を見せているのが分かる。リコはそれらを見て納得できないとばかりに頸を捻った。
「・・・なんだかなぁ」
「どうした?」
「いえ、伝説や伝承だと、もっとキレイだって言ってましたから」
「まっ、遺跡の駐在管理人が居ないからな。不変の存在ってわけじゃないんだ。劣化もするし、崩れたりもする。太陽みたいに輝いたりはしないな」
「まぁそうなんですけど・・・ん?ケイタクさん、あれ」
リコの卓越した視力が何かを捉えた。慧卓は目を凝らしてやっとの思いでそれを見付けた。大通りの真ん中を、何かが動いている。熊でもラプトルでもない。あれはまさしく・・・。
「人影?こんな辺鄙な場所に?」
「・・・もしや以前話してくれた、例の一団とやらでは?」
「だとすると拙いな。リコ、確り掴まれよ!!」
馬に鞭を打って大通りを疾走する。久方ぶりの疾駆とあってかベルは喜ばしげな様子で風を切っていた。瓦礫や石ころを避けながら進むが、倒壊した石像のせいで迂回せざるを得なくなった。安全な道を通って大通りに戻った頃には、その人影は見えなくなっていた。既に宮殿の中へと入ったのだろう。
「くそ、先に入りやがった」
「気を付けて進みましょう。塀が崩れかかっている」
「分かっているよ」
更に馬を走らせて、宮殿の入口にあたる正門へと辿り着いた。ここから先は瓦礫が散乱しているため馬では進めない。ベルを門の近くに留めると、二人は急ぎ足で宮殿へ進もうとした。廃棄場のコンテナよりも大きな石壁を避けた所で、いきなり目の前に怖ろしい男の顔が現れた。
「あらぁっ!?」
それはただの石像であったが、慧卓には効果覿面であった。思わず吃驚してずっこけた拍子に、慧卓は傍に立っていた別の巨像にしがみつく。『ピシっ』という音がして巨像の足に罅が入ったと思うと、重厚な響きを奏でながら像は横向きに倒れて行った。その像の頭がまた別の像の足を砕くと、それはぐらりと倒れ掛かり、また別の像が・・・といった具合にドミノ倒しに像が倒壊していく。二人して唖然と見詰める中、巨像は宮殿に伸し掛かって『どぉん』と大きな音を鳴らし、壮麗な外壁に見事な破壊の刻印を示した。
「・・・今の崩れ方、芸術性を感じます。数理の法則にどこまでも従順な、鮮やかな崩壊です。美しい」
「・・・なんにせよ、これであいつらにも、俺等が居るってことが伝わったな」
「ええ。でも一つ問題があります」「なんだ?」
「今の崩壊で宮殿への入口が塞がりました。どうしてくれるんですか」「あー・・・」
リコの指摘の通り、倒壊の御蔭で宮殿の入口が瓦礫によって塞がれてしまったようだ。近付いて確かめてみると、小柄な者ならば入れそうなくらいの小さな穴があるのに気付く。丁度、リコの体躯にはピッタリであった。
一つ頷くと、リコはその中へうんしょ、うんしょと身体を入らせていく。そして瓦礫のとんがりに痛がりつつも、遂にその奥へと身体を通らせる事に成功した。
「リコ、中に入れたか?」「ええ、何とか」
「よし。それじゃここからは二手に別れよう。お前は真っ直ぐあいつらを追ってくれ。俺も別ルートですぐに追いつくから、それまで無理をするんじゃないぞ」
「ケイタクさんこそ、軽率な行動は慎んでくださいよ。さっきみたいのはもう御免です」
「分かったって。気を付けるよ」
軽口を交えて、慧卓は宮殿の側面へと足を向けた。嘗ての繁栄の証だろう、綺麗に整備された水路を越えると、漸く別の入口が見えてきた。といっても、そこも風化によって壁が崩れているだけなのだが。
中に入り込むと、閑散とした薄暗い廊下が広がっていた。左手は宮殿の本来の入口だが、巨像の臀部らしいものが道を塞いでいる。遠回りかもしれないが、右手に行くしかないようだ。そうして足を進めようとすると、ふと壁に書かれた絵に目を奪われる。時の経過に抵抗するかのように、それは薄れつつも全体を確りと残していた。天を仰ぐ老人と、それに舞い降りる巨大な龍の姿を。
「・・・龍、か」
祈祷師の言葉が脳裏に過ぎる。嫌な予感が胸のあたりで再びざわつき始めた。慧卓はそれを振り払うように頭を振って、薄暗い廊下をつかつかと歩いていく。
遠く、遺跡の外から、低い嘶きのようなものが響いてきた。それは雷のようでもあったが、同時に、龍の咆哮のようにも聞こえた。
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