王道を走れば:幻想にて
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第五章、その1の3:狂王の下僕
『ーーー魔術の行使において最も大切なことの一つは、魔力を自身のコントロール下に収めることである。一般に魔力は才能のある者にしか備わっていないと考えられがちだが、実際にはかなり広範にその存在が認められている。スラム街で寝て暮らす幼いスリにも、度々街道を襲うサーベルタイガー型の魔獣にも魔力は備わっているのだ。彼らが何らかの機会で魔法を行使したとしよう。そうすると体内にある魔力が、脳から生成されると考えられる活力物質のように活発化し、それを行使する術を発見するのである。いわば力を扱う術を本能的に理解するのだ。
・・・中略・・・本来なら彼らは、旧石器時代に火の熾し方や石の磨き方を学んだ勇者たちの様に、進化の道を歩むはずなのである。ただし、その切欠だけで魔力を行使できるのには一定の限界がある。自発的に目覚めたからといって、力の全てを十二分に使えるという訳では無い。応用の手段・・・すなわち魔術の粋に達するためには、また別の方法があり、才能だけではどうにしようもない壁がある。
それこそが魔術学院と教会によって作られた、国家機密という名の大いなる闇である。魔術の理論を秘匿し、一部の者達で独占するこの体制は、人々の啓蒙の光を与えないばかりか退化の道を歩ませているようにしか見えない。この闇が存在する限り、人々は自分自身の可能性に気付いても、それを利用する事無く命を終えてしまうのだ。
私はこれを打ち崩す事に生涯を掛けよう。闇を撃ち払うべく艱難辛苦の途を行き、人々に新しい道を示したい。そうする事で人々は、新しい力による、新しい国を造る事が出来るのだから。きっとそうすれば、闇に呑み込まれていった人々の無念も、父さんの無念も払われるだろう。私はそう、信じている。
明日から、教会の御勤めに行く。あそこの司祭様はこの国には珍しく清廉な方と聞いている。きっと私の心を理解して下さるに違いない。彼との意気投合を第一歩として、頑張っていこう。全ては父が愛した、王国のためなのだからーーー』
ーーー新王国歴23年9月3日 著者チェスター=ウッドマン 『日記』より抜粋
ーーー新王国歴31年1月9日、ヴォレンド遺跡にてーーー
龍が空高く飛んでいる。翼を片方潰され、獲物を仕留めそこなったせいで機嫌をいたく損ねているようだが、しかし龍の胸中には誇らしい気持ちが湧いていた。
数えるのも面倒なくらいの時間を経て、遂に彼の主君が目覚めようとしているのだ。かつては臣下の逆撃に遭って眠らされ、肉体は朽ちてしまったが、彼の強大な魂は『魔力の器』に繋がれたまま確りと存在しており、そして今、忠実な贄の行いによって部分ながらも復活している。後は全ての『器』が揃えば、主君は完全なる復活を遂げる筈である。
龍は己の使命を理解していた。主君がこの世に顕現するまで、小癪な人間たちから贄を守らなければならないのだ。あれの心の深層では、既に偉大なる主君が支配の力を広げている。遠からず肉体も精神も主君の思うが儘となるだろう。そして己は彼に侍り、道なき道を蹂躙し、この世にもう一度彼の名を轟かせるのだ。そして人間たちに思い起こさせよう。古の存在として追いやられた龍の無念と、怒りを。彼らの犠牲をもって種としての恐怖を与えるのだ。
手始めに、まずは宮殿の入口で屯する若い人間を殺すとしよう。恐怖に怯える様は見ているだけで堪らないが、それが死によって塗り替えられる様はもっと堪らない。翼を広げよう。そして爪を立てて、あの粗末な肉体を抉り、砕き、潰してしまおう。龍の暴虐を身をもって知らしめてーーー。
「いい獲物がいたものだ。これは調べる価値がある」
ーーーなんだ?
突然振りかかった恐ろしいまでの殺意に、龍の降下が鈍くなった。その直後、乱層雲からの稲妻を思わせるような強烈な雷撃が龍の横腹に食らい付いた。濃厚な魔力によって鱗ごと肉が溶けてしまい、龍の身体は遺跡に叩き付けられる。上から降り注ぐ瓦礫に参ったのか、若い人間は慌てて宮殿内へと戻っていった。
唸りながら龍は身体を起こす。この馬鹿馬鹿しいまでの魔力、生前の主君を彷彿とさせるくらいに精錬され、容赦がない。砲弾ごときでは撃ち抜けないほどに鍛え抜かれた龍の肉体が、僅か一瞬触れただけで溶解するとは。
ーーー何奴だ。この我を横から殴ってきたのは。
そう言いたげに龍は言葉にならぬ叫びを吐いた。大地が剥がれてしまうかのような大蛮声を聞いて、その者は余裕たっぷりに姿を現した。
「やはり龍を一撃で仕留めるのは適わなかった。最大限まで魔力を練り込んだのだが、腹が少し融けただけか」
「翼がありません」
「それは元からだ、出来損ないめ。さしずめ人間とやりあって反撃を食らったんだろうよ。長生きの癖に若い連中に油断しおって。・・・まぁ、そんな屈辱も今日で終わりだ。私の魔術の実験台となるのだからな」
その者は、多くの奴隷達に担がれた腰に乗っかり、龍に警戒を生ませるような残忍な笑みを浮かべていた。鳩のような皺くちゃの顔が歪んでいるのは、醜い探求心と興奮によるものだろう。
龍は再び叫ぶ。貴様を先に食らってやろうと。しかし老人は、小馬鹿にするような笑みを崩さなかった。
「・・・声に魅力を感じられんな。若々しく感じられる。人から見れば老人かもしれんが、なるほど・・・龍から見れば、餓鬼といったところか」
ーーー図に乗るな。たかが数十年生きた程度の小僧が。
龍は咆哮し、むくりと身体を起き上がらせると憎き人間に向かって邁進していく。血を這う蜥蜴のようにのしのしと足を動かし、立ちふさがる瓦礫をものの見事に粉砕していく。自分の魔力に自信があるのか老人は身じろぎもせずにそれを待ち、振り翳された龍の爪を、魔術による透明な障壁で受け止めた。補助魔法の『障壁』の魔術であり、全力で振り抜かれたであろう龍の爪をがっしりと防いでいた。
障壁の内でにたにたと嗤う老人を見てか、龍は憤激し、更にもう一度手を振り被った。老人はそれを見て、正確にはそこに収縮する魔力の流れを見て、笑みを俄かに控える。再度、爪と障壁がぶつかり合うが、二秒も経たぬうちに障壁に罅が入り、その勢いのまま障壁が粉砕された。暴虐の爪が光のような速さで輿を捉え、地面もろとも破壊したのだ。土煙が一気に巻き上がって視界を占有し、遠くでは輿の一部がからからと吹っ飛んでいく音が聞こえた。
見事輿を打ち砕いた龍は、しかし不満げに鼻息を漏らしていた。その爪に、人肉特有の生ぬるく柔らかな感触を感じなかったのだ。打ち砕いたその場所よりもさらに後方で、気配が集っているのを悟る。煙が晴れていくと、老人ら一同が勢ぞろいしているのが見えた。
「ふむ。私を輿から下ろすとは大した力だ。よかろう。ならば私も少しばかり気張るとしようか。ほら、出来損ないども。仕事だ」
『すべてはマティウス様のために』
言葉と共に老人の傀儡が動き出す。それぞれが、半透明な青白い光を纏った得物を『召喚』し、地を駆けて、或は宙を浮遊して龍に迫っていく。
面倒だといわんばかりに、龍は身体を反転させて尻尾をふりぬき、家屋や瓦礫を巻き込みながら相手を狙う。地上の三人ばかりを狙った一撃は、しかし手応えが皆無であった。一人が尻尾に得物を突きさしてしがみ付き、後の二人は当たる直前に忽然として姿を消した。直後、龍の翼の直上にその二人が、あたかも空間を潜り抜けたかのように出現し、落下しながら得物をまっすぐに突き立ててきた。青白い刃が鱗をすり抜けて、直接血肉へと到達した。龍は驚いてにそちらへ目を遣らんとしたが、中空の者達から発された破壊魔法、氷の柱のようなものを受けて貯まらず怯んだ。
「ちなみにな、この出来損ない一人一人が生前ではやり手の魔術士だ。いかに龍とはいえ苦戦するだろう。せいぜい足掻いて、愉しませろよ?」
ーーーほざけ、人間め。全員食らいつくしてやる。
咆哮しながら龍は翼を大きく広げ、ばさばさと羽ばたき始めた。肉を抉る二人は危難を逃れるため先程と同じように消え、尻尾にしがみ付いていた男は瓦礫に叩き付けられて、ペースト状となってしまった。
老人、マティウス=コープスは、ふつふつと湧き上がる探求心を抑えられぬように、ねっとりとした息を漏らした。傀儡の一体を失っても彼の精神に動揺は無い。それどころか龍の底力というものを間近で見られることに、心より喜んでいるようであった。
ーーー宮殿内にてーーー
煙で蟠っている中空を、幾つもの特大の火球が突き抜けていった。射線上にいた慧卓はすぐに横へと駆けて火球を避けていく。それを見ながらチェスターは、まるで可愛いペットと戯れるかのように単調に魔術を炸裂させていった。義眼からふつふつと発露する強大な魔力に身体をほとんど乗っ取られるような感覚に陥るが、しかしそれ以上に彼は多幸感を感じていた。全うな生活を送っていれば絶対得る事は無かったであろう圧倒的な力に酔い痴れていたのだ。余りにも大きすぎる魔力に身体が付いていけなくなるという危惧もあった気がしたが、火球が弾けるのに魅せられて雲散霧消してしまった。
悦びを顔に表すチェスターとは対照的に、慧卓はてんてこ舞いであった。だだっ広いだけの障害物も何もない空間が戦場なだけあって、全体を見渡せる高い位置に構えているチェスターは圧倒的な優位を保持している。加えて、火球が爆発すると同時に床が崩れるため、徐々に平らなスペースが減っていくのだ。接近するのも適わず剣は手持無沙汰となり、しかしチェスターの攻撃は止んでくれない。状況は時間と共に悪化していく一方であった。
それでも慧卓は闘志と崩さない。新たな武器が、彼の手中にあったからだ。慧卓がそれを、魔道杖を振り払うと、その先端から火球が打ち出された。チェスターのものより幾分か小さいものだったが、確かに魔術が作りだす火球であった。
ーーー使えるっ、俺にも魔法が!
慧卓の自信を焚きつけた火球は、しかし真っ直ぐに飛んできた特大の火球と相殺され、砕かれてしまう。チェスターは優雅な仕草で台座に座り込んだ。
「おいおい、どうした?まだ私には傷一つついていないぞ?少しはやる気を見せたまえ」
「うるせぇっ!そう言うなら少しは手加減しやがれ!こちとら逃げ場なんてどこにも無いんだぞ!?俺は狩人の獲物か!?窮鼠を舐めるなよ、おい!」
「自覚があったようで何よりだ。まだ自分がハンターの立場だと思っていやしないかと、少し心配していたのだ。だが、騎士殿は実に聡明だ。自分の可能性というものを理解している」
「可能性だと?」
「何もできずに火炙りにされるのが悔しくて、『どうせ死ぬのなら一矢報いてやろう』と突っ込んで、やっぱり太刀打ちできなくて火達磨になる。そんな可能性」
「なんにしろ俺を殺す気ですか、そうですか!?」
抗議に応えるかのようにチェスターの攻撃が降り注いでいく。回避と反撃に必死になっている慧卓には分からないが、実際にはチェスターも自身の魔力を制御するのに四苦八苦しているのだ。暴力的ともいっていい魔力の波動が頭や身体の芯を縦横無尽に駆け巡っており、火球を連続で放っていかないと不快感が溜まる感じがするのである。今は獲物で遊ぶ多幸感のためにそれを我慢出来ているのだが、限界が来たら一体どうなるかは予想しえない。危惧を抱えてもなお、状況が自分に優位なのが唯一の安堵の源といえた。
直線的に放たれる火球を避け続けながら、慧卓は何度も杖を振るう。その度に小さな火の玉が放たれるのだが、すべてがチェスターに届く前に相殺されて、ただの花火と化してしまう。このままでは駄目だ、もっと強い一手を考えないと。そう思いながら足の向きを変えようとした矢先、足元の瓦礫に掬われて転んでしまい、致命的な隙を晒してしまう。猛然と迫る火球を見て、慧卓は何を閃いたのか魔道杖を向けて、まるで銃を構えるかのように杖を掲げた。
『どぉん』という爆発の音が響き、幾つもの火球が弾けて噴煙が巻き起こる。チェスターは煙を見詰めながら、手応えの無さを直感し、自分の周りに新しい火球を展開する。
「・・・仕留めそこなったか。若いのに騎士だというのには疑いがあったが、なるほど、実力で成り上がったというのなら納得がいく。暫くは戯れる事が出来そうだ。
・・・だが、流石にこれは一方的だな。火球だけではどの程度この力を御し得ているか確かめられん・・・。騎士殿にチャンスをやるべきか?いや、あれに拘らずとも少し歩けば最寄りの村を襲撃できる。そこで・・・」
力を確かめるのも悪くは無い。そう言おうとした直後、『ばんっ』という炸裂音が轟き、チェスターの周りを浮かんでいた火球が全て弾け飛んだ。咄嗟に張った『障壁』のおかげで事なきを得たが、髪の毛がやや焦げてしまって変な匂いを鼻に齎してくれる。チェスターは俄かな怒りが篭った笑みで、晴れ渡る煙の奥に構える、恰好を煤けさせている慧卓を睨み付けた。構えられた魔道杖の先端からは濃密な魔力の残滓が感じられた。
慧卓は冷や冷やとした思いであったが、閃きがうまくいった事に安堵していた。魔術によって生まれた火球は何かと衝突すればその時点で爆散する。つまり火球の爆発には、ぶつかるものの質量や大きさの大小に関係が無いのではないか。その直感から、慧卓はほとんど反射的に脳裏でショットガンをイメージし、その通りに杖を構えた。その結果、魔力が散弾のように放射され・・・今に至るのであった。なるほど、もしかしたら魔術を行使するという事は、自分の想像を具現化するという事なのかもしれない。
チェスターも魔力の流れから慧卓のやった事を見抜いたのだろう。気を引き締めたように表情を硬くした。
「・・・発想がユニークだな、騎士殿。とても素人とは思えん・・・まぁ、単に魔力を出鱈目に放射していると見れば、素人らしい浅はかなやり方ともいえよう」
「余裕たっぷりに感心しやがって。気に入らねぇ・・・絶対、一泡吹かせてやるっ」
慧卓は弾を装填するかのように杖を振った。チェスターの鋭敏な感覚が、魔道杖の先端に魔力が集うのを感じた。
慧卓は駆け出す。逃走に頼る素振りなど見せず、ただ一直線にチェスターへと向かってきた。それに向かって特大の火球が襲い掛かるが、魔道杖から放たれる赤銅色の散弾が、それらをすべて吹き飛ばした。
「・・・これは、些か厄介だな」
魔力が障害物に当たっても砕けぬようにするためには、何か別の魔術が必要なのだろう。打ち出す魔術と制御する魔術、一度に二つの魔術を使うのだ。だがあまりに不安定過ぎる魔力でこれらを行うのは、今のチェスターには出来ないことであった。そうと決まれば慧卓が此方に来ないよう火球を打ち出すのみ。
チェスターは火球を展開してそれを幾度も放出し、慧卓は魔力を打ち出してそれを破砕していく。慧卓は、無尽蔵に湧いて出る自分の魔力を変だとは思ったが、知識不足のためかそれに疑いを持たず、ただ勝利のために走っていく。火球と散弾の応酬をくぐりぬけ、巻き上がる煙を突っ切り、慧卓はついにチェスターに接敵し、満を持って剣を抜いた。
「せいやぁっ!!」
「むっ!」
チェスターは手を広げて障壁を再び展開し、剣を受け止める。ぎりぎりとして微動だにしない剣に舌打ちをすると、慧卓は障壁に魔道杖を押し付けるとゼロ距離から散弾を放つ。『ばぁん』と、障壁が大きく揺らされ、チェスターの手に俄かな違和感が生じる。まるで昆虫の歯が肌を噛んでいるような些末なものだったが、しかし肌を食い破り肉を噛み千切る恐れがないとは言えなかった。
散弾が何度も撃たれて障壁が揺れ、ゆっくりと、しかし確実に罅が入っていく。そして五度目の射撃を受けて、ついに障壁はガラス窓のように砕け散った。抑えられていた剣に勢いが生まれて振り下ろされるが、目標を誤って台座に当たってしまい、まるで空気砲のように発されたチェスターの魔術によってくるくると飛んで行ってしまう。『ならば魔道杖で』と迫るも、錫杖によって制されて中々相手を狙えない。
「この野郎っ!!」
慧卓はまたもや閃きのままに、魔道杖の柄頭をチェスターの左足に向けて振り落とす。何の変哲もない一撃であったのに、チェスターは足の甲に強烈な痛みを覚えた。柄頭に魔力が宿って、足の甲から床までを貫通したのである。思わぬ伏兵にチェスターは驚いて、攻撃の手を緩めてしまう。
慧卓は相手に余裕を与えないかのように、そこから一気に肉弾戦へと持ち込んだ。相手の顔面を殴り付け、髪を掴んで引き寄せると思い切り、そして何度も頭突きを食らわせる。チェスターもただやられるだけではなく、錫杖でもってゼロ距離から火球を撃たんとする。しかし杖を向けた瞬間、慧卓は最初から図っていたかのようにそれを掴み取り、再度の頭突きで威勢を削ぐと、むんずとばかりに錫杖を奪った。
「もらったぁっ!!」
叫びと共に、慧卓は魔道杖を引き抜きながらチェスターをいなし、彼を地べたへと転がす。そして血だらけの相手の顔目掛けて杖を向けようとする。彼は胸中に疑いようのない勝利の確信を浮かべていた。
しかし慧卓はこの時点で一つ、思い違いを犯していた。魔術を行使するための道具を錫杖一本だけだと認識していたのだ。火球を繰り出すのが常に錫杖であったため、意識がそれに集中していたためかもしれない。それを奪えばチェスターは魔術を使えなくなると、半ば本心から信じてしまっていたのだ。それこそが、慧卓の致命的な晒す切欠となった。
慧卓が魔道杖を構えてるには1.5秒ほどかかる。しかしその僅かな間、チェスターは脳裏に奇妙な命令のようなものを聞いていた。まるで神が直接、脳内に話しかけてくるような感覚であった。
《余の言葉に耳を傾けよ、若き贄よ》
(・・・なんだ?)
《我にそなたの身と、心を委ねよ。》
(だ、誰なんだ?誰が話している?・・・まさか・・・あなたは・・・)
その声はよく聞くと、脳内では無く、まるで義眼から発せられているように思えた。それを理解した途端、精神をどろどろとしたおぞましい物が穢していく。理性の声が最大限の警鐘を鳴らした。『ここで踏み止まらなければ、お前はここで終わりだ』と。しかしチェスターはなぜか、脳内の命令に忠実であればあるほど自分自身に価値が見出せるような感覚に陥り、理性の声は彼方へと遠ざけられる。理性は一度行ったら二度と帰れぬ、虚無の彼方へと消えて行くような気がした。
慧卓の魔道杖に魔力が篭っていく。発射されるまであと1秒も満たなかった。しかし今のチェスターにはそれで充分であった。まるで曲芸師の如く身体をくるりと反転させ、それに合わせて右手を鋭く振った。慧卓は眼前で、赤黒い光が放たれたと認識するも攻撃の手を止めようとはしなかった。しかし一向に魔道杖からは火球が放たれなかった。むしろおかしな事に、慧卓は杖を握っていた右手の感覚が無くなっているのに気付く。手首から先が、あるべきものが無くなったかのような空漠とした感覚であった。
ーーーあれ、おかしいぞ?
疑問が深まろうとした瞬間にチェスターの笑みが深まり、今度は突き出すように右手が翳された。途端に慧卓の胸の前で大きな爆発が発生し、慧卓は身体を吹き飛ばされて床に転がってしまう。ナップザックの紐が焼き切れて背中から放り出される。錫杖だけは決して離していなかったが、床に転がった際、何かと一緒にどこかへと転がってしまうのが分かった。
うつ伏せとなって倒れる慧卓は、視界にぱちぱちと現れては消える蚊のような幻覚を見る。寝苦しさを覚えて仰向けとなろうとしたが、朦朧とした彼の視界に、徐々に赤い雫のようなものが流れていく。これは何だと思う前に、右手から発される空漠感が、突如としてマグマで煮られるような激烈な痛みに変化する。
「っぃぃっ・・・ぁぁあっっ・・・!!」
何が起こっているのかを見て、慧卓は思わず絶望を瞳に浮かべた。右手が消えている。手首から先がばっさりと無くなって、鋭利な切断面からはどくどくと赤い血が流れていた。さらには胸のあたりからもひりひりとした痛みを覚えつつあり、よくよく見ると赤黒い肉が露出しているのが分かる。火球の爆発を受けたせいで大火傷をを負ってしまったのだ。数分もしないうちに、脳からの信号が全てかき消されそうな激痛が発される事だろう。
チェスターは顔を流れる血を拭くと、哀れにも倒れこむ慧卓を見下ろし、獰猛な猟師のような笑みを浮かべた。
「ふ、ふふ・・・一時はどうなるかと思ったが・・・案外どうにでもなったな。なぁ、騎士殿?」
「・・・ぃっ・・・いたい・・・」
慧卓は横倒しとなったまま身動ぎすら出来ない。徐々に感じつつある激痛のせいで、身体の全神経が馬鹿みたいに反応してしまっているのだ。足を少しずらすだけで、息を求めようと胸を膨らませるだけで痛みが走る。大事なものが消えて溢れ出してしまう喪失感が、右手から絶え間なく生じる。最早慧卓は、戦いのための意思を挫かれてしまっていた。僅か数十秒前まで相手を圧していた者とは、考えられぬ末路であった。
「驚いたかね?それはそうだろう。私自身も驚いているのだからな・・・。まさか『意識魔法』以外の魔法を、魔術具なしで行使できるとは思わなんだ。さすがは、義眼の魔力といった所か・・・。
それに付け加えていうがね、『火球』以外の魔術を使えないと言った覚えは無いぞ。私は『破壊魔法』が大の得意分野でね、たまたま『火球』が一番得意だっただけさ。君がもし、魔術士との戦い方を知っていれば、そのような無様な姿を晒す事は無かっただろう」
チェスターから見た慧卓は、実に愉快な姿をしていた。先程のチェスターの反撃、『破壊魔法』の一つ、『剃刀』によって慧卓の右手は魔道杖を握ったまま切断され、チェスターの足もとに転がっている。また追撃の『火球』の魔術によって、彼の胸部はやや抉られて、最も大きく火焔を受けたであろう右腕はすっかりと黒焦げになっている。錫杖は千切れた左手の指と一緒に、彼の傍に転がっていた。出血も夥しいものであり、早期の治療を受けなければ、いやたとえ受けたとしても生還率は僅かなものだといえるだろう。
チェスターは頭突きによって折れた鼻を庇いながら、悠々と慧卓に近付いていく。
「回復魔法は使わないのかね?いや、使えないといった方が正しいか。あれは教会が開発した歴史の浅い魔法だ。才能だけを振り翳すド素人には、使い方はおろか理論すらも理解できないだろうよ」
「ぐっ・・・くそ・・・くそ・・・」
「いやぁ、痛々しいな。なかなかにそそられるが・・・どれ、痛いのはこの黒焦げの右腕かね?」
「っぎぃぃぃっ!?!?」
チェスターの靴が慧卓の右腕を踏みつける。まるで骨と肉を互いに潰し合わせるような痛みが走り、目玉が裏返りかけてしまう。その様は狩猟者たるチェスターの心に、大きな満足感を与えた。己が得た力、操る力。それによって為し得た結果が目の前に転がっているのだ。まともな理性の持ち主ならば慈悲を込めて止めを刺すだろうが、少なくとも数分前に理性をなくしたチェスターはその選択を好としない。寧ろ、結果が本当の物であるか確かめたくなってしまうのだ。
チェスターは踏みつける力を強め、腕を足蹴にする。チェスター自身は自覚していなかったが、その行為自体にも魔力が付加されており、腕は砂の城のように壊れていく。縊られる直前の俎板の魚のごとく、慧卓は声にならぬ悲鳴を漏らして悶絶する。しかしチェスターは容赦はせず、ボロボロであった腕がさらにボロボロになるまで、腕と骨が一緒くたになるくらいにまで痛みつけた。腕が駄目になってしまうと、今後は手を下ろしてむき出しとなっている慧卓の胸肉を弄りだす。天地が乖離してしまうかと思わんばかりの強烈な刺激が慧卓に走り、喉は引き攣って息を漏らすことすらできなかった。無念の涙が落ちていく中、チェスターは悦楽の笑みを浮かべて肉を触り、そして千切っていく。
残虐な行為が終わったのは二分ほど経った後である。義眼の力によるものか、チェスターは絶妙なさじ加減によって獲物の命を長らえさせたのだ。言いかえると、痛みによって意識を惹き戻し、安易に死なせなかったという事である。
「ふぅ・・・ふぅ・・・思わず調子に乗ってしまったな。こんな事をする気なんてなかったのにな。おい、まだ生きているかね?」
「あ・・・・・・あ・・・」
「ほとんど死にかけか。やり過ぎはいかんなぁ。貴重な被験体第一号なのに。次からはもっと勝手がいくように身体を慣らさねば・・・おや?」
チェスターはあるものに気付く。それは、慧卓の左手に嵌っていた指輪であった。爆発によってガントレットが吹き飛んでしまったために、ターコイズの煌びやかな様が見えるようになっている。指や手の甲はずたずたに引き裂かれている一方で指輪だけ無傷なのが奇妙であったが、そんな事は気にも留まらなかった。
「生意気だな。指輪を嵌めているとは・・・さぞ、大切な人からの贈り物だろう。だが死に行く騎士には無用の長物だ。これは私がいただこう」
腰を屈めてチェスターは指輪へと手を伸ばした。身体がバラバラに千切れるような激痛に苛まれ、慧卓は濃厚な死の気配が迫ってきているのを感じていた。
(いやだ・・・こんな所で死にたくない・・・)
チェスターの手が指輪へと近づく。その邪悪な手が指輪に触れた途端、潰えかけている自身の命がまるで蝋燭の火のように消えてしまうような予感がする。緩慢に死の薫りが慧卓を取り囲んでいき、瞼が段々と重くなっていくのを感じた。
(死にたくない、死にたくないっ・・・死んでなるものかっ。まだ、俺にはやり残したことが沢山・・・)
思いとは反対に、ついにチェスターの指がそれに触れた。ナメクジのような繊細で汚らしい指が無遠慮に指輪を掴み、己のものにしようと取り外しにかかる。宛ら無垢な処女を犯すかのような行為であるのに、チェスターは嫌らしき笑みを浮かべていた。嘗てそこに浮かんでいたであろう朗らかで情熱的な青年の顔は消失し、人の命や尊厳をなんとも思わぬ残忍な殺戮者の顔が現れていた。
瀕死の淵にあった慧卓の胸中に、ふつふつと怒りの念が込み上げてきた。指輪は慧卓にとって、彼と彼の第二の故郷を繋ぎとめる絶対的な象徴の一つなのである。これを奪われるくらいなら、卑賤の身に堕ちたチェスターの手にかかって死ぬくらいなら、自分は悪魔と手を取ってでも生き延びてやるとまで考えてしまうほどだ。しかし現実にはそれを実行する事ができず、気力だけが空回りとなってしまう。それが悔しくて堪らない。遠い異邦の地で仲間に看取られる事もなく死ぬのが堪らなく悔しい。
(こんな所で、死んでたまるか・・・!!)
慧卓は残った力を振り絞るようにチェスターを睨み付ける。視界は澱んでおり相手の顔を捉える事もままならない。だが最後まで屈服の意思を見せる訳にはいかないのだ。それが騎士としての意地であり、王女に命を捧げた者としての義務でもあった。
ぼやけていく視界の中、彼は幻惑を見る。静けさに満ちた宮廷の一室で、その人は寂しさを煩わせるように窓から外を見遣っていた。綺麗な海のような水色の髪に、慈愛に満ちた琥珀色の瞳。一流の美術家でも作れぬであろう、愛らしさと美しさを同居させた天性の美顔。自分が心よりの忠誠を誓った一人の少女。
ーーーせめて最期は、コーデリアに会いたかった。
その時、沈みゆく意識の中で慧卓はふわっとした浮遊感に襲われる。天国に導かれるような穏やかなものではない。まるで何か得体の知れないものに身体の支配権を奪われるような、思わずぞっとする浮遊感であった。身体から魂が引き離される一方で、その何かが身体に乗り移る感覚を感じる。
慧卓が最後に見たものは、嘗て王都の宮廷にて契約を誓った際に虚空へ消えてしまった筈の、銀色のフィブラであった。
ーーー同刻、王都にてーーー
びうびうと、本格的に吹き荒れる降雪によって王都は森閑としている。宮廷の自室からそれを見下ろしていたコーデリアは、心配げに北の方を見詰めていた。その手元には、常ならばドレッサーに仕舞われている紫の宝玉がついた首飾りが握られていた。どうしてかは分からないが、今日はそれを持っていなければならない気がしたのである。北方の空に掛かる暗澹とした雪雲の向こうで、本能からの畏怖を呼び起こすような不気味な気配が感じられ、それを打ち消すのがこの首飾りであると、無意識に信じてしまっているのだ。
(ケイタク・・・無事かなぁ)
遠大な距離の向こうに居る想い人がいつも以上に気になってしまう。彼と離れて既に半年近くであるが、淋しさと愛しさは募る一方であった。彼を想うあまり寝間着を濡らす事も多くなっており、心中で彼の存在は明らかに肥大化していた。その彼があの雪雲の向こうで、確証もないのに、一気に小さくなるような感じがするのである。もしかしたら粉雪と同じように、日光に浴びせられて呆気も無く消えてしまうのではないか。そんな思いすら感じられるのである。『召喚の契約』を結んだ相手だからこそ分かる感覚なのかもしれない。コーデリアは思いに突き動かされるように、ただただ彼の無事を祈り続けていた。
正にその時、奇怪な事が起こる。手元にあった首飾りが禍々しい光を放ちはじめたのだ。奇妙な光を囚われていると、なんの拍子も無く、宝玉が衝撃を放ってコーデリアを寝台へと吹き飛ばした。
「きゃっ!?な、なに!?」
コーデリアは信じられぬ光景を目の当たりとする。まるで嵐のように宝玉から風が巻き起こり、窓の暗幕をばたばたと揺らして小さな調度品や書類の束をなぎ倒しているのだ。室内に台風が発生したかのような有り得ない現象。コーデリアは風を受けながら、台風の目となっている首飾りより、今まで感じた事もないような絶大な魔力を感じる。宛ら大地の腸まで届きそうな深海か、外輪の果てを見せぬ宇宙のような、無尽蔵の魔力の塊である。その力に直接当てられたコーデリアは反射的に胸元の辺りを掴む。そこを握らねば正気を保っていられないと思えたのだ。
凄まじい力を誇っていた首飾りは、一瞬不吉な紫の光を放ったと思うと、虚空の一点に吸い込まれるように消失した。それと同時に、嵐のような風も最初からなかったかのように治まる。
(そんな・・・首飾りがっ・・・)
暫しコーデリアは首飾りが消えた中空を、そして惨状を呈している室内を見詰めていた。気を取り直した時、ふと、掌に何かが握られているのを感じる。それは『召喚の契約』を契った際に消失した筈のフィブラであった。どうして、どうやって再び現れたのか。
コーデリアは気付く。掌のフィブラが、ぶるぶると震えている事に。フィブラ自身が震えているのか、或は自分の手が震えているのか、定かでは無かった。
(どうして・・・こんなに・・・)
コーデリアはをそれをぎゅっと胸元に押し付ける。いつまで経っても消えそうにない震えであったが、コーデリアはそれが治まると思い、フィブラを抱く。胸中にある不安も一緒に取り除いてくれると信じて。
ーーー直後、ヴォレンド遺跡にてーーー
異変はチェスターの眼前で起こった。魔力の残滓も感じられぬ虚空から、突如として強大な魔力が湧き起ったのだ。それは霊峰の雪嵐を凌駕するほどの猛烈な風を巻き起こし、チェスターは思わず障壁を張って足を後退させる。
「な、なんだ!?何が起きている!?」
魔力の障壁の向こう側にある光景に、チェスターは己の目を疑う。吹き荒れる風の中心となっている慧卓の傷が、徐々に再生しつつあったのだ。紫色の芯のようなものが骨があった場所に生まれ、それを覆うように肉や外皮が構成され、元の形を作っていく。胸筋の膨らみや角ばった右肘、さらには指先に至るまでが繊細に再現されていく様は、チェスターをして不気味と思わせる程であった。これほどまでの精巧な『回復魔法』を彼は知らない。一体何が起こっているかなど、説明のしようが無かったのだ。
そしてチェスターは思わず身を乗り出してしまう。再生されていく慧卓の胸元に、ここには存在しない筈の、狂王の首飾りが現れたのだ。
「そんな・・・あれは!?どうして、どうして奴があれを持っている!?」
首飾りは妖しく光りながら、慧卓の胸に填まっていく。再生されていく肉が首飾りの周りを囲んでそれをしっかりと咥えこんでしまい、その上を薄い肌が覆っていく。チェスターの眼前で、首飾りは慧卓と一心同体の存在となってしまった。暴風から身を守る事したできないチェスターは、歯軋りをしながらそれを見逃すより他が無かった。
やがて失われていた肉体の全てを、慧卓は回復する。その瞬間、閉じかけられていた瞼がぱちりと開き、慧卓は緩慢な動きで錫杖を引き寄せて、それを頼りとしながら起き上がる。その瞳は人形のように虚ろであるが、彼からあふれ出す魔力は果てしなく剣呑なものであった。
「ふ、ふふ・・・なるほどなるほど。何が起きたかはさっぱり分からぬが・・・つまりだ。まだ戦うという事だな、若き騎士殿?」
事態を複雑に考える事は簡単だ。だが今のこの状況下、敵である慧卓が起き上がり、そして錫杖を手にした事実を鑑みれば、当然やる事など限定されてくる。即ち、義眼の魔力に身も心も委ねて、慧卓を再び打倒するのである。それこそが今の自分に課せられた新たな義務であると、チェスターは盲信した。
足下にある魔道杖を蹴って手元に寄せる。なぜか慧卓の右手がついたままであったが、そんな事はどうでもよかった。迸る熱い感情のままに、チェスターはそれを放り捨てて勇ましく杖を構える。
「これ以上、手は抜かないぞっ!!」
途端に、チェスターの周囲に稲妻によって作られたオーラのようなものが発生する。攻撃魔法の一つである、『雷撃の守り』である。接近すれば天然の稲妻と同じように敵を害し、ある程度の魔術的攻撃を防いでくれるものだ。チェスターの隠し玉ともいってもいいこの魔術は義眼によるものか力を増幅させて、より強力な姿で展開されていた。チェスター自身でも驚くほどに雷の密度が濃く、うっかりと触れたら肉が消失しそうなほどであった。
対して慧卓は機械じみた動きで錫杖を構えると、『くいっ』と、ドアノブのように杖を捻る。すると彼の周囲に、豪雪のように雪が吹き荒れてくるくると展開する。それは攻撃魔法の一つである、『風雪の守り』であった。態とこちらと対応させる魔法を出しているのだろうか。闘志がぐつぐつと刺激されて、チェスターは己の頬が引き攣るのを感じた。傍から見れば、凶悪な笑みを浮かべている事だろう。
かくして、舞台は第二幕へと移り、ヴォレンド遺跡における闘争は純粋な魔術戦へと移行していった。
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