vol.6 【りーすりんでちゃんのぎもん】
「うーん……」
「あ、リースリンデ。これから泉へ行くけど貴女はどう……って、何? その紙」
「聖天女様」
寝室に置かれてるテーブルの上で足下の文字を見ながら首を捻っていた私に、聖天女様が背後から声を掛けてくださった。
慌てて書きかけの用紙から飛び退き、両腕で抱えてた小鳥の羽根ペンを専用のペン立てに突き刺す。
ひょいっと顔を覗かせた聖天女様も、私が書いた文字の列を見て首を傾けた。
「これ……もしかして、文字の練習をしてるの?」
「いえ、練習してた訳ではないんですけど、比較するには便利な方法だと思ったので」
「比較? 何かの記録ってこと?」
「はい。アーさんの一週間を纏めてみました」
アーさんっていうのは、この教会で神父をしてるアーレストの事。
なんだかんだと居座るようになって半月ぐらい経った頃に、アーレストが自分で「アーさんと呼んでください」って言ったから、それ以来ずっとアーさんって呼んでる。
「一週間? この、上部と左端の数字は日付と時間で、縦と横の二重線の内側に書いてある文字がその時々のアーレストさんの行動?」
「そうです」
紙の表面を滑る聖天女様の指先を目で追い、こくりと頷く。
「…………詳しく見ても良いかな?」
「それは構いませんが、私の文字では小さくて見辛いのではありませんか?」
「線はともかく、文字に関しては小さくてちょっと滲んでる以外の難点が見当たらない完璧さに正直嫉妬しています。(いつの間に文章まで書けるようになったのかしら。私なんて、まだまだ読むので精一杯なのに。言葉を教えた時も思ったけど、やっぱり侮れないわね。精霊の学習能力……)」
「え?」
「ううん、なんでもない。大丈夫よ。借りるわね」
「はい、どうぞ」
私が少し離れたのを合図に、聖天女様がご自身の片手分しかない大きさの紙を静かに持ち上げてじぃっと見つめる。
「ねぇ、リースリンデ? 私の目がおかしくないのであれば、日付が一つしか書かれていないのだけど。貴女、一週間を纏めたと言ったわよね」
「…………一週間です」
「これが?」
「はい。一週間分なんです」
「……………………。」
一日分しかないように見える一週間分の行動記録。その不可解さには聖天女様も心当たりが有るのか、私と紙を交互に見比べた後、執務室の扉をちらっと窺った。
「……アーレスト神父を愛でる会の女性信徒達が食料を毎日毎日過剰に献上してくれてるからって、二日に一回は教会主催で夕方の炊き出しをしてるわよね。その記録は省いたの?」
「時間にズレは無かったので雑談に含めました。炊き出しの前後も
最中もしっかり雑談してましたし」
「そんな時までズレてなかったの!?」
「はい。全く、少しも、ズレてなかったんです」
「い、いくら私達が手伝ってるからって……これは……」
聖天女様が言葉を失うのも当然だわ。
一週間よ? 一週間。
一週間ともなれば、普通は何処かで多少なりとも行動やそれに掛かる時間が変わってたっておかしくない筈なのに、アーさんは行動にも時間にも
殆ど変化が無い。時間に至っては変化のへの字も無い。
下拵えとか機材の運び出しとか後片付けだって相応の量があるのに、聖天女様に食事を振舞うのと街民数百だか数千だかを対象に炊き出しを用意するのとで全く同じ時間しか使ってないって、いったいどういうことなの?
「明らかに異常、ですよね。人間がよく口にする「規則正しい生活」の域を逸脱してます」
「逸脱と言うより、規則正しい生活の不動軸になってる感じね。こんなお手本、実践されたって神でも真似できないわよ」
「
私達にもできません。しかもアーさんは、こんな風に目に見える形で比較するまで、同居状態の聖天女様にさえ気付かせないほど完璧に、自然に、当たり前のように過ごしてたんですよ? だからどうなんだって話ではありますが、アーさんの自然すぎる不自然さがちょっと不気味です」
「不気味とまでは言わないけど……そうね。特異な生活をしてるんだなぁとは思うわね。ありがとう」
「いえ」
テーブルにそっと戻された紙の内容を隠す形で二つに折って、ペン立ての下に差し込む。
私専用にって筆記具をくれた時、見られたくない内容はこうやって隠してください。そうしていただければ絶対に確認しませんのでって言われたから、これで少なくともアーさんにこの記録を知られる心配は無い。
「でも、どうしていきなりアーレストさんの行動を比較してみようなんて思ったの?」
泉へ向かうらしい聖天女様の右肩にひらりと翔び移ったところで、柔らかい指先に頭を撫でられつつ問い掛けられた。
「二週間くらい前、聖天女様が「アーレストさんって、何時頃に起きてるのかしら?」って仰っていたのは覚えてますか?」
「ええ。私達は毎日夜明けより早く起きてるのに、アーレストさんも常に私達より早く起きて活動してるから、人間にしては早すぎるんじゃないかって不思議に思ったのよね」
「私も、聖天女様の言葉を聞いてから同じ疑問を持ってしまって……その日の深夜、眠ってるアーさんを観察してみようと執務室にこっそり侵入したんです。即刻見付かってしまいましたが」
寝室にはベッドが二台置いてあるんだけど、女性と同じ部屋で眠る訳にはいかないからって、アーさんは一人分の枕と掛け布団を執務室へ持ち込んで私達とは寝場所を分けてる。此処、べゼドラにも見習ってほしい紳士ぶりだわ。
「ああ、アーレストさんは気配に
敏いから……」
「違うんです」
「え?」
「眠ってなかったんです」
「眠ってなかった?」
「はい。バッチリ起きて、しかも執務に励んでました」
さすがにこんな時間ならまだ起きてないだろうって頃合いを見計らって侵入した瞬間、眠ってると思ってた相手と目が合った挙句「こんな時間にどうなさいましたか?」なんて平然と尋かれたのよ? あの時ばかりは驚きすぎて悲鳴を上げそうになったわ。聖天女様を起こすといけないから、なんとか堪えたけど。
「…………深夜って、何時頃?」
「二時です」
「
寧ろ早朝よねそれは!?」
「それだけじゃありません。其処から一週間前まで、少しずつ時間をずらしながら夜中の侵入を繰り返してみたのですが……結論から言って、アーさんは毎日夜な夜な執務をしていて全く寝てませんでした」
「いつも!? 私達と就寝の挨拶を交わしてから起床の挨拶を交わすまで、全くの睡眠無し!?」
「はい。私が見た限り、ですが、
何時に覗いてみても眠そうにしている様子すらありませんでした」
「あ、ありえない! だって、昼間もずっと………… あ。だから? もしかしたら昼と夜が何処かで逆転してるんじゃないかと思って、それで行動を記録してみたの?」
聖天女様の声を潜めた動揺に、同意を込めてゆっくり頷く。
睡眠を一切取らない生活なんて、人間世界では絶対にありえない。人体にとっては、眠らないで得られるモノより眠って得られるモノのほうが遥かに重要だからだ。
この辺りの事情は勇者達と実際に関わって学んでるから、
私達でも知ってる。
なのに、アーさんは毎日何時頃にどれだけ眠っているのかがさっぱり分からない。
常時隙が無い笑顔を振り撒きながら働き通してるし、一日の何処かで必ず休みを入れてる筈……なんだけど……
「見ていただいた通り、人間が必要とする最低睡眠時間を挿む余地が何処にもありませんでした。もしもアーさんが本格的に眠っている時間があるとすれば、本人が「最も多くの信徒が集まる二回目のお説教は特に集中したいので、この時間だけは一人にさせてください」って言ってた朝の九時から十時までの一時間しかありません。でも、人間のアーさんが一日一時間程度の睡眠であんなに軽快に動き続けられるものなのでしょうか?」
絶句。
今の聖天女様の表情を表すなら、この一言に尽きる。
「……半神半人の私が言うのもなんだけど、恐らく通常の人間なら思考に障害の一つや二つ発生していてもおかしくないでしょうね。身体にだってどんな悪影響が出てくるか……無茶苦茶だわ、アーレストさん……」
「……ですよね……」
聖天女様と同時に、溜め息を一つ吐き出す。
アーさんの生活って、やっぱり人間にとっては不健康だったのね。規則正しく不健康な生活って、微妙に器用な気がする。
こんな無睡眠生活を続けてて、大丈夫なのかしら?
「ああでも。これが習慣になっているのなら、お世話になってばかりな私達にも、ちょっとだけ恩返しができるかも知れないわ」
「え?」
「ふふ。お手柄よ、リースリンデ」
「?? はあ」
また、聖天女様の指先で頭を優しく撫でられた。
なんだかよく分からないけど、聖天女様に褒められたから……まぁ、良いか。
翌日。
「今日もありがたいお説教を聴かせていただき、ありがとうございました」
「此方こそ。お忙しい時分に耳を傾けていただき、ありがとうございました」
「神父様のお言葉を聴けただけで、今日も一日頑張ろうと気合が入りますわ」
「光栄です。貴女にとって素晴らしい一日となりますよう、微力ながら祈らせていただきます」
信徒達の声が飛び交う賑やかな礼拝堂。
二回目のお説教を終えたばかりのアーレストを逃がすまいと素早く取り囲んだ女性達が、皆一様に普段より高い声で彼に話しかける。
「今日は特に、声の張りがよろしかった気がします」
「あら。貴女もそう感じたの? 私も、いつもとは違うなって感じてたのよぅ。あ! 勿論、いつもの神父様も素敵なお声でいらっしゃるのだけどね!?」
「声だけじゃないわ! ほら、よくご覧になって! 今日の神父様のお肌、いつもの倍はつるっとしてて艶々よ! まるで光り輝く玉石のよう。それでいて柔らかそうで……とても羨ましいですわ!」
「まぁ、本当ね。染み一つ無く、きめ細やかで。なんて美しいのかしら」
赤らんだ両頬に手のひらを当てた女性達が、一斉に「ほうっ……」と感歎の息を吐く中。アーレストは今まで誰にも見せた事が無いような、心底嬉しそうな満面の笑みを披露しながら答えた。
「実は今日、「とても静かで穏やかな」「落ち着いた環境で」深い眠りに就けたのです。目が覚めた時も、不思議と「生きた花の香りに包まれているような」心地でした。そのお陰で、心身共にかつてない程好調でして。こうして皆様にお褒めの言葉を掛けていただけるのも、心優しき女神とその使徒の温情を
賜ったからであると確信しております」
彼の言う女神と使徒が「自分に気付かれないよう密かに何らかの行動をしてくれた」アリアの生母と精霊を指している事など、当然気付く筈も無く。
欲に穢れた目を潰さんばかりの清浄なる後光が射して見える麗しい神父の笑顔に、女性達は
(((アリア様、ありがとうございます! ご馳走様ですーっっ!!)))
握り拳を作り、心の中で主神へ向けて、それはそれは力強く感謝の念を叫んだ。