逆さの砂時計
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純粋なお遊び
合縁奇縁のコンサート 3
vol.4 【情】
突き抜けるような青空と白い雲の下。
常人であれば無言で回れ右をして全力で走り去りたくなるような重苦しく気まずい沈黙の中に沈み込んでいるアルスエルナ王国アリア信仰中央教会、次期大司教の執務室。
ぱらり、カツカツ、コトン。ポンポン、ペタン。ぱらりと、プリシラ様が紙を手に取り、文面に目を通して、訂正署名捺印し、確認済みの書類の山へ上乗せしてからまた未確認の紙を手に取る音が、やけに大きく響き渡った。
報告を終えたばかりのクロスツェルさん達は、まるで首を斬り落とされる寸前の罪人みたいな顔で客用のソファーに浅く腰掛け、プリシラ様の出方を慎重に窺っている。
(……そりゃ、怯えるよねぇ……)
曲がりなりにも聖職に就いていた男性が、悪魔なんかに唆され。
女神を監禁した挙句、長期間に亘って性的暴行を加えていた、なんて。
アリア信仰的には、この話が耳に入った時点で即刻、牢獄行き決定だ。
死刑囚として身柄を拘束した後、強制労働と拷問を同時に執行。
命尽きる間際の公開処刑では、死体処理も兼ねた火あぶりも視野に入る。
真実なら言わずもがな。嘘でも、主神と信仰への侮辱、冒涜に相当する。
重刑は避けられないだろう。
宗教色を消してみたって、多くの一般民からは
「気持ち悪い」
「どうして今も生きてるの? 死ねばいいのに」
と嫌悪される犯罪者。
プリシラ様の傍らで黙って聴いていた私にも、到底受け入れがたい。
信じたくない気持ちと、近寄りたくない気持ちで半々くらいだ。
ここまで来ると、プリシラ様がどんな裁きを下すのか……
正直、読めない。
断罪の刃が振り下ろされる瞬間を、今か今かと待ち構える男性達の姿に、思わずこくりと息を呑んだ
その時。
「八人分」
確認したばかりの紙を、更に一枚積み上げたプリシラ様が。
いつもとなんら変わりない表情で、クロスツェルさんに言った。
「私とミートリッテもまだ昼食を済ませてないの。だから、アリア様以外のクロちゃんとレゾネクトさんとソレスタ神父、フィレス様とリーシェさん、私とミートリッテとロザリア様の分も合わせて八人分を作ってちょうだい。材料はミートリッテに買い出しを任せるから、必要な道具類と食材と分量を全部、書き出しておいて。ああ、夕飯は私とミートリッテを除く六人分よ。もしも夜までにロザリア様が起きられなかったら、余った分は夜食に取っておきなさい。当然だけど、明日以降も自分達で作るのよ。解った?」
「……はい。お手数をおかけします」
「まったくね。養い子が一気に六人も増えるなんてなかなか無い経験だわ。今後の資産運用をどうしてくれようかしら」
クロスツェルさん達の呆けた顔を眺めながら、くすくす笑うプリシラ様。
楽しそうな顔のどこにも、裁く者の気配は感じない。
……裁く気が、ない?
「さて。人数が人数だけに、諸々の買い足しにも対外的な理由が要るわね。付いて来なさい、ミートリッテ」
「っ はい」
クロスツェルさん達が囲むローテーブルの上に紙とペンを置いて廊下へと出ていくプリシラ様の後を追い。
一度室内に振り返って頭を下げてから、静かに扉を閉め、鍵を掛ける。
閉じ込められた男性達は、私達の姿が視界から外れても呆然としていた。
「どうして何も言わなかったんだろう? って顔ね」
人ひとりすれ違わない廊下の途中。
私の半歩斜め前を歩くプリシラ様が、前を向いたまま呟いた。
「やっぱり、隠し切れていませんか」
「ここに来た当初よりは成長してるわ。でも、社交界では通用しないわね。アリア様が顕現された程度で声を上げたのも減点。そうと匂わせる情報は、いくらでも入っていた筈よ。疑惑が確定しただけのことで動揺してはダメ」
「気を付けます」
(いえ、女神顕現の辺りは、今でも半信半疑ですけども)
見た限り、ロザリアという少女は至って普通の人間だ。
金より白に近く、銀より黄金に近い不思議な髪色は、珍しいと思うが。
それ以外に変わったところは見当たらなかった。
眠っているせいかも知れないけど。
私やプリシラ様から見て、彼女が女神アリアであると認められる根拠は、施錠してあった室内へ唐突に現れたことや、リーシェさんの容姿が人間とは明らかに違っていること、語られた内容に一応の筋が通っていることだけ。
今は本体に戻っているという、悪魔べゼドラの所在も確認できてないし。
肝心なロザリア様が眠ったままで、一言たりとも発していないのだ。
信じ切るには、まだまだ情報と証拠が足りてない……、のに。
プリシラ様は何故か、クロスツェルさんの話を疑ってない。
疑おうとすらしていない。
(お父様が居るから……かな?)
アルスエルナの第二王子エルーラン殿下を、プリシラ様は信頼してる。
それはきっと、互いが互いの人格と力量を認め合っているから。
プリシラ様が優位に物事を運んでいるように見えた先ほどの一幕だって、二人共、互いの領分に踏み込もうとはしなかった。
物事の分担は、それぞれの根底に信頼がなければ、成立しない。
(プリシラ様の領分に関わる話でエルーラン殿下が嘘を吐く筈がない、か。でもそれじゃ、私が彼らを信じるに足る根拠にはならない)
なにせ私は、自業自得とはいえお父様に騙されまくった経験の持ち主だ。
お父様の力量は疑いようがなくても、所業を信じるには、ほど遠い。
心情的に。
「ねえ、ミートリッテ」
「はい」
「罪人は何故、裁かれなければいけないのかしら」
「多くの例では、人間種族の保護。その為の規律に反し、被害者への行動を通して社会全体に悪影響を与え、短期あるいは長期的に俯瞰した際、種族の存続方法に亀裂・ないし欠損を生じさせたと見なされるからです。そうした罪人を罰する行為には、社会の仕組みを改めて理解させ、己の行動がいかに人間種族、罪人自らをも危険に曝していたかを自覚させる狙いがあります」
「法律的見解ね。貴女個人の主観では?」
「因果応報。他人の痛みを思い知れ」
「簡潔で素敵な答えだわ。でも、それなら」
プリシラ様がピタリと足を止め。
隣に立った私の顔を、感情が無い横目で見る。
「どこの誰よりそれが社会の枠組みに外れた行いであると認識し、誰よりもその行為を忌み嫌い、誰よりもその苦痛を理解していて、それでもなお罪を犯してしまった自分自身を心から恐れて憎み、早く誰かに罰して欲しいと、そう渇望している罪人を裁くことに、果たして意義はあるのかしら?」
「え?」
「クロスツェルはね、子供の頃に、目の前で母親を殺されたの。複数の男に強姦されただけでなく、殴る蹴るの暴行を加えられた彼女の遺体は腐敗し、千切られた四肢が周辺に散乱していたらしいわ」
「っ……⁉︎」
「四歳よ。まだたった四歳の子供が、実の母親が息絶えるまでの一部始終を見せつけられたの。何が起きたのか、当時のあの子は理解できなかった筈。それから数年後、荒れ地に一人でさまよっているところを発見された彼が、彼を保護しようとした人になんて言ったか、想像できる?」
「…………いいえ」
「なんで? 僕はお母さんとテオを殺した罪人だ。殺されるんならともかく家があって良い人間じゃない。ですって」
表情一つ変えず、淡々と紡がれたプリシラ様の言葉に。
側頭部を強く殴打されたような錯覚がした。
耳の奥で、グワングワンと嫌な音が反響する。
「自分が、殺した⁉︎」
母親を殺された四歳の子供なんて、どんな状況でも被害者でしかない。
母親を殺した男達や、十歳にも満たない子供を数年間も放置していた社会全体を恨み憎むのならともかく、どうしてそんな思い込みになった⁉︎
「浮浪児となってからのあの子が、どこでどんな目に遭っていたのか……。私も詳しくは知らないわ。当時の私に今ほどの力は無かったし、関係資料は教皇猊下が御自らで封印されてしまったから、現在でも調べようがないの」
「教皇猊下が、クロスツェルさんの過去を抹消した、ということですか」
「ええ。そうして中央教会に来たあの子は、誰よりも何よりも他人に危害を加えてしまう自分自身を怖がっていたわ。だから、他人と距離を置きながら一生懸命、自分自身を抑えつけていた。唯一、母親と一緒に信仰していた、女神アリアだけを心の拠り所にしてね」
「クロスツェルさんは浮浪児になる以前からアリア信徒だったんですか?」
「そうよ。あの子のご両親は二人共、あの子が産まれるずっと前から敬虔なアリア信徒だった。そんな二人から教えを引き継いでいるあの子は、いっそ生まれる前からのアリア信徒と言っても、間違いではないでしょう」
(……だから、か)
年齢や性別や環境は違うが、浮浪児と呼ばれる経験なら私にもある。
そして、アリア信仰の性質は基本的に『親和』と『共生』。
アリア信仰の教えは、浮浪児の現実を内包していない。
奪ってはならない、皆で協力し合って生きよう、などというアリア信仰の教えを浮浪児が守ろうとすれば、近い将来で待っているのは自滅。
弱者の従順など、実質は『遠巻きな自殺』だ。
(クロスツェルさんは生きたかった。でも弱者や浮浪児に差し出される手はあまりに少ない。幼い彼が生きていく為には他から物を奪うしかなかった。アリア信仰が罪と定める『略奪』しか、生きる術がなかった。幼い時分から敬虔なアリア信徒だった彼には、それがどうしても赦せなかったんだ)
生きたい。
でも、罪を犯さなければ生きられない自分は、どうしても赦せない。
そんな、自力ではどうしようもない葛藤が、自分の罪と他人の罪に境界を見出せないほどの罪悪感を生じさせ、自分自身を救いようがない重罪人だと思い込ませたのだ。
(実際、他人からの強奪行為は許されるべきじゃない。それがどんな結果をもたらすか、私自身も身をもって思い知ったもの。けど、これは……)
「誰も傷付けたくないし、苦しませたくない。アリア様の教えを広めれば、自分に関わったせいで苦しむ人をちょっとだけでも減らせるかも知れない。クロスツェルにとっての『女神アリア』は、正しく導きであり救済だった。たった一つの光だった。彼が女神アリアを連想させる容姿や力を持っているロザリア様に惹かれたのは、私から見ればごくごく自然な流れだわ。でも、彼自身には受け入れがたかった」
「……誰かに惹かれる自分が、怖かった?」
見えない手に掴まれた心臓が痛い。
堪らず長衣の胸元を強く握り締めた私に、プリシラ様が浅く頷く。
「誰かに心惹かれれば、その誰かを見ていたいと思う。ずっと見ていたら、言葉を交わしてみたいと思う。言葉を重ねたら、今度は傍に居たいと思う。ずっと傍に居たら、触れてみたいと思う。……多分、恐怖を感じ出したのはこの辺りね。他人への好意は、あの子の中で母親を死に至らしめた行為へと繋がる害意であり、女神への背信を顕す罪業よ。それがたとえ仔猫を愛でるような親愛からくる衝動でも、あの子にとっては、凶悪な欲望でしかない。ただ頭を撫でてあげたいだけの気持ちが、どれだけ、あの子を悩ませたか。ただ笑顔を見ていたいと願ったことが、どれだけ、あの子を苦しませたか。あの子はきっと、毎日毎日、女神アリアにこう祈っていたでしょうね」
『ロザリアに危害が及ぶ前に、早く! 早く私を『罰して』!』
ポタリ、と。
白く滑らかな布の上に落ちた涙が、シワの輪郭をなぞりながら更に下へと零れ落ち、絨毯に柔らかく吸い込まれていった。
「ねえ、ミートリッテ。誰よりもそれが社会の枠組みに外れた行いであると認識し、誰よりもその行為を忌み嫌い、誰よりもその苦痛を理解していて、それでもなお罪を犯してしまった自分自身を心から恐れて憎み、早く誰かに罰して欲しいと、そう渇望している罪人を裁くことに意義はあると思う? 当事者達の、少なくとも一人とは親交がなく、事情を聴いただけで、現場に居合わせたわけでもない、王国を守る法律の番人を務めているわけでもない部外者の私達が、被害者のロザリア様が現在彼の傍に居る意味を無視して、私達の常識や不快感を持ち出し、あの子を一方的に糾弾して良いと思う?」
残り一年もないところまで寿命を削ったと言われているあの子に。
これ以上、何を背負わせれば、適切な対応だと言える?
私達は、それをしても良い立場に居る?
「…………っ」
表情を変えないプリシラ様の頬に伝う、一筋の涙。
(日頃から感情を表に出すなと言っていた、あのプリシラ様が……)
涙は、凄惨な過去を背負っているクロスツェルさんへの同情?
それとも、かつての仲間が暴挙を働いていたことへの失望と怒り?
(……違う)
彼女は次期大司教を自負する高潔な女性だ。
そんな安っぽい感情に左右される筈がない。
(プリシラ様は……)
「わかりません。でも、クロスツェルさんの行いが看過されて良いものではないことだけは確かです。こうしている間にもあの人は罪を重ねている」
右手で私自身の袖を摘まみ。
ぴくりとも動かないプリシラ様の頬をそっと拭う。
「あの人がどんな辛い道を歩んできたかなんて聴かされても、私はあの人に良い感情を抱けません。そんな背景があったのなら仕方ないですよね、とも思えません。同情の余地も一切ない。だからと言ってロザリア様との関係を責められる立場にもありません。あの人は私にとって、私が敬愛する貴女を傷付けている人に過ぎませんから」
近くに居たのに。
同じ中央教会で、同じ志を持って、同じ時間を過ごしていたのに。
プリシラ様には救えなかった。
クロスツェルさんの苦しみに寄り添ってあげられなかった。
貴方も誰かを愛して良いのだと。
誰かを愛する術を、きちんと伝えてあげられなかった。
身近に居る者としての責務を果たせなかった。
それが哀しい。
それが口惜しいんだ。
(親しい者の幸福を願いながらも、及ばなかった力を嘆く涙。私達はまだ、未来を指し示す為の旗すら、見つけていない)
「そうね」
プリシラ様が数回目蓋を開閉して涙滴を掃い、ふんわり微笑む。
「私も、貴女と同じ答えよ。私には何もできない。でも、何もできないのは口惜しいから、何もしてあげないの」
「ずいぶんとややこしい結論に達しましたね」
「あら。簡単な話よ?」
「ええ。今なら、私にも解ります」
プリシラ様は私を、私はプリシラ様を体の正面に迎え、同時に息を吸い。
同時に答えを合わせた。
「「貴方の望みなんか、叶えてあげない」」
ふふっ と、プリシラ様が満足気に目を細めて笑う。
「正解。誰にどう見られているかで自分の立ち位置を把握した人間ってね、相手の言動に対して無意識のうちに、自分はこうなんだ、これで良いんだと安心しちゃうものよ。だから私はあの子との距離感を明確にはしなかった。あの子は今頃、貴女と同じように、どうして何もされなかったんだろう? これから何をされるんだろう? なんて、不安でいっぱいになっていることでしょうね。いい気味だわ!」
罪人が罰を望むのなら、何かをして責めるのではなく、何もしないことで責め苦を持続させる。決して解消なんかさせない。
これは二人だからこそ、クロスツェルさんとプリシラ様の間柄だからこそ効果的な『罰』なのだろう。
(私も、いつどこでどんな形でお仕置きをされるか判らないっていうのは、すっごく嫌だ。プリシラ様相手だと特に。……あの人達、滞在中はずーっとびくびくしながら過ごすんだろうなぁ……)
プリシラ様の前で、気まずそうに目線を泳がせる男性達。
その姿を想像したら、ちょっぴり楽しくなってしまった。
私という人間は、結構性格が悪いのかも知れない。
「さて、と。これから役持ち達相手に一芝居打たなきゃいけないんだから、その悪巧み顔は引き締めなさいね」
「! すみません」
執務室の扉を横目に見ていた私の頭を軽く撫で、礼拝堂へと足先を向けるプリシラ様。
私も、慌ててその背中の半歩後ろに付いて行く。
いけない、いけない。
無表情、無表情……
「それと。フィレス様には、最後まで事情を説明して差し上げなさい」
「ぶふっ!」
「あの二人、始めの一歩も踏んでないんだから。ぎこちない空気をこのまま放置しておいたら、絶対悪いほうに拗れるわよ。主に、エルーラン殿下が」
「そう……、なんですか?」
転けそうになって崩れかけた姿勢を正しつつ、必死に冷静を装う。
フィレスさんとの会話は、絶対に聴こえてなかった筈なのに。
何故、私が原因だとバレた……
「三十代の童貞に遅れてきた初恋なんて、余計な茶々を入れた分だけ悲惨な結末を迎えるものよ。三十歳の大台に足を伸ばしかけているクロスツェルが良い例でしょう? 娘として面白くないと感じるのは解らなくもないけど、当分の間は生温かく見守ってあげなさい」
「たった今。無性にお父様を応援したくなりました」
「でしょう?」
「ええ。後で精一杯、最初から最後まで懇切丁寧に説明しておきます」
「それが良いと思うわ」
「はい」
従兄妹から娘へと、恋愛事情と経験値をさらっとぶちまけられてしまったお父様が不憫すぎて。
身内がどこかに攫われてしまいそうだと鬱屈した気分は一掃されました。
哀れ、お父様。
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